カントーの潮風を追って 作:mochiato
第1話 はじめての釣り
とん、とん、とん。
包丁がまな板を叩く音で、ヤマトは目を覚ました。
けれど、もふもふの布団からは出なかった。いつもの朝なら、母に呼ばれるまで丸まっているところだ。
今日は父と釣りへ行く日だった。
「ニャー」
部屋の入口から声がした。
見ると、少し開いた扉の隙間からニャースが顔をのぞかせている。ヤマトと目が合うと、当然のように部屋へ入ってきた。
「おはよう、ニャース」
「ニャ」
ニャースは枕元まで歩いてくると、前足で布団を二度押した。
早く起きろと言っているように見える。
「今起きるって」
布団から抜け出すと、ニャースは役目を終えたように先に部屋を出ていった。
ヤマトもその後を追い、顔を洗って居間へ向かう。
母は台所に立ち、朝食の準備をしていた。
「おはよう、ヤマト。今日は早いのね」
「ニャースに起こされた」
「あら、よかったわね」
「自分でも起きられたよ」
「そういうことにしておきましょうか」
母は笑いながら皿を並べた。
食卓には、すでに父が座っている。仕事の日に着ている服ではなく、今日は動きやすそうな格好をしていた。
その隣には一本の釣りざおが立てかけられている。
持ち手には模様が入っており、遠目には立派に見えた。けれど近くで見ると、表面には細かい傷があり、金属の部分もところどころ色が変わっている。
父が昔から使っている釣りざおだった。
「おはよう、ヤマト」
「おはよう。もう釣りに行ける?」
「まずは朝飯だ」
「食べたらすぐ?」
「歯を磨いて、忘れ物がないか確認してからだな」
「忘れ物ないよ」
「まだ確認してないだろう」
父に言われ、ヤマトは口を閉じた。
椅子に座ると、足が床につかずにぶらぶらと揺れる。早く食べ終えようとして口いっぱいに詰め込むと、母にゆっくり食べるよう注意された。
「港ではお父さんから離れちゃ駄目よ」
「分かってる」
「走るのも駄目」
「分かってるって」
「本当に?」
母だけではなく、父までこちらを見る。
ヤマトは少しだけ視線をそらした。
港へ行くと、大きな船や珍しいポケモンがいる。以前、海から顔を出したヒトデマンを追いかけ、父から離れてしまったことがあった。
今日はそんなことをしない。
釣りをするのだから、海のそばから動く必要もないはずだ。
「今日は走らない」
「今日は、じゃなくて、これからもだぞ」
「うん」
朝食を食べ終えると、母が小さな袋を差し出した。
中には粒状のポケモンフードが入っている。
「魚のポケモンが寄ってきたら、少しあげてもいいわよ」
「これ、僕が持っていっていいの?」
「全部一度にまいちゃ駄目よ」
「分かった」
袋を受け取ると、足元にいたニャースが鼻を近づけてきた。
「これはニャースのじゃないよ」
「ニャー」
ニャースは残念そうには見えなかった。
ただ、中身が何か確認したかっただけなのかもしれない。
◇
家を出て港の方角へ歩き出すと、すぐに潮の匂いがした。
クチバの町で暮らしていれば、珍しくもない匂いだ。それでも港へ近づくにつれ、潮の匂いは少しずつ濃くなっていく。
建物の間から、大きな船の煙突が見えた。
低い汽笛が町に響く。
ヤマトは思わず足を速めたが、隣を歩く父を見て、すぐに歩幅を戻した。
「走らなかったな」
「約束したから」
「偉いぞ」
父に頭を撫でられ、ヤマトは少し得意になった。
港には、朝から多くの人とポケモンがいた。
荷物を載せた台車をワンリキーが押し、その隣を作業員が歩いている。積み上げられた木箱の上ではポッポが羽を休めていた。
父は普段、この港で働いている。
船でクチバへ来た人を確認したり、運ばれてきた荷物を調べたりする仕事だと聞いていた。
ヤマトには、まだ細かいことまでは分からない。
それでも、父が港を守る仕事をしていることだけは知っていた。
「今日はあっちだ」
父が指さしたのは、大きな船が出入りする場所から少し離れた岸壁だった。
人通りも少なく、海も穏やかだ。
父は持ってきた釣りざおを伸ばし、糸の先を確認した。
「まずは父さんが投げるから、見ていろ」
「僕がやりたい」
「最初からか?」
「うん」
父は少し考えたあと、釣りざおを渡してくれた。
「じゃあ、後ろに人がいないか確認するところからだ」
ヤマトは振り返った。
後ろには父しかいない。
「誰もいない」
「よし。竿を後ろに持っていって、前へ振る。ただし、力任せにやるなよ」
「分かった」
両手で釣りざおを握り、後ろから前へ振る。
糸の先はほとんど飛ばず、目の前の海へ落ちた。
ぽちゃん、と小さな音がする。
「……近い」
「最初はそんなものだ」
「もっと遠くに飛ばしたかった」
「もう一度やってみろ」
糸を巻き、今度は少し強く振る。
一度目よりは遠くへ飛んだが、狙っていた場所より大きく右へそれた。
それでも父は褒めてくれた。
何度か繰り返すうちに、少しずつ思った場所へ落とせるようになる。
「できた」
「ああ。あとは魚が来るまで待つだけだな」
釣りざおを握り、海面に浮かんだ目印を見る。
少し揺れた。
ヤマトはすぐに竿を持ち上げた。
何も釣れていない。
「魚じゃなかった」
「波で動いただけだな」
もう一度投げる。
また目印が揺れた。
今度こそと思って引き上げたが、やはり何もついていなかった。
「早すぎるぞ、ヤマト」
「だって動いたよ」
「魚が食いついたら、もっとはっきり沈む。それまで待ってみろ」
「どれくらい?」
「魚が来るまでだ」
「ずっと来なかったら?」
「今日は釣れないな」
そんなことがあるのかと、ヤマトは父を見上げた。
父は笑っている。
「釣れない日もある。だから待つのも釣りのうちなんだ」
「そっか」
空を飛ぶポケモンを数える。
遠くを進む船を見る。
海面から一度だけメノクラゲが顔を出したが、すぐに沈んでしまった。
腕が疲れ始めたころ、浮かんでいた目印が小さく沈んだ。
今までとは違う。
手元にも、何かが引っ張る感触が伝わってきた。
「父さん」
「ああ。まだ待て」
もう一度、目印が沈む。
今度は先ほどより深い。
「今だ。上げろ」
「うん!」
ヤマトは釣りざおを持ち上げた。
重い。
竿の先が大きく曲がる。
慌てて引っ張ると、父が後ろから手を添えてくれた。
「焦らなくていい。そのまま引け」
二人で糸を引き寄せる。
海面が揺れ、赤いものが飛び出した。
「わっ!」
釣り上げられたポケモンが、岸壁の上へ落ちる。
赤い鱗に、大きな口。頭には王冠のようなヒレがついていた。
「コイキングだな」
「コイキング……」
知っているポケモンだった。
クチバの海でもよく見かけるし、母が働いているフレンドリィショップに置かれた本でも見たことがある。
けれど、こんなに近くで見るのは初めてだ。
コイキングは岸壁の上で何度も跳ねていた。
びたん、びたんと体を打ちつけ、大きな口を開閉している。
何を言っているのかは分からない。
ただ、驚いていることと、海へ戻りたがっていることだけは、なんとなく分かった。
「父さん、戻してあげたい」
「そうか。じゃあ、まず針を外そう」
父に教えてもらいながら、コイキングの口元から針を外す。
暴れていたコイキングは、ヤマトが体に触れた瞬間に大きく跳ねた。
「待って。すぐ戻すから」
言葉が通じたのかは分からない。
けれど、コイキングは少しだけ動きを弱めた。
ヤマトは両腕で抱きかかえる。
見た目よりも重い。
鱗は濡れていて、つるつるしていた。
「落とすなよ」
「大丈夫」
海面に近いところまでしゃがみ、ゆっくりと手を離す。
コイキングは水しぶきを上げて海へ戻った。
冷たい水がヤマトの顔にかかる。
「冷たい」
袖で顔を拭きながら海を見る。
コイキングはすぐには泳ぎ去らず、海面から顔を出していた。
「まだいるよ」
「釣られた相手が気になるのかもな」
ヤマトが右へ動くと、コイキングも顔を右へ向ける。
左へ動けば、左を向く。
ずっとこちらを見ていた。
そこで、母から渡された袋を思い出した。
「餌をあげてもいい?」
「少しだけならな」
袋から粒を一つ取り出し、海へ落とす。
コイキングはすぐに近づき、大きな口で水ごと飲み込んだ。
もう一粒落とす。
今度もすぐに食べた。
さっきまでの慌てた感じは消えている。
代わりに、もっと欲しそうな気持ちが伝わってきた。
「お腹空いてたの?」
コイキングは口をぱくぱくと動かした。
何を言っているかまでは分からない。
それでも、たぶん、もっと欲しいのだろう。
さらに何粒か落とすと、少し離れた場所から別のコイキングたちも集まってきた。
赤い背びれが、海面にいくつも並ぶ。
「いっぱい来た」
「全部なくすなよ」
「分かってる」
他のコイキングにも届くよう、広い範囲へ少しずつ餌をまく。
たくさん集まると、どれが最初に釣ったコイキングなのか分からなくなりそうだった。
だが、一匹だけは岸壁のすぐ下から離れない。
ヤマトが手を動かすたび、ずっとその動きを追っていた。
口元には、針を外したときについた小さな跡が残っている。
「お前、さっき釣れたコイキングだよね」
コイキングが勢いよく跳ねた。
水しぶきがまた顔へかかる。
「冷たいって!」
ヤマトが笑うと、コイキングはもう一度跳ねた。
今度は少し小さな跳ね方だった。
「懐かれたみたいだな」
父も笑っていた。
「僕が釣ったからかな」
「餌をくれたからかもしれないぞ」
「なんでもいいよ」
袋の中には、まだ餌が残っている。
けれど、母から全部あげてはいけないと言われていた。
「今日はもう終わり」
袋の口を閉じて見せると、コイキングは口をぱくぱくさせた。
少し不満そうに見えた。
「また今度あげるから」
それからも父と釣りを続けた。
昼が近づくと、父が釣りざおを片づけ始める。
ヤマトは海をのぞき込んだ。
集まっていたコイキングたちは、いつの間にかほとんどいなくなっている。
けれど、最初に釣った一匹だけは残っていた。
「父さん。またここに来ていい?」
「父さんが休みの日ならな」
「明日は?」
「明日は仕事だ」
「じゃあ、母さんと来る」
「母さんがいいと言ったらな。一人では来るなよ」
「分かってる」
家へ帰ったら、すぐ母に聞いてみよう。
残った餌も持ってきたい。
父が片づけを終えると、ヤマトはその手を握った。
港を離れる前に、もう一度だけ振り返る。
コイキングはまだ、海面から顔を出していた。
ヤマトは空いている手を振った。
「また来るね」
コイキングは、返事をするように小さく跳ねた。