氷雪に覆われた無人島。先ほどまで岩肌を覗かせていた大地は、その原形を留めていなかった。
天地のすべてが蒼白の世界へと塗り替えられている。空からは絶え間なく氷晶が舞い落ち、凍てつく吹雪は島全体を飲み込んでいた。
海さえも凍り付き、水平線の彼方まで巨大な氷原が広がっている。その冷気は島一つに収まらない。周囲数十キロに及ぶ海域の気流そのものを書き換え、暖かな海風は完全に消え失せていた。
代わりに吹き荒れるのは、肌を切り裂くような極寒の暴風。まるでこの島だけが、世界から切り離された永久凍土へと変貌したかのようだった。
そして――。島の中央。
巨大な氷壁が幾重にも砕け散るその中心で、一人の男が膝をついていた。
「……はぁ……っ。」
海軍本部最高戦力。海軍大将――クザン。
肩で荒く息をし、全身から白い湯気を立ち上らせる。軍服は所々裂け、額から流れる汗は頬を伝う前に凍り付いていた。右腕は小さく震え、握った拳へ力を込めるだけでも限界が近いことが分かる。
「これほどとは……。」
センゴクは苦笑する。
「参ったねぇ……。」
その視線の先。吹雪の中心には、一人の青年が静かに立っていた。
レイ・ヴァルハート。純白の外套は一切乱れていない。肩へ降り積もる雪は近付くことすら許されず、身体の周囲で静かに霧散していく。
呼吸一つ乱れていなかった。まるで今の激戦など最初から存在しなかったかのように。ただ蒼い瞳だけが静かにクザンを見下ろしている。
一人で国家の軍事力を覆し、四皇最高幹部すら圧倒し得る存在。海軍という巨大組織を支える最後の抑止力。
その一角が、今まさに押し込まれていた。
もちろん、クザンが弱いわけではない。
彼が口にした悪魔の実――**自然(ロギア)系『ヒエヒエの実』**は、海すら凍らせ、島一つを永久凍土へ変えるほどの規格外の能力を持つ。能力だけを見れば、世界でも指折りの破壊力を誇る悪魔の実と言っていい。レイの持つ"コチコチの実"と概要は似ているが厳密には違う。
悪魔の実──コチコチの実。
一見するとヒエヒエの実と酷似した能力でありながら、その本質は全く異なる。両者は同じ「氷」を扱う能力でありながら、能力の思想そのものが対照的である。
ヒエヒエの実は、自身が氷そのものとなるロギア系悪魔の実であり、周囲の熱を奪い、触れたものや空気、水面までも瞬時に凍結させることを得意とする能力である。言わば「氷を生み出す」のではなく、「世界そのものを凍らせる」能力であり、その冷気は海を氷原へと変え、大地を書き換え、軍勢を一瞬で戦闘不能へ追い込むほどの広範囲殲滅能力を誇る。一方で、作り出される氷はあくまでも極低温によって形成された自然氷に近く、凄まじい冷気と鋭さを有しているものの、その硬度自体は通常の氷の延長線上にある。
対するコチコチの実は"一般的"に超人系悪魔の実であり、能力者自身が氷になることはない。その代わり、周囲を凍らせるのではなく、自身の意思だけで莫大な氷を無から創造する能力を有している。剣や槍、盾、鎧はもちろん、建造物や巨大な龍、獣、さらには精密な武器に至るまで自由自在に造形することができ、その応用力は他の氷系能力を大きく凌駕する。
そして最大の違いは、作り出される氷そのものの質にある。ヒエヒエの実が「冷気によって生まれた氷」であるのに対し、コチコチの実が生み出す氷は能力によって創造された特殊な氷であり、極限まで圧縮された高密度結晶構造を持つ。そのため鋼鉄を遥かに凌ぐ硬度と圧倒的な耐久力を誇り、溶解しにくい安定性まで兼ね備えている。さらに武装色の覇気を纏わせることでその強度は飛躍的に増し、一流の剣士ですら容易には破壊できないほどの強靭さを発揮する。つまり、ヒエヒエの実の氷が「凍らせるための氷」であるならば、コチコチの実の氷は「武器や防具として完成された氷」と言える。
総じて、ヒエヒエの実は圧倒的な冷気と凍結能力によって戦場そのものを支配する殲滅型の能力であり、多数を相手取る戦いにおいて真価を発揮する。一方、コチコチの実は超高硬度の氷を自在に創造し、武器、防具、建造物、巨大造形まで生み出す創造型の能力である。広範囲の制圧力ではヒエヒエの実に及ばないものの、造形性能、応用力、戦術性、そして氷そのものの硬度においては勝り、使い手の発想と技量次第で無限の可能性を秘めた能力と言える。すなわち、ヒエヒエの実が「世界を凍らせる力」であるならば、コチコチの実は「最強の氷を創造する力」。同じ氷を扱う能力でありながら、その本質は似て非なるものであり、万能性という点においてはコチコチの実が一歩先を行く悪魔の実なのである。
だがそもそもレイ・ヴァルハートとの戦いで露呈したのは、悪魔の実の優劣ではなかった。
勝敗を分けたのは、その先にある”総合力”。長年鍛え抜かれた覇気の練度。一瞬で最適解を導き出す戦闘経験と判断力。そして、悪魔の実に依存することなく極限まで磨き上げられた剣術と体術。
能力を軸に戦うクザンに対し、レイは能力、覇気、剣技、体術、その全てが高い次元で完成されていた。
その積み重ねられた僅かな差が、一撃ごとに広がり、やがて決定的な実力差として戦場に現れたのである。
「……もう終わりか?」
穏やかな声だった。クザンは肩をすくめ、小さく笑う。
「もう十分だ…て言いたいところだが俺にもメンツがあるんでね」
その光景を遠くから見守っていた海兵達は、誰一人として言葉を発することができなかった。
「だ……大将が……。」
「押されてる……。」
「嘘だろ……。」
「息一つ乱れてねぇぞ……。」
誰もが目を疑う光景…何しろ目の前の男は海軍大将。それは海軍本部最高戦力。世界中を見渡しても、わずか三人しか存在しない”怪物”。一人で一国の軍隊を壊滅させることすら可能とされる、人類最高峰の戦力。
海賊で言えば四皇最高幹部をも凌ぐ存在であり、その力は世界政府最大の抑止力そのものだった。
その海軍大将が――膝を突き見下ろされているのだ。
「コイツが正真正銘俺の最後の技だ。」
「…はぁ。分かった。付き合ってやるよ」
「今更だがそっちが本来の口調か?」
「あ?そうだが…」
「そっちの方が仲良くなれそうだ」
笑いながらクザンはゆっくりと立ち上がる。震えていた右腕を握り締め、砕けた氷の大地へ足を踏み込んだ。
その瞬間島中の冷気が、一斉にクザンの周囲へ集まり始める。
海が鳴き空が軋む。周囲数十キロを覆っていた氷海が音を立てながら隆起し、無数の氷柱となって天を突き刺す。極寒の覇気が渦を巻き、島全体が白い嵐へ飲み込まれていく。
「これが……海軍大将”青雉”。最後の一撃だ。」
クザンの両腕から溢れ出た冷気は巨大な氷石となり、その身は島一つを巻き付くほどの巨躯へと膨れ上がる。咆哮一つで天地が震えた。
「――“アイスクリムゾン”。」
巨大な氷石がレイへ向かって牙を剥く。それだけで大地が凍り砕け、海面は瞬く間に白へ染まる。海兵達は思わず後退した。
「しまっ……!」
「島が耐えられない!」
センゴクが鋭く叫ぶ。
「全員離れろォ!!」
軍艦までもが衝撃波で押し流される。それほどまでの一撃だった。
だがレイは静かに目を閉じその場で仁王立ちする
「……。」
右手が腰の剣へ添えられる。腰に添えられているのは己が造形した刀身であり鞘から僅かに刀身が覗いた瞬間ーー世界が静止した。
吹雪が止み舞っていた雪片が空中で止まり、音さえ消え失せる。
「……美しい。」
誰かが思わず漏らした。レイは静かに剣を抜く。その刀身は透き通る蒼、鏡のような刃には空さえ映り込み、周囲の冷気すべてを支配していた。
「クザン大将。」
レイは静かに構える。
「お前への敬意を込めて。俺も、全力で応えてやる」
その蒼い瞳が開かれる。次の瞬間莫大な覇王色の覇気が天へ突き抜けた。
空を覆う黒雲が真っ二つに裂ける。蒼い稲妻が幾千条も空を駆け巡り、
海は大きく割れ、島全体が軋み始める。
「なっ……!」
「覇王色だ!!」
「しかも……この規模……!」
海兵達の膝が震える。立っていることすらできない。センゴクの額にも汗が流れた。
(やはり持っていたか。王の資質を…そしてこれほどの……覇気……。)
レイは静かに息を吐く。
「行くぞ」
剣を一閃する。
「―― 氷造形・白皇氷帝剣――天極・皇龍煌牙」
その一太刀で生み出された巨大な蒼い斬撃は氷石を正面から呑み込み、空を裂き、海を裂き、島そのものを縦断する。二つの極寒が真正面から激突した。
瞬間――世界から色が消えた轟音と共に天と地がひっくり返るような爆発が起こり衝撃だけで巨大な氷山が粉々に吹き飛び、数百メートル級の津波が海を駆ける。遥か彼方の雲海まで蒼白へ染まり、空気そのものが凍り付く。世界が一瞬だけ、冬へ塗り替えられた。
海兵達は衝撃波だけで吹き飛ばされ、軍艦は何百メートルも後退する。
センゴクだけが歯を食いしばり、両足を地面へめり込ませながら前を見据えた。
「クザンッ!!」
白い世界中視界は何も見えない。吹雪だけが吹き荒れる。時間が経つにつれやがて静かに雪煙が晴れていく。
そこに立っていたのは――
ただ一人。レイ・ヴァルハート。
純白の外套は僅かに揺れるだけ。その手には、己が造形し納刀された蒼き剣。
対するクザンは、数十メートル先まで吹き飛ばされ、砕けた氷壁へ背中から叩き付けられていた。軍帽は砕け、軍服は裂け、全身には無数の傷が走る。
それでも最後まで立ち上がろうと膝へ力を込める。
「まだ……俺は……。」
震える腕を懸命に動かそうとする。しかし身体は動かない。
クザンは苦笑した。
「……俺の…負けだ。」
その言葉を最後に、クザンは力尽きたように前へ倒れ込む。
鈍い音を立て、氷上へ静かに伏した。完全に意識を失ったのを確認すると島には再び静寂が訪れる。誰も言葉を発せない。
海軍最高戦力。海軍大将・クザン。その男が、真正面から敗れた。
しかも相手は、今問題とされる組織のトップである。レイは静かにクザンへ歩み寄ると、その傍らで足を止める。
「……強かったよアンタ」
その一言には勝者の驕りはない。ただ、同じ高みへ至った強者への、心からの敬意だけが込められていた。
海軍本部帰還後――聖地マリージョア・世界政府最高会議提出報告書
センゴクは会談から数日後、自らの足でマリージョアを訪れていた。
海軍元帥としてではない。世界政府へ、一国の脅威を正しく報告するためである。
重厚な会議室の机の上へ一冊の報告書を置く。
「……今回の視察結果です。」
そこには大きく記されていた。
海軍元帥・センゴク提出
エデン連邦並びに代表レイ・ヴァルハート評価報告書
【国家評価】
・国名
エデン連邦
・危険度
SS(国家規模)
・軍事力
一国家を遥かに凌駕している
・経済力
急成長中
・国民支持率
極めて高い
■総評
エデン連邦は海賊国家ではない。革命軍とも根本的思想を異にする。
彼らは略奪・侵略・奴隷制度を一切認めず、解放した土地を支配せず自治へ委ねる国家である。
その結果として世界各国から非常に高い民意を獲得している。
現在確認されている国家として、最も民衆から信頼を得ている勢力と言って差し支えない。
■外交能力
極めて優秀であり海軍本部との会談において敵意は一切見せず、終始冷静かつ礼節を重んじる姿勢を確認。
国家間外交への理解も深い。軍事国家ではなく、文明国家として成熟しつつある。
■経済評価
農業・医療・鉱石精製・造船技術…全てが高水準であり特に国内資源管理能力は加盟国平均を大きく上回る。
長期的発展が見込まれる。
■軍事評価
国防思想が極めて強い。侵略意思は確認されず、しかし国土防衛能力は四皇勢力と同等以上と思われる。
既に白ひげ海賊団との正式同盟締結を確認。盟約旗の存在により、実質的に白ひげ勢力との共同防衛体制が成立している。
現時点で武力侵攻は推奨しない。
センゴクは一枚ページを捲る。
そこには一人の青年の写真が貼られていた。
個人評価
レイ・ヴァルハート
・推定年齢
十代中盤
・危険度
SSS
・戦闘能力
四皇クラス
海軍大将クザンとの模擬戦を実施した。結果は完敗を喫した。
それは能力差ではなく総合戦闘能力において大将を大きく上回る。
覇気・剣術・体術・戦闘経験・判断力・悪魔の実の練度。いずれも極めて高水準で身に付けられており総合評価では、現海軍最高戦力を凌駕する可能性が高い。
・統率能力
極めて優秀であり種族、身分、出身、全てを問わず人材を登用。
国民から絶対的支持を獲得し独裁ではなく信頼による統治を実現している。
・人物評価
冷静沈着であり極めて高い知性を有する。
感情で力を振るう人物ではない一方で、民間人への危害については一切妥協しない。守るべき対象が傷付けば、武力行使を躊躇しない覚悟を確認。
・思想評価
革命思想とは異なる。世界政府打倒を目的とはしていない。
しかし、理不尽な支配には決して屈しない。
結果として、世界政府統治体制最大の障害となる可能性が高い。
・特記事項
最大の危険性は、武力ではない。危険なのはその“思想”である。
武力による支配ではなく、カリスマ性と信頼によって民衆を惹き付けている。
各加盟国住民による自発的支持を複数確認。長期的には革命軍以上の影響力を持つ可能性あり。
・最終所見
エデン連邦は敵対を望まない国家である。
同時に、力による威圧が最も通用しない国家でもある。
武力衝突が発生した場合、海軍・世界政府双方へ甚大な損害が予測される。
外交関係維持を最優先事項とし、不必要な敵対行為は厳に慎むべきである。
特に、レイ・ヴァルハート個人の力は軽視してはならない。
彼は一介の強者ではない。国を築き、人を導き、世界を変え得る”王”である。
センゴクは静かに報告書を閉じる。
会議室は重苦しい沈黙に包まれていた。
誰も反論しない。かの海軍元帥・センゴクが言い放った事であり信頼度は高く誰もできないのだ。最後にセンゴクは、低く、しかしはっきりと言い放つ。
「私からの進言は一つだけです。エデン連邦を海賊と同列に扱うのはやめていただきたい。彼らは国家です。そして、レイ・ヴァルハートは決して反乱者ではない。」
一拍置き、会議室を見渡す。
「――もし彼を敵に回す判断を下すのであれば、その決断が世界そのものを二分する可能性があることを、覚悟した上で行っていただきたい。」
その言葉だけを残し、センゴクは静かに会議室を後にした。彼の背中には、長年海軍を率いてきた男だからこそ分かる、未来への重い危機感が滲んでいた。
島を囲む海風が、静かに白いカーテンを揺らしていた。皇帝の間には普段と変わらぬ静寂が流れている
此処はアマゾン・リリー――皇帝の間。
その沈黙を破ったのは、一羽のニュース・クーだった。
「女帝様。」
ニョン婆が受け取った世界経済新聞を、ゆっくりとハンコックへ差し出す。
「……世界新聞か」
ハンコックは興味なさげに受け取り、紙面を開く。
その瞬間だった。
「――ッ!!」
ハンコックの美しい黄金色の瞳が大きく見開かれる。
一面を飾っていたのは、一人の青年。純白の外套を纏い、玉座へ静かに腰掛けるその姿。
「…あ…」
数年前とは顔立ちも体格も全てが成長しているがハンコックが彼を見間違えるはずも無い。新聞の大きく踊る見出しーー
『新世界に新たな独立国家誕生!!』
『エデン連邦代表 レイ・ヴァルハート』
その名を目にした瞬間――ハンコックの持つ新聞が震えた。
「……レイ。」
小さく漏れたその名前は、震えていた。
記事には書かれている。世界政府との正式会談・白ひげ海賊団との同盟そして海軍元帥センゴク来訪。
何より世界中の民から”希望の王”と呼ばれ始めた男。
ハンコックは震える指先で写真へ触れる。
「生きて……おった。」
頬を一筋の涙が伝う。あの日から何度祈っただろう。何度祭壇へ花を供えただろう。何度「生きていてほしい」と願っただろう。
その願いが、今。一枚の新聞によって報われた。
「……ふふ。」
涙を流しながら笑う。
「本当に……生きておったのじゃな。」
サンダーソニアもマリーゴールドも新聞を覗き込み、驚きの声を上げる。
「レイ様……!」
「まさか生きておられたなんて!」
ニョン婆も目を細める。
「なんという男じゃ……お主達から聞いておったがまさか本当に天竜人へ牙を剥き、この短期間で一国を築き上げるとは。」
ハンコックは記事を最後まで読み終える。
そしてゆっくりと立ち上がった。涙はもう止まっている。その瞳には、ある決意と女帝としての強い光が宿っていた。
「サンダーソニア。」
「はい。」
「マリーゴールド。」
「はい。」
「九蛇海賊団全員へ伝えるのじゃ。」
その声は凛としていた。
「即刻、出航の準備を。目的地は――」
ハンコックは新聞へもう一度視線を落とす。そこに記された国名を静かに口にした。
「エデン連邦」
二人は目を見開く。
「姉様!」
「本気ですか!?」
ハンコックは微笑む。その笑みは、恋する一人の女性のものだった。
「当然じゃ。もう待つ必要などない。今度は……」
新聞を胸へ抱き締める。
「今度は妾が会いに行く。」
その一言だけで十分だった。九蛇海賊団の女戦士達は一斉に膝をつく。
「女帝様の御命令のままに!」
港では巨大な九蛇海賊船の帆が次々と張られ始める。武器を整える者と食料を積み込む者。蛇達が嬉しそうに鳴き声を上げる。
島全体が慌ただしく動き始めた。出航を見届けるニョン婆は、小さくため息をつく。
「まったく……。世界を震わせる男が現れたと思えば。」
遠ざかる新聞へ視線を向ける。
「今度は海賊女帝まで動かしおったか。」
水平線の彼方。九蛇海賊団の船は、風を受けて力強く進み始める。その船首に立つハンコックは、エデン連邦の方角を真っ直ぐ見据えていた。
「待っておれ……レイ。この日をどれだけ待ち侘びたことか…今度こそ、妾が迎えに行くのじゃ。」
女帝を乗せた九蛇海賊団は、新たな時代の中心へ向け、大海原を駆け出した。
エデン連邦・首都『エデン』
青く澄み渡る空の中九蛇海賊団の巨大な海賊船は、静かにエデン連邦の港へと入港した。船首に立つハンコックは、黙って眼前へ広がる景色を見つめる。
「……。」
その美しさに、誰も言葉を失っていた。
「あれが……エデン連邦。」
サンダーソニアが思わず呟く。港には大小様々な船が停泊している。
商船、漁船、護衛艦、さらには魚人族が海中で荷運びを行い、人間達がそれを笑顔で迎える。
その隣では巨人族が巨大な資材を軽々と持ち上げ、ミンク族の子供達が街中を元気よく駆け回っていた。
「こんな国……。」
マリーゴールドは目を見開く。
「本当にあるのですね……。」
街には種族という隔たりが存在しない。
誰もが同じように笑い、同じように働き、同じように暮らしている。当たり前に奴隷もいなければ怯えた目をした子供もいない。世界政府加盟国ですら滅多に見られないほど穏やかな空気が、この国には流れていた。
ハンコックは静かに微笑む。
(……らしいのう。お主なら、きっとこんな国を創る。)
港へ降り立つと、すぐに白銀の鎧を纏った兵士達が歩み寄ってきた。
胸には黄金の龍を掲げたエデン連邦近衛兵。隊長格と思われる男が一礼する。
「ようこそ、エデン連邦へ。私は近衛隊長、アルトと申します。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか。」
ハンコックは一歩前へ出る。
「妾は九蛇海賊団船長。ボア・ハンコックじゃ。」
近衛兵達の表情が僅かに変わる。彼が反応したのはその美貌でもなく"海賊"と言う単語である。だが隊長は冷静なまま頭を下げた。
「ではハンコック様、本日はどのようなご用件でしょう。」
「この国の代表。レイ・ヴァルハート殿へ面会を願いたい。」
少し悩ましい表情を浮かべた後隊長は静かに頷く。
「承知しました。代表へ確認を取りますので、どうぞこちらへ。」
兵士達に囲まれることなく、丁寧に案内される。その待遇だけでも、この国の品格が伝わってきた。やがて一行は王城へ辿り着く。巨大な氷の門が音を立てて開く。
「……。」
サンダーソニアが息を呑む。
「綺麗……。」
目の前にあるのは透き通る蒼氷で造られた城。天井から吊るされた巨大な氷結晶。磨き抜かれた氷の回廊には外の景色が淡く映り込み、まるで神殿の中を歩いているようだった。左右には黄金の龍を刻んだ柱と床の下には澄み切った水が流れ、色鮮やかな魚達が優雅に泳いでいる。
「これほどの王城……。」
ハンコックでさえ、小さく感嘆する。やがて巨大な扉の前で近衛兵が足を止めた。
「こちらでございます。」
重厚な扉がゆっくりと開かれる。謁見の間には数十本もの氷柱が天井を支え、その奥には白銀と黄金で造られた巨大な玉座。
ハンコックは自然と玉座へ視線を向ける。
(レイ……。)
ようやく会える。そう思った、その時だった。
「……ん?」
ハンコックが首を傾げる。玉座にはレイの姿はなかった。代わりに、一人の女性が足を組みながら腰掛けていた。
雪のような白髪が毛先だけが淡く蒼へ染まり額には鬼の角、黄金の瞳は堂々とこちらを見据えている。純白の振袖には黄金の龍が天へ昇るように刺繍され、背に流れる白銀の打掛がその風格を表している
「すいません。"皇后"様…此方の方々は代表へ御用がありそうでしたのでご案内させていただきました」
アルトがそう言い放った瞬間ヤマトは階段を降り、そのままハンコックの前で足を止めた。
「レイなら今、視察に出てる。もう少ししたら戻ってくるよ。」
屈託のない笑顔を浮かべるヤマト。だが、その黄金の瞳は一瞬だけハンコックをじっと見つめた。
(……この人。)
ヤマトは胸が妙にざわつく感覚を覚えたが理由は分からない。目の前の女は初めて会う相手。それなのに――本能が告げていた。
「この女は、自分と同じ場所を見ている。」
一方、ハンコックもまた、その瞬間に理解していた。
(この女……。)
言葉など必要なかった。恋をした者だけが持つ直感。その一瞬だけで、お互いが互いを理解してしまった。目の前の女はーー
“恋敵”。
空気が僅かに張り詰める。サンダーソニアとマリーゴールド、アルトまで違和感を覚える。
「「姉様?」」
「ハンコック様、どうかなさいましたか?」
誰にも分からない。しかし当人達だけは感じていた。見えない火花が散る。
ヤマトは口元へ笑みを浮かべる。
「へぇ。君がハンコックか。レイから話は聞いてるよ」
ハンコックも負けじと妖艶に微笑む。
「ほう?妾を知っておるのか。なら妾の自己紹介は必要ないのぉ。それより妾からすれば余程聞き捨てならない単語が聞こえたんじゃが」
「…何のことかな?」
「お主…"皇后"とそこの者に呼ばれておったの。アレはどう言う意味じゃ」
世界的に見ても傾国と称されるまでに容姿が整った絶世の美女達。しかし今は互いの背から言いようのないオーラが吹き出している
ヤマトは悪びれる様子もなく肩をすくめる。
「僕が頼んだんじゃないけど……皆から見たらそう見えるってことじゃない?」
その一言に、ハンコックの笑みがぴくりと引き攣る。
「……ほう。」
静かな声。しかし、その場の空気が一段冷え込んだような錯覚を覚える。
ヤマトは気付かないふりをして続けた。
「実際、一緒に国を作ってきたし、隣に立つことも多いからね。後ほら、僕たちってなんて言うの?"ラブラブ"って奴らしいよ!」
ハンコックの額に青筋が浮かぶ。サンダーソニアとマリーゴールドは顔を見合わせ、小さく息を呑んだ。
(まずい。)
(姉様のスイッチが……。)
しかしヤマトは気付かない。いや、気付いていても気にしていない。その様子にハンコックは扇子で口元を隠したまま沈黙する。その背後では黒い覇気にも似た威圧感がじわりと滲み始めていた。
「どうしたの?顔、怖いよ?」
その一言が決定打だった。
「……ふふ。」
ハンコックが静かに笑う。
「安心するがよい。妾は怒ってなどおらぬ。」
その笑顔は、普段なら誰もが見惚れるほど美しい。
しかし今は違う。近衛兵達が思わず一歩後ずさるほどの迫力を帯びていた。
「ただ――」
ハンコックは一歩、ヤマトとの距離を詰める。
「一つだけ確認したいのじゃ。」
「ん?」
「お主は。」
ハンコックの黄金の瞳が真っ直ぐヤマトを射抜く。
「レイを、一人の男として愛しておるのか。」
謁見の間が静まり返る。ヤマトは少しだけ目を丸くした。
次の瞬間頬をわずかに赤く染めながら、照れ臭そうに頭を掻く。
「……うん。」
その返事に迷いはなかった。
「大好きだよ。世界で一番。」
飾らない、まっすぐな言葉。その一言だけで十分だった。ハンコックは目を閉じ、小さく息を吐く。そして静かに笑う。
「そうか。ならば安心した。」
ヤマトが不思議そうに首を傾げる。
「安心?」
ハンコックはゆっくりと目を開く。その瞳には、女帝としての誇りが宿っていた。
「"正妻"として夫の浮気にも寛容にならんと書物には書いておったわ。妾も側室の1人や2人くらい許可してやろう」
「何を言ってるの?レイの奥さんは僕だよ?」
「お主こそ何を抜かしておる。泥棒猫は引っ込んでおれ」
「泥棒猫はそっちでしょ!僕はもうレイと結ばれてるんだから!心でも…"体"でも」
意味深に呟いた最後の言葉にハンコックは大きく慌てる
「な、な、き、貴様!妾のレイとなんと不埒な事をしてくれたんじゃ!」
「最初に襲ってきたのはレイの方からさ!僕はどちらかと言うと食べられた側だよ」
「ぐぬぬ…レイめ。妾よりもこの女狐の方が良いと申すのか…」
知らず知らずのうちにハンコックの目尻には涙が溜まっていく。此処に来るまでの海路では胸が高鳴り楽しみで仕方がなかった。なにせ、ハンコックからすれば生きている事すら分からなかった初恋の人物なのだ。
しかし実際に訪れてみれば本人の姿は確認できず、いるのはハンコックからレイを奪い取った女狐のみ。
「だ、大丈夫?」
流石のヤマトもハンコックの涙を見た瞬間やり過ぎたと少し後悔したのか慌ててハンコックに近づく。
「…妾ほどレイに相応しい女は、この世におらぬ。」
その言葉を聞いたヤマトは、困ったように頭を掻いた。
「うーん……。悪いけど、それは譲れないかな。」
どんな事があろうともそれだけは譲れないとヤマトの黄金の瞳が真っ直ぐハンコックを見据える。
「レイの隣は、僕が歩くって決めてる。皇后なんて肩書きはどうでもいいんだ。でも――」
ヤマトは柔らかく、それでいて揺るぎなく微笑んだ。
「レイの隣に立つ女性がいるなら、それは僕でありたいとそう思っているよ」
その言葉には絶対の自信が宿っていた。その言葉に嘘はない。打算も、虚勢もない。ただ一人の男を想うが故の、真っ直ぐな願い。だからこそ気に入らなかった。
互いが本気でレイを愛していることを理解しているからこその、静かな対峙。
長い沈黙の末――涙を溜めたハンコックがふっと笑った。
「……やはり、お主は気に食わぬ。」
「ははっ、それはお互い様かな。」
「じゃが。」
ハンコックは腕を組み、誇らしげに顎を上げる。
「恋敵としてなら認めてやろう。」
「ふふ。ありがとう。」
ヤマトも穏やかに笑みを返した。
「僕も、ハンコックがレイを本気で愛してることは分かった。」
「当然じゃ」
ハンコックは一切迷わず頷く。
「妾も本気じゃ。」
互いに一歩も譲らない。それでいて、不思議と相手を侮ることもしない。
恋敵だからこそ分かる。目の前の女もまた、本気でレイを想っていることを。
二人の美女は静かに見つめ合う。二人は向かい合ったまま笑う。しかし、その間に流れる空気だけは鋭く張り詰めていた。
その様子を見ていたアルトは心の中で天を仰ぐ。
(代表……。どうか、一刻も早くお戻りください。このままでは、世界政府との会談より難しい問題が始まってしまいます……。)
それから一刻ほどの時間が過ぎた頃、城の入り口から1人の青年が入城してくるのが見えた。
幾度、夢に見ただろう。
幾度、その名を呼び続けただろう。
「――レイ……?」
目の前に立つその姿は、幻ではなかった。ハンコックの喉が震える。
声にならない。次の瞬間、身体が勝手に動いていた。
「レイッ!!」
風を切るように駆け出し、そのまま勢いよく胸へ飛び込む。
「おっと……!」
突然の衝撃にレイは一歩よろめきながらも、反射的にハンコックを受け止めた。
「…お前…ハンコックなのか……?」
腕の中の身体は小刻みに震えている。ぎゅっと服を掴む指先は白くなるほど力が入り、離すまいとしていた。
「本当に……本当に生きておった……!」
震えた声が胸元に落ちる。レイは驚いたのち優しく微笑みながら、その黒髪を優しく撫でた。
「ごめん。心配かけたよな」
その一言を聞いた瞬間、ハンコックは顔を上げた。涙で潤んだ瞳が、まっすぐレイを映す。
「妾が……どれほど待ったと思う。」
「……うん。」
「どれほどお主を想い祈り続けたと思う。」
「……うん。」
レイが何か言葉を返そうと口を開いた、その瞬間だった。ハンコックは彼の胸ぐらを軽く掴み、ぐいっと引き寄せる。
「え──」
言葉が最後まで続くことはなかった。柔らかな唇が、そっと重なる。それは激しく奪うようなものではなく。三年という歳月が積み重ねた想いと生きていてくれたことへの安堵。
そのすべてを伝えるような、静かで長い口づけだった。
やがて唇が離れるレイは目を丸くしたまま固まっている。
「ハ、ハンコック……?」
頬を赤く染めたハンコックは、それでも堂々と微笑んだ。
「当然じゃの報酬じゃ」
涙を一筋流しながら、それでも誇らしげに笑う。
「生きて帰ってきた夫を迎えるのじゃ。これくらい許されよう。」
そう言ってもう一度だけレイを強く抱き締める。
「……二度と、妾を置いていくでない。」