カントーの潮風を追って 作:mochiato
それから、半年ほどが過ぎた。
ヤマトは六歳になってからも、変わらず港へ通い続けていた。
朝、母へ「行ってきます」と声をかける。
港へ着けば、いつもの岸壁へ向かう。
海をのぞき込み、餌を一粒投げる。
それだけで、水面の下から赤い影が近づいてくる。
最初は偶然だった遊びも、今ではすっかり日課になっていた。
◇
「ヤマト」
休日の朝。
朝食を食べ終えたヤマトを、父が呼んだ。
「今日は一緒に釣りでも行くか」
ヤマトは父を見上げる。
「……久しぶりだね」
「最近は一人で行ってたからな」
「うん」
それだけ言うと、ヤマトは静かに立ち上がった。
釣りざおを取りに行く足取りは、少しだけ軽い。
その様子を見た父は、小さく笑った。
「母さん、行ってくる」
「行ってらっしゃい。お昼までには帰ってきてね」
「分かってる」
玄関で靴を履く。
隣には父がいる。
半年前までは当たり前だったその景色が、今日は少しだけ懐かしく感じられた。
◇
港へ着くと、潮の匂いが鼻をくすぐる。
荷物を運ぶワンリキー。
上空を飛ぶポッポ。
岸壁へ打ち寄せる波の音。
見慣れた景色だった。
「おっ、坊主」
声を掛けてきたのは、いつもの釣りのおじさんだった。
「こんにちは」
「今日は親父さんも一緒か」
「久しぶりにな」
父が笑って答える。
「坊主は相変わらず毎日来てるぞ」
「そうらしいな」
「今日もあいつ、来るんじゃないか?」
おじさんは海を見ながら笑った。
父は首をかしげる。
「あいつ?」
「見てりゃ分かる」
父は不思議そうな顔をしながら、釣りの支度を始めた。
ヤマトも隣へ腰を下ろす。
餌を付け、糸を垂らす。
海面へ浮きが落ち、小さな波紋が広がった。
「釣りって、待つ時間が長いよな」
父が笑う。
「うん」
ヤマトも浮きを見つめたまま答える。
そのままポケットから、小さな袋を取り出した。
いつものポケモンフードだ。
一粒だけ指でつまみ、軽く放る。
餌は岸壁から少し離れた場所へ弧を描いた。
次の瞬間だった。
水面が揺れる。
赤い影が一直線に駆け抜け、勢いよく跳び上がる。
ぱくり。
空中で餌をくわえ、そのまま大きな水しぶきを上げて海へ戻った。
「……おお」
父が思わず声を漏らす。
「器用なことするな」
「待ってる間に遊んでるだけだよ」
ヤマトは当たり前のようにもう一粒投げる。
今度は少し高く。
コイキングは勢いよく跳び上がり、難なく餌を口へ収めた。
水面へ戻る動きも滑らかだった。
「前より高く跳んでないか?」
父が海を見つめる。
ヤマトも視線を向けた。
「いっぱい遊んだから」
その言葉に応えるように、コイキングがもう一度高く跳ねる。
「最初に見た頃とは別みたいだな」
「同じ子だよ」
「そうなのか?」
「うん」
父は少し驚いたようにコイキングを見つめた。
毎日遊ぶ。
それだけで、こんなにも変わるものなのか。
そんなことを考えているようだった。
「坊主」
おじさんが笑いながら口を開く。
「そのコイキング、お前さんが来る時間まで覚えてるんじゃないか?」
「そうかな」
「毎日待ってるように見えるぞ」
ヤマトは海を見つめる。
コイキングは岸壁のすぐ近くを泳ぎながら、時折こちらを見上げていた。
「待ってるなら、また遊ぼう」
ヤマトが小さく笑うと、コイキングは尾びれで水面を叩いた。
ぱしゃり、と小さな音が響く。
父も、おじさんも笑っていた。
◇
そのあとも、港には穏やかな時間が流れていた。
浮きは波に揺れ、風が時折、潮の香りを運んでくる。
父は静かに竿を握り、ヤマトも隣で浮きを見つめていた。
「釣りって、不思議だな」
父がぽつりとつぶやく。
「どうして?」
「何も釣れなくても、こうして海を見てるだけで悪くない」
ヤマトは少しだけ考えた。
「僕は、待ってる時間も好き」
「コイキングが来るからか?」
「うん」
父は笑い、もう一度海へ視線を戻した。
そのときだった。
父の浮きが大きく沈む。
「おっ」
竿がしなる。
父は慌てることなく竿を立て、ゆっくりと糸を巻き始めた。
「掛かった」
水面が揺れ、小さな魚が姿を現す。
「今日は夕飯のおかずになりそうだな」
父は魚を外しながら笑った。
「お父さん、すごい」
「運が良かっただけさ」
ヤマトも浮きを見つめ直す。
けれど、こちらはぴくりとも動かない。
ヤマトは竿を置き、袋からポケモンフードを一粒取り出す。
軽く放る。
コイキングは勢いよく跳び上がり、空中で餌を受け止めた。
父は思わず吹き出す。
「魚よりそっちの方が忙しいな」
「待ってるだけだと暇だから」
「なるほどな」
おじさんも笑っている。
「坊主の釣りは、二本立てだな」
「二本立て?」
「魚を待ちながら、コイキングとも遊ぶ」
「そうかも」
ヤマトは少し照れたように笑った。
◇
昼が近づく頃。
父の籠には何匹か魚が入っていた。
ヤマトは一匹も釣れなかった。
「今日は父さんの勝ちだな」
「うん」
悔しそうな様子はない。
父と一緒に釣りができただけで十分だった。
竿を片づけ、餌の袋もしまう。
コイキングはまだ岸壁の近くを泳いでいた。
「またね」
ヤマトが手を振る。
コイキングは返事をするように、高く跳ねた。
水しぶきが陽の光を受けてきらりと光る。
「本当に懐いてるな」
父が感心したように言う。
「毎日遊んでるから」
「そういうものか」
「そういうものだ」
横から、おじさんが笑って口を挟んだ。
「ポケモンだって覚えるさ」
父もうなずく。
「また来るよ」
ヤマトがそう言うと、コイキングはもう一度だけ尾びれで水面を叩いた。
◇
帰り道。
港を離れ、いつもの道を並んで歩く。
父が魚の入った籠を持ち、ヤマトは釣りざおを肩へ担いでいた。
「そういえば」
父が思い出したように口を開く。
「この竿で釣れるポケモンは、コイキングだけなんだ」
「そうなの?」
「ああ。魚はいろいろ釣れるけどな。ポケモンはコイキングしか掛からん」
ヤマトは少し考える。
「じゃあ、僕も釣れるかもしれないね」
「そのうちな」
「釣れたら、逃がしてあげるよ」
父は笑ってうなずいた。
「それがいい」
ヤマトも小さくうなずく。
肩に担いだ竿が、歩くたびに小さく揺れた。
港では、今日も変わらず波の音が響いている。
その音を背に、親子はゆっくりと家路についた。