首筋に突きつけられた刃が、驚くほど冷たく感じる。まるで、その切っ先から自分の体温が吸い上げられているかのように。
終わった───そう自覚した瞬間、アイリーンの頬を涙が伝う。
2年間、自分なりに必死に戦ってきた。
流浪の身の果に行き倒れていた自分とルシアを、魔族である自分たちを助けてくれたこの村を。悪徳貴族共から収奪されもしかしたらより困窮してさえいる身なのに、それでも“元気になるまでは村にいて”と言ってくれたラルカの人々を助けたかった。
下卑た男たちの視線に耐え、接触に耐え、【魅了】とルシアの力、村人たちの協力を以てスケィビィらからの収奪をできる範囲で緩め続けた。
あくまで緩めるだけで止められない収奪が、目減りし続ける魔力が。アイリーンによる抵抗など“破滅の先延ばし”でしかないとどれほど冷酷に示していても。先延ばした末に何かが起きてくれるかもしれないと、か細い希望に縋り、抗い続けた。
そして、たどり着いた結末はこれだ。結局圧倒的な力に蹂躙され、制圧され、村の破滅も自分の破滅も、今、目の前に迫っている。
自分は“魔の者”だから、元より願う権利などないかも知れない。けれどこの世には、イアルダボートだの、ミスルだの、仏だの、女神だの、腐るほど神様がいるのだ。
その内の一人ぐらい、世界の片隅にあるこの村の善良な人々に加護を授けてくれてもよかったじゃないか。
なのに………差し向けてきたのが“魔王”とは、あんまりだ。
「……………どうして、そんな力があるのに、スケィビィなんかに加担するのよ」
「ふんっ」
思わず溢れた、アイリーンの問いかけ。小声のそれを耳聡く拾い、“第六天魔王”を名乗る青年は片頬を上げる。
「そりゃ、あやつを踏み台にするためよ。俺自身が、駆け上がるためにな」
「………………そう」
今までにも、似たような言葉を吐く男はごまんと見てきた。こんなところで終わらない、この依頼を経て立身出世に繋げる、より大きな事を成してみせる。下卑た下心以外に、そうした我欲に満ちた野心を掲げた男たち。
その言葉は大半が空虚で、単に自身の現状を受け入れられない者たちの戯言でしかなかった。
だが、この男のそれは、どこか違う。
既にそこまでの道のりがはっきりと見えているかのような、自信に満ちた言葉。よく鍛えられた剣のごとき1本の芯が通った、力強い響き。
こんなところで終わりたくない、という不確かな願望ではない。
こんなところで終わらない、という確信が、そこにはあった。
(……………別に根拠はないけど、この人なら本当に、大陸中の耳目を集めるような、世に英雄として名を謳われるような大きなことを仕出かすかもしれないわね)
だが、それが自分に、ラルカ村に。“駆け上がるための踏み台”にされた側に、何の関係がある。仮にこの男が本当に英雄として、或いは“魔王”として後の史書に記されても。そこにきっと、踏みにじられた自分たちはただの一行だって書かれはしないだろう。
「なら、どうぞ私たちを踏みにじって先に行かれなさい、“魔王”様。その足の裏に、べったりと私たちの血がこびりつくのをどうか忘れず───きゃあっ!!?」
…………せめてもの抵抗でやけくそ気味に口にされていた嫌味は、“自称・第六天魔王”に突然抱え上げられたことによる驚愕で、素っ頓狂な悲鳴に中断された。
織田信長は、合理の人である。その“野望”を果たすにあたり、彼はラルカ村にもアイリーンらにも憐れみや感傷など一切介入させず、冷徹に幾つかの選択肢を用意していた。その中には、依頼通りにアイリーンとラルカ村をスケィビィに売り渡して取り入る選択肢もごく当たり前に用意されていたし、アイリーンに使い道なしと見たなら信長は躊躇なくその選択肢を選んだだろう。
だが、アイリーンの存在は信長の“期待”を、遥かに大きく飛び越えた。
理由までは預かり知らぬが、余所者でありながら村に尽くせる“義心”がある。
魔力をすり減らしつつも退かず、周辺貴族共やならず者共を二年間もの間手玉に取り続けられる“胆力”がある。
アイリーン自身にではないが、竜族の娘・ルシアという“武力”もある。
簡易ではあるが、自身の【魅了】を用いて伏兵紛いの計略を施す“知略”がある。
そして、帥を失ってなお身を挺してルシアや村人たちがその身を救おうとする“人望”がある。
【魅了】の存在抜きにしても、これだけ“使い所”がある。ならばスケィビィ如きに取り入るために“捨てる”など、信長からすれば非合理の極みだった。
「言ったであろう、“スケィビィを踏み台にするため”と。
………さあて小娘。俺の“国盗り”に、手ぇ貸してもらうぞ」
「く、国盗り!?貴方、一体何する気…………ちょっと、待って!いや、お願い!誰か助けてぇーー!!!!」
「あ、アイリーーーン!!」
「ちょ、どうすべ」「いや、どうするっつったって………」
何かとてつもない事態に巻き込まれつつあると直感し、悲鳴に等しい声で助けを求めるアイリーン。
ルシアも村人もその声に応える術はない。ただ“第六天魔王”と、その腕に抱えられてもがくアイリーンの尻を困惑とともに追いかける他なかった。