The Reaching Shore――届かせるもの――   作:ほいみん

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Fate/stay night二次創作長編『The Reaching Shore――届かせるもの――』第13話です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・AI使用表記・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
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第21話 二つの名前

 エウメロス。

 

 声だけが残っていた。

 

 沈んだ都市も。

 

 王冠も。

 

 民の呼ぶ名も。

 

 目を開けた瞬間には、すべて遠ざかっていた。

 

 それでも。

 

 その名だけが、耳の奥から消えない。

 

 士郎は浅く息を吸った。

 

 胸が重い。

 

 海水を飲み込んだわけでもないのに、呼吸がうまく深くならなかった。

 

 耳の奥には、まだ水が残っているような気がする。

 

 頭と肩には、見たこともない王冠の重さがあった。

 

 天井を見る。

 

 見慣れた自分の部屋だ。

 

 朝の薄い光。

 

 障子の向こうから差し込む、冬の白さ。

 

 海はない。

 

 王宮もない。

 

 だが。

 

 夢の中の男と。

 

 今のアトラスは。

 

 もう、重ならなかった。

 

 あの男は生きていた。

 

 玉座に座り。

 

 呼吸をして。

 

 民の呼びかけに答えなかった。

 

 その傍に、王冠が置かれていた。

 

 小柄な少女が自分で取り。

 

 自分の頭へ戴いた。

 

 民は少女をアトラスと呼んだ。

 

 その声の底に、もう一つの名があった。

 

 エウメロス。

 

 士郎は心の中で、一度だけ反芻した。

 

 口には出さなかった。

 

 夢の中で聞いただけの名だ。

 

 本人から聞いていない。

 

 知ったからといって。

 

 すぐに呼んでいいものではない気がした。

 

 布団から起き上がる。

 

 身体を動かすと、昨日までの傷が鈍く痛んだ。

 

 障子の外に気配がある。

 

 アトラスはもう起きている。

 

 呼べば、すぐに来るだろう。

 

 問い詰めることもできる。

 

 けれど。

 

 士郎は立ち上がり、先に顔を洗うことにした。

 

 夢の中で見たものを、そのままぶつける気にはなれなかった。

 

     ◇

 

 台所へ行くと、アトラスはすでにいた。

 

 いつもと同じように。

 

 出入口を確認し。

 

 庭の方へ一度視線を向け。

 

 士郎が米を研ぎ始めると、必要な食器だけを棚から出した。

 

「起きていたのか」

 

「睡眠は不要だ」

 

「そうじゃなくて。ずっとここにいたのか」

 

「夜間は周囲を警戒していた」

 

 いつもの答えだった。

 

 夢の中の少女。

 

 王冠を戴いた直後。

 

 紺碧の光に包まれた姿。

 

 その面影を、目の前のアトラスへ探してしまう。

 

 けれど。

 

 アトラスは昨日と変わらない。

 

 淡い水青の髪。

 

 血色の瞳。

 

 修復の終わっていない外装。

 

 食器を運び。

 

 出入口を見て。

 

 必要な時だけ士郎を手伝う。

 

「それ、こっちに置いてくれ」

 

「承知した」

 

 皿が卓上へ置かれる。

 

 その動作も変わらない。

 

 エウメロス。

 

 頭の中に名前だけが浮かぶ。

 

「シロウ」

 

 振り向く。

 

 イリヤが居間の入口に立っていた。

 

 寝起きの顔だ。

 

 髪はまだ少し乱れている。

 

「おはよう、イリヤ」

 

「おはよう」

 

 イリヤは士郎を見て。

 

 それからアトラスを見た。

 

 もう一度、士郎へ戻る。

 

「さっきから、アトラスのことばっかり見てる」

 

「え」

 

「見てるでしょう」

 

「そんなことは――」

 

 否定しかけて。

 

 できなかった。

 

 実際、見ている。

 

 夢の中の少女と。

 

 目の前のアトラスを比べている。

 

「夢を見た」

 

 士郎が言うと、アトラスの手が止まった。

 

 遠坂も居間へ入ってくる。

 

 目元に少し疲れが残っていた。

 

「夢?」

 

「アトラスの過去だと思う」

 

 イリヤがアトラスを見る。

 

 遠坂は座卓の前に腰を下ろし、士郎へ続きを促すように黙った。

 

「ここで話していいか」

 

 士郎はアトラスへ聞いた。

 

 遠坂とイリヤがいる。

 

 アトラスが拒むなら、二人きりで話すべきだ。

 

「構わぬ」

 

 短い返答だった。

 

 退席を求める様子はない。

 

「朝飯、先に食べるか?」

 

「どちらでもいいわ」

 

 遠坂が言う。

 

「ただ、話に夢中になって焦がさないでよ」

 

「分かってる」

 

 味噌汁の火を弱める。

 

 皿を並べ。

 

 簡単な朝食を卓上へ置く。

 

 全員が座ってから。

 

 士郎は、夢で見たものを順に話した。

 

 海の上にある都市。

 

 玉座にいた男。

 

 男が生きていたこと。

 

 民が呼びかけても答えなかったこと。

 

 王冠が置かれていたこと。

 

 小柄な少女が、自分で王冠を戴いたこと。

 

 都市が沈んだこと。

 

 民が少女をアトラスと呼んだこと。

 

 その声とは別に。

 

 エウメロスと呼ぶ声があったこと。

 

 すべてを話し終えるまで。

 

 アトラスは口を挟まなかった。

 

「あの男の人は、誰なんだ」

 

 士郎が聞く。

 

「先代のアトラスだ」

 

 遠坂の箸が止まる。

 

「先代?」

 

(おれ)以前に、その名を持っていた王だ」

 

「同じ名前を継いだの?」

 

「民は王をアトラスと呼んだ」

 

 アトラスは淡々と答える。

 

「兄も、己も、その名で呼ばれた」

 

「兄……?」

 

 士郎は夢の男を思い出す。

 

 玉座に座り。

 

 少女の名を呼ばず。

 

 王冠を置いたまま、動かなかった男。

 

「あの人は、アトラスの兄さんなのか」

 

「そうだ」

 

 イリヤが小さく目を見開く。

 

 遠坂はアトラスから視線を外さない。

 

「じゃあ、兄さんは死んでたんじゃないのか」

 

「生存していた」

 

「でも、生きてるのに」

 

 別の人間が王冠を戴いた。

 

 それが普通のことには思えなかった。

 

 責めたいわけではない。

 

 ただ。

 

 なぜそうする必要があったのか。

 

 夢だけでは分からない。

 

「どうして、王のままでいなかったんだ」

 

 アトラスはすぐには答えなかった。

 

 湯気が、卓上で揺れている。

 

「呼びかけへ答えなかった。民にも、己にも」

 

 それだけだった。

 

「ずっと?」

 

 イリヤが聞く。

 

「国が裁定を必要とする間も、応答は戻らなかった」

 

「何があったの?」

 

「分からぬ」

 

「分からないの?」

 

「兄の内に何があったか、己は知らぬ」

 

 答えられなかったのか。

 

 答えなかったのか。

 

 その違いさえ、アトラスは言わない。

 

 ただ。

 

 民にも。

 

 妹にも。

 

 呼びかけへ答えなかった。

 

 それだけが残る。

 

「じゃあ」

 

 士郎は口にする。

 

「王冠は兄さんが渡したんじゃないのか」

 

「違う」

 

「置いてあっただけなのか」

 

「そうだ」

 

「後を継げって言われたわけでもなくて?」

 

「命令はなかった」

 

 遠坂が確認する。

 

「正式に譲られたわけじゃないのね」

 

「譲渡はなかった」

 

「それでも、自分で王になるって決めたのか」

 

「必要だった」

 

「必要だから、やったのか」

 

「他に裁定する者はいなかった」

 

 士郎は夢の中の少女を思い出す。

 

 誰にも選ばれていなかった。

 

 冠を渡す者も。

 

 許す者も。

 

 止める者もいなかった。

 

 王が必要だった。

 

 だから。

 

 少女が自分で座った。

 

「エウメロスっていうのが、本当の名前なのか」

 

 言ってから。

 

 少し違う気がした。

 

 アトラスはすぐに修正した。

 

「出生時に与えられた名だ」

 

「じゃあ、アトラスは」

 

「偽りではない」

 

 士郎が最後まで言う前に答える。

 

「エウメロスは出生時の名。アトラスは、己が王として受けた名だ」

 

 どちらかだけが本物ではない。

 

 エウメロスが本当で。

 

 アトラスが偽物というわけではない。

 

 王冠を戴く前からあった名前。

 

 王冠を戴いた後、民に呼ばれた名前。

 

 二つとも。

 

 今の彼女へ続いている。

 

「ちゃんと、名前があったのね」

 

 イリヤが言った。

 

「名前はあった」

 

「今もある?」

 

「消えたわけではない」

 

「じゃあ、アトラスじゃない時は、エウメロスなの?」

 

 アトラスは一拍置いた。

 

「そのような時間はない」

 

 イリヤが黙る。

 

 士郎も。

 

 すぐには言葉が出なかった。

 

 王でない時間がない。

 

 眠る必要がないという意味ではない。

 

 サーヴァントとして召喚され。

 

 戦っていない時も。

 

 食器を運んでいる時も。

 

 士郎の家にいる時も。

 

 アトラスは王だった。

 

 王を取ったら。

 

 何が残るのか。

 

 昨日の問いが戻ってくる。

 

 エウメロスという名はあった。

 

 今も消えてはいない。

 

 けれど。

 

 名前が残っているだけでは。

 

 王でないアトラスが何を望むのかまでは分からない。

 

「王様になる前は、何をしてたの?」

 

 イリヤが聞いた。

 

 重かった空気を、少し違う方向へ押すような問いだった。

 

「王国を見ていた」

 

「王国?」

 

「港を。穀倉を。水路を。避難路を」

 

 アトラスは一つずつ並べる。

 

「国を国たらしめるものを治めていた」

 

 士郎は、その言葉を考える。

 

 港。

 

 穀倉。

 

 水路。

 

 避難路。

 

 王宮や玉座ではない。

 

 人が暮らすために必要なもの。

 

 物を運ぶ場所。

 

 食べ物を蓄える場所。

 

 水を通す場所。

 

 危険から逃げるための道。

 

「それ、もう王様みたいじゃない」

 

 イリヤが言う。

 

 アトラスは否定しなかった。

 

 肯定もしない。

 

 王冠を戴く前から。

 

 国が生きるために必要なものを治めていた。

 

 だから。

 

 兄王が応答しなくなった時。

 

 国が止まっていくことも。

 

 誰より具体的に分かったのかもしれない。

 

 遠坂が立ち上がった。

 

「お茶、淹れ直すわ」

 

 そこで。

 

 士郎は自分の箸が止まったままだと気づいた。

 

 味噌汁はもう冷めかけている。

 

「悪い」

 

「謝る相手が違うでしょう。冷めた朝食に謝りなさい」

 

「分かったよ」

 

 少しだけ。

 

 いつもの朝の空気が戻る。

 

 遠坂が湯を沸かし直す。

 

 イリヤは黙ったまま、以前より長くアトラスを見ていた。

 

 士郎はアトラスについて、一つ知った。

 

 兄がいたこと。

 

 エウメロスという名があったこと。

 

 王冠を渡されたのではなく、自分で戴いたこと。

 

 王になる前から、国の生存を支えていたこと。

 

 けれど。

 

 一つ知るたび。

 

 知らない部分の形が、前よりはっきりした。

 

 過去の名前を知っても。

 

 王でないアトラスの望みは分からない。

 

     ◇

 

「それで」

 

 遠坂がティーカップを置く。

 

「過去の話も大事だけど、今はこっちでしょう」

 

 視線がイリヤへ向く。

 

「わたし?」

 

「そうよ」

 

 イリヤは不満そうに眉を寄せる。

 

 けれど、逃げる様子はなかった。

 

 四騎分の魂を格納している。

 

 外見上は変わらない。

 

 話せる。

 

 歩ける。

 

 食事もできる。

 

 だが。

 

 今の状態が、そのまま安全だとは限らない。

 

「もう一度、詳しく調べるわ」

 

「昨日も見たじゃない」

 

「昨日は、今すぐ倒れるかどうかを見ただけ。今日は構造を追うの」

 

「痛いことする?」

 

「しないわよ。少なくとも、切ったり刺したりはしない」

 

「少なくともって何よ」

 

「動かないでって意味」

 

 遠坂が魔術刻印のある左腕を軽く押さえる。

 

 イリヤは渋々、居間の中央へ座り直した。

 

 アトラスも近くへ来る。

 

「士郎は離れてて」

 

「俺にも何かできないか」

 

「邪魔をしないこと」

 

「分かった」

 

 士郎は少し下がった。

 

 遠坂が宝石を一つ取り出す。

 

 術式の焦点に置く。

 

 床へ簡単な線を引き。

 

 イリヤの身体から流れる魔力の動きを追う。

 

 最初に。

 

 全身に細い光が浮かんだ。

 

 魔術回路とは違う。

 

 もっと規則的で。

 

 一つの目的のために配置された道。

 

 遠坂が眉を寄せる。

 

「身体中から、同じ場所へ繋がってる」

 

「どこへ?」

 

「待って」

 

 光の流れが少しずつ集まる。

 

 胸の中央。

 

 遠坂の指が止まる。

 

 アトラスも、そこを見る。

 

「集中点を確認した」

 

「何があるんだ」

 

 遠坂は答えず、さらに術式を重ねた。

 

 一度で決めつけない。

 

 全身の補助構造。

 

 魔力の流れ。

 

 生命活動との接続。

 

 それらを順に確認していく。

 

 イリヤは目を閉じたまま。

 

 何も言わない。

 

 完全な初耳ではないのだろう。

 

 自分が小聖杯として作られたことは知っている。

 

 ただ。

 

 外側から自分の身体を具体的に説明されるのを聞いている。

 

 やがて。

 

 遠坂が術式を止めた。

 

 宝石の光が消える。

 

「小聖杯は、この子の心臓そのものよ」

 

 士郎は一瞬、意味が分からなかった。

 

「心臓?」

 

「身体の方も、その心臓を聖杯として動かすために作られてる」

 

 遠坂の声は硬かった。

 

「全身の構造が、そこを補佐してる。小聖杯の機能と、生命維持の中心が同じ場所に重なってるのよ」

 

「じゃあ、そこだけ取り出せば」

 

「取り出すってことは、聖杯を外すことじゃない」

 

 遠坂が士郎を見る。

 

「イリヤの心臓を奪うってことになる」

 

 杯が異物として入っているのではない。

 

 命を動かす心臓そのものが。

 

 杯として作られている。

 

「聖杯の機能だけ止めることは」

 

「簡単にはできないわ」

 

「でも、魔術なら」

 

「元へ戻すことを考えてない設計なのよ」

 

 遠坂の声に苛立ちが滲む。

 

「最初から、使い終わった後のことなんて考えてない」

 

 イリヤは目を閉じたまま。

 

 表情を変えない。

 

「心臓の切離しは、小聖杯機能の摘出ではない」

 

 アトラスが言う。

 

「生命維持構造そのものの破壊となる」

 

「じゃあ」

 

 士郎はイリヤを見る。

 

「小聖杯だけを切り離すのは、できないのか」

 

「今の方法ではね」

 

 遠坂が答える。

 

「別の停止方法か、接続を切る方法を探すしかない」

 

「これ以上、魂が入らなければ」

 

「それだけじゃ足りないわ」

 

 遠坂はすぐに否定した。

 

「他の陣営がイリヤを狙う。今でも四騎分が入ってる。戦争が続けば、次の魂が流れ込む可能性もある」

 

「でも、サーヴァントが死ななければ」

 

「外部の術式との接続も残ってるのよ。何が引き金になるか分からない状態で、この子を無防備に動かすわけにはいかない」

 

 士郎は言葉に詰まった。

 

 切り離せない。

 

 放ってもおけない。

 

 何も決められないまま。

 

 時間だけが進む。

 

「外部から切り離す」

 

 アトラスが言った。

 

 全員が彼女を見る。

 

「イリヤスフィールを閉鎖領域へ収容する。侵入と流入を同時に拒絶し、状態を維持する」

 

「王宮外装で?」

 

「可能だ」

 

「どこまで」

 

「外部との魔術的接続を遮断する。侵入を拒み、状態変化を監視する。必要であれば移動も制限する」

 

 アトラスは平然と続ける。

 

「戦争終結まで閉鎖を維持すればよい」

 

 技術的には。

 

 最も確実に聞こえた。

 

 誰にも近づかせない。

 

 魂も入れない。

 

 外からの術式も遮断する。

 

 イリヤの状態を変化させない。

 

「それなら」

 

 士郎は言いかける。

 

 遠坂が先に口を開いた。

 

「生存は守れるかもしれない」

 

 遠坂も、案そのものは否定しない。

 

「でも、それはイリヤを閉じ込めるってことよ」

 

「安全は確保できる」

 

「自由はなくなる」

 

「生存を失えば、自由も成立しない」

 

 アトラスの言葉は正しい。

 

 少なくとも。

 

 命を守るという目的に対しては。

 

 閉じる。

 

 隔離する。

 

 保存する。

 

 アトラスが国へ行ったこと。

 

 今まで何度も使ってきた方法。

 

 危険を外へ出さず。

 

 守る対象を内側へ留める。

 

 それは冷酷だからではない。

 

 アトラスにとって。

 

 守るとは、そういうことなのだ。

 

「シロウはどうするの?」

 

 イリヤが聞いた。

 

 士郎はすぐに答えられなかった。

 

 アトラスの案は合理的だ。

 

 イリヤが死ぬ可能性を減らせる。

 

 自由を奪うから嫌だと。

 

 それだけで切り捨てることはできない。

 

 士郎の感情のために。

 

 安全な方法を捨てることも違う。

 

 けれど。

 

 閉ざされた部屋の中で。

 

 変わらない状態のまま。

 

 生きているイリヤを想像する。

 

 それは。

 

 昨日、客間に閉じた襖とは違う。

 

 開けようと思えば開けられる部屋ではない。

 

 本人が出たいと思っても。

 

 出られない場所。

 

「イリヤ」

 

 士郎は、アトラスでも遠坂でもなく。

 

 本人を見る。

 

「ここにいてほしい」

 

 イリヤは少し目を細めた。

 

 喜んだようには見えない。

 

 疑うように士郎を見る。

 

「どうして命令しないの?」

 

「え」

 

「ここにいろって言えばいいでしょう」

 

 イリヤの声は平らだった。

 

「閉じ込めればいいのに」

 

 アトラスの案。

 

 命令。

 

 拘束。

 

 どちらも。

 

 イリヤを士郎の側へ残すことはできる。

 

 逃げられないように。

 

 離れられないように。

 

 ここに置くことはできる。

 

「それじゃ、いてくれたことにならない」

 

 言葉は、考える前に出ていた。

 

 イリヤが黙る。

 

 遠坂も何も言わない。

 

 命令して残したなら。

 

 残ったのは、命令に従った結果だ。

 

 閉じ込めて守ったなら。

 

 そこにあるのは、守られた命だけだ。

 

 イリヤが。

 

 自分でここにいると決めたことにはならない。

 

 イリヤは目を逸らした。

 

 卓上の湯呑みに指を触れる。

 

 返事はしない。

 

 口元だけが、わずかに歪んだ。

 

 アトラスの視線が動く。

 

 隔離案の続きを説明しようとして。

 

 止めたように見えた。

 

 反論しない。

 

 ただ。

 

 士郎の言葉を受け取る。

 

「今すぐ決めなくていい」

 

 士郎が言う。

 

 イリヤは答えない。

 

 遠坂が息を吐いた。

 

「アトラスの案は捨てないわ」

 

「遠坂」

 

「緊急時の一時保護には使える。けど、永続的な解決にはしない」

 

 遠坂はアトラスを見る。

 

「本人の意思を確認せずに実行もしない。別の方法を探す。それでいい?」

 

「条件へ加える」

 

 アトラスが答えた。

 

 受け入れたというより。

 

 裁定の条件を更新した。

 

「イリヤは?」

 

「今は決めない」

 

 短い返答だった。

 

 ここにいるとも。

 

 出ていくとも言わない。

 

 ただ。

 

 アトラスが近くにいることを拒む様子は、昨日より薄かった。

 

     ◇

 

 イリヤの検査を終えた後。

 

 アトラスは士郎へ向き直った。

 

「マスターの状態も確認する」

 

「俺?」

 

「定期確認だ」

 

 士郎は以前の言葉を思い出す。

 

 身体の中に、細い経路がある。

 

 自分の魔術回路とは違う。

 

 アトラスにも正体が分からなかったもの。

 

「まだ残ってるのか」

 

「確認する」

 

 士郎は言われた通りに座った。

 

 アトラスの手が、胸元へ近づく。

 

 直接触れない。

 

 紺碧の光が細く伸び。

 

 身体の内側へ沿うように走る。

 

 士郎の魔術回路とは別の場所。

 

 もっと深いところ。

 

 細い。

 

 糸のような道。

 

「消失していない」

 

「何か変わったか」

 

「現在、強い活性はない」

 

「何に繋がってる」

 

「不明だ」

 

 それ以上は分からない。

 

 細い経路は残っている。

 

 外部へ触れているような感覚もある。

 

 だが。

 

 何に繋がっているのか。

 

 なぜ自分の中にあるのか。

 

 どれも確定できない。

 

 イリヤの身体には。

 

 本人が知っている役割と。

 

 本人も知らない構造があった。

 

 アトラスには。

 

 王名の下に、出生時の名があった。

 

 士郎の中にも。

 

 自分の知らないものが残っている。

 

 それだけを。

 

 今は記憶しておくしかなかった。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 空が青から灰色へ変わり始めた頃。

 

 イリヤが縁側に座っていた。

 

 アトラスは少し離れたところに立っている。

 

 士郎が廊下を通ると。

 

 イリヤがアトラスへ聞いた。

 

「アトラスは、エウメロスって呼ばれたいの?」

 

 士郎は足を止めた。

 

 アトラスはすぐには答えない。

 

「必要はない」

 

「嫌なの?」

 

「アトラスでよい」

 

「せっかく名前を教えたのに?」

 

「聞かれた事実へ回答した」

 

 イリヤは不満そうにする。

 

「じゃあ、教えたからって呼んでいいわけじゃないのね」

 

「呼称は、知識のみで決まるものではない」

 

 アトラスの答えに。

 

 イリヤは少し考える。

 

「面倒ね」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 それ以上。

 

 イリヤはエウメロスと呼ばなかった。

 

 士郎も。

 

 その名を口にしなかった。

 

 名前を知った。

 

 だからといって。

 

 その名前で呼ぶ権利まで得たわけではない。

 

 呼び方は。

 

 相手との間にあるものなのだ。

 

     ◇

 

 夜。

 

 士郎は自分の部屋で横になっていた。

 

 眠るにはまだ早い。

 

 昼間に聞いたことが。

 

 順番に浮かぶ。

 

 アトラスには、エウメロスという出生名があった。

 

 兄王は生きていた。

 

 王冠を渡したのではなかった。

 

 エウメロスが、自分で戴いた。

 

 王になる前から。

 

 港を。

 

 穀倉を。

 

 水路を。

 

 避難路を治めていた。

 

 名前が残っていても。

 

 王を取った後に何が残るのかは分からない。

 

 イリヤには。

 

 イリヤという名前と。

 

 小聖杯という機能がある。

 

 小聖杯は心臓そのもの。

 

 取り除けば、イリヤの命を壊す。

 

 だからといって。

 

 小聖杯だけでイリヤを決めていいわけではない。

 

 名前。

 

 役割。

 

 本人。

 

 どれも同じではない。

 

 どれか一つだけが本当でもない。

 

 士郎は切嗣を思い出した。

 

 正義の味方。

 

 魔術師。

 

 父親。

 

 家で暮らしていた切嗣。

 

 笑って。

 

 食事をして。

 

 冬の庭を眺めていた男。

 

 俺が知っていた切嗣は、正義の味方じゃない時の切嗣だったんだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 士郎が知らない切嗣がいた。

 

 正義の味方だった切嗣も。

 

 父親だった切嗣も。

 

 どちらか一つが偽物ということではないのかもしれない。

 

 けれど。

 

 今はまだ。

 

 その先まで考えることはできなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 湯の沸く音がした。

 

 士郎は台所で朝食の支度をしていた。

 

 遠坂は居間で紙を広げている。

 

 イリヤは、その横から覗き込んでいた。

 

「リン、字が細かい」

 

「読まなくていいわよ」

 

「見てるだけ」

 

「なら黙って見てなさい」

 

「偉そう」

 

「誰のために調べてると思ってるの」

 

 短いやり取り。

 

 昨日の重さを。

 

 少しだけ日常へ戻す声。

 

 アトラスは廊下にいた。

 

 庭と玄関の両方へ注意を向けている。

 

 その時。

 

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 

 士郎は包丁を止める。

 

 アトラスが先に反応した。

 

「サーヴァントだ」

 

 遠坂が立ち上がる。

 

「誰?」

 

「以前、マスターを救援した剣士と反応が一致する」

 

 士郎は、あの夜の姿を思い出す。

 

 金の髪。

 

 青い衣服。

 

 剣を持った少女。

 

「敵意は?」

 

「明確には観測できぬ」

 

「マスターは?」

 

「不明だ」

 

 遠坂の表情が変わる。

 

 イリヤは小聖杯だ。

 

 外部のサーヴァントへ、無防備に見せるわけにはいかない。

 

「まず士郎だけで応対して。イリヤは奥へ」

 

「わたしだけ隠れるの?」

 

「今はそうして」

 

「アトラスも来ないの?」

 

 イリヤが聞く。

 

 アトラスは玄関ではなく、イリヤの側へ立った。

 

「己はここに残る」

 

 イリヤは少しだけ黙る。

 

 それ以上、強く拒まなかった。

 

「士郎」

 

 遠坂が言う。

 

「すぐ開けないで、相手を確認して」

 

「分かった」

 

 士郎は玄関へ向かう。

 

 廊下を進む。

 

 戸の向こうに。

 

 サーヴァントの気配がある。

 

 以前、自分を助けた剣士。

 

 敵意はない。

 

 けれど。

 

 何のために来たのかは分からない。

 

 士郎は一度だけ息を整えた。

 

 戸へ手をかける。

 

 開く。

 

 玄関の向こうに、金の髪の少女が立っていた。

 




お読みいただきありがとうございます。
しばらくは毎日7時頃に更新予定です。

後日譚の
『The Reversed Star――逆位置の星――』 https://syosetu.org/novel/417875/
も連載中です、よろしくお願いします。
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