カントーの潮風を追って 作:mochiato
朝の港は、今日も静かだった。
波は穏やかで、潮の香りを乗せた風がゆっくりと吹いている。
「おはようございます」
ヤマトは岸壁の端へ座る釣りのおじさんへ頭を下げた。
「おう、坊主。今日も早いな」
「うん」
「毎日飽きないもんだ」
「楽しいから」
短く答え、ヤマトはいつもの場所へ向かう。
父にもらった釣りざおを組み立て、餌を付ける。
海へ向かって竿を振ると、浮きが小さな音を立てて着水した。
ゆらり。
波に合わせて浮きが揺れる。
ヤマトはじっと見つめながら、空いている手でポケモンフードの袋を開いた。
一粒だけ取り出し、軽く放る。
水面の下を赤い影が走る。
勢いよく跳び上がったコイキングが、空中で餌をぱくりとくわえた。
「おっ、今日も来たな」
おじさんが笑う。
「うん」
ヤマトも少しだけ笑った。
コイキングは水面へ戻ると、岸壁のすぐ近くをゆっくり泳いでいる。
もう、この距離が当たり前になっていた。
◇
しばらくして、浮きが小さく揺れた。
ヤマトはまだ動かない。
父に教わった。
慌てないこと。
もう一度。
浮きが沈む。
「……今」
竿を立てる。
ぐっと重みが伝わった。
「掛かった!」
小さな体で一生懸命竿を持ち上げる。
水面から飛び出してきたのは、一匹の赤いポケモンだった。
「コイキング!」
ぱたぱたと跳ねながら宙を舞い、岸壁へ落ちる。
「おお、本当に釣れたな」
おじさんが立ち上がる。
ヤマトは慌ててコイキングを両手で抱えた。
元気いっぱいに跳ねている。
「この竿で釣れるポケモンはコイキングだけだからな」
「お父さんの言ってた通りだ」
「ちゃんと覚えてたか」
ヤマトはコイキングを見つめた。
相棒ではない。
知らないコイキングだ。
口をぱくぱく動かしながら、必死にもがいている。
「苦しかったね」
ヤマトは岸壁へ近づき、そっと海へ戻した。
「またね」
ぽちゃん。
コイキングは水の中へ消えていく。
「優しい坊主だ」
おじさんが笑う。
「お腹すいてただけかもしれないし」
ヤマトも笑い返した。
そのときだった。
水面の下を、見慣れた赤い影が勢いよく走る。
ドンッ。
海へ戻ったばかりのコイキングへ、たいあたりが決まった。
「えっ」
押されたコイキングは驚いたように向きを変え、そのまま沖の方へ逃げていく。
相棒のコイキングは、逃げていく姿をしばらく見つめていた。
「喧嘩しちゃダメだよ」
ヤマトが声を掛ける。
相棒のコイキングは一度だけヤマトの方を見た。
けれど、すぐには近寄らない。
ぷいっと顔を背けるように向きを変え、水面をゆっくり泳ぐ。
まるで、
「僕は悪くない。」
そう言いたげだった。
数秒ほどしてから、何事もなかったように岸壁の近くへ戻り、口をぱくぱくと動かした。
まるで、
「餌は?」
と言っているようだった。
ヤマトは袋からポケモンフードを一粒取り出した。
「喧嘩したら駄目」
そう言いながら、海へ向かって軽く放る。
相棒のコイキングは勢いよく跳び上がり、空中で餌を受け止めた。
ぱしゃん、と水しぶきが上がる。
「……反省してるのか、してないのか」
おじさんが苦笑する。
「分かんない」
ヤマトも首をかしげた。
コイキングは水面をゆっくり泳ぎながら、また岸壁の近くへ戻ってくる。
さっきのことなど忘れてしまったような様子だった。
「縄張りでもあるのかねぇ」
おじさんは海を眺めながら言った。
「縄張り?」
「魚でもポケモンでも、自分の居場所を守るやつはいるからな」
ヤマトは海を見つめる。
相棒のコイキングは相変わらず岸壁のすぐ下を泳いでいた。
「そうなのかな」
「まあ、本当のところはコイキングに聞いてみなきゃ分からん」
「うん」
ヤマトは小さくうなずいた。
なんとなくポケモンの気持ちは伝わる。
けれど、それが全部分かるわけではない。
今のたいあたりも、きっと何か理由があったのだろう。
そう思うことにした。
◇
もう一度竿を海へ投げる。
浮きは波に揺れ、小さく上下を繰り返していた。
しばらく待ってみたが、今度は何も掛からない。
その間も、相棒のコイキングは時々跳び上がっては、ヤマトの姿を確かめるように岸壁の近くを泳いでいた。
「今日は一匹釣れたから十分だな」
おじさんが笑う。
「うん」
ヤマトも笑顔で答えた。
初めてコイキングを釣った。
それだけでも、今日は十分嬉しかった。
昼が近づき、ヤマトは竿を片づけ始める。
「帰るね」
海へ向かって手を振る。
相棒のコイキングは勢いよく跳び上がり、空中で大きく体をひねった。
以前よりも高く。
以前よりも力強く。
着水と同時に、大きな水しぶきが上がる。
「元気だなぁ」
おじさんが目を細めた。
「また来るよ」
ヤマトが笑う。
コイキングは尾びれで水面を叩き、小さなしぶきを返事のように上げた。
◇
帰り道。
港を離れながら、ヤマトはさっきのことを思い返していた。
初めてコイキングを釣ったこと。
海へ返したこと。
そして、相棒がたいあたりをしたこと。
「本当に縄張りだったのかな」
小さくつぶやく。
答える者はいない。
潮風だけが静かに吹き抜けていく。
港では今日も、どこかでコイキングが跳ねている。
その中にはきっと、相棒も混ざっているのだろう。
ヤマトは少しだけ笑い、家へ向かって歩き出した。