The Reaching Shore――届かせるもの――   作:ほいみん

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Fate/stay night二次創作長編『The Reaching Shore――届かせるもの――』第13話です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・AI使用表記・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1J5hZ3qOATZGBYELXd_x-g7suIvv0zHGGJ4TijIUNzlI/edit?usp=sharing

アトラス設定資料はこちら:
【設定資料URL】
https://docs.google.com/document/d/1Gdk-aR_oVREDxgTlwfcmQzWDoM_qF-cY2UsIi8TS6_0/edit?usp=drive_link



第22話 過去から残ったもの

 玄関の向こうに、金の髪の少女が立っていた。

 

 青い衣服。

 

 背筋を伸ばした、静かな立ち姿。

 

 学校の校舎裏で。

 

 それより前にも。

 

 士郎を助けた剣士だった。

 

 名前は知らない。

 

 どの陣営にいるのかも。

 

 なぜ今、衛宮邸の前に立っているのかも分からない。

 

 ただ。

 

 すぐに斬りかかってくる気配はなかった。

 

「突然の訪問を許してほしい」

 

 少女が言った。

 

 士郎は玄関の戸を開けたまま、そこから動かなかった。

 

「何の用だ」

 

「話があります」

 

「戦いに来たんじゃないのか」

 

「はい」

 

 少女は真っ直ぐに士郎を見る。

 

「私のマスターは、現在こちらから戦端を開く意志を持っていません」

 

 安心できる答えではない。

 

 今は攻撃しない。

 

 それ以上の約束ではなかった。

 

「マスターの命令で来たのか」

 

「すべてが命令によるものではありません」

 

「じゃあ、何をしに来た」

 

 一拍。

 

 少女は口を開いた。

 

「衛宮切嗣について、貴方に伝えておかなければならないことがあります」

 

「――どうして」

 

 声が、遅れて出た。

 

 所属も目的も分からないサーヴァントの口から。

 

 どうして、切嗣の名前が出る。

 

 昨夜まで。

 

 考えていた名前だった。

 

 正義の味方ではない時の切嗣。

 

 自分が知らなかった切嗣。

 

 そのことを。

 

 目の前の剣士が知っている。

 

「ここで話すのか」

 

「できれば、落ち着いて話せる場所を願いたい」

 

「待ってくれ」

 

 士郎は戸を閉めず、廊下へ向かって声を上げた。

 

「遠坂!」

 

 足音が近づく。

 

 少し遅れて、遠坂が玄関へ姿を現した。

 

 イリヤは来ない。

 

 アトラスも。

 

 遠坂が一人で出てきたということは、二人を奥に残してきたのだろう。

 

 遠坂は少女を見るなり、表情を引き締めた。

 

「目的は?」

 

「衛宮切嗣について、彼へ伝えるために来ました」

 

「今のマスターは誰?」

 

「マスターの名を明かす許可は得ていません」

 

「来訪はそのマスターの命令?」

 

「命令も受けています。ですが、ここへ来たのは私自身の判断でもあります」

 

「随分曖昧ね」

 

「虚偽を述べるつもりはありません」

 

「こっちと敵対しない保証は?」

 

「今後の敵対まで否定することはできません。私から保証できるのは、この来訪に戦闘の意図がないことだけです」

 

 遠坂は黙った。

 

 敵ではないとは言わない。

 

 味方だとも。

 

 それでも。

 

 嘘で安心させようとはしない。

 

「衛宮切嗣について、何を知ってるの」

 

「私は、彼を知る立場にありました」

 

「どんな立場?」

 

「それを含めて、衛宮士郎に伝えます」

 

 遠坂が少女を見据える。

 

「どうして今になって?」

 

「彼が、イリヤスフィールを守ろうとしていると知ったからです」

 

 士郎の心臓が一度、強く鳴った。

 

「それが切嗣と何の関係がある」

 

「その関係を知らないままでいれば、貴方はいずれ必ず後悔する」

 

 少女の声は静かだった。

 

「そう判断しました」

 

 遠坂が士郎を見る。

 

 士郎も頷いた。

 

 聞かないという選択はできない。

 

「入って」

 

 遠坂が言う。

 

「ただし、条件があるわ。戦闘態勢を取らない。奥の部屋へ勝手に近づかない。ランサーの防護に触れない。話が終わったら退去する」

 

「承知しました」

 

「士郎」

 

「分かってる」

 

 士郎は少女を居間へ通した。

 

     ◇

 

 居間へ入っても。

 

 少女は周囲を見回さなかった。

 

 座卓の前へ座る。

 

 士郎と遠坂は、その向かい側。

 

 奥の部屋へ続く廊下の境には、薄い紺碧の光が見えていた。

 

 アトラスの防護。

 

 その向こうに、イリヤがいる。

 

 少女はそちらへ近づこうとはしなかった。

 

「話を聞く前に」

 

 遠坂が言う。

 

「貴女のことを何て呼べばいいの」

 

「セイバーで構いません」

 

 クラス名。

 

 真名は明かさない。

 

「分かったわ。セイバー」

 

 遠坂が呼んだ時。

 

 肩が熱を持った。

 

「っ」

 

 士郎は息を止めた。

 

 昨日まで。

 

 動かすたびに痛んでいた肩。

 

 包帯の下。

 

 傷口の奥から、急に熱が広がった。

 

 焼けるような痛みではない。

 

 温度だけが、身体の中へ満ちていく。

 

 肩から。

 

 背中へ。

 

 腕へ。

 

 脇腹へ。

 

 残っていた痛みが。

 

 少しずつ薄くなる。

 

「士郎?」

 

 遠坂が気づく。

 

「いや、肩が」

 

 言いかけた瞬間。

 

 奥から、アトラスの声が飛んだ。

 

「マスター。経路が動いている」

 

 紺碧の光の向こう。

 

 アトラスはイリヤの側を離れていない。

 

 けれど。

 

 士郎の内部で起きた変化を捉えている。

 

「経路?」

 

 セイバーが反応する。

 

 遠坂は立ち上がった。

 

「士郎。ちょっと上、脱ぎなさい」

 

「は?」

 

「いいから。傷を見せて」

 

「ここでか」

 

「今それを気にしてる場合?」

 

 士郎は言われるまま、上着へ手をかけた。

 

 包帯は肩を中心に巻かれている。

 

 背中から腕の付け根へ。

 

 脇腹にも手当ての跡が残っていた。

 

 遠坂が包帯を解く。

 

「動かないで」

 

「分かってる」

 

 布が外れる。

 

 肩の傷口は。

 

 昨日まで、まだ塞がりきっていなかった。

 

 赤く腫れ。

 

 触れれば痛みが走った。

 

 今は。

 

 その裂け目が、目の前で細くなっている。

 

 腫れが引く。

 

 皮膚の赤みが薄れる。

 

 腕に残っていた痣も。

 

 脇腹の炎症も。

 

 時間を巻き戻すように消えていく。

 

「何だ、これ」

 

 士郎自身の魔術回路は動いていない。

 

 強化を使った時とも。

 

 投影を始める時とも違う。

 

 自分の意思とは関係なく。

 

 身体の中にある何かが、勝手に傷を治している。

 

 遠坂が肩へ顔を近づける。

 

 傷の消え方を見て。

 

 目を見開いた。

 

「……あの時と、同じ」

 

「あの時?」

 

「学校で見た傷よ。昼休みには、あり得ない速さで治ってた」

 

 士郎も思い出す。

 

 原因が分からないまま。

 

 遠坂が「……そう」とだけ言って保留した傷。

 

「でも、あの時は何も」

 

「原因が分からなかった」

 

 遠坂がセイバーを見る。

 

「今回は違う」

 

 セイバーが居間へ入って。

 

 士郎へ近づいた時に始まった。

 

「セイバー。少しだけ離れて」

 

 遠坂が言う。

 

 少女は戸惑ったようにしたが、一歩下がった。

 

 肩の熱が弱くなる。

 

 傷が塞がる速度も。

 

 目に見えて鈍った。

 

「もう一度、近づいて」

 

 セイバーが元の位置へ戻る。

 

 熱が強くなる。

 

 肩の傷が、再び塞がり始めた。

 

 一往復。

 

 それだけで十分だった。

 

「士郎自身の治癒じゃない」

 

 遠坂が言う。

 

「でも、セイバーから直接魔力が流れ込んでるわけでもない」

 

「契約線ではない」

 

 アトラスが境界の向こうから答える。

 

「マスターとサーヴァントの魔力供給経路とも異なる」

 

「じゃあ、何なんだ」

 

「前にランサーが見つけた、あの細い経路よ。それが今、はっきり動いてる」

 

 遠坂が低く言う。

 

「士郎の中にあるものが、セイバーへ反応してる」

 

 セイバーは士郎の肩を見る。

 

 治っていく傷を。

 

 息を詰めるように見つめていた。

 

「その治癒は……」

 

 言葉が止まる。

 

 緑の瞳が揺れた。

 

 まるで。

 

 見失っていたものを、あり得ない場所で見つけたように。

 

「それは、私の鞘です」

 

 鞘。

 

 士郎は理解できなかった。

 

「鞘って」

 

「私の聖剣を納めるための鞘です」

 

 聖剣の鞘。

 

 その言葉と。

 

 昔話の中にいる王が、繋がりかける。

 

 聖剣。

 

 遠い理想郷。

 

 剣を持つ王。

 

 目の前にいるのは――騎士王なのか。

 

 けれど。

 

 確信にはならない。

 

 士郎は口に出さなかった。

 

 セイバーも。

 

 それ以上、自分の名を明かそうとはしない。

 

「自分の鞘って、どういうことだ」

 

「正式には」

 

 セイバーが答える。

 

「全て遠き理想郷――アヴァロン」

 

 知らない言葉のはずなのに。

 

 どこか。

 

 遠い場所へ沈むような響きがあった。

 

「傷を癒やし、所有者を守護する。私の聖剣とともにあった鞘です」

 

「それが、俺の中にある?」

 

「その可能性が高い」

 

「どうして」

 

「第四次聖杯戦争で、アヴァロンは切嗣が所持していました」

 

「親父が? それに、第四次って――」

 

 士郎はセイバーを見る。

 

「私は、切嗣本人から、貴方を救った方法を聞いたわけではありません。しかし、貴方の年齢と、十年前の火災。そして、今起きている治癒を考えれば」

 

「待った、待った!」

 

 士郎は思わず声を上げた。

 

「どうしてセイバーが、俺と親父のことを知ってるんだ。それに、さっきから言ってる第四次って何なんだ」

 

 セイバーは一度、言葉を止めた。

 

「私は、第四次聖杯戦争で衛宮切嗣に召喚されたサーヴァントです」

 

 士郎の呼吸が止まる。

 

「アヴァロンは、当時の切嗣が所持していました」

 

「親父が、聖杯戦争に?」

 

「参加していました」

 

「その時のサーヴァントが、セイバーだったのか」

 

「はい」

 

 今まで。

 

 二度、自分を助けた剣士。

 

 その相手が。

 

 十年前。

 

 切嗣とともに戦ったサーヴァントだった。

 

「切嗣が貴方を救うため、アヴァロンを使用した可能性が高い」

 

 十年前。

 

 炎の中。

 

 自分は一人だけ助かった。

 

 切嗣が見つけた。

 

 その時。

 

 身体の中へ残されたもの。

 

 自分のものではない鞘。

 

 切嗣自身の宝でもない。

 

 目の前のセイバーの鞘。

 

 切嗣が自分へ残したものが。

 

 切嗣の過去へ繋がっている。

 

 士郎の中で。

 

 知らなかった切嗣が、一つ増える。

 

 セイバーは続けた。

 

「私が貴方に伝えるべきだと言ったことは、それが一つ」

 

 一拍。

 

「そして、もう一つは」

 

 声が。

 

 わずかに重くなった。

 

「イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、衛宮切嗣のご息女だということです」

 

 士郎は。

 

 何を言われたのか分からなかった。

 

「……娘?」

 

「はい」

 

「切嗣の?」

 

「そうです」

 

 奥の部屋にいる。

 

 白い少女。

 

 お兄ちゃんと呼んだこと。

 

 衛宮邸へ来たこと。

 

 初めから、士郎へ何かを求めるように近づいてきたこと。

 

 それなのに。

 

 自分が切嗣の娘だとは言わなかった。

 

「やはり、知らなかったのですね」

 

 セイバーが言う。

 

 士郎は答えられなかった。

 

 知らなかった。

 

 何一つ。

 

 イリヤが士郎へ向けていた感情も。

 

 その意味があることにさえ。

 

 気づいていなかった。

 

「どうしてセイバーが知ってる」

 

「現在の監督役から聞きました」

 

「言峰から?」

 

「はい。イリヤスフィールは、切嗣とアイリスフィールの娘であると」

 

 言峰が。

 

 なぜセイバーへ教えたのか。

 

 セイバーにも分からないようだった。

 

「親父は」

 

 士郎は声を絞り出す。

 

「イリヤのことを、俺に何も言わなかった」

 

「その理由を、私は知りません」

 

「イリヤも」

 

 自分から言わなかった。

 

 切嗣も残さなかった。

 

 士郎も気づかなかった。

 

 誰か一人のせいだと。

 

 簡単に決められるものではない。

 

 けれど。

 

 知らなかった事実は消えない。

 

 切嗣は士郎の身体へ鞘を残した。

 

 命を救うために。

 

 一方で。

 

 娘がいることは伝えなかった。

 

 それを。

 

 士郎を選んだからだとは思えない。

 

 イリヤを捨てたからだとも。

 

 まだ、何も分からない。

 

     ◇

 

「一つ確認したいんだけど」

 

 遠坂が言った。

 

 士郎が顔を上げる。

 

「貴女は、あの黄金のサーヴァントを知ってる?」

 

「黄金の?」

 

「アインツベルンの城で、わたし達の前に現れた奴よ」

 

 遠坂が特徴を並べる。

 

 空中から射出される無数の宝具。

 

 鎖。

 

 アーチャーが叫んだ名前。

 

「英雄王――ギルガメッシュか、と」

 

 セイバーの表情が変わった。

 

「その特徴なら、第四次のアーチャーに間違いありません」

 

「真名を知ってたの?」

 

「いいえ。第四次当時、私は彼の真名を知りませんでした」

 

「でも、同じサーヴァント?」

 

「戦い方も、宝具も一致する。少なくとも、私が第四次で戦ったアーチャーと同一の存在だと考えます」

 

 十年前のサーヴァント。

 

 今も現界している可能性。

 

 ただ。

 

 今回、同じ英霊が改めて召喚された可能性もある。

 

 遠坂は少し考えた。

 

「今回の七騎とは別にいるなら、第四次から残っていた可能性がある」

 

 一度、言葉を切る。

 

 士郎は。

 

 教会で言峰から聞いた話を思い出した。

 

「言峰も、第四次に参加してた」

 

 遠坂が士郎を見る。

 

「あの時、本人が言ってた。前の戦争でマスターだったって」

 

「そう」

 

 遠坂の目が細くなる。

 

「言峰は第四次の参加者。あいつが何も知らないとは考えにくいわね」

 

 現在の両者の関係は分からない。

 

 だが。

 

 言峰が。

 

 ギルガメッシュについて。

 

 何を知っているのか。

 

 教会の監督役として。

 

 何を隠しているのか。

 

「気が進まないけど、教会に行って確認する必要があるわ」

 

 遠坂はそう言った。

 

 だが。

 

 士郎の頭は。

 

 まだ切嗣のところから動かなかった。

 

     ◇

 

「セイバーの知ってる切嗣は、どんな人だった」

 

 士郎が聞く。

 

 セイバーは答えを急がなかった。

 

「私を召喚したマスターです」

 

 それから。

 

 一つずつ。

 

「勝利のために、非情な手段を選びました」

 

「非情な」

 

「敵対者だけではありません。目的のためなら、多くの犠牲を許容する人だった」

 

 士郎の知る切嗣。

 

 人を救いたいと言った男。

 

 正義の味方になりたかった男。

 

 それとは。

 

 繋がらない。

 

「私とは、ほとんど直接会話をしませんでした」

 

「サーヴァントとマスターだってのに?」

 

「価値観が大きく異なっていた」

 

 セイバーの手が、膝の上でわずかに握られる。

 

「そして最後に、切嗣は令呪を用いて、私へ聖杯の破壊を命じた」

 

「聖杯を――?」

 

「はい」

 

「勝つために戦ったのに」

 

「聖杯を手に入れる直前でした」

 

 セイバーの声には。

 

 今も消えていないものがあった。

 

 怒りとも。

 

 困惑とも。

 

 それだけではない。

 

「私は、その決断を理解できなかった」

 

「今も?」

 

「今も、すべてを理解したとは言えません」

 

 嘘ではない。

 

 セイバーが知る切嗣も。

 

 士郎が知る切嗣も。

 

 けれど。

 

 二つの姿は重ならない。

 

「私の知る切嗣と、貴方のような者を育てた養父の姿は、どうしても重ならない」

 

 セイバーも同じだった。

 

 士郎を見て。

 

 自分の知らなかった切嗣を見ている。

 

 士郎は。

 

 何も知らなかった。

 

 切嗣の戦争。

 

 切嗣の妻。

 

 切嗣の娘。

 

 切嗣が身体へ残したアヴァロン。

 

 自分が知っていたのは。

 

 衛宮邸で暮らした、最後の数年だけ。

 

「親父の遺品が、まだこの家に残ってるはずだ」

 

 士郎は言った。

 

 遠坂とセイバーが見る。

 

「藤ねえの家が、捨てずに取っておいてくれたものがある。親父が使ってた部屋にも、俺が触ってない物が残ってる」

 

 切嗣の私物を。

 

 積極的に調べたことはない。

 

 もういない人間の場所を。

 

 勝手に開く気がしなかった。

 

 だが。

 

 今は。

 

「調べたい」

 

 士郎自身の言葉だった。

 

「切嗣が何を残してたのか」

 

 セイバーを見る。

 

「よかったら、セイバーも一緒に来てくれないか」

 

「私が?」

 

「俺じゃ、魔術の道具を見ても分からない。セイバーなら、第四次の親父を知ってる」

 

 異なる切嗣を知る二人で。

 

 残されたものを見る。

 

 セイバーは少し考え。

 

「分かりました」

 

 頷いた。

 

「遠坂は?」

 

「わたしは少し、考えたいことがある」

 

 遠坂の視線は。

 

 教会の方角を見ているようだった。

 

「第四次のアーチャー。言峰。セイバーの今のマスター。整理しなきゃいけないことが多いわ」

 

 士郎は、セイバーに聞こえないよう声を落とした。

 

「イリヤは」

 

「ランサーがついてる」

 

 境界の向こう。

 

 薄い紺碧の光は消えていない。

 

 アトラスは。

 

 士郎の代わりに父娘の関係を説明しない。

 

 切嗣を評価もしない。

 

 ただ。

 

 イリヤを守っている。

 

「行ってくる」

 

 士郎は立ち上がった。

 

     ◇

 

 切嗣が使っていた部屋は。

 

 長い間、ほとんど変わっていなかった。

 

 机。

 

 古い棚。

 

 使われなくなった衣類。

 

 藤村家がまとめて保管してくれていた箱。

 

 魔術に関わるらしい道具は。

 

 士郎にも分からないまま、奥へ寄せてある。

 

 埃が薄く積もっている。

 

 窓を開ける。

 

 冷たい風が入った。

 

「ここが、切嗣の部屋だった」

 

「はい」

 

 セイバーは。

 

 戦場とは違う場所で。

 

 切嗣が暮らした痕跡を見ていた。

 

 士郎も。

 

 今まで見ないようにしていたものを、初めて開く。

 

 箱の中には。

 

 書類があった。

 

 古い旅券。

 

 航空券の控え。

 

 入出国の記録。

 

 地図。

 

 移動経路を書き込んだ紙。

 

「ドイツ」

 

 士郎が読む。

 

 それだけではない。

 

 周辺の国。

 

 異なる空港。

 

 異なる国境。

 

 同じ地域へ。

 

 何度も近づこうとした跡。

 

 一度ではない。

 

 数年にわたっている。

 

「親父、よく外国へ行ってた」

 

 士郎は記憶を探る。

 

「仕事だと思ってた。身体の治療もあるって」

 

 帰ってくるたび。

 

 疲れていた。

 

 以前よりも。

 

 歩く速度が遅くなっていた。

 

 それでも。

 

 また家を空けた。

 

「同じ地域へ、繰り返し向かっています」

 

 セイバーが地図を見る。

 

「一度失敗して、諦めたのではない」

 

 何度も。

 

 別の道から。

 

 同じ場所へ向かおうとしている。

 

 だが。

 

 どこまで行けたのかは分からない。

 

 誰に止められたのかも。

 

 なぜ士郎へ話さなかったのかも。

 

 次の箱には。

 

 防寒具が入っていた。

 

 厚い上着。

 

 冬山用の靴。

 

 雪の上を進むための装備。

 

 通常の旅行には過剰なもの。

 

 一部は使用され。

 

 一部は損傷している。

 

「都市へ行く装備ではありません」

 

 セイバーが言う。

 

「厳冬地の山林。整備されていない領域へ入るためのものです」

 

 切嗣の身体が。

 

 すでに弱っていた時期。

 

 それでも。

 

 これを用意した。

 

 使ったものもある。

 

 最後まで。

 

 実際にどこまで進めたかは分からない。

 

 さらに奥。

 

 金属と石で作られた道具。

 

 符。

 

 細い杭。

 

 割れた宝石。

 

 士郎には用途が分からない。

 

 セイバーが手に取り。

 

 慎重に確認する。

 

「探知を撹乱するための礼装です」

 

「これは?」

 

「結界へ一時的な穴を開けるものかと」

 

「こっちは」

 

「侵入経路を作るための術具でしょう」

 

 普通に訪問するための道具ではない。

 

 守られた場所へ。

 

 拒絶を破って入るためのもの。

 

「どうして」

 

 士郎は呟く。

 

「自分の娘に会いに行くのに、こんな物が必要だったんだ」

 

 答えはない。

 

 なぜ普通に会えなかった。

 

 なぜイリヤを連れ戻せなかった。

 

 なぜ士郎へ話さなかった。

 

 なぜイリヤも。

 

 切嗣の娘だと言わなかった。

 

「切嗣は、聖杯を手に入れる直前に、令呪でその破壊を命じました」

 

 勝利の直前で。

 

 自分たちが求めていた聖杯を、契約したサーヴァントに壊させた。

 

 アインツベルンから見れば。

 

 その行為が、どう映ったのか。

 

「アインツベルンは、それを裏切りと受け取ったのかもしれません」

 

 推測。

 

 セイバーも断定しない。

 

「ほかならぬ彼のサーヴァントであった私ですら、当時はそう考えたのですから」

 

 アインツベルンが。

 

 実際に切嗣を締め出したのか。

 

 切嗣個人だけを拒絶したのか。

 

 手紙や贈り物を隠したのか。

 

 何も分からない。

 

 ただ。

 

 切嗣が。

 

 普通には入れない場所へ行こうとしていた。

 

 その痕跡だけがある。

 

 士郎は箱の底へ手を入れた。

 

 指に。

 

 硬いものが触れる。

 

「これは」

 

 古く乾いたクルミだった。

 

 一つ。

 

 食べるために保存したようには見えない。

 

 セイバーが受け取る。

 

 掌の上で転がし。

 

 息を止めた。

 

「これは、アインツベルンの森のものです」

 

「分かるのか」

 

「第四次の間、私はアインツベルン城に滞在していました」

 

 セイバーは。

 

 クルミを見たまま続ける。

 

「城にいた頃、聞いたことがあります。切嗣とイリヤスフィールが、森でクルミの芽を探して競争したと」

 

「親父とイリヤが」

 

「どちらが先に見つけるか。幼い頃から続いていた、二人の記憶だったと」

 

 セイバーが直接見たのではない。

 

 切嗣本人から。

 

 詳しく聞いたわけでもない。

 

 けれど。

 

 その森のクルミが。

 

 切嗣の遺品の中にある。

 

 任務の証拠ではない。

 

 魔術資源にも見えない。

 

 実用品でも。

 

 ただ。

 

 幼いイリヤとの時間へ繋がるもの。

 

 切嗣は。

 

 それを持ち帰っていた。

 

 だが。

 

 この一つだけで。

 

 切嗣の気持ちを決めることはできない。

 

 箱の奥に。

 

 さらに包みがあった。

 

 士郎が取り出す。

 

 軽い。

 

 紙を開く。

 

 小さなテディベアが現れた。

 

 一体。

 

 その下に、もう一体。

 

 さらに。

 

 三体。

 

 四体。

 

 五体。

 

 全部で五つ。

 

 一体ずつ。

 

 毛の色も。

 

 服も。

 

 表情も少し違う。

 

 まとめて買われたものには見えない。

 

 それぞれが。

 

 贈り物として選ばれている。

 

 どれも。

 

 包まれたまま。

 

 送られていない。

 

「ここに数字がある」

 

 士郎が一体を持ち上げる。

 

 足の裏にある、小さな刺繍。

 

 別の一体にも。

 

 さらに次にも。

 

 一体ごとに刺繍された数字は、順に一つずつ増えていた。

 

 渡航記録の年代も。

 

 一年ずつ進んでいる。

 

 同じ年。

 

 また次の年。

 

 切嗣が死ぬまで。

 

 五体。

 

「でも」

 

 士郎は数字を見る。

 

 奥の部屋にいるイリヤを思う。

 

 イリヤは。

 

 そんな年齢には見えない。

 

「イリヤスフィールはホムンクルスです」

 

 セイバーが言った。

 

「実際の年齢と姿が合わないことは有り得ます」

 

「じゃあ」

 

 イリヤは。

 

 見た目より長い時間を生きている。

 

 切嗣の娘。

 

 第四次の頃から。

 

 アインツベルンにいた。

 

 切嗣は。

 

 その年齢を数えていた。

 

 一年。

 

 また一年。

 

 渡せないまま。

 

 くまだけが増えた。

 

 士郎の中で。

 

 以前、イリヤが口にした言葉が戻る。

 

「わたしは、生まれた時からマスターになるって決まってるの」

 

 最初から。

 

 次の聖杯戦争のために。

 

 育てられた。

 

 第四次で勝利を放棄した切嗣が。

 

 アインツベルンにとって裏切り者だった可能性。

 

 その切嗣がイリヤへ会うことが。

 

 次の戦争の計画と衝突した可能性。

 

 イリヤが。

 

 切嗣に捨てられたと信じるまでに。

 

 何かがあった可能性。

 

 すべて。

 

 推測でしかない。

 

 アインツベルンが嘘を教えたとは断定できない。

 

 切嗣からの接触を隠したとも。

 

 贈り物を送り返したとも。

 

 分からない。

 

 なぜ切嗣は士郎へ話さなかった。

 

 なぜイリヤは自分から明かさなかった。

 

 切嗣はどこまで城へ近づけた。

 

 なぜ贈り物を送れなかった。

 

 何を考えていた。

 

 答えは。

 

 一つもない。

 

 それでも。

 

 目の前には。

 

 何度も渡った記録がある。

 

 冬山へ入る装備がある。

 

 結界を破る礼装がある。

 

 森のクルミがある。

 

 年ごとに増えた、五体のくまがある。

 

「親父は、イリヤのことをずっと覚えてたんだ」

 

 言葉が落ちた。

 

「それだけは、間違いない」

 

 切嗣が正しかったとは言えない。

 

 責任がなかったとも。

 

 思っていたから許されるとも。

 

 ただ。

 

 忘れてはいなかった。

 

 それだけは。

 

 残された物が示している。

 

 セイバーは。

 

 五体のくまを見つめたまま。

 

 長く黙っていた。

 

「私は」

 

 やがて、声が出る。

 

「あの人が戦いの後に何をしようとしていたのか、何も知りませんでした」

 

 士郎も。

 

 切嗣の戦争を知らなかった。

 

 セイバーも。

 

 父親としての切嗣を知らなかった。

 

 イリヤも。

 

 切嗣が戻ろうとした痕跡を知らない。

 

 誰も。

 

 一人で切嗣のすべてを知ってはいない。

 

     ◇

 

 居間へ戻ると。

 

 遠坂だけがいた。

 

 イリヤとアトラスは。

 

 まだ奥の部屋にいる。

 

 士郎とセイバーの顔を見て。

 

 遠坂は持ち帰った物へ目を落とした。

 

「どうだったの?」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 士郎は座卓へ。

 

 渡航記録を置く。

 

 魔術礼装。

 

 クルミ。

 

 五体のくま。

 

 遠坂は一つずつ確認した。

 

 士郎とセイバーが。

 

 見つけた順に説明する。

 

 複数回の渡航。

 

 厳冬地の装備。

 

 結界を破るための道具。

 

 アインツベルンの森のクルミ。

 

 年齢を一つずつ増やした、五体の贈り物。

 

「事実として分かるのは、ここまでね」

 

 遠坂が言う。

 

「切嗣は何度もドイツ周辺へ行った。冬山へ入る準備をした。結界を突破する礼装を用意した。森のクルミを持ってた。毎年、くまを一体ずつ増やしてた」

 

「アインツベルンへ行こうとしてた」

 

「可能性は高い。でも、どこまで行けたかは分からない」

 

「第四次のことで拒絶された」

 

「それも可能性。断定はできない」

 

「くまは、イリヤに渡すために」

 

「そう考えるのが自然。でも、本人の説明はない」

 

 遠坂は。

 

 切嗣を弁護する方向へも。

 

 断罪する方向へも。

 

 事実を押し広げない。

 

「ただ」

 

 くまを見る。

 

「忘れてなかったことは、間違いないでしょうね」

 

 士郎は頷いた。

 

「イリヤに見せるべきだと思うか」

 

 遠坂はすぐに答えなかった。

 

「これはイリヤのことよ」

 

「うん」

 

「知らないままにしておくべき情報じゃないとは思う」

 

「じゃあ」

 

「でも、どう渡すかは士郎が決めなさい」

 

 見せれば。

 

 切嗣が忘れていなかったと分かる。

 

 イリヤが知らなかった父親の行動を知る。

 

 切嗣への見方が変わるかもしれない。

 

 同時に。

 

 切嗣を弁護する材料にも見える。

 

 来ようとしたのだから仕方がない。

 

 許してやれ。

 

 そんな圧力を。

 

 士郎がかけることになるかもしれない。

 

 イリヤが。

 

 受け取る準備をしているかも分からない。

 

「私は」

 

 セイバーが言う。

 

「切嗣を許してほしいと、イリヤスフィールへ言うことはできません」

 

 五体のくまへ視線を落とす。

 

「私が知っていたのも、あの人の一面にすぎなかったのでしょう」

 

 セイバーは立ち上がった。

 

「ここから先は、私が同席すべきことではありません」

 

「セイバー」

 

「遺品をどう受け取るかは、イリヤスフィールが決めることです。元サーヴァントである私がそこにいれば、切嗣を擁護するにせよ、断罪するにせよ、余計な圧力となり得る」

 

 来訪の目的は終わった。

 

 アヴァロンも確認した。

 

 切嗣とイリヤの関係も伝えた。

 

 現在のマスターのもとへ戻る必要もある。

 

「私はこれで失礼します」

 

 士郎は引き留めなかった。

 

「ありがとう、セイバー」

 

「私は、必要なことをしただけです」

 

「それでも」

 

 一緒に探してくれた。

 

 士郎一人では。

 

 遺品の意味を読み取れなかった。

 

 セイバーは小さく頭を下げた。

 

「教会のことは、こっちで確認するわ」

 

 遠坂が言う。

 

「承知しました」

 

「貴女は同行しないのね」

 

「現在のマスターとの契約があります」

 

 それ以上は明かさない。

 

 士郎は玄関までセイバーを見送った。

 

 切嗣のサーヴァントだった剣士。

 

 今は。

 

 別のマスターのもとにいる。

 

 敵ではない。

 

 だが。

 

 味方とも決まっていない。

 

 ただ。

 

 切嗣を違う形で知る相手だった。

 

「では」

 

 セイバーが背を向ける。

 

 衛宮邸から離れていく。

 

 その距離に合わせて。

 

 士郎の身体の熱が、少しずつ静まった。

 

 治った肩は。

 

 元へ戻らない。

 

 背中も。

 

 腕も。

 

 脇腹も。

 

 痛みは消えたまま。

 

 身体の中の細い経路も。

 

 なくなってはいない。

 

 ただ。

 

 はっきりと動いていたものが。

 

 また低い反応へ戻っていく。

 

 士郎は。

 

 セイバーの背が見えなくなるまで。

 

 玄関に立っていた。

 

     ◇

 

 居間へ戻る。

 

 遠坂が一人で待っていた。

 

 五体のくまも。

 

 クルミも。

 

 渡航記録も。

 

 座卓の上にある。

 

「決めた?」

 

 遠坂が聞く。

 

「イリヤに見せる」

 

 士郎は答えた。

 

 切嗣を弁護するためではない。

 

 イリヤに関わる過去だから。

 

 本人の知らない場所へ。

 

 隠したままにしないために。

 

 遠坂は止めなかった。

 

「何を言われても、切嗣の代わりに答えようとしないことね」

 

「分かってる」

 

 士郎が持っていくのは。

 

 渡航記録の一部。

 

 アインツベルンの森のクルミ。

 

 五体のテディベア。

 

 魔術礼装と。

 

 防寒具は居間へ残す。

 

 存在だけを説明すればいい。

 

 五体のくまを抱える。

 

 軽い。

 

 子どもへ渡すための、小さな人形。

 

 けれど。

 

 何を意味するかを知った後では。

 

 ひどく重く感じた。

 

     ◇

 

 イリヤの部屋の前へ着く。

 

 襖の近くに。

 

 アトラスがいた。

 

 士郎の抱えた物を見る。

 

「イリヤスフィールへ渡すのか」

 

「ああ」

 

 アトラスは理由を聞かなかった。

 

 室内へ向く。

 

「マスターが、汝へ話を持ってきた」

 

 短い沈黙。

 

「何を持ってきたの?」

 

 イリヤの声が返る。

 

「親父の遺品だ」

 

 また。

 

 少し長い間。

 

「入れば」

 

 士郎は襖を開けた。

 

 イリヤは部屋の奥に座っている。

 

 アトラスは入口の近くへ残った。

 

 会話に割り込むつもりはない。

 

 ただ。

 

 警護を続ける。

 

 士郎は。

 

 イリヤの前へくまを置いた。

 

 一体。

 

 また一体。

 

 五体。

 

 クルミ。

 

 記録の紙。

 

「切嗣の遺品を調べた」

 

 イリヤの顔が硬くなる。

 

「どうして」

 

「セイバーから聞いた」

 

「セイバー?」

 

「前に俺を助けた剣士だ。切嗣のサーヴァントだった」

 

 イリヤは何も言わない。

 

「切嗣が、イリヤの父親だってことも聞いた」

 

 赤い目が。

 

 士郎を見る。

 

「知らなかったの?」

 

「知らなかった」

 

「そう」

 

 短い。

 

 責める言葉でも。

 

 安心した声でもない。

 

「それで、遺品を調べたの?」

 

「うん」

 

 士郎は。

 

 事実から話した。

 

 切嗣は。

 

 何度もドイツや周辺の国へ渡っていた。

 

 同じ地域へ。

 

 別の経路から。

 

 繰り返し近づこうとしていた。

 

 厳冬地へ入るための装備があった。

 

 使われたものも。

 

 損傷したものもあった。

 

 結界を破るための魔術礼装も。

 

 侵入経路を作る道具も。

 

 残されていた。

 

「アインツベルンの森のものらしい」

 

 クルミを置く。

 

「セイバーが、切嗣とイリヤが森でクルミの芽を探して競争したって、城で聞いたことがあるって」

 

 イリヤの指が。

 

 わずかに動く。

 

 けれど。

 

 クルミには触れない。

 

「それと」

 

 五体のくまを見る。

 

「一体ずつ、数字が刺繍されてる」

 

 イリヤは。

 

 最初の一体を見た。

 

 次。

 

 その次。

 

 一つずつ増えていく数字。

 

 渡航記録の年代。

 

 五年間。

 

 すぐに。

 

 何を意味するか理解したようだった。

 

「送らなかったのね」

 

「うん」

 

 士郎は反論しない。

 

「来ようとはしたの?」

 

「そのための準備はしてた」

 

「でも、来なかった」

 

「うん」

 

 それも。

 

 事実だった。

 

 来ようとした痕跡がある。

 

 何度も。

 

 けれど。

 

 イリヤの前には現れなかった。

 

 くまも。

 

 クルミも。

 

 届かなかった。

 

「親父は、イリヤのことをずっと覚えてたんだ」

 

 士郎は言う。

 

「それだけは、間違いない」

 

 イリヤは顔を上げない。

 

 怒っているのか。

 

 寂しいのか。

 

 少しだけ安心したのか。

 

 信じたくないのか。

 

 ずっと知りたかったのか。

 

 どれか一つには見えなかった。

 

「でも、会いに来なかったことも本当だ」

 

 士郎は続ける。

 

 切嗣を守るために。

 

 持ってきたのではない。

 

「これで切嗣を許せって言うつもりはない」

 

 イリヤの指が。

 

 一番端のくまへ触れた。

 

 持ち上げない。

 

 毛並みを。

 

 一度だけなぞる。

 

「どう思うかは、イリヤが決めていい」

 

 許すか。

 

 許さないか。

 

 切嗣をどう見るのか。

 

 士郎が決めることではない。

 

 アトラスも。

 

 何も言わない。

 

 入口の近くで。

 

 イリヤの裁定へ介入せずに立っている。

 

「シロウは」

 

 イリヤが言った。

 

「キリツグが嫌になった?」

 

 士郎は。

 

 すぐには答えられなかった。

 

 セイバーが知る切嗣。

 

 イリヤが知る切嗣。

 

 士郎が知る養父。

 

 どれも。

 

 嘘ではない。

 

 知らなかったものが増えた。

 

 分かったのではない。

 

 前より。

 

 もっと分からなくなった。

 

「分からなくなった。でも、俺が知ってた切嗣まで嘘だったとは思わない」

 

「ずるい答え」

 

「そうかもしれないな」

 

 正解はない。

 

 切嗣のことも。

 

 イリヤがどう受け取るべきかも。

 

 士郎には決められない。

 

 イリヤは。

 

 くまへ触れたまま。

 

 許すとも。

 

 許さないとも言わなかった。

 

 士郎も。

 

 その答えを急かさなかった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 居間へ戻ると。

 

 遠坂が紙を広げていた。

 

 教会へ行く。

 

 言峰へ。

 

 第四次のことを確認する。

 

 城にいた黄金のサーヴァントは。

 

 第四次のアーチャーと同一である可能性が高い。

 

 言峰も。

 

 第四次の参加者だった。

 

 知っていることがあるはずだ。

 

 前回の聖杯戦争が。

 

 どう終わったのか。

 

 なぜ切嗣が聖杯を壊したのか。

 

 なぜ第四次のサーヴァントと同じ英霊が。

 

 今も現界しているのか。

 

 言峰が。

 

 ギルガメッシュについて何を知っているのか。

 

 確かめなければならない。

 

 士郎の身体には。

 

 切嗣が残した鞘がある。

 

 セイバーには。

 

 理解できなかったマスターの記憶がある。

 

 衛宮邸には。

 

 イリヤへ届かなかった物が残っていた。

 

 過去から残ったものは。

 

 答えではなかった。

 

 切嗣を。

 

 正しいとも。

 

 間違っていたとも。

 

 一つには決めてくれない。

 

 ただ。

 

 消えなかった事実だけを。

 

 現在へ運んできた。

 




お読みいただきありがとうございます。
しばらくは毎日7時頃に更新予定です。

後日譚の
『The Reversed Star――逆位置の星――』 https://syosetu.org/novel/417875/
も連載中です、よろしくお願いします。
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