朝靄の中に、馬の嘶きが浮かんでは消える。揺れる槍穂先の群れが地平から顔を出した日の光を反射して川面を照らす。
緊張の面持ちで居並ぶ兵士たちが微かに身動ぎし、都度、耳障りな鉄同士の摩擦音が微かに鳴り響く。
共暦1551年、【疾風の月】2日は早朝。ハッシ郡とギネモカ郡の境に流れる、ヴィシュナル川。
これを挟み、マルドナ・ヒンギスと織田信長の軍勢は対峙した。
「───さてもさても、よーもみゃあ増やしたもんだぎゃあ」
敵勢、八千余。放っていた盗賊ギルドの斥候が持ち帰った報せを聞き、小馬鹿にしたとも純粋に感心したとも取れる響きの“お国言葉”が信長の口をついて出る。
……片あぐらをかいた自らの膝に頬杖を付きつつも鋭く、そして油断なく朝靄を見据える視線から、どちらの感情により重きが置かれているかは容易く伺い知れたが。
「ロースティでディック・カーネギーを討ち取った時は、確か配下の兵力って3千人ぐらいだったわよね……」
川岸の向こうを覆う朝靄の中にも、アイリーンの眼はもう一つの“靄”が軍勢の一角を覆うのを見る。
色は黒だがラクンダで見た、子供がインクで滅茶苦茶に塗りつぶしたような黒ではない。質のいい黒鉄を思わせる漆黒のそれは、まるで実体を持っているかのようにマルドナ勢の所々で落ち着いた漂いを見せる。
「そこから一週間ほどで八千余。直後に合流したヴェダン・アルマンド勢一千は事実上の与力に近うございますから勘定から省くとしても、四千余がこの短期間で2倍に。公の仰る通り、さてもよくここまで増やしたものです」
唇を引き結ぶ彼女の横で、コモは相変わらぬ朴訥とした口調のまま掌を鉄扇で叩く。
その細い瞳が、手元の軍用地図を一瞥した。
「布陣も実に見事にございまするな。流石は、“チュンボスの出来人”マルドナ・ヒンギスといったところでしょうか」
「……ただ方陣を4つ並べてるだけに見えるけど」
「陣形は、そうだな。問題は、奴らが置いた陣の位置だ」
首を傾げるアイリーンの前で、地図上に打ち下ろされる“左文字”。その切っ先が、マルドナ軍を示す4つの木駒の正面を穿つ。
「前衛に三隊、計6千。後衛に一隊2千、マルドナの本陣。川辺を抑えつつ中堅2千余がちょいと後ろに下がり、岸に“空白”を開けている。
……一見すると隙だが、ここに俺たちがノコノコ押し寄せりゃあシメたもの」
「先鋒を三隊が袋叩きにし、大いに討ち減らしつつ川へと追い落とせます」
“左文字”で対岸へと進められた信長軍の駒を、コモが3つの駒で囲みつつぐいっと押し返す。
「平押し、はもっと悪い。左右両翼を川に抑え込まれてより大きな被害を出しつつ、逆に恐らく中堅は下がる敵勢によって引き込まれます」
「んで隊列が伸び切ったところを余剰兵力で両側からグシャリ。基礎的だが、故に効果的な一手だ。
しかも弓隊の射線も三隊すべて通ってる、川にいる後続兵が散々に射竦められますます隊列は細切れにされような」
「両側面に渡河、悪手です。生半な戦力なら各個に押しつぶされるのみ」
「さりとて大挙渡河は塞がれるよう向こうの配置が変わるだけ。否、場合によっちゃわざと沈黙して岸に上がりきったところで嬉々としてマルドナ本陣が動き正面と側面から……なんて動きもあり得る」
信長とコモの眼には、今まさに“戦場”が見え兵が行き交っているのだろう。両者が駒を動かす手は、物を投げ渡しあってでもいるかのように軽快で、一向に止まらない。
……淀みなく、そして少し楽しげにコモと言の葉を交わす信長の姿を、アイリーンは段の高い会話に入れぬまま眺める。その眼に焦りとも苛立ちとも取れぬ色が浮かんでいることに、当人自身が気づかぬままだ。
「………ま、こんなところだな。結論、渡河は概ね悪手。身も蓋もない話だが、そもそもこっちから攻めかかった時点で俺等はめでたく“謀反人”だ。その上で、仮にマルドナを討てる算段がそれなりに大きい手があるなら博打も吝かじゃなかったが……」
「マルドナの本陣は街道を背にしております故、仮に僅かでも不利や危機を見れば即座に退きましょう。一時的な権威の失墜など、我らへの大義名分が手に入るなれば釣りと呼ぶさえ烏滸がましい利となります」
「デ、アルカ。────して、コモ・ノーサンよ」
手に握り込んだ木駒の一つを放り投げて再度掴みつつ、信長は嗤う。
「策はあるか?」
「公が、そうお望みなれば」
不敵な笑みも、自信に満ちた勇壮な声もなく。
小柄な軍師は、朴訥にそう言って禿げた頭をペコリと下げた。
「こりゃ厄介だね」
一方、連合軍本陣。斥候が持ち寄せた信長軍の布陣図を見た瞬間、マルドナは眉根を寄せつつ一言呟いた。
「川辺に前衛5000余、後方の丘陵帯に本陣3000余にて布陣。一見すると、こちらと陣形に差はないように見えるが……」
「この堅牢さ、尋常なものではありませんな」
主の言わんとすることを受け、デントナが赤い口ひげをブルルと震わす。
「前衛は三重の馬防柵を構え、その裏に三段の陣列を敷きつつ守りを固めています。川岸には我らの前面以上に地を空けてきていますが、これに易易と乗り上げれば柵にて堰き止められつつ散々にその裏から射竦められる事に。
また、報告によればノブナガは弓隊に積極的に冒険者を雇い入れている由。旗揚げから日は浅くとも、個々人の技能は十分以上に備えている筈。こちらからの力押し、相当な流血と相成りましょう」
「よしんばこれをこじ開けたとて、丘陵帯の本陣3000余の存在がございます」
指揮棒でそのあたりを叩きつつ、スーラ・ヒンギスも形の良い眉を悩ましげに歪めている。
「麓を逆茂木と壕で固め、出入口は両翼の門と跳ね橋のみ。冒険者の弓兵多いのであれば、その強弓故に川面も十分に射撃できるでしょう。しかも騎馬隊を300騎以上も陣内に抱えており、損耗したこちらが肉薄したところへの逆落としも可能。
閣下、これではまるで川を堀とした城攻めですわ」
「その“築城”を、ノブナガ卿はほんの数日でやってのけたと」
口調は、苦々しい。だがその口元に浮かぶのは、愉悦の微笑み。
「さてさて難敵だ。政治的にも、戦術的にも最初の一手がなかなかに苦しいところだけど──」
…………彼方から微かに聞こえる、馬の嘶き、重なる馬蹄音。
「申し上げます!!」
すっくとマルドナが席を立ったのと、泡を食った様子で伝令が駆け込んできたのは、ほぼ同時。
「スータント・リントゥナ勢より騎兵50余騎、ヴィシュナル川を渡河しつつあり!!我が勢右翼、キーデンス卿の前面へと突き進んでおりまする!!」
「………へぇ」
陣幕の外へと向けられた瞳が、爛と輝いた。
「動くなぁ!!よいか、動いてはいかぁん!!」
ウートルフ地方内の領主の一人、タンナー・キーデンス。兵数300余を率いる彼は、眉を怒らせ馬上幾度も配下に向かって叫ぶ。
貴族として小身ではあるが、北部戦線にては多くの武功を挙げ戦訓も豊富に積んだ勇将。敵方からの小勢での突撃には、明らかに“何かある”と踏んでいた。
「いいか、こちらから手を出すでない!!敵勢の様子を誰ぞ報せよ!!」
「ご注進!!向かってきている敵勢、騎馬50余騎尽く女人との由にございます!!」
「なんだと……!?」
「やぁあっ!!!」
タンナーが目を剥く中、朝靄を切り裂いて響く馬蹄音の中に甲高い声が混ざる。
「やぁっ!はぁっ!!」
「「「りゃあああああっ!!!」」」
短く切り揃えられた赤い髪を靡かせながら、そばかすが目立つ軽鎧姿の年若い少女がタンナーたちの陣を掠めるようにして直前で曲がり駆け去っていく。
後に続き鬨の声を挙げる騎影も、確かに目に入る範囲は尽く女であるように見える。
(そういえば、ノブナガがスータントで挙兵するに際しアイリーンと志を同じくしてノブナガに付き従った女人衆がいると聞き及んでいるが……)
タンナーが呆然と見ている先、蹴散らされ晴れゆく朝靄の中で赤毛の少女が馬首を巡らせ、ヴィシュナル川の中程で足を止めこちらを振り返る。
少女はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、タンナーたちに向かって槍を高々と振り上げた。
「─────向こう岸、男は一人もいやしなかったね!!鼻先掠めても、槍の一つを突き出す度胸もない腑抜けばっかりだ!!」
少女の……リナ・ラヴァナスタの勝ち誇った叫びは、周りの女騎兵たちの甲高いキンキンとした笑い声も合わせて、しっかりとタンナーたちの耳朶を打つ。
「殺せええええ!!!!!」
「「「イィヤァアアアアアアッ!!!!!」」」
激昂の怒声。300余騎に加え、さらにその周辺の小貴族の手勢も釣られて猛然と川へ向かう。
「リナ、釣れたよ!!キーデンス勢の他にも敵勢が3つ、4つ!!総勢は500余!!」
「………ウッソ」
共にラルカ村出身の昔馴染みで今は“女衆”の副官を務める、クラカからの報せ。川の中程で立ち止まりつつ、リナは目を丸くする。
ただしそれは、タンナーが動いたことに対するものではない。
「兵力まで、ピタリじゃん」
挑発した際の敵の動きを完璧に言い当てた、自分たちの“武備え奉行”に対する畏敬混じりの驚愕。
「…無詠唱火炎魔法のような男。タンナー・キーデンスが帝国軍の一武官であった頃、彼の性格を揶揄した同僚の言葉です」
突貫を開始したタンナー勢と、これを引き付けつつ岸へ上がっていくリナたちの様子を丘の上より観察しつつ、コモの鉄扇が自らの掌をパチン、と一度打つ。
「武勇に長け、勇猛果敢であり、政は民に優しく、冷静なれば知略も相応。惜しきかな、その短慮さえなくば一郡を預かれる程度の器量はある御仁です」
「………そんな短気な人、コモさんが言ってたような評価をされたらそれこそブチギレたんじゃないの?」
「ええ、槍で一突きだったそうです。故に、武勲豊富にも関わらずたかが2県しか与えられませなんだ」
アイリーンの問に朴訥と述べつつ、コモがスゥッと鉄扇を開き、頭上に掲げる。
ちょうど、キーデンス勢が川を渡り切り、リナ隊を包囲しにかかるところだった。
一見、信長軍前衛の左手に大きく外れた、孤立した地。
「──合図だ!かかれ!!」
「「「いあらぁああああああ!!!!」」」
「伏兵……!?」
その側面にて生い茂っていた草地より、槍衾を構えボイヤ・ミッドウェル指揮下の100余名が飛び出し渡河しきったばかりのタンナー勢側面に押し寄せる。
「200の勢から100を分ければすぐに敵にも勘付かれて警戒されますが、8000から100を差し引いたとて相当な目利きでない限りは気づけませぬ。ましてや、この朝靄の中では尚の事。
そしてあの位置、我らの陣から多少離れてはおりますが………少し手を伸ばせば、届かせることは容易くございます」
ふわりと、鉄扇が反対側に振られる。
「突撃だ!!俺に続け!!」
「「「おおぉうっ!!!」」」
「皆反転して!ボイヤさんとシャームに会わせるよ!!」
「「「やぁーーーっ!!!」」」
本陣左手の跳ね橋が下ろされ、陣門が開かれる。シャーム・クロフォードに率いられし騎兵50余騎が、丘をまっしぐらに駆け下りるとそのままあっという間にタンナー勢の右側面に回り込む。
さらに前面にては、リナ以下女衆が一斉に反転。正面から攻めかかる。
「はぁあっ!!!」
「っ……猪口才な!!」
浮足立っていた陣列への横撃。シャーム自らあっという間に四人、五人と敵兵を突き伏せて、そのまま深く突き入れる。
数にては上回っているはずのタンナー勢だが、出鼻をボイヤの伏兵に叩かれた上三方から激しく攻め立てられ、著しく動揺し時を追うごとに兵を凄まじい速度で討ち減らされていく。
「8000余の軍勢同士がぶつかり合う中での100の伏兵に50の遊撃など、毛ほどの効果もないでしょう。が、500の勢に対してならば十分以上に効かせることができます」
言いつつ、コモの視線がシャーム等による攻勢から、対岸へと移動する。
「とはいえ、当然向こうも黙って見てはおりますまいな」
「行け、行け!!」
ザバザバと、水を蹴立てる音が幾十も重なる。騎馬50余、歩兵100余程度からなる軍勢が、シャーム等とタンナー等の交戦地点へ駆けてくる。
その先頭を征くは、束ねた美しい黒髪を靡かせる、女人と見紛うほどに眉目秀麗な騎士。
「くいとめろ、かかれ!!」
「迎え撃って。がっぷり四つでやり合う必要はないよ、適度に往なして退路だけ守って」
「はっ!!───行け!!」
信長方の陣列からさらに300、この増援に向かって押し寄せる。騎士の指示に従い、後続していた歩卒100余が渡河と同時で即座に展開。寄せてくる織田方の増援に相対すると、固く盾を密集させてこれを押し留める。
「敵の新手か!?」
「手柄首だ!食い止めr」
「キーデンス卿!!」
騎士──ディーン・ライラックの剣が風を鳴らし、走る。乱戦から抜け出て向かってきたシャーム配下の騎士二人が首をころりと落とすが、ディーンは眼もくれず乱戦の渦中にあるタンナーに向かって叫ぶ。
「将軍閣下が臣下、ディーン・ライラックにございます!!将軍閣下より撤退の御下知あり、疾く退がられたし!!」
「…………相解ったぁ!!
皆退け!退けぇい!!」
タンナーは元来愚物ではない。三方から攻め立てられたことでかえって冷静さを取り戻していた彼は、既に自軍に形勢挽回の機がないことを十分自覚していた。
何とか撤退をと思考を巡らしていたところにディーンから救いの手を差し伸べられ、渡りに船とばかりに声を枯らし配下に叫ぶ。
「敵が退き始めたわ!!」
「よし、追撃を」
「待たれよ」
タンナーによる撤退の指示と、実際に這々の体で後退を始める敵勢の様子に、いきり立ったリナとシャームが改めて槍を構える。その進路を防ぎつつ、ボイヤが手で2人を制した。
「ボイヤ殿、なぜ止めるんです!?さらに追い打つ機なのに!」
「……増援を率いてきた敵将、こちらの騎士を苦も無く二人斬り捨て、配下の歩卒も寡兵でありながら我らからの更なる横撃を押し留めております。そも、既に敗勢にて味方が総崩れ間近であった中に容易く分け入り、即座に立て直した技量自体尋常ではない」
シャームがやや気色ばんで詰め寄るが、ボイヤの方は慇懃な彼には珍しくそちらを見もしない。
細い顎に伝う汗。自分たちは突き崩した側のはずなのに、まるで直前まで押し込まれていたが如き険しい目つきで撤退していくディーン隊を眺める。
「打ち掛かかったとて、容易く突き崩しはできないでしょう。キーデンス卿も本来は武勇に優れた将、ややもすれば乱戦を維持されつつ寧ろ我らが向こう岸に誘き出されかねない。
────そして」
ボイヤの視線が、右へ……マルドナ軍の主力が布陣している側へと動く。
「我らがそうであったように、敵方にとっても、あの辺りは“手が届く”範囲です」
「…………もうちょい崩れた“ふり”はすべきだったかなぁ」
ボイヤたちが追ってこないのを振り返りつつ、ディーンは殿で剣を納めながら馬上ぼやき、
「解ケ」
渡河した瞬間の横腹を狙い配下の手勢に突貫用意をさせていたプーダルタ・エルドゥルトは、ボイヤ等もまた陣へ戻る様子を見て短く一言命じる。
「……勝ちすぎず、しかししっかりと“先手”は打つ。期待通りだな、コモよ」
「お褒めいただくべきは、策を遂行したリナ・ラヴァナスタ殿たちにございます、公よ」
一連の戦闘を見、上機嫌で信長から送られる称賛に、コモは静かに頭を下げる。
「それに、わざわざ陣列の“外れ”にキーデンス勢をおいたあの差配。恐らくは、マルドナ・ヒンギスもある程度織り込み済みの“誘い”かと見受けまする」
「で、あろうな。
……さぁて」
嗤いに歪んだ信長の口元で、ちろりと舌が唇を舐める。
「望み通り、“掛かり”は作ってやったぞ、マルドナ・ヒンギス。
一手、指し合おうじゃねえか」
かくして、世にいう【ヴィシュナル川の戦い】が。
織田信長とマルドナ・ヒンギスの、“一度目”の激突が、幕を開けた。