共暦1549年【豊穣の月】8日。
シャブトゥン郡、クロトン城。その廊下を、城主であるブッヒルの寝室まで足早に歩く影がある。
一見、その外観に特徴はない。顔立ちは無精髭とやや高く筋の通った鼻が目立つ程度で、全体的に引き締まってはいるが特別に美男子とも醜男とも言いづらい。そこらの村を探せば、各村に1人は似た者が見つかりそうな“普通(よりやや上)”程度の顔立ちだ。
体格も見た目はまさに“中肉中背”を地で行くなんら特筆のしようがないものであり、ついでに服装も上質ではあるが派手さに欠けたオーソドックスなデザインのホースにダブレッド。
1000の人混みの中に紛れ込めば、平凡な顔立ちも併せて余程の眼を持っていない限りはたちまちの内に見失うだろう。
……ただし、武に一定以上の心得を持つ者がその男を見れば、恐らくは全く真逆の感想を抱くことになる。
中肉中背に見える体躯は、無駄な肉は一切削ぎ落とした上で必要分の筋肉を極限まで鍛え抜いており、靭やかさと強靭さを兼ね揃えているのがその動きから窺い知れる。
無論、身体だけではない。鋭い目付き、足音を一切響かせない歩み、脱力しているようでその実“何か”が起きれば即座に腰元の剣を抜き放つことができるようになっている身のこなし。しかと観察すれば一挙手一投足に隙がなく、まさに“常在戦場”の体現であるかのようだ。
1つ強いて瑕疵を挙げるならば、ふつふつと鍋の湯が煮えたぎっているような揺らぎを伴う眼光や僅かに大きな歩幅、ともすれば握りしめられる拳などから、今現在その男が僅かに怒りを抑えきれていない点だろうか。
尤も、これほどに修練・鍛錬を続けてきた男でも抑えがたいほど大きな怒り、という事でもあるのだが。
「卿は」
寝室の前までたどり着いたところで、男は静かに、感情を努めて押し殺した声で尋ねる。寝室の前に立っていたメイドは、気まずそうに顔を伏せつつ僅かに寝室の扉を振り向く。
ギシギシと木が軋む音に、肉を打ち付け合っているような鈍い音。そこに被せるようにして、悲鳴とも苦悶ともつかない女のくぐもった声が聞こえてくる。
まぁ、実のところ尋ねるまでもなかったのだが。“あの男”は先月の末から今日まで、元々呆れるほどだった獣欲をますます拗らせて毎日のように女を、それもほぼ一日中寝所に引きずり込み弄んでいるのだから。
「…………」
“武人”が無言で寝室の扉を顎で指すと、メイドは泣き出しそうな表情で束の間逡巡した後観念したように扉を開けて中に入る。
一瞬の空白の後、口汚い罵り声と何かを投げつける音が廊下まで響き、頭からワインとグラスの破片を被ったメイドが泣き咽びながら走り去っていく。
寝室内からはさらに、何か革製のものが肉を打擲するような音と懇願混じりのうめき声が聞こえ、ドスンッ、ドスンッと怒りと贅肉に満ちた足音が後に続きこちらに近づいてきた。
扉を開け、顔を出した男は───一言で言い表すなれば、“肉”。全身が肥満しきって丸々と肥え、首と顎は一体化しており見分けがつかない。腹などは贅肉がつきすぎて“何段”などという概念を失い、かえってなだらかな傾斜を描く。眼はぱっと見ると糸目だが、これもよくよく観察すれば瞼が厚くなりすぎてそう見えているというありさまだ。
あまりにも太りすぎていて、背はさして変わらないのも合わさって寧ろ“武人”が貧弱にすぎるのではと錯覚してしまう。
「吾輩の楽しみの邪魔をするとは、何事であるか!!!!」
“肉塊”──クロトン城城主にしてシャブトゥン郡統治者、ブッヒル・ピグレルトは、“武人”の姿を見ると細くなった目を全力で見開きつつ怒鳴りつける。
「事と次第によってはただでは置かぬぞ、アドラよ!!」
「はっ、まことに会い申し訳ありません………ですが、実際急を要する事ではありました故平にお許しを」
“武人”──ピグレルト家家臣、アドラ・ブレイメンは罵声を済まし顔で聞き流しつつ、一度膝をついて臣下の礼を取った後その眼をキッと怒らせてブッヒルを睨み返す。
「ピグレルト卿、エウロイ郡平定の───ノブナガ・オダ討伐の兵の徴募を始めた由、真にございましょうや?」
「何じゃ、その話か」
アドラからの問いかけに、ブッヒルは鼻をフンっと鳴らしつつわざとらしい動きで耳をほじる。如何にもアドラを鬱陶しがっていることを表した、子供っぽい仕打ちであった。
「おお、触れを出したとも。吾輩の威光が届いている町や村から男衆を集め、一気にあの冒険者上がりのならず者を討滅してやるのよ」
「………ピグレルト卿、ノブナガ討伐の兵を本格的に上げるのは私から具申するまでお控えあるよう、あれほど言い含めたはずです。
郡境を“刈り働き”で脅かし奴がエウロイ郡をまとめ上げるのを阻害しつつ、ミーゴ卿、オーログ卿と呼吸を合わせ兵を上げるが上策で……」
「待てるかぁそんなものぉ!!!」
癇癪を起こしたブッヒルが、体躯に見合わぬ高い声で喚き散らしつつ扉を拳で殴りつける。
「い、い、い、愛しのアイリーンちゃんがこうしている間にもどこの馬の骨ともしれぬ冒険者の腕に抱かれているのだぞ!!?我慢できるわけがなかろうそんなもの!!!
最早処………純潔の身体を抱くのは諦める!!だがあの美貌が少しでも穢れ少なき内に、吾輩のもとに取り戻さねばならぬのだぁ!!!」
ブッヒルの口上を黙して聞きつつ、アドラは思わず鼻で笑いそうになるのをこらえる。
【清涼の月】末、突如としてスケィビィ・クシャローとナラーン・ズンモンを謀殺しエウロイ郡の支配者として突如名乗りを上げた男、ノブナガ・オダ。旗揚げと同時に“ネイブ・ナガン”から突然改名したことも手伝い素性については未だ調べきれていないが、一先ず顔立ちについてはかなり精悍かつ美麗であると噂される。
ならばアイリーンも、眼前の肉塊よりは余程ノブナガに抱かれた方が幸せではないだろうか。
「しかしピグレルト卿。ノブナガはわずか3日でクシャロー卿とナラーン一党を殲滅し、クッショー城を掌握し、残党まで討ち果たしました。さらにそこからひと月と経たずに、エウロイ郡全体にその統治を広げつつあります。
それに魔物討伐や賊徒殲滅も精力的にこなしており、税も大きく軽減されて民はこれに大いに懐いているとか。冒険者上がりの無頼漢どころか、あの若さでどういうわけかどこか統治者として“手慣れて”すらいる様子。
そしてあやつのもとには、元帝都騎士団のラッセル・バーナード殿を始め旧スケィビィ家の兵がナラーン一党以外ほぼ無傷で手残りしております。ここは油断せず、刻を置いて友軍と連携を取りつつ圧倒的兵力差を用いて確実に討つべきではないかと」
「ならその間アイリーンちゃんはどうするのだぁ!!!」
……同じ言語を話しているはずなのに会話が噛み合わず、アドラの胸中をまるで自分がオークとの意思疎通を試みているかのような困惑が満たす。
「アイリーンちゃんは一刻も早く吾輩のもとに取り戻さねば我慢ならん!!それにクズンやバカーモを抱き込めば、奴らに出し抜かれアイリーンちゃんを掻っ攫われる恐れもある!!そんな事があってたまるものかぁ!!」
「…………しかしピグレルト卿」
「既に!ドンデラスが先鋒600を率いてエウロイ郡に向かっておる!!他の将共も兵を集め終えたら順次向かう手筈だ!!」
「!?この上兵を小分けになされたのですか!?
せめて、攻め入るなら郡内の兵力を一局に集中してから……!!」
「待てるかそんなもの!………よいなアドラ、お主も兵を整え、すぐにも向かうのだ!!!」
ブッヒルは絶句しているアドラに一方的に言い募ると、荒々しく背を向け再度寝室に入る。
……扉が開いた直後、中でベッドに拘束されている女の姿が垣間見える。確か、先日ブッヒルに近くの村の教会から拉致された修道女だったか。あの表情は既に相当酷くいたぶられていた後だろうが、ブッヒルの今の様子を鑑みるに彼女の地獄はまだまだ続きそうだ。
「…………クソっ」
アドラは苛立たしげに首を振り、寝室に背を向ける。機をまるで見ない挙兵を行い、そのくせ兵力は最初から逐次投入の様相を呈している。あの男、戦というものを根底から理解していない。
別段、ブッヒル・ピグレルトに未練も忠節もない。あんな下劣な男、死ねばよいといつも思っている。
だが、“今”死なれるわけにはいかないのだ。
(…………否、落ち着け。確かに理想からはかけ離れたが、多少自ら利を投げ捨てた程度でまだこちらが優位ではあるはずだ)
火照った頭を懸命に冷ましつつ、思考を巡らせる。スケィビィの兵力は言ってもナラーン一党のならず者連中を外せば300にも満たない。こちらの第一陣の時点で、“ノブナガ軍”に対して兵力は二倍以上優越している。
どうやらノブナガのもとには元冒険者やエウロイ郡各地の市町村の男女が続々と集いつつあるとは聞くが、これらを最低限の戦力にしようとすれば結局それなりの時がかかる。交戦に耐えうる兵力という意味では、一応向こうが何人集めていようが現時点では300か、冒険者連中をある程度勘定に入れても400に満たぬ程度で精一杯のはず。
(無論、兵力だけで戦の全ては決まらん。だが、それでも300程度の兵で押し寄せる我が方を何度も迎え撃てば、兵も将も疲労は溜まる。無駄な被害を出す以上喜ばしくはないにしても、おいそれと負けるようなことはない……筈だ………)
だが、どれほど自軍の優勢を確認しようとも。
ノブナガ・オダという男の名が脳裏をよぎる度に、アドラの胸中は言いしれぬ不安に塗りつぶされるのだった。
共暦1549年、【豊穣の月】10日の夕刻。
公然とシャブトゥン郡にて行われる兵の徴募は、わざわざ密偵を放つまでもなく信長の下にも届く。伝令の兵士が、息せき切ってクッショー城の大広間へ駆け込むと、玉座に座る信長の前で荒い呼気とともに膝をつく。
「──ブッヒル・ピグレルト卿、挙兵!!敵将の1人、ドンデラス・ガルガゼラ率いる600余は既に出立、郡境へ向かっている模様!!
他の諸将も続々と兵をあうめており……最終的な総兵力は、凡そ2000に達する由にございます!!」
「2、2000………!!?」
「こっちは、まだ兵を集め始めたばかりだぞ………!?」
伝令の言葉に、広間に集まっていた面々は皆不安げにざわめく。
無理もない。エウロイ郡各地から続々と“志願兵”が集いつつあるのは事実だが、数はそれでも今のところは1000程度。さらに“戦闘に耐えうる”兵力という意味では、結局のところラルカ村から引き連れてきた面々に旧スケィビィ軍を加えた300余でしかない。
「デ、アルカ」
だが、信長は動じない。群臣のざわめきに目もくれず、ただ静かに、玉座に腰掛けつつ頷く。
──次の瞬間その口元に浮かぶは、獰猛で凶悪な微笑み。
「マギィ!!」
「は、ははっ!」
「兵はこの先どれほど集まる!!」
「参陣の報せがまだ届いていない集団も多数ありましょうから正確なところまで数えるのは難しいですが……この日までに集まった者たちの数から逆算しますに、今月の終わりには2000には達するかと……」
「ボイヤ、調練は如何に!!」
「はっ。兵膨れ上がれば当然速度も落ちますが、幸いジェルム殿にモーサン殿ら在野の士や相応の実績がある冒険者の参陣も進んでおります。彼らを軸とすれば、滞りがなければひと月ほどで最低限の動きはこなせるようにいたします」
「よし!シャーム!!」
「は、はい!!」
「此度は主は残れ!主の槍さばき、既に一端の兵では相手にもならぬ域に達した!!ボイヤを補佐し兵どもを鍛え抜け!!
アイリーン、リナ、ラッセル、ルシア、猿は俺に続け!!出るぞ!!!」
「はっ!………いや、えっ!?の、
ノブナガ様!?」
「待ってよ信長!!貴方どこに向かう気なの……!?」
「知れたこと!!」
アイリーンとシャームからの戸惑い混じりの問いかけに、信長は瞳を爛と輝かせて吠える。
「ブッヒル・ピグレルトを討つぞ!!
シャブトゥン郡を、我が手中に収める!!!」