ヘルタなんて大嫌い。 作:認めない勇気
最初に感じたのは寒さじゃなかった。
圧倒的な静けさ。世界そのものが息を潜めているような、音という概念だけが切り取られたような空間。その奥で一定の間隔を刻む電子音だけが静かに響いていた。私が眠っている間もそうしてずっと鳴っていたのだろうか。
瞼が酷く重い。まるで鉛を縫い付けられたみたいだった。それでも僅かずつ光が滲み込み、黒一色だった世界へ細い裂け目が走った。
……眩しい。ぼやけた視界へ最初に飛び込んできたのは暴力的なまでの眩しい白だった。
最初は病室の天井だと思ったけれど。焦点が合うにつれ、それが白ではなく継ぎ目一つ存在しない滑らかな金属なのだと分かった。照明も見当たらない。ただ天井そのものが淡く発光し、部屋全体を静かに照らしているようだった。
今度ははっきりと理解した。ここは病院じゃない。少なくとも、私の知っている場所ではない。空気も何処か異質で、ひやりと冷たいのに乾いているという訳でもなく。硝子一枚を隔てた向こう側の世界みたいな、不自然な透明さを帯びていた。
ゆっくり指先を動かすと、その僅かな動きだけで腕全体へ鈍い痛みが走った。肌には細いコードが幾重にも繋がり、透明な管の中では淡い青色の液体が静かに流れている。
生きている。
「…………」
その実感だけが、時間差で胸の奥へ静かに沈んでいく。
喉が焼け付くように乾いていた。唇を動かそうとしただけで薄い皮膚が張り付き、小さく裂けるみたいに酷く傷んだ。
「……ぁ」
掠れた空気が漏れる。
声とは呼べない、何十年も閉ざされた扉を無理やり開いたような、錆びた蝶番の軋みによく似た音だった。
肺へ空気を送り込むだけで胸が軋むのは相変わらずの事で、長い眠りから目覚めた身体が、自分という存在を一つずつ思い出そうとしているのかもしれない。
……どれくらい眠っていたんだろう。
50年? 60年?
それとも、もっとだろうか。
分からない。眠る前、誰かが笑って「その頃には病気くらい治ってるよ」と言っていた気がする。随分と無責任な励ましだと思った記憶だけは残っている。
ふと視線を横へ滑らせると、そこには壁一面を占める巨大な窓があった。
けれどその向こうに広がっている筈の景色はどこにもない。青空の気配や雲の流れも、遠くに連なる街の輪郭さえも。何ひとつ存在せず、ただ底の見えない黒が静かに広がっているだけだった。あまりにも空虚で、視界そのものが失われたのではないかと錯覚するほどだ。けれどその闇の奥で、かすかな光が瞬いた。
最初は気の所為かと思った。けれどもう一度瞬きをすると、今度は確かにそこにあった。ひとつ、またひとつと、闇の中に小さな灯が浮かび上がる。
室内の照明が硝子に映り込んでいるだけだと自分に言い聞かせようとしたが、その光はあまりにも力強く、綺麗だった。
――これは、星だ。
瞬きを繰り返すたびに光はわずかに滲み、遠い記憶の底に沈んだ花火の残像のように揺らめいた。それでも決して消えない。冷えた硝子の向こう側で、無数の恒星が悠久の時間を抱えたまま、何事もなかったかのように淡々と輝き続けている。
気付けば呼吸を忘れていた。胸の奥がひりつくほど静まり返り、ただその光景に呑み込まれている。私は夜空を見上げているのではない。夜空の中に放り込まれているのだ。その事実があまりにも現実から乖離していて、思考が追いつく前に拒絶する。果てのない闇に砂粒のような恒星が散らばり、その奥で何かがゆっくりと動いた。
巨大な影が、音もなく視界を横切る。
船――そう思いかけて、すぐに違和感が押し寄せる。あれはそんな単純なものではない。輪郭が近づくにつれ、それが建造物の集合体であることがわかる。無数の窓が灯りを宿し、規則的に並ぶ構造物がひとつの塊となって、まるで都市そのものが宇宙を漂っているかのようだった。理解が追いつかない。現実が歪み、思考が足場を失う。
夢だ、としか思えなかった。
コールドスリープの中で見ている、ただの幻だと。そんな荒唐無稽な考えが妙に現実味を帯びて頭の中を占領する。確かめようと身体を起こそうとした瞬間、腕に込めた力は空を切り、そのまま支えを失って崩れ落ちた。息が詰まり、視界が大きく揺れる。天井と星空が溶け合い、境界が曖昧になる。
身体が軽い。異様なほどに軽いのだ。長年使い慣れたはずの肉体が、まるで別物にすり替えられてしまったかのように思い通りに動かない。
脳が必死に命令を送り続けても、それは手足へ届く前に霧のように消えていく。感覚だけが取り残され、現実との接点が静かにほどけていった。
「無理しない方がいいよ」
頭上から落ちてきたその声は、静まり返った水面に小石を投げ込まれたように意識の奥へ波紋を広げた。
反射的に肩が跳ね、遅れて視線を巡らせると、部屋の隅に白衣の女性が立っている。そこに居ることが当然であるかのように影のように溶け込んでいて、いつからそこに居たのかまるで分からない。気配というものが最初から存在しなかったかのようだった。
彼女は私を見ない。視線は手元の端末に落ちたまま、指先だけが滑るように動いている。その動きは研ぎ澄まされた刃物のように無駄がなく、必要な軌跡だけをなぞっている。
医者だろうか? それにしては目覚めたばかりの患者を前にしているというのに、驚きも安堵も浮かんでないようだった。まるで決められた時刻に鳴るアラームを止めるような、ただの手順の一つとして私の覚醒を処理しているだけだった。
朝が来ることに誰も感動しないのと同じように、彼女にとってはただの事実に過ぎないのかもしれない。
「筋肉はまだ回復の途中だから、無理に動かない方がいいよ。転ばれでもしたら起こすのが面倒だから、暫くは大人しくしていて」
その言葉は気遣いというよりも、作業効率の話をしているようにさえ聞こえた。優しさなのか、単なる合理性なのか、判別する余地すら与えられない。
声を出そうとすると喉がひり付いて、砂を噛むような感触が広がる。
「……ここは、どこですか」
その瞬間、彼女は初めて顔を上げた。視線がこちらに向けられる。だがそこにあるのは、鏡のように何も映さない瞳だった。感情の輪郭がどこにも見当たらない。
「医療区画」
短く、それだけが返ってくる。特に続く説明もない。言葉はそこで途切れ、彼女の意識は再び端末へと沈んでいく。
ここはどこなのか、時間はどれほど流れたのか、自分はどれだけ眠っていたのか――そして、視界の端にちらつくあの光景は何なのか。窓の向こうに広がるのは見慣れた空ではなく、黒い深淵に散らばる無数の光が静かに瞬いている。
まさか宇宙なんて訳はないだろう。
「…………」
聞きたい事は山ほどあったのに、どうしようもない安堵と不安が交互に胸を満たした。
私が眠りに落ちてから、どれほどの歳月が過ぎ去ったのだろう。
時間というものがまるで砂のように指の隙間からこぼれ落ちていった気がしてならない。病は本当に癒えたのか、それともただ終わりを先送りにされただけなのか。その境界は曖昧で、胸の奥に冷たい影を落としている。
父と母の面影が遠く霞み、すっかり遠くなってしまった家の匂いや街のざわめきも、すべてが遠い夢の断片のように揺らいでいる。
そして、ヘルタ――その名を思い浮かべる度に胸の奥に小さな痛みが走る。あいつはまだこの世界にいるのだろうか。それとも既にどこかへ消えてしまったのか。そもそも、ここは本当に私が生まれ育った星なのかという疑念が、静かに、しかし確実に心を侵食していく。
問いは次々と枝を伸ばし、絡み合い、やがて喉元まで押し寄せてきたが。そのどれもが重すぎて言葉にならない。沈黙が長く続き、空気が張り詰める中で、ようやく唇がわずかに震えた。
選び取られたのはあまりにも単純で、それゆえに最も恐ろしい問いだった。
「……今は、何年ですか」
その声は掠れ、まるで遠くから響いてくるようだった。
女性は手元の端末からゆっくりと顔を上げる。紫の瞳がこちらを捉えた瞬間、胸の奥に微かな疼きが走った。その色はどこか懐かしく、記憶の底で誰かが意地悪く微笑んでいる気がした。
しかしその面影に触れようとする度に思考は冷たい水の中に沈み込むように鈍り、掴みかけた記憶は指先から静かに滑り落ちていく。
「何年、と言われても……」
女性はわずかに間を置き、言葉を選ぶように続けた。
「あなたが使っていた暦はもう一般的じゃないから、説明されたって分からないと思うけど」
「……そうですか」
喉は乾ききり、声は自分でも驚くほど頼りなかった。女性は特に反応する事もなく、再び端末へ視線を落とした。
指先が画面をなぞる動きは滑らかで、何かを探しているようにも見えるが、その仕草にはどこか慎重さが滲んでいた。単なる確認ではない。どう伝えるべきか、その言葉を選び取っているようにも思えた。そんな考えが自然と浮かび、胸の奥に小さな苛立ちが芽生える。初対面の相手に抱くには不釣り合いな感情だと分かっていながら、その火種は静かに燻り続けていた。
「あなたが眠ってから、正確には100年くらい経ったかな」
「……ぇ」
その言葉は確かに耳へ届いた筈なのに、意味を結ぶまでにひどく時間がかかった。100年――頭の中で何度も転がしてみても、数字だけが現実から切り離され、軽い殻のように宙を漂う。
100年という時間は1人の人生を跡形もなくさらっていくようだった。父の声や母の手の温もりも、きっともうこの世界には残っていない。私の嫌いな花だけで纏められた束を抱えて病室に現れたあいつの憎たらしい笑顔も。診察の度に視線を伏せていた医師の仕草、廊下ですれ違っただけの誰かの気配も。すべてが遠い底へ沈んでいく。
あの日、同じ空気を吸っていた人間はもう誰1人としてここには居ない。雪が窓の外で静かに降り続いていた光景を覚えている者も、あの時の私を知る者も、本当にどこにも居ないんだ。
世界から置いていかれてしまった。
息がうまく吸えない。肺が広がることを拒むように固まり、視界の端から色が抜け落ちていく。世界が狭まり、遠ざかる。静寂だったはずの空間に、電子音だけが異様なほど大きく響き、鼓膜を打ち続けていた。
「呼吸が浅いね」
女性の声は機械が異常を検知した時に鳴る電子音のように平坦で、まるで温度を持たなかった。そこには焦燥も慰撫もなく、ただ観測された事実だけが淡々と解剖台に置かれた。言葉は空気を震わせるだけでこちらの苦しさには一切触れてこない。
「分かって……ます」
喉の奥から擦れるように声が漏れる。息を吸おうとする度、胸の内側に見えない手が差し込まれ、内臓を握り潰されるような圧迫感が走った。肺が空気を拒絶しているのではなく、空気の方が私を拒んでいるような錯覚に陥った。浅く、短く、途切れ途切れの呼吸が、かろうじて命を繋いでいた。
「ゆっくり吸って。あなたの身体は、もう以前ほど簡単には崩れないから」
その言葉を投げかけられた瞬間、凍りついていた思考の奥に小さな罅が入る。顔を上げると、視界がぐらりと揺れた。
「……私は、治った……んですか?」
自分でも驚くほど弱々しく、縋りつくような響きが混じっているのが分かって嫌になる。けれどそれを恥じる余裕すら今の私には残されていない。
記憶の中でしか触れられない家族の温もりや、帰る場所だった筈の遠い故郷の匂いも。私という存在を形作っていた日々の積み重ねさえ、すべてが遠い過去の底へ沈んでいる。だからせめてこの身体に巣食っていた病巣だけは消えていてほしかった。
でなければ、私は何のために眠り続けたのか。何を代償にしてまで、この時代へ引き延ばされたのか分からなくなってしまう。
「…………」
女性はすぐには答えなかった。手にしていた端末の画面を閉じると、乾いた電子音が静寂に溶けていく。
そのままこちらへ歩み寄ってくる足取りは驚くほど軽く、床に触れている筈なのに音が殆どしない。白衣の裾だけが人工光を受けて淡く揺れ、水面に広がる波紋のように静かに形を変えていた。
距離が縮まるにつれ、胸の奥に引っ掛かる違和感が膨らんでいく。一歩、また一歩と近づくその姿を見つめながらも、記憶の底に沈んでいた何かがゆっくりと浮かび上がるようだった。
鋭く切り込むような目元、わずかに吊り上がった口元、その表情に宿る冷ややかな自信。優しい言葉で包むよりも真実をそのまま突きつけることを選びそうな、あの傲慢さまで含めて、私は確かに知っている筈だった。
どこで見たのかは思い出せない。それでも、この顔を忘れる筈がないと、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。
「完全に、とは言えないかな」
その一言は静かに広がって、まるで現実を突きつけるように胸の奥へ突き刺さった。
「……そうですか」
口にした声は思ったよりも軽く、けれどその裏側で何かがひっそりと崩れていくのを感じた。期待なんてしていないつもりだったのに、どこかで救いを待っていた自分が居たらしい。
女性は私の内側の揺れなど見えていないかのように淡々と続ける。
「以前のあなたなら、今みたいに起き上がろうとしただけで数日は寝込んでただろうね。今は眩暈と筋力低下だけで済んでるのはちょっとした奇跡みたいなものかな。だから、あと数年……数日もあれば完治すると思うよ」
「……」
紙の上に並んだ記録をそのまま読み上げているような、温度のない声音。その響きはあまりにも軽く、長く沈んでいた時間の重さとまるで釣り合わない。
私はゆっくりと自分の身体へ意識を沈めた。胸の奥にはまだ鈍い痛みが残り、手足は頼りなく思うように動かない。指先には細い電流のような痺れが走り、長い眠りから引き剥がされた身体はぎこちなく軋んでいる。それでも、どこかが決定的に違っていた。
あの苦しさがない。発作の度に喉へ絡みついてきた冷たい感触。見えない指が気道を締め上げ、肺の奥へ侵入して呼吸を奪っていくあの圧迫感。何度も何度も、底の見えない闇へ引きずり込まれた記憶。その中心にあった痛みだけが、綺麗に消えていた。
心臓が早鐘を打っている。けれどその鼓動は弱々しく崩れることもなく、確かな力で血を押し出し続けている。波が岸へ届くように全身へ。
「…………」
生きている。今度こそ、きちんと踏みしめたような確かな実感として現れる。
どこかに繋がれているわけでも、無理やり引き延ばされているわけでもない。この身体そのものが自分の意思で呼吸し、脈打っている。
震える手を胸へ当てる。掌の下で、確かな反応が返ってきた。
「……治せるんだ」
喉の奥で擦れた声がほどけ、同時に細い息がこぼれ落ちた。
嬉しい筈なのに、胸の奥で長く凍りついていた願いがようやく現実の温度を帯びて触れられる距離まで来たというのに、頬を伝う雫はやけに熱く、まるで遅れてきた痛みのように肌を焼いた。
思い描いてきた光景がぼんやりと浮かび上がる。軽くなった身体で地面を蹴り、誰にも止められずに駆け抜ける感覚。肺を締めつける苦しさに邪魔されることなく、冷たい風を胸いっぱいに吸い込みながら歩き続ける時間。ページをめくる指先が震えることもなく、最後の一行まで読み終える静かな夜。
そんなささやかな夢。
そこには笑う父の横顔があり、柔らかな声で呼びかける母がいて、少し離れた所で無関心に私を見つめるヘルタの姿があった。言葉にするにはあまりにも都合がよく、だからこそ胸の奥にしまい込んだまま願っていた非現実。
けれどそこに立っているのはただ時間を越えて運ばれてきたこの身体だけだった。迎えてくれる筈の気配はどこにもなく、空気は静まり返り、名前を呼ぶ声も、笑い声も、何ひとつ残っていない。100年という歳月は私をここへ押し出す代わりに、それ以外の全てを遠い彼岸へと流し去ってしまったらしい。
振り返っても、もう手を伸ばせる距離には何もなかった。本当に何一つ、胸に抱いた掛け替えのない憎悪さえも。
「泣くほど嬉しい?」
その声に引き上げられるように重たい瞼を持ち上げた。視界の端で光が滲み、頬を伝う涙が冷えていくのを感じる。
「……違います」
そう答えた声は自分でも驚くほど乾いていた。拭う気力すら湧かず、ただ濡れたままの顔で彼女を見返す。白衣の女性は微動だにせず、私を見据えたまま小さく頷いた。
「そう」
短く落とされた言葉の後、わずかな間が空く。その沈黙がやけに長く感じられた。
「じゃあ、悲しいんだ」
淡々としたその声音に、胸の奥がざらりと擦れる。
「……貴女には関係ないでしょう」
思った以上に鋭い声が出た瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰める。
消毒液の匂いが鼻を刺し、機械の微かな駆動音だけがやけに大きく響いた。目覚めたばかりの人間に向ける言葉ではない。100年という時間をただの数字の羅列のように読み上げるような、その無遠慮さにどうしようもない苛立ちを感じた。私がここにいる理由も、失ったものの重さも、彼女は何一つ知らない癖に。
その時だった。
彼女の瞳がわずかに細められる。ほんの一瞬の変化。けれどそれを見た瞬間、胸の奥で何かがかちりと噛み合った。
――この人、楽しんでいる?
笑っているわけではない。むしろ唇はほとんど動かず、表情は氷のように静止している。誰が見ても変化などないと言うだろう。それでもどういう訳か分かってしまった。
涙に濡れ、声を震わせ、開いてしまった空白に押し潰されかけている私の姿を、彼女はまるで美味しい料理を味わうように咀嚼している。哀れむでもなく、救おうとするでもなく。壊れかけたものをガラス越しに観察するみたいに。
自分だけに許された密やかな娯楽を舐めるように。目の前に転がっている弱さを楽しんでいる。
ぞわり、と背骨の内側を冷たいものが這い上がった。見えない指先が胸の奥をなぞり、ゆっくりと撫で回していくような感触が広がる。逃げ場のない不快感だけがじわじわと体の内側を満たしていった。
「……悪趣味ですね」
気付いた時には言葉が喉をすり抜けていた。けれど向かいにいる女性はまるで風も届かない場所にいるかのように眉ひとつ動かさないままこちらを見返していた。
「何が?」
その声音は乾いている。問いかけというより、ただ音を置いただけのような軽さだった。本当に理解していないのか、それとも理解した上でわざと外しているのか、まるで判別がつかない。その不愉快な曖昧さが神経を逆撫でする。
「人が泣いている所を見るのが、そんなに面白いですか」
言葉は静かな部屋の中央に落ち、波紋も立てずに沈んでいく。女性は否定しない。ただ、ほんのわずかに首を傾けた。その仕草は無邪気にも見えるし、底知れないものにも見える。
「さぁ」
あまりにも軽い返答だった。拍子抜けするほど自然で、そこには弁解も取り繕いもない。怒りをぶつける隙すら与えられず、代わりに胸の奥へ鈍い違和感が沈んでいく。
はぐらかされた、というよりは、測られている。そんな気配が遅れて輪郭を持ちはじめる。こちらの反応を、言葉の選び方を、呼吸の揺れまで含めて観察しているような視線。
頭の奥に冷たい水が流れ込んでいく。先ほどまで胸を満たしていた熱が、すっと引いていく。代わりに残るのは酷く温度を失った息苦しさだけだった。
「……性格が悪いですね」
吐き捨てるように言うと女性は肩をすくめる。その動きは軽く、まるで埃でも払うようだった。
「今さら?」
短い言葉が乾いた笑いのように転がる。長い間、浴び続けてきた悪口をただ通り過ぎる風として受け流すような響き。
けれどその言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥では別の感情が静かに頷いていた。冷たい水面の下でずっと前から沈んでいた何かが、ようやく息を吹き返したように。
こういう人なのだ。
私がどれほど取り乱そうと、たとえ涙で視界を歪ませようと。決して歩調を緩める事はしなかったあいつにそっくりだった。慰める代わりに傷へ指を差し入れ、逃げ場を与える代わりに最後まで追い詰める。その残酷さは優しさと紙一重で、だからこそ大嫌いだったあいつと重なる。苦しむ姿を前にしても必要だと判断すれば迷いなく踏み込んでくる――そんな在り方を私は知っている。
「……私は」
喉の奥が焼けつくように乾き、言葉を探るたびに胸の奥で錆びた歯車がぎり、と鈍い音を立てる。
目の前の女性を見つめると、その輪郭がゆらりと揺れた。涙で滲んだわけではない。私の中で散らばっていた断片が、ゆっくりと噛み合い始めている。
紫の瞳が静かにこちらを射抜き、感情の波を感じさせない声が耳の奥へと届く。神経を刺激するような言葉を選び、わざと逆撫でするあの話し方――沈んでいた記憶の欠片が、水底から浮かび上がる泡のように一つずつ浮上してくる。
胸の奥で心臓が大きく跳ねる。
「あなたは……」
続きが出てこない。名前を尋ねるべきか、それとも正体を問うべきか。どうして私を知っているのか、なぜこんな風に振る舞えるのか――問いは幾つも浮かぶのに、どれも核心からズレている気がした。私が本当に知りたいものは、もっと別の場所にある気がして。
ただ一つ、説明のつかない距離だけが残る。触れられるほどではないのに、もっと深いところで隣り合っているような感覚。ずっと昔から、この人は私のすぐ傍に居たのではないか――そんな錯覚が消えずに胸に居座る。
「何?」
女性が小さく首を傾げる。その何気ない仕草に胸の奥が微かに疼いた。懐かしい、と感じた瞬間にはもうその輪郭は霧の向こうへ消えていた。手を伸ばせば届きそうなのに、指先は空を掴むばかりで思い出そうとするほど記憶は静かに遠ざかっていった。
「……何でもないです」
胸の奥で何かが罅割れるような音がした。それ以上踏み込むなと、言葉にならない警告が静かに広がっていく。思い出そうと手を伸ばしても、指先に触れるのは湿った霧ばかりで。形を結ぶ前にほどけてしまう。
身体は軽いはずなのに、失われた日々が鉛のように胸を満たしている。もうこれ以上は抱えきれない。そう悟った瞬間、私は逃げるように息を整え、別の問いへと舵を切った。
「確か……この施設の責任者だと言いましたよね」
「言ったね」
「なら、私がここへ運ばれた経緯も知っていますか」
「よく知ってるよ」
躊躇いのない声だった。その滑らかな即答が逆に胸の奥をざわつかせる。何かが、触れてはいけない場所を掠めたように震えた。
「……それは、私の家族についても、ですか」
彼女はすぐには答えなかった。ほんの一拍、呼吸ひとつ分の沈黙。それだけなのに部屋の温度が下がったように感じる。やがて彼女は静かに口を開いた。
「何が聞きたいの」
その言葉が届いた途端、喉の奥がきつく締め上げられる。分かっている。聞くべき事は最初から決まっていた。父と母がどんな終わりを迎えたのか、私が眠りに落ちたあとも待ち続けてくれたのか、その時間をどう生き、どんな想いで眠り続ける娘を見送ったのか、知りたい。
「ッ、えっと……」
今ならまだ、無知という薄い膜に守られていられる。過去という長い闇のどこかで二人は変わらず笑っているかもしれないと、そんな頼りない幻想に身を預けていられる。
だから私は、あえて口当たりの悪いその名前を選んだ。喉の奥に棘のように引っかかり続けていた、最も触れたくない響きを。
「……ヘルタは」
その一言が空気に落ちた瞬間、目の前の女性の睫毛が微かに震えた。風もないのに水面が揺れるような、ごく微細な変化。それだけの事なのに、胸の奥に沈んでいた何かが不意に浮かび上がり、鈍く波打った。
「姉は、どうなりましたか」
問いを吐き出した途端、長いあいだ固く閉ざしていた傷口が内側からゆっくりと裂けていく気がした。忘れた振りをしていた記憶が、血の匂いを伴って蘇る。
最後に見た背中は思っていたよりもずっと小さく、それでも振り返ることなく遠ざかっていった。あのとき私は、刃物のような言葉ばかりを選んでいた。
来るな、消えろ、そんなものしか口にできなかった。本当は違ったのに。怖かったのだ、ただそれだけだった。置いていかれることが、取り残されることが、どうしようもなく恐ろしくて、それを認める勇気すら持てなかった。だから最後まで素直な言葉一つ言えなかった。病室の扉が閉まる音と共に消えた背中だけが、焼き付いたまま剥がれない。
100年。その数字を胸の内で転がす度に、乾いた音がする。どれほどの才を持とうとも、人の形をしたままその歳月を渡りきれる筈がない。
女性は何も答えない。ただ静かにこちらを見つめている。その沈黙は、言葉よりも重く、逃げ場を塞ぐような実感を持って存在していた。
「……そう、ですよね」
笑おうとしたが、唇がわずかに歪むだけで終わる。形だけの笑みはすぐに崩れ落ちた。
「いくら天才でも、100年は長いですよね」
喉が勝手に動き、言葉が溢れ出す。止めようとしても指の隙間から水がこぼれるように逃げていく。
「あいつ、昔から自分の身体なんて顧みない人でしたし。研究に没頭したら食事も睡眠も忘れて……きっと、早死にしたでしょうね」
自分の声がどこか遠くで笑っているように聞こえる。耳に届く度に不快感が増していく。
あんなこと、言わなきゃよかった。
「性格だって最悪でしたし、お葬式に集まる人も少なかったでしょうね。どうせ本人も、悲しまれるくらいなら放っておけとか、墓なんて要らないとか、平気で言いそうですし……」
言葉は止まらない。乾いた砂が崩れるように、次々と零れ落ちる。
「死んだ後まで誰かを振り回して、困らせて……本当に、最後まで迷惑な人だったでしょうね」
吐き出す度に胸が軽くなる所か、むしろ重く沈んでいく。憧れを悟られたくなくて、欠点ばかりを拾い集めては呪詛や嫌悪の言葉を口にする。そうしていればこの胸の奥で絡み合う感情に名前を与えずに済むと思っていた。誰にも見つからずに、ひっそりと腐らせておけると信じていた。
「……本当に」
声が震え、言葉の輪郭が崩れる。
「嫌な人だった」
もはや頬を伝う涙を拭う気力すら湧かない。ただ静かに落ち続ける、その一滴一滴が100年越しに届かなかった言葉の代わりのように、胸の奥で形を変えながら何度も何度も繰り返される。
女性は、私の言葉を受け止めるでも弾くでもなく、ただ静かに視線を置いていた。その眼差しは水面のように揺れず、こちらの内側を映し返す鏡のようでもあるのに、逃げ場だけは与えてくれない。
私はその前で自分の中に溜め込んでいたものを削り取るように吐き出していく。私がどこまで自分を傷付けるのか、最後まで見届けるつもりらしい。
やがて沈黙に栞を挟むかのように彼女は口を開いた。
「随分詳しいね」
その声音は軽く、けれど奥に何かを含んでいる。
「……姉ですから」
私は間を置かずに返す。言葉は用意されていたかのように滑り出た。彼女はわずかに目を細める。
「嫌いなのに?」
「嫌いだからです」
彼女はその答えを聞いて、喉の奥で小さく笑った。柔らかな音が耳に触れた瞬間、胸の奥に細い針が刺さるようなざわめきが走る。
「それなら」と、笑みを残したまま彼女は続ける。
「本人が聞いたら、案外喜ぶかもね」
「喜ぶわけないでしょう。あの人は私の言う事なんて何一つ気にしてませんでしたから」
「そうかな」
「そうです」
「本人に聞いたの?」
その問いが落ちた瞬間、空気がわずかに歪んだ気がした。言葉が喉で絡まり、先へ進まない。
「……もう死んでいる人に、どうやって聞けって言うんですか」
苛立ちを隠さず顔を上げると、彼女はいつの間にかベッドのすぐ傍に立っていた。紫の瞳が愉しげに細められている。その奥には、悪戯を思いついた子供の無邪気さと、私の醜い心の内など全て見透かしたような確信が同居していた。
「簡単だよ」
白衣のポケットに手を差し込みながら彼女はあまりにも自然に言う。まるで今日の空模様を告げるような軽さで。
「本人に聞けばいいよ。私はまだ死んでないから」
ほんのわずかに口元を緩めた。
その瞬間、世界から音が剥がれ落ちた。
機械の低い唸りも、空調の風も、遠くで鳴っていた筈の何かも、すべてが遠ざかっては薄い膜の向こうへ押しやられていった。
残ったのは、目の前に立つ彼女の輪郭だけだった。思考は凍り付き、理解だけが遅れて、重たい足取りで近づいてくる。
「……は?」
喉から零れたのは、かすれた一音だけだった。