ヘルタなんて大嫌い。 作:認めない勇気
床には先程までの嵐の名残がそのまま沈殿していた。
投げつけた枕は中身を歪ませたまま地面へと転がり、割れたコップの破片が細かな光を拾って鈍く瞬いている。水差しから溢れた水はゆっくりと広がり、冷たい膜となって床を侵食していた。乱れたシーツや、開きっぱなしの本は途中で放り出された思考のように無言で横たわっている。
「……なくなりたい」
喉の奥で擦れた声が、空気に溶ける前に落ちた。
ベッドの上で膝を抱え込み額を押し付ける。閉じた瞼の裏では、先程までのやり取りが何度も再生される。止めようとしても止まらない。巻き戻されては繰り返されるその光景に、また同じ場所で躓く自分が酷く滑稽でどうしようもなく嫌になる。
どうしてあんなことをしたのだろう。
腕に力を込める。爪が食い込むほど抱き締めても、胸の奥でざわめくものは消えてくれない。あいつが語った未来はただの言葉のはずなのに、現実として目の前に突きつけられたような重さを持っていた。そして何より、それを何でもないことのように口にするヘルタの顔が、どうしても許せなかった。
「……最低」
吐き捨てたはずの言葉が、なぜか自分の胸に返ってくる。殴っている側の手も痛いなんて言葉、一番嫌っていた筈なのに。
「来てほしいなんて……思ってない。きえろ、きえろ……っ」
嘘だと分かっている。扉が閉まった瞬間、胸の奥に冷たい空洞が広がった事も。静まり返った部屋がやけに広く感じられた事も。一人になったという事実が、あんなにも重くのしかかって来たのも。
膝を抱え込むように身体を折り畳み、その隙間へ逃げ込むように顔を埋めると、閉じ込めたはずの熱がじわりと滲み出し頬を伝った涙が布へ落ちる度に、暗い染みが静かに広がっていくようだった。まるで心の奥に沈めた筈のものが形を変えて浮かび上がってくるみたいに。
「……ばか」
喉の奥で擦れた声がひどく頼りなく転がる。
「きらい」
震える唇はまるで癖のように同じ言葉を選び取る。
「きえちゃえ」
吐き出されたそれらは、どれも一度だって本心だった事はないのに、どうしてか私の口はいつも本心を押し隠した言葉ばかりを拾い上げてしまう。胸の奥が締め付けられて、息が浅くなって、どうしようもなく寂しさが膨らんでいく時ほど、素直な願いは喉の手前で絡まり、別の形へと歪んでしまうのだ。
本当はただ引き止めたかった。離れていく背中に手を伸ばして、ここに居てほしいと縋りつきたかった。好きだと、たったそれだけを伝えればよかった筈なのに、言葉はいつも途中で裏返り、温もりを拒む刃へと変わる。
好きは嫌いへとねじ曲がり、そばにいてほしいという願いは消えてしまえという冷たい響きにすり替わる。抱き締めたいと願うほど、突き放す言葉が口をついて出てしまう。なんで面倒で迷惑極まりない存在だろうか。
繰り返す度に胸の奥が少しずつ削れていく実感があるのに、それでも止められないまま、私は何度も同じ過ちをなぞり続ける。一番大切にしたかった筈の気持ちを、自分の手で踏みにじりながら。
喉の奥からこぼれた声は、自分のものとは思えないほど頼りなく震えていた。問いかけというよりは、崩れ落ちる寸前の何かを必死に拾い上げようとするような響きだった。
目の前の女性はわずかに首を傾げる。その仕草が、胸の奥に沈んでいた記憶を静かに揺らした。
同じだ。
答えるべきか悩んだ時の、あの癖。相手を測るような視線の温度も、どこか退屈そうな雰囲気も、何ひとつ変わっていない。どうして気付かなかったんだろう。
時間だけが彼女の輪郭に薄く積もり、けれど核心には触れられなかったかのように、そこに立っている。
「……本当に、ヘルタなの?」
「さっきからそう言ってるでしょ」
軽く投げられた言葉が、やけに遠くから聞こえた。
「……信じられない」
息を吸うたびに胸が軋む。言葉を探そうとしても、指の間から砂がこぼれていくかのようにまるで形にならない。
「だって……100年なんて、普通の人間が生きていられるような時間じゃない」
「じゃあ、信じなくていいよ」
彼女は眉ひとつ動かさなかった。困惑も、弁明も、そこにはない。ただ淡々とした声が、静かな水面に石を落とすように響いただけだった。
「あなたが信じなくても、どうせ事実は変わらないんだし」
その言い様は酷く懐かしかった。逃げ場を丁寧に殺していくような、疑いを重ねても現実はびくともしないと教えてくれる残酷さ。受け入れる準備なんて整っていないのに、世界だけが先へ進んでいく。
胸の奥で何かがざわめく。冷たいものがじわじわと広がり、呼吸のリズムを乱していく。視線を逸らせば楽になれる気がしたのに、どうしてもできなかった。アメジストの瞳が、静かにこちらを捉えて離さない。
「……なんで」
かすれた声が、ほとんど無意識に漏れる。
「何が?」
「なんで……っ」
言葉が喉に引っかかる。聞きたいことは無数にある筈なのに、どれも形を持たないまま胸の中で渦を巻くだけで力にはなってくれなかった。どうやって膨大な時間を越えたのか、その平然とした顔の裏に何があるのか。なぜ最初から教えてくれなかったのか――それらは互いに絡み合い、ほどけることなく一つの醜い塊になっていく。
やがて、それは大して装飾される事もなく、たった一つの純粋な問いに収束した。
「なんで、今さら……」
喉元までせり上がった言葉は、そこで崩れ落ちた。責めたいのか、それともただ会いたかったと縋りたいのか、自分でも判別が付かない。問い詰めたい気持ちと、どうして生きているのかという疑念が絡み合い、胸の奥で濁った渦を巻いているのに。どれも輪郭を持たず指の隙間から零れ落ちていく。
ヘルタはそんな私を前に、ほんのわずか思案するように視線を落とし、やがて肩を軽く揺らした。
「別に」
乾いた音のような声だった。温度も重みもない。
「ただタイミングが合っただけ」
その一言が、胸の奥に沈んでいたものを乱暴に掻き回す。
「……ふざけないで」
吐き出した瞬間、視界が鋭く尖り、気づけば彼女を睨み付けていた。喉の奥が焼けつくように熱く、押し込めていた感情が罅割れた器から滲み出す。
「こっちは……」
言葉が続かない。息が絡まり、肺がうまく膨らまない。
「そんな、軽い話じゃないの」
返事はない。ただ機械の低い駆動音だけが、やけに鮮明に耳へ纏わり付く。せめて何か言ってほしい。慰めでもいい、言い訳でもいい、怒鳴り返してくれても構わないから。
けれどヘルタは沈黙を選び、その静けさが逆に私の内側をかき乱していく。張り詰めた糸が一本ずつ切れていくような感覚に耐えきれず、「……もういい」と力なく呟いた。深く息を吸い込み、震える肺を無理やり落ち着かせる。
「頭が追いつかないから、ちょっと……一人にして」
そう告げても、気配は微動だにしなかった。視線を向けなくても分かる。まだそこに居る。背後に立つ影のように確かに存在している。
それだけで空気が重く淀み、呼吸の仕方さえ忘れそうになる。
「出てって」
今度ははっきりと言葉にする。それでも返事はない。
「ねぇ」
呼びかけても沈黙は崩れない。昔からそうだった。この人は一度だって、私の願い通りに動いた事はない。
「……聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
ようやく返ってきたのは、あまりにも普段通りの声だった。
「聞こえてるけど無視してるのが分からないの?」
「……は?」
拍子抜けするほど平坦な声で、つい間の抜けた声が漏れる。ヘルタは悪びれもせず、むしろ当然のことのように言葉を重ねる。
「せっかく100年ぶりに再会したのに、追い出されるなんて理不尽じゃない?」
その軽薄さが、現実味を帯びて胸へ突き刺さる。もう怒鳴る力は残っていなかった。声は掠れ、かすかな息に紛れる。
「お願いだから……一人にして」
ヘルタの口元が、ほんのわずかに緩む。その形を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた記憶が水面へ浮かび上がるようだった。ああ、この笑い方を知っている。相手が困れば困るほど愉しげに目を細める、あの頃と何ひとつ変わらない、意地の悪い笑みだ。
「状況整理なら、私が居た方が効率いいよ」
淡々とした声が空気を切り裂くように落ちてくる。温度のない言葉なのに、逃げ場を塞ぐような強かさがあった。
「疑問も私が居ればその場で解決できるし」
「そういう問題じゃない……っ」
気づけば声が荒れていた。喉の奥が焼けるように痛む。何が違うのか、どこが違うのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、説明しようとする度に思考は絡まり、解決する所か雁字搦めに締め付けられていく。
怖い。ただそれだけが胸の奥で鈍く脈打っていた。現実を真正面から受け止める事がどうしようもなく恐ろしい。けれどそれを口にした瞬間、自分の弱さを白日の下に晒すことになる気がして、どうしても言えなかった。
ヘルタは静かに目を細める。私の沈黙だけで凡そを読み取ったかのように。
「一人になりたいんじゃなくて、ただ私と向き合うのが怖いだけでしょ」
その声音は予想していたよりもずっと穏やかで、だからこそ逃げ場など何処にもなかった。まるで胸の奥へ冷たい刃がまっすぐ差し込まれたようだった。隠していたものを一息で暴かれ、顔に熱が点り、呼吸が浅くなる。
「ちがう」
「違わないよ」
一歩、距離が詰まる。床を踏む音は微かなのに、そのわずかな変化だけで空気が重くなる。肺がうまく膨らまない。
「ねえ、グレイス」
名前を呼ばれた瞬間、存在しない熱を確認しそうになり、胸の奥が軋むように痛んだ。
「……うるさい」
絞り出すように吐き捨てると、ヘルタは小さく息を吐いた。その吐息には呆れも苛立ちもなく、ただ扱いに困る子供を前にしたような、どうしようもない静けさが滲んでいるようだった。
「……っ?」
次の瞬間、白い指先がそっと頬に触れる。ひやりとした温度が肌を撫で、つい息が止まる。
「っ……な、に」
反射的に腕を上げる。振り払おうとした動きは途中で止まった。掴まれている訳でも、押さえつけられている訳でもないのに、身体が言うことを利かない。頬を包む手はさほど力を伴っていない筈なのに、振り払う事だけは出来なかった。親指が涙の跡だけをなぞる。ゆっくりと、まるで存在しないものを確かめるかのように。
「ひどい顔」
声はいつも通り淡々としているのに、その指先だけが場違いなほど優しい。何も返せない。ただ見上げるしかできない。距離が近い。息遣いが触れそうな程で、紫の瞳がまっすぐこちらを映している。
「泣き過ぎだよ。ほら、目が腫れている。せっかく私に似て可愛いのに」
親指が目元を撫でる。かすかな圧が、熱を帯びた皮膚に残り、思考がバラバラになっていく。
その笑みは私の知るヘルタのものではなかった。人を揶揄う為の皮肉も、観察対象を見る研究者の冷たさもない。ただ静かで、柔らかく、触れれば崩れてしまいそうなほど脆い光を宿している。今まで一度も見たことのない表情だった。
「……離して」
喉の奥で擦れた声が零れた。拒絶のつもりだったのに、ヘルタの指は一向に頬から離れなかった。温度だけがやけに鮮明で、ゆっくりと撫でるその動きが壊れ物を扱うように慎重で、だからこそ逃げ場を塞がれている気がして嫌気が差す。
「ねえ、グレイス」
落ちてくる声は静かで、逃げようとする私を雁字搦めに縛り付けた。
「今日眠って、それから目覚めなかったら、どうする?」
胸の奥で何かが跳ねる。その問いは初めてじゃない。眠りに沈む直前、何度も自分に突きつけては、見ないふりをして押し込めてきたものだ。
「……」
「ずっと眠ったまま、時間だけが過ぎていく」
淡々とした声が続くたび、空気が冷えていく。
「……やめて」
「目が覚めた頃には、周りは全部変わってるかもしれない」
「やめて」
喉が締め付けられ、耳鳴りが一層強まる。
「知っている人は誰も居なくなって」
「やめてって言ってるでしょ……ッ!」
叫びは掠れて、それでも止まらない言葉が追い打ちをかける。
「一人だけ取り残される」
その一言が刃のように胸の奥へ滑り込んだ。痛みは遅れて広がり、逃げ場を失った感情が内側で暴れ出す。ずっと目を逸らしてきた未来をそのまま形にされたようで、また息がうまく吸えなくなっていく。
ヘルタの視線は逸れない。視界が揺れ、足元が崩れるような感覚に襲われる。
「ねえ、グレイス」
「黙れ!」
枕元の本を掴み、考えるより先に腕を振り抜いた。鈍い音がして、本は彼女の肩に当たり、そのまま床へと落ちる。避けられた筈なのに、ヘルタは動かなかった。ただ静かにこちらを見ている。
その無抵抗が、余計に私の神経を逆撫でした。
「帰れ!」
今度は水差しを掴んだ。透明な容器が弧を描き、床へ叩き付けられる。鋭い音と共に中に入っていた水が弾け、白い床に冷たい斑点を広げていく。
「帰れって言ってるでしょ!」
手当たり次第に掴んでは投げる。軽い器具が転がり、置物が壁に当たって砕ける。乾いた音が何度も響き、部屋の静けさを引き裂いていく。
「そんな話、聞きたくない!」
それでもヘルタは動かない。避けることも止めることもせず、ただそこに立ち続ける。その姿がどうしようもなく腹立たしい。
「私が……」
喉が焼けるように痛む。涙で視界が滲み、輪郭が崩れていく。
「私がどんな気持ちでいると思ってるの!」
声は震え、壁にぶつかって跳ね返る。
「怖いに決まってるでしょ!」
最後に投げた置物が壁に当たり、乾いた音を残して砕け散った。その瞬間、すべてが途切れる。音も、動きも、怒りさえも。
残ったのは荒い呼吸だけだった。肩が上下し、指先は震え続ける。静寂が重くのしかかり、時間が止まったように感じられる。
やがて、ヘルタがゆっくりと立ち上がった。散らばった破片や濡れた床に一度だけ視線を落とし、それからこちらを見る。
「今日は帰るよ」
その声には何も乗っていなかった。怒りも、呆れも、責める色も。
「……もう来ないで」
掠れた声で絞り出す。ヘルタは答えない。何かを言いかけるように唇がわずかに動いたが、結局そのまま閉じられる。
踵を返し、扉へ向かう。ドアノブに手をかける直前、背中越しに小さく息を吐いた。その音だけが残り、彼女は部屋を出ていく。
扉が閉まる。乾いた音が胸の奥に響き、やけに長く尾を引いた。
力が抜け、私はベッドへ崩れ落ちる。散乱した物も、床に広がる水も、視界に入っているのに遠い。何も手を伸ばせない。ただ乱れた呼吸を必死に整えながら、震える身体を抱き締めることしかできなかった。