カントーの潮風を追って 作:mochiato
「六歳のお誕生日、おめでとう」
「おめでとう、ヤマト」
「ニャー」
母と父、それからニャースの声が重なった。
食卓の上には、いつもより少しだけ豪華な朝食が並んでいる。
真ん中には小さなケーキが置かれ、六本のろうそくに火が灯っていた。
ヤマトは椅子に座ったまま、揺れる火をじっと見つめた。
「一息で消せるか?」
「できるよ」
「去年は二本残ったわね」
「今年は六歳だから大丈夫」
胸いっぱいに息を吸う。
勢いよく吹くと、五本の火が消えた。
一本だけ残っている。
「あっ」
もう一度息を吹きかけると、最後の火も消えた。
父が笑い、母が手を叩く。
「一息じゃなかったな」
「最初のでちょっと残っただけ」
「それを二息って言うんだぞ」
「来年は一回で消す」
「七本になるけどな」
「じゃあ、もっと強く吹く」
「ケーキまで飛ばさないでね」
母に言われ、ヤマトはケーキを見る。
白いクリームの上には、小さな赤い木の実が並んでいた。
足元ではニャースが、食卓の上を気にするように何度も鼻を動かしている。
「ニャースのはないよ」
「ニャー」
「あとでポケモンフードをあげるから」
「ニャ」
意味が分かったのか、ニャースはヤマトの椅子の横へ座った。
母がケーキを切り分けている間、ヤマトは自分の手を見た。
昨日までと何も変わっていない。
指の数も同じだし、背が急に伸びたわけでもない。
それでも、今日から六歳だ。
ケーキを食べ終えたあと、父がヤマトを呼んだ。
「ヤマト」
「なに?」
「今日は何をしたい?」
ヤマトはすぐに答えた。
「港に行きたい」
「やっぱりそうか」
父と母が顔を見合わせる。
何かを知っているような顔だった。
「コイキングに餌をあげたい」
「今日は父さんも母さんも用事があるの」
「じゃあ、あとで?」
「いや」
父はそこで言葉を切った。
ヤマトの前へしゃがみ、目線を合わせる。
「今日は、一人で行ってみるか?」
「一人で?」
「ああ」
「僕だけで港に行っていいの?」
「約束を守れるならな」
ヤマトは父と母を交互に見た。
母は少し心配そうな顔をしていたが、駄目とは言わなかった。
「行く!」
「まだ約束を聞いてないだろう」
「守るよ」
「だから、先に聞きなさい」
母に言われ、ヤマトは口を閉じた。
父が指を一本立てる。
「一つ目。絶対に走らない」
「うん」
二本目。
「信号は青でも、必ず右と左を見る」
「うん」
三本目。
「寄り道はしない。いつもの道を通って、昼までには帰ってくる」
「分かった」
「知らない人についていかない」
「それは四つ目だよ」
「大事なことはいくつあってもいいの」
母はそう言って、ヤマトの服を整えた。
「港に着いたら、いつもの場所から離れないこと。海に近づきすぎないこと。何かあったら、近くの大人に助けを求めるのよ」
「うん」
「本当に分かってる?」
「分かってる」
「全部言ってみろ」
父に言われ、ヤマトは指を折りながら答えた。
「走らない。信号で右と左を見る。寄り道しない。昼までに帰る。知らない人についていかない。いつもの場所から離れない。海に近づきすぎない。何かあったら大人に言う」
「よし」
父は満足そうにうなずいた。
母はまだ少し不安そうだった。
「本当に大丈夫かしら」
「昨日も道を覚えてたんだろ?」
「そうだけど……」
「僕、大丈夫だよ」
ヤマトが言うと、母はしばらく黙っていた。
やがて小さく息を吐き、ポケモンフードの入った袋を渡してくれる。
「昼までよ」
「うん!」
「走らない」
「分かってるって」
「返事は一回でいいの」
ヤマトは袋を両手で受け取った。
ニャースがその足元へ近づき、匂いを嗅ぐ。
「ニャース、お留守番しててね」
「ニャー」
「帰ったら遊ぼう」
ニャースの頭を撫で、玄関へ向かう。
靴を履き、扉の前に立つ。
いつもなら、隣に父か母がいる。
今日は誰もいない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「気をつけろよ」
扉を開け、一人で外へ出る。
後ろで扉が閉まる音がした。
◇
家の前の道は、いつもと同じだった。
近所の家も、道端に咲いている花も、空を飛んでいるポッポも変わらない。
けれど今日は、少しだけ違って見えた。
隣に父も母もいない。
手をつないでくれる人もいない。
ヤマトはポケモンフードの袋を握り直し、港へ向かって歩き始めた。
最初の角を右へ曲がる。
ここまでは何度も通っている。
道を間違えるはずはない。
少し先には横断歩道があった。
信号は赤だ。
ヤマトは止まり、青になるのを待つ。
隣には誰もいない。
いつもなら母と話しながら待つ時間が、今日は少し長く感じられた。
信号が青に変わる。
すぐには渡らない。
右を見る。
左を見る。
もう一度、右を見る。
車は来ていない。
「よし」
小さくつぶやき、横断歩道を渡る。
そのまま細い道へ入る。
見慣れた店の前を通ると、店先を掃除していた女の人がヤマトに気づいた。
「あら、ヤマト君。今日は一人なの?」
「うん。港に行くの」
「そう。気をつけてね」
「うん」
知らない人ではない。
母と何度も話しているところを見たことがある。
それでも、立ち止まって長く話すことはしなかった。
寄り道をしてはいけない。
ヤマトは手を振り、そのまま歩き続ける。
港へ近づくにつれ、潮の匂いが濃くなってきた。
遠くで汽笛が鳴る。
建物の間から、大きな船の煙突が見えた。
いつもなら嬉しくなって足を速めるところだった。
けれど今日は走らない。
父と母に何度も言われたし、自分でも約束した。
一歩ずつ歩いていく。
港の入口には多くの人がいた。
荷物を運ぶ作業員。
台車を押すワンリキー。
木箱の上で周りを見回しているポッポ。
いつも見ている景色だ。
けれど一人で見ると、周りの人が少し大きく感じられた。
ヤマトは人の流れから外れないように歩く。
大きな倉庫の横を通り、積まれた木箱の手前で右へ曲がる。
そのまま海沿いを進む。
見慣れた岸壁が見えた。
「着いた」
ヤマトは岸壁の方へ向き直る。
「コイキング!」
海へ向かって声をかける。
少しの間、何も起きなかった。
ヤマトは海面を見つめる。
赤い背びれは見えない。
「まだいないのかな」
袋から餌を一粒取り出そうとした、そのときだった。
水面の下を赤い影が走る。
次の瞬間、一匹のコイキングが勢いよく跳び上がった。
今までで一番高く見えた。
「わっ!」
コイキングは空中で体を大きく曲げ、そのまま水へ落ちる。
ばしゃん、と上がった水しぶきがヤマトの足元まで飛んできた。
「来たよ!」
ヤマトは岸壁の手前でしゃがみ込む。
「今日はね、一人で来たんだよ」
コイキングは海面から顔を出し、大きな口をぱくぱくと動かしていた。
言葉が分かったのかは分からない。
けれど、いつもより嬉しそうな気持ちが、なんとなく伝わってくる。
コイキングは返事をするように跳ねた。
ヤマトは笑い、袋から餌を一粒取り出した。
「じゃあ、今日も遊ぼう」
少し高く投げる。
コイキングは水の中へ体を沈め、勢いよく跳び上がった。
大きな口が空中で餌を受け止める。
「できた!」
水しぶきが上がる。
ヤマトは手を叩いた。
そのとき、少し離れたところから声がした。
「ずいぶん元気なコイキングだな」
ヤマトが振り返る。
岸壁の端に、一人の男が座っていた。
父よりも年上に見える。
古そうな帽子をかぶり、海へ釣り糸を垂らしていた。
足元には小さな箱と、使い込まれた釣りざおが置かれている。
「おじさん、誰?」
「ここで釣りしてるだけのおじさんだ」
男は笑いながら答えた。
「坊主こそ、一人か?」
「うん。今日から一人で来ていいって言われた」
「今日から?」
「今日、六歳になったから」
「そりゃめでたいな」
男は釣りざおを片手で持ったまま、空いている手を軽く上げた。
「誕生日おめでとう、坊主」
「ありがとう」
「そのコイキング、坊主のポケモンか?」
「違うよ。野生だよ」
「野生にしちゃ、ずいぶん懐いてるな」
ヤマトが海を見ると、コイキングは岸壁のすぐ下から離れずにこちらを見ていた。
「いつも餌あげて、一緒に遊んでるから」
「遊ぶ?」
「こうするの」
ヤマトは餌を一粒取り出し、少し離れた場所へ投げた。
コイキングが跳ぶ。
けれど、餌には少し届かない。
水面へ落ちた餌を、別のコイキングが食べてしまった。
「あー」
「惜しかったな」
男は面白そうに笑った。
「餌を高く投げて、跳んで食べるんだよ」
「なるほど。変わった遊びだ」
「前より高く跳べるようになったんだよ」
「毎日やってりゃ、そりゃ上手くもなるか」
「毎日じゃないよ。今日から毎日来られるかもしれないけど」
男は一瞬だけ目を丸くしたあと、また笑った。
「そうか。じゃあ、もっと高く跳ぶようになるかもな」
「うん」
ヤマトはもう一度餌を投げる。
今度は少し低く。
コイキングはしっかり狙い、空中で餌を食べた。
「できた!」
「上手いもんだ」
男は自分の釣りざおへ視線を戻した。
ヤマトも遊びへ戻る。
餌を投げる。
コイキングが跳ぶ。
失敗したら、もう一度。
成功したら、二人で喜ぶ。
いつもの遊びだった。
けれど今日は、少しだけ特別だった。
父も母もいない。
自分一人でここまで来て、自分一人でコイキングと遊んでいる。
それだけで、いつもより少し誇らしい気がした。
◇
港の時計が昼に近い時刻を示していることに気づき、ヤマトは袋の口を閉じた。
「今日は終わり」
コイキングは不満そうに口をぱくぱくと動かす。
「昼までに帰るって約束したんだ」
コイキングが水面を尾びれで叩く。
「また明日来られるか聞いてみるから」
ヤマトは立ち上がった。
少し離れた場所では、釣りのおじさんがまだ海へ糸を垂らしている。
「おじさん、帰るね」
「おう。気をつけて帰れよ」
「うん」
「坊主」
「なに?」
「信号はちゃんと見ろよ」
「分かってるよ」
父や母と同じことを言われた。
ヤマトは少しむっとしたが、おじさんは笑っていた。
「またね、コイキング」
海へ向かって手を振る。
コイキングが勢いよく跳ねた。
朝に会ったときほど高くはなかったが、それでも十分に大きな跳び方だった。
ヤマトも笑い返し、家へ向かって歩き出す。
帰り道も寄り道はしない。
信号では止まり、右と左を見る。
見慣れた店の前を通り、角を曲がる。
家の屋根が見えてくると、急に足を速めたくなった。
けれど走らない。
最後まで約束を守る。
玄関の前へ着き、扉を開ける。
「ただいま!」
すぐに母が居間から出てきた。
「おかえりなさい」
その声は、いつもより少しだけ大きかった。
母はヤマトの顔や服を見て、怪我がないことを確かめるようにしている。
「ちゃんと帰ってきたよ」
「そうね」
「走らなかった」
「うん」
「信号も見たし、寄り道もしなかった」
「偉かったわね」
母がヤマトの頭を撫でる。
その手は、少しだけ強かった。
「港におじさんがいたよ」
「おじさん?」
「釣りしてた。誕生日おめでとうって言われた」
「知らない人についていってないでしょうね」
「ついていってないよ。ずっと釣りしてたもん」
「そう」
母はまだ少し気になっているようだったが、ひとまずうなずいた。
奥から父も出てくる。
「どうだった?」
「一人で行けた!」
「そうか」
「コイキング、今日すごく高く跳んだよ」
「ヤマトが一人で来たから喜んだのかもな」
「僕もそう思う」
父は笑い、ヤマトの頭へ大きな手を置いた。
「これで毎日一人で行っていい?」
「それは母さんと相談だな」
「今日はできたよ」
「そうだな。今日はできた」
父の言葉を聞き、ヤマトは胸を張った。
今日は一人で港まで行き、ちゃんと帰ってきた。
道を間違えず、約束も守った。
ほんの少し前までは、父か母と手をつながなければ行けなかった場所だ。
それが今日は、自分の足だけで往復できた。
六歳になっても、昨日と急に何かが変わるわけではない。
けれど、できることは少しずつ増えていくらしい。
一人で港へ。
それは、ヤマトにとって最初の小さな旅だった。