ネコと和解せよ 作:ラキスト猫
前世にて、ヤクねこがアパートに帰って来た時の事。
「実家、帰ってたのかにゃ」
「……ええ、まあ」
隣の部屋に住んでたヤクねこが、染めていた髪を黒く染めなおして祖父の命日に実家に帰省していた。
安アパートらしく壁は薄い、啜り泣きの声も絶えず聞こえていた。
いつかの日、狭いにゃがみ原で狭いアパートの隣部屋にヤクねこが越してきた時に聞いてきた。
「私の事、覚えていますか?」
言った、覚えていると確かに言った筈だ。だけどそれはヤクねこにとっては望んでいた言葉では無かったのだろう。
「そっか……ありがとうございます、先輩」
「にゃ……」
少しだけ辛そうで、少しだけ怒っていたような気がした。
※※※
「帰るにゃ、ヤクねこ」
裏路地には何故か先輩が居た、ラフなシャツとスウェットにサンダル姿でふらりと現れた。
「ちょ、先輩。なんでここに居るんすか!?」
「散歩にゃ」
だらけている様で私の手首を掴む力は強く、抵抗を認めないという意思が込められているかのようだった。
「おい待てよ、商売の途中で客持ってくのはマナー違反だろうが」
「キャンセルにゃー」
「おい獣人のくせに何偉そうにしてんだテメェ」
「ヤクの売人には言われたくはないにゃあ」
ヤクの売人だとヤクねこの売人みたいな表現にも思えるが、なんにせよヤクをこの場から攫っていくことに変わりはない。
「は、離してください先輩!」
「駄目だにゃ」
「そもそも先輩には関係ないじゃないですか!」
「あるにゃ」
武道の経験者であるヤクねこがヤニねこの手を振り払えない事実がヤクねこの心情を物語っているようなものだが、心の表面は嵐の様に荒れ狂っていた。
ヤニ子は今生で一本もタバコを吸っていない、代わりに棒付きキャンディーをよく舐めていた。
しかしそれがあまりにも堂に入った構えであり、偶然シケモクが捨てられていた場所であったから誰かが勘違いしたのだ。
学生として、獣人としての枠を超えて一人の人間として熟していたヤニねこにヤクねこは憧れた。
―――自由になりたい、全てから解き放たれたい。
髪を染めて、隠れてタバコを吸っていた。犯人はヤクねこだった。
冤罪がヤニねこにかかってしまう事を知り、居てもたってもいられずヤニねこに電話した。
「静江が逆に怒鳴り返したにゃー、
吐き気がした、振るえる声と震える指に全ての集中力が持っていかれた。
貴女の様になりたかった、貴女のように産まれたかった。
私だって、貴女みたいに―――!!
気付いてみればアパートの一室にヤクねこは連れ込まれていた。
「……なんですか、この部屋」
「にゃーの部屋だにゃー」
「……実家暮らしじゃ、なかったんですか」
「家には居づらいから、出て来たにゃー」
「……家賃は」
「静江持ちだにゃー、でもいつかは働いて自立しなきゃにゃ」
自由で、恵まれていて、実際そうである筈のヤニねこ先輩ですら苦手があったのか。
だけど恵まれている事には変わりはない、こっちは家を出る事すら出来なかったのに。
「今日からここがお前の家にゃ」
耳を疑った、そして遅れて自分の中で燻っていた火種が燃え上がるのを感じた。
「―――なんでですか、憐れみですか」
「にゃ?」
「先輩には関係ないじゃないですか!家も私も!何も関係ないじゃないですか!!」
「にゃ~……」
先輩は自由で、恵まれていて、綺麗で、駄目なところもあって、それでも尊敬出来る人だ。
自分から絡みに行くにも勇気がいる人だ、それなのにこれ以上自分なんかの為に迷惑なんてかけられない。
ヤニねこ先輩が動いたのは俯いていても視界の端に写っていた。次に感じたのは暗闇、後頭部に当たるシャツと額に触れる乳房の感覚。
「せ、せせせ先輩!?」
「……うるさいにゃ」
うるさいから、包んで黙らせてしまえ。多分そんな安直な考えだったのだろう。
ブラすらつけていない先輩の肌に自分の顔が触れている、さっきまで走っていたから汗と体臭も直に感じる。
だけど鼓動は静かに響いていて、ヤクねこの体から段々と力を奪っていった。
「なんで……」
なんでこんなに近くに居てくれるのだろう、なんでこんなに安心するんだろう。
両手が自分の心のように迷子になって、自然と脇腹や背中に回される。
「どうして……」
どうして、私は産まれて来たんだろう。どうして、私は生きているんだろう。
「しらんにゃ」
誰よりも何もかもに無関心だった人が、誰よりも自分に触れている。
「好きにすればいいにゃ」
「……本当、ですか?」
「にゃ」
短い相槌に全てが含まれているような気がして、終わりのない時間を最大限に伸びていく事を願って身じろぎも喋る事もなくそのままでいた。
甘えも、身勝手な願いも受け入れてくれる。そう信じられるまで時間をかけて、シャツの中から一声だけお願いしてみる事にした。
「お母さん……って、呼んでもいいですか?」
「にゃほ!!?」
ヤニねこ先輩は驚いたようだけど、なんだかんだで受け入れてくれた。
次の日、私は家を出る事にした。
最低限の荷物を持って、ヤニねこ先輩の家に転がり込んだ。
「お邪魔します」
「ただいま、にゃ」
「……ただいま、です」
お母さんと呼びたい気持ちよりも、普通の家族としての触れ合いですら気恥ずかしい。
「あ、料理は基本的にヤクねこに任せるにゃ」
「料理だけですか?」
「……掃除と、ゴミ出しもかにゃ?」
「……うっす」
家族としてはだらしない。だけど今までになかった事が一つだけある。
ヤニねこ先輩の眼は、私の事をしっかりと映している。
「私の事、覚えていてくれますか?」
「例え死んだとしても、忘れるとかありえないにゃー」
冗談の様に話す言葉に、どことなく現実味を帯びていて自分の眦が緩んだのが分かる。
「じゃあ、いいですよ」
多分、死ぬまで離れる事は出来ないんだろうなと不吉な事を考えながらも。
―――この日、ヤクねこはヤニねこの娘になった。