機動戦艦ナデシコ 前日譚 プラネテス 最後のデブリ屋 ―木星蜥蜴になった人々―【ナデシコ30周年&佐藤竜雄監督追悼作品】 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
木星へ向かう超大型移民船オケアノス号。
全長2kmを超えるその巨体は、外から見れば壮麗だった。
だが1歩内部に入れば、そこは希望とは程遠い、もう1つの世界だった。
定員の3倍が詰め込まれた居住ブロック。
空気は淀み、水の配給は1日2回に制限され、放射線遮蔽は最低基準ぎりぎり。
すべては「コスト最適化」の名のもとに削られていた。
クリスは、同じ船団の別の1隻――整備員として乗り込んだ補給船の中にいた。
おかげで彼は、移民たちの惨状を直接止めることはできない。
だが、船団全体の生命維持システムの整備記録には、整備員の権限でアクセスできた。
数字は、残酷なほど正直だった。
老朽化した装置。
無理な定員超過。
削られた保守予算。
犠牲は、必ず出る。
長年、船の生き死にを見てきた彼には、それが手に取るようにわかった。
だが、その数を、ほんの少しでも減らせるとしたら――。
彼は整備端末に向かい、几帳面に作業記録を打ち込んでいった。
「第7居住ブロック、旧型生命維持装置B系統、劣化顕著。至急交換を要す」
1介の整備員の具申など、上層部は歯牙にもかけない。
それはわかっていた。
だが、記録は残る。
そして、記録を「読む」人間も、稀にいる。
補給船の若い船倉管理官が、クリスの執拗な具申に根負けして、予備の生命維持ユニットを2基、移民船オケアノス号へ回してくれた。
「爺さん、あんた、しつこいねえ。まあ、部品が余ってるのは本当だからいいけど」
クリスは頭を下げた。
「恩に着る。……その2基で、たぶん、10人は助かる」
航行3週目、オケアノス号で最初の犠牲者が出た。
旧式の生命維持装置が故障し、1区画の酸素濃度が低下。
だが――クリスが手を回して交換されていた区画では、装置は持ちこたえた。
あの装置の劣化具合なら、まともに壊れていれば、17人は死んでいてもおかしくなかった。
実際に亡くなったのは、7人。
救えなかった7人の重さに、クリスは補給船の狭い個室で、1人、拳を握りしめた。
だが同時に、確かな手応えもあった。
定められたように見える流れも、動かせる。
10人。
たった10人。
だが、その10人には、それぞれの人生があり、地球で待つ誰かがいる。
「――0じゃない」
クリスは、掠れた声で呟いた。
「0じゃ、ないんだ」
それは、この長い物語で彼が掴んだ、最初の、そして決して色褪せない小さな勝利だった。
レオは、その事故の現場に居合わせていた。
反対に、少し離れた古い区画では、間に合わなかった。
「なんで、こっちは助かって、あっちはダメだったんだ」レオは、古参の移民に食ってかかった。
古参の男は乾いた声で答えた。
「運だよ、坊主。……いや、違うな。誰かが、こっちの区画の装置を、こっそり新しいのに換えてたらしい。船団の整備記録に、そういう具申が残ってたって、管理官がぼやいてた」
「誰が、そんなことを」
「さあな。名前も残ってねえ。物好きな整備員が、どこかにいるってだけの話さ」
レオは、天井を見上げた。
骨まで響くエンジンの唸りの向こう、この巨大な船のどこかに、顔も名前も知らない誰かが、自分たちのために動いてくれている。
その事実が、絶望の航海の中で、彼の胸に小さな灯をともした。
「……名前も残さずに、か」
彼は、いつか地球の募集ブースで、契約書の1文を教えてくれた老人の声を、ふと思い出した。
同じ声だと気づくには、彼はまだ、あまりに何も知らなかった。
だが、その夜、レオは1つの決意をノートに書きつけた。
「いつか、その恩人を見つけて、礼を言う」
皮肉にも、その約束が果たされるのは、彼が人間でなくなり、その恩人が血を流して倒れる、あの最後の日のことになる。