午後三時。
喫茶リコリコの店内には、ゆっくりとした時間が流れていた。
昼の忙しさはすっかり過ぎて、夕方の客が来るにはまだ少し早い。窓から差し込む陽射しも、真昼の鋭さを失っている。木目の床に落ちた光が、風に揺れる植木の葉に合わせて、静かに形を変えていた。
店内に客の姿はない。
聞こえるのは、カウンターの向こうで先生がカップを並べる小さな音と、ミズキがページをめくる音くらいだ。
「ひまだねぇ」
私はカウンターに両肘をつき、頬杖をついた。
目の前には、きれいに磨かれたテーブル。椅子はすべて整った位置に収まり、砂糖壺もメニュー表も完璧に並べられている。
やることがない。
こういう時間は嫌いじゃない。
だけど、静かすぎるのはちょっとだけ落ち着かない。
「暇なら掃除でもしたら?」
窓際の席から、ミズキが雑誌越しに言った。
赤い縁の眼鏡の奥で、こちらを見る目が少しだけ細くなる。
「もうしたよー」
「本当に?」
「したした。すっごくした」
「何を?」
「心の掃除」
「床をやりなさいよ」
ミズキが呆れたように雑誌を閉じる。
「床もきれいじゃん」
「それ、朝に私が掃除したからでしょ」
「じゃあミズキの仕事を尊重して、余計なことはしない方向で」
「都合のいいこと言ってんじゃないわよ」
私は笑いながら体を起こした。
カウンターの奥では、先生が穏やかな表情のままグラスを拭いている。こちらの会話を聞いているはずなのに、口を挟む気はないらしい。
「先生も、千束に何か言ってやってよ」
ミズキが助けを求めるように声をかけた。
先生は手を止めることなく答える。
「千束」
「はーい」
「お客様が来たときに、元気よく迎えられるようにしておきなさい」
「もちろん!」
「それだけ?」
ミズキが不満そうな声を上げる。
「よし。じゃあお客さんが来るまで、歓迎の練習をしよう」
私は入口に向き直り、胸の前で手を組んだ。
「いらっしゃいませー! 喫茶リコリコへようこそ! 本日の看板娘、錦木千束でーす!」
「毎日自称してるじゃない」
「自称じゃないよ。事実だよ」
「誰が認定したのよ」
「私」
「やっぱり自称じゃない」
ミズキの冷静な指摘に、私は両手を広げた。
「本人が認めるところから、すべては始まるんだよ」
「何か良いこと言った風にまとめないで」
そんなやり取りをしていると、店の扉に取りつけられたベルが鳴った。
からん、と明るい音が店内に響く。
「いらっしゃいませー!」
私は反射的に声を上げた。
扉を開けたのは、見覚えのない少年だった。
年齢は私より一つか二つ上くらいだろうか。
背はそれほど高くない。ただ、姿勢がいいからか、実際より少し大きく見える。落ち着いた色の服を着ていて、髪もきちんと整えられていた。
派手なところはない。
けれど、妙に大人びて見える少年だった。
入口で一度だけ店内を見渡したあと、私と目が合う。
「一名ですが、大丈夫ですか?」
丁寧な口調だった。
「もちろん! 貸し切り状態ですよー」
「それは運がいいですね」
少年はそう言って、わずかに笑った。
声も落ち着いている。
緊張している様子はなく、かといって馴れ馴れしくもない。初めての店に入ってきた人にしては自然な振る舞いだった。
「お好きな席へどうぞ」
「では、こちらで」
少年は窓際ではなく、カウンターに近い二人掛けの席を選んだ。
私は水とおしぼり、それからメニュー表を持っていく。
「ご注文が決まりましたら呼んでください。ちなみにおすすめは、私です」
「メニューに載っていませんが」
「裏メニューなので」
「注文すると、何が出てくるんですか?」
「楽しい時間」
「ずいぶん曖昧な商品ですね」
間を置かずに返されて、私は思わず目を丸くした。
真面目そうに見えたけれど、ちゃんと冗談が通じるらしい。
「お兄さん、やるね」
「ありがとうございます。一応、褒め言葉として受け取っておきます」
「素直でよろしい」
少年は小さく笑い、メニュー表を開いた。
その様子を見ながら、私はカウンターへ戻る。
「珍しいわね」
ミズキが声を潜めて言った。
「何が?」
「千束のくだらない冗談に、初対面であれだけ普通に返せる客」
「くだらなくないし」
「そこ?」
私は肩をすくめ、少年の様子をちらりと見る。
メニュー表を真剣に眺めていた。
食事のページを一度開き、飲み物のページへ移る。それからデザートのページへ進んだところで、視線が止まった。
目の動きがわずかに遅くなる。
パフェ。
ケーキ。
パンケーキ。
クリームあんみつ。
私には分かった。
あれは迷っている顔だ。
食べたい。
でも、初めて入った店で甘いものを頼むのを少し気にしている。
そんなところだろう。
もちろん、本人が何も言っていない以上、ただの予想だけど。
少年は一度デザートのページを閉じた。
そして食事のページを開く。
数秒後、またデザートのページに戻った。
「ふふっ」
思わず笑いが漏れた。
「何よ」
「いや、甘いものが好きなのかなって」
私は少年の方を向き、大きな声で呼びかける。
「お客さーん!」
少年が顔を上げた。
「甘いもの、好きでしょ?」
「……なぜそう思ったんですか?」
「デザートのページを三回見たから」
「見ていたんですか」
「看板娘なので、お客さんのことはしっかり見てます」
「少し落ち着かない店ですね」
「安心してください。悪用はしません」
「悪用できるほどの情報でもありませんよ」
少年は困ったように笑った。
否定はしない。
やっぱり好きらしい。
私はそのままテーブルへ向かった。
「おすすめはチョコレートパフェ。すっごく甘いよ」
「甘いものを食べに来たとは言っていませんが」
「じゃあ、何を食べに来たの?」
「まだ決めていません」
「でも甘いものは好き」
「それも認めた覚えはありません」
「嫌い?」
私が尋ねると、少年は少しだけ黙った。
視線がメニューのパフェの写真に落ちる。
「……嫌いではありません」
「好きなんじゃん」
「かなり広い意味で言えば、そうかもしれません」
「めちゃくちゃ好きな人の言い方だ」
「勝手に評価を上げないでください」
「じゃあ、チョコレートパフェ一つ!」
「まだ注文していません」
「違うの?」
私が首を傾げると、少年はメニュー表を閉じた。
少しだけ諦めたような顔をしている。
「では、それをお願いします」
「はーい! チョコレートパフェ一つ!」
注文をカウンターへ伝えると、ミズキがにやにやしながらこちらを見ていた。
「押し売りじゃないの?」
「違うよ。背中を押したの」
「本人が満足してるならいいけど」
少年はこちらの会話が聞こえていたらしい。
「今のところ、少し不安になっています」
「大丈夫! 味は保証するよ!」
「接客方法について不安なんですが」
「それは保証できないかな」
「正直ですね」
少年が笑う。
それは最初に見せたものより、少しだけ自然な笑い方に見えた。
先生が作ってくれたパフェを、私は慎重に少年のテーブルへ運んだ。
透明なグラスの中には、チョコレートアイスとバニラアイス、スポンジ、コーンフレークが層になっている。上にはたっぷりの生クリームとチョコレートソース。最後に赤いさくらんぼが飾られていた。
「お待たせしました! チョコレートパフェです!」
「ありがとうございます」
少年の視線が、パフェへ向く。
大きく表情が変わったわけではない。
けれど、目が少しだけ明るくなった。
私は見逃さなかった。
「うれしそう」
「そう見えますか?」
「見える見える。今、十七歳くらい若返った」
「それでは、普段は何歳に見えているんですか」
「三十四歳」
「倍ですね」
「落ち着いてるから」
「褒められている気がしません」
「じゃあ三十三歳」
「一歳しか変わっていませんよ」
少年はスプーンを手に取る。
そして、生クリームとチョコレートアイスを少しずつすくい、口へ運んだ。
食べた瞬間、目がわずかに細くなる。
口元の力も少しだけ抜けた。
大げさな反応ではない。
それでも、気に入ったことはすぐに分かった。
「おいしい?」
「はい。かなり」
「でしょー?」
「まるで自分で作ったような反応ですね」
「リコリコのものは、みんな私のものだから」
「店長の前で、なかなか大胆な発言ですね」
少年がカウンターの奥にいる先生を見る。
先生は穏やかな笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。
「黙認された」
「呆れられているのでは?」
「先生はそんなこと思わないよ。ね、先生?」
「千束」
「はい」
「お客様の邪魔をしないように」
「ほら、否定されなかった」
「注意された部分は無視するんですか」
少年のツッコミに、ミズキが吹き出した。
「君、なかなか言うじゃない」
ミズキは雑誌を置いて立ち上がり、そのまま少年の近くの椅子へ腰かけた。
「この子、放っておくとずっと喋るわよ」
「知っています」
「まだ来て十分も経っていないよね?」
「十分あれば、かなり分かります」
「お兄さん、私のこと分かった気になってる?」
私は少年の向かいの席へ座った。
「勤務中でしょ、あんた」
ミズキに言われたけれど、今はほかにお客さんもいない。
「接客中ですー」
「座って?」
「親しみやすい接客」
「ただサボりたいだけでしょ」
「ミズキは疑り深いなぁ。そんなんじゃ良い出会いを逃すよ」
「今それ関係ないでしょ!」
ミズキの声が店内に響く。
少年はスプーンを止め、私とミズキを交互に見た。
「もしかして、いつもこのような感じなんですか?」
「そうよ。この子が一日中うるさくて、私は苦労してるの」
「えー。ミズキだって一日中うるさいじゃん。結婚がどうとか、出会いがどうとか」
「お客様の前で余計なことを言うな!」
ミズキが私の頬を軽く引っ張る。
「いひゃい、いひゃい」
「痛くしてないわよ」
「暴力反対ー」
「普段から人にちょっかいかけてるあんたが言うな」
私が頬を押さえながら少年を見ると、少年は少し困ったように笑っていた。
「助けてよ、お客さん」
「店員同士の問題に、お客を巻き込まないでください」
「冷たい!」
「それに、今回はあなたが悪いと思います」
「正論で刺された!」
胸を押さえて椅子の背にもたれる。
少年は私の大げさな反応を見て、声を出さずに笑った。
「ほら、笑った」
「笑っていません」
「笑ったよ」
「気のせいです」
「笑ったってば。ミズキも見たよね?」
「見たわ。あんたが馬鹿なことして笑われてた」
「笑わせたの!」
「結果は同じでしょ」
私は姿勢を戻し、少年をじっと見る。
「でも、よかった」
「何がですか?」
「入ってきたときより、ちょっと楽しそうだから」
少年の手が一瞬だけ止まった。
その変化はほんのわずかだった。
けれど、すぐにまたいつもの落ち着いた表情に戻る。
「そう見えるのであれば、この店が良い店だからでしょう」
「おお。さらっと良いこと言う」
「パフェもおいしいですし」
「そっちが本命?」
「否定はしません」
「やっぱり甘いもの好きなんじゃん」
「嫌いではない、と言いました」
「かなり広い意味で好きなんでしょ?」
さっきの言葉を返すと、少年はわずかに目を細めた。
「よく覚えていますね」
「記憶力いいからね」
「自分に都合の良いことだけでしょ」
ミズキが口を挟む。
「そんなことないよ。この前ミズキが酔っ払って――」
「それ以上言ったら追い出すわよ」
「ここ私のお店でもあるんだけど」
「あんたの店じゃないでしょ」
「看板娘だから、半分くらいは私のもの」
「さっきから所有権を主張するわね」
少年はパフェを食べ進めながら、私たちのやり取りを楽しそうに眺めていた。
会話の間に無理がない。
私が話を振れば、自然に返してくる。ミズキの言葉にも反応し、必要なら冗談を混ぜる。
話すのが得意なのだろう。
初対面の店員二人に囲まれても、気まずそうにすることはない。かといって、自分から必要以上に前へ出てくることもない。
相手に合わせるのが上手い。
「学校帰り?」
私は何気なく尋ねた。
少年はスプーンを置き、水を一口飲む。
「そのようなものです」
「そのようなもの?」
「少し用事がありまして」
「ふーん」
はっきりした答えではなかった。
ただ、隠しているというより、細かく説明するほどのことでもないといった様子だった。
だから私も、それ以上は聞かない。
「この辺にはよく来るの?」
「いえ。今日はたまたまです」
「へえ。じゃあ、うちを選んだのは運命だ」
「ずいぶん大きく出ますね」
「良い出会いは大事にしないと」
私が笑うと、ミズキが隣で大きくため息をついた。
「本当に、誰にでも距離が近いわね」
「いいじゃん。せっかく会ったんだから」
「相手が困るでしょうが」
「困ってる?」
少年へ尋ねる。
少年は少し考えるように目を伏せたあと、こちらを見た。
「今のところは、楽しませてもらっています」
「だって!」
「今のところ、って言ってたでしょ」
「そこは聞こえなかった」
「都合良すぎるわ」
パフェは少しずつ減っていく。
少年は急いで食べることもなく、一口ずつ味わっていた。
最後に残ったさくらんぼを見つめ、少しだけ迷ってから口へ運ぶ。
「ごちそうさまでした」
「きれいに食べたね」
「食べ物を残すのは好きではありませんので」
「えらい!」
「子供扱いしないでください」
「だって私より年下に見えるし」
「おそらく、あなたよりは年上だと思います」
「えっ」
私は少年の顔を見直した。
落ち着いているとは思ったけれど、見た目だけなら近い年齢だ。
「何歳?」
「年齢まで聞くんですか?」
「いいじゃん。私は十六歳」
「聞いていません」
「先に教えたんだから、そっちも教えるのが礼儀でしょ」
「それは一方的に公開しただけです」
「むむ」
正しい。
少年は私の反応を見て、少しだけ笑った。
「あなたより、一つ上です」
「十七歳?」
「はい」
「本当に?」
「年齢について嘘をつく理由がありません」
「三十四歳じゃなかったんだ」
「まだ言いますか」
「高校生には見えないわね」
ミズキも少年を見ながら言った。
「よく言われます」
「大人っぽいって?」
「実年齢より上に見える、と」
「やっぱり三十四歳」
「そこまで上ではありません」
すぐに返され、私は笑った。
楽しい。
特別なことを話しているわけではない。
名前も、どこに住んでいるのかも知らない。学校のことだって聞いていない。
それでも、不思議と会話が続いた。
少年は何かを誇ることもなく、自分の話ばかりすることもない。
私やミズキの話をよく聞き、冗談には冗談で返す。
たまに真面目な顔で鋭いツッコミを入れてくるのも面白かった。
「そうだ」
私は立ち上がり、伝票を手に取った。
「パフェ、おいしかった?」
「はい」
「また食べたい?」
「そうですね」
「じゃあ、また来る?」
少年は空になったパフェグラスを見てから、店内を見渡した。
カウンターの向こうにいる先生。
近くで腕を組んでいるミズキ。
そして私。
「機会があれば」
「それ、来ない人の言い方じゃん」
「では、また来ます」
「本当?」
「おそらく」
「おそらく取って」
「また来ます」
「よろしい!」
私は満足してうなずいた。
少年も小さく笑う。
会計を済ませるため、少年はレジ前へ移動した。
先生が金額を告げると、少年は財布からきっちり料金を出した。
「ありがとうございました!」
私が声をかける。
少年は扉の前で振り返った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「次は違う甘いものも食べてね」
「甘いものを食べる前提なんですね」
「好きなんでしょ?」
「嫌いではありません」
「はいはい。かなり広い意味でね」
少年は少しだけ肩をすくめた。
「では、また」
「またねー!」
扉が開き、ベルが鳴る。
少年の姿は、午後の柔らかな光の中へ消えていった。
扉が閉まったあとも、私はしばらくその方を見ていた。
「気に入ったの?」
背後からミズキの声が飛んでくる。
「ん?」
「今のお客さん」
「面白かったね」
「そうね。あんたの相手も普通にできてたし」
「私の相手をするのが大変みたいな言い方だなぁ」
「実際大変なのよ」
私は空になったパフェグラスを片づける。
さくらんぼの軸だけが、皿の端にきれいに置かれていた。
「また来るかな」
「来るって言ってたじゃない」
「おそらく、って最初は言ってたから」
「最後には言い直してたでしょ」
「だよね」
名前を聞くのを忘れた。
まあ、また来るなら、そのとき聞けばいい。
次はどのデザートをおすすめしよう。
いちごパフェもいいし、抹茶のケーキもいい。
甘いものが好きなのを隠したがっているみたいだから、また少しからかうのも楽しそうだ。
「千束」
先生に呼ばれ、私は顔を上げた。
「はい?」
「お客様が帰ったあとは、テーブルを片づけなさい」
「あ」
「ずっとグラス持ったまま突っ立ってたわよ」
ミズキに笑われる。
「今やろうと思ってたの!」
「考え事してたんでしょ」
「次に来たとき、何を食べさせるか考えてた」
「やっぱり気に入ってるじゃない」
「お客さんを大事にするのは、看板娘の仕事ですー」
私はそう言って、グラスをカウンターへ運んだ。
窓の外には、もう少年の姿はなかった。
◇
夜。
昼間の穏やかな店内とは違い、街は冷たい空気に包まれていた。
私は建物の陰に身を寄せ、通りの向こう側を確認する。
繁華街から少し離れた、人気の少ない一角。
表通りにはまだ車が走っているが、一本裏へ入れば人の姿はほとんどない。
今夜の標的は、違法な武器を受け渡そうとしている男たちだった。
事前の情報では三人。
けれど、現場にいるのは四人。
一人増えている。
『千束、状況は?』
耳元の通信機から声が届く。
「問題なし。四人いるけど、たぶんすぐ終わるよ」
『一人多い。無理はするな』
「先生は心配性だなぁ」
私は小さく笑い、腰の鞄へ手を伸ばした。
愛用の拳銃を取り出す。
弾倉を確認する。
もちろん、入っているのは非致死弾だ。
建物の隙間から、男たちの様子を観察する。
一人は周囲を警戒。
二人は黒いケースを挟んで話している。
残る一人は、壁にもたれて煙草を吸っていた。
銃を持っているのは三人。
煙草の男も、上着の内側に何か隠している。
たぶん拳銃。
「さーて」
私は小さく息を吐いた。
「お仕事、お仕事」
路地へ足を踏み出す。
わざと靴音を立てた。
男の一人がこちらを向く。
「誰だ」
「こんばんはー」
私は笑顔で手を上げた。
「こんな時間に、そんな怪しいもの持って何してるの?」
「ガキ?」
「ガキじゃないよ。十六歳」
「十分ガキだろ」
「えー。傷つくなぁ」
話している間にも、男たちの視線と体の動きを見る。
警戒していた男の右肩がわずかに下がった。
銃を抜く。
そう判断した瞬間、私は地面を蹴った。
銃声。
発射よりわずかに早く体をずらす。
弾丸が頬の横を通過し、背後の壁を削った。
「なっ――」
驚く男の懐へ入り込む。
銃口を胸元へ向け、引き金を引いた。
乾いた音が二度響く。
男が声を上げて倒れた。
「殺してないから安心してね!」
残りの男たちが一斉に動く。
二人が銃を抜き、一人が後ろへ下がった。
銃口の向き。
指の動き。
肩の緊張。
撃たれる場所は見れば分かる。
私は左右に体を振りながら、路地を駆ける。
銃声が連続する。
弾丸が服の端をかすめ、地面を跳ねる。
けれど、一発も当たらない。
一人目の腕を撃ち、銃を落とさせる。
そのまま足を払って転倒させ、肩へ追加で一発。
「ぐあっ!」
「はい、一人追加!」
「化け物か、こいつ!」
「女の子に化け物って失礼じゃない?」
振り向きざまに発砲。
三人目の太腿へ非致死弾が命中する。
男の姿勢が崩れる。
私は距離を詰め、拳銃を持つ手首を蹴り上げた。
銃が宙を舞う。
男の腹部へ二発。
倒れたところで、すぐに銃を遠くへ蹴り飛ばした。
最後の一人が逃げようとする。
「おっと」
私は黒いケースを飛び越え、その背中を追う。
男が振り返り、上着の内側へ手を入れた。
やっぱり銃。
でも遅い。
私は男の腕をつかみ、その勢いを利用して壁へ押しつけた。
「ぐっ!」
「危ないもの出しちゃ駄目だよ」
後ろから膝裏を蹴る。
男が崩れたところで腕をひねり、拳銃を奪う。
最後に背中へ非致死弾を一発。
男はうめき声を上げ、その場に倒れた。
静寂。
少し遅れて、遠くを走る車の音が耳に戻ってくる。
「はい、終了」
私は拳銃を下ろした。
倒れた男たちの状態を一人ずつ確認する。
全員、息はある。
一番最初に撃った男は、胸元を押さえて苦しそうにしていた。
「痛い?」
「て、めぇ……」
「痛いよね。でも、生きてるから大丈夫」
「ふざけるな……」
「命は大事にしないと」
私は簡単な応急処置を行い、男たちを拘束した。
通信機へ手を当てる。
「先生、終わったよ。全員生きてる」
『こちらでも確認した。怪我は?』
「なしなし。今日も絶好調」
『そうか。後処理はこちらで行う。早く戻りなさい』
「はーい」
拳銃を鞄へ戻す。
振り返ると、路地には弾痕が残っていた。
これも明日の朝には、何か別の理由で片づけられるのだろう。
事故。
工事。
ガス漏れ。
理由は何でもいい。
街の人たちは、今夜ここで銃撃があったことを知らない。
知らないまま、明日も普通に道を歩く。
それでいい。
そのために、私たちはいる。
私は路地を離れ、喫茶リコリコへ戻るため夜道を歩き始めた。
任務が終わったあとの街は静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、人通りが少ない。
街灯の明かりが、一定の間隔で歩道を照らしている。
少し冷えた風が吹き、白い髪を揺らした。
「今日も一日、よく働きましたー」
誰に言うでもなく呟く。
頭の中に、昼間の少年の顔が浮かんだ。
パフェを食べたとき、一瞬だけ見せたうれしそうな表情。
甘いものが好きなのに、素直に認めないところ。
真面目そうなのに、冗談もツッコミもできるところ。
「また来るって言ってたもんね」
夜の道で、一人笑う。
次に来たときは名前を聞こう。
それから、ほかの甘いものもすすめてみよう。
ミズキも、あの少年のことを少し気に入っていたように見えた。
本人は否定するかもしれないけれど。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
不意に、背後から視線を感じた。
「……ん?」
私は足を止めなかった。
顔も動かさず、ショーウィンドウに映る背後の景色を見る。
誰もいない。
数十メートル先に街灯。
道の端に停められた車。
閉まった店のシャッター。
人影は見当たらない。
気のせいかな。
私は歩く速度を少しだけ落とした。
耳を澄ます。
自分の足音。
風が木の葉を揺らす音。
遠くで走る車。
その間に、別の足音が混じっている気がした。
一定の距離を保つような、かすかな音。
私は次の角を曲がった。
曲がってすぐに歩調を速める。
数歩進んだところで、今度は突然足を止めた。
後ろから誰かが現れる様子はない。
足音も止まった。
私は振り返った。
誰もいない。
暗い道が続いているだけだ。
「……誰かいる?」
返事はない。
私は来た道を少し戻った。
路地。
自動販売機の陰。
停められた車の隙間。
人が隠れられそうな場所を一つずつ確認する。
けれど、誰の姿も見つけられなかった。
気配も消えている。
「うーん」
私は腰に手を当て、首を傾げた。
任務のあとだから、少し神経が敏感になっているのかもしれない。
さっきまで銃を持った男たちを相手にしていた。
無意識に周囲を警戒し続けているのだろう。
「気のせい、かな」
そう呟き、再び歩き始める。
念のため、しばらくは周囲の音に注意を向けていた。
歩く速度を変える。
道を一本変える。
コンビニの明るい窓に映る背後を確認する。
それでも、誰かにつけられている証拠はなかった。
人影も、足音もない。
やっぱり気のせいだ。
「疲れてるのかも」
私は両腕を上へ伸ばした。
「帰ったら何か食べよーっと」
気持ちを切り替え、喫茶リコリコへの道を進む。
街灯の下を通り過ぎる。
その光の外側。
建物と建物の狭い隙間に、黒い影が静かに立っていた。
街灯の光は届かない。
顔も、服装も見えない。
ただ、その人物だけが、遠ざかっていく私の背中を見つめていた。
私が一度だけ振り返る。
影はすぐに建物の奥へ消えた。
そこに誰かがいたことに、私は気づかない。
夜の街には再び、何事もなかったかのような静けさが戻る。
私は少しだけ歩調を弾ませた。
明日もきっと、いつもと同じ一日が来る。
先生が店を開け、ミズキが文句を言い、私は看板娘としてお客さんを迎える。
もしかしたら、昼間の少年がまた甘いものを食べに来るかもしれない。
そんな小さな期待を胸に、私は夜道を歩いていった。
背後に残った見えない視線の意味を、まだ何も知らないまま。