君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第一話 甘いものと、見えない視線

 午後三時。

 

 喫茶リコリコの店内には、ゆっくりとした時間が流れていた。

 

 昼の忙しさはすっかり過ぎて、夕方の客が来るにはまだ少し早い。窓から差し込む陽射しも、真昼の鋭さを失っている。木目の床に落ちた光が、風に揺れる植木の葉に合わせて、静かに形を変えていた。

 

 店内に客の姿はない。

 

 聞こえるのは、カウンターの向こうで先生がカップを並べる小さな音と、ミズキがページをめくる音くらいだ。

 

「ひまだねぇ」

 

 私はカウンターに両肘をつき、頬杖をついた。

 

 目の前には、きれいに磨かれたテーブル。椅子はすべて整った位置に収まり、砂糖壺もメニュー表も完璧に並べられている。

 

 やることがない。

 

 こういう時間は嫌いじゃない。

 

 だけど、静かすぎるのはちょっとだけ落ち着かない。

 

「暇なら掃除でもしたら?」

 

 窓際の席から、ミズキが雑誌越しに言った。

 

 赤い縁の眼鏡の奥で、こちらを見る目が少しだけ細くなる。

 

「もうしたよー」

 

「本当に?」

 

「したした。すっごくした」

 

「何を?」

 

「心の掃除」

 

「床をやりなさいよ」

 

 ミズキが呆れたように雑誌を閉じる。

 

「床もきれいじゃん」

 

「それ、朝に私が掃除したからでしょ」

 

「じゃあミズキの仕事を尊重して、余計なことはしない方向で」

 

「都合のいいこと言ってんじゃないわよ」

 

 私は笑いながら体を起こした。

 

 カウンターの奥では、先生が穏やかな表情のままグラスを拭いている。こちらの会話を聞いているはずなのに、口を挟む気はないらしい。

 

「先生も、千束に何か言ってやってよ」

 

 ミズキが助けを求めるように声をかけた。

 

 先生は手を止めることなく答える。

 

「千束」

 

「はーい」

 

「お客様が来たときに、元気よく迎えられるようにしておきなさい」

 

「もちろん!」

 

「それだけ?」

 

 ミズキが不満そうな声を上げる。

 

「よし。じゃあお客さんが来るまで、歓迎の練習をしよう」

 

 私は入口に向き直り、胸の前で手を組んだ。

 

「いらっしゃいませー! 喫茶リコリコへようこそ! 本日の看板娘、錦木千束でーす!」

 

「毎日自称してるじゃない」

 

「自称じゃないよ。事実だよ」

 

「誰が認定したのよ」

 

「私」

 

「やっぱり自称じゃない」

 

 ミズキの冷静な指摘に、私は両手を広げた。

 

「本人が認めるところから、すべては始まるんだよ」

 

「何か良いこと言った風にまとめないで」

 

 そんなやり取りをしていると、店の扉に取りつけられたベルが鳴った。

 

 からん、と明るい音が店内に響く。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 私は反射的に声を上げた。

 

 扉を開けたのは、見覚えのない少年だった。

 

 年齢は私より一つか二つ上くらいだろうか。

 

 背はそれほど高くない。ただ、姿勢がいいからか、実際より少し大きく見える。落ち着いた色の服を着ていて、髪もきちんと整えられていた。

 

 派手なところはない。

 

 けれど、妙に大人びて見える少年だった。

 

 入口で一度だけ店内を見渡したあと、私と目が合う。

 

「一名ですが、大丈夫ですか?」

 

 丁寧な口調だった。

 

「もちろん! 貸し切り状態ですよー」

 

「それは運がいいですね」

 

 少年はそう言って、わずかに笑った。

 

 声も落ち着いている。

 

 緊張している様子はなく、かといって馴れ馴れしくもない。初めての店に入ってきた人にしては自然な振る舞いだった。

 

「お好きな席へどうぞ」

 

「では、こちらで」

 

 少年は窓際ではなく、カウンターに近い二人掛けの席を選んだ。

 

 私は水とおしぼり、それからメニュー表を持っていく。

 

「ご注文が決まりましたら呼んでください。ちなみにおすすめは、私です」

 

「メニューに載っていませんが」

 

「裏メニューなので」

 

「注文すると、何が出てくるんですか?」

 

「楽しい時間」

 

「ずいぶん曖昧な商品ですね」

 

 間を置かずに返されて、私は思わず目を丸くした。

 

 真面目そうに見えたけれど、ちゃんと冗談が通じるらしい。

 

「お兄さん、やるね」

 

「ありがとうございます。一応、褒め言葉として受け取っておきます」

 

「素直でよろしい」

 

 少年は小さく笑い、メニュー表を開いた。

 

 その様子を見ながら、私はカウンターへ戻る。

 

「珍しいわね」

 

 ミズキが声を潜めて言った。

 

「何が?」

 

「千束のくだらない冗談に、初対面であれだけ普通に返せる客」

 

「くだらなくないし」

 

「そこ?」

 

 私は肩をすくめ、少年の様子をちらりと見る。

 

 メニュー表を真剣に眺めていた。

 

 食事のページを一度開き、飲み物のページへ移る。それからデザートのページへ進んだところで、視線が止まった。

 

 目の動きがわずかに遅くなる。

 

 パフェ。

 

 ケーキ。

 

 パンケーキ。

 

 クリームあんみつ。

 

 私には分かった。

 

 あれは迷っている顔だ。

 

 食べたい。

 

 でも、初めて入った店で甘いものを頼むのを少し気にしている。

 

 そんなところだろう。

 

 もちろん、本人が何も言っていない以上、ただの予想だけど。

 

 少年は一度デザートのページを閉じた。

 

 そして食事のページを開く。

 

 数秒後、またデザートのページに戻った。

 

「ふふっ」

 

 思わず笑いが漏れた。

 

「何よ」

 

「いや、甘いものが好きなのかなって」

 

 私は少年の方を向き、大きな声で呼びかける。

 

「お客さーん!」

 

 少年が顔を上げた。

 

「甘いもの、好きでしょ?」

 

「……なぜそう思ったんですか?」

 

「デザートのページを三回見たから」

 

「見ていたんですか」

 

「看板娘なので、お客さんのことはしっかり見てます」

 

「少し落ち着かない店ですね」

 

「安心してください。悪用はしません」

 

「悪用できるほどの情報でもありませんよ」

 

 少年は困ったように笑った。

 

 否定はしない。

 

 やっぱり好きらしい。

 

 私はそのままテーブルへ向かった。

 

「おすすめはチョコレートパフェ。すっごく甘いよ」

 

「甘いものを食べに来たとは言っていませんが」

 

「じゃあ、何を食べに来たの?」

 

「まだ決めていません」

 

「でも甘いものは好き」

 

「それも認めた覚えはありません」

 

「嫌い?」

 

 私が尋ねると、少年は少しだけ黙った。

 

 視線がメニューのパフェの写真に落ちる。

 

「……嫌いではありません」

 

「好きなんじゃん」

 

「かなり広い意味で言えば、そうかもしれません」

 

「めちゃくちゃ好きな人の言い方だ」

 

「勝手に評価を上げないでください」

 

「じゃあ、チョコレートパフェ一つ!」

 

「まだ注文していません」

 

「違うの?」

 

 私が首を傾げると、少年はメニュー表を閉じた。

 

 少しだけ諦めたような顔をしている。

 

「では、それをお願いします」

 

「はーい! チョコレートパフェ一つ!」

 

 注文をカウンターへ伝えると、ミズキがにやにやしながらこちらを見ていた。

 

「押し売りじゃないの?」

 

「違うよ。背中を押したの」

 

「本人が満足してるならいいけど」

 

 少年はこちらの会話が聞こえていたらしい。

 

「今のところ、少し不安になっています」

 

「大丈夫! 味は保証するよ!」

 

「接客方法について不安なんですが」

 

「それは保証できないかな」

 

「正直ですね」

 

 少年が笑う。

 

 それは最初に見せたものより、少しだけ自然な笑い方に見えた。

 

 先生が作ってくれたパフェを、私は慎重に少年のテーブルへ運んだ。

 

 透明なグラスの中には、チョコレートアイスとバニラアイス、スポンジ、コーンフレークが層になっている。上にはたっぷりの生クリームとチョコレートソース。最後に赤いさくらんぼが飾られていた。

 

「お待たせしました! チョコレートパフェです!」

 

「ありがとうございます」

 

 少年の視線が、パフェへ向く。

 

 大きく表情が変わったわけではない。

 

 けれど、目が少しだけ明るくなった。

 

 私は見逃さなかった。

 

「うれしそう」

 

「そう見えますか?」

 

「見える見える。今、十七歳くらい若返った」

 

「それでは、普段は何歳に見えているんですか」

 

「三十四歳」

 

「倍ですね」

 

「落ち着いてるから」

 

「褒められている気がしません」

 

「じゃあ三十三歳」

 

「一歳しか変わっていませんよ」

 

 少年はスプーンを手に取る。

 

 そして、生クリームとチョコレートアイスを少しずつすくい、口へ運んだ。

 

 食べた瞬間、目がわずかに細くなる。

 

 口元の力も少しだけ抜けた。

 

 大げさな反応ではない。

 

 それでも、気に入ったことはすぐに分かった。

 

「おいしい?」

 

「はい。かなり」

 

「でしょー?」

 

「まるで自分で作ったような反応ですね」

 

「リコリコのものは、みんな私のものだから」

 

「店長の前で、なかなか大胆な発言ですね」

 

 少年がカウンターの奥にいる先生を見る。

 

 先生は穏やかな笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。

 

「黙認された」

 

「呆れられているのでは?」

 

「先生はそんなこと思わないよ。ね、先生?」

 

「千束」

 

「はい」

 

「お客様の邪魔をしないように」

 

「ほら、否定されなかった」

 

「注意された部分は無視するんですか」

 

 少年のツッコミに、ミズキが吹き出した。

 

「君、なかなか言うじゃない」

 

 ミズキは雑誌を置いて立ち上がり、そのまま少年の近くの椅子へ腰かけた。

 

「この子、放っておくとずっと喋るわよ」

 

「知っています」

 

「まだ来て十分も経っていないよね?」

 

「十分あれば、かなり分かります」

 

「お兄さん、私のこと分かった気になってる?」

 

 私は少年の向かいの席へ座った。

 

「勤務中でしょ、あんた」

 

 ミズキに言われたけれど、今はほかにお客さんもいない。

 

「接客中ですー」

 

「座って?」

 

「親しみやすい接客」

 

「ただサボりたいだけでしょ」

 

「ミズキは疑り深いなぁ。そんなんじゃ良い出会いを逃すよ」

 

「今それ関係ないでしょ!」

 

 ミズキの声が店内に響く。

 

 少年はスプーンを止め、私とミズキを交互に見た。

 

「もしかして、いつもこのような感じなんですか?」

 

「そうよ。この子が一日中うるさくて、私は苦労してるの」

 

「えー。ミズキだって一日中うるさいじゃん。結婚がどうとか、出会いがどうとか」

 

「お客様の前で余計なことを言うな!」

 

 ミズキが私の頬を軽く引っ張る。

 

「いひゃい、いひゃい」

 

「痛くしてないわよ」

 

「暴力反対ー」

 

「普段から人にちょっかいかけてるあんたが言うな」

 

 私が頬を押さえながら少年を見ると、少年は少し困ったように笑っていた。

 

「助けてよ、お客さん」

 

「店員同士の問題に、お客を巻き込まないでください」

 

「冷たい!」

 

「それに、今回はあなたが悪いと思います」

 

「正論で刺された!」

 

 胸を押さえて椅子の背にもたれる。

 

 少年は私の大げさな反応を見て、声を出さずに笑った。

 

「ほら、笑った」

 

「笑っていません」

 

「笑ったよ」

 

「気のせいです」

 

「笑ったってば。ミズキも見たよね?」

 

「見たわ。あんたが馬鹿なことして笑われてた」

 

「笑わせたの!」

 

「結果は同じでしょ」

 

 私は姿勢を戻し、少年をじっと見る。

 

「でも、よかった」

 

「何がですか?」

 

「入ってきたときより、ちょっと楽しそうだから」

 

 少年の手が一瞬だけ止まった。

 

 その変化はほんのわずかだった。

 

 けれど、すぐにまたいつもの落ち着いた表情に戻る。

 

「そう見えるのであれば、この店が良い店だからでしょう」

 

「おお。さらっと良いこと言う」

 

「パフェもおいしいですし」

 

「そっちが本命?」

 

「否定はしません」

 

「やっぱり甘いもの好きなんじゃん」

 

「嫌いではない、と言いました」

 

「かなり広い意味で好きなんでしょ?」

 

 さっきの言葉を返すと、少年はわずかに目を細めた。

 

「よく覚えていますね」

 

「記憶力いいからね」

 

「自分に都合の良いことだけでしょ」

 

 ミズキが口を挟む。

 

「そんなことないよ。この前ミズキが酔っ払って――」

 

「それ以上言ったら追い出すわよ」

 

「ここ私のお店でもあるんだけど」

 

「あんたの店じゃないでしょ」

 

「看板娘だから、半分くらいは私のもの」

 

「さっきから所有権を主張するわね」

 

 少年はパフェを食べ進めながら、私たちのやり取りを楽しそうに眺めていた。

 

 会話の間に無理がない。

 

 私が話を振れば、自然に返してくる。ミズキの言葉にも反応し、必要なら冗談を混ぜる。

 

 話すのが得意なのだろう。

 

 初対面の店員二人に囲まれても、気まずそうにすることはない。かといって、自分から必要以上に前へ出てくることもない。

 

 相手に合わせるのが上手い。

 

「学校帰り?」

 

 私は何気なく尋ねた。

 

 少年はスプーンを置き、水を一口飲む。

 

「そのようなものです」

 

「そのようなもの?」

 

「少し用事がありまして」

 

「ふーん」

 

 はっきりした答えではなかった。

 

 ただ、隠しているというより、細かく説明するほどのことでもないといった様子だった。

 

 だから私も、それ以上は聞かない。

 

「この辺にはよく来るの?」

 

「いえ。今日はたまたまです」

 

「へえ。じゃあ、うちを選んだのは運命だ」

 

「ずいぶん大きく出ますね」

 

「良い出会いは大事にしないと」

 

 私が笑うと、ミズキが隣で大きくため息をついた。

 

「本当に、誰にでも距離が近いわね」

 

「いいじゃん。せっかく会ったんだから」

 

「相手が困るでしょうが」

 

「困ってる?」

 

 少年へ尋ねる。

 

 少年は少し考えるように目を伏せたあと、こちらを見た。

 

「今のところは、楽しませてもらっています」

 

「だって!」

 

「今のところ、って言ってたでしょ」

 

「そこは聞こえなかった」

 

「都合良すぎるわ」

 

 パフェは少しずつ減っていく。

 

 少年は急いで食べることもなく、一口ずつ味わっていた。

 

 最後に残ったさくらんぼを見つめ、少しだけ迷ってから口へ運ぶ。

 

「ごちそうさまでした」

 

「きれいに食べたね」

 

「食べ物を残すのは好きではありませんので」

 

「えらい!」

 

「子供扱いしないでください」

 

「だって私より年下に見えるし」

 

「おそらく、あなたよりは年上だと思います」

 

「えっ」

 

 私は少年の顔を見直した。

 

 落ち着いているとは思ったけれど、見た目だけなら近い年齢だ。

 

「何歳?」

 

「年齢まで聞くんですか?」

 

「いいじゃん。私は十六歳」

 

「聞いていません」

 

「先に教えたんだから、そっちも教えるのが礼儀でしょ」

 

「それは一方的に公開しただけです」

 

「むむ」

 

 正しい。

 

 少年は私の反応を見て、少しだけ笑った。

 

「あなたより、一つ上です」

 

「十七歳?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「年齢について嘘をつく理由がありません」

 

「三十四歳じゃなかったんだ」

 

「まだ言いますか」

 

「高校生には見えないわね」

 

 ミズキも少年を見ながら言った。

 

「よく言われます」

 

「大人っぽいって?」

 

「実年齢より上に見える、と」

 

「やっぱり三十四歳」

 

「そこまで上ではありません」

 

 すぐに返され、私は笑った。

 

 楽しい。

 

 特別なことを話しているわけではない。

 

 名前も、どこに住んでいるのかも知らない。学校のことだって聞いていない。

 

 それでも、不思議と会話が続いた。

 

 少年は何かを誇ることもなく、自分の話ばかりすることもない。

 

 私やミズキの話をよく聞き、冗談には冗談で返す。

 

 たまに真面目な顔で鋭いツッコミを入れてくるのも面白かった。

 

「そうだ」

 

 私は立ち上がり、伝票を手に取った。

 

「パフェ、おいしかった?」

 

「はい」

 

「また食べたい?」

 

「そうですね」

 

「じゃあ、また来る?」

 

 少年は空になったパフェグラスを見てから、店内を見渡した。

 

 カウンターの向こうにいる先生。

 

 近くで腕を組んでいるミズキ。

 

 そして私。

 

「機会があれば」

 

「それ、来ない人の言い方じゃん」

 

「では、また来ます」

 

「本当?」

 

「おそらく」

 

「おそらく取って」

 

「また来ます」

 

「よろしい!」

 

 私は満足してうなずいた。

 

 少年も小さく笑う。

 

 会計を済ませるため、少年はレジ前へ移動した。

 

 先生が金額を告げると、少年は財布からきっちり料金を出した。

 

「ありがとうございました!」

 

 私が声をかける。

 

 少年は扉の前で振り返った。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

「次は違う甘いものも食べてね」

 

「甘いものを食べる前提なんですね」

 

「好きなんでしょ?」

 

「嫌いではありません」

 

「はいはい。かなり広い意味でね」

 

 少年は少しだけ肩をすくめた。

 

「では、また」

 

「またねー!」

 

 扉が開き、ベルが鳴る。

 

 少年の姿は、午後の柔らかな光の中へ消えていった。

 

 扉が閉まったあとも、私はしばらくその方を見ていた。

 

「気に入ったの?」

 

 背後からミズキの声が飛んでくる。

 

「ん?」

 

「今のお客さん」

 

「面白かったね」

 

「そうね。あんたの相手も普通にできてたし」

 

「私の相手をするのが大変みたいな言い方だなぁ」

 

「実際大変なのよ」

 

 私は空になったパフェグラスを片づける。

 

 さくらんぼの軸だけが、皿の端にきれいに置かれていた。

 

「また来るかな」

 

「来るって言ってたじゃない」

 

「おそらく、って最初は言ってたから」

 

「最後には言い直してたでしょ」

 

「だよね」

 

 名前を聞くのを忘れた。

 

 まあ、また来るなら、そのとき聞けばいい。

 

 次はどのデザートをおすすめしよう。

 

 いちごパフェもいいし、抹茶のケーキもいい。

 

 甘いものが好きなのを隠したがっているみたいだから、また少しからかうのも楽しそうだ。

 

「千束」

 

 先生に呼ばれ、私は顔を上げた。

 

「はい?」

 

「お客様が帰ったあとは、テーブルを片づけなさい」

 

「あ」

 

「ずっとグラス持ったまま突っ立ってたわよ」

 

 ミズキに笑われる。

 

「今やろうと思ってたの!」

 

「考え事してたんでしょ」

 

「次に来たとき、何を食べさせるか考えてた」

 

「やっぱり気に入ってるじゃない」

 

「お客さんを大事にするのは、看板娘の仕事ですー」

 

 私はそう言って、グラスをカウンターへ運んだ。

 

 窓の外には、もう少年の姿はなかった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 昼間の穏やかな店内とは違い、街は冷たい空気に包まれていた。

 

 私は建物の陰に身を寄せ、通りの向こう側を確認する。

 

 繁華街から少し離れた、人気の少ない一角。

 

 表通りにはまだ車が走っているが、一本裏へ入れば人の姿はほとんどない。

 

 今夜の標的は、違法な武器を受け渡そうとしている男たちだった。

 

 事前の情報では三人。

 

 けれど、現場にいるのは四人。

 

 一人増えている。

 

『千束、状況は?』

 

 耳元の通信機から声が届く。

 

「問題なし。四人いるけど、たぶんすぐ終わるよ」

 

『一人多い。無理はするな』

 

「先生は心配性だなぁ」

 

 私は小さく笑い、腰の鞄へ手を伸ばした。

 

 愛用の拳銃を取り出す。

 

 弾倉を確認する。

 

 もちろん、入っているのは非致死弾だ。

 

 建物の隙間から、男たちの様子を観察する。

 

 一人は周囲を警戒。

 

 二人は黒いケースを挟んで話している。

 

 残る一人は、壁にもたれて煙草を吸っていた。

 

 銃を持っているのは三人。

 

 煙草の男も、上着の内側に何か隠している。

 

 たぶん拳銃。

 

「さーて」

 

 私は小さく息を吐いた。

 

「お仕事、お仕事」

 

 路地へ足を踏み出す。

 

 わざと靴音を立てた。

 

 男の一人がこちらを向く。

 

「誰だ」

 

「こんばんはー」

 

 私は笑顔で手を上げた。

 

「こんな時間に、そんな怪しいもの持って何してるの?」

 

「ガキ?」

 

「ガキじゃないよ。十六歳」

 

「十分ガキだろ」

 

「えー。傷つくなぁ」

 

 話している間にも、男たちの視線と体の動きを見る。

 

 警戒していた男の右肩がわずかに下がった。

 

 銃を抜く。

 

 そう判断した瞬間、私は地面を蹴った。

 

 銃声。

 

 発射よりわずかに早く体をずらす。

 

 弾丸が頬の横を通過し、背後の壁を削った。

 

「なっ――」

 

 驚く男の懐へ入り込む。

 

 銃口を胸元へ向け、引き金を引いた。

 

 乾いた音が二度響く。

 

 男が声を上げて倒れた。

 

「殺してないから安心してね!」

 

 残りの男たちが一斉に動く。

 

 二人が銃を抜き、一人が後ろへ下がった。

 

 銃口の向き。

 

 指の動き。

 

 肩の緊張。

 

 撃たれる場所は見れば分かる。

 

 私は左右に体を振りながら、路地を駆ける。

 

 銃声が連続する。

 

 弾丸が服の端をかすめ、地面を跳ねる。

 

 けれど、一発も当たらない。

 

 一人目の腕を撃ち、銃を落とさせる。

 

 そのまま足を払って転倒させ、肩へ追加で一発。

 

「ぐあっ!」

 

「はい、一人追加!」

 

「化け物か、こいつ!」

 

「女の子に化け物って失礼じゃない?」

 

 振り向きざまに発砲。

 

 三人目の太腿へ非致死弾が命中する。

 

 男の姿勢が崩れる。

 

 私は距離を詰め、拳銃を持つ手首を蹴り上げた。

 

 銃が宙を舞う。

 

 男の腹部へ二発。

 

 倒れたところで、すぐに銃を遠くへ蹴り飛ばした。

 

 最後の一人が逃げようとする。

 

「おっと」

 

 私は黒いケースを飛び越え、その背中を追う。

 

 男が振り返り、上着の内側へ手を入れた。

 

 やっぱり銃。

 

 でも遅い。

 

 私は男の腕をつかみ、その勢いを利用して壁へ押しつけた。

 

「ぐっ!」

 

「危ないもの出しちゃ駄目だよ」

 

 後ろから膝裏を蹴る。

 

 男が崩れたところで腕をひねり、拳銃を奪う。

 

 最後に背中へ非致死弾を一発。

 

 男はうめき声を上げ、その場に倒れた。

 

 静寂。

 

 少し遅れて、遠くを走る車の音が耳に戻ってくる。

 

「はい、終了」

 

 私は拳銃を下ろした。

 

 倒れた男たちの状態を一人ずつ確認する。

 

 全員、息はある。

 

 一番最初に撃った男は、胸元を押さえて苦しそうにしていた。

 

「痛い?」

 

「て、めぇ……」

 

「痛いよね。でも、生きてるから大丈夫」

 

「ふざけるな……」

 

「命は大事にしないと」

 

 私は簡単な応急処置を行い、男たちを拘束した。

 

 通信機へ手を当てる。

 

「先生、終わったよ。全員生きてる」

 

『こちらでも確認した。怪我は?』

 

「なしなし。今日も絶好調」

 

『そうか。後処理はこちらで行う。早く戻りなさい』

 

「はーい」

 

 拳銃を鞄へ戻す。

 

 振り返ると、路地には弾痕が残っていた。

 

 これも明日の朝には、何か別の理由で片づけられるのだろう。

 

 事故。

 

 工事。

 

 ガス漏れ。

 

 理由は何でもいい。

 

 街の人たちは、今夜ここで銃撃があったことを知らない。

 

 知らないまま、明日も普通に道を歩く。

 

 それでいい。

 

 そのために、私たちはいる。

 

 私は路地を離れ、喫茶リコリコへ戻るため夜道を歩き始めた。

 

 任務が終わったあとの街は静かだった。

 

 昼間の喧騒が嘘のように、人通りが少ない。

 

 街灯の明かりが、一定の間隔で歩道を照らしている。

 

 少し冷えた風が吹き、白い髪を揺らした。

 

「今日も一日、よく働きましたー」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

 頭の中に、昼間の少年の顔が浮かんだ。

 

 パフェを食べたとき、一瞬だけ見せたうれしそうな表情。

 

 甘いものが好きなのに、素直に認めないところ。

 

 真面目そうなのに、冗談もツッコミもできるところ。

 

「また来るって言ってたもんね」

 

 夜の道で、一人笑う。

 

 次に来たときは名前を聞こう。

 

 それから、ほかの甘いものもすすめてみよう。

 

 ミズキも、あの少年のことを少し気に入っていたように見えた。

 

 本人は否定するかもしれないけれど。

 

 そんなことを考えながら歩いていたときだった。

 

 不意に、背後から視線を感じた。

 

「……ん?」

 

 私は足を止めなかった。

 

 顔も動かさず、ショーウィンドウに映る背後の景色を見る。

 

 誰もいない。

 

 数十メートル先に街灯。

 

 道の端に停められた車。

 

 閉まった店のシャッター。

 

 人影は見当たらない。

 

 気のせいかな。

 

 私は歩く速度を少しだけ落とした。

 

 耳を澄ます。

 

 自分の足音。

 

 風が木の葉を揺らす音。

 

 遠くで走る車。

 

 その間に、別の足音が混じっている気がした。

 

 一定の距離を保つような、かすかな音。

 

 私は次の角を曲がった。

 

 曲がってすぐに歩調を速める。

 

 数歩進んだところで、今度は突然足を止めた。

 

 後ろから誰かが現れる様子はない。

 

 足音も止まった。

 

 私は振り返った。

 

 誰もいない。

 

 暗い道が続いているだけだ。

 

「……誰かいる?」

 

 返事はない。

 

 私は来た道を少し戻った。

 

 路地。

 

 自動販売機の陰。

 

 停められた車の隙間。

 

 人が隠れられそうな場所を一つずつ確認する。

 

 けれど、誰の姿も見つけられなかった。

 

 気配も消えている。

 

「うーん」

 

 私は腰に手を当て、首を傾げた。

 

 任務のあとだから、少し神経が敏感になっているのかもしれない。

 

 さっきまで銃を持った男たちを相手にしていた。

 

 無意識に周囲を警戒し続けているのだろう。

 

「気のせい、かな」

 

 そう呟き、再び歩き始める。

 

 念のため、しばらくは周囲の音に注意を向けていた。

 

 歩く速度を変える。

 

 道を一本変える。

 

 コンビニの明るい窓に映る背後を確認する。

 

 それでも、誰かにつけられている証拠はなかった。

 

 人影も、足音もない。

 

 やっぱり気のせいだ。

 

「疲れてるのかも」

 

 私は両腕を上へ伸ばした。

 

「帰ったら何か食べよーっと」

 

 気持ちを切り替え、喫茶リコリコへの道を進む。

 

 街灯の下を通り過ぎる。

 

 その光の外側。

 

 建物と建物の狭い隙間に、黒い影が静かに立っていた。

 

 街灯の光は届かない。

 

 顔も、服装も見えない。

 

 ただ、その人物だけが、遠ざかっていく私の背中を見つめていた。

 

 私が一度だけ振り返る。

 

 影はすぐに建物の奥へ消えた。

 

 そこに誰かがいたことに、私は気づかない。

 

 夜の街には再び、何事もなかったかのような静けさが戻る。

 

 私は少しだけ歩調を弾ませた。

 

 明日もきっと、いつもと同じ一日が来る。

 

 先生が店を開け、ミズキが文句を言い、私は看板娘としてお客さんを迎える。

 

 もしかしたら、昼間の少年がまた甘いものを食べに来るかもしれない。

 

 そんな小さな期待を胸に、私は夜道を歩いていった。

 

 背後に残った見えない視線の意味を、まだ何も知らないまま。

 

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