The Reaching Shore――届かせるもの――   作:ほいみん

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Fate/stay night二次創作長編『The Reaching Shore――届かせるもの――』第13話です。

※独自解釈/女性体オリジナルサーヴァント/ギルガメッシュ×アトラス/本文に文章生成AI補助あり
※掲載イラストは作者による手描きです。

詳しい注意事項・AI使用表記・制作FAQはこちら:
【作品案内URL】
https://docs.google.com/document/d/1J5hZ3qOATZGBYELXd_x-g7suIvv0zHGGJ4TijIUNzlI/edit?usp=sharing

アトラス設定資料はこちら:
【設定資料URL】
https://docs.google.com/document/d/1Gdk-aR_oVREDxgTlwfcmQzWDoM_qF-cY2UsIi8TS6_0/edit?usp=drive_link



第27話 十分だ

 光が消えた。

 

 池の上には、何も残っていない。

 

 黒い孔も。

 

 そこから溢れようとしていた泥も。

 

 夜空だけが戻っている。

 

 士郎は見上げなかった。

 

「イリヤ」

 

 遠坂の腕の中で、小さな身体が震えている。

 

 呼吸が浅い。

 

 指先に力がない。

 

 目は開いている。

 

 けれど、焦点が合っていない。

 

 士郎は駆け寄った。

 

「遠坂。イリヤは」

 

 遠坂は答えなかった。

 

 イリヤを地面へ寝かせる。

 

 胸へ手を当てる。

 

 首筋。

 

 手首。

 

 瞳。

 

 それから、身体の内側を探るように魔力を流した。

 

 遠坂の眉が寄る。

 

 もう一度。

 

 今度は胸の奥へ、細く魔力を通す。

 

「解除できたのは、この子を聖杯として固定していたものだけよ」

 

 遠坂の声が低い。

 

「壊れた身体まで、元に戻ったわけじゃない」

 

 イリヤの身体が小さく跳ねた。

 

 呼吸が一度途切れる。

 

「じゃあ、治せばいい」

 

「やってる」

 

 遠坂の手から光が流れる。

 

 けれど。

 

 イリヤの震えは止まらない。

 

 魔力逆流で焼かれた回路。

 

 乱れた神経。

 

 不規則に動く心臓。

 

 身体のあちこちで、壊れたものが同時に広がっている。

 

 遠坂がポケットを探る。

 

 処置用の宝石を一つ取り出す。

 

 砕く。

 

 光がイリヤの胸へ沈んだ。

 

 それでも足りない。

 

「普通の治療じゃ間に合わないわ」

 

「遠坂」

 

「宝石が足りないってだけじゃない。壊れる方が早すぎるのよ」

 

 遠坂が歯を食いしばる。

 

「このままじゃ、もたない」

 

 士郎はイリヤへ手を伸ばした。

 

 何かをしなければならない。

 

 けれど。

 

 治療魔術なんて使えない。

 

 倒すためのものは使えた。

 

 切るためのものも使えた。

 

 今必要なのは。

 

 壊れていく身体を、ここへ残すことだ。

 

 伸ばした手が止まる。

 

 胸の奥に、熱がある。

 

 昔からあった。

 

 傷つけば、そこから熱が広がった。

 

 身体を繋ぎ。

 

 死ぬはずだった傷を塞いだ。

 

 セイバーが士郎を見ていた。

 

 孔を破壊した剣は、もう光を失っている。

 

 その視線だけが、士郎の胸の奥へ向いていた。

 

 鞘。

 

 十年前、切嗣が士郎の身体へ残したもの。

 

 本来は、セイバーのものだった。

 

 目の前にいる少女と。

 

 伝承の中の騎士王が、半歩だけ重なる。

 

 セイバーがイリヤの側へ膝をついた。

 

 胸元へ手を近づける。

 

「アヴァロンであれば、進行している損傷を抑えられる可能性があります」

 

 遠坂が顔を上げた。

 

「治せるのは、今壊れたところだけ?」

 

「はい」

 

 セイバーはイリヤを見る。

 

「この身体が担っていたものまで、失わせることはできません。そこまでは約束できない」

 

 小聖杯として作られた身体。

 

 その根本までは変わらない。

 

 それでも。

 

 今、壊れ続けている身体を止められるなら。

 

 イリヤは生きられる。

 

 遠坂はすぐに動かなかった。

 

 士郎を見る。

 

 セイバーを見る。

 

 最後に、イリヤを見る。

 

「勝手にはできない」

 

 遠坂が言った。

 

「士郎が手放す。セイバーが繋ぐ。イリヤが受け取る。全部要る」

 

 士郎は胸へ手を当てた。

 

 これを手放せば。

 

 もう、傷は勝手には治らない。

 

 十年前から自分を守っていたものがなくなる。

 

 切嗣から受け取った、最後のものも。

 

 一拍。

 

 それだけだった。

 

 切嗣が残したものなら。

 

 なおさら。

 

 帰ろうとして。

 

 届かなかった相手へ。

 

 今度こそ。

 

 士郎が届かせる。

 

「俺は、手放す」

 

 セイバーが士郎を見る。

 

「一度離せば、貴方のもとへ戻る保証はありません」

 

「分かってる」

 

 返してもらうつもりはない。

 

 代わりを作るつもりも。

 

 士郎はイリヤの側へ膝をついた。

 

 遠坂に支えられた顔は白い。

 

 瞼は半ば閉じている。

 

 それでも。

 

 士郎の声が届いたのか。

 

 目が、ほんの少しだけ動いた。

 

「イリヤ。受け取るか」

 

 助けるとは言わなかった。

 

 生きろとも。

 

 決めるのは、イリヤだ。

 

 イリヤの指が動いた。

 

 力はほとんどない。

 

 それでも。

 

 自分から、士郎の指へ触れた。

 

「……ちょうだい」

 

 小さな声だった。

 

 けれど。

 

 聞き間違えようがなかった。

 

 士郎が手放す。

 

 イリヤが受け取る。

 

 セイバーが二人の間へ手を添える。

 

 遠坂はイリヤの身体を支えたまま、胸と魔力の流れを見ている。

 

 士郎の胸の奥で。

 

 細い経路が開いた。

 

 セイバーが近くにいる時だけ、何度も熱を返していた場所。

 

 魔術回路とは違う。

 

 契約でもない。

 

 身体の奥から、白い熱が浮かび上がる。

 

「少し、痛みます」

 

 セイバーの手が士郎の胸元へ触れた。

 

 痛みが走る。

 

 肉を裂かれたわけじゃない。

 

 けれど。

 

 十年前から自分の一部だったものが、境界を取り戻そうとしている。

 

 白い光が胸の奥から浮かぶ。

 

 金属ではない。

 

 輪郭だけがある。

 

 鞘の形。

 

 それが光の中で、一瞬だけ現れた。

 

 身体から、熱が離れていく。

 

 傷ついた時。

 

 死にかけた時。

 

 何度も士郎をここへ繋ぎ止めたもの。

 

 切嗣が火災の中で使い。

 

 士郎の身体へ残したもの。

 

 切嗣はイリヤのことを話さなかった。

 

 戻ろうとしていたことも。

 

 届かなかったことも。

 

 士郎は、全部を知っているわけじゃない。

 

 切嗣が本当は何を望んでいたのかも。

 

 何を言えなかったのかも。

 

 これは切嗣の答えを完成させるためじゃない。

 

 代わりに謝るためでもない。

 

 士郎が受け取ったものを。

 

 どこへ返すか。

 

 自分で選んだだけだ。

 

 セイバーの手が、白い光を導く。

 

 士郎の胸から離れた鞘の輪郭が、イリヤの身体へ近づく。

 

 光が沈む。

 

 イリヤの身体の奥へ。

 

 細い光が根を張るように、静かに定着していく。

 

 細い光が全身へ広がった。

 

 焼けた回路へ。

 

 乱れた神経へ。

 

 不規則に動く心臓へ。

 

 壊れたものを、急いで繋ぎ直していく。

 

「呼吸、戻ってる……!」

 

 遠坂の声が飛ぶ。

 

 痙攣が弱くなる。

 

 途切れかけていた息が続く。

 

 一つ。

 

 もう一つ。

 

 心臓の動きが、少しずつ一定へ近づいた。

 

 冷え切っていた指先に、わずかな温度が戻る。

 

 イリヤの指が、士郎の指を弱く握った。

 

 遠坂はしばらく黙っていた。

 

 魔力の流れを追う。

 

 心拍を確認する。

 

 瞳へ光を当てる。

 

 ようやく。

 

 息を吐いた。

 

「助かった。でも、この子の身体が何だったかまで、なくなったわけじゃない」

 

 急性の損傷は止まった。

 

 イリヤは目を閉じた。

 

「イリヤ」

 

「眠っただけよ」

 

 遠坂が答える。

 

 呼吸は安定している。

 

 胸も、一定の間隔で動いている。

 

 士郎はイリヤの手を握ったまま、ようやく肩の力を抜いた。

 

     ◇

 

 山門。

 

 砕けた石段に、二人の王が立っている。

 

 損傷した王宮外装の光が、一つ消えた。

 

 前へ進むための力。

 

 次に。

 

 崩れた身体を支えていた力が止まる。

 

 敏捷を補っていた光が失われる。

 

 石段へ沈められていた深海圧が消える。

 

 通路の輪郭が薄れる。

 

 侵入を拒んでいた境界が消える。

 

 通行を裁定していた光が沈黙する。

 

 外壁。

 

 門。

 

 最後に。

 

 完全閉城の中核が止まった。

 

 アトラスを包んでいた城塞の輪郭が薄れていく。

 

 装甲の継ぎ目から、青い光が抜ける。

 

 砕け落ちない。

 

 現界の密度だけを失い。

 

 紺碧の外装は、夜の中へ溶けていく。

 

 石段の上に、ギルガメッシュがいる。

 

 石段の下側に、アトラスがいる。

 

 槍は下がっている。

 

 その輪郭も、王宮外装と同じように薄れていた。

 

 黄金の甲冑の下。

 

 赤い布の裾が裂けている。

 

 石段には、槍が届いた跡が残っている。

 

 ギルガメッシュは山門の前に立ったまま動かない。

 

 アトラスの身体の縁から。

 

 青い糸がほどけ始めた。

 

 水青の髪とは違う色。

 

 霊基そのものを織っていた光。

 

 一本ずつ。

 

 外装の縁から。

 

 肩から。

 

 指先から。

 

 織られていたものが、静かに解かれていく。

 

 王宮機構も。

 

 槍も。

 

 王冠も。

 

 同じ速さで現界を失う。

 

 ギルガメッシュは動かない。

 

 赤い目だけが、その過程を見ている。

 

 風が吹く。

 

 裂けた赤い布が揺れる。

 

 砕けた石段の上を、青い糸が流れていく。

 

 最後の一本が、夜気へ消えた。

 

 そこには何も残らない。

 

 王宮外装も。

 

 槍も。

 

 王冠も。

 

 砕けた石段だけが残る。

 

 見届ける者はいても、見送る者はいない。

 

 ギルガメッシュは何も言わない。

 

 山門へ背を向ける。

 

 来た側へ。

 

 石段を一段、下りた。

 

     ◇

 

 胸の奥で。

 

 一つの繋がりが消えた。

 

 痛みはない。

 

 爆発も。

 

 ただ。

 

 そこにあった流れが途切れる。

 

 魔力を送る経路。

 

 命令を伝える線。

 

 令呪とは違う。

 

 アトラスと士郎を繋いでいた契約が。

 

 正しく閉じた。

 

 名前を呼びかけそうになった。

 

 けれど。

 

 声にはしなかった。

 

 イリヤの手を離さない。

 

 終わったのだと分かった。

 

 遠坂が士郎を見る。

 

「……アトラスは?」

 

「契約が、なくなった」

 

 遠坂はそれ以上訊かなかった。

 

 セイバーも何も言わない。

 

 ただ。

 

 士郎の顔を一度見て。

 

 再びイリヤへ向き直った。

 

 セイバーの指がイリヤの手首へ触れる。

 

 身体の奥へ定着した鞘の反応を確かめる。

 

「もう、急に失われることはありません」

 

「搬送して、しばらく見続ける必要はあるけどね」

 

 遠坂が答えた。

 

 その声には、ようやく次を考えられるだけの余裕が戻っている。

 

 セイバーが手を離す。

 

 その輪郭が、わずかに淡くなった。

 

 剣を持っていた姿勢を解く。

 

 風が肩のまわりを通り抜ける。

 

 士郎は分かった。

 

 セイバーも。

 

 ここには残れない。

 

 新しい契約を結ぶことはできるかもしれない。

 

 けれど。

 

 士郎は言わなかった。

 

 セイバーも求めない。

 

 孔を破壊し。

 

 鞘を返し。

 

 セイバーがここですべきことは、もう終わった。

 

 だから、消える。

 

 士郎に分かるのは、それだけだった。

 

 セイバーは遠坂を見る。

 

「助力に感謝します、遠坂凛」

 

「こっちも助けられたわ」

 

 一往復。

 

 それだけだった。

 

 次に。

 

 セイバーはイリヤを見る。

 

 眠っていた瞼が、ほんの少し開く。

 

「アヴァロンは、貴方が受け取りました」

 

 イリヤは小さくうなずいた。

 

「うん」

 

 それから。

 

 セイバーが士郎を見る。

 

「これが、貴方の答えなのですね」

 

「ああ」

 

 切嗣から受け取ったものを手放した。

 

 イリヤの選択を認めた。

 

 誰かの命令ではなく。

 

 自分で選んだ。

 

「助けてくれて、ありがとう」

 

 セイバーは何も言わなかった。

 

 それでよかった。

 

 風が吹く。

 

 淡い光が、身体の輪郭からほどけていく。

 

 朝が近づく空気へ。

 

 少女の姿が、静かに薄れていく。

 

 剣を構えていた腕が消える。

 

 鎧が光へ変わる。

 

 最後まで。

 

 セイバーは士郎を見ていた。

 

 やがて。

 

 風だけが残った。

 

「士郎」

 

 遠坂の声が戻ってくる。

 

「イリヤを運ぶわよ」

 

「ああ」

 

 池には。

 

 士郎。

 

 遠坂。

 

 眠るイリヤ。

 

 拘束を失い、地面へ崩れている慎二。

 

 動かなくなった言峰が残っている。

 

 戦う時間は終わった。

 

 残った人間を運ぶ時間が始まる。

 

     ◇

 

 イリヤは、魔術と医療の両方を使える場所へ運ばれた。

 

 慎二は別の病院へ送られた。

 

 言峰の遺体と柳洞寺の後始末は、遠坂が連絡した聖堂教会の人間に引き継がれた。

 

 士郎は、その全部を見届けたわけじゃない。

 

 イリヤの側を離れなかった。

 

 処置が一段落したあと。

 

 自分の身体が変わっていることに気づいた。

 

 胸の奥に、熱がない。

 

 傷を負っても勝手に繋ぎ直そうとする感覚がない。

 

 細い経路も閉じている。

 

 アトラスとの契約線も。

 

 左手の令呪もない。

 

 失ったものを数えたわけじゃない。

 

 借りていたもの。

 

 託されていたもの。

 

 契約で繋がっていたもの。

 

 それぞれが。

 

 それぞれの場所へ戻った。

 

     ◇

 

 イリヤが目を覚ました時。

 

 士郎は椅子に座ったまま、眠りかけていた。

 

「シロウ」

 

 小さな声で目が覚めた。

 

「イリヤ」

 

 身体を起こそうとして。

 

 イリヤはすぐに力を失った。

 

「動くな。まだ」

 

「ここ、どこ?」

 

「治療できるところだ。遠坂が手配した」

 

 イリヤは瞬きをする。

 

 それから。

 

 士郎の顔を見た。

 

「シロウ」

 

「ああ」

 

「ここにいる?」

 

「ここにいる」

 

 イリヤの目が、少しだけ閉じる。

 

「帰れる?」

 

 士郎は答えた。

 

「帰ろう」

 

 衛宮邸へ。

 

 戦いの外へ。

 

 同じ場所へ。

 

 全部を一度には戻せない。

 

 それでも。

 

 帰る場所なら作れる。

 

 遠坂が部屋へ入ってきた。

 

 検査の結果を確認する。

 

 イリヤにも、隠さず伝えた。

 

 急に死ぬ状態ではなくなったこと。

 

 損傷は安定していること。

 

 けれど。

 

 小聖杯としての機能は残っている。

 

 身体の根本まで、普通の人間と同じになったわけではない。

 

「そう」

 

 イリヤはそれだけ言った。

 

 士郎も。

 

 全部治すとは言わなかった。

 

 分からないことを、分かったふりはしない。

 

 これから。

 

 一緒に考える。

 

     ◇

 

 数日後。

 

 慎二は病室のベッドにいた。

 

 身体のあちこちを包帯で巻かれ。

 

 起き上がることもできない。

 

 士郎が入ると、露骨に顔をしかめた。

 

「見舞いなら帰れよ」

 

「生きてるか見に来ただけだ」

 

「見れば分かるだろ」

 

 声だけは変わらない。

 

 不機嫌で。

 

 自分が一番被害者だと思っている。

 

「器にされるところだったんだぞ、僕は」

 

「ああ」

 

「あいつら、僕を何だと思ってたんだ」

 

 慎二は何かを言いかけた。

 

 人を使うことなんて。

 

 誰かが道具になることなんて。

 

 そんな言葉を。

 

 けれど。

 

 口を閉じた。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

「……もう帰れよ」

 

「分かった」

 

 士郎は病室を出た。

 

 廊下に桜がいた。

 

 慎二の見舞いに来たらしい。

 

 いつもどおりに立っている。

 

 いつもどおりに笑おうとしている。

 

 けれど。

 

 顔には疲れが残っていた。

 

「先輩」

 

「桜も無理するなよ」

 

「はい、先輩」

 

 それ以上は聞けなかった。

 

 桜が何を失ったのか。

 

 士郎は知らない。

 

 少し離れた場所で、遠坂が桜の手元を見た。

 

 指。

 

 手首。

 

 何かを確かめるように。

 

「遠坂?」

 

 遠坂は桜から目を離した。

 

「……何でもないわ」

 

 桜も何も言わなかった。

 

     ◇

 

「遠坂。宝石も、剣も」

 

 衛宮邸へ戻ってから。

 

 士郎はようやく口にした。

 

 遠坂はティーカップを置く。

 

「使ったのよ」

 

「でも、あれは」

 

「父さんから受け取ったものを、わたしが選んだ戦いに使った。それだけ」

 

 簡単なことのように言った。

 

 けれど。

 

 簡単なはずはない。

 

 十年かけて溜めた宝石。

 

 父親から渡された剣。

 

 アーチャーも。

 

 戦争で失ったものも。

 

 何一つ、なかったことにはならない。

 

 遠坂は立ち上がった。

 

「だから、士郎が気にすることじゃない」

 

「……分かった」

 

「本当に分かってる?」

 

「分かるようにする」

 

「ならいいわ」

 

     ◇

 

 藤ねえが衛宮邸へ戻った時。

 

 最初に見たのは、居間で毛布に包まれているイリヤだった。

 

「士郎。女の子が増えてる」

 

「増えたって言い方するな」

 

「だって増えてるじゃない」

 

 藤ねえは靴も脱ぎ切らないうちに、イリヤの前へ座り込んだ。

 

「しばらくここで暮らす」

 

 士郎が言うと。

 

 藤ねえはイリヤを上から下まで見た。

 

 細い腕。

 

 まだ白い顔。

 

「ちゃんと食べられるの?」

 

「食べられるわよ」

 

「ならよし!」

 

 細かいことは後回しだった。

 

 布団をどこへ敷くか。

 

 何を食べさせるか。

 

 寒くないか。

 

 藤ねえの関心は、そちらへ移った。

 

 戦争のことは知らない。

 

 イリヤが何だったのかも。

 

 それでよかった。

 

     ◇

 

 一週間が過ぎて。

 

 桜が衛宮邸へ戻ってきた。

 

「お邪魔します」

 

 玄関に立った桜を。

 

 イリヤが居間から見た。

 

 二人は少しだけ黙った。

 

 知っていること。

 

 知らないこと。

 

 言わないこと。

 

 その全部が、二人の間にはある。

 

「こんにちは、イリヤさん」

 

「こんにちは、サクラ」

 

 それだけだった。

 

 大きな和解はない。

 

 何かを打ち明けることも。

 

 すぐに仲良くなることもない。

 

 それでも。

 

 桜は家へ上がった。

 

 イリヤも追い返さなかった。

 

 藤ねえが台所から顔を出す。

 

 遠坂が勝手知ったように湯呑みを並べる。

 

 人数が増えた。

 

 以前と同じではない。

 

 いなくなった者もいる。

 

 けれど。

 

 日常は戻ったのではなく。

 

 形を変えて、続いている。

 

     ◇

 

 午後。

 

 士郎は菓子店の包みを持って帰った。

 

 居間にはイリヤがいる。

 

 長く歩くのはまだ駄目だが。

 

 食事もできる。

 

 自分で座っていられる。

 

 包みを開く。

 

 どら焼きを取り出した。

 

 士郎の前へ一つ。

 

 イリヤの前にも一つ。

 

「ほら」

 

 イリヤが目を落とす。

 

「わたしの?」

 

「イリヤのだ」

 

 二つは同じ大きさだった。

 

 士郎の分を割ったものじゃない。

 

 大きい方を譲ったものでも。

 

 最初から。

 

 イリヤの分として買ってきた。

 

 イリヤがどら焼きを持つ。

 

 一口食べた。

 

「甘い」

 

「ああ」

 

 切嗣が買ってきた時と同じ味。

 

 公園で、一つを二人で分けた時とも同じ味。

 

 場所だけが違う。

 

 今は、衛宮邸の卓だ。

 

 士郎も自分のどら焼きを食べる。

 

 イリヤはもう一口。

 

 士郎も、自分の分を口へ運ぶ。

 

 二人の前に。

 

 それぞれ一つずつある。

 

 どら焼きを二つに割る必要は、もうなかった。

 




これにて『The Reaching Shore――届かせるもの――』の連載は終了です。
ここまで読んでくださってありがとうございました。

以下の活動報告に制作時の裏話などを掲載しておりますので、興味のある方はこちらもお楽しみください。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view_list&uid=332978

後日譚の
『The Reversed Star――逆位置の星――』 https://syosetu.org/novel/417875/
も連載中です、よろしくお願いします。
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