The Reaching Shore――届かせるもの―― 作:ほいみん
※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。
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客間の襖は閉じていた。
少し前まで開けていたはずの襖が、今は廊下と部屋を分けている。
向こうから物音はしない。
眠ったのか。
それとも、ただ何もせずにいるのか。
士郎には分からなかった。
何も返せなかった。
それだけは分かっている。
そんなことはない、と言えばよかったのかもしれない。
けれど。
イリヤが小聖杯であることは、もう否定できない。
四騎分の魂が入っている。
消えたサーヴァントを受け取り、聖杯を完成させる。
そのために作られた身体だと、本人が言った。
事実だった。
だが。
事実であることと、それしかないことは違うはずだ。
そう思う。
思うだけで。
どう違うのかを、イリヤへ返せる言葉にはできなかった。
「今は休ませましょう」
居間で、遠坂が言った。
湯呑みを持ったまま、客間の方は見ない。
「四騎分も抱えてるのよ。身体の限界も分からない。本人が平気だって言っても、信用しきるわけにはいかないわ」
「でも、あのままでいいのか」
「よくはないわよ」
遠坂は即答した。
「だからって、今すぐ襖を開けて、違うって言えば済む話でもないでしょう」
「違うとは思う」
「何が?」
「イリヤが聖杯になるからって、それだけで――」
言葉が止まる。
それだけで、何だ。
諦めていいのか。
助けなくていいのか。
人間じゃなくなることを受け入れていいのか。
どれも近い。
だが、どれも士郎が今すぐ証明できることではない。
「……分からない」
「でしょうね」
遠坂は責めなかった。
「今は休ませる。分からないことは調べる。できることからやる。それでいいわ」
「遠坂は、何か分かるのか」
「小聖杯の仕組みそのものは、アインツベルンの秘奥よ。わたしが外から見ただけで全部分かるはずないでしょう」
遠坂が卓上の紙へ視線を落とす。
「でも、放っておく気はない」
士郎は頷いた。
アトラスは少し離れたところに立っていた。
客間へ目を向けている。
何も言わない。
正常であることと、安全であることは同義ではない。
そう裁定した。
だが。
イリヤは聖杯ではない、とも言わなかった。
言えなかったのだろう。
小聖杯であること。
イリヤという少女であること。
本人が自分をどう見ているのか。
その三つを、アトラスもまだ分けられていないのだろう。
「アトラス」
「何だ、マスター」
「イリヤのこと、どう思う」
「これ以上の魂の流入を避けるべきだ」
答えは早かった。
「現在の安定は維持されている。だが、余裕があるとは判断できぬ」
「そうじゃなくて」
「何が不足している」
士郎は言葉に詰まった。
不足している。
確かに、アトラスの答えには何かが足りない。
だが、その足りないものを士郎自身が説明できない。
「……いや。今はいい」
「承知した」
アトラスはそれ以上問わなかった。
襖の向こうは静かなままだった。
事実なら、諦めていいのか。
士郎は、その考えを振り払うように立ち上がった。
今の自分には。
イリヤを聖杯にしない方法も。
小聖杯ではない人生も。
何一つ示せない。
なら。
少なくとも、立ち止まっているだけでは駄目だった。
◇
午後。
アトラスは庭の奥にいた。
塀と土蔵の陰になり、外からは見えない場所。
紺碧の光が、低く地面を這っている。
鎧の一部だけが展開されていた。
肩。
胸。
腰。
昨夜、ギルガメッシュの宝具を受けた箇所には、薄い亀裂が残っている。
だが。
それは金属板の傷には見えなかった。
光の流れが途中で途切れ、ずれたまま固まっている。
まるで、壁と道が重なったまま動かなくなっているような。
「手伝えるか?」
士郎が声をかける。
アトラスは手を止めなかった。
「不要だ」
「即答するなよ」
「汝が介入できる修復ではない」
「鎧を直してるんじゃないのか」
「王宮外装だ」
「それは分かってる」
「ならば、通常の鎧とは異なることも理解しているはずだ」
「見て分かるほどにはな」
士郎はしゃがみ込む。
近くで見ると、ますます金属には見えない。
紺碧の薄片が重なり。
その隙間を、光が通っている。
亀裂の周囲だけ、その流れが乱れていた。
「板を替えたり、留め具を直したりするんじゃないんだな」
「外壁の流れを戻している」
「外壁?」
「王宮の外郭だ。損傷箇所で通路が停滞している」
「やっぱり鎧じゃないな、それ」
「最初からそう述べている」
アトラスの指先が光へ触れる。
紺碧の線が一本、ゆっくりと繋がった。
「壊れた場所を塞ぐんじゃなくて、道を繋ぎ直してるのか」
「近い」
「手伝えない理由は分かった」
「理解したなら離れていろ」
「邪魔はしない」
士郎は少し離れて座った。
昨日。
ギルガメッシュは、この外装を見ていた。
鎧を見る目ではなかった。
城門を見る目でもない。
鍵穴を見つけた王の目。
あの時の感覚が蘇る。
「ギルガメッシュに、何を見られたんだ」
アトラスの手が止まる。
「構造の一端だ」
「王宮外装の?」
「奴は、外装が壁であることを理解した」
「壁なら、見れば分かるんじゃないのか」
「壁であるだけなら問題はない」
アトラスが血色の瞳を上げる。
「門がある。通路がある。通行を許可する条件がある。内部へ至る入口がある」
「それを探してる?」
「探し始めた」
短い答え。
士郎は昨夜の赤い目を思い出す。
面白いものを見つけたような。
壊す前に、開け方を確かめるような。
「次は、同じ防ぎ方が通じないかもしれないのか」
「可能性はある」
「それなら――」
「使用しない」
返答は速かった。
「まだ何も言ってないぞ」
「汝が何を問うかは分かる」
「使えば防げるんじゃないのか、完全閉城を」
「全てを晒すことになる」
「全て?」
「門。外壁。通路。拒絶条件。王宮の構造そのものだ」
アトラスは修復中の光へ目を戻す。
「奴は見る。理解する。次に同じものを見せれば、より深く読む」
「だから、使えない」
「無闇には使えぬ」
完全閉城。
閉じたまま動く城。
王宮外装の全機能を、自身へ統合する。
まだ士郎も見ていない。
だが。
あのギルガメッシュへ見せることが危険だということだけは分かった。
「シロウ」
背後から声がした。
振り向く。
イリヤが縁側の先に立っていた。
客間にいた時と同じ服。
表情も変わらない。
けれど、自分から部屋を出てきた。
「休んでなくていいのか」
「退屈したの」
「身体は?」
「平気だって言ったでしょう」
「それでもだ」
「シロウは心配しすぎよ」
イリヤは庭へ下りる。
真っ直ぐ士郎のところへ来て。
そこで、アトラスの前に広がる紺碧の光へ目を向けた。
「何してるの?」
「外装の修復だ」
「それ、鎧じゃないの?」
「王宮外装だ」
「同じに見えるけど」
「異なる」
イリヤが屈む。
触れはしない。
光の線を目で追う。
「どうして城みたいな形になるの?」
「城だからだ」
「答えになってないわ」
「王宮の外装を、自身の防護へ転用している」
「壁とか門が出るの?」
「必要に応じて」
「何のために?」
「守るためだ」
「誰を?」
アトラスは一拍置いた。
「民。都市。契約下にある者。通行を許可した者」
「通したくない相手は?」
「拒絶する」
「閉じ込めることもできる?」
「可能だ」
「沈めることも?」
士郎はイリヤを見る。
昨日まで。
イリヤはアトラスの過去へほとんど興味を示していなかった。
今は違う。
紺碧の光を見ながら。
問いを一つずつ重ねている。
「必要であれば」
アトラスが答える。
「王宮外装は、壁と門と通路を形成する。通す者と通さない者を裁定する。危険を区画し、内部への侵入を拒む。必要なものを内部へ保存する」
「保存」
イリヤが繰り返す。
「守るのと同じ?」
「異なる場合もある」
「閉じ込めるの?」
「外部から隔離する」
「同じでしょう」
「結果が同じでも、裁定の目的は異なる」
イリヤは少し眉を寄せた。
「あなた、本当に王様みたいな話し方をするのね」
「王だからな」
アトラスは当然のように答えた。
イリヤの目が細くなる。
「聖杯に願いがないんでしょう?」
「ない」
「じゃあ、どうして戦ってるの?」
「現在、
「シロウが戦うから?」
「聖杯戦争へ参加するというマスターの裁定に従っている」
「自分の願いはないのに?」
「聖杯へ願いを託すことと、行動する理由は同じではない」
「じゃあ、あなたの理由は何?」
アトラスは答えなかった。
士郎は、以前の会話を思い出す。
召喚へ応じた理由。
聖杯への願いとは別に、何かがある。
そう感じたことがある。
だが。
それは、遠坂もイリヤも知らない。
士郎にも、確かなことは分からない。
口を挟むことはできなかった。
「今は、マスターの安全を維持する」
アトラスが言う。
「冬木の聖杯戦争において、必要な裁定を行う。それが己の行動理由だ」
「また王様の話」
「何が不満だ」
「別に」
イリヤは紺碧の光を見る。
「どんな王様だったの?」
「問う範囲を定めろ」
「何を治めてたの?」
「海上の王国だ」
「海の中じゃなくて?」
「元は海上にあった」
士郎は顔を上げる。
夢で見た都市。
水底に沈み。
青い光の中で保存されていた街。
最初から海底にあったのではない。
海上にあった都市を。
アトラスが沈めた。
「どうして沈めたの?」
「崩壊を止めるためだ」
「壊したの?」
「保存した」
「沈めて?」
「外部から隔離し、崩壊を止めた」
「民は?」
「内部へ収容した」
「全員?」
アトラスは答えない。
完全な答えではない。
それだけで、全てが救われたわけではないのだと分かる。
「王として必要な裁定だった」
アトラスは言った。
「また王として」
「事実だ」
「都市を沈めたのも?」
「王として行った」
「民を閉じ込めたのも?」
「王の責務として」
「守ったのも?」
「同じだ」
「シロウと契約したのも?」
「現在の己は、マスターのサーヴァントだ」
「それも役割でしょう?」
「契約上の立場だ」
「同じよ」
イリヤの声が少し強くなった。
士郎は、そこでようやく気づいた。
アトラスが答えるたび。
同じ言葉が戻ってくる。
王。
王宮。
民。
責務。
裁定。
守る。
閉じる。
通す。
アトラス自身の話をしているようで。
語られているのは、王が何をするかだけだった。
何が好きなのか。
何が嫌いなのか。
何を望むのか。
王でなければ、何者なのか。
何一つ出てこない。
「新たなサーヴァントの退場は避けるべきだ」
アトラスが会話を切り替える。
イリヤを見る。
「現在の安定を維持し、無理な移動と戦闘参加を避ける。変化があれば即座に申告しろ」
「命令しないで」
「生命維持に必要な裁定だ」
「わたしはあなたの民じゃないわ」
「認識している」
「じゃあ、勝手に決めないで」
「危険が明確である以上、放置はできぬ」
アトラスは正面からイリヤを見る。
「器の娘。汝は――」
「器って呼ばないで」
イリヤの声が鋭くなった。
アトラスが止まる。
「わたしには名前があるわ」
庭の風が、一度だけ通った。
士郎も。
縁側へ出てきていた遠坂も。
ほんの一瞬、何も言えなかった。
アトラスに悪意がないことは分かる。
小聖杯であること。
四騎分の魂が入っていること。
追加の流入が危険であること。
それをまとめた呼び方だった。
だが。
そこには、イリヤがいない。
「汝が小聖杯であることは事実だ」
アトラスが答える。
「だから器って呼ぶの?」
「役割を示す呼称だ」
「じゃあ、あなたは王様だから、王様って呼んでいればそれでいいの?」
「己は王だ」
「そうね」
イリヤは立ち上がった。
アトラスを真っ直ぐに見る。
「都市を沈めたのも王様として。民を守るのも王様として。道を閉じるのも、シロウを守るのも、全部王様として」
アトラスは何も言わない。
「あなたは王様の話しかしていない」
紺碧の光が、わずかに揺れた。
「それを取ったら何が残るの」
アトラスは動かない。
イリヤも目を逸らさない。
「わたしにはイリヤがあると言うなら、あなたには何があるの」
答えはなかった。
三つの問いが、そのまま庭へ残った。
士郎の中にも。
一瞬だけ。
別の言葉が浮かぶ。
正義の味方を取ったら。
自分には何が残る。
アーチャーの声が重なる。
選択まで借り物へ預けるな。
だが。
今は、自分の問いではない。
目の前で。
アトラスが初めて答えを失っていた。
アトラス。
沈んだ国の王。
ランサー。
士郎のサーヴァント。
王宮の主。
どれも名前や役割や立場だ。
イリヤが聞いたものへの答えにはならない。
アトラスの手が、修復中の外装から離れた。
紺碧の光が一度弱まる。
淡い水青の髪が、風に揺れた。
アトラスはイリヤを正面から見る。
「……よく見ている。観測精度が高い」
「答えになってないわ」
「否定しない」
「なら答えて」
アトラスは沈黙する。
長い。
誤魔化す言葉を探しているようには見えなかった。
ただ。
答えがない。
そのことを、初めて自分でも確かめているようだった。
「その問いへの回答は、保留する」
「分からないってこと?」
「現在の己には回答できぬ」
イリヤは眉を寄せる。
勝った顔はしなかった。
聞きたかったのは、アトラスを黙らせることではないのだろう。
「イリヤスフィール」
アトラスが言った。
イリヤの目が動く。
初めて。
役割ではなく。
個人の名で呼んだ。
「……最初からそう呼べばよかったのに」
声の勢いが、少しだけ弱くなる。
イリヤは目を逸らした。
「機能は汝の一部であり、全てではない」
「急に何よ」
「器の娘という呼称は不十分だった」
「慰めてるつもり?」
「優しさではない。誤った裁定の訂正だ」
士郎は、アトラスを見た。
謝った。
すまないとは言わない。
悪かったとも。
けれど。
誤りを認め。
呼び方を変え。
裁定を更新した。
アトラスにとっては、それが謝罪なのだろう。
軽いことではない。
遠坂が小さく息を吐いた。
口は挟まない。
士郎と一度だけ視線を交わし、また二人へ目を向けた。
「それで」
イリヤが言う。
「あなたの答えは?」
アトラスは答えない。
呼び方を正すことはできた。
イリヤの機能が、イリヤの全てではないと裁定できた。
だが。
自分から王を取った時に何が残るのか。
その問いだけは、そのままだった。
士郎は、これまで見てきたアトラスを思い返す。
召喚された直後から、アトラスは士郎を守った。
けれど、士郎の代わりに参戦を決めることはなかった。
曖昧な令呪を、自分に都合よく広げもしなかった。
誰も死なせるな。
殺すな。止めるだけでいい。
士郎が渡した言葉を、アトラスは守った。
戦場が変わっても。
城でイリヤを連れて帰ると決めた時も、理由を問わず、その判断を受けた。
そして今。
自分の呼び方が誤っていたと認めた。
それらが何なのか。
士郎には、まだうまく言えない。
誠実。
頑固。
責任感。
優しい。
そんな一つの言葉へまとめるには、どれも足りなかった。
ただ。
王だから、だけではないはずだと思う。
だが。
代わりに答えることはできない。
それはアトラス自身が答えることだ。
「修復を続ける」
アトラスが外装へ手を戻した。
会話を終えたわけではない。
問いを捨てたわけでもない。
ただ。
今は答えられないまま。
紺碧の流れを繋ぎ直す。
イリヤはしばらく、その横顔を見ていた。
「ランサー」
「何だ」
「もう器って呼ばないでしょうね」
「呼称は訂正した」
「ならいいわ」
仲良くなったようには見えない。
イリヤはアトラスから一歩離れた。
それでも。
庭へ来た時ほどの警戒はなかった。
一人は聖杯。
一人は王。
相手の方にだけ、自分と同じ空白が見えているのかもしれない。
◇
日が落ちた。
夕食は短かった。
イリヤは士郎の隣に座る。
アトラスへ露骨な敵意は向けない。
ただ。
アトラスが口を開くたび、また役割で呼ばれないか確かめるように見ていた。
アトラスは一度も、器とは呼ばなかった。
修復は終わっていない。
肩の外装には、まだ薄い亀裂が残っている。
食事の後。
イリヤは客間へ戻った。
遠坂は調べ物を続ける。
アトラスは庭へ戻る。
士郎だけが、少し遅れて廊下に残った。
アーチャーの言葉。
イリヤの三つの問い。
答えられなかったアトラス。
正義の味方を取った後。
自分には何が残る。
考えかけて。
やめた。
今はまだ。
どの問いにも、答えはなかった。
◇
夜。
士郎は寝室へ戻った。
身体が重い。
昨日の傷も。
今日一日の疲れも。
布団へ入ると、一度に押し寄せてくる。
左手を見る。
令呪は残り一画。
赤い印は消えていない。
目を閉じる。
眠りへ落ちる直前。
問いだけが残った。
王様を取ったら。
何が残る。
◇
風が吹いていた。
海上を渡る風。
塩の匂い。
石床の亀裂。
空と海の境界に、都市が広がっている。
海の上だ。
水底ではない。
高い塔。
白い王宮。
港へ伸びる道。
都市の中を巡る水路。
空と海の間に築かれた街。
けれど。
石床は崩れ始めていた。
遠くで塔が傾く。
水路の縁が割れる。
港の外壁へ、黒い亀裂が走る。
人々が走っている。
声が重なる。
「王よ」
「至高王」
「裁定を」
「アトラス」
王宮の奥。
玉座に、男がいた。
第二の夢で見た王。
現在のアトラスとは違う。
成人した男。
大きな身体。
王冠を戴いていたはずの頭。
呼吸している。
生きている。
血は流れていない。
致命傷もない。
それでも。
民の声へ応えない。
「王よ」
「至高王」
「アトラス」
聞こえていないのか。
聞こえていて、答えられないのか。
分からない。
男は動かない。
玉座の近くに、王冠が置かれていた。
誰かへ差し出されてはいない。
手渡されてもいない。
遺言もない。
戴冠式の準備もない。
王が手放し。
ただ、そこに残っている。
その近くに。
一人の少女が立っていた。
第二の夢で。
男の傍にいた小さな影。
今は成長している。
小柄な身体。
淡い水青の髪。
現在のアトラスと同じ姿。
まだ。
完全な王宮外装はない。
少女の周囲には。
応答しない王。
裁定を待つ民。
崩れ始める都市。
置かれた王冠。
それだけがある。
誰も少女を選ばない。
男は命じない。
王冠を渡さない。
民も推戴しない。
神託はない。
冠を戴かせる者もいない。
都市の崩壊だけが進む。
「裁定を」
「王よ」
少女が王冠へ歩く。
誰かが決めるのを待たない。
止める者はいない。
許す者もいない。
少女は王冠を取った。
重い。
その重さを確かめるように、両手で持つ。
男を見る。
長く。
男は動かない。
少女の名を呼ばない。
許可しない。
禁止しない。
祝福しない。
非難もしない。
少女が先に視線を外した。
王宮へ向き直る。
王冠を。
自分の頭へ戴いた。
勝利ではない。
簒奪とも。
祝福とも。
正統な継承とも。
先の王への反逆とも。
どれとも決まらない。
必要な裁定者がいない。
だから。
少女が座る。
王冠が頭へ触れた瞬間。
紺碧の光が、王宮を走った。
外壁。
門。
通路。
防護区画。
光が都市を囲む。
崩れかけた道が組み替わる。
門が閉じる。
外から迫る崩壊が、壁の向こうで止まる。
内側から溢れようとする火も、そこで閉ざされる。
海上都市が。
ゆっくりと下がり始める。
海面が近づく。
港が沈み、水路へ海が重なる。
塔の根元を波が呑む。
都市全体が、海の中へ入っていく。
空に星がある。
その光が水面へ映る。
都市が沈むにつれ。
星も下へ移る。
上にあるはずの光が。
水面の下へ落ちる。
反転した星が。
少女と。
都市と。
王冠とともに沈んでいく。
紺碧の光が、少女の身体を包む。
外壁が肩へ。
門が胸へ。
通路が四肢へ。
王宮の装甲が形を取る。
守るための壁。
閉じるための門。
通す者を選ぶ道。
都市を沈める王宮。
少女は振り返らない。
民の声が響く。
「アトラス」
「アトラス王」
男が持っていた名。
王の名。
応答する者へ移る名。
民は。
少女個人を呼ばない。
必要なのは王だった。
沈む都市の中で。
民は、アトラスと呼んだ。
その声の底で、もう一つの名だけが沈まなかった。
「エウメロス」
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しばらくは毎日7時頃に更新予定です。
後日譚の
『The Reversed Star――逆位置の星――』 https://syosetu.org/novel/417875/
も連載中です、よろしくお願いします。