カントーの潮風を追って 作:mochiato
ヤマトは、もうすぐ六歳になる。
誕生日まであと何日なのか、指を使わなければ数えられないくらいには先だったが、それでも本人にとっては、もうすぐだった。
「お母さん、六歳になったら何ができる?」
「急に何でもできるようになるわけじゃないわよ」
「でも、五歳よりお兄さんになるよ」
「それはそうね」
母の手を握りながら、ヤマトは少しだけ胸を張った。
今日も二人で港へ向かっている。
父と初めて釣りをした日から、ヤマトは何度も同じ場所へ通うようになっていた。
父の休みの日。
母が港の近くへ用事に行く日。
毎日というわけにはいかなかったが、連れていってもらえると分かるたび、ヤマトは朝から落ち着かなくなった。
今日も片方の手には、ポケモンフードの入った小さな袋を持っている。
「ちゃんと前を見て歩くのよ」
「見てるよ」
「今、袋の中を見ていたでしょう」
「ちゃんと入ってるかなって」
「家を出る前にも確認していたじゃない」
「途中でなくなってるかもしれないよ」
「袋に穴は開いていません」
母に言われ、ヤマトは袋の口をもう一度確かめた。
しっかり閉じられている。
中身もなくなっていない。
これなら大丈夫だ。
港が近づくと、いつもの潮の匂いが濃くなってくる。
低い汽笛が聞こえ、建物の向こうから大きな煙突が見えた。
以前なら、それだけで駆け出していた。
けれど今日は、母の手を離さずに歩く。
道の端では、荷物を載せた台車をワンリキーが押していた。作業員の声が飛び交い、木箱の上ではポッポが羽を休めている。
何度も通った景色だった。
「今日は走らないのね」
「もうすぐ六歳だから」
「六歳になると走らなくなるの?」
「港では走らないよ」
「じゃあ、お家では?」
「走る」
母は困ったように笑った。
二人で人通りの少ない岸壁へ向かう。
もう道は覚えていた。
大きな倉庫の横を通り、積まれた木箱の手前を右へ曲がる。そのまま海沿いを歩けば、いつもの場所に着く。
ヤマトは母より少し前へ出たが、駆け出しはしなかった。
岸壁の端まで来ると、海をのぞき込む。
「コイキング!」
呼んですぐに返事があるとは思っていなかった。
けれど、少し離れた水面が揺れた。
赤い背びれが見え、そのままこちらへ近づいてくる。
口元に小さな跡のあるコイキングだった。
「いた!」
コイキングは岸壁の下まで来ると、勢いよく跳ねた。
前よりも高い。
水しぶきがヤマトの足元まで飛んでくる。
「お母さん、見た?」
「見ていたわよ」
「まだ餌投げてないのに跳んだ!」
「ヤマトが来たからじゃない?」
「そうかな」
ヤマトがしゃがむと、コイキングは海面から顔を出したまま、口をぱくぱくと動かした。
何を言っているのかは分からない。
ただ、嬉しそうなことだけは、なんとなく伝わってくる。
「今日も遊ぼうね」
袋から餌を一粒取り出す。
最初のころのように、そのまま水へは落とさない。
少しだけ高く投げる。
コイキングは水の中へ体を沈め、勢いをつけて跳び上がった。
ぱくり。
空中で餌を食べ、そのまま水へ戻る。
「できた!」
ばしゃん、と水しぶきが上がった。
前に何度も失敗していた高さだった。
それなのに今日は、最初の一回で成功した。
「前より高く跳べるようになってる!」
「本当ね」
「もう一回!」
次は少し右へ投げる。
コイキングは水の中で向きを変え、狙った場所へ跳んだ。
餌を口に入れる。
今度も成功だった。
「すごい!」
ヤマトは手を叩いた。
コイキングも嬉しそうに尾びれで水面を叩く。
少し離れたところには、他のコイキングも集まり始めていた。
同じように餌を狙って跳ねるものもいたが、ヤマトの投げる場所へ先に来るのは、いつも口元に跡のあるコイキングだった。
「今度はこっち!」
左へ投げる。
コイキングが跳ぶ。
「次は高くするよ!」
少し高く投げる。
コイキングが体を伸ばす。
餌は口のすぐ上を通り過ぎ、水面へ落ちた。
「あー、惜しい」
別のコイキングが食べようと近づいたが、口元に跡のあるコイキングが先に追いついた。
餌を食べたあと、こちらを見上げる。
もう一度やりたがっているようだった。
「まだやる?」
コイキングが小さく跳ねる。
「じゃあ、もう一回ね」
「ヤマト、餌を使いすぎないように」
「分かってる」
母に答えながら、もう一粒を取り出す。
今度はさっきよりほんの少し低く投げた。
コイキングが勢いよく跳び上がる。
大きな口が、餌を空中で受け止めた。
「できた!」
ヤマトが喜ぶと、コイキングも水面を何度も尾びれで叩いた。
遊び方は、もう二人とも覚えていた。
ヤマトが餌を投げる。
コイキングが跳ぶ。
届かなければ、もう一度。
届けば、二人で喜ぶ。
最初はただ餌をあげていただけだった。
それが、今では港へ来るたびに繰り返す、いつもの遊びになっている。
「今日はこれで終わり」
袋の中を見て、ヤマトは口を閉じた。
まだ餌は残っている。
けれど、全部使ってはいけないと何度も言われていた。
コイキングは不満そうに口をぱくぱくと動かした。
「また来るから」
ヤマトが袋を見せる。
「次はもっと高いのも取れるかな」
コイキングは答えるように跳ねた。
さっき餌を取ったときよりは低かったが、最初に会ったころよりはずっと高い。
「絶対できるよ」
ヤマトが笑うと、コイキングももう一度だけ小さく跳ねた。
◇
「お母さん、今日は僕が家まで連れていってあげる」
港を離れたところで、ヤマトは母の手を引いた。
「ヤマトが?」
「道、覚えてるよ」
「本当に?」
「本当」
何度も通った道だった。
港から家までなら、曲がる場所も信号のある場所も覚えている。
母は少し考えたあと、ヤマトの手を握り直した。
「じゃあ、今日はヤマトに案内してもらおうかしら」
「任せて」
「でも、手はつないだままよ」
「分かってる」
ヤマトは自信を持って歩き出した。
港の出口までは迷わない。
大きな倉庫の前を通り、広い道へ出る。
そこから左へ曲がる。
「こっち」
「そうね」
母は何も教えずについてくる。
少し先に横断歩道が見えた。
信号は青だった。
ヤマトはそのまま渡ろうとして、一度立ち止まる。
右を見る。
左を見る。
もう一度、右を見る。
車は来ていない。
「渡っていいよ」
「はい」
二人で横断歩道を渡る。
母は少しだけ驚いた顔をしていた。
「ちゃんと左右を見られたわね」
「いつも見てるよ」
「そうだったの?」
「お父さんもお母さんも見てるから」
ヤマトは二人がしていたことを真似しただけだった。
横断歩道を渡ったあと、細い道へ入る。
次の角を右。
その先をまっすぐ。
見慣れた店の看板が見えてきた。
「ここまで来たら、もう分かるよ」
「本当に覚えていたのね」
「だから言ったでしょ」
ヤマトは得意になって歩いた。
家までは、もうそれほど遠くない。
「僕、一人でも港まで行けるよ」
母の足が少しだけ止まった。
ヤマトも立ち止まり、母を見上げる。
「今の道、全部分かったよ」
「そうね」
「信号もちゃんと見たよ」
「ええ」
「走らなかったし」
「今日はね」
「これからも走らないよ」
母はすぐには答えなかった。
ヤマトは六歳になったら何でもできるわけではないと言われたことを思い出す。
それでも、道は覚えている。
信号も見られる。
一人で港へ行ければ、父や母の用事がなくてもコイキングに会いに行ける。
「一人で行ってもいい?」
「まだ駄目」
答えは早かった。
「なんで?」
「道を覚えているだけじゃ駄目なの」
「信号も見られるよ」
「知らない人に声をかけられるかもしれないし、転ぶかもしれないでしょう。港は人も荷物も多いから、危ないことだってあるのよ」
「でも、僕もうすぐ六歳だよ」
「そうね。もうすぐ六歳ね」
母はしゃがみ、ヤマトと同じ高さまで目線を下げた。
「前よりずっとお兄さんになったわ」
「じゃあ、いい?」
「まだ駄目」
「そっか……」
ヤマトが肩を落とすと、母は少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと道を覚えていたのは偉かったわ」
「うん」
「信号も見られたし、港でも走らなかったわね」
「うん」
「もう少し大きくなって、一人でも大丈夫だと思えたら、お父さんとも相談してみましょう」
ヤマトは顔を上げた。
「六歳になったら?」
「六歳になっただけでは決められないわ」
「じゃあ、六歳になって、もっとお兄さんになったら?」
「そうね。そのときに考えましょう」
すぐに許してもらえるわけではなかった。
けれど、絶対に駄目とも言われなかった。
「分かった」
ヤマトは母の手を握る。
「僕、もっとお兄さんになる」
「何をするの?」
「港で走らない」
「それは今から守ってください」
「信号も見る」
「それもね」
「道も忘れない」
「それは大丈夫そうね」
二人で再び歩き出す。
家の屋根が見えてきた。
「早く六歳になりたいな」
「なったら、今度は早く七歳になりたいって言うんじゃない?」
「言わないよ」
「本当に?」
「六歳で一人で港に行けたら言わない」
「それは約束できません」
母は笑った。
ヤマトもつられて笑う。
一人で港へ行ける日は、まだ少し先らしい。
それでも今日、母は道を覚えていたことを褒めてくれた。
信号を見られたことも、走らなかったことも。
なら、もっとできることを増やせばいい。
六歳になるころには、今より少しだけお兄さんになっているはずだ。
たぶん。