憑依八神君がどうにか綾小路を退学にさせようと奮闘する話 作:bb
船が着岸作業を終え、一年Aクラスから順に船を降り始める。
スタート地点は港──マップ上で言うD9エリアだ。
照りつける日差しの中八神達一年Dクラスが無人島へ降り立ったそのタイミングで午前九時を迎え、アラート音がそれぞれの腕時計から一斉に鳴り響く。
それは即ち、無人島試験が始まり最初の指定エリアが発表されたということ。
八神は淀みのない動作でタブレットを取り出すと、液晶画面に表示されたマップの詳細を確認し始めた。
隣に立っていた天沢が退屈しのぎと言わんばかりにその画面をひょいと覗き込む。
「最初の指定エリアはD7ね。ここから北に真っ直ぐ進むだけじゃん」
「二年生がこれから下船を始め、三年生はその後になることを考えればこれは一年生だけに与えられた一回限りのアドバンテージってところかな。とりあえず向かおうか」
課題が解禁される十時までは指定エリア以外に目指すべき目標がない為、どのグループもそれぞれの指定エリアへ行動を始めている。
宝泉が退屈そうに肩を回しながら歩き出し、八神達もそれに続いて足を進める。四人は足並みを揃えるようにして最初の指定エリアであるD7を目指した。
道中、木々に囲まれた道を進みながら八神はグループの今後の方針について語る。
「これからの動き方だけど、D7に着いた後は周りの課題次第で二人一組に別れて別行動をするべきだと思ってる。グループ内の誰かが指定エリアを踏めばペナルティは受けないし、最後の指定エリアで合流って形でどうかな?」
「初日はランダム指定もありませんし、それでも良いとは思いますが……着順報酬を捨てても大丈夫なんでしょうか」
七瀬の言葉に、八神は頷いて見せた。
「初日は焦らずこの場所に慣れることと、他学年がどう動くのかを少しでも確認しておくべきだよ。たった一日じゃ同じテーブルのグループを正確に知ることはどちらにせよできないしね」
着順報酬を狙わずとも、指定エリアの到着報酬と課題さえこなせたら相応の得点を稼ぐことができる。
上位を狙うことよりも綾小路の退学へ舵を切っている宝泉グループが優先すべきなのは敵を知ること。
──得点を稼ぎすぎて三年生に目をつけられる、これが今のところ一番面倒な展開かな。
それを避けるためにも、天沢と八神である程度得点をコントロールしていく必要がある。
タブレットで現在地を確認しながら森の中を進み、程なくしてD7へ到達。道と言えるほど整った足場ではなかったが、宝泉が先導してくれたおかげで他のグループよりも早く辿り着くことができた。
一位の着順報酬と四人分の到着報酬を足し、計14点を獲得。
順調な滑り出しではあるが、二回目の指定エリアからは上級生と対等に争わなければならない。
このアドバンテージを考慮しても、一年生が上位を維持するのは厳しいと言える。
「課題が解禁されるまで休みますか、同じテーブルかもしれないグループも知りたいし……って言ったそばからどこに行くのかな? 宝泉君」
「暇潰しだ」
「ええ……あんまり離れ過ぎないでよー!」
遠ざかっていく宝泉の耳に届いた八神の声は、指図すんじゃねえよと言わんばかりに無視される。
岩場に腰かけて一息ついている天沢と七瀬を横目に、八神は辺りを見渡す。
現在地はD7の中央だが、周りに見える生徒は決して多くない。例え同じエリア内に居たとしても、この環境では顔を合わせられずすれ違うことも多いのだろう。
「宝泉君が周りにいる生徒達を見に行ってくれたならありがたいけど……望み薄かな」
「どうだろうね、カブトムシでも捕まえに行ったんじゃない?」
軽口も挟みながら課題解禁まで待ち続ける。時間が経ってくると二年生や三年生の姿も段々と見えてきた。
その中には、彼らが狙う綾小路の姿も。
──流石に同じテーブルか?
ホワイトルーム生が一つのグループに集まり、尚且つ綾小路に因縁のある七瀬もメンバーであることを考えれば月城がテーブルを合わせてくれると考えてもいいが──やはり確証は欲しい。
そして課題が解禁される午前十時──生徒達は一斉にタブレットを開き表示された課題の位置と内容、得られる報酬を確認する。
現在地から最も近いのはD7の左上に出現している火起こしの課題。
後はE7の英語テスト、D8の地理テスト、C6の男女別握力測定が近場の課題だ。
「宝泉君、帰ってきませんけど……どうしますか? 八神君」
「恐らく宝泉君はC6の握力測定に向かうと思うから、僕はそこを目指すよ。七瀬さんと天沢さんは二人一組で別の課題に向かって欲しい。スタート地点から近いD8は競争率が高いだろうから、E7に行ってみたら良いんじゃないかな?」
宝泉なら得意分野を選ぶだろうと考え、近場ならC6の握力測定が第一候補となる。
加えて宝泉の単独行動は織り込み済み。八神がある程度単独で動く口実を作るため、事前に打ち合わせておいたのだ。
「慣れない場所を一人で歩くのは大変だと思います。保険のカードがあるとはいえ心配です、八神君にもしものことがあったら……それに宝泉君と合流できなかったらどうするんですか?」
「明るい内は現在地を確認しながら歩けば迷うことはないし、もし合流できなくてもそのまま西側の課題と指定エリアを回っていくよ。大丈夫、ペース配分はちゃんと考えるから」
その言葉に渋々納得した七瀬は天沢に連れられE7の課題へと足を進め始める。
「八神君も気をつけてね〜!」
手を振りながら遠ざかる天沢達に手を振り返し、八神もC6に向けて移動を開始する。
現時点で出現している課題は十四箇所。単独で参加している生徒は確実に得点を得られるジャンルを選ぶ必要があるのは勿論、高い競争率の中他のグループよりも早く参加できる課題を見極めることが求められる。
ランダム指定がない初日は最初の指定エリアから近い課題に向かうのが定石。
C6の課題へ40分ほどかけて到着した八神は汗を拭いながら木に背を預けている宝泉の元へ歩み寄り。
「もうエントリーは済ませましたか?」
「とっくにな。どうせ他の雑魚共じゃ相手にならねえんだからとっとと終わらせて欲しいぜ」
他学年を含めても宝泉の腕力に敵う生徒などそう居ないだろう。ホワイトルーム生の八神から見ても、彼の肉体はあまりにも恵まれすぎていると言える。
生徒達の握力測定を見物しながら、惜しくも課題に参加出来なかった綾小路と一之瀬クラスの担任──星乃宮知恵の会話に聞き耳を立てる。
──彼女の可能性は低そうか……少なくとも僕なら選ばない。
星乃宮から解放され別の課題へ向かった綾小路を追うことはせず、手堅く一位を取った宝泉と共に一つ隣のB6まで移動し課題を確認。
そのまま西側の課題を回ってみるが、どれも参加できずに終わる。
「やっぱ三年は固まってんな」
「予想通りだね。まずは課題を学年で独占し、そこから競い合う。運要素が強い試験とはいえ一年生や二年生が表彰台に立つのは、中々厳しそうかな」
そのまま二度目の指定エリアが発表されるが、ちょうど宝泉と八神が居るB7が指定され着順報酬は得られず到着報酬の2点を重ねる。
そして三度目の指定エリアは一回目の指定エリアと同じD7。
最後の指定エリアで合流する約束をしているので宝泉と共にD7へ到着。
「お〜い! こっちこっち〜!」
手を振る天沢達の元へ駆け寄り、テントを張ってキャンプの準備を始める。
初日の時点で宝泉グループが得た得点は25点。四日目まではある程度稼ぎつつ、上位十組の内訳が発表された後は抑え目に動くのが合理的と言える。
「それなりに課題を回ってはみたんですが、どれも参加すらできなくて。八神君の方はどうでしたか?」
「僕達も似たような感じかな。宝泉君が一回だけ課題で一位を取って、それ以降は参加出来なかった。初日だし大体のグループが島の南西に固まってただろうから仕方ないよ」
それよりも──と言葉を続け。
「B7で先輩を見かけたけど、ここには居た?」
「居た居た。ちょうど二人よりも先に着いて、そのままE7の方に向かってったよ」
単独参加の生徒も夜は別グループと同じ場所でキャンプを行うことはできるが、それをするなら最初から単独参加などしないだろう。
勿論闇討ちは選択肢の一つだが、綾小路がその可能性を考慮していないはずがない。
加えて、綾小路にアプローチを仕掛ける前に済ませなければいけないことが多すぎる。
──焦らず冷静に……一つずつ終わらせていこう。
「あの……先輩が同じテーブルか確認する為にも、私が同行をお願いしてみましょうか?」
「あ? 却下だ。勝手なことはするんじゃねえよ」
七瀬から告げられた提案は宝泉に拒まれる。当初は七瀬を泳がせても良いと判断していたが、この無人島試験に限っては状況が変わってくる。
彼女と綾小路を可能な限り接触させない──それが宝泉と八神と天沢の共通意識だ。
◇◇◇
二日目を迎える。テントを片付け、携帯食と水で手早く朝食を済ませた八神達は二日目最初の指定エリアを確認した。
「最初の指定エリアはE8。現在地がD7だから、目と鼻の先だね」
「同じテーブルの連中も大体同じ距離感にいるってことだろ、朝っぱらから走りたくはねえな」
宝泉の言う通り、距離が近い分だけ他のグループも雪崩れ込んでくる可能性が高い。
しかし着順報酬に固執せずとも、グループ全員で指定エリアを踏みさえすれば確実に到達報酬として4点が得られる。八神達は無理に走ることもなく、落ち着いた足取りでE8へと向かった。
結果として着順報酬こそ逃したものの、4点を加算して現在の得点は29点となる。
「さて、ここからは二人一組に分かれて課題を狙いに行こうか」
課題は得点を獲得するだけでなく、水や食糧といった貴重な補給物資を得られるチャンスだ。
何より課題の参加条件は男女二人組であったりグループから一人だけであったりと、四人全員での参加を求められるものは現状少ない。
手分けした方が圧倒的に効率が良いのは自明の理。
「今日は僕と天沢さんでペアを組んで学力系の課題を、宝泉君と七瀬さんでペアを組んで運動系の課題を中心に回るのはどうかな?」
「異論はねえが……どの課題をやるかは俺が決める。七瀬、足引っ張んじゃねえぞ──あと八神、これ持っとけ。合流できねえ可能性もある」
連絡用のトランシーバーを八神に渡す。
その後宝泉と七瀬が別方向へと歩き出したのを見送り、八神と天沢も行動を開始する。
二人は周囲の課題を吟味しつつも報酬が得点のみの課題はあえて見送り、体力を温存しながら二回目の指定エリア発表を待つ戦略を取った。
やがて訪れた二回目の指定エリア発表──次に目指すべきはE6。
二人でエリアを踏み2点を獲得。それ以上得点が増えていないのを見るに、宝泉達は南側のエリアで課題を消化しているのだろうと八神は予想を立てた。
そして十三時、三回目の指定エリアとしてF7が表示される。
ここでも着順報酬は得られないものの、二人で踏んで確実に2点を重ねていく。そしてF7の中央で、二人はある人物の姿を捉えていた。
「……先輩いるね」
「ああ、流石に同じテーブルだと判断していい。向こうもそれは分かってるだろうけどね」
遠目に見えるその姿を確認し、八神は確信する。やはり自分達のグループと綾小路は同じテーブルに選ばれていると。
それは綾小路側も同じこと、自分と同じテーブルのグループを知るためにわざわざ中央まで顔を覗かせたのだろう。
八神達が同じテーブルにいると分かれば、彼は更に警戒を強めるはず。
「ねえ拓……八神君、そろそろあたしらも課題やらない? 暇だし、多分次がランダム指定だろうしさ」
思わずいつもの呼び方が出かけ、気まずそうに肩をすくめる天沢を横目に周辺の課題を確認する。
「そうだね。向かうならF8のクイズか……E5のリフティングかな。報酬が美味しいからクイズに向かうよ」
二人は視線を交わすとF8の課題へと足を進めた。
綾小路は八神達とは逆方向──E5へ向かったと思われる。警戒しているグループと同じ経路を進むのは悪手だと考えたのだろう。
そのままF8エリアに足を踏み入れ、タブレット片手に位置を確認しながら進む。
「どうするの、一位狙っちゃって良い感じ?」
八神は頷いて肯定する。目指している課題の報酬は得点だけでなく追加の物資を選ぶことができるため、手加減をする理由がない。
食糧不足、水不足は常に懸念点だ。
二人はエントリーを済ませ、いざ課題が始まると余裕綽々な様子で問題を目にしたが──そこで表情が固まる。
『ジャンル・アニメ全般』
──?
二人の脳内がハテナで埋め尽くされ、思考が上手くまとまらない。
『第一問・テレビアニメ機動従士ボムダム第十三話のタイトルは次のうちどれ?』
「……八神君分かる?」
「いいや全く」
サブカルチャーは人付き合い程度に触れていたが、流石にこの問題を解けるほどの知識は有していない。
諦めて四択の中から決め打ち、25%を20連続で当てる方向へとシフト。
結果──惨敗。奇跡は起こらず、正答率僅か15%という下振れも下振れで課題を終えた。
そして二人は逃げるようにG8まで移動し。
「いや〜流石に想定外だったね。先輩でも全問正解できなさそうじゃない?」
「どうだろう、一年間でサブカルチャーについての学習も既に終えてたりしてね。まあ過ぎたことは仕方ないから、指定エリアか課題を目指すよ」
「はいはい、相変わらず切り替え速いね〜」
周囲に人の気配がないとはいえ、大っぴらに作戦会議をするわけにもいかず雑談もそこそこに目標へ向かって足を進める。
夕方までは周辺の課題を確認しつつ、最後の指定エリアについては距離次第で向かうか判断する形だ。
今日は合流せず、七瀬は宝泉に任せて天沢と作戦会議を行いたいところ。
十五時を迎え本日最後の指定エリアが発表される。地図に表示されたのはI7──八神達がエリアを踏むには険しい山道を超える必要がある。
迂回してG9から東に進んだとしても時間内に辿り着けるかは怪しい。
無理して指定エリアを踏まなければならないほど得点に余裕が無いわけでもないため、ここはスルーが安定か。
「もしもし宝泉君、今どこです?」
『E7だ。I7はてめえで踏め』
簡潔な返答。宝泉達の現在地がE7となれば、このまま八神達がI7に近づいて次の日に最初からランダム指定が行われたとしてもある程度カバー出来るだろう。
あまり離れすぎると合流が面倒だが、それは宝泉達も理解している。
そして八神達はI7へ向かう気など毛頭ない。
「これ以上歩かずここでキャンプして、明日ランダム指定が来なかったら踏みに行こう。良いね?」
「了解。テント張るの面倒くさいから一緒に寝ていい?」
「……僕が張ってあげるからそこどいてくれ」
唇を尖らせてジト〜っと睨んでいる天沢を意に介さずテントを張り終え、周囲を確認する。
人の気配は無い、G8は山が近いため安定した地形にテントを張るとなれば自然と人が集まるはず。
指定エリアへの移動もある中、わざわざこのエリアをキャンプ地に選ぶグループは居ないということだ。
「今後の方針についてだけど、端的に言うよ。まずは七瀬翼をどうにかするのが最優先だ」
「うわ、端的な割に凄い抽象的。具体的にどうしたいか言ってくれないと力にはなれないニャー」
裏を返せば、どうしたいかを伝えられれば天沢は尽力してくれるということ。
七瀬の存在はホワイトルーム生から見ても異質であり、無視できるものではない。そもそも知り合いが被害を受けたとして、それがホワイトルームによるものだと──綾小路が間接的に関わっていると月城が知らせたことに疑問を抱いていた。
ホワイトルーム生を刺客として送り込むのに、わざわざ一般人にまで手を回す必要はあるのか? と。
否──何か別の役割を与えている可能性が高い。
彼女自身がホワイトルーム関係者で綾小路のことを知っていたとしても、入学しDクラスへ配属されるには月城に手配してもらう必要がある。
──ホワイトルーム生が誰であるかまでは、彼女自身知らされていないはず。となれば僕達の監視役ではない……なら先輩の監視役である可能性も十分に残る。
「僕達が暴れることを危惧して用意した護衛の可能性も現実的に有り得るけど、彼女自身は復讐に重きを置いてるように思える。なんか、チグハグ過ぎて意図が見えてこないんだよね」
彼女が綾小路に恨みをぶつけたところで脅威にすらならない、そう判断した上で送り込んだと考えれば筋は通る。
そして、この考えが合っていれば──七瀬翼はまだ月城の手駒ではないということ。
「一夏がグループに加わった時から決めてたことだ、七瀬さんをこちら側に引き入れる。それが成功してもしなくても、僕が居なくなった後は代わりに七瀬さんを見張って欲しい。邪魔をするようならリタイアさせて構わないから」
了解と間延びした返事を聞いた八神は会話を終え、テントに潜り目を瞑る。味方につけられれば御の字、失敗しても情報さえ引き出せればそれでいい。
◇◇◇
──三日目、山の地形を把握しつつ天沢と共に一回目の指定エリアであるH7へ到達。
その後二度目の指定エリアであるJ5まで直行、手堅く2点を重ねていく。
J6のビーチフラッグスは天沢のみ参加、南雲の姿が見えたことから東側の課題は軒並み独占されると考えられる。
ここで天沢が一位を取り、6点とその他報酬を獲得。
三度目の指定エリアであるH5も二人で踏み、そのままエリア内にある学力系の課題に運良く参加。
二人で手加減なく一位を取り、得点を重ねる。
J5で綾小路の姿が確認できなかったことから、恐らく二日目で北側に移動した弊害が出たのだろう。
H5は踏めていると仮定しても、課題が先程まで西側に集中していたことから今日一日で得点はそう稼げていないと八神は予想していた。
そして最後の指定エリアであるI4に到達、今日は宝泉達と合流するために駆け足でG3までの移動を終える。
「ふぅ、やっと合流できたね。二人の方はどんな感じでした? 得点的には中々好調だったみたいだけど」
「そうですね。運良く近くの課題に連続で参加できて良かったです」
別行動を始めてから、宝泉と七瀬のペアは八神達よりも得点を稼いでいる。現時点で宝泉グループの合計得点は73点。
確実に上位十組には入っているが、今後のことを考えればこのくらいで丁度いいだろう。
──さっさと始めるか。
連日の移動と課題消化による疲労もあり、いつもなら明日に備えて早々に寝る時間帯だ。しかし、どこか決心したような硬い面持ちの八神がゆっくりと七瀬の元へと歩み寄り。
「七瀬さん、少し話があるんだけど……良いかな?」
「えっと、どうかしましたか?」
不意に声をかけられた七瀬はきょとんとしながら首を傾げ、特に拒む素振りも見せずに彼の言葉を待とうとする。
だが八神は焚き火の向こうで気怠そうに横になっている宝泉と、爪を弄っている天沢の姿をチラッと視線で確認すると七瀬の耳元へ顔を寄せ小さな声でそっと囁いた。
「できれば、二人きりで話したいんだ」
八神の真剣な眼差しに気押された七瀬は静かに頷き、二人はその場から少し離れる。
少し離れた木々の隙間──静寂が支配する人気のない森の中へ入ると八神は足を止め、月明かりの下で七瀬に向き直った。
「単刀直入に聞くよ。七瀬さんは綾小路先輩のこと、どう思ってるの?」
唐突な言葉に七瀬は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐにいつもの真面目な顔つきを取り戻し首を横に振る。
「……どう、とは?」
「そのままの意味だよ。前からずっと気になってたんだ、七瀬さんって先輩の話になると少しだけ様子が変わるから」
「……そうでしょうか」
いつものように凛とした態度ではぐらかそうとする七瀬。
「うん、七瀬さんを知ってる人から見れば凄い分かりやすいよ。たまに凄く思い詰めたような顔をしてるから……心配なんだ」
八神は優しく、だが確かな意思を持って七瀬へ一歩近づいた。距離が縮まったことで七瀬は思わず小さく息を呑む。
「どうしても話したくないなら無理に聞くつもりはないよ。ただ、七瀬さんが一人で何かを抱えているなら──僕は七瀬さんの力になりたいと思ってる」
だって──そう言葉を続け。
「七瀬さんは、僕の大切な友達だから」
その純粋で何の計算も感じさせない言葉が、七瀬の頑なだった心を揺らした。
「八神君は……優しいですよね」
小さく息を吐き出すように溢れた七瀬の呟きに、八神は意外そうに首を少し傾げて見せた。
「そうかな?」
「はい。誰に対してもそういうところがあります」
どこか遠くを見るような眼差しで語る七瀬。過酷な無人島という状況下でも変わらない彼の誠実さに、彼女はどこか眩しさと歯痒さを滲ませたような溜息を漏らす。
「そんなことないよ、僕だって親切に接する相手は選んでるさ」
悪戯っぽく唇の端を上げた八神の言葉に、七瀬の緊張で固まっていた表情がわずかに綻んだ。
「ふふ、それなら少し安心しました」
そう言って小さく微笑むと、七瀬の肩からすっと力が抜けていく。
互いの間を隔てていた僅かな警戒心が薄れたのを感じ取った二人は、自然な足取りで近くにあった平らな岩場へと腰を下ろし。
「……申し訳ありませんが、私の事情を無闇に話すわけにはいきません。例え八神君であろうと……話せば、巻き込んでしまうかもしれませんから」
「そっか、じゃあ僕から当てて見せようか。七瀬さんは綾小路先輩に特別な感情を抱いてるよね、例えばそう──恨みとか」
そう口にした瞬間七瀬の目が大きく見開かれ、その顔からは血の気が引いている。
どうして八神がそれを知っているのか──その疑問に答えが出せぬまま、目の前の少年に問う。
「どうして……八神君が、それを……」
蒼白になった顔で、七瀬は途切れ途切れに呟くのが精一杯だった。幼馴染が受けた傷、そしてその怨嗟──自身が胸の奥底に秘め、決して他人に明かすはずのなかった暗い感情を彼はあまりにもあっけなく言い当ててみせたのだから。
そんな七瀬の狼狽を、八神は静かに見つめていた。その瞳から、先程までの温もりが潮が引くようにすっと消えていく。
「驚くのも無理はないよね。勿論、ハッタリでも何でもないよ? 確証があっての発言さ」
ゆっくりと立ち上がり、月明かりを背にして七瀬を見下ろす。その影が長く伸び、七瀬の身体を覆い隠していた。
「僕はね、最初から知っていたんだよ。君がこの学校に来た本当の理由も、胸に抱いている復讐心も──全部ね」
「最初、から……?」
「そう。松尾栄一郎に関する出来事を含め、僕は最初から全部知ってたんだ。間接的に綾小路先輩が彼の身に起きた出来事に関わっていることを知ったからこそ、恨んでるんだろ?」
決定的な名前が八神の口から出た瞬間、七瀬の思考は完全に停止した。何故彼がその名を知っているのか。この学校の生徒はおろか、外部の人間すら知り得るはずのない過去の事実。
混乱に打ち震える七瀬に対し八神は静かに、しかし決定的な真実を告げる。
「なぜ僕がそこまで知っているのか……理由は単純だよ。僕も君と同じだからだ」
「同じ……?」
「七瀬さんと同じく月城理事長代理によって、この学校へ送り込まれた人間──綾小路清隆を退学させるために用意された刺客なんだよ、僕は」
夜の森に落とされたその言葉は重く、冷たく七瀬の鼓膜を揺らす。
親切で心優しいクラスメイト、誰からも頼られる優等生──そんな八神拓也という少年の仮面が完全に剥ぎ取られ、その下から覗いたのは底知れぬ冷徹さを秘めたホワイトルーム生の本性。
「君は葛藤していたね。自分の大切な人が辛い目にあったとはいえ、直接的な原因でもない先輩を恨むことに。やり場のない怒りと恨みを抱えたまま、周りに流されてここまで来たことに」
「──それはっ」
「違うって? 何も違わない」
七瀬が顔を上げる。その瞳には明確な怒りが宿っていたが、八神はそれを意に介さず。
「君は綾小路先輩を退学させたい、でもそれが正しいとは思っていない。矛盾しているね。目的もなしに恨みだけでここまで来たのなら、それは明確に流されているってことだよ。君の意思なんて関係なく、掌の上で転がされているだけだ」
「──っ、目的なら……あります。綾小路先輩を退学させた、その先に……私はそのために!」
──流石にそこまで馬鹿じゃないか。まあ目的と言ってもどうせ……
「綾小路先輩のお父さんに頭を下げさせるためとか、そんなところだろ?」
図星。八神の唐突な告白に加え、自分の心の傷を抉られている彼女に自分を取り繕う余裕など残されていなかった。
「それでどうなるの? 何か現実が変わるのかい? 結局のところ君は、自分に嘘をつきながら生きてるだけの中途半端な人間さ」
目的を果たして、どうするかなど考えたこともなかった。いや──正確には考えないようにしていた。
今の七瀬を突き動かしているのは、極めて不安定な復讐心。言いくるめてしまえば簡単に折れてしまうような酷く脆いもの。
「──黙れっ! ボクは綾小路清隆を倒して、必ず……かな……らず」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。段々と勢いがなくなり、八神の言葉が深く重たくのしかかっていく。
──ボク? 典型的な自己暗示か。
「それすら間違っているなら……私は、何を……」
「栄一郎の未来を奪った者に報いを受けさせたい。それは紛れもなく君の本心だ、違うかい?」
七瀬の瞳が揺れる。
「それは……」
「でも、綾小路先輩を退学させてお父さんに頭を下げさせたところで問題が解決するわけでもない。その上、七瀬さん自身は復讐が間違っていることだと思っている。それが悔しくて仕方ないんだろ?」
「……はい」
「復讐したい、でも復讐しても何も戻ってこない。それでも憎しみだけは消えてくれない」
七瀬は俯いた。胸の奥に押し込めていた感情が、少しずつ形を持ち始めている。
「私は……どうすればいいのでしょうか」
八神は少しだけ微笑み、俯いた七瀬の目線に合わせるように膝を着き。
「簡単さ、心のままに動けばいい。でなければ君一人が苦しむだけだ」
七瀬は黙り込んだ。心のままに──その言葉を頭の中で何度も繰り返す。
綾小路清隆を憎いと思う気持ち、栄一郎を奪われたことへの怒り、あの男を許せないという感情。
それらを押し殺して生きていくことが正しいのだと思っていた。
けれど──。
「人を傷つけてはいけない。復讐してはいけない。憎んではいけない。そういう、こうあるべきを君達は小さい頃から教えられてきた。勿論それらが必要ないと言ってるわけじゃないよ、社会で生きていくなら必要なものだ。だけどね」
一拍、二人は目を合わせ。
「それを理由に、自分の感情まで否定する必要はないんだ」
七瀬の指先が震える。
「君の中にあるものが、何より大切なんだよ」
「……では、私が誰かを憎むことも間違いではないのでしょうか」
掠れた声で、縋るように紡ぎ出された七瀬の問い。八神は否定も嘲笑もせず、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「間違いじゃないさ。君がそう感じているなら、それは君にとって本物の感情だからね。大事なのはそれから目を逸らさないことだ、どれだけ自分勝手な想いだろうと目を逸らさず貫き通すこと」
七瀬は苦しそうに眉を寄せる。
本物の感情──そう告げられても尚、彼女の胸の奥には消し去れない矛盾と葛藤が渦巻いていた。綾小路清隆を憎み、彼を追い詰めることが本当に自分の求めた結末なのか。
膝の上で固く握りしめられた両拳が、微かに震える。
失われた幼馴染の笑顔。その理不尽に対する怨嗟をどれほど綾小路にぶつけたところで、現実が変わるわけではないという冷酷な現実。
何のためにこの学校へ来たのか。何のために己の心を偽り、傷つけてきたのか。自らの存在理由そのものが揺らぎ、見失いかけた七瀬に対し八神は淡々と──しかし決定的な逃げ道を示すように言葉を重ねた。
「それでも悩むなら、いっそ目的を変えてしまえばいい」
「え……?」
八神は七瀬の目を見つめる。
その眼差しには一切の迷いもなく、最初からそうなることが必然であったかのような絶対的な確信が満ちていた。七瀬はその瞳に射抜かれ、呼吸を正すことすら忘れて見つめ返す。
「彼のような被害者を、二度と生み出さないことを目的にするんだ」
七瀬の瞳が大きく見開かれた。
これまで復讐という狭い視界の中に囚われていた七瀬にとって、その言葉はあまりにも予期せぬ──そしてスケールの異なる提案だ。
「それが出来るなら最初からそうしてますよ! でも私にはそんな力なんてない……」
「ホワイトルームについて、七瀬さんはどこまで知ってるの?」
「詳しくは聞かされていません、綾小路先輩と関係のある場所としか……もしかして八神君は、ホワイトルームというものについて私よりも深く知っているんですか?」
八神は静かに息を吐き、頷いた。七瀬がこちら側の事情を知りすぎてしまうのは客観的に見て良いこととは言えない。
だが関わった人間の後先を一つ一つ考えてやる必要は皆無だ。
今ここで七瀬の信用を勝ち取れるなら、それ以上に優先すべきことなどないのだから。
「あそこでは、多くの子供達が本人の意思とは関係なく徹底した教育を受けさせられている。虐待なんて言葉が生温く感じるほどの劣悪な環境でね」
八神は一瞬だけ目を伏せる。
その表情に浮かんだ微かな陰影。それが演じられたものなのか、それとも過酷な地獄を生き抜いてきた者として滲み出た本音なのか──七瀬には判別がつかない。ただ、彼が口にした言葉の重みだけが夜風を通じて肌に直接伝わってきた。
「そして、僕もその一人だ。さっき、僕は七瀬さんと同じだと言ったけど厳密には少し違う。僕をこの学校へ送り込むことを決めたのは先生──綾小路篤臣だ」
七瀬は息を呑んだ。言葉が出なかった。
八神の言葉が真実なら、彼は七瀬よりもずっと深い場所にいて──栄一郎の仇である綾小路篤臣に接触できるほどの立場であるということ。
その事実が重く圧しかかり、七瀬の思考を激しく揺さぶる。
「ホワイトルームの在り方を壊すためには、一度綾小路清隆を敗北させる必要がある。月城や篤臣は、どうせ僕達が綾小路先輩に勝てるとは思っていないしね」
七瀬の胸の奥で、何かが繋がった。綾小路清隆を退学させる、それだけなら復讐の対象は一人だ。
けれど──もしこの現実を生み出した環境そのものが残り続けるのなら。
同じような人間がこれからも生み出される。
そしてまた、誰かが犠牲になる。
「急にそんなことを言われても……すぐには信じられません。今までの話が本当なら、八神君は私のことをずっと騙していたってことですよね」
「そうなるね。これでも、七瀬さんの境遇に情が湧いてる方なんだ。だから可能な限り話し合いで解決したいと思ってるし、敵対もしたくない」
彼女が暴力や恐怖に屈する人間ではないと、今まで過ごしてきた日常を思い返せば分かる。
力で上下関係を作ることは得策ではない。
「隠していた正体を明かした僕が、この期に及んで嘘をつく理由はないよ。それとも、それ自体信用ならないかな?」
「……八神君は、何が目的なんですか? そうまでして綾小路先輩を退学させたい理由を教えてください」
──上に命令されたから、とか言って誤魔化すのは無理そうだな。
七瀬の隣に座り直し、空を眺めながら昔のことを語り始める。
自分の原点──夢を抱いたきっかけを。
最初の頃は、まだ漠然としていた。八神は、とにかく最高傑作と比較され続ける他の子供達を支えるために五期生の中でトップになった。
教官が彼らを認めないなら代わりに努力と成果を認めてやり、身近な指標として導くために自分も努力を惜しまなかった。
ターニングポイントは、最高傑作である綾小路清隆の姿を見せてもらった時。五期生の中でも群を抜いて優秀だった八神ですら及ばないほどの成績を叩き出す彼を──現実を見た時、幻想は儚く散った。
綾小路を憎む者、尊敬する者、諦める者──八神を除き五期生全員が強い感情を抱き、八神との間に芽生えていた仲間意識など簡単に霧散してしまう。
中には目の上のたんこぶである八神を敵対視する生徒も増えた。
「僕の目的はホワイトルームの価値観と在り方を変えること。そのためにはあの場所を形成してる全てを──最高傑作という象徴を壊す必要がある。それが、彼らの努力や生き方を否定してしまう身勝手なエゴだとしても曲げるつもりは一切ない」
具体的にどんな教育を受けたかは語らないが、その境遇は壮絶なものだったと想像出来る。
七瀬は彼が嘘を言っているようには思えなかった。
「それで……同期の子達は、まだホワイトルームで教育を受けているんですか?」
「いいや、残ったのは十数人であとは皆脱落したよ。とはいえ残った同期達も一人を除いて僕とは口を聞いてくれないか、もしくは会話が成立しないタイプしか残ってないけどね」
特に思い詰めたような表情をすることもなく、ケロッとした様子で言いのける。
過ぎたことは仕方ない、彼らを変えるには現実を覆す以外に方法がないことは分かりきっている。
「僕の話はこれで終わり。これ以上、栄一郎君のような被害者を出さないためにも……理不尽に価値観を歪められたホワイトルーム生のような被害者を出さないためにも、僕を手伝って欲しい──それが一番、あの男への復讐になると思うしさ」
七瀬を真っ直ぐ見据え、右手を差し出す。
その手を取ればもう後戻りはできない。
綾小路清隆への復讐を果たすためだけに、この学校へ来たはずだった。
栄一郎を傷つけた者に報いを受けさせる。そのためなら、自分自身が傷つくことも厭わない──そう思っていた。
けれど八神の言葉を聞いているうちに、その憎しみの向こう側にあったものが少しずつ見えてきた。
栄一郎と同じように、自分の意思とは関係なく人生を歪められる子供達。
そして八神自身もまた、その被害者の一人なのだ。
綾小路への復讐だけでは何も終わらない。綾小路篤臣に頭を下げさせたところで、失ったものが戻ってくるわけではない。
それなら──。
「……私に、できるでしょうか。そんな大きなことを、私なんかに」
彼女がぽつりと呟き、八神は少しだけ目を細める。
「できるかどうかは僕にも分からない。ただ君がどうしたいのか、それだけを決めればいい。同じ目標に向かうなら、手を取り合いたいってだけだから。先に言っておくと僕は目的達成のためなら手段は厭わない、四月の特別試験で退学者を出したのも僕だ。そういうやり方が嫌いなら、この手をとる必要はない」
七瀬は差し出された右手を見つめた。先程まで胸の奥を締め付けていた迷いが完全に消えたわけではない。綾小路清隆への憎しみも、栄一郎を奪われたことへの怒りも、今も確かにそこにある。
けれど、それを抱えて生きることが間違いなのではないと彼は教えてくれた。
「……私は、綾小路先輩を許せるわけではありません」
七瀬は静かに口を開く。
「でも、それだけで終わらせるのも違う気がします」
ゆっくりと顔を上げる。そこにあったのは先程までの迷いではなく、僅かながらも確かな意思。
「同じような人が生まれるのなら、私はそれを止めたい。彼と同じように苦しむ人を、もう増やしたくありません」
綾小路清隆への憎しみはまだ消えていない。むしろ八神の言葉によって、自分がどれほどその感情を押し殺していたのかを思い知らされた。
ならば──この憎しみを捨てる必要なんてない。
──ただ、その先に進めばいい。ボクではなく、私自身の意思で。
そして七瀬は、自分の中にある憎しみを否定することなくその手を取った。
「……八神君、私にも手伝わせてください」
「ありがとう、七瀬さん。信じてくれて嬉しいよ」
二人の手が離れる。七瀬の胸には未だ消えない憎しみがあった。けれど今度は、その感情から逃げるためではない。
──この気持ちを抱えたまま、私の意思で前へ進む。
それが、七瀬が選んだ答えだった。
「今まで騙すような真似してごめんね、どうしても慎重にならざるを得なかったんだ」
「それは……はい、立場上仕方のないことです。ショックは受けましたが、誰が悪いというわけでもありませんし」
目的を達成するためなら、どんな犠牲を払おうと構わない──綺麗事だけでは何も成し遂げられないと、彼は最初から分かっている。
大事なのは何事にも優先順位をつけ、それを遵守すること。
中途半端な心持ちで来た自分が責められることではない。
「七瀬さん、聞かせて欲しい。月城はどうして君に接触してきたの? どうして君をこの学校に入学させたのか、その経緯を教えて欲しい」
「それは──いえ、私だけ何も話さないのは不公平ですよね」
話していいものか、とほんの少しだけ悩んだ彼女は八神を信じて全てを話した。八神は七瀬を信じ、自分の過去を全て話してくれたのだから。
協力者として、秘密を共有するのは普通のことだと。
──信用されているという安心感は心に綻びを生む。
「話してくれてありがとう、後はお互いに秘密を守りつつ協力していこうか」
「はい、改めてよろしくお願いします。あの──あ、いえ……何でもありません」
彼が自分のことを友達だと言ってくれたのは本心かどうか、聞く勇気は出なかった。