憑依八神君がどうにか綾小路を退学にさせようと奮闘する話 作:bb
──翌朝、教室に八神が姿を見せるとクラスの視線が一瞬だけそこに集まりざわめきを生んだ。
彼の左頬には、痛々しい腫れを隠すようにガーゼが貼られていたからだ。
「八神君……!? その頬、どうしたんですか!?」
登校して早々、それを見つけた七瀬翼が勢いよく駆け寄ってきた。その瞳には隠しきれない困惑と強い心配が浮かんでいる。
「な、七瀬さん……これは、その……」
八神は気まずそうに頬を掻こうとして、痛むのか小さく顔を顰めて手を止めた。
「……昨日、宝泉君に連れ出されてからですよね? まさか宝泉君に殴られたんですか!?」
「ち、違います! これは僕がドジを踏んで、部屋の家具に思いっきりぶつけちゃっただけで……宝泉君は何も悪くありません」
慌てたように両手を振って否定する八神。しかし、その声はあからさまに上擦っており、視線も泳いでいる。
どこからどう見ても、恐怖から加害者を庇っている痛々しい被害者そのものの振る舞いである。
引きつった笑みを浮かべる八神の胸中は、至って冷ややかだった。
勿論この怪我は宝泉と八神の上下関係をより分かりやすく視覚的にする為のもの。
自分が横暴な暴力を振るう宝泉に無理やり従わされている可哀想な優等生、というポジションを確立すればするほど周囲の警戒は宝泉だけに集まり、八神自身は死角に入ることができる。
単純だが効果的、それに七瀬のような一部の人間だけは気づける。八神は宝泉のやり方に反発したのではなく、あくまで綾小路清隆を退学にさせるという意思に反発したのだろうと。
「八神君……本当に、言えないような目には遭っていませんか?」
「本当に大丈夫だから。心配してくれてありがとう、七瀬さん」
怯えを隠すように健気に微笑む八神を見て七瀬は唇を噛み締め、自分の席で足組みをしてスマホを弄っている宝泉を強い眼差しで睨みつけた。
八神はその隣で、彼女の横顔を縋るような眼差しで見つめていた。
──一夏とは別方向で面倒なタイプだな。
今回の試験、一度パートナーを組んでしまえばどうやっても取り消す事はできない。綾小路は慎重にその相手を選ぶ必要がある故に時間的猶予はあるだろうが、天沢と七瀬のスタンスが分からない以上八神は不安だった。
昨晩した宝泉との話し合いを思い返す。
合同筆記試験を利用して二年生を狙うと発言した後の話を。
「──今回の試験で、綾小路先輩以外の二年生を可能な限り脱落させる」
この合同筆記試験は必ず一年生が余るよう設計されている。
極論だが、Dクラスの学力が低い生徒達に誰一人パートナーを選ばせず試験当日を迎えさせ、二年生の学力が低いせいで余った生徒とランダムで組ませる事ができれば点数から5%引かされるペナルティも含め10人以上を退学にさせる法外なやり方もある。
「そりゃ良い。だが、無差別にってわけじゃねえよな?」
「もちろん、ターゲットは絞らせてもらう。二年生全体の戦力を削ぎ、尚且つ一年生に構っていられるほど余裕のない状況にする。そして、その対策をされない為に水面下で綾小路先輩を狙い続けるのが理想の構図だ」
綾小路清隆退学試験の存在を認知している他クラスの代表者にかけあい、全クラスに存在する学力が低い生徒を同じように使えばそれだけで大勢の二年生を退学に追い込むことだって可能だが──それは既に破綻していた。
昨日の時点で、相当な数の一年生がペアを組んでいる。理由は放課後に開催された二年Bクラスによる交流会が主だ。つまり今回の試験で二年Bクラスは狙えない上に、一年生はパートナーを既に選んでしまっているクラスの損が少ない。
その不平等な状況で他クラスと契約を結ぶのは難しい。
「で、具体的なやり方は?」
「宝泉君が表に立って行う作戦なんだ、もちろん宝泉君にお似合いの作戦で行くよ」
ある程度工作はするが、どれだけその裏に仕組まれた策を見抜こうと行き着く先は宝泉でなければならない。
まずはターゲットを決める段階、データだけでは分からない二年生達の人間関係をこの短い期間で知る必要がある。
「ここまでやらなくても、案外簡単に綾小路を退学にできたりしてな」
「だったら良いんだけどね、まぁ念の為だよ」
そんな会議をしていたわけだが、我慢できなくなった宝泉がちょっかいをかけにいく可能性も考慮する必要がある。
どこかに被害を集中させるのだって愚策、暴れすぎては月城含むホワイトルーム側の協力が今後見込めなくなるかもしれない。
七瀬は上手く泳がせるつもりだが、自分から一番近い場所にいる以上は八神自身も慎重に動かなければならない。
──手間はかかるが、邪魔をするようなら排除も視野に入れるか。
「おいてめえら、昼休みは二年の所に乗り込むぞ。拒否権はないぜ」
その声を聞いて顔を上げると、不敵な笑みを浮かべた宝泉が目の前に立っていた。
◇◇◇
昼休みの時間を使い、八神と七瀬は宝泉に連れられ二年生のフロアへ偵察に来ていた。否、この場合は偵察ではなく殴り込みと表現した方がもはや適切かもしれない。
勿論そんな事をしそうな人間は宝泉だけであり、そんなことにはならないよう七瀬が後ろで目を光らせてはいるが。
彼女は友人である八神を傷つけたであろう宝泉に対し、静かな怒りを抱いているのが見て取れる。
しかし八神の穏便に済ませたいという意思を尊重し、宝泉と衝突する事まではしなかった。
二年生フロアのど真ん中を我が物顔で歩く宝泉の情報はすぐに伝わったらしい。
目的の教室前まで差し掛かったその時、正面から迷いのない力強い足取りで二人の生徒が歩み寄ってきた。
「手間が省けたぜ。おい七瀬、OAA開いとけ」
一人は、周囲の空気を一瞬で引き締めるほど凛とした佇まいの少女。そしてそのすぐ隣で威嚇するように肩を揺らして歩くのは、鮮やかな赤髪を逆立てた大柄な男子生徒だ。
「こいつらの名前は?」
七瀬は先程起動させたOAAで目の前に立つ二人を調べる。
「──出ました。二年Dクラス、堀北鈴音。学力A-です」
「男の方は」
「同じくDクラス、須藤健。学力E+です」
それを聞いた瞬間、ハッと心の底から人を馬鹿にするような笑い声が宝泉からわざとらしく漏れる。
「見たまんまのバカみたいだな?」
「なんだと!?」
「私は、一年Dクラスの七瀬と申します。そしてこちらが同じくDクラスの──」
早速一悶着ありそうな気配を感じ取った七瀬は一歩前に出て自分の名を名乗り始め、そのバトンを横の二人に渡すことでこの流れを止めようと考える。
「宝泉だ」
「八神です。今日は、僕達が一年Dクラスを代表して先輩達に会いに来たんです。筆記試験のパートナー選び、難航してたんじゃないですか? 堀北先輩」
時間が限られている中宝泉のペースで話を進める気はない為、八神は自己紹介と共に即本題へとうつった。
「横の彼と違って、貴方と七瀬さんはまともな会話ができそうね。つまり、Dクラス同士でパートナーを組みたいと判断してもいいのかしら」
「あぁそういうこった。だが、お願いするのは俺らじゃねえ。お前らだぜ? そもそも今回の試験、お前ら落ちこぼれクラスじゃ学力が高い生徒同士を組ませることすら難しいだろ」
宝泉の言うことは概ね正しい。まず二年Dクラス含む、学力がEに近い生徒を抱えるクラスが最優先で行うべきなのは学力がB以上の生徒と組ませ退学を回避させること。
しかし一年生にはその必要がない。
個人報酬を逃してまで二年生を救うともなれば、その分の対価を要求するのはある種当然である。
「俺達が指名してやらなきゃ、まともなペアも組めないよな? だからバカで無能なお前らに手を貸してやるよ。後は分かるだろ?」
話にならない、そんな呆れた表情を隠さず宝泉の言葉を無視して堀北は八神へと視線を向ける。
「宝泉君の言い方は良くないですが、僕達一年生は先輩達に比べてそれほど危機感を抱かなくていい試験になってきます。実際、宝泉君の指示でまだ一組もペアを作ってはいませんが学力A付近の生徒には声がかかってる状況です」
「その通り、俺らは三ヶ月プライベートポイントが支払われないとして最大でも24万を失うだけ。しかもそれが頭の悪い雑魚ともなりゃ余計にどうでもいいんだぜ?」
「──っ」
堀北は宝泉の言葉に含まれた、クラスの何人かは五百点を下回ってもいいという意図に気づき下唇を噛む。
ほとんど同じ状況にあるDクラス同士でも、ペナルティが違うだけでここまで差が出るのがこの合同筆記試験だ。
しかし堀北達二年Dクラスが優秀な生徒を競り落すマネーゲームに乗ることは現実的に考えてできない。
そんな中、一年Dクラスが個人賞を捨ててまで堀北達のクラスと組むほどの対価を差し出すなど無理難題だ。
「状況が分かったか? 堀北先輩よぉ」
「あんま調子に乗ってんじゃねえぞ!」
須藤が威圧するように一歩前に踏み出し、宝泉を睨みつける。
だが隣に立つ堀北が静かに手を伸ばし、それを制した。
しかし宝泉の笑みは消えない。それどころか小馬鹿にしたように口角を吊り上げると、胸を張って立っていた須藤の肩に雑に手を置き──そのまま一切の力みもなく押し倒した。
「──うおっ!?」
不意を突かれた須藤は体勢を崩し、盛大な音を立てて廊下に尻餅をつく。
「デカいのはタッパだけか、軽く触っただけだぜ?」
見下ろしながら鼻で笑う宝泉。屈辱に顔を真っ赤にした須藤は、すぐさま怒声を上げて立ち上がり、宝泉へ飛びかかろうとした。
だが、微動だにせず構える宝泉との間に、割り込むように乱入してきた男がいた。
「何やってんだ!」
声の主は、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたCクラスの生徒──石崎だった。
「次から次にゴキブリみたいに湧いてきやがったぜ」
吐き捨てる宝泉の背後から、それまで黙っていた七瀬が毅然とした声を張り上げる。
「宝泉君はここに話し合いをしに来たんじゃないんですか? 暴力を振るうために来たのであれば私達は帰ります」
「暴力だ? こっちは猫を撫でるような気持ちで触っただけだぜ。悪かったなぁ、須藤」
白々しい態度でさらに煽りを重ねる宝泉。
須藤はついに堪忍袋の緒が切れ、割り込んできた石崎もあまりに身勝手で態度の悪い宝泉に激怒し、拳を握りしめて掴みかかろうとした。
「──死にたくなきゃ辞めとけ石崎」
一触即発の場を切り裂いたのは、廊下の奥から悠々と歩み寄ってきた男──龍園翔。
中学時代、地元で異名を轟かせていた不良集団の頭である龍園と宝泉。
噂話で互いの存在と悪名は耳にしていたものの、二人が直接顔を合わせるのはこれが初めてだった。
だが、互いが放つ異質な殺気と凶暴さだけで、瞬時に相手が何者であるかを察していた。
石崎を落ち着かせ、龍園はその場を離れようと踵を返す。その彼のすぐ後ろには、どこか突っけんどんな雰囲気を纏ったショートカットの女子生徒──伊吹の姿があった。
そして龍園と遊びたがる宝泉の目ざとい視線が彼女へと向けられる。
「そっちの女もお前の兵隊か?」
「ま、そんなところだ」
龍園の気のない返答に、不快感を露わにした伊吹が速攻で言い返した。
「は? 誰が?」
宝泉は鼻で笑いながら、つかつかと龍園の前まで距離を詰めると、見下ろすように言葉を吐き捨てる。
「女でも兵隊に使うんだな龍園」
挑発的な視線を受け止めた龍園は、フッと笑みを浮かべると、宝泉の後ろに控えている七瀬へと視線を移動させた。
「お前こそ、随分と可愛げのある兵隊連れてるじゃねえか」
その言葉を聞いた七瀬は、チラリと隣に立つ八神の顔を見た。
八神は男子生徒としては小柄で整った可愛らしいルックスをしているが、龍園の今の言い方はどう考えても七瀬に向けられたものだろう。
七瀬の視線に気づいた八神と目が合い、七瀬が思わず視線を逸らしたその時、宝泉が言い放った。
「こいつは兵隊じゃねえよ。ま、そんなことはどうでもいい。遊ぼうぜ龍園」
「やらねーつったろ」
「そうかよ。だったら──」
言葉を発する間もなく宝泉の前腕が伸び、そのまま伊吹の喉元を力任せに締め上げ、その華奢な身体を容易く宙へと吊り上げる。
「ぐっ……!?」
突如として足場を奪われた伊吹が、息を詰まらせて必死に抵抗する。その苦しむ姿を見下ろし、宝泉は歪んだ愉悦を表情に浮かべて凶悪に笑った。
遊びたくて我慢ならなかった宝泉が伊吹を捕まえて楽しそうにしている様子を八神は見物したいところだったが、これ程の騒ぎを起こしても二年Aクラスの生徒が姿を見せないなら意味は薄い。
CとDについては事前に得た情報も込みで概ね理解したが、Aクラスにはまた別のアプローチで近づく必要があると八神は判断し一先ず宝泉を止めようとする。
「ちょっと待ってください、いくらなんでもやりすぎです宝泉君!」
見かねた八神が慌てて駆け寄り、宝泉の逞しい腕を掴んで制止に入る。だが宝泉は一切動じることなく、冷ややかな殺気を孕んだ眼差しだけを八神へと向けた。
「何か言ったか? 八神」
思わず後ずさってしまうほどの威圧感。伊吹の首を拘束する腕に弛みはなく、離す気配など微塵も感じられない。
その一触即発の場に、七瀬が宝泉にとって致命的な一言を叩きつけた。
「宝泉君やめてください。これ以上無駄なことをするようなら、この場でアレを周知させることも視野に入れます」
静かだがハッキリとしたその警告に、宝泉の眉が不快そうに跳ね上がる。
チッ、と短く舌打ちを鳴らすと宝泉は拘束を解き、伊吹の身体を床へと粗雑に放り投げた。
「はー、冷めちまったぜ。止めだ、目的は果たしたことだし帰るぞ」
「それが賢明です」
そこに騒ぎを聞きつけて現れた一年Dクラス担任の司馬が現れた事で周りの生徒達も熱が冷めた、というよりは巻き込まれたくなかっただけだろう。それぞれのクラスへと散っていくのが見て取れる。
「先輩方、宝泉君に代わって謝罪します。入学早々迷惑をかけて申し訳ありません。あんな事をした手前図々しいお願いなのは分かってますが……堀北先輩にはまた今度、試験について話す機会を作って欲しいんです」
八神は龍園や堀北達に深く頭を下げ、誠心誠意謝罪した。
宝泉はかなり高圧的で強引な言い方をしたが、一年Dクラスも可能な限りはペナルティを回避したかったわけで。
やはり両者が得できるのはDクラス同士で取引をする事だろうと考え、八神は失礼を承知で堀北に頭を下げていた。
「おい八神、何してんだ。さっさと帰るぞ」
「あ、はい! それじゃあ先輩方、お騒がせしました。また見かけたら、声をかけさせてもらいますね」
そう微笑み、もう一度頭を下げて宝泉達の元へ歩いていった。
二年生のフロアから離れ、人気のない廊下を並んで歩く三人の間に言葉はなく、八神だけは何度か口を開いて七瀬に話しかけようとしたが宝泉の手前であの話題を出せるはずもなく断念した。
この場で話してもいいが、できれば綾小路清隆退学試験に対する七瀬のスタンスは二人きりで話して知りたいと八神は考えていた。
七瀬からの信頼を得たいのに宝泉の前で話しては逆効果すぎる。
宝泉はこの柄の悪さで頭も回るし割と理性的なのだが、その実自分の欲求を満たせるならそちらを優先するきらいがある。
あまり彼を頼りすぎては、意図しない所で命綱から手を離されてしまうかもしれない、それは避けたい。
──大人しく放課後まで待つか、まずは一つずつ片付けよう。
◇◇◇
放課後、八神は予定通り七瀬をデートに誘う。宝泉には勘づかれたくない──と装うため、多少周りに勘違いされたとしても妥協するしかない。
「七瀬さん、あの……! 僕と、出かけませんか? ケヤキモールもまだ全然回れてないですし、息抜きしたいなって思って」
「いいですけど……八神君は私とで良いんですか?」
八神はその言葉を受け、頷きながらわざとらしく宝泉に視線を向ける。
宝泉の前ではできない話がしたい、そんな意図を含めたアイコンタクト。
昨日の今日だ、それに気づけない七瀬ではない。
「分かりました、行きましょう八神君」
教室を出て、そのまま放課後のケヤキモールを歩きながら八神は頭の中で考えていた。
もし自分が普通の男子高校生で同じ状況にいたら、七瀬翼に対してどう接していたのだろうと。
八神は今、目的の為に打算ありきで演技をしている。だがいざ自由になったら自分には何ができるのか全く想像がつかない。
だからこそ、その過程で彼女──彼らの未来を阻んでしまうことに一切の抵抗や罪悪感が湧かないのだろう。
「八神君、あのお店でお茶しませんか?」
「いいですよ、僕もちょうど一休みしたいところだったので」
喫茶店に入り、適当に注文を済ませ周囲に生徒が居ないことを確認すると。
「では、単刀直入に聞かせてもらいます。七瀬さんはアレについて聞かされたんですよね。どうするつもりですか?」
「まだ決められてません。私は2000万ポイントという報酬よりも──綾小路先輩がどんな人間なのか、その方が重要だと思ってます」
これは恐らく彼女の本音だろう。学校の仕組み上、自分達以外の生徒を貶めて上を目指すことは否定しない。しかしその相手が善良な人間なら、多少なりとも罪悪感が湧くのは当然の思考回路。
八神が重要視しているのは、そんな真っ直ぐで正義感の強い人間が恨みによってどこまで非道になれるのかという部分。
「なるほど。極端な例えですけど、綾小路先輩が宝泉君みたいな性格だったら退学させてもやむなし。そうではない、巻き込まれた側の人間なら抵抗があるってことですか?」
「だいぶ極端な例ですけど、まさにそんな感じです。でも何もやましい事がない普通の人が、こんな懸賞金をかけられて学校全体を巻き込むような目にあうとも思えません」
七瀬自身、まだ覚悟が決まってないのだろう。全てを話さなくとも、彼女の事情を知っている八神はその言葉に秘められた葛藤に気づいた。
──中途半端が一番困るんだよな。
「僕は、昨日宝泉君に話を聞かされてすぐには頷けませんでした。先輩を退学させてお金をもらうなんて、単純に気分が悪いですから。でも、ここはそういう場所だって言葉と一緒に痛いのを一発もらっちゃって」
自身の頬を指さし、苦笑いする。どう足掻いてもこれだけは隠し通せないだろう、七瀬も最初から気づいていたので特に驚かない。
七瀬が気になったのは、それによって八神は意見を変えたのかどうかという点。
「やっぱり宝泉君にやられたんですね。じゃあ八神君は、宝泉君に従うことにしたんですか? 綾小路先輩を退学させることに」
「宝泉君の前ではそう言いました、というかそれ以外に選択肢がなかったので。結局、脅されたとはいえ先輩より自分の身を優先したわけですから、僕も大概薄情な人間ですよね。だったらいっそのこと割り切って、Aクラスで卒業する為の一歩だと考えた方が楽かなって」
綾小路を退学させるのはあくまで宝泉の意思、宝泉がそうすると言うのだから八神もそうするしかない。その残酷な上下関係を七瀬に理解させ、もし七瀬が宝泉に反抗する際──綾小路を守ろうとする際、八神はそれをすぐ知れる立場にいなければならない。
「八神君は間違ってないですよ、誰だってその選択をすると思います。誰もが、宝泉君みたいに力で人を従えたりできるわけではありませんから」
「ありがとう七瀬さん。そう言ってくれると、いくらか楽になれますよ。七瀬さんは強い人ですよね。芯があるっていうか、自分を見失わない心の強さみたいなものを感じます」
「──っ」
七瀬は思わず小さく息を飲み、テーブルの下でぎゅっと拳を握る。八神は愛想の良い笑みを崩さず、それ以上は何も言わなかった。
ドリンクを飲み干し、立ち上がった八神は解散を提案する。
「そろそろ帰りますか。また七瀬さんの考えが固まったら宝泉君抜きで話しましょう。僕は今のところ宝泉君に従ってますが、宝泉君と七瀬さんなら迷いなく七瀬さんの味方をするつもりです」
真っ直ぐな瞳で七瀬を見つめる。一先ず、七瀬翼は泳がせていいと八神は判断した。現時点で彼女が敵に回る可能性は低く、例え綾小路に敗れて懐柔されたとしても構わない。
彼女からの信頼さえ勝ち取れば、宝泉が潰れた際の保険として十分利用できる。
もっとも、その時が来るまでは宝泉を優先する。それだけの話だった。
「ありがとうございます、八神君。もしもの時があれば、頼りにさせてもらうかもしれません」
「させてもらうかも、じゃなくて頼りにして欲しいですけどね」
夕闇が空を淡い茜色に染め上げる帰り道。
先程までの喧騒が嘘のように、二人を包む空気は穏やかで心地よい静寂に満ちていた。
並んで歩く歩幅をふと緩め、八神が少し気恥ずかしそうに頬を掻きながら切り出す。
「あのさ……良ければタメ口で話してもいいかな。普段は誰に対しても丁寧に話すよう心がけてるんだけど。ほら、七瀬さんは……友達だから、敬語じゃ少し距離がある気がして」
突然投げかけられたその言葉に、七瀬は一瞬だけ丸く目を見開いた。
だが、八神の少し照れたような笑みと真っ直ぐな眼差しを受け止めると、すぐにその表情を柔らかな笑みへと変え嬉しそうに頷いた。
「ええ、もちろんです」
「良かった。じゃあ、これからは少し崩した感じで話させてもらうね。七瀬さんも、僕に対して敬語を崩してくれていいんだよ?」
八神が問いかけると、七瀬はどこか可笑しそうにクスッと小さく微笑み、首を横に振った。
「いえ、私の場合は誰に対しても敬語で話すのが癖というか、素なんです。だから私はこのままの話し方でいさせてください。ですが気持ちは同じですよ。私も、八神君のことを大切な友達だと思ってますから」
はっきりと口にされた友達という言葉にはどこまでもまっすぐで温かい気持ちだけが宿っていた。
「そっか……ありがとう、七瀬さん」
八神は心からほっとしたように、どこか幼さの残る笑みを浮かべた。
二人を繋ぐ空間に甘い恋愛感情のようなものは一切存在しない。あるのは互いを尊重し、過酷な学校生活の中で互いを支え合おうとする確かな信頼と絆の芽生えだった。
夕日に伸びる二つの影が並んで揺れる。二人は互いに表情を綻ばせながら、弾むような会話とともに静かな帰路を仲睦まじく歩んでいった。
しかしそれは一年生の寮に辿り着くと同時に終わりを告げる。
「──よっ後輩君、俺は二年Aクラスの橋本だ。合同筆記試験について話したい事があるんだが、少し時間いいか?」
──来た、絶好のカモが。