The Reaching Shore――届かせるもの―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。
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第19話 私は聖杯になるものだから
目を覚ました時、家の中が静かすぎた。
身体を起こす。
肩が痛む。
背中にも、腕にも、脇腹にも、昨日の痛みが残っている。
けれど、最初に気づいたのは傷ではなかった。
聞こえない。
藤ねえの声がしない。
桜が台所へ立つ音もない。
廊下を通る足音も。
遠坂とアーチャーが、声を抑えて話す気配も。
何もない。
耳を澄ます。
アトラスとの契約は繋がっている。
遠坂の気配もある。
イリヤも、この家の中にいる。
昨日より人が増えたはずなのに。
家は、昨日までより静かだった。
少し前にも、似た朝があった。
アトラスと遠坂とアーチャーが、この家に増えた朝。
聖杯戦争の最中なのに、人の気配だけが増えていた。
今は逆だ。
戦争が進むたびに、同じ家から人が減っている。
士郎は布団の中で左手を見た。
令呪は一画。
まだ残っている。
『誰を救うか、自分で選べ。選択まで借り物へ預けるな』
言葉だけが残っている。
アーチャーの剣はない。
赤い外套も。
何かを受け継いだと証明できるものは、一つもない。
だから余計に。
昨日の言葉が消えなかった。
何を選べばよかったのか。
何が正しかったのか。
答えは出ていない。
ただ。
イリヤも連れて帰ると言ったのは、自分だ。
そこだけは、誰かに命じられたわけではなかった。
士郎は布団を出た。
服を着替える。
肩へ腕を通したところで傷が引きつった。
息を止める。
それでも着替えを済ませ、部屋を出た。
台所から、湯の沸く音が聞こえた。
遠坂が俺より先に台所にいる。
それだけで、少し驚いた。
何日か一緒に暮らして分かったが、遠坂は朝に強くない。
それなのに、士郎が起きるより前から台所へ入り、自分から食事の準備を始めている。
何かしていなければならないように、手だけが止まらなかった。
遠坂はやかんを火にかけ、食器棚から茶碗を出していた。
髪は整っている。
服にも乱れはない。
いつも通りに見える。
「おはよう、遠坂」
「おはよう。遅かったわね」
「まだそんな時間じゃないだろ」
「怪我人は寝てなさいって言ったでしょう」
「寝てたら朝飯が出てこない」
「今、用意してるじゃない」
「遠坂が?」
「何よ、その顔」
「いや。大丈夫なのかと思って」
「朝食くらい作れるわよ」
遠坂は湯呑みを置いた。
そのまま、背後を振り返りかける。
口が開く。
けれど、何も言わなかった。
振り返る途中で動きを止め、何事もなかったように前へ向き直る。
やかんの湯気だけが上がっていた。
士郎は、その仕草を見ていた。
何をしようとしたのか、すぐには分からなかった。
誰かに何かを頼もうとした。
あるいは、何かを確認しようとした。
そこまで考えて。
やっと分かった。
遠坂も、アーチャーがいない朝を迎えたのだ。
「遠坂」
「何?」
遠坂は振り返らない。
士郎は、その右手を見た。
令呪はない。
昨日まであった赤い印が、もうどこにも残っていない。
自分の左手には一画ある。
アーチャーは、士郎たちを逃がすために残った。
その前に。
士郎が、イリヤも救出対象に加えた。
そのせいで撤退は遅れた。
遠坂は令呪を二画使った。
アーチャーは死んだ。
「昨日のことなんだけど」
「謝らないで」
言葉にする前に遮られた。
「まだ何も言ってないぞ」
「顔を見れば分かるわよ」
遠坂が火を弱める。
「第二画を使ったのはわたし。第三画を使ったのもわたし。アーチャーが残ると決めたのは、アーチャー自身よ」
「でも、俺がイリヤを――」
「士郎」
遠坂が振り返る。
「あなたが勝手に、全部自分の責任にしないで」
声は強い。
けれど、怒鳴ってはいなかった。
「あれはわたしが決めたことよ。あなたを逃がすことも、アーチャーに残ってもらうことも、最後に帰すことも」
「帰したから、あいつは――」
「帰さなくても死んでた」
遠坂の声が一度だけ揺れた。
すぐ戻る。
「帰したから死んだんじゃない。あのまま一人で消えさせなかっただけよ」
士郎は何も返せなかった。
あれでよかったのかは分からない。
アーチャーが満足していたかも。
悔いがなかったかも。
誰にも代わりに決められない。
けれど。
最後の令呪を使ったのは遠坂だ。
その選択まで士郎が奪うことはできなかった。
「朝飯は俺が作る」
士郎は言った。
「肩、動くの?」
「動く範囲でやる」
「だったら無理しないで」
「遠坂に全部任せる方が落ち着かない」
「失礼ね」
「事実だろ」
遠坂は少しだけ眉を上げた。
それから、ほんのわずかに息を吐いた。
「じゃあ、任せるわ」
台所の入口に、小さな影が立っていた。
白い髪。
赤い瞳。
昨日の服のまま。
イリヤは士郎を見てから、遠坂を見る。
最後に、台所の隅へ立つアトラスを見た。
アトラスは鎧姿ではない。
けれど、肩の傷はまだ残っている。
王宮外装の損傷も、完全には戻っていない。
イリヤはアトラスから少し距離を取って、士郎の隣まで来た。
「起きたのか」
「起きてたわ」
「身体は?」
「平気よ」
言い切る。
昨日バーサーカーを失った少女の顔には見えなかった。
泣き腫らしてもいない。
歩けない様子もない。
ただ、士郎の袖を指先で掴んだ。
強くはない。
離れないと確かめる程度の力だった。
「何を作るの?」
「朝飯。食べられるか?」
「食べなくても平気よ」
「平気かどうかじゃなくて、食べるかって聞いてる」
イリヤは少し考えた。
「シロウが作るなら食べる」
「じゃあ待ってろ」
士郎が米の残りを確認する。
味噌汁。
卵。
焼き魚。
あり合わせで、普通の朝食を作る。
イリヤは士郎の隣から離れず、台所の動きを見ていた。
遠坂が茶を淹れようとすると、その手元へ疑うような視線を向ける。
「何よ」
「別に」
「毒なんて入れないわよ」
「そんなこと言ってないでしょう?」
「顔に書いてあるのよ」
イリヤは答えず、遠坂の右手を見た。
しばらく見つめる。
「リンは、もうマスターじゃないんでしょう?」
嘲る声ではなかった。
ただの確認。
遠坂も、右手を見る。
「そうね。令呪は全部使った。アーチャーもいない。わたしは敗退よ」
「それなのに、まだシロウの家にいるの?」
イリヤの指が、士郎の袖を少し強く掴んだ。
「もう負けたのに、まだシロウと一緒にいるつもり?」
「いるつもりよ」
遠坂は即答した。
イリヤが眉を寄せる。
「どうして?」
「聖杯戦争は終わってない。冬木は遠坂の管理地。昨日は、正規の七騎に入っているかどうかも分からないサーヴァントまで出てきた。ライダーとセイバーも残っている可能性がある」
遠坂は指を折らない。
普段通りに、必要なことだけ並べる。
「ギルガメッシュのマスターも、所属も、現界している方法も不明。士郎は魔術師として未熟。アトラスは冬木の聖杯戦争と現代魔術の事情には詳しくない」
「最後の二つは余計だろ」
「事実でしょう」
「不快だ」
アトラスが短く答えた。
「だが、誤ってはいない」
「ほら」
「アトラスまで認めるなよ」
「事実を棄却する理由はない」
イリヤは遠坂を見る。
「でも、それはもうリンの義務じゃないでしょう?」
遠坂の手が止まった。
ほんの一拍。
実務の答えでは足りないと分かったように。
「そうね。マスターとしての義務じゃない」
「なら、帰ればいいじゃない」
「わたしが敗退したことと、ここで全部放り出すことは別でしょう」
遠坂はイリヤを真っ直ぐに見る。
「令呪がなくなったからって、頭まで使えなくなったわけじゃないわ。聖杯を手に入れる参加者ではなくなっても、冬木で起きてることまで消えるわけじゃない」
「リンがやらなくてもいいことでしょう?」
「残るかどうかを、聖杯戦争の資格だけで決めさせるつもりはないわ」
声は静かだった。
「わたしが残ると決めたの。士郎とアトラスとの協力も続ける。誰かの配下になるつもりはないけどね」
「配下にするなんて言ってないぞ」
「念のためよ」
遠坂は、アーチャーがいたからここにいたわけではない。
アーチャーがいなくなったことで、遠坂まで戦争から消えるわけではない。
役割がなくなっても。
遠坂凛は、自分でここに残る。
イリヤは、それを理解できないように遠坂を見ていた。
やがて、士郎へ顔を向ける。
「じゃあ、わたしも残るわ」
「イリヤ?」
「シロウが他のマスターに負けるのは気に入らないもの。だから、応援してあげる」
明るい言葉ではなかった。
自分の場所を決めるような、固い言い方だった。
「応援って」
「わたしがシロウの味方をするってことよ」
「俺たちと一緒に戦うって意味か?」
「リンやランサーの仲間になるなんて言ってないでしょう?」
イリヤは不満そうに言う。
「シロウが負けるのが嫌なの。それだけよ」
遠坂が、何を勝手なことを、という顔をした。
けれど追い出せとは言わなかった。
士郎も、イリヤを戦力として数えるつもりはなかった。
バーサーカーを失ったばかりの少女へ、何か役に立てと求める気にはなれない。
「分かった」
「それだけ?」
「何て言えばいいんだ」
「喜べばいいじゃない」
「ありがとう、でいいのか?」
「仕方ないから、それで許してあげる」
士郎は朝食を仕上げた。
茶碗を並べる。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
手が止まる。
今朝、この家にいるのは。
士郎。
遠坂。
アトラス。
イリヤ。
四人。
昨日までいたアーチャーはいない。
いつも朝に来る桜もいない。
藤ねえもいない。
代わりにイリヤがいる。
増えたのは一人。
減ったのは三人。
食器の数だけが、今の家を正確に示していた。
「藤ねえはまだ病院だ」
誰に言うでもなく、士郎は言った。
「検査入院が続いてる。本人は、学校で倒れた原因を知らない」
桜も、今朝は来ていない。
学校の異変へ巻き込まれたばかりだ。
遠坂の判断で、しばらくこの家から遠ざけることになっている。
士郎も、それには納得していた。
桜が来ないことは寂しい。
だが、今ここへ来させるわけにはいかなかった。
家の中には。
もう、戦争と無関係な人間が一人もいなかった。
イリヤを普通の家へ連れて帰ったつもりだった。
けれど今の衛宮邸は、普通の日常から切り離されている。
それでも。
城の一室へ閉じ込めるよりはいい。
そう思うしかなかった。
居間へ移る。
イリヤは士郎の隣へ座った。
アトラスから一つ席を空ける。
遠坂が向かいに座ると、少しだけ顔をしかめた。
「普通の朝飯だけど」
「見れば分かるわ」
「嫌いなものがあったら言えよ」
「子供じゃないんだから、何でも食べられるわよ」
そう言って。
イリヤはすぐには箸を取らなかった。
食べなくても平気だと、本当に思っている顔だった。
士郎が味噌汁を前へ置く。
「冷めるぞ」
イリヤは、ようやく箸を取った。
卵焼きを一口。
何も言わない。
「どうだ?」
「普通」
「不味いのか?」
「不味いとは言ってないでしょう」
「じゃあ、食べられるんだな」
「シロウが作ったんだから、食べてあげる」
遠坂がイリヤの顔と手元を見ていた。
イリヤが気づく。
「何?」
「食欲はあるのね」
「見れば分かるでしょう?」
「昨日あれだけのことがあったのよ。体調を確認してるだけ」
「リンに心配される覚えはないわ」
声が少し平坦になる。
イリヤは皿から目を上げない。
その隣には誰もいない。
昨日まで。
立っていても、座っていても。
イリヤの傍には、あの巨体がいた。
食卓へ座るようなサーヴァントではない。
それでも。
隣にいることが当たり前だったのだろう。
士郎は、バーサーカーの名を口にしかけた。
やめた。
満足していた。
守れてよかった。
そんなことを、代わりに言うことはできない。
イリヤは少しだけ士郎の方へ寄り、また卵焼きを口へ運んだ。
「しばらく、ここにいていいからな」
士郎が言う。
イリヤが箸を止める。
「わたしは捕虜なの?」
「違う」
「なら、客?」
「それは……」
即答できなかった。
敵ではない。
捕虜でもない。
家族だと言えるほど、何かを決めたわけでもない。
助けるために連れ帰った。
ただ、それだけだ。
「救出対象として移送した」
アトラスが言った。
「滞在条件は未裁定だ」
「救出対象?」
イリヤの指が、膝の上で強く結ばれた。
「わたしは助けてなんて言ってないわ」
「要請の有無と、危険域から移送する必要は別だ」
「勝手ね」
「否定しない」
「アトラス」
士郎が止める。
「滞在条件なんて、そんな大げさなものじゃなくていいだろ」
「本人の意思を確認せず、身分を確定する方が不適切だ」
正論だった。
イリヤを勝手に客や仲間へ決めることも、城へ戻すこともできない。
「今すぐ決めなくていい」
士郎はイリヤへ言った。
「身体のこともあるし、今日はここにいろ」
言ってから、命令の形になったことに気づく。
「いや。少なくとも、今すぐどこかへ行く必要はないだろ。どうするかは、その後で考えればいい」
イリヤは答えなかった。
ただ、士郎が出した味噌汁を飲んだ。
朝食を終える。
遠坂は茶を淹れ直し、居間の卓上へ紙を広げた。
「昨日のことを整理するわ」
「ギルガメッシュか」
「そう。分かってることより、分からないことを確認したい」
紙の中央へ、ギルガメッシュ、と書く。
「真名はアーチャーが看破した。英雄王。無数の宝具を空間から射出する。バーサーカーを倒し、アーチャーの固有結界を打ち破った。アトラスの外装が、ただの鎧じゃないことも見抜いた」
アトラスの血色の瞳が細くなる。
「現在も冬木にいる」
「昨夜の城から離れたかは分からないのか」
「追跡はしていない」
「それどころじゃなかったもの」
遠坂が続ける。
「分からないのは、今回いつ召喚されたのか。クラス。マスター。現界を維持してる方法。城へ来た目的。狙いがイリヤだったのか、バーサーカーだったのか」
「監督役へ確認する必要はあるかもしれないわね」
「言峰に?」
「聖杯戦争の監督役なら、登録されてるマスターやサーヴァントの情報を持ってる可能性はある」
遠坂は紙の端へ、教会、とだけ書き足した。
「あんなやつ、知らない」
イリヤが言った。
遠坂が顔を上げる。
「神話を知らないって意味?」
「違うわ」
イリヤの声が硬くなる。
「ギルガメッシュが誰かくらい知ってる。そうじゃなくて、あんなサーヴァントは知らないの」
「今回召喚されたって聞いてなかった?」
「聞いてない」
イリヤの指が士郎の袖を掴む。
「わたしの知らないサーヴァントなんて、いちゃいけないんだから」
最後の言葉だけが強かった。
イリヤは視線を落とす。
昨日の黄金の波紋を思い出したように、顔をわずかに逸らした。
恐れているというより。
自分が知っている仕組みと、現実が一致しないことが許せないようだった。
遠坂は黙った。
紙の上に書いた名を見たまま、何かを考えている。
士郎も、イリヤの言葉を頭の中で並べ直した。
事前に七騎のことを教えられていた。
それだけなら、今どのサーヴァントが消えたかまでは分からない。
冬木にいるサーヴァントを探せる。
それなら、ギルガメッシュを昨日まで知らなかったのはおかしい。
召喚されたことを知っているわけでもない。
生きているサーヴァントを感じているわけでもない。
では、何が分かるのか。
遠坂が、急にイリヤを見る。
「あんた、消えたサーヴァントが分かるの?」
イリヤが首を傾げる。
「バーサーカーなら分かるわよ。わたしのサーヴァントだもの」
「バーサーカーだけじゃない」
遠坂の声が鋭くなる。
「アサシンは?」
「消えたわ」
「キャスター」
「その後」
「アーチャー」
イリヤは答えなかった。
遠坂を見る。
なぜ一騎ずつ聞くのか、理解できない顔だった。
それが答えだった。
「全部、分かってたのね」
「だから何?」
「消えた場所を感じるだけ?」
遠坂が身を乗り出す。
「遠くで消えたのが分かるの? 魂が移動するのを感じる? それとも――」
一度言葉を切る。
「あんたの中に入ったって分かるの?」
士郎は、意味を理解できなかった。
入った。
何が。
どこへ。
イリヤは、ますます不思議そうな顔をする。
「入ってくるんだから、分かるわよ」
比喩ではない。
遠坂の表情が変わった。
「今まで、いくつ入ったの」
「四つ」
短い答え。
イリヤは一度、胸元へ手を置いた。
「……四人分よ」
士郎の背中が冷える。
遠坂が紙へ視線を落とす。
「アサシン。キャスター。バーサーカー。アーチャー」
四騎。
士郎たちが確認した退場数と一致する。
バーサーカーが一度目に死んだ時は入っていない。
正式に消えた時だけ。
ギルガメッシュは入っていない。
ライダーも。
セイバーも。
アトラスもここにいる。
「四騎だけ……なら、ライダーはまだいる」
遠坂が呟いた。
「慎二との命令経路は切れた。結界も破壊した。それでも魂がイリヤに入ってないなら、現界を続けてる」
「でも、慎二はもうマスターじゃないんだろ?」
「ええ。だから、学校の結界だけが魔力源だったって推理は崩れる」
遠坂は考え込む。
「別の魔力貯蔵。慎二が隠していた供給経路。使い魔に近い形で維持してる。あるいは、マスターを失っても短期間残ってるだけ……」
「正規のマスターが生きている可能性は?」
「捨てられない。でも、死亡した可能性もまだ残る」
士郎には、どちらが正しいのか判断できなかった。
ただ。
ライダーがまだどこかにいる。
それだけが確定した。
「待った」
士郎はイリヤを見る。
「消えたサーヴァントが、おまえの中に入るって何だよ」
「そのままの意味よ」
「そんなわけあるか。人間の身体に、英霊の魂を四つも入れるなんて」
「人間の身体だから入るんじゃないわ」
イリヤは平然と答える。
「わたしは小聖杯だもの」
部屋が静かになった。
「小聖杯……?」
士郎は聞き返す。
遠坂は、イリヤから目を離さない。
「あんたが、小聖杯なの?」
「そうよ」
イリヤは、何を今さら聞くのかという顔をした。
「聖杯戦争でサーヴァントが消えたら、魂を受け取るの。中へしまって、最後に聖杯を完成させるために使う」
「しまうって」
「格納するのよ」
「おまえの身体に?」
「だから、そう言ってるでしょう?」
イリヤは苛立つ。
秘密を暴かれたからではない。
当たり前のことを理解されないことに。
「わたしは、そのために作られたの。消えたサーヴァントを受け取る小聖杯として。魂が入ってくるのは事故じゃないわ。ちゃんと動いてるってことよ」
「ちゃんとって……」
四つ。
人間の身体へ。
アサシン。
キャスター。
バーサーカー。
アーチャー。
四人分の英霊の魂が入っている。
それでもイリヤは歩いている。
話している。
朝食を食べた。
士郎の隣へ座っている。
「そんなことをして大丈夫なのか」
「大丈夫って?」
「身体だよ。痛くないのか。苦しくないのか」
「別に」
「魂を外へ出せないのか」
「知らないわ」
「別の器へ移すとか」
「そんなこと、わたしに聞かれても分からない」
「どうしてイリヤがやる必要があるんだ」
「そのために作られたからよ」
答えは揺れなかった。
自分が何のために作られたか。
その答えだけは、初めから決まっているような声だった。
「ギルガメッシュは?」
遠坂が聞く。
「あいつが消えたら、魂はあんたへ入るの?」
「分からない」
イリヤは首を振る。
「あいつは最初からいなかったもの」
「今回の七騎の勘定にいなかった?」
「そう。だから、消えたら入るのかも分からない。あんなの、初めてよ」
枠外。
今回の召喚に含まれていない可能性が高い。
それでも現界している。
「ライダーが消えれば?」
「来るでしょうね」
イリヤは当然のように答えた。
遠坂の表情が固くなる。
「身体を見せて」
「嫌よ」
「中を切ったりしないわよ。外から状態を確認するだけ」
「必要ないわ」
「必要あるだろ」
士郎が言うと、イリヤがこちらを見る。
「シロウまでリンの味方をするの?」
「味方とかじゃない。心配なんだ」
「平気だって言ったでしょう?」
「四人分の魂が入ってるなんて聞いて、平気だと思えるか」
イリヤは唇を尖らせた。
しばらく士郎を見る。
「少しだけよ」
遠坂が観測用の宝石を出す。
イリヤの手首へ触れ、脈を取る。
「魔力は流し込まない。外から反応を見るだけだから」
「変なことしたら手を切るわよ」
「はいはい」
宝石へ薄い光が宿る。
遠坂は呼吸。
体温。
魔力循環。
胸部と腹部の反応を順に確認する。
イリヤは士郎の隣へ座ったまま。
逃げない。
けれど、遠坂の指先を警戒している。
宝石の光が不規則に揺れた。
一つではない。
重なっている。
遠坂の顔から血の気が引いた。
「何が見えるんだ」
「分けられない」
「何が」
「人間の生命活動と、英霊を収めてる領域が、同じ身体の中で動いてる。別の器を持ってるんじゃない。イリヤ自身の魔力循環と繋がってる」
「壊れてるのか?」
「壊れてはいない」
アトラスが近づいた。
イリヤを見る。
「観測を許可するか」
「リンが見たんだから、好きにすれば?」
「許可として記録する」
アトラスの血色の瞳が、イリヤへ向く。
鎧を展開しない。
槍も持たない。
ただ、呼吸と脈と魔力の動きを見る。
イリヤの身体を、道具としてではなく。
人間の生命と、聖杯としての役割が同じ場所へ置かれた状態として。
「流入は予定された働きだ」
アトラスが言う。
「汝の説明に虚偽はない」
「ほら」
イリヤが言った。
「ちゃんと動いてるでしょう?」
「正常であることと、安全であることは同義ではない」
イリヤの顔から、わずかに得意げな色が消えた。
「何が違うの?」
「壊れていない。だが、危険がないという意味ではない」
壊れているのではない。
正しく動いている。
正しく、危険な方へ進んでいる。
その方が怖かった。
怪我なら治療できる。
壊れたものなら、元へ戻す方法を探せる。
けれど。
イリヤの身体は、最初からこの目的へ進むように作られている。
「四騎分も抱えて、まだ普通に動けてるの……?」
遠坂は信じられないものを見るようにイリヤを見た。
「意識があって、歩けて、話せて、食事までできる」
「アインツベルンの小聖杯だもの」
「自慢するところじゃないわよ」
遠坂が強く言う。
「今が安全域だなんて判断できない。次が入っても、同じ状態を保てる保証はないわ。意識か、身体か、魔術回路か。どこに異常が出るかも分からない」
「次って、ライダーかセイバーか」
「ギルガメッシュも、入る可能性は否定できない」
遠坂はイリヤの手首を離した。
「遠坂」
士郎の声が掠れた。
遠坂は目を逸らさない。
「これ以上入ったら、どこが止まってもおかしくないわ」
イリヤは驚かなかった。
顔色も変えない。
「そうでしょうね」
平静な声。
危険を知らなかったのではない。
自分が今のままでいられなくなることさえ、予定されたことだと思っているようだった。
「なら、次を入れないようにする」
遠坂が言った。
「何?」
「ライダーとセイバーとギルガメッシュ。次の一騎が消える前に、できることを探す」
「どうやって」
「まず、所在と契約関係を調べる。小聖杯についても情報を集める。不必要な戦闘は避ける」
遠坂は紙へ書き足す。
「ライダーは現存。慎二との経路は切れてる。供給源と正規マスターは不明。セイバーも現存している可能性が高い。マスター不明。ギルガメッシュは枠外の可能性が高く、全部不明」
遠坂はアトラスを見る。
「そっちは?」
「優先すべきは、救出対象の生命維持だ」
イリヤが不満そうに睨む。
「新たな魂の流入を避ける。黄金の男を警戒する。マスターの安全を保つ。並行して、王宮外装の損傷を修復する」
「アトラスは戦えるのか」
「可能だ」
「無理はするな」
「必要な戦闘まで棄却する理由はない」
「でも、戦えば誰かが消えるかもしれない」
士郎は言った。
「なら、もうサーヴァント同士を戦わせなければいい」
「そんな簡単にはいかないわよ」
遠坂が即座に返す。
「ギルガメッシュが交渉に応じるかも分からない。ライダーがどこにいるかも、セイバーのマスターも分からない。向こうがイリヤの状態を知ってる保証もない。アトラスが戦わなければ、襲われた時に誰が士郎たちを守るの?」
「でも」
「戦わせないことを目標にはできる。けれど、それだけで全部止まるとは考えないで」
分かっている。
士郎が剣を置けば、相手も置くわけではない。
それでも。
次の退場が起きる前に。
何かを見つけなければならない。
「リンは、本当にまだ続けるの?」
イリヤが遠坂へ聞いた。
朝に聞いた時とは、少し違う声だった。
遠坂はもうマスターではない。
サーヴァントもいない。
聖杯を得る資格もない。
それでも。
調べる。
判断する。
残る。
次の危機を止めようとする。
「続けるんじゃないわ」
遠坂は答えた。
「終わってないことを放っておかないだけ」
「リンには、もう関係ないでしょう?」
「関係があるかどうかも、わたしが決めるわ」
遠坂は苛立った顔をした。
それ以上は言わなかった。
イリヤは俯く。
「リンとは違うわ」
「何が」
「わたしには、まだやることがあるもの」
士郎は、その言葉に嫌なものを感じた。
イリヤの言う「やること」が、先ほど聞いた小聖杯の役割を指していることだけは分かった。
話が一段落した後。
士郎は客間を整え始めた。
押入れから布団を出す。
洗ったシーツ。
毛布。
枕。
タオルと洗面道具。
水差し。
着替えは、家にあるものでは大きすぎる。
あとで用意する必要がある。
菓子も少し置いておく。
大げさなもてなしではない。
誰かが一晩過ごすための、普通のもの。
けれど。
今晩もイリヤがここにいることを前提にしている。
一時的に運び込んだ捕虜なら。
こんなことはしない。
「何してるの?」
廊下にイリヤが立っていた。
「見れば分かるだろ。部屋を用意してる」
「誰の?」
「イリヤの」
「わたし、今夜もここにいるなんて言ってないわ」
「だからって、何も用意しないわけにいかないだろ」
士郎は布団を敷く。
イリヤは部屋へ入らない。
敷居の前に立ったまま。
水差し。
タオル。
畳んだ服。
布団。
一つずつ見る。
触れようとはしなかった。
「身体のことが分かるまでは休んだ方がいい」
「平気よ」
「平気でもだ」
「お城へ戻るかもしれないでしょう?」
「今すぐ戻る必要はない」
士郎は言った。
「少なくとも、今すぐどこかへ行く必要はないだろ。今日はここで休めばいい。明日のことは、その後で考えればいい」
「シロウが決めるの?」
「決めない」
士郎はイリヤを見る。
「イリヤが決めればいい。でも、今すぐ決めなくていいって言ってるんだ」
イリヤは黙る。
用意された部屋を見ている。
「どうして」
「何が」
「どうして、わたしを連れてきたの?」
士郎は答えようとして、止まった。
昨日の広間が浮かぶ。
黄金の波紋。
崩れた巨体。
そこに一人で立っていたイリヤ。
「あそこに置いていけなかった」
「だから、どうして?」
「分からない」
それでも、言葉はそこで終わらなかった。
「けど、置いていけなかったんだ」
イリヤが眉を寄せる。
「理由になってないわ」
「そうかもしれない」
ただ。
イリヤを置いていかないと決めた。
それだけは確かだった。
「リンも選んだのに?」
「遠坂を選んだから、イリヤを捨てるわけじゃない」
「両方を選ぶなんて、選んだことにならないでしょう」
士郎は答えられなかった。
違う、とだけ思った。
けれど、何がどう違うのか。
イリヤへ返せる言葉にはならなかった。
アーチャーの遺言も。
イリヤを連れて帰った理由も。
選択というものが、何を意味するのかも。
ただ。
部屋だけは用意した。
今夜。
明日。
イリヤが人間としてここにいることを、先に決めるように。
襖は開けたままにした。
閉じ込めるつもりはない。
士郎は廊下へ出る。
イリヤは客間の中へ入った。
布団を見ない。
士郎とも目を合わせない。
胸元へ手を置く。
小さく息を吐いた。
「どうせ私は、聖杯になるものだから」
お読みいただきありがとうございます。
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後日譚の
『The Reversed Star――逆位置の星――』 https://syosetu.org/novel/417875/
も連載中です、よろしくお願いします。