カントーの潮風を追って 作:mochiato
「お母さん、まだ?」
「もう少しよ」
母の隣を歩きながら、ヤマトは何度目か分からない質問をした。
今日は母と一緒に港へ来ていた。
前に父と釣りをした日から、まだそれほど経っていない。それでもヤマトには、ずいぶん久しぶりのように感じられた。
母はフレンドリィショップへ寄る用事があるらしく、店で使う小さな袋を片手に持っている。
ヤマトの手には、前回持ち帰ったポケモンフードの袋があった。
中身はまだ残っている。
家を出る前に何度も確認したので、忘れてはいない。
「ちゃんと私のそばを歩くのよ」
「分かってる」
「走らない」
「分かってるって」
前にも同じことを言われた。
父と来た日は約束を守ったのだから、今日も大丈夫だ。
港へ近づくと、潮の匂いが濃くなってきた。
建物の間から、船の白い煙突が見える。
遠くで汽笛が鳴ると、ヤマトは反射的にそちらを見た。けれど足は止めず、母の隣を歩き続ける。
「今日はちゃんと歩けているわね」
「この前も走らなかったよ」
「そうだったわね」
母は笑いながら、ヤマトの頭を撫でた。
港には、今日もたくさんの人とポケモンがいた。
荷物を運ぶワンリキーや、その周りを歩く作業員。積み上げられた木箱の上には、何羽かのポッポが並んでいる。
けれど、ヤマトが探しているのは別のポケモンだった。
「お母さん、あっち」
「急がなくても、海は逃げないわよ」
「海じゃないよ」
「そうだったわね。コイキングだったわね」
父から話を聞いていたのだろう。
母はヤマトがどこへ行きたいのか分かっていた。
二人で前回の岸壁へ向かう。
大きな船が出入りする場所から少し離れた、静かなところだ。今日も人は少なく、海面は穏やかに揺れていた。
ヤマトは岸壁の端まで行くと、しゃがみ込んで海をのぞいた。
青い海の中には、何も見えない。
「いない」
「まだ来たばかりでしょう」
「でも、この前はここにいたよ」
「ずっと同じところにいるとは限らないわ」
母に言われ、ヤマトはもう一度海を見た。
右を見ても、左を見ても、赤い背びれは見つからない。
袋の中から餌を一粒取り出し、海へ落としてみる。
小さな粒は水面に浮かんだあと、ゆっくり沈んでいった。
何も起きない。
「もう一個あげていい?」
「少し待ってみなさい」
「どれくらい?」
「コイキングが来るまでかしら」
父にも似たようなことを言われた気がする。
釣りのときも、魚が来るまで待つのだと言っていた。
ヤマトはしゃがんだまま、じっと海を見つめた。
小さな波が岸壁にぶつかり、白い泡を作っている。
遠くでは船が動いている。
頭の上を飛んでいたポッポが一羽、近くの木箱へ降りた。
それでもコイキングは現れない。
「今日はいないのかな」
ヤマトが小さくつぶやいたときだった。
海面が揺れた。
赤いものが水の中を横切る。
「あっ!」
ヤマトが立ち上がる。
次の瞬間、一匹のコイキングが勢いよく海面から跳び上がった。
大きな口を開け、空中で体を曲げる。
そのまま水へ戻ると、大きな水しぶきが上がった。
「いた!」
ヤマトが岸壁の端へ駆け寄りかける。
「走らない」
すぐに母の声が飛んできた。
ヤマトは慌てて足を止め、今度は早足で近づいた。
コイキングは海面から顔を出し、こちらを見ている。
口元には小さな跡が残っていた。
「この前のコイキングだ」
「分かるの?」
「ここに跡がある」
ヤマトが自分の口元を指さす。
前に針を外したときについた、小さな跡だ。
「ちゃんと覚えていたのね」
「うん」
ヤマトがしゃがむと、コイキングは岸壁のすぐ下まで泳いできた。
なんとなく、待っていたと言われている気がした。
もちろん、何を言っているのかまでは分からない。
それでも、前に会ったときより嬉しそうに見えた。
「また来たよ」
ヤマトは袋から餌を一粒取り出し、海へ落とした。
コイキングは大きな口を開け、水ごと飲み込む。
もう一粒。
今度もすぐに食べた。
「そんなにお腹空いてたの?」
コイキングは口をぱくぱくと動かしている。
「ヤマトが来るのを待っていたんじゃない?」
「本当?」
「お母さんには分からないわ」
母はそう言ったが、笑っていた。
ヤマトも少し嬉しくなった。
餌を何粒か落としていると、少し離れた場所から別のコイキングも集まってきた。
赤い背びれが一つ、二つと増えていく。
前に来たときと同じだ。
けれど、口元に跡のあるコイキングだけは、ヤマトの真下から離れなかった。
ヤマトが右へ手を動かせば、コイキングも右へ泳ぐ。
左へ動かせば、左へついてくる。
「ほら」
餌を一粒、少しだけ離れた場所へ投げる。
コイキングはすぐに向きを変え、他のコイキングより先に食べた。
「早い」
もう一粒を、今度は反対側へ投げる。
それにもすぐ追いつく。
「すごいね」
褒めると、コイキングは水面から少しだけ跳ねた。
小さな水しぶきが上がる。
ヤマトは笑った。
「もう一回やって」
コイキングは口を開けたまま、こちらを見ている。
もう一度跳んでほしいと言っても、今度は動かなかった。
ヤマトは手に持っていた餌を見た。
少し考え、海へ落とさずに指でつまむ。
「これ、欲しい?」
コイキングの視線が餌へ向いた。
ヤマトは腕を伸ばし、水面より少し高いところで餌を持つ。
「ここまで来たらあげる」
「ヤマト、指をかまれないようにね」
「コイキングに歯はないよ」
「勢いよくぶつかったら痛いでしょう」
ヤマトは母に言われ、餌を指で持つのをやめた。
代わりに、コイキングの少し上へ投げる。
餌は小さな弧を描いて落ちていく。
そのまま水面へ落ちると思った瞬間、コイキングが跳ねた。
ぱくり。
大きく開いた口が、空中で餌を飲み込んだ。
「食べた!」
コイキングは水へ戻る。
ばしゃん、と水しぶきが上がった。
「お母さん、見た?」
「見ていたわよ」
「跳んで食べた!」
「上手だったわね」
ヤマトは袋からもう一粒取り出した。
さっきより、ほんの少し高く投げる。
「もう一回!」
コイキングは水面から跳ねた。
けれど、今度は口が餌に届かない。
餌はコイキングの頭を越え、水面へ落ちた。
近くにいた別のコイキングが食べてしまう。
「あー」
跳んだコイキングも、不満そうに水面を揺らした。
「ちょっと高かったね」
もう一粒取り出す。
今度はさっきより低く、最初よりは少し高く投げた。
コイキングが跳ぶ。
餌は口の端に当たり、そのまま水へ落ちた。
コイキングは急いで向きを変え、水面に浮かんだ餌を食べる。
「もうちょっとだった」
ヤマトが笑うと、コイキングももう一度小さく跳ねた。
失敗したことを悔しがっているようには見えない。
むしろ、もう一度やりたがっているようだった。
「まだやる?」
コイキングが口をぱくぱくと動かす。
「じゃあ、もう一回」
ヤマトは餌を投げた。
コイキングが跳ぶ。
今度は届かない。
もう一度投げる。
また跳ぶ。
少しだけ届かない。
「頑張れ!」
ヤマトが応援すると、コイキングは水の中で一度沈んだ。
赤い背びれが見えなくなる。
「どこ行ったの?」
ヤマトが海をのぞき込む。
次の瞬間、コイキングが勢いよく水面を突き破った。
さっきまでよりも高い。
「わっ!」
ヤマトの投げた餌を、空中で大きな口が受け止めた。
コイキングは体を曲げ、そのまま水へ落ちる。
ばしゃん。
大きな水しぶきが飛び、ヤマトの頬を濡らした。
「できた!」
冷たい水を拭くことも忘れ、ヤマトは手を叩いた。
「すごい、すごい!」
コイキングは水面から顔を出した。
嬉しそうな気持ちが、なんとなく伝わってくる。
「もう一回やろう!」
「ヤマト」
母が袋を指さした。
見ると、中の餌は前よりずいぶん少なくなっている。
「全部使っては駄目よ」
「まだあるよ」
「今日はそれくらいにしておきなさい」
「でも、もう一回だけ」
「もう一回だけね」
ヤマトは袋から餌を一粒取り出した。
コイキングを見る。
「今度は、さっきより高いよ」
言葉が分かったのかは分からない。
けれど、コイキングは少し体を沈めた。
ヤマトは腕を振り、餌を投げる。
先ほどより高く、空へ上がった。
コイキングが跳ねる。
大きく口を開け、体を伸ばす。
あと少し。
けれど、餌には届かなかった。
餌は水面へ落ち、別のコイキングが食べる。
「惜しかった」
ヤマトが言うと、コイキングは水面を尾びれで叩いた。
悔しそうにも見える。
「また今度やろう」
コイキングは口をぱくぱくさせた。
今度こそ、と言っているような気がした。
母は少し離れた場所で、ヤマトとコイキングを見ていた。
「ヤマト、そろそろ行くわよ」
「もう?」
「お母さんは用事があるの」
「ここで待ってる」
「駄目よ。まだ一人では置いていけません」
ヤマトはもう少し遊びたかった。
けれど、母が駄目と言ったときは、本当に駄目だ。
袋の口を閉じ、立ち上がる。
「今日は終わり」
コイキングは岸壁のすぐ下から動かない。
「また餌持ってくるから」
ヤマトは空になっていない袋を見せた。
「次は、もっと高く投げるね」
コイキングが小さく跳ねる。
その姿を見て、ヤマトも笑った。
「また遊ぼうね」
母のところへ戻り、手をつなぐ。
二人で岸壁から離れ始める。
ヤマトは何度も後ろを振り返った。
コイキングはまだ海面から顔を出し、こちらを見ている。
最後に大きく手を振ると、コイキングが跳ねた。
さっき餌を食べたときほど高くはない。
けれど、最初に会った日よりは少しだけ高いように見えた。
◇
「お母さん」
「なあに?」
港を歩きながら、ヤマトは母を見上げた。
「コイキングって、もっと高く跳べるようになるかな」
「どうかしら」
「今日、最初より高く跳べたよ」
「そうね」
「いっぱいやったら、もっと高くなるかな」
母は少し考えるように、海の方を見た。
「毎日頑張れば、できるようになるかもしれないわね」
「毎日?」
「でも、ヤマトはまだ一人で港へ来ちゃ駄目よ」
「分かってる」
「今はまだお父さんかお母さんと一緒のときだけね」
「うん」
毎日は無理でも、また来ることはできる。
今度は今日より少し高く餌を投げる。
それを取れるようになったら、さらに少し高くする。
どこまで跳べるようになるのだろう。
考えるだけで楽しくなった。
「じゃあ、僕も頑張る」
「ヤマトは何を頑張るの?」
「上手に投げるの」
母は一度目を丸くしてから、楽しそうに笑った。
「それなら、お家でも練習できるわね」
「ニャースに投げる」
「ニャースにポケモンフードを投げつけたら駄目よ」
「食べると思う」
「そういう問題じゃありません」
ヤマトは母と手をつないだまま、家でできる練習を考え始めた。
丸めた紙なら投げても怒られないかもしれない。
次に会うときには、もっと高く。
コイキングも、もっと高く。
始まったばかりの遊びが実を結ぶ……のだろうか?