憑依八神君がどうにか綾小路を退学にさせようと奮闘する話 作:bb
最後まで楽しんで頂けたら幸いです。
十日目の朝──綾小路はタブレットを取り出し、GPSサーチを行う。
液晶画面に無数の光点が浮かび上がり、その配置を追っていた綾小路の視線が僅かに止まる。
自身の周囲──とりわけ西側と南側において、一年生グループが集結しているのが見て取れた。
不自然な密度。だが、完全に逃げ道を塞ぐように包囲されているわけでもない。
──偶然にしては固まりすぎているが、まだ断定はできない。
確証を得るには情報が足りず、綾小路は違和感を覚えながらも行動を開始した。
西と南に固まる光点群を頭の隅に留めつつ、綾小路は周囲の課題に寄り道しながら指定エリアであるE4へと足を進める。
到着すると、そこには先客──鬼龍院楓花の姿があった。多少会話を交わしたものの、彼女は課題に向かってしまう。
次の指定エリアが更新されたタイミングで綾小路は再びタブレットを開き、二度目のGPSサーチを行った。
──オレの想定を超えてるな。
画面に示された結果は、先程の違和感を確信へと変えるには十分だ。
先程まで西側と南側に分散していた一年生グループが、明確な意図を持って綾小路の位置へ距離を詰めてきていた。更に次の目的地であるF4の周辺には、天沢と宝泉が既に到着している。
そして同グループの七瀬は、何故か別グループであるCクラスの椿や宇都宮と共に固まっていた。
八神のGPS反応は無い、まだ島に戻っていないようだ。
この状況において一年生が組織的に動き、自分を追い詰めようとしているのは明白だった。
重要なのは、その目的が指定エリアをスルーさせることなのか暴力沙汰を仕掛けることなのか──或いはその両方なのか。
八神が居ないのに決行したということは、やはり月城との密談はブラフ。もしくはもう一人のホワイトルーム生の仕業と判断していい。
──指定エリアと課題は捨てるか。ここで大人数と衝突するのはリスクが大きすぎる。
立ち止まって対処する選択肢は排された。綾小路は指定エリアの到達と周辺の課題消化を即座に捨てることを決断し、そのまま北西へ逃走を開始した。
山を越えつつ、追手の視界とルートを遮るように大きく東へと曲がり込んで逃げていく。
──まずは交戦を避ける。逃げの一手だ。
◇◇◇
「順調そうですね、椿さん」
同時刻──一年生グループの指揮を執る椿の傍らで、七瀬は静かにタブレットを見つめていた。
画面上では北西へと逃走した綾小路が、そのまま大きな弧を描くように東へと進路を変えているのが見て取れる。
人海戦術による圧を感じ取り、徹底的に他の生徒との接触を避ける判断を下したのだと分かった。
「気づかれるのが早いけど、別に想定内。今のところ全部上手くいってる」
椿は躊躇なく得点を吐き出して綾小路を追っていくが、七瀬はグループの動かし方にある意図を感じ取って口を開く。
「すぐに包囲網を縮めて囲い込むのではなく、あえて生徒の少ない方角へと誘導しているんですか?」
問いかけられた椿は、飴玉を口の中で転がしながら気だるげに頷いた。
「そう。今のところ綾小路先輩を守ろうとする動きは見えないけど、二年生や三年生に横槍を入れられても面倒だしね。ルートを制限して、他のグループから引き離すのが一番確実でしょ」
ここまでは何の問題もなく順調そのもの。そう言って息を吐き出した椿だったがふと振り向き、七瀬の傍らに置いてあるそれへと視線を移す。
思わず目を細めた椿の口から、耐えきれないといった風な疑問が漏れ出る。
「……ずっと気になってたんだけど、そのデカい浮き輪は何なの?」
七瀬の足元には森の中というロケーションにはあまりにも不釣り合いな、鮮やかな彩りの巨大な浮き輪が鎮座していた。
「預かり物です」
七瀬は背筋を正し、大真面目な顔でそう答える。
九日目──体調不良でリタイアすることになった八神から荷物を手分けして持っていてほしいと頼まれ、三人に彼の荷物が分配されたのだ。
宝泉や天沢にはごく普通の道具や食糧と水が渡されたというのに、なぜか七瀬の元へと巡ってきたのはこの環境では邪魔でしかない巨大な浮き輪だった。
しかも丁寧に空気まで充填された状態で渡されたのだから意味が分からない。
とはいえ、彼が意味もなく浮き輪を渡すとは思えない。というかそもそも浮き輪を買うことに違和感を抱くべきだったと七瀬は唸っていた。
しかし八神から直接的なことは聞けず、伝えられたのは「宝泉の指示には従って欲しい」とだけ。
「さて……先輩もだいぶ逃げ足が早いみたい」
椿の計算通り、綾小路包囲網は着実に機能していた。二回目の指定エリアが発表されてから、三回目が告げられるまでの時間は二時間。
綾小路は包囲をすり抜けるようにE3、F2、F3と目まぐるしく移動し、険しい山の地形を巧妙に利用して追っ手の体力を削りにかかっていた。
山道を強行軍で追いかける一年生の消耗は激しかったが、逃走ルート自体は椿の描いた絵図から一歩も外れていない。依然としてF4の地点から動いていない宝泉と天沢の存在を確認しつつ、椿は落ち着いた手つきで一年生グループへ指示を送ることで綾小路をじわじわと東側へ追い込んでいった。
焦る様子もなく、三回目の指定エリアが更新される。
示された位置は──G4
綾小路はG3の北側を沿うようなルートを選択し、大きく迂回し始めた。
画面を見つめる七瀬の表情に、焦りの色が濃くなる。大人数で追いかけていたはずの一年生グループは長時間の山道走破によって完全に疲弊しており、綾小路との距離は開く一方だった。追いつける気配は微塵もない。
更に綾小路自身も端末のサーチで一年生の遅れを察知したのか無理にペースを上げるのをやめ、体力を温存するように速度を落とし始めていた。
「椿さん、このままでは逃げ切られてしまうのでは? GPSサーチを使わせて得点を吐き出させることは出来たかもしれませんが……初見の包囲網すら容易に切り抜けられてしまったら、もうチャンスは巡ってこないように思えます」
思わず声をあげた七瀬に対し椿は口の中の飴玉を噛み砕き、冷めた眼差しで画面を見つめたまま短く告げた。
「これでいいの。全部、予定通りだから」
一切の揺らぎがない椿の言葉。その静かな確信に、七瀬は息を呑む。
椿はGPS反応が消えた宝泉に任せるつもりだろうが、そこは認識の差。やることは変わらない。
◇◇◇
G3とG2の境界付近を、綾小路は落ち着いた足取りで歩んでいた。
追っ手は明らかにペースダウンしており、このまま大きく迂回しながらでも場所さえ噛み合えば四回目の指定エリアは踏めそうだと判断する。
綾小路は足を止めることなく、坂柳から渡されたトランシーバーを取り出す。
「もしもし。坂柳、聞こえるか?」
すると、待ち構えていたかのように坂柳の澄んだ声が返ってきた。
『ええ、聞こえています。どうしましたか?』
綾小路は簡潔に指示を伝え始める。
「真嶋先生と茶柱先生をオレの現在地へ向かわせて欲しい」
相手の狙いが何であれ、周りを無視して介入できる第三者の目を強制的に配置するのは効果的だ。
ホワイトルーム生だろうが月城だろうが、教師陣が到着するまでの時間を稼ぐだけでこの場は切り抜けられるだろう。
「先手を打たれてしまいましたか? 必要であれば他のグループもそちらに向かわせますが」
「いや、必要ない。追っ手は既に撒けているからな、後はオレ一人で対処するつもりだ」
坂柳は意図を即座に汲み取り、承諾する。
そのまま通信を切り、トランシーバーを仕舞う。不確定要素を潰すための手は打った。
更なる状況の変化を把握すべく綾小路はタブレットを取り出し、再びGPSサーチを実行しようと液晶へ視線を落とした──その瞬間。
思考を挟む余地はなかった。反射だけで全身の筋力を弛緩させ、綾小路は地面へと倒れ込むように身を伏せる。
直後──凄まじい風切り音が耳に届き、鋭い蹴りの一閃が綾小路の頭上を薙ぎ払った。
余波で舞い散る葉屑と、肌を刺すような圧力。
即座に体勢を立て直し、距離を取って相手を視界に収める。
「お前が来るのは予想外だったな──八神」
綾小路の前に立っていたのは、リタイアしていたはずの八神。
いつもの温厚な笑みはなく、冷や汗を流しながら綾小路を見据えている。
「ならもっと驚いた顔してくれませんかね」
「顔に出ないだけだ。直感で回避していなかったらやられてたし、割と本気で驚いてるぞ。オレがここに来ると読んでいたのか?」
「貴方の逃げ方と指定エリアから逆算すれば逃げ道は絞れますからね。同じ二年生や教職員へ助けを求めなかったのは、巻き込みたくないという良心ですか? それとも単なる驕りでしょうか。貴方が単独参加を決めた時点で、答えは出てるようなものですがね!」
八神は言葉を切ると同時に、地面を力強く蹴る。
ホワイトルームでの苛烈な訓練によって鍛え上げられたその動作は、常人の反応速度では対応できないだろう。
一瞬で距離を詰めた八神はローキックを放ち、綾小路がそれを捌いた瞬間身体を切り返す。その勢いのまま、右脚を上げて首を狙った。
だが、綾小路の表情は変わらない。最小限の動きとステップだけでその全てを紙一重で回避し、攻撃の軌道を完全に読み切っていた。
──速い。これは間違いなくホワイトルーム生の動きだ。
八神の実力は間違いなく本物であり、ホワイトルーム生としてもトップクラスの域に達している。しかし綾小路からしてみれば、それはあくまで既知の領域を出ないものだった。
空を切る感覚に八神がわずかに焦りを見せ、即座に上段の蹴りを囮にすることで沈み込みながら強烈なストレートを放つ。
だが、その拳が綾小路の肉体を穿つことはなかった。綾小路の手のひらが、八神の踏み込みと威力を殺しつつ正面から完璧に受け止めていたからだ。
──重いな。
八神の腕に伝わるのは打撃を与えた感触ではなく、まるで頑丈な鉄壁に激突したかのような痺れと絶望感。
「ここまで、差があるとは──っ!」
力を込めて拳を引き抜こうとするが、綾小路の握力は万力のように八神の拳を固定して動かさない。速度、威力、間合い、そして対応力。その全てにおいて自分が遥か高みにいるはずの存在に届いていないことを、八神はその身をもって思い知らされる。
まともにやり合っても勝ち目がないと判断した八神は、一瞬視線を下へと向けた。奇襲の際、綾小路の手から滑り落ちて地面に転がっているタブレットが視界に映る。
刹那──拘束された拳を強引に支点にし、身体を捻りながら脚で地面のタブレットを踏み砕こうと振り下ろす。
しかし、その狙いすらも綾小路の想定内だった。
「──甘い」
冷徹な声が耳元で響いた瞬間、綾小路は拳を握ったままその腕を捻り上げて八神の体勢を完全に崩した。踏み降ろされるはずだった足は虚空を切り、八神の身体は浮き上がる。
間髪入れずに綾小路は八神の背後へと回り込むと、両腕を滑らせてその首と関節をロックした。
関節技による拘束。八神はピクリとも動くことができず、ただ荒い息を吐き出すことしかできない。
抵抗しようと必死に力を込める八神の耳元で、綾小路は口を開き
「オレとお前の間に、それほど差がないとでも思っていたのか?」
◇◇◇
──やっぱり真正面からじゃ到底敵わない……!
奇襲を仕掛けたあの時、八神は全力で綾小路を潰しにかかった。あれを躱された時点で、既に格付けは済んでいたようなもの。
「……くっ……ぁ……! 問題行動、ですよ。証拠を残されたら……ぐっ!」
「怪我を負わせなければ小競り合いの範疇だろう。それに、録画はこっちで既にしてある。詰みだ、八神」
抑え込まれた首元から、苦しげで絞り出すような声が漏れる。
奇襲を読んでいたわけではないが念のためにタブレットを起動した際、録画も始めていたのだろう。
映像は断片的だろうが、音は嘘をつけない。
「一度リタイアすることで警戒を弱め、包囲網を成功させたのは上手いやり方だ。オレに勝てる可能性を考慮しなければの話だがな」
「──何勝った気でいるんだ……僕は、まだやれるぞ!」
その瞬間、強引に身体を捻る。綾小路の拘束がわずかに緩んだその一瞬、八神は自らの腕を摩擦で締め上げられながらも強引に引き抜いて体勢を立て直した。
呼吸は荒く、額には脂汗が浮かぶ。だが、その瞳に宿る光は消えていない。
──大丈夫だ、まだバレてない。
八神がリタイアしたのは綾小路の警戒を弱めるためではない。それはあくまで副産物だ。
真の狙いは月城に根回しをしてもらい、アリバイを作ること。
初日に星乃宮と綾小路の会話を聞き、星乃宮は綾小路の協力者候補から除外。坂上は過去の出来事に関する動向から綾小路に肩入れするタイプではない、彼も除外。
八神は真嶋と茶柱に候補を絞り、動きを抑えるために先程AとDの混合グループに重症を負わせて来たところだ。
綾小路は時間稼ぎのために目立った反撃はしてこない、しかし実際のタイムリミットは綾小路が想定しているよりもかなり延長されていた。
「僕以外のホワイトルーム生が誰かとか、聞きたがらないんですね」
「脅威だと思ってないからな」
「想像力は足りてないみたいですね、彼は強いですよ」
「その言い方じゃ、男かどうかも怪しいな」
綾小路はここで逃げる選択肢を取らない。教師の到着を待ち、八神の暴力行為を証明させた方が今後得になる。
加えて、逃げたところで近い場所に生徒はいない。むしろ綾小路が八神と戦ってGPSサーチを行えない間に、再び包囲網が完成されているなんてことも有り得るだろう。
逃走が裏目に出る可能性の方が高い。
「むしろ安心しましたよ、先輩がいつまで経ってもあの部屋で培った結果に絶対的な自信を持っていると知れて。貴方を崇拝する気持ちも分かるな……この壁を超えようだなんて、普通の頭じゃやってられない」
自嘲するように笑い、溜息をつく。
一連の戦闘だけで完全に読み取ることはできなかったが、次はもっと上手くやれる自信が八神の中にはあった。
ホワイトルームでの苛烈な日々を生き残った者に芽生える、或いは最初から持ち合わせていた真の才能──それは単なる個々の能力ではなく、初見の物事に対する驚異的な適応能力に他ならない。
八神にとって目の前に立つ綾小路清隆は、自己を成長させる上で最高の教科書だ。
「──絶対に吠え面かかせてやる」
◇◇◇
天沢一夏は、深い森の木々をすり抜けるように最短距離を疾走していた。
目的地はただ一つ。現在進行形で八神が一人で時間を稼いでいるG2エリアだ。
本来の計画であれば、綾小路がG3に到達した時点で彼女も八神の隣に立って二人で綾小路を追い詰めているはずだった。それなのに到着が大幅に遅れているのは、つい先程予期せぬ足止めを食らったせいだ。
GPSの位置関係から面白そうなことが起きていると察し、野次馬根性で綾小路の元へ向かおうとしていた三年生の鬼龍院楓花。天沢はその動きを察知するやいなや全速力で割り込み、彼女の前に立ち塞がった。
邪魔立てするなら容赦はしない。手加減なしで叩きのめし、完全に戦意を挫いて黙らせたのはほんの数分前のことだ。リタイアに追い込むほどの重傷こそ負わせていないが、あの女の相手に想定外の時間を費やしてしまったのは事実だった。
──また拓也に怒られちゃうんだろうな。
頭の片隅でそんなことを思い浮かべながらも、天沢の胸中に余裕など一切なかった。
綾小路がそう簡単に反撃するとは思えないが、こちらの狙いがバレた途端に八神が無力化されてしまう可能性は否めない。
一緒に戦いたいと、八神を──大切な人を支えたいと決心したのにそれすら叶わない、なんてことだけは。
──ダメ、絶対ダメ。早く行かなきゃ……!
荒い息を吐き出し、更に加速する。一秒でも早く、一瞬でも早く彼の元へ。胸を焼くような焦燥感と八神への強い想いだけを原動力に、無人島を駆け抜ける。
G2の開けたエリアへ滑り込むと同時に、天沢の足がピタリと止まった。
呼吸を乱し、森を駆け抜けてきた彼女の目に飛び込んできたのは信じがたい光景。
ホワイトルームで一度も勝てなかった、天沢にとって絶対的な強者である八神。その八神が、表情一つ変えない綾小路清隆を前にまるで大人と子供が戯れているかのように翻弄され続けている。
半信半疑だった最高傑作の実力を、天沢は一瞬で理解した。言葉などなくとも、直感的に悟る。
──二人でかかれば、まだ……
その時、天沢の気配を察知したのか八神の動きが変わった。
隙の大きい大振りな拳を繰り出し、案の定綾小路に易々と腕を極められて拘束に陥る。
だが、それは隙などではない。
拘束された体勢のまま八神の視線が天沢を捉え、交錯する。八神が小さく、意図を含んだ頷きを返した。
──今!
合図を読み取った天沢は地面を強く蹴り、今出せる最高速度で飛翔した。全力を乗せた決死の回し蹴りを綾小路の側頭部へ向けて叩き込む。
しかし、綾小路は気づいていた。
八神を拘束したのも、潜伏する天沢を炙り出すための罠。綾小路は数秒の狂いもなく八神の拘束を解くと、最小限の動きで首筋を掠める天沢の回し蹴りを完璧に躱す。
「──っぶね」
空を切った天沢の脚の残像を縫うように、解き放たれた八神が即座に低空からの追撃を繰り出す。綾小路はそれを間一髪で躱し、追撃を捌くため更に後方へと間合いを取った。
「どこで道草食ってたんだ? もう来ないのかと思ったよ」
「やだなぁ、これでも急いだ方なんだけど。ていうか、先輩やっぱり強いね。ゾクゾクしてきちゃった」
「……味方なんだよな?」
「当たり前じゃん。あたしは拓也の味方だし、拓也の味方はあたしだけだよ?」
「それはどうもありがとう。とりあえずスタミナは相当減ってるはずだけど、動きは全然鈍ってない。今の一撃が一番惜しかったくらいだ」
人間である以上スタミナには限界がある。真夏の昼間に移動を続け、その後戦闘となれば嫌でも体力は削られるだろう。
綾小路であろうと例外ではない、持久戦に持ち込めば必ず付け入る隙が生まれるはずだ。
「──僕が合わせる。好きに動け」
「それじゃあお言葉に甘えて遠慮なく。ちゃんとついて来てよ?」
「一夏こそ、足引っ張らないでくれよ?」
天沢が力強く地面を蹴ると同時に、八神も一切のタイムラグなく追従する。言葉を交わすまでもなく、互いの間合いと死角が完璧に共有されていた。
天沢が綾小路の軸足を刈りにいき、八神はその退路を塞ぐように背後から掴みかかる。
綾小路は身体を捻って天沢の足払いを跳び越えると、その一瞬の滞空動作の中で背後から迫る八神の腕を受け流す。そして着地と同時に、衝撃を利用してしなやかに後方へ跳んだ。
相手が下がってくれる分には問題なし。
二人は綾小路に休む暇を与えず、互いの隙を補うように連携して攻撃を仕掛け続ける。
「二対一なら、こっちもある程度の反撃は許されるな」
流石にこのまま八神と天沢の相手を続けるのは体力的にも厳しいと綾小路は判断する。二人の連携は完璧だが、実力は離れている。
天沢の実力は高く見積っても4程度で八神が6前後。
天沢から狙うのが楽そうに思えるが、八神のフォローが思いのほか手厚く反撃のタイミングを伺う暇がない。
ならば先に狙うべきは──八神。
「──これが全力か?」
「うわっ、傷つくな〜これでも拓也の次に強いんですけどっ!」
天沢の連撃を最小限の動きで受け流しながら、綾小路は地面を踏みしめた。綾小路は背後を取られぬよう一歩、また一歩と後方へ間合いを取りつつ距離をコントロールしていく。
二人の挟撃を完全に遮断するその退路の選び方は、セオリー通りではあるがこの場において得策とは言い難い。
「あんまり下がりすぎると落っこちちゃうよ? 先輩」
G2は北側が崖になっている。高すぎるわけではないが、海に落ちれば簡単には戻れないだろう。気づけば綾小路は最初に八神と戦った場所からかなり離れてしまっていた。
その瞬間、綾小路の視線が天沢から外れ八神へと固定される。
「──ッ!」
狙いが自分へ切り替わったことを察知した八神の表情が引き締まる。綾小路の踏み込みは一瞬だった、事前に構えていなければ為す術なくやられていただろう。
──速すぎる!
天沢が即座にカバーへ回ろうと踏み込む。しかし、綾小路が意図的に作り出した僅かなポジションのズレとスピードの緩急により天沢の追従がわずかに遅れた。
二人の完璧な連携に、初めて明確な粗が生じる。
一瞬の遅れは、この場では致命的だったが──。
「──だいぶ慣れてきたぞ」
自身に降り注ぐ綾小路の打撃に対し、八神はかろうじて対処する。
一対一で対峙していた時とは明らかに動きの質が変わっていた。綾小路の動き全てを交戦の中で吸収し、即座に自身の動きへと昇華させている。
「もっと息を合わせろ!」
「言われなくても……っ!」
呼吸を乱した天沢が一瞬のズレを強引に修正して八神の横へと並び立ち、再び同時に踏み込む。
綾小路は一切の余裕を崩さないが、疲労を隠せていない。先程から戦い続けている二人は、明らかに綾小路の動きが鈍って来ているのを感じ取っていた。
このまま行けば、勝てる。
──一夏となら。
──拓也となら!
八神の適応能力と、それに呼応して限界を超えていく天沢の追従。完璧な防衛を維持する綾小路の足元が二人の攻撃を受けて、わずかに土を擦る。
綾小路は素直に二人の評価を改める。天沢と八神、両方とも一人では相手にならないだろう。
しかし特筆すべきは二人の連携力。片方を先に潰そうとしても、絶妙なタイミングでカバーに入られてしまう。
特に天沢に対する八神のフォローが手厚すぎる。無理をして八神の攻撃をもらいたくはない。
しかしこのままジリ貧になるくらいなら、相応のリスクは負うべきだと綾小路は判断する。
「──本気で行くぞ」
刹那、綾小路の姿が八神の視界から消え去る。天沢のフォローが完全に追いつかない領域──圧倒的な初速で、綾小路は八神の懐深くへと急接近していた。
反応すら許されない。防衛姿勢を取る間もなく、綾小路から放たれた蹴りが容赦なく八神の鳩尾を穿った。
「……ぐあっ!」
内臓を直接叩き潰されたかのような激痛とともに八神の身体がくの字に折り曲がり、そのまま勢いよく後方へ吹き飛んだ。背後にあった太い木幹へ激しく激突し、衝突音とともに大量の葉が降り注ぐ。
「かはっ……はぁ……」
肺の中の空気を全て吐き出した八神は激痛と強烈な衝撃で全身の自由を失い、木から崩れ落ちるように地面へと突っ伏した。
綾小路の動きを学習し続け、やっと手が届くと思っていたその領域は彼からすれば足元にも及ばないと理解させられる。
やっと実力が拮抗し始めた、そんな希望を理不尽に打ち砕かれてしまう。
──ちくしょう……こんな、こんな……!
「化け物が……」
勝てるはずがなかった。強いのは分かりきっていた、しかし人間は自分の想像を超える存在を理解できない。
綾小路には、どうやっても届き得ない──誰も彼を超える最高傑作にはなれない。
「拓也っ────!!」
天沢の悲痛な叫びが木々にこだまする。
八神からのフォローという命綱を失い、一人残された天沢の脳裏に背筋を凍らせるほどの戦慄が走った。
ホワイトルームで培ったあらゆる本能が直感的に危険を告げ、天沢は即座に後ろへと跳んで綾小路との距離を離そうとする。
だが──判断が遅すぎた。
「本当に二人なら勝てると思っていたのか?」
距離を取ろうとした天沢の目の前には既に綾小路が立っていた。追いつかれたという認識すら与えない間合いの詰め方。
天沢がガードを固める猶予すら与えず、綾小路の容赦のない追撃が天沢の身体を捉える。
二人の勝機は、ほんの一瞬で完全に瓦解した。
──立て……早く立て! 動け身体……!
八神はさっきの一撃をモロに食らってしまったせいで身体を痛めた。そう簡単には起き上がれない。
所詮は実現不可の綺麗事だ。実力が伴っていなければ、叶えることなんて出来やしない。
しかもタイムリミットが迫ってきてる、手負いの状況で逃走が間に合うかすら怪しい。
──ダメだ。ビビるな、考えるな。今はただ、一夏を助けることだけ頭に残せ。
痛みを無視して立ち上がり、同時に駆け出す。
天沢を拘束し、無力化しようとしている綾小路に向かって拳を握りしめ。
「──どけ、綾小路!」
狙うは顔面。涙を誘発させ、視界を封じに行く。当たらなくても構わない──八神が立ち上がると信じていた天沢が、拘束が緩んだ瞬間に膝を上げて彼の急所を狙っているから。
八神が立ち上がる可能性そのものは考慮していた。
ただし、あの一撃を受けた直後に攻撃へ転じるだけの意志が残っているとは想定していなかった。
僅かに読み違えてしまった結果──綾小路は遅れをとる。
大きく身体を跳ねさせて天沢の攻撃を回避し、八神の攻撃を受け止めようとした綾小路の行動を二人は読み切っていた。
がら空きの腹に向かって、即座に体勢を立て直した二人が同時に回し蹴りを放つ。
「立っているのもやっとなはずだが」
初めて二人の攻撃がヒットしたにも関わらず、綾小路は平然としている。後ろに飛ぶことで勢いを抑えられはしたが、決してダメージは軽くない。
「小さい頃から教官にぶん殴られまくった影響で、痛みを無視するのは慣れてるんだよ」
虚勢を張っているのは誰が見ても明らかだった。
もう天沢の動きに合わせることすら難しいほど疲弊し、身体の節々が悲鳴をあげている。
容赦なく八神を潰そうと綾小路が脚に力を込めた瞬間──八神と天沢の背後から荒々しい声が響く。
「──やっと追いついたぜ、俺抜きで随分楽しそうなことしてんじゃねぇか八神。俺も混ぜてくれよ……綾小路センパイよう!」
──もういい、時間切れだ……勝つのは諦めて、やるしかない。
「待て、お前が敵う相手じゃない!」
宝泉は綾小路を見つけるやいなや手に持っていたものを捨て、興奮を隠さず力任せに突撃する。
「八神は遊んでくれなかったからな! 今はぶん殴れるなら誰でもいい気分なんだよ、俺はァ!」
宝泉は豪腕を振り上げ、綾小路の顔面を打ち砕かんと殴りかかる──刹那、低く身を沈めてタックルへと変化させた。
丸太のような両腕が綾小路の腰を死に物狂いで抱え込む。
綾小路は突進の衝撃を受け止めると、即座に無駄のない打撃を宝泉の急所に叩き込むことで拘束を力ずくで解いた。
宝泉の身体が僅かに泳いだ──まさにその一瞬。
──今!
八神は最後の力を振り絞って駆け抜けた。宝泉の脇のわずかな隙間を通り抜け、体勢を崩しかけた綾小路の身体へ正面から掴みかかる。
狙いは打撃でも関節技でもない。八神は自らの体重と運動エネルギーの全てをかけ、綾小路ごと背後の崖下──海へ押し出そうとしていた。
「させると思うか?」
「──来い!!」
八神はどれほど反撃を受けようとも決して離れず、執念深く綾小路にしがみつき続ける。
そこへ拘束を解かれたばかりの宝泉が凶暴な笑みを深め、追い打ちをかけるように全身全霊のタックルを叩き込んだ。
「歯食いしばれや──!」
そのまま三人の身体が空中に放たれ、崖下──波が打ちつける海へと落下を始める。
「──ッ!」
重力に逆らえず落ちる中、綾小路は何とか体勢を立て直し落下を食い止めるべく崖の岩肌や出っ張りに手を伸ばす。
一瞬の判断力と驚異的な身体能力で、崖っぷちを掴みかけ——、
「させるかっ!」
しがみついていた八神が、その腕を払いのけた。岩肌を掴み損ねた綾小路の手が空を切り、三人の身体は抗う術のない浮遊感とともに海へ一直線に引きずり込まれていく。
視界を覆う水しぶきの向こう側で、綾小路と八神の瞳が正面から交差した。
これまで一度として感情を揺らがせなかった綾小路の顔に、明確な焦りが過ぎったその瞬間。
八神の唇が、歪に釣り上がった。
「──その顔が見たかった」
──最高傑作、そんな肩書きに価値なんてないんだ。あの場所でどれだけ鍛えられようと、どれだけ他者を凌駕しようと、今この瞬間だけは平等なのだから。
綾小路清隆は、ただの人間だ。
重力には逆らえず、死に抗い、生きるために手を伸ばす──そんな、どこにでもいる普通の人間に過ぎない。
狂喜と確かな達成感を孕んだ声が、打ち寄せる波音の中に溶けて消える。
直後、綾小路の腕時計から警告アラートが鳴り響いた。
◇◇◇
今から約十分前。
G2で起きていた激闘の裏で、七瀬翼は息を吐きながら必死に走っていた。
──あと少し!
手元の端末に映し出された綾小路のGPS情報を頼りに、一直線にG2エリアを目指す。
彼女が椿の元を離れたのは、宝泉からの緊急着信が原因だ。
──八神は綾小路に勝てなかった場合、海へ叩き落としてリタイアさせるつもりだ。
──だから今すぐに浮き輪を持ってこい。
──それと、司馬に船を出させてG2の崖下へ向かわせろ。
宝泉から受け取ったその伝言に従い、七瀬は即座に動きを見せていた。Dクラスのグループへ伝言を流し、司馬への通報を頼んだ後はG2へ直行。
「宝泉君はどこで何をしてるんですか……!?」
トランシーバー越しに問う七瀬に、宝泉は鼻で笑うような吐息とともに答えていた。
『ハッ、こっちはこっちで忙しいんだよ。綾小路の野郎が落とした端末を見つけ出して証拠を消すよう頼まれてんだ。ついでに、GPSサーチを連打しまくって持ち点が0になるまでポイントを使わせる』
「……それも、八神君の指示ですか?」
『できたらでいいとしか言われてねえよ。だが、やれるならやってやるのが筋だろ。タブレットが立ち上げられてなきゃ、ぶっ壊して終わりだったんだがな』
八神が綾小路と接触した際、苦し紛れに綾小路のタブレットを破壊しようとしたのはブラフ。
タブレットを奪ってGPSサーチを連打し、得点を0点に追い込むという発想はないと綾小路に誤認させるための演技だ。
もしも綾小路の端末から得点が消え去り、最下位に転落したとしても他の二年生が協力すれば救済は可能かもしれない。
だが、その時は救済に動くグループのメンバーを叩き潰してしまえばいいだけの話。
勿論、そこまで完璧に事態が運ぶ保証などどこにもない。八神の本命は俄然、暴力によるリタイア。
だからこそ、これはあくまで保険。
現場の証拠を潰すついでに得点まで剥奪できれば万々歳だ。八神が綾小路に潰されたとしても、確実に次へ繋ぐバトンになる。
──そして、今に至る。息を切らしながら、それでも足を止めず走り続ける。
G2に足を踏み入れていた七瀬は崖の方へ向かって足を進めていき、やがて見慣れた赤髪が視界に映った。
「──七瀬ちゃん、こっち! 早くしてッ!」
「天沢さん……っ!」
息を切らせた七瀬がG2の崖上に辿り着いた時、そこにいた天沢の表情は普段の余裕など微塵も残っていなかった。必死な面持ちで瞳を揺らし、溢れ出そうになる涙を必死に堪えながら七瀬の名を呼ぶ。
七瀬は迷うことなく持参した浮き輪を抱えると、力を込めて勢いよく崖下──海面へと投げ落とした。
二人はそのまま身を乗り出し、祈るように崖下を覗き込む。
水しぶきを上げて真っ先に浮き輪を掴み取ったのは、宝泉だった。
そのまま浮力に身を委ねると、もう片方の腕で波に揉まれる綾小路の身体を豪快に手繰り寄せ海面へと引っ張り上げる。
だが、そこに八神の姿はない。
「っ……!? 嘘でしょ……拓也、拓也はどこ……?」
海面に浮かび上がらない少年の影。天沢の顔から血の気が引き、信じられないといった表情で目から大きな涙を溢れさせた。
絶望が胸を締め付けたその瞬間──ザパッと激しい水音と一緒に、宝泉の背中にしがみつく形で一人の少年が顔を上げた。
濡れた髪を払い、荒い息を吐き出す八神の姿が視界に映る。
「……あっ……うぁ……」
無事だった。その事実を目にした瞬間、天沢は緊張の糸が途切れたようにその場に崩れ落ち大粒の涙をポロポロと流した。
そんな天沢の背中を優しく擦りながらも、七瀬はすぐに引き締まった声で告げる。
「天沢さん、安心するのはまだ早いです。人が来る前に、私達はここを離れないと……立ってください」
状況は一刻を争う。天沢は七瀬に促されて立ち上がり去り際に一度だけ、未練を残すように崖下を見返した。
視線が交差する。
海面に漂う八神は崖上で見下ろす天沢に向かって、ニッと笑いながら力強く親指を立ててみせた。
それを見届けた天沢は唇を噛み締め、七瀬とともにその場を後にした。
二人を見送り、残された崖下の海原。
浮き輪の浮力に身を任せ、蒼い波間に漂う宝泉と八神の二人は荒い息を整えながら無言のまま互いを見る。
波音と緊急アラートが響く中、二人は固く握った拳をコツンと叩き合わせた。
そして、数分後に医療班と司馬を乗せた船が到着し。
一年Dクラス 八神拓也
二年Dクラス 綾小路清隆
両名のリタイアが──確定。