ヘルタなんて大嫌い。 作:認めない勇気
病室には時計の音だけがあった。
秒針が一つ進む毎に世界は律儀に未来へ向かっているというのに、この部屋だけは何十年も同じ場所へ縫い留められた標本のようですらあった。
白く塗られた壁は朝も夜も知らず、窓の向こうを流れる雪さえ誰かが映像として貼り付けた背景に思えるほどで、消毒液の匂いだけが季節の移ろいを拒むようにそこらかしこに漂っている。
そんな広いベッドへ横たわる私はというと、その時間の内側からはじき出された何物にもなれない外側に居るようだった。枕へ後頭部を預け、浅く息を吐く。ぼんやりと天井を見上げていると、視界の端で白い何かが揺れた。
ベッド上に掛けられた、薄いプラスチックの板に黒いインクで無機質に印字された取るに足らない、私の名前。角は丸く削られているのにどこか冷たく、触れれば指先の温度を奪っていきそうだった。
グレイス。
その名前を見るだけで、随分昔の記憶が胸の底からゆっくり浮かび上がってくる。母が笑いながら教えてくれた「優雅」や「神の祝福」という願いを込めた史上最低で最悪な名前。名前くらいは幸せなものを贈りたかったのかもしれないが、私から言わせてもらえば皮肉極まりない名前でしかなかった。
神様は願いを聞き届けたのではなく、それを笑い話に変える為だけに耳を貸していたのではないか。そんな下らない考えを熱に浮かされる度、何度胸の内で繰り返しただろう。
産まれて間も無くして私の身体は壊れてしまった。原因は分からない。検査を重ねても数値は正常そのもので、臓器は健康だし、血液にも異常はなかった。
それでも季節が切り変わるタイミングで生死を彷徨う様な高熱を出し、少し歩けば視界が馬鹿みたいに歪んで、笑っただけで呼吸が追い付かず、息を吐く度に曇るようなうざったい酸素マスクを当てられた。名医や名のある研究者達が揃って、誰も答えへ辿り着けないまま年月だけが積もっていった。
私が白い病室の天井ばかりを眺めるようになった頃には、5つ上の姉は既に手を伸ばした程度では届かない場所まで行っていた。
ヘルタ。
その名前は家族の呼び名であるより先に、新聞や論文の見出しを飾る一つの権威へ変わっていた。あいつが新たな理論を発表すれば、それまで正しいと信じられていた学説は翌朝には古びた遺物となり、何気なく書き残した数式一つを巡って大勢の研究者が何年も議論を続けた。
人類史へ名を刻む才能。
天才という言葉ではあまりに簡素で安っぽい。あいつは未来を予測する側ではなく、自らの手で未来の形を決めてしまう人間だった。誰もがその頭脳を称え、まだ訪れてもいない時代を当然のように託していた。
私が今日を生き延びられるかさえ分からない傍らで、姉だけは遥か先の明日を生きていた。
対して私は何者だったのだろう。
病室の窓から季節が移ろう空を眺めるだけの人生。廊下を最後まで歩くだけで息が上がり、本を一冊読み終える頃には決まって熱を出す。昨日出来た事が今日も出来る保証すらない、壊れかけた身体を抱えた出来損ない。
比べるまでもなかった。あいつは人類の未来を背負い、私は明日を迎えられるかさえ分からない出涸らし。
同じ親から生まれた姉妹だというのに、立っている場所はあまりにも遠かった。
「ヘルタなんて大嫌い」
そう口にする度、胸の奥へ溜まっていた黒い澱がほんの少しだけ薄まる気がした。
本当は分かっていた。嫌っていたのはあいつなんかじゃなくて、何をしても追い付けず、隣へ並ぶ事すら叶わない完璧なあいつのたった一つの汚点とさえ言える、自分自身だった。
だから私はどうしようもなくあいつが嫌いだった。そうしなければ惨めで仕方がなかったから。
そんな身勝手な矛盾を18年間もの間、誰にも気付かれないよう胸の奥へ押し込めて生きていた。
「現代医療では、治療不可能です」
医師は何度も言葉を選び直した末、結局それしか口に出来なかった。
病名はない。遺伝子配列に異常は見つからず、免疫系も正常に働き、細胞分裂の速度にさえ目立った狂いはない。検査機器が映し出す数値だけを眺めれば、私の身体は健康と呼んでも差し支えないほど整然としていた。
それでも身体は衰えていった。
まるで生き続けるという営みそのものに飽きたかのように、昨日まで動いていた器官が少しずつ役目を手放していく。呼吸は浅くなり、指先には力が入らず、発作と発作の間隔は年を追うごとに狭まっていった。一度崩れれば身体を起こせるまで何日も掛かり、やがて窓辺まで歩く事さえ叶わなくなった。私の世界は病室一つ分まで縮み、季節の移ろいを知る術も、白い壁に切り取られた空だけになった。
医師たちは幾つもの仮説を立てた。未知の自己免疫疾患。神経伝達の異常。現在の技術では観測すら出来ないほど微細な、細胞同士の意思疎通の破綻。
けれど、どの仮説も私の身体を説明できるものはなかった。
検査を重ねる度、カルテの末尾へ同じ二文字が増えていく。
正常。
正常な遺伝子。正常な免疫。正常な細胞。
全てが正常である筈の身体だけが、何の理由もなく、あまりに正しく死へ向かっていた。
治療法を探すには、残された時間があまりにも短かった。
新しい理論が生まれるのを待つには私の身体は脆過ぎたのだ。研究というものは一日では終わらないし、それまで私が生きている保証は何処にもない。
コールドスリープ。
身体を極低温環境に置き、代謝や細胞活動を限界まで抑制することで時間の経過そのものを遅らせる技術。老化も病の進行もほぼ停止させ、生きたまま時間を飛び越える為の現代医学が差し出せる最後の選択肢だった。
目覚められる保証はないし、未来で病が治せる保証もないけれど、それでもこのまま病室で死を待つよりはほんの僅かでも未来へ賭ける方がずっと生存できる可能性は高いと見越した上での提案。
あぁなんて、惨めなのだろう。
きっと私が眠っている間に両親は歳を取り、友人は大人になり、街並みは姿を変えてしまう。もし目を覚ませたとしても私を知る人間は誰一人残って居ないかもしれないのに。
自分でも驚くほど穏やかな笑顔が滲み出てきた。
限りある今を捨ててまで未来へ託すしか生きる方法がないなんて。そんな現実が可笑しくて、可笑しくて。
唇だけが笑う度、その奥では世界の全てを呪うほどの憎悪が音もなく膨れ上がっていた。
「おとなしく死ぬか、不確かな未来に実るかも分からない希望を託せと、そう仰りたいんですね」
「……我々には他に残された選択肢がありませんでした」
「未来の信用出来るかも分からない人たちに自分自身を明け渡せと?」
「申し訳ありません」
「……うそつき」
口にした瞬間に分かっていた。それがどれだけ浅ましく、子供じみた言葉だったかを。
そんな事を言われた所で目の前の医師に出来る事など何もない。嘘を吐いたわけでも、私を見捨てたわけでもない。ただ残酷な現実を、出来るだけ傷付けない言葉へ置き換えようと必死だっただけだ。
僅かに揺れた瞳。言葉を探すように閉じられた口元。何人もの患者へ同じ説明を繰り返してきた筈なのに、それでも慣れる事など決してないのだと分かってしまう重苦しい沈黙。
治せない現実も、未来へ賭けるしかない無力さも、本当は誰より理解している。それでもその苦しさを一人で抱え切れるほど私は大人じゃなかった。
だから助けようとしてくれている人へ雑に投げ付けたのだ。
最低だ。何度そう繰り返しても謝罪の言葉だけは喉の奥で固まったまま動かない。
謝れば許される気がして、それが酷く卑怯に思えた。今さら頭を下げたところで吐き出した言葉は消えはしない。傷付けた事実も、私が子供みたいに感情をぶつけた事も、何一つ無かった事には出来ないのだ。
視線を落とす。
白い床がぼやけて見えた。
鼻を刺す消毒液の匂いだけが、病室の静けさの中で嫌になるほど鮮明だった。
「どうせ私なんて、ここで寝てるだけの役立たずなんだから……好きにすればいい」
言い終えた途端、自分の中で何かが音もなく折れてしまった。
こんな言葉は本心じゃない。本当は怖かった。知らない未来で目を覚ます事も、目を覚ました時には両親も、知り合いも、あいつさえ居ないかもしれない事も。
それ以上に恐ろしかったのはこのまま何一つ残せないまま人生が終わる事だった。
誰にも必要とされず、誰の記憶にも残らず、病室という小さな世界だけで生涯を終えてしまう変えられない現実。
そんな終わりだけは嫌だった。
けれどそれを口にする事は出来なかった。怖いと認めてしまえば、本当に心が壊れてしまいそうだったから。
だから私は先に自分を見捨てた。
価値のない人間だと。役立たずなのだと。どうせ失うものなんて何もないのだと。そう思い込めば未来を奪われても傷付かずに済むと信じたかった。
……そんな筈がなかった。胸の奥へ押し込めた感情は、蓋をした程度で消えてくれるほど都合の良いものじゃない。どれだけ自分を貶しても、どれだけ諦めた振りをしても、その声だけは静かに胸の奥から何度でも蛆のように這い上がってくるのだ。
――生きたい。
その願いだけは、どうしても消えてくれなかった。
その日の夕方。
病室を訪れたあいつが3回ノックをして、私の返事を待つ事もなく扉を開いた。白衣を羽織ったあいつが静かに部屋へ入って来ては部屋を見回す事も、私の顔色を確かめる事もなく、ベッドの横まで歩み寄るとただ真っ直ぐ私を見下ろした。
「聞いたよ」
数年振りに交わす言葉としては、あまりにも短かった。
相変わらず感情の起伏が読み取れない声だった。心配しているのか、興味がないのか、それとも別の何かを考えているのか。昔からヘルタの頭の中だけは最後まで理解出来た試しがない。
「そう」
短く返し、沈黙が病室を満たした。
やがてヘルタが口を開く。
「今のまま死ぬよりはマシじゃない?」
慰めでも励ましでもない。きっとヘルタなりに事実だけを並べた結論なのだろう。
「……そうだね」
それで会話は終わった。昔からそうだった。姉妹らしい思い出なんて数えられるほどしかない。
一緒に遊んだ記憶も、誕生日を祝った記憶も、思い返そうとすれば霧の向こうへ溶けてしまう。血の繋がりは確かにあるのに、その間にはいつだって長い沈黙やあいつへの複雑な感情だけが横たわっていた。
窓の向こうへ目を向けたまま、小さく呟く。
「……ねぇ」
「何」
「私が起きる頃には、貴女もおばあちゃんになってるのかな」
静かな間が落ちた。
振り返らなくても、あいつが少しだけ考えている事だけは分かる。
「さぁ」
返ってきたのは、それだけだった。
「否定しないんだ」
「未来を前提に物事を考えない主義だから」
いかにもヘルタらしい答えだった。未来を誰より作ろうとしている癖に、自分自身の未来だけは口にしない。
その捻くれた考え方が少しだけ可笑しくて、思わず笑みが零れた。
「……ほんと、可愛くない」
「知ってる」
間髪入れず返ってくる。
昔からそうだ。
褒めても貶しても、あいつは何も変わらない。
「嫌い」
「それも知ってる」
その返事だけはほんの少しだけ優しかった気がした。
だから余計に腹が立った。
どうしてこの人はこんな時まで変わらないのだろう。
どうして少しくらい悲しそうな顔をしてくれないのだろう。
何も知らない癖に。私がどれだけその言葉を自分へ言い聞かせてきたのかなんて、ヘルタはきっと何一つ分かっていない。
どうして。
どうして……。
何度胸の中で繰り返しても、その続きを言葉にする事は出来なかった。
熱くなった喉が震え、息だけが浅く漏れる。その代わりみたいに一粒の涙が頬を伝った。
視界が滲む。白い天井も、窓から差し込む夕暮れも。ベッドの傍らに立つヘルタの姿さえ輪郭を失って溶けていく。
情けなかった。18にもなって、子供みたいに涙を堪えられない自分が、どうしようもなく惨めだった。
何一つ成し遂げられず、誰かの役に立った記憶も、胸を張って誇れるものも何一つない。
病に侵された出来損ない。人類の未来を切り拓く天才の妹でありながら、その隣へ並ぶ事すら叶わなかった凡人。
頬を伝う涙は止まらない。まるで何も残せなかった18年という歳月そのものが「全部無駄だったんだよ」と誰かに優しく教えられたようだった。
ヘルタは泣き腫らした私の顔を何も言わず見つめていた。
慰める事も、励ます事もない。いつもの事だ。
ただその時間だけを静かに共有するみたいに、やがて病室の時計へ一度だけ視線を向けると小さく口を開いた。
「もう時間みたい」
それだけ言い残し、あいつは私にまた背を向けて歩き出した。それに入れ替わるように医療スタッフが病室へ入ってくる。
誰も無駄な言葉は口にしない。ベッドがゆっくり押され、見慣れた病室を後にして、先に歩き出したヘルタとすれ違う。
廊下の白い照明が天井を流れていく。何百回も眺めてきた景色なのに、もう二度と見る事はないのだと思うと妙に真新しく綺麗に見えた。
辿り着いた先には、コールドスリープの透明なカプセルが静かに横たわっていた。生命維持装置が低い駆動音を響かせ、青白い表示灯が一つ、また一つと点灯していく。
涙を乱暴に拭う。
視線を上げると、いつの間にかそこに居たヘルタが見えた。
「……ヘルタ」
こちらを無感情に見つめたまま、あいつは短く返した。
「何」
「私が起きたら――」
そこまで言って、言葉が不意に途切れた。
頭の中には幾つもの願いが浮かんでは消え、どれ一つとして唇まで辿り着いてはくれなかった。言いたいことは山ほどあったはずなのに、どれもこれも喉の奥で絡まり合ってまるで形にならない。
会いたい。そう言ってしまえば、きっと私は未来へ縋ってしまう。
待っていて。そんな約束を交わせば目覚めた先に希望を抱いてしまう。
忘れないで。そんなの自分が忘れられる程度の存在なのだと認めてしまうようなものだ。
どれを選んでも私たちに相応しくないように思えた。
嫌いだと言い続けることでしか繋がっていられないと思った寂しい私が「愛してる」なんて口にしたら、今まで積み重ねてきた全部が壊れてしまう気がした。
どうせ私なんて、最初からまともな生き方なんて出来なかったのだから。
ゆっくり息を吸う。
胸の奥では、本当はまるで違う言葉が泣き叫んでいるのに。
唇から零れ落ちたのは、その全てへ蓋をするような、最低の一言だった。
「……早く私の世界から、消えてね」
それはまるで、この先二度と交わる事のない運命を自分の口で決定付けるような、ひどく歪んだ別れの言葉だった。
いくら大嫌いだからって、呪うほど憎んでいた訳じゃない。柄じゃないけど、さっさと私の事なんて忘れて幸せになればいい。
ヘルタは私の顔を黙って見ていた。
その表情が何を意味していたのか、最後まで分からなかった。
悲しんでいたのか、呆れていたのか。それとも何も感じていなかったのか。
「じゃ、私はもう行くから」
いつも通りの声だった。何一つ変わらない、感情の揺れを感じさせない声。
それだけを残して、今度こそあいつは踵を返して部屋を出て行った。
白衣の裾が揺れる。規則正しい足音が遠ざかっていく。最後まで、一度も振り返る事はなかった。
……ほんと、最後くらい振り返ってくれてもいいのに。そう思った癖に不思議と嫌な気持ちはしなかった。
あぁ、これでいいんだ。これがヘルタなんだ。閉じていく意識の底で、そんな事をぼんやり思う。
あいつなら一人でも生きていける。誰かに支えられなくても、未来の何処か。私が知らない時間を積み重ねながら、それでもきっと誰よりも自分らしく。
きっと何十年先も。変わらず自分らしいままで。