共暦1549年、【豊穣の月】16日。まだ肌寒く朝霧立ち込める、払暁と言っていい早朝。
最初に“それ”に気づいたのは、ルシアだった。
「────!!」
寝そべっていた民家の床から、狼が近づく気配を察知した牧羊犬のような体勢で身を起こす。そのまま俊敏に、音もなく外へと駈け出ると、竜人族としての強靭な脚力を生かしてあっという間に村の端へとたどり着く。
柵の隙間から目を凝らして霧を見透かせば、その向こうで遠くに見え隠れする幾本かの軍旗。冷たい朝風に乗って、微かに馬の嘶きも聞こえてきた。
それらの確認を終え、ルシアはすぐにスルリと柵から離れ村の中へと舞い戻り、自身が眠っていた民家に再度飛び込む。
「のぶなが」
「───うむ」
恐らく、信長の方もルシアが出た直後辺りで軍勢の「気配」を感じていたのだろう。一声囁かれた瞬間驚くほど素早く跳ね起き、“左文字”をひっつかむと着の身着のまま表に飛び出す。
(………身体軽いな、オイ)
民家の屋根へと飛び乗る際、そのあまりにも滑らかな自分自身の動きに思わずそんな感想が浮かぶ。“前世”にて本能寺を迎えた際の信長の齢は、数えで48。それこそ「人間50年」を目前に控えていた身で、老いや衰えは事あるごとに感じていた。
それが今再び齢15、6の若々しく強靭に鍛え上げられた肉体に生まれ変わったことで、それに対する感動は信長といえど人並みに抱かざるを得ない。
「あっち」
「おう」
とは言え長々浸るわけにもいかず、ルシアに指さされるままそちらを向く。
……確かに、朝霧の中に旗指物が揺れている様が見え隠れし、微かながら足音も聞こえ始めた。信長がルシアに向かって一度頷くと、ルシアはそれを合図にすうっと胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「敵だぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
「……!!敵だ、オイ起きろ!!」「ついに来たか……!!」「総員武器持て!!弓衆は取り決め通り配置につけ!!」「槍衆、剣撃衆は柵のすぐ後ろだ!!ただし出過ぎるな、竹束や盾に隠れてこちらを小勢に見せかけろ!!」「乙女衆、一番隊は広場前を固めて!!二番隊は槍衆・剣撃衆に合流して柵のところに!!」
ルシア渾身の大音声に、一気に村中が覚醒する。諸将や部隊長が兵たちに即座に下知を飛ばす声があとに続き、幾らかの慌ただしさはあれど300余の兵たちは皆整然と戦闘準備を整えていく。
「信長」
「うむ」
「ノブナガ様」「ノブナガ様ぁ!」「ノブナガ様!」
表に出てきたアイリーンに渡された鎧を手早く着込むと、闇夜を思わせる漆黒のマントをその上から羽織る。ラッセル、ヒディ、リナがすぐに寄ってきて、そのそばに跪いた。
「ラッセル、首尾は」
「はっ。布陣整いましてございます。また村人たちも、昨晩の内に“大半”は郡境の森まで逃がし、息を潜めるよう申し伝えています」
「…………」
大半、のところで、ラッセルの目が傍らで腕組みして立ち尽くすグインをちらりと見た。
「兵たちも盗賊ギルドからもたらされる敵勢の動向事細かに共有していました故、殊の外落ち着いており戦支度についても特に滞りなく終えました。
……とはいえ、やはり限度はあります」
「………震えてるわね、村の、“空気”が。不安に、恐怖に、少しだけど震えてる」
ラッセルの言葉を受けたアイリーンが、村をくるりと見回して眉をかすかに顰めながら呟く。……それを耳にした信長が、一瞬驚いたように目を見開いた。
「気持ちは、解らないでもないわ。……私だって、正直、逃げ出したいほど怖いもの」
(まぁ、無理もないわい)
アイリーンの独白を聞きながら、グインは内心で頷く。スータント地方はそもそもロンディア帝国の圧倒的な武力の前に早々に王族を捕らえられ、戦火はごく一部のみで逆に抑えられた。故に、地方全体が“荒事”に慣れてない。
将の器や能力は確かに比べるべくもないが、兵の練度という点では決してまだブッヒル軍と信長の手勢の間には大きな差がないのだ。
(お為ごかしの生半な理では、恐らくこの動揺と不安は消せぬぞ。さあて、自称“第六天魔王”の手腕やいかに?)
「アイリーン」
「えっ?……わわっ!?」
グインの視線が鋭くその一挙手一投足を観察する中……信長は、ゆっくりと前に進み出ていく。
その際アイリーンの手元に投げ渡されたのは、恐らくは鼓の類いと思われる打楽器。アイリーンはオロオロと困惑しながら、信長と打楽器を交互に見る。
「ち、ちょっと待って?なにこれ、私楽器の演奏なんてした事ないんだけど」
「別に絶技の奏楽なんぞ期待しとらん。俺の節回しに併せて思い切り叩け、そうすりゃ一先ずは“サマ”になる」
「…………何をする気かね?ノブナガ殿」
「何、ちょいと一指し舞うだけだ」
グインからの問いかけに笑って応えつつ、信長は鞘を投げ捨て、“左文字”を抜き放つ。
「なにかデカいことをやる時………俺は必ず、コイツを舞うのさ」
「クソったれ、だからとっとと進軍しろって言ったんだ……!!」
一方、村の目前まで迫ったブッヒル軍先鋒隊600余。村へと続くなだらかな丘の上からその外観を見下ろし、すっかり要塞化されてしまっていることを確認したマリントンは歯噛みしつつ吐き捨てる。
「ノブナガの野郎、トンソック村を籠絡して手中に収めてやがる……!!あんなにガチガチに固められたんじゃ迂闊に突っ込めねぇ……!!」
「どうしやす親分!?」
「ドンデラスのクソノロマに伝令出して、絶対に攻勢だけはしないよう伝えろ!!
それとドンファ、おめえ確か馬乗れたな!?遣い潰していいから爆速で駆け戻ってアドラ・ブレイメン将軍に伝令を…………あん?」
ふと“何か”が聞こえてきて、思わずマリントンは部下たちに指示を出すのをとめる。
それが若く精悍な男の声で紡がれる、聞いたことのない不思議な節回しの“唄”であると気づくのに、幾らかの刻を要した。
「人間ー五十年ー
下天の内をーくらぶれーばー」
“左文字”を振り上げ、マントを振り乱し、信長は舞う。口にするは、“前世”で幾度となく唄った能楽──敦盛の一節。
とは言え、動きは本来の能のそれよりも遥かに激しい。力強く地面を踏みしめ、飛び跳ね、剣を幾度も閃かせ、力の限りに舞い踊る。
「夢幻のーごとくなりー」
その時、誰もが信長を見ていた。アイリーンはもとより、ラッセルも、ヒディも、リナも、ルシアも、グインでさえも。まるで抗いがたい巨大な引力に引きつけられるようにして、300余名全ての視線が織田信長という一個の存在に集中していた。
(────満ちていく)
鼓を辿々しく、無心で打ちながら、アイリーンには“それ”が見えた。
(この人の、織田信長の“熱”が。身を焦がすほどに強烈で、荒々しく、なのに他人を惹きつけて止まない熱が。私を、皆を満たして……この人と共に、燃え盛らせていく)
「一度生をー受けー……
滅せぬ者の、あるーべきかー」
信長が舞い終わった時、しわぶきの1つさえ起きなかった。誰もが完全に呑み込まれ、ただ黙して信長に視線を注ぎ続ける。
だが───全員の表情から、恐れや不安は完全に消失していた。
「…………死のうは、一定。“滅せぬ者”など無き世にて、人は皆いつか死ぬ。人の生き死になぞ、それ自体には何ら違いはない。
ただ息をしているか、していないか。その先に歩むか、歩まぬか。まさに“一定”、紙の表と裏程度よ。貴族も、百姓も、罪人も、天下人も、男も、女も。死ねばそこには、ただクソの詰まった肉袋のみが残る」
滔々と語る声。信長自身の声量と声質も合わさり、それは語る都度、沈黙の中に、集団の中に染み渡っていく。
「故にこそ、人の価値はその生の中で“何を成したか”が決める。貴族であるから尊い死などない。貴族として何かを成し得たことによって其奴の生には価値が残る。民百姓が己の為すべきことを成し遂げて死したなら、そいつぁただ地位があっただけの貴族皇族王族なんぞよりよほど尊き“生”であり、気高き“死”であったと言える」
信長の手が、ゆっくりと、“左文字”を天へ掲げていく。朝日が、紫色の刃を照らし、信長の上に光を降ろす。
「────俺は、織田前右府上総介信長は、必ずや成し遂げる。天下の統一を。
スータントを統べ、ファストゥルを統べ、やがては“その先”を統べる。これは夢物語でもなければ、気の触れた“うつけ”の戯言でもない。この下天の史に刻まれる、“定め”よ。それが俺の生に意味を与える!それがこの信長が下天に生きたという証になる!!」
熱気が、湧き上がる。フツフツと、溶岩が煮え滾り荒れ狂うような衝動が、信長の言葉に合わせて将兵尽くの体内を焼き焦がす。
「故にこそ俺は死なぬ!!下天に“織田信長という男があった”と示すために、満天下を尽くこの手に治めるために!!織田信長という“生”に、今一度意味をもたらすために!!
ならば、その俺に付き従うお主らも死なぬ!!今この瞬間主らには、“織田信長の道を切り開く”という定めがある!!それを成すまでは死なぬし、死ぬことなど許さぬ!!それが主らが、この場で生きている意味であるがゆえに!!」
信長が、拳を握りしめて天を仰ぐ。その周囲で、300余名の熱気が、陽炎のごとく立ち昇る。
「者共、勝てぃ!!!!」
「「「うぉおおおおおおおおおおおおおぅっ!!!!!」」」
歓声が、大地を揺るがし、朝靄を吹き飛ばしていく。
開戦の時は、目前に迫っていた。