ネコと和解せよ 作:ラキスト猫
「妹ちゃん……?」
気まぐれに戻る実家の雰囲気に、違和感を覚えた。
それは気配、或いは生活の音や匂い、人々が暮らすルーティンに基づく息遣い。
重かった、空気も足取りも全てが緩慢となった。リビングへと繋ぐ扉のノブもまた同様に。
リビングに備え付けのソファ、いつも誰かが座っているそのソファに妹ちゃんが座っていた。
自分とは違う薄紫の髪、その後頭部に一本の白線が走る。
妹ちゃんが振り向けば、その右目にはオシャレの欠片も無い眼帯が顔の一部を占めていた。
「―――前に立っていた人の歩きタバコが、眼に入ったの」
もう妹ちゃんの眼は見えない、しかもそれがタバコのせいで。ヤニが切れた時以上の震えが、己を支配する。
自分は犯人ではない、自分は原因ではない、自分には関係がない。そんな事を考えられる程、他人事では無いのだ。
物凄く居心地が悪く、物凄く申し訳のない気持ちで一杯だった。
いつかの自分が加害者になったかもしれない、いつかの自分が妹ちゃんを嫌な気持ちにさせるかもしれない。
そう思うと居ても立っても居られなくなって、家を振り返る事も出来ないくらいは走って、驚くほどすんなりとゴミ箱にタバコの箱を投げ捨てた。
三日と持たず、一日と開かず、半日も難しい。畳や壁に爪を立て、自分の腕にも噛みつく始末。
ホメオスタシスの警告、禁断症状の誘惑、その全てを振り切ろうとして生活の全てが破綻した。
食事を作る元気もない。水を飲んで、なんとかトイレには行って、午前中は起き上がる事すらままならない。
そうして、生命のサイレンがニャーを見放した頃に誰も来なかった部屋に一匹の影が差し込んだ。
「死にますよ、ヤニねこ」
「……おみゃあって、死神だったかにゃ」
刻ねこ、ある日突然現れた謎の獣人。多数の世界を超越する宇宙の統率者。
「やり直したいと、考えた事はありますか?あるいは、もしもあの時に戻れたならとは」
「……そりゃあ、あるニャ」
失敗は変えられない、自分にはもうどうしようもない。
なのにこの先を変える事が出来ない、他責思考の無間地獄。
「戻れるとしたら、どうしますか?」
「……戻る」
「ええ、代償を頂けるなら些細ながらもお手伝いしましょう」
戻る、やり直す、無かったことにする。
「ニャーの眼を、あげるにゃ。そんで一個は妹ちゃんにあげてほしいにゃ」
「眼、それも一個では足りません」
「じゃあ、命をあげるにゃ」
緩慢な動きで安アパートの一室に大の字で仰向けに転がる、ヤニで汚れた壁と天井。
「見ろニャ、にゃーの家にはなんもにゃい」
「そんな貴女の命に、それだけの価値があるとでも?」
「知らんにゃ」
景色があいまいになって、色々な仲間達の顔が浮かんでは消えていく。
「にゃーに価値はにゃい、例えそうだとしてもにゃーは愛されていたニャ」
「確かに、貴女に価値はなくとも意義は生まれる。しかし―――それは他人の財産を奪う事に等しいと分かっているのですか?」
「にゃーの葬式には、一本タバコを入れてくれればいう事なしニャ」
「貴女は何もわかっていない」
彼女は愛されている、その命を奪われて周囲に訪れる影響を全く考慮していない。
「二度目はにゃい、一度目もにゃい。これは神の天罰にゃ」
「超越者を前にして神を語りますか」
「人を救う神などまやかしにゃ。神は試練を与えるにゃ、試練に対して何で戦うかは人次第にゃ」
「それが、貴女にとってのタバコですか」
「神をも殺せる、人々の叡智にゃ」
「戯けた獣人、貴女は例え生まれ変わっても地獄に落ちるでしょう」
「それも試練にゃ」
「救われませんね、しかし気に入りました」
「―――望み通り、貴女を地獄に落としましょう」
ヤニねこは静かに瞼を落とす。ああ、眼を奪われた。
「お姉ちゃーん!実はドッキリでしたー!!」
耳は聞こえている、妹ちゃんの眼は無事だった。
「……お姉ちゃん?」
体温、鼓動、匂い、触覚、段々と失われていくそれらが命を支えていたのだと分かる。
「お姉ちゃん!?」
いずれ、肉体は停止して、魂はこの世を去るだろう。
たった一つだけ、気になっている事があった。
メビウスのタールとニコチンは、無価値の自分の魂よりも重かったのだろうか。