君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十話 定休日と、お揃いのキーホルダー

 リコリコの営業予定表を見て、押村奏斗が翌日の定休日に気づいたのは、昼の混雑が始まる少し前だった。

 

 カウンター脇の壁に、小さなカレンダーが掛けられている。

 

 営業日には何も書かれていない。

 

 定休日には、千束が描いたらしい赤い丸と、休みを表す大きな文字。

 

 その下には、なぜか笑顔の猫の絵まで添えられていた。

 

「……明日は休みですか」

 

 奏斗が呟くと、カウンターの中でコーヒーカップを並べていたミカが顔を上げた。

 

「ああ」

 

「聞いていませんでした」

 

「勤務予定には入っていなかったはずだ」

 

「店の予定として認識していませんでした」

 

「奏斗は店員になって日が浅いからな」

 

 ミカは穏やかに答えた。

 

 奏斗は改めてカレンダーを見る。

 

 定休日。

 

 つまり、明日は千束が店にいない。

 

 通常、営業日であれば千束の居場所はほぼ固定されている。

 

 朝から夕方まではリコリコ。

 

 夜に任務が入れば、そのまま奏斗が同行する。

 

 任務がない日は、閉店後にセーフハウスへ送り届ける。

 

 だが、定休日は違う。

 

 千束がどこへ行くのか分からなければ、護衛の予定が立てられない。

 

 上層部から渡された明日の任務予定を思い出す。

 

 千束の夜間任務はなし。

 

 奏斗自身にも、別任務は入っていない。

 

 偶然とは考えにくかった。

 

 千束が連日の襲撃を受けている。

 

 偽の任務情報によって倉庫へ誘導され、敵に拘束されたばかりでもある。

 

 ミカがDA側からの任務を断っている可能性が高い。

 

 少なくとも、危険性の低い任務まで含め、しばらく千束を休ませようとしているのだろう。

 

 それ自体に異論はない。

 

 しかし、休みだからといって敵も活動を休止するわけではない。

 

「先生、奏斗。何話してるの?」

 

 トレイを持った千束が、二人の間へ顔を出した。

 

「明日が定休日だと確認していました」

 

「そうだよ」

 

「先に教えてください」

 

「カレンダーに書いてあるじゃん」

 

「今見ました」

 

「店員なら予定くらい確認しないとねぇ」

 

 千束が得意そうに言う。

 

「勤務初日に教えるべき内容では?」

 

「自分で気づくのも成長だよ」

 

「単に忘れていただけでしょう」

 

「違うよ。自主性を見てたの」

 

「今考えましたね」

 

「何で分かるの?」

 

「分かりやすいので」

 

 千束が口を尖らせる。

 

「最近、奏斗のツッコミが速くなってる」

 

「千束との会話へ適応した結果です」

 

「良い成長!」

 

「まだ良いとは言っていません」

 

 入口のベルが鳴った。

 

 昼食を取りに来た会社員が二人、店内へ入ってくる。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 千束はすぐに明るい笑顔へ切り替え、客のもとへ向かった。

 

 奏斗はその後ろ姿を見送る。

 

 明日の予定。

 

 早めに確認する必要がある。

 

 しかし、客の前で護衛について直接話すわけにはいかない。

 

 店が落ち着いた時間を待つことにした。

 

     ◇

 

 昼になると、店内はいつものように忙しくなった。

 

 定休日の前日だからか、常連客の姿も多い。

 

「明日休みだったよね?」

 

 年配の女性客が尋ねる。

 

「そうです! 明日はお休みでーす!」

 

 千束が元気よく答える。

 

「千束ちゃんはどこか行くの?」

 

「まだ決めてないです」

 

「せっかくのお休みなのに?」

 

「家でごろごろするのも休みの使い方ですよ」

 

 奏斗が水を置きながら口を挟む。

 

「奏斗君は?」

 

「特に予定はありません」

 

「じゃあ二人でどこか行けば?」

 

 女性客が何気なく言った。

 

 奏斗の手が一瞬止まる。

 

 千束がこちらを見る。

 

「ほら、奏斗。お誘いだって」

 

「誰からですか?」

 

「お客さんから」

 

「私たちへ外出を勧めただけです」

 

「二人で行けって」

 

「そのようですね」

 

「行く?」

 

 千束は楽しそうに言う。

 

 奏斗は客の前で護衛の話をするわけにもいかず、曖昧に答えた。

 

「予定を確認してからです」

 

「真面目だねぇ」

 

 女性客が笑う。

 

「予定ないって言ってたのに」

 

「急な用事が入る可能性があります」

 

「女の子との予定より仕事を優先すると、将来困るわよ」

 

「まだ将来を心配される年齢ではありません」

 

「そういう子ほど、あっという間よ」

 

 奏斗は返答に困り、わずかに笑って頭を下げた。

 

「ごゆっくりどうぞ」

 

「逃げた」

 

 千束が小声で言う。

 

「接客へ戻っただけです」

 

「将来困るって」

 

「千束には関係ありません」

 

「奏斗が困ったら面白そう」

 

「助ける気はないのですね」

 

「相談には乗るよ」

 

「信用できません」

 

「ひどいなぁ」

 

 千束は笑いながら別のテーブルへ向かった。

 

 その間も、奏斗は来店者を観察していた。

 

 手。

 

 視線。

 

 服装。

 

 座る位置。

 

 千束を不自然に見る者はいない。

 

 窓の外にも、同じ場所に長く留まる人物は見当たらない。

 

 少なくとも、今は異常なし。

 

 午後二時を過ぎる頃、客足が一度途切れた。

 

 店内に残っていた最後の客も会計を済ませ、扉の向こうへ消える。

 

「ありがとうございましたー!」

 

 千束が手を振る。

 

 奏斗は空いたテーブルの食器を下げた。

 

 ミズキは奥で在庫確認。

 

 ミカは厨房。

 

 話すなら今だ。

 

「千束」

 

「ん?」

 

「明日の予定は決まっていますか?」

 

 奏斗が尋ねた瞬間。

 

 千束が目を見開いた。

 

 明らかに驚いている。

 

「え」

 

「何ですか?」

 

「明日の予定?」

 

「はい」

 

「奏斗が、私の?」

 

「そうですが」

 

 千束は何かを確かめるように奏斗の顔を見る。

 

 そのあと、口元をゆっくりと緩めた。

 

「それって、デートのお誘い?」

 

「違います」

 

 奏斗は即答した。

 

「早い!」

 

「誤解される前に否定しました」

 

「もう少し考えてもよくない?」

 

「事実ではありません」

 

「昨日、また食事に行こうって約束したよね」

 

「機会があれば、と言いました」

 

「私が約束にした」

 

「千束が勝手に確定しただけです」

 

「でも、明日の予定聞いた」

 

「護衛計画を立てるためです」

 

 奏斗が説明すると、千束の笑顔が少しだけ止まる。

 

「……護衛?」

 

「はい」

 

「そっか」

 

 ほんの一瞬だけ、千束の声が落ちたように聞こえた。

 

 だが、すぐにいつもの明るい表情へ戻る。

 

「明日は定休日です。千束の居場所が分からなければ、警戒位置を決められません」

 

「別の監視員がいるんじゃないの?」

 

「通常は遠距離から警戒に当たります。しかし、現在は敵の活動が活発です」

 

「だから奏斗が来る?」

 

「千束が外出するのであれば」

 

「家にいるなら?」

 

「周辺監視で足ります」

 

「奏斗は来ない?」

 

「必要がなければ」

 

 千束は腕を組み、少し悩むような顔をした。

 

「予定はないんだよね」

 

「先ほどもそう言っていました」

 

「奏斗も?」

 

「今のところは」

 

「じゃあ」

 

 千束は顔を上げる。

 

「一緒に遊びに行く?」

 

 奏斗は一瞬、言葉を止めた。

 

「私とですか?」

 

「ほかに誰がいるの?」

 

「護衛の話をしていました」

 

「護衛しながら遊べばいいじゃん」

 

「そのような組み合わせがあるのですか」

 

「今作った」

 

「やはり」

 

「私が一人で出かけたら、奏斗は後ろからついてくるんでしょ?」

 

「状況によります」

 

「じゃあ最初から一緒にいた方が楽じゃない?」

 

「護衛対象と並んで歩くと、警戒範囲が狭まる場合があります」

 

「昨日は一緒に買い物したよ」

 

「店の業務です」

 

「ファミレスも行った」

 

「食事です」

 

「楽しかったって言った」

 

「言いました」

 

「なら明日も一緒でいいじゃん」

 

 理屈としてはかなり強引だった。

 

 だが、護衛の面だけを見れば、一緒に行動する利点はある。

 

 遠距離から監視するより、千束の近くにいられる。

 

 行き先を事前に把握できる。

 

 不測の事態が起きても、すぐに対応できる。

 

「どこへ行くつもりですか?」

 

「まだ決めてない」

 

「それでは警戒計画を立てられません」

 

「だから一緒に決めようよ」

 

「今ですか?」

 

「閉店後!」

 

 千束は楽しそうに言う。

 

「休みの予定を立てるのも楽しみの一つだからね」

 

「遊びに行くことは確定なのですか?」

 

「奏斗が嫌ならやめるけど」

 

 千束は奏斗の顔を覗き込む。

 

「嫌?」

 

 近い。

 

 奏斗はわずかに顔を引いた。

 

「嫌ではありません」

 

「じゃあ決まり!」

 

「護衛としてです」

 

「はいはい」

 

「そこは重要です」

 

「私にとっては、一緒に遊ぶことの方が重要」

 

「目的が違いますね」

 

「結果が同じならいいじゃん」

 

 千束は満足そうに笑い、空いたカップを持って厨房へ向かう。

 

 その背中を見ながら、奏斗は小さく息を吐いた。

 

「デートではありませんからね」

 

「まだ気にしてる!」

 

 振り返った千束が笑う。

 

「念のためです」

 

「照れてる?」

 

「いません」

 

「明日になったら分かるかなぁ」

 

「何がですか?」

 

「デートか護衛か」

 

「護衛です」

 

 千束の笑い声が店内へ響いた。

 

     ◇

 

 閉店後。

 

 店の片づけを終えた奏斗と千束は、窓際のテーブルに並んで座っていた。

 

 テーブルの上には、千束の端末と、観光情報の載った小冊子。

 

 なぜ店にそのような冊子があるのかは分からない。

 

 千束がどこかから持ってきたらしい。

 

「まず、服見たい」

 

「服ですか」

 

「休みだもん」

 

「所有している服では足りないのですか?」

 

「足りるとか足りないとかじゃないの」

 

「では何のために?」

 

「新しいのが欲しいから」

 

「同じでは?」

 

「奏斗には分かんないかぁ」

 

 千束が大げさに首を振る。

 

「理解しようとはしています」

 

「じゃあ服屋さん行こう」

 

「場所は?」

 

「駅の反対側に大きいところあるよ」

 

「人が多い方が警戒は難しくなります」

 

「でも、人が多い方が襲われにくいんじゃない?」

 

「銃撃は起きにくいですが、接近には気づきにくい」

 

「奏斗がいるから大丈夫」

 

「私への信頼が重いですね」

 

「この前助けてくれたし」

 

「危険な状況にならないことが最優先です」

 

「分かってるよ」

 

 千束は冊子へ印をつける。

 

「服のあとは、カフェ」

 

「リコリコも喫茶店ですが」

 

「休みの日に自分の店行ってどうするの?」

 

「ほかの店を参考にするという目的なら」

 

「仕事の話じゃないよ」

 

「分かっています」

 

「甘いもの食べたい」

 

「それなら異論はありません」

 

「奏斗、急に賛成した」

 

「休憩は必要です」

 

「理由つけなくていいのに」

 

「護衛計画ですので」

 

「じゃあ、休憩場所のカフェでパフェを食べる計画」

 

「護衛にパフェは含まれません」

 

「奏斗には重要でしょ?」

 

「否定はしません」

 

 その後、ゲームセンターへ行くことが決まった。

 

 千束が強く希望した。

 

「クレーンゲームしたい!」

 

「得意なのですか?」

 

「結構取れるよ」

 

「反射神経を利用しても、機械の設定までは変わりません」

 

「夢がないなぁ」

 

「現実です」

 

「奏斗もやれば分かるって」

 

「必要なら」

 

「遊びに必要とかないよ」

 

「では、千束が取れなかったものを試します」

 

「勝負?」

 

「頼まれれば」

 

「負けないからね」

 

「機械相手の勝負では?」

 

「奏斗対私!」

 

「対象が変わっています」

 

 予定は決まった。

 

 午前十時、千束のセーフハウス前で待ち合わせ。

 

 駅前の商業施設。

 

 服を見る。

 

 昼食。

 

 カフェ。

 

 ゲームセンター。

 

 夕方までには帰る。

 

「これでいいですね」

 

 奏斗が確認する。

 

「うん」

 

「予定変更があれば、連絡してください」

 

「連絡?」

 

 千束が首を傾げる。

 

「はい」

 

「奏斗、私の連絡先知らないよね」

 

「知りません」

 

「今までどうしてたの?」

 

「必要な情報は上層部かミカさんから受け取っていました」

 

「遠回り!」

 

「規則上の経路です」

 

「じゃあ交換しようよ」

 

 千束が端末を奏斗へ向ける。

 

「個人の連絡先をですか?」

 

「そう」

 

「必要でしょうか」

 

「明日待ち合わせするのに必要でしょ」

 

「時間と場所は決まりました」

 

「寝坊したら?」

 

「しないでください」

 

「奏斗が遅れたら?」

 

「遅れません」

 

「急に予定変わったら?」

 

「それは」

 

「ほら、必要」

 

 奏斗は少し考えた。

 

 護衛対象と直接連絡を取れる利点はある。

 

 緊急時にも使える。

 

 これまで交換していなかった方が不自然かもしれない。

 

「分かりました」

 

「やった」

 

 千束はうれしそうに端末を操作する。

 

 二人は連絡先を交換した。

 

 奏斗の画面に、錦木千束の名前が表示される。

 

 登録写真は、千束が自分で設定したらしい。

 

 顔の近くで両手を広げ、笑っている写真。

 

「写真まで必要ですか?」

 

「分かりやすいでしょ」

 

「名前だけで十分です」

 

「奏斗も写真設定して」

 

「必要ありません」

 

「じゃあ今撮る」

 

「やめてください」

 

 千束が端末を向ける。

 

 奏斗は顔を横へそらした。

 

「逃げないでよ」

 

「突然撮影しないでください」

 

「証明写真みたいなのでいいから」

 

「それなら拠点の身分記録があります」

 

「固い顔のやつでしょ?」

 

「本人確認には十分です」

 

「連絡先に入れたら怖いよ」

 

「失礼ですね」

 

「笑って」

 

「なぜ今」

 

「登録用」

 

「撮りません」

 

「一枚だけ!」

 

「千束」

 

 二人が端末を取り合っていると、奥から声がした。

 

「何してんのよぉ」

 

 ミズキだった。

 

 片手に缶を持ち、すでに顔が少し赤い。

 

「ミズキ、また飲んでるの?」

 

「営業終わったんだからいいでしょ」

 

「昨日も飲んでたじゃん」

 

「昨日の酒は昨日の酒。今日の酒は今日の酒」

 

「名言みたいに言わないでください」

 

 奏斗が言う。

 

 ミズキは二人の間にある端末を見た。

 

「何? 連絡先交換?」

 

「うん!」

 

 千束が答える。

 

「明日一緒に出かけるから」

 

「へえ」

 

 ミズキの目が細くなる。

 

「昨日の買い出しデートに続いて、今度は休日デート?」

 

「違う!」

 

「護衛です」

 

 また二人の声が重なる。

 

 ミズキが笑う。

 

「本当に息ぴったりねぇ」

 

「護衛の予定を立てているだけです」

 

「服見て、カフェ行って、ゲームセンター行く護衛?」

 

「行き先は千束が決めました」

 

「奏斗も甘いもの食べるって」

 

 千束が余計なことを加える。

 

「それは休憩です」

 

「はいはい、休憩ねぇ」

 

 ミズキは缶を持ったまま奏斗の肩へ腕を回そうとする。

 

 酔っているため距離が近い。

 

 奏斗は一歩下がって避けた。

 

「避けないでよ」

 

「酒の匂いがします」

 

「失礼ね」

 

「事実です」

 

「奏斗君、女の扱いがなってないわねぇ」

 

「ミズキさんを基準に学ぶつもりはありません」

 

「言うようになったじゃない」

 

「千束の影響です」

 

「良い影響だよ」

 

 千束が得意そうに言う。

 

 ミズキは千束の横へ座り、顔を覗き込んだ。

 

「明日、何着てくの?」

 

「まだ決めてない」

 

「かわいい服着なさいよ」

 

「何で?」

 

「デートなんだから」

 

「デートじゃないって!」

 

「奏斗君は何着てくの?」

 

「普段着です」

 

「少しは格好つけなさい」

 

「護衛に適した服装を選びます」

 

「拳銃隠しやすいやつ?」

 

「それ以上聞かないでください」

 

「つまんないわねぇ」

 

 ミズキは缶を一口飲む。

 

「千束、連絡先交換したなら、朝からメッセージ送れば?」

 

「何て?」

 

「おはよう、今日は楽しみだね、って」

 

「送る!」

 

「送らなくていいです」

 

「何で?」

 

「十時に迎えに行きます」

 

「でも朝起きたら送る」

 

「返信できない可能性があります」

 

「寝てる?」

 

「起きています」

 

「じゃあ返せるじゃん」

 

「準備中かもしれません」

 

「既読だけでいいよ」

 

「条件が増えています」

 

 ミズキはにやにやしながら二人を見る。

 

「若いっていいわねぇ」

 

「ミズキも若いよ」

 

「うるさい」

 

「自分で言ったのに」

 

「私は大人の女なの!」

 

「酔って絡む大人ですか」

 

 奏斗の言葉に、千束が吹き出した。

 

「奏斗、強い!」

 

「本当のことです」

 

「奏斗君!」

 

 ミズキが立ち上がろうとする。

 

 足元がふらついた。

 

「危ないですよ」

 

 奏斗は反射的に腕を伸ばして支えた。

 

「ほら、優しいじゃない」

 

「転倒されると片づけが増えます」

 

「一言多い!」

 

 ミカが奥から出てくる。

 

「ミズキ、飲みすぎだ」

 

「まだ一本目よ」

 

「二本目だよ」

 

 千束が空き缶を指さす。

 

「いつの間に」

 

「自分で飲んだんでしょ」

 

「誰かが置いたのよ」

 

「記憶が怪しくなっていますね」

 

 奏斗が言う。

 

 結局、ミズキはミカに連れられ、奥へ移動した。

 

 千束は笑いながら立ち上がる。

 

「明日、楽しみだね」

 

「護衛ですが」

 

「まだ言う」

 

「目的を忘れないためです」

 

「でも遊ぶんでしょ?」

 

「予定には従います」

 

「楽しむ?」

 

「努力します」

 

「努力するものじゃないよ」

 

「千束に振り回されなければ、自然に楽しめるかもしれません」

 

「じゃあ振り回す!」

 

「話を聞いていましたか?」

 

「楽しそうだから」

 

 奏斗は小さく笑い、端末をしまった。

 

     ◇

 

 閉店後の話し合いを終え、奏斗はいつもどおり千束をセーフハウスまで送った。

 

 夜道を並んで歩く。

 

 昨日の買い出しよりも少し早い時間。

 

 人通りはまだある。

 

 奏斗は周囲を確認しながら、千束との会話にも答えていた。

 

「明日、何着ようかなぁ」

 

「動きやすい服にしてください」

 

「かわいい服は?」

 

「動きやすければ」

 

「スカート」

 

「走れるなら」

 

「奏斗はどっちがいい?」

 

「何がですか?」

 

「スカートとパンツ」

 

「私の好みで決めるのですか?」

 

「参考」

 

「千束が着たい方でいいでしょう」

 

「どっちも似合う?」

 

「見ていないので分かりません」

 

「普段、店でスカート履いてるじゃん」

 

「制服です」

 

「似合ってる?」

 

 奏斗は少し黙る。

 

「店員として自然です」

 

「それ、褒めてる?」

 

「似合っているという意味です」

 

「最初からそう言えばいいのに」

 

 千束はうれしそうに笑った。

 

「じゃあ明日、スカートにしようかな」

 

「護衛しにくい服は避けてください」

 

「走れるやつにする」

 

「靴も」

 

「分かってるよ」

 

 セーフハウスへ着く。

 

 奏斗は周囲を確認した。

 

 異常なし。

 

「では、明日十時に」

 

「うん」

 

「起床連絡は不要です」

 

「送る」

 

「不要です」

 

「おはよう、って送る」

 

「既読だけでも怒らないでください」

 

「返してよ」

 

「善処します」

 

「それ、返さない人の言い方」

 

「早く寝てください」

 

「奏斗もね」

 

「はい」

 

「おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

 千束が建物へ入る。

 

 施錠を確認してから、奏斗はその場を離れた。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 奏斗の端末が短く振動したのは、午前七時十二分だった。

 

 画面を見る。

 

 千束からの初めてのメッセージ。

 

 ――おはよー! 今日は楽しみだね!

 

 その下に、笑顔の絵文字が三つ。

 

 奏斗はしばらく画面を見つめた。

 

 返信する必要がある。

 

 だが、何と返せばいいのか。

 

 普通に、おはようございます。

 

 それだけでは冷たく見えるかもしれない。

 

 今日はよろしくお願いします。

 

 仕事のようになる。

 

 楽しみにしています。

 

 そこまで書く必要があるか。

 

 数十秒考えた末、奏斗は入力した。

 

 ――おはようございます。遅刻しないでください。

 

 送信。

 

 すぐに既読がつく。

 

 ――楽しみじゃないの?

 

 奏斗は小さく息を吐く。

 

 ――楽しみにしています。

 

 送信。

 

 今度は、千束が両手を上げて喜んでいる絵文字が返ってきた。

 

「……朝から元気ですね」

 

 誰もいない部屋で呟く。

 

 奏斗の口元は、わずかに緩んでいた。

 

     ◇

 

 午前九時五十分。

 

 奏斗は千束のセーフハウス前へ到着した。

 

 普段、朝の時間帯は別の監視員が遠距離から警戒に当たっている。

 

 奏斗が迎えに来るのは初めてだった。

 

 周辺を確認する。

 

 不審な車両なし。

 

 長時間停車している人影なし。

 

 屋上、窓、路地。

 

 異常なし。

 

 建物の入口近くで待っていると、数分後に扉が開いた。

 

「お待たせ!」

 

 千束が明るい声とともに現れる。

 

 普段の制服ではない。

 

 白を基調とした薄手の上着。

 

 淡い色のトップス。

 

 動きやすそうな短めのスカート。

 

 足元は歩きやすい靴。

 

 赤いリボンはいつもの位置に結ばれている。

 

「どう?」

 

 千束がその場で一度回る。

 

「何がですか?」

 

「服」

 

「動きやすそうです」

 

「それだけ?」

 

「似合っています」

 

「おっ」

 

 千束がうれしそうに笑う。

 

「今日は素直だね」

 

「昨日聞かれたので」

 

「奏斗もいつもと違う」

 

「休日用の服です」

 

 奏斗は暗い色のジャケットと、動きやすいパンツを着ていた。

 

 武器を隠しやすく、走る際にも邪魔にならない。

 

「かっこいいね」

 

「護衛用です」

 

「褒めたのに」

 

「ありがとうございます」

 

「今日は素直!」

 

「何度驚くのですか」

 

 二人は並んで歩き始めた。

 

     ◇

 

 最初に向かったのは、駅前の商業施設だった。

 

 定休日の午前中。

 

 休日ほどではないが、買い物客は多い。

 

 奏斗は千束と同じ速度で歩きながら、周囲を確認する。

 

「奏斗、店ばっかり見てる」

 

「周辺を確認しています」

 

「服も見てよ」

 

「千束が見るのでしょう」

 

「一緒に選んで」

 

「私がですか?」

 

「今日、一緒に来たんだから」

 

 千束に腕を引かれ、女性向けの衣料品店へ入る。

 

 奏斗は一瞬、入口で足を止めた。

 

「どうしたの?」

 

「私が入っても不自然では?」

 

「男の人もいるよ」

 

 店内を見る。

 

 確かに、女性と一緒に服を見ている男性客が何人かいる。

 

「彼らと私は目的が違います」

 

「同じだよ」

 

「護衛です」

 

「それ、店員さんに言わないでね」

 

「言いません」

 

 千束は次々に服を手に取った。

 

「これどう?」

 

「良いのでは?」

 

「ちゃんと見てない」

 

「見ています」

 

「色は?」

 

「千束には合うと思います」

 

「じゃあこれは?」

 

「先ほどと似ています」

 

「全然違う!」

 

「袖の長さですか?」

 

「形も色も違うよ!」

 

「服の評価は難しいですね」

 

「奏斗の好みでいいの」

 

「私が着るわけではありません」

 

「私が着るの」

 

「だからこそ、千束が選ぶべきでは?」

 

 千束は呆れたように息を吐いた。

 

「奏斗、女の子と買い物したことないでしょ」

 

「ありません」

 

「正直」

 

「隠す理由がありません」

 

「じゃあ練習ね」

 

「何の?」

 

「一緒に服選ぶ練習」

 

「今後必要になる予定はありません」

 

「未来は分からないよ」

 

「また将来の話ですか?」

 

「奏斗の好きな人ができたら役立つ」

 

「その人が自分で選べばいいでしょう」

 

「一緒に見てほしいかも」

 

「千束は見てほしいのですか?」

 

「うん」

 

 即答だった。

 

 奏斗は手に持たれた服を改めて見る。

 

 淡い赤色の薄手の上着。

 

 千束の髪やリボンにも合いそうだった。

 

「先ほどの服より、こちらの方が良いと思います」

 

「本当?」

 

「色が千束に合っています」

 

「じゃあ試着する!」

 

 千束はすぐに試着室へ向かった。

 

 奏斗はその外で待つ。

 

 周囲の警戒をしながらも、少し落ち着かない。

 

 数分後。

 

「奏斗」

 

 カーテンの隙間から千束が顔を出す。

 

「見て」

 

 カーテンが開く。

 

 千束は選んだ上着を着ていた。

 

 鏡の前で一度回る。

 

「どう?」

 

「似合っています」

 

「さっきより早い」

 

「実際に着た方が分かりやすいので」

 

「買おうかな」

 

「気に入ったなら」

 

「奏斗が選んだし」

 

「私は意見を言っただけです」

 

「でも選んだ」

 

 千束はうれしそうに鏡を見る。

 

 結局、その上着を購入した。

 

「奏斗が選んだ服、初めて」

 

「大げさですね」

 

「記念にしよう」

 

「またですか?」

 

「初めて一緒に服買った記念」

 

「記念日が多すぎます」

 

「忘れないから大丈夫」

 

「管理の問題ではありません」

 

     ◇

 

 昼食を軽く済ませたあと、二人は予定していたカフェへ入った。

 

 店内は明るく、窓が大きい。

 

 奏斗は入口と窓、客席の位置を確認し、奥の壁を背にできる席を選んだ。

 

「護衛っぽい」

 

 千束が言う。

 

「実際に護衛です」

 

「私は窓際がよかったなぁ」

 

「外から見えやすいので避けました」

 

「次は窓際ね」

 

「安全が確認できれば」

 

 メニューを見る。

 

 千束は季節限定のフルーツパフェ。

 

 奏斗はチョコレートケーキとコーヒー。

 

「パフェじゃないの?」

 

「店によってはケーキも食べます」

 

「浮気だ」

 

「何に対してですか?」

 

「チョコパフェ」

 

「同じチョコレートです」

 

「形が違う」

 

「味も違います」

 

「認めた」

 

「何をですか?」

 

 運ばれてきたケーキを一口食べる。

 

 奏斗は少しだけ目を細めた。

 

「おいしい?」

 

「はい」

 

「顔に出てる」

 

「出ていません」

 

「甘いもの食べると分かりやすいよ」

 

「千束も同じです」

 

 千束はパフェの果物を楽しそうに食べている。

 

「一口いる?」

 

「千束が食べてください」

 

「交換しようよ」

 

「私のケーキも渡すのですか?」

 

「うん」

 

「では一口だけ」

 

 千束が小さなスプーンで果物とクリームをすくい、奏斗の皿へ置く。

 

 奏斗もケーキを少し切り分ける。

 

「こういうの、友達っぽいね」

 

「友人なのですから普通では?」

 

「奏斗から言うと、ちょっとうれしい」

 

「以前も確認したでしょう」

 

「何回でもいいの」

 

「そうですか」

 

 奏斗はケーキを食べる千束を見る。

 

「おいしい?」

 

「うん!」

 

「顔に出ていますね」

 

「甘いもの食べてるからね」

 

「自覚があるのですね」

 

 二人は笑った。

 

     ◇

 

 午後。

 

 ゲームセンターへ入った瞬間、千束の目が輝いた。

 

「奏斗、あれ!」

 

「どれですか?」

 

「大きいぬいぐるみ!」

 

 クレーンゲームの中に、白い犬のぬいぐるみが置かれている。

 

「取るのですか?」

 

「もちろん」

 

 千束は硬貨を入れ、操作を始めた。

 

 狙いを定める。

 

 アームが下りる。

 

 ぬいぐるみをつかむ。

 

 少し持ち上がる。

 

 落ちる。

 

「あー!」

 

「惜しいですね」

 

「今のは設定が悪い」

 

「機械のせいにしましたね」

 

「次は取れる」

 

 二回目。

 

 三回目。

 

 位置は少しずつ動く。

 

 だが、取れない。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「やって」

 

「私がですか?」

 

「さっき、取れなかったらやるって言った」

 

「言いましたね」

 

 奏斗は機械を観察する。

 

 アームの強さ。

 

 ぬいぐるみの重心。

 

 落とし口との距離。

 

「一度では難しいです」

 

「何回でもいいよ」

 

「費用は?」

 

「奏斗」

 

「私ですか?」

 

「勝負でしょ」

 

「千束が始めた勝負です」

 

 結局、奏斗も硬貨を入れた。

 

 一回目でぬいぐるみの向きを変える。

 

 二回目で重心をずらす。

 

 三回目。

 

 アームがぬいぐるみを押し、落とし口へ転がした。

 

「取れた!」

 

 千束が声を上げる。

 

「三回です」

 

「すごい!」

 

「千束が位置を動かしていたので」

 

「奏斗が取った!」

 

 千束は取り出し口からぬいぐるみを抱き上げる。

 

「これ、奏斗にあげる」

 

「なぜですか?」

 

「奏斗が取ったから」

 

「千束が欲しかったのでしょう」

 

「じゃあ私が持つ」

 

「最初からそうしてください」

 

 そのあと、千束は対戦ゲームへ奏斗を引っ張った。

 

 レースゲーム。

 

 射撃ゲーム。

 

 音楽ゲーム。

 

「奏斗、強すぎ!」

 

「訓練と似た部分があります」

 

「遊びで本気出さないでよ」

 

「千束も本気でしょう」

 

「私はいいの」

 

「理不尽ですね」

 

 射撃ゲームでは奏斗が勝った。

 

 レースゲームでは千束が勝った。

 

 音楽ゲームは二人とも慣れておらず、同じような点数だった。

 

「引き分け!」

 

「少し私が上です」

 

「誤差!」

 

「数字では私が上です」

 

「細かいなぁ」

 

 ゲームセンターの出口近くに、小さな雑貨売り場があった。

 

 カプセル型のキーホルダーや、色違いの小物が並んでいる。

 

 千束が足を止める。

 

「あ、これかわいい」

 

 手に取ったのは、小さな銃を持った猫のキーホルダー。

 

 赤と黒の二色。

 

「猫が武装していますね」

 

「私たちみたい」

 

「猫ではありません」

 

「色違いだよ」

 

 千束は赤い方を自分の手へ載せ、黒い方を奏斗へ向ける。

 

「お揃いにしよう」

 

「なぜですか?」

 

「今日の記念」

 

「また」

 

「嫌?」

 

「嫌ではありませんが」

 

「じゃあ買おう」

 

「私もですか?」

 

「二つ買って、片方あげる」

 

「費用は払います」

 

「プレゼント」

 

「それでは不公平です」

 

「奏斗がぬいぐるみ取ってくれたから」

 

「千束が持っています」

 

「でも取ってくれた」

 

 奏斗は少し考えた。

 

「では、次に何かあれば私が払います」

 

「次も一緒に出かけるってこと?」

 

「そのようになりますね」

 

 千束の顔が明るくなる。

 

「約束!」

 

「そこまでは」

 

「今のは約束!」

 

「……分かりました」

 

 二つのキーホルダーを購入する。

 

 千束は赤い猫。

 

 奏斗は黒い猫。

 

「どこにつける?」

 

「鞄ですか?」

 

「私はここ」

 

 千束は自分の鞄へ赤いキーホルダーをつけた。

 

「奏斗も」

 

「任務用の装備にはつけられません」

 

「普段の鞄」

 

「分かりました」

 

「本当に使ってね」

 

「はい」

 

「なくしたら怒る」

 

「努力します」

 

「なくさないって言って」

 

「なくしません」

 

 千束は満足そうに笑った。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 二人はセーフハウスへ向かって歩いていた。

 

 千束は新しい服の袋と、白い犬のぬいぐるみを持っている。

 

 奏斗は少し荷物を引き受けていた。

 

「今日は楽しかったね」

 

「はい」

 

「即答!」

 

「何度も聞かれる前に答えました」

 

「奏斗も成長したね」

 

「質問を予測しただけです」

 

「また行こう」

 

「安全状況によります」

 

「行く?」

 

「機会があれば」

 

「約束したよね」

 

「キーホルダーの代金についてです」

 

「一緒に出かける約束」

 

「解釈が広いですね」

 

 駅前から少し離れた道へ入る。

 

 人通りが減る。

 

 奏斗の表情がわずかに変わった。

 

「千束、こちら側を歩いてください」

 

「何かいる?」

 

「まだ分かりません」

 

 車道側と千束の位置を入れ替える。

 

 前方から、一台の黒い車がゆっくり近づいてくる。

 

 不自然ではない速度。

 

 だが、運転席が見えにくい。

 

 窓には濃い色が入っている。

 

「昨日の車?」

 

 千束が小声で尋ねる。

 

「車種が違います」

 

 奏斗は車の動きを見る。

 

 速度。

 

 タイヤ。

 

 運転席。

 

 車は二人の近くまで来る。

 

 そのまま通り過ぎるように見えた。

 

 次の瞬間。

 

 エンジン音が急激に上がった。

 

「千束!」

 

 車が歩道へ向かって急にハンドルを切る。

 

 明確に二人を狙っていた。

 

 奏斗は千束の体をつかみ、建物側へ引こうとする。

 

 しかし、千束の手には荷物がある。

 

 足元も狭い。

 

 間に合わない。

 

 奏斗は千束の正面へ回り込み、両腕で強く押した。

 

 二人の体が歩道脇の狭い空間へ倒れ込む。

 

 車がすぐ横を通過する。

 

 壁へ接触。

 

 金属がこすれる音。

 

 そのまま加速して逃走する。

 

 奏斗は地面へ片膝をつき、すぐに車のナンバーを見る。

 

 偽装。

 

 あるいは盗難車。

 

 短時間で記憶する。

 

「千束、怪我は?」

 

「ない……けど」

 

 千束の声が妙に低い。

 

 奏斗は振り返る。

 

 千束は壁際に座り込んでいた。

 

 頬が少し赤い。

 

 そして、奏斗の右手をじっと見ている。

 

「どうしました?」

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「手」

 

「手?」

 

 奏斗も自分の右手を見る。

 

 千束を押し倒す際、とっさに体を支えようとした。

 

 現在、その手は千束の胸元へ置かれていた。

 

 柔らかな感触。

 

 状況を理解した瞬間。

 

 奏斗の動きが完全に止まる。

 

「……失礼しました」

 

 すぐに手を離し、距離を取る。

 

「今、触った」

 

「事故です」

 

「思いっきり」

 

「車両を避けるためです」

 

「胸を?」

 

「位置を選ぶ余裕がありませんでした」

 

 千束は自分の胸元を押さえ、奏斗を見る。

 

 怒っているのか、恥ずかしがっているのか。

 

 表情だけでは判断しにくい。

 

「変態」

 

「違います」

 

「奏斗の変態」

 

「不可抗力です」

 

「休日に女の子と遊んで、帰り道に胸触るんだ」

 

「悪意のある説明をしないでください」

 

「朝から服褒めて、カフェでケーキ交換して、お揃いのキーホルダー買って」

 

「それらと今の件は無関係です」

 

「計画的?」

 

「車両の襲撃を私が計画したことになりますよ」

 

「あ、それは違うね」

 

「冷静に考えてください」

 

 千束は数秒黙る。

 

 そのあと、口元が少しだけ緩んだ。

 

「奏斗、顔赤い」

 

「走ったからです」

 

「少ししか走ってないよ」

 

「危険回避後なので体温が上がっています」

 

「耳も赤い」

 

「夕日の影響です」

 

「もう夕日ほとんどないよ」

 

「照明です」

 

「街灯まだ点いてない」

 

「……気のせいです」

 

 奏斗は視線をそらし、逃走した車の方向を見る。

 

「今は敵の追跡が優先です」

 

「逃げた」

 

「話題を戻しただけです」

 

「変態なのは否定する?」

 

「当然です」

 

「本当に事故?」

 

「本当に事故です」

 

 千束が立ち上がる。

 

 服についた汚れを払う。

 

「助けてくれたのは、ありがと」

 

「怪我はありませんか?」

 

「うん」

 

「痛む場所は?」

 

「胸」

 

 奏斗の表情が固まる。

 

「強く押しましたか?」

 

「触られたから」

 

「千束」

 

「冗談」

 

 千束が笑う。

 

「奏斗、すごい顔」

 

「冗談にする内容ではありません」

 

「仕返し」

 

「何のですか?」

 

「ファミレスで私を慌てさせた」

 

「昨日の話でしょう」

 

「覚えてるよ」

 

「記憶力の使い方が間違っています」

 

「自分に都合の良いことだけ」

 

「自覚しているのですね」

 

 奏斗は周囲を警戒しながら、逃走車両の情報を端末へ送信する。

 

 千束も表情を少し引き締めた。

 

「さっきの車、私たちを狙ったよね」

 

「はい」

 

「運転してた人、見えた?」

 

「完全には。体格から男性の可能性があります」

 

「昨日の監視してた人かな」

 

「分かりません」

 

「休日の予定も知られてた?」

 

「可能性があります」

 

 今日の予定を知っていた者。

 

 リコリコの四人。

 

 千束と奏斗。

 

 直接連絡を取った監視担当者。

 

 それだけではない。

 

 二人が商業施設へ入ってから尾行された可能性もある。

 

「尾行に気づきませんでした」

 

 奏斗が低い声で言う。

 

「私も」

 

「どこから追われていたか分かりません」

 

「今日ずっと見られてたかも?」

 

「可能性は否定できません」

 

 千束は鞄についた赤い猫のキーホルダーを見る。

 

 少しだけ表情が曇る。

 

「せっかく楽しかったのに」

 

「今日の外出を後悔していますか?」

 

「してないよ」

 

 千束はすぐに答える。

 

「最後に襲われたからって、今日一日が全部嫌になるわけじゃない」

 

「そうですか」

 

「服も買えたし、ケーキも食べたし、ゲームもしたし」

 

 キーホルダーを持ち上げる。

 

「お揃いも買った」

 

「はい」

 

「奏斗に胸も触られた」

 

「最後に追加しないでください」

 

「大事な思い出」

 

「忘れてください」

 

「無理」

 

「千束」

 

「奏斗が困るから覚えとく」

 

「性格が悪くありませんか?」

 

「今日、変態扱いされた記念」

 

「記念にしないでください」

 

 千束は楽しそうに笑う。

 

 奏斗は大きく息を吐いた。

 

 敵の襲撃。

 

 尾行の可能性。

 

 内部からの情報漏洩。

 

 警戒すべき点は増えた。

 

 それでも、千束の笑顔を見ると、今日の外出そのものが間違いだったとは思えなかった。

 

「帰りましょう」

 

「うん」

 

「今後は人通りの多い道を選びます」

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「次に車が来ても、胸以外で助けてね」

 

「選べる状況なら」

 

「また触る可能性あるの?」

 

「言葉の綾です」

 

「変態」

 

「違います」

 

「奏斗の変態」

 

「明日から護衛担当を交代してもらいますよ」

 

「それは嫌」

 

 千束が即答する。

 

「じゃあ変態って言わないでください」

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「変態護衛」

 

「悪化しています」

 

 千束が声を上げて笑う。

 

 奏斗は呆れながらも、少しだけ笑った。

 

 二人は再び並んで歩き始める。

 

 奏斗は車道側。

 

 千束は建物側。

 

 鞄には色違いの猫のキーホルダー。

 

 楽しかった休日は、最後に襲撃を受けた。

 

 敵はまた一つ、二人の日常へ踏み込んできた。

 

 それでも。

 

 千束の新しい服も。

 

 カフェで食べた甘いものも。

 

 ゲームセンターでの勝負も。

 

 お揃いのキーホルダーも。

 

 なかったことにはならない。

 

「奏斗」

 

「今度は何ですか?」

 

「今日はありがと」

 

「護衛のことですか?」

 

「全部」

 

 千束が笑う。

 

「楽しかった」

 

 奏斗は少しだけ間を置いた。

 

「私もです」

 

「じゃあ、また行こうね」

 

「安全が確認できれば」

 

「そこは、うん、でいいの」

 

「……はい」

 

「約束?」

 

「約束です」

 

 千束の笑顔が、さらに大きくなる。

 

「よし!」

 

「その代わり」

 

「何?」

 

「今日の事故については忘れてください」

 

「それは無理」

 

「では約束は撤回します」

 

「駄目!」

 

「条件交渉です」

 

「奏斗の変態」

 

「帰りますよ」

 

 二人の声が、夕暮れの道へ続いていく。

 

 逃走した車は、もう見えない。

 

 けれど、日常のすぐ隣まで迫った敵の気配だけは、確かに残っていた。

 

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