リコリコの営業予定表を見て、押村奏斗が翌日の定休日に気づいたのは、昼の混雑が始まる少し前だった。
カウンター脇の壁に、小さなカレンダーが掛けられている。
営業日には何も書かれていない。
定休日には、千束が描いたらしい赤い丸と、休みを表す大きな文字。
その下には、なぜか笑顔の猫の絵まで添えられていた。
「……明日は休みですか」
奏斗が呟くと、カウンターの中でコーヒーカップを並べていたミカが顔を上げた。
「ああ」
「聞いていませんでした」
「勤務予定には入っていなかったはずだ」
「店の予定として認識していませんでした」
「奏斗は店員になって日が浅いからな」
ミカは穏やかに答えた。
奏斗は改めてカレンダーを見る。
定休日。
つまり、明日は千束が店にいない。
通常、営業日であれば千束の居場所はほぼ固定されている。
朝から夕方まではリコリコ。
夜に任務が入れば、そのまま奏斗が同行する。
任務がない日は、閉店後にセーフハウスへ送り届ける。
だが、定休日は違う。
千束がどこへ行くのか分からなければ、護衛の予定が立てられない。
上層部から渡された明日の任務予定を思い出す。
千束の夜間任務はなし。
奏斗自身にも、別任務は入っていない。
偶然とは考えにくかった。
千束が連日の襲撃を受けている。
偽の任務情報によって倉庫へ誘導され、敵に拘束されたばかりでもある。
ミカがDA側からの任務を断っている可能性が高い。
少なくとも、危険性の低い任務まで含め、しばらく千束を休ませようとしているのだろう。
それ自体に異論はない。
しかし、休みだからといって敵も活動を休止するわけではない。
「先生、奏斗。何話してるの?」
トレイを持った千束が、二人の間へ顔を出した。
「明日が定休日だと確認していました」
「そうだよ」
「先に教えてください」
「カレンダーに書いてあるじゃん」
「今見ました」
「店員なら予定くらい確認しないとねぇ」
千束が得意そうに言う。
「勤務初日に教えるべき内容では?」
「自分で気づくのも成長だよ」
「単に忘れていただけでしょう」
「違うよ。自主性を見てたの」
「今考えましたね」
「何で分かるの?」
「分かりやすいので」
千束が口を尖らせる。
「最近、奏斗のツッコミが速くなってる」
「千束との会話へ適応した結果です」
「良い成長!」
「まだ良いとは言っていません」
入口のベルが鳴った。
昼食を取りに来た会社員が二人、店内へ入ってくる。
「いらっしゃいませー!」
千束はすぐに明るい笑顔へ切り替え、客のもとへ向かった。
奏斗はその後ろ姿を見送る。
明日の予定。
早めに確認する必要がある。
しかし、客の前で護衛について直接話すわけにはいかない。
店が落ち着いた時間を待つことにした。
◇
昼になると、店内はいつものように忙しくなった。
定休日の前日だからか、常連客の姿も多い。
「明日休みだったよね?」
年配の女性客が尋ねる。
「そうです! 明日はお休みでーす!」
千束が元気よく答える。
「千束ちゃんはどこか行くの?」
「まだ決めてないです」
「せっかくのお休みなのに?」
「家でごろごろするのも休みの使い方ですよ」
奏斗が水を置きながら口を挟む。
「奏斗君は?」
「特に予定はありません」
「じゃあ二人でどこか行けば?」
女性客が何気なく言った。
奏斗の手が一瞬止まる。
千束がこちらを見る。
「ほら、奏斗。お誘いだって」
「誰からですか?」
「お客さんから」
「私たちへ外出を勧めただけです」
「二人で行けって」
「そのようですね」
「行く?」
千束は楽しそうに言う。
奏斗は客の前で護衛の話をするわけにもいかず、曖昧に答えた。
「予定を確認してからです」
「真面目だねぇ」
女性客が笑う。
「予定ないって言ってたのに」
「急な用事が入る可能性があります」
「女の子との予定より仕事を優先すると、将来困るわよ」
「まだ将来を心配される年齢ではありません」
「そういう子ほど、あっという間よ」
奏斗は返答に困り、わずかに笑って頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
「逃げた」
千束が小声で言う。
「接客へ戻っただけです」
「将来困るって」
「千束には関係ありません」
「奏斗が困ったら面白そう」
「助ける気はないのですね」
「相談には乗るよ」
「信用できません」
「ひどいなぁ」
千束は笑いながら別のテーブルへ向かった。
その間も、奏斗は来店者を観察していた。
手。
視線。
服装。
座る位置。
千束を不自然に見る者はいない。
窓の外にも、同じ場所に長く留まる人物は見当たらない。
少なくとも、今は異常なし。
午後二時を過ぎる頃、客足が一度途切れた。
店内に残っていた最後の客も会計を済ませ、扉の向こうへ消える。
「ありがとうございましたー!」
千束が手を振る。
奏斗は空いたテーブルの食器を下げた。
ミズキは奥で在庫確認。
ミカは厨房。
話すなら今だ。
「千束」
「ん?」
「明日の予定は決まっていますか?」
奏斗が尋ねた瞬間。
千束が目を見開いた。
明らかに驚いている。
「え」
「何ですか?」
「明日の予定?」
「はい」
「奏斗が、私の?」
「そうですが」
千束は何かを確かめるように奏斗の顔を見る。
そのあと、口元をゆっくりと緩めた。
「それって、デートのお誘い?」
「違います」
奏斗は即答した。
「早い!」
「誤解される前に否定しました」
「もう少し考えてもよくない?」
「事実ではありません」
「昨日、また食事に行こうって約束したよね」
「機会があれば、と言いました」
「私が約束にした」
「千束が勝手に確定しただけです」
「でも、明日の予定聞いた」
「護衛計画を立てるためです」
奏斗が説明すると、千束の笑顔が少しだけ止まる。
「……護衛?」
「はい」
「そっか」
ほんの一瞬だけ、千束の声が落ちたように聞こえた。
だが、すぐにいつもの明るい表情へ戻る。
「明日は定休日です。千束の居場所が分からなければ、警戒位置を決められません」
「別の監視員がいるんじゃないの?」
「通常は遠距離から警戒に当たります。しかし、現在は敵の活動が活発です」
「だから奏斗が来る?」
「千束が外出するのであれば」
「家にいるなら?」
「周辺監視で足ります」
「奏斗は来ない?」
「必要がなければ」
千束は腕を組み、少し悩むような顔をした。
「予定はないんだよね」
「先ほどもそう言っていました」
「奏斗も?」
「今のところは」
「じゃあ」
千束は顔を上げる。
「一緒に遊びに行く?」
奏斗は一瞬、言葉を止めた。
「私とですか?」
「ほかに誰がいるの?」
「護衛の話をしていました」
「護衛しながら遊べばいいじゃん」
「そのような組み合わせがあるのですか」
「今作った」
「やはり」
「私が一人で出かけたら、奏斗は後ろからついてくるんでしょ?」
「状況によります」
「じゃあ最初から一緒にいた方が楽じゃない?」
「護衛対象と並んで歩くと、警戒範囲が狭まる場合があります」
「昨日は一緒に買い物したよ」
「店の業務です」
「ファミレスも行った」
「食事です」
「楽しかったって言った」
「言いました」
「なら明日も一緒でいいじゃん」
理屈としてはかなり強引だった。
だが、護衛の面だけを見れば、一緒に行動する利点はある。
遠距離から監視するより、千束の近くにいられる。
行き先を事前に把握できる。
不測の事態が起きても、すぐに対応できる。
「どこへ行くつもりですか?」
「まだ決めてない」
「それでは警戒計画を立てられません」
「だから一緒に決めようよ」
「今ですか?」
「閉店後!」
千束は楽しそうに言う。
「休みの予定を立てるのも楽しみの一つだからね」
「遊びに行くことは確定なのですか?」
「奏斗が嫌ならやめるけど」
千束は奏斗の顔を覗き込む。
「嫌?」
近い。
奏斗はわずかに顔を引いた。
「嫌ではありません」
「じゃあ決まり!」
「護衛としてです」
「はいはい」
「そこは重要です」
「私にとっては、一緒に遊ぶことの方が重要」
「目的が違いますね」
「結果が同じならいいじゃん」
千束は満足そうに笑い、空いたカップを持って厨房へ向かう。
その背中を見ながら、奏斗は小さく息を吐いた。
「デートではありませんからね」
「まだ気にしてる!」
振り返った千束が笑う。
「念のためです」
「照れてる?」
「いません」
「明日になったら分かるかなぁ」
「何がですか?」
「デートか護衛か」
「護衛です」
千束の笑い声が店内へ響いた。
◇
閉店後。
店の片づけを終えた奏斗と千束は、窓際のテーブルに並んで座っていた。
テーブルの上には、千束の端末と、観光情報の載った小冊子。
なぜ店にそのような冊子があるのかは分からない。
千束がどこかから持ってきたらしい。
「まず、服見たい」
「服ですか」
「休みだもん」
「所有している服では足りないのですか?」
「足りるとか足りないとかじゃないの」
「では何のために?」
「新しいのが欲しいから」
「同じでは?」
「奏斗には分かんないかぁ」
千束が大げさに首を振る。
「理解しようとはしています」
「じゃあ服屋さん行こう」
「場所は?」
「駅の反対側に大きいところあるよ」
「人が多い方が警戒は難しくなります」
「でも、人が多い方が襲われにくいんじゃない?」
「銃撃は起きにくいですが、接近には気づきにくい」
「奏斗がいるから大丈夫」
「私への信頼が重いですね」
「この前助けてくれたし」
「危険な状況にならないことが最優先です」
「分かってるよ」
千束は冊子へ印をつける。
「服のあとは、カフェ」
「リコリコも喫茶店ですが」
「休みの日に自分の店行ってどうするの?」
「ほかの店を参考にするという目的なら」
「仕事の話じゃないよ」
「分かっています」
「甘いもの食べたい」
「それなら異論はありません」
「奏斗、急に賛成した」
「休憩は必要です」
「理由つけなくていいのに」
「護衛計画ですので」
「じゃあ、休憩場所のカフェでパフェを食べる計画」
「護衛にパフェは含まれません」
「奏斗には重要でしょ?」
「否定はしません」
その後、ゲームセンターへ行くことが決まった。
千束が強く希望した。
「クレーンゲームしたい!」
「得意なのですか?」
「結構取れるよ」
「反射神経を利用しても、機械の設定までは変わりません」
「夢がないなぁ」
「現実です」
「奏斗もやれば分かるって」
「必要なら」
「遊びに必要とかないよ」
「では、千束が取れなかったものを試します」
「勝負?」
「頼まれれば」
「負けないからね」
「機械相手の勝負では?」
「奏斗対私!」
「対象が変わっています」
予定は決まった。
午前十時、千束のセーフハウス前で待ち合わせ。
駅前の商業施設。
服を見る。
昼食。
カフェ。
ゲームセンター。
夕方までには帰る。
「これでいいですね」
奏斗が確認する。
「うん」
「予定変更があれば、連絡してください」
「連絡?」
千束が首を傾げる。
「はい」
「奏斗、私の連絡先知らないよね」
「知りません」
「今までどうしてたの?」
「必要な情報は上層部かミカさんから受け取っていました」
「遠回り!」
「規則上の経路です」
「じゃあ交換しようよ」
千束が端末を奏斗へ向ける。
「個人の連絡先をですか?」
「そう」
「必要でしょうか」
「明日待ち合わせするのに必要でしょ」
「時間と場所は決まりました」
「寝坊したら?」
「しないでください」
「奏斗が遅れたら?」
「遅れません」
「急に予定変わったら?」
「それは」
「ほら、必要」
奏斗は少し考えた。
護衛対象と直接連絡を取れる利点はある。
緊急時にも使える。
これまで交換していなかった方が不自然かもしれない。
「分かりました」
「やった」
千束はうれしそうに端末を操作する。
二人は連絡先を交換した。
奏斗の画面に、錦木千束の名前が表示される。
登録写真は、千束が自分で設定したらしい。
顔の近くで両手を広げ、笑っている写真。
「写真まで必要ですか?」
「分かりやすいでしょ」
「名前だけで十分です」
「奏斗も写真設定して」
「必要ありません」
「じゃあ今撮る」
「やめてください」
千束が端末を向ける。
奏斗は顔を横へそらした。
「逃げないでよ」
「突然撮影しないでください」
「証明写真みたいなのでいいから」
「それなら拠点の身分記録があります」
「固い顔のやつでしょ?」
「本人確認には十分です」
「連絡先に入れたら怖いよ」
「失礼ですね」
「笑って」
「なぜ今」
「登録用」
「撮りません」
「一枚だけ!」
「千束」
二人が端末を取り合っていると、奥から声がした。
「何してんのよぉ」
ミズキだった。
片手に缶を持ち、すでに顔が少し赤い。
「ミズキ、また飲んでるの?」
「営業終わったんだからいいでしょ」
「昨日も飲んでたじゃん」
「昨日の酒は昨日の酒。今日の酒は今日の酒」
「名言みたいに言わないでください」
奏斗が言う。
ミズキは二人の間にある端末を見た。
「何? 連絡先交換?」
「うん!」
千束が答える。
「明日一緒に出かけるから」
「へえ」
ミズキの目が細くなる。
「昨日の買い出しデートに続いて、今度は休日デート?」
「違う!」
「護衛です」
また二人の声が重なる。
ミズキが笑う。
「本当に息ぴったりねぇ」
「護衛の予定を立てているだけです」
「服見て、カフェ行って、ゲームセンター行く護衛?」
「行き先は千束が決めました」
「奏斗も甘いもの食べるって」
千束が余計なことを加える。
「それは休憩です」
「はいはい、休憩ねぇ」
ミズキは缶を持ったまま奏斗の肩へ腕を回そうとする。
酔っているため距離が近い。
奏斗は一歩下がって避けた。
「避けないでよ」
「酒の匂いがします」
「失礼ね」
「事実です」
「奏斗君、女の扱いがなってないわねぇ」
「ミズキさんを基準に学ぶつもりはありません」
「言うようになったじゃない」
「千束の影響です」
「良い影響だよ」
千束が得意そうに言う。
ミズキは千束の横へ座り、顔を覗き込んだ。
「明日、何着てくの?」
「まだ決めてない」
「かわいい服着なさいよ」
「何で?」
「デートなんだから」
「デートじゃないって!」
「奏斗君は何着てくの?」
「普段着です」
「少しは格好つけなさい」
「護衛に適した服装を選びます」
「拳銃隠しやすいやつ?」
「それ以上聞かないでください」
「つまんないわねぇ」
ミズキは缶を一口飲む。
「千束、連絡先交換したなら、朝からメッセージ送れば?」
「何て?」
「おはよう、今日は楽しみだね、って」
「送る!」
「送らなくていいです」
「何で?」
「十時に迎えに行きます」
「でも朝起きたら送る」
「返信できない可能性があります」
「寝てる?」
「起きています」
「じゃあ返せるじゃん」
「準備中かもしれません」
「既読だけでいいよ」
「条件が増えています」
ミズキはにやにやしながら二人を見る。
「若いっていいわねぇ」
「ミズキも若いよ」
「うるさい」
「自分で言ったのに」
「私は大人の女なの!」
「酔って絡む大人ですか」
奏斗の言葉に、千束が吹き出した。
「奏斗、強い!」
「本当のことです」
「奏斗君!」
ミズキが立ち上がろうとする。
足元がふらついた。
「危ないですよ」
奏斗は反射的に腕を伸ばして支えた。
「ほら、優しいじゃない」
「転倒されると片づけが増えます」
「一言多い!」
ミカが奥から出てくる。
「ミズキ、飲みすぎだ」
「まだ一本目よ」
「二本目だよ」
千束が空き缶を指さす。
「いつの間に」
「自分で飲んだんでしょ」
「誰かが置いたのよ」
「記憶が怪しくなっていますね」
奏斗が言う。
結局、ミズキはミカに連れられ、奥へ移動した。
千束は笑いながら立ち上がる。
「明日、楽しみだね」
「護衛ですが」
「まだ言う」
「目的を忘れないためです」
「でも遊ぶんでしょ?」
「予定には従います」
「楽しむ?」
「努力します」
「努力するものじゃないよ」
「千束に振り回されなければ、自然に楽しめるかもしれません」
「じゃあ振り回す!」
「話を聞いていましたか?」
「楽しそうだから」
奏斗は小さく笑い、端末をしまった。
◇
閉店後の話し合いを終え、奏斗はいつもどおり千束をセーフハウスまで送った。
夜道を並んで歩く。
昨日の買い出しよりも少し早い時間。
人通りはまだある。
奏斗は周囲を確認しながら、千束との会話にも答えていた。
「明日、何着ようかなぁ」
「動きやすい服にしてください」
「かわいい服は?」
「動きやすければ」
「スカート」
「走れるなら」
「奏斗はどっちがいい?」
「何がですか?」
「スカートとパンツ」
「私の好みで決めるのですか?」
「参考」
「千束が着たい方でいいでしょう」
「どっちも似合う?」
「見ていないので分かりません」
「普段、店でスカート履いてるじゃん」
「制服です」
「似合ってる?」
奏斗は少し黙る。
「店員として自然です」
「それ、褒めてる?」
「似合っているという意味です」
「最初からそう言えばいいのに」
千束はうれしそうに笑った。
「じゃあ明日、スカートにしようかな」
「護衛しにくい服は避けてください」
「走れるやつにする」
「靴も」
「分かってるよ」
セーフハウスへ着く。
奏斗は周囲を確認した。
異常なし。
「では、明日十時に」
「うん」
「起床連絡は不要です」
「送る」
「不要です」
「おはよう、って送る」
「既読だけでも怒らないでください」
「返してよ」
「善処します」
「それ、返さない人の言い方」
「早く寝てください」
「奏斗もね」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
千束が建物へ入る。
施錠を確認してから、奏斗はその場を離れた。
◇
翌朝。
奏斗の端末が短く振動したのは、午前七時十二分だった。
画面を見る。
千束からの初めてのメッセージ。
――おはよー! 今日は楽しみだね!
その下に、笑顔の絵文字が三つ。
奏斗はしばらく画面を見つめた。
返信する必要がある。
だが、何と返せばいいのか。
普通に、おはようございます。
それだけでは冷たく見えるかもしれない。
今日はよろしくお願いします。
仕事のようになる。
楽しみにしています。
そこまで書く必要があるか。
数十秒考えた末、奏斗は入力した。
――おはようございます。遅刻しないでください。
送信。
すぐに既読がつく。
――楽しみじゃないの?
奏斗は小さく息を吐く。
――楽しみにしています。
送信。
今度は、千束が両手を上げて喜んでいる絵文字が返ってきた。
「……朝から元気ですね」
誰もいない部屋で呟く。
奏斗の口元は、わずかに緩んでいた。
◇
午前九時五十分。
奏斗は千束のセーフハウス前へ到着した。
普段、朝の時間帯は別の監視員が遠距離から警戒に当たっている。
奏斗が迎えに来るのは初めてだった。
周辺を確認する。
不審な車両なし。
長時間停車している人影なし。
屋上、窓、路地。
異常なし。
建物の入口近くで待っていると、数分後に扉が開いた。
「お待たせ!」
千束が明るい声とともに現れる。
普段の制服ではない。
白を基調とした薄手の上着。
淡い色のトップス。
動きやすそうな短めのスカート。
足元は歩きやすい靴。
赤いリボンはいつもの位置に結ばれている。
「どう?」
千束がその場で一度回る。
「何がですか?」
「服」
「動きやすそうです」
「それだけ?」
「似合っています」
「おっ」
千束がうれしそうに笑う。
「今日は素直だね」
「昨日聞かれたので」
「奏斗もいつもと違う」
「休日用の服です」
奏斗は暗い色のジャケットと、動きやすいパンツを着ていた。
武器を隠しやすく、走る際にも邪魔にならない。
「かっこいいね」
「護衛用です」
「褒めたのに」
「ありがとうございます」
「今日は素直!」
「何度驚くのですか」
二人は並んで歩き始めた。
◇
最初に向かったのは、駅前の商業施設だった。
定休日の午前中。
休日ほどではないが、買い物客は多い。
奏斗は千束と同じ速度で歩きながら、周囲を確認する。
「奏斗、店ばっかり見てる」
「周辺を確認しています」
「服も見てよ」
「千束が見るのでしょう」
「一緒に選んで」
「私がですか?」
「今日、一緒に来たんだから」
千束に腕を引かれ、女性向けの衣料品店へ入る。
奏斗は一瞬、入口で足を止めた。
「どうしたの?」
「私が入っても不自然では?」
「男の人もいるよ」
店内を見る。
確かに、女性と一緒に服を見ている男性客が何人かいる。
「彼らと私は目的が違います」
「同じだよ」
「護衛です」
「それ、店員さんに言わないでね」
「言いません」
千束は次々に服を手に取った。
「これどう?」
「良いのでは?」
「ちゃんと見てない」
「見ています」
「色は?」
「千束には合うと思います」
「じゃあこれは?」
「先ほどと似ています」
「全然違う!」
「袖の長さですか?」
「形も色も違うよ!」
「服の評価は難しいですね」
「奏斗の好みでいいの」
「私が着るわけではありません」
「私が着るの」
「だからこそ、千束が選ぶべきでは?」
千束は呆れたように息を吐いた。
「奏斗、女の子と買い物したことないでしょ」
「ありません」
「正直」
「隠す理由がありません」
「じゃあ練習ね」
「何の?」
「一緒に服選ぶ練習」
「今後必要になる予定はありません」
「未来は分からないよ」
「また将来の話ですか?」
「奏斗の好きな人ができたら役立つ」
「その人が自分で選べばいいでしょう」
「一緒に見てほしいかも」
「千束は見てほしいのですか?」
「うん」
即答だった。
奏斗は手に持たれた服を改めて見る。
淡い赤色の薄手の上着。
千束の髪やリボンにも合いそうだった。
「先ほどの服より、こちらの方が良いと思います」
「本当?」
「色が千束に合っています」
「じゃあ試着する!」
千束はすぐに試着室へ向かった。
奏斗はその外で待つ。
周囲の警戒をしながらも、少し落ち着かない。
数分後。
「奏斗」
カーテンの隙間から千束が顔を出す。
「見て」
カーテンが開く。
千束は選んだ上着を着ていた。
鏡の前で一度回る。
「どう?」
「似合っています」
「さっきより早い」
「実際に着た方が分かりやすいので」
「買おうかな」
「気に入ったなら」
「奏斗が選んだし」
「私は意見を言っただけです」
「でも選んだ」
千束はうれしそうに鏡を見る。
結局、その上着を購入した。
「奏斗が選んだ服、初めて」
「大げさですね」
「記念にしよう」
「またですか?」
「初めて一緒に服買った記念」
「記念日が多すぎます」
「忘れないから大丈夫」
「管理の問題ではありません」
◇
昼食を軽く済ませたあと、二人は予定していたカフェへ入った。
店内は明るく、窓が大きい。
奏斗は入口と窓、客席の位置を確認し、奥の壁を背にできる席を選んだ。
「護衛っぽい」
千束が言う。
「実際に護衛です」
「私は窓際がよかったなぁ」
「外から見えやすいので避けました」
「次は窓際ね」
「安全が確認できれば」
メニューを見る。
千束は季節限定のフルーツパフェ。
奏斗はチョコレートケーキとコーヒー。
「パフェじゃないの?」
「店によってはケーキも食べます」
「浮気だ」
「何に対してですか?」
「チョコパフェ」
「同じチョコレートです」
「形が違う」
「味も違います」
「認めた」
「何をですか?」
運ばれてきたケーキを一口食べる。
奏斗は少しだけ目を細めた。
「おいしい?」
「はい」
「顔に出てる」
「出ていません」
「甘いもの食べると分かりやすいよ」
「千束も同じです」
千束はパフェの果物を楽しそうに食べている。
「一口いる?」
「千束が食べてください」
「交換しようよ」
「私のケーキも渡すのですか?」
「うん」
「では一口だけ」
千束が小さなスプーンで果物とクリームをすくい、奏斗の皿へ置く。
奏斗もケーキを少し切り分ける。
「こういうの、友達っぽいね」
「友人なのですから普通では?」
「奏斗から言うと、ちょっとうれしい」
「以前も確認したでしょう」
「何回でもいいの」
「そうですか」
奏斗はケーキを食べる千束を見る。
「おいしい?」
「うん!」
「顔に出ていますね」
「甘いもの食べてるからね」
「自覚があるのですね」
二人は笑った。
◇
午後。
ゲームセンターへ入った瞬間、千束の目が輝いた。
「奏斗、あれ!」
「どれですか?」
「大きいぬいぐるみ!」
クレーンゲームの中に、白い犬のぬいぐるみが置かれている。
「取るのですか?」
「もちろん」
千束は硬貨を入れ、操作を始めた。
狙いを定める。
アームが下りる。
ぬいぐるみをつかむ。
少し持ち上がる。
落ちる。
「あー!」
「惜しいですね」
「今のは設定が悪い」
「機械のせいにしましたね」
「次は取れる」
二回目。
三回目。
位置は少しずつ動く。
だが、取れない。
「奏斗」
「何ですか?」
「やって」
「私がですか?」
「さっき、取れなかったらやるって言った」
「言いましたね」
奏斗は機械を観察する。
アームの強さ。
ぬいぐるみの重心。
落とし口との距離。
「一度では難しいです」
「何回でもいいよ」
「費用は?」
「奏斗」
「私ですか?」
「勝負でしょ」
「千束が始めた勝負です」
結局、奏斗も硬貨を入れた。
一回目でぬいぐるみの向きを変える。
二回目で重心をずらす。
三回目。
アームがぬいぐるみを押し、落とし口へ転がした。
「取れた!」
千束が声を上げる。
「三回です」
「すごい!」
「千束が位置を動かしていたので」
「奏斗が取った!」
千束は取り出し口からぬいぐるみを抱き上げる。
「これ、奏斗にあげる」
「なぜですか?」
「奏斗が取ったから」
「千束が欲しかったのでしょう」
「じゃあ私が持つ」
「最初からそうしてください」
そのあと、千束は対戦ゲームへ奏斗を引っ張った。
レースゲーム。
射撃ゲーム。
音楽ゲーム。
「奏斗、強すぎ!」
「訓練と似た部分があります」
「遊びで本気出さないでよ」
「千束も本気でしょう」
「私はいいの」
「理不尽ですね」
射撃ゲームでは奏斗が勝った。
レースゲームでは千束が勝った。
音楽ゲームは二人とも慣れておらず、同じような点数だった。
「引き分け!」
「少し私が上です」
「誤差!」
「数字では私が上です」
「細かいなぁ」
ゲームセンターの出口近くに、小さな雑貨売り場があった。
カプセル型のキーホルダーや、色違いの小物が並んでいる。
千束が足を止める。
「あ、これかわいい」
手に取ったのは、小さな銃を持った猫のキーホルダー。
赤と黒の二色。
「猫が武装していますね」
「私たちみたい」
「猫ではありません」
「色違いだよ」
千束は赤い方を自分の手へ載せ、黒い方を奏斗へ向ける。
「お揃いにしよう」
「なぜですか?」
「今日の記念」
「また」
「嫌?」
「嫌ではありませんが」
「じゃあ買おう」
「私もですか?」
「二つ買って、片方あげる」
「費用は払います」
「プレゼント」
「それでは不公平です」
「奏斗がぬいぐるみ取ってくれたから」
「千束が持っています」
「でも取ってくれた」
奏斗は少し考えた。
「では、次に何かあれば私が払います」
「次も一緒に出かけるってこと?」
「そのようになりますね」
千束の顔が明るくなる。
「約束!」
「そこまでは」
「今のは約束!」
「……分かりました」
二つのキーホルダーを購入する。
千束は赤い猫。
奏斗は黒い猫。
「どこにつける?」
「鞄ですか?」
「私はここ」
千束は自分の鞄へ赤いキーホルダーをつけた。
「奏斗も」
「任務用の装備にはつけられません」
「普段の鞄」
「分かりました」
「本当に使ってね」
「はい」
「なくしたら怒る」
「努力します」
「なくさないって言って」
「なくしません」
千束は満足そうに笑った。
◇
夕方。
二人はセーフハウスへ向かって歩いていた。
千束は新しい服の袋と、白い犬のぬいぐるみを持っている。
奏斗は少し荷物を引き受けていた。
「今日は楽しかったね」
「はい」
「即答!」
「何度も聞かれる前に答えました」
「奏斗も成長したね」
「質問を予測しただけです」
「また行こう」
「安全状況によります」
「行く?」
「機会があれば」
「約束したよね」
「キーホルダーの代金についてです」
「一緒に出かける約束」
「解釈が広いですね」
駅前から少し離れた道へ入る。
人通りが減る。
奏斗の表情がわずかに変わった。
「千束、こちら側を歩いてください」
「何かいる?」
「まだ分かりません」
車道側と千束の位置を入れ替える。
前方から、一台の黒い車がゆっくり近づいてくる。
不自然ではない速度。
だが、運転席が見えにくい。
窓には濃い色が入っている。
「昨日の車?」
千束が小声で尋ねる。
「車種が違います」
奏斗は車の動きを見る。
速度。
タイヤ。
運転席。
車は二人の近くまで来る。
そのまま通り過ぎるように見えた。
次の瞬間。
エンジン音が急激に上がった。
「千束!」
車が歩道へ向かって急にハンドルを切る。
明確に二人を狙っていた。
奏斗は千束の体をつかみ、建物側へ引こうとする。
しかし、千束の手には荷物がある。
足元も狭い。
間に合わない。
奏斗は千束の正面へ回り込み、両腕で強く押した。
二人の体が歩道脇の狭い空間へ倒れ込む。
車がすぐ横を通過する。
壁へ接触。
金属がこすれる音。
そのまま加速して逃走する。
奏斗は地面へ片膝をつき、すぐに車のナンバーを見る。
偽装。
あるいは盗難車。
短時間で記憶する。
「千束、怪我は?」
「ない……けど」
千束の声が妙に低い。
奏斗は振り返る。
千束は壁際に座り込んでいた。
頬が少し赤い。
そして、奏斗の右手をじっと見ている。
「どうしました?」
「奏斗」
「はい」
「手」
「手?」
奏斗も自分の右手を見る。
千束を押し倒す際、とっさに体を支えようとした。
現在、その手は千束の胸元へ置かれていた。
柔らかな感触。
状況を理解した瞬間。
奏斗の動きが完全に止まる。
「……失礼しました」
すぐに手を離し、距離を取る。
「今、触った」
「事故です」
「思いっきり」
「車両を避けるためです」
「胸を?」
「位置を選ぶ余裕がありませんでした」
千束は自分の胸元を押さえ、奏斗を見る。
怒っているのか、恥ずかしがっているのか。
表情だけでは判断しにくい。
「変態」
「違います」
「奏斗の変態」
「不可抗力です」
「休日に女の子と遊んで、帰り道に胸触るんだ」
「悪意のある説明をしないでください」
「朝から服褒めて、カフェでケーキ交換して、お揃いのキーホルダー買って」
「それらと今の件は無関係です」
「計画的?」
「車両の襲撃を私が計画したことになりますよ」
「あ、それは違うね」
「冷静に考えてください」
千束は数秒黙る。
そのあと、口元が少しだけ緩んだ。
「奏斗、顔赤い」
「走ったからです」
「少ししか走ってないよ」
「危険回避後なので体温が上がっています」
「耳も赤い」
「夕日の影響です」
「もう夕日ほとんどないよ」
「照明です」
「街灯まだ点いてない」
「……気のせいです」
奏斗は視線をそらし、逃走した車の方向を見る。
「今は敵の追跡が優先です」
「逃げた」
「話題を戻しただけです」
「変態なのは否定する?」
「当然です」
「本当に事故?」
「本当に事故です」
千束が立ち上がる。
服についた汚れを払う。
「助けてくれたのは、ありがと」
「怪我はありませんか?」
「うん」
「痛む場所は?」
「胸」
奏斗の表情が固まる。
「強く押しましたか?」
「触られたから」
「千束」
「冗談」
千束が笑う。
「奏斗、すごい顔」
「冗談にする内容ではありません」
「仕返し」
「何のですか?」
「ファミレスで私を慌てさせた」
「昨日の話でしょう」
「覚えてるよ」
「記憶力の使い方が間違っています」
「自分に都合の良いことだけ」
「自覚しているのですね」
奏斗は周囲を警戒しながら、逃走車両の情報を端末へ送信する。
千束も表情を少し引き締めた。
「さっきの車、私たちを狙ったよね」
「はい」
「運転してた人、見えた?」
「完全には。体格から男性の可能性があります」
「昨日の監視してた人かな」
「分かりません」
「休日の予定も知られてた?」
「可能性があります」
今日の予定を知っていた者。
リコリコの四人。
千束と奏斗。
直接連絡を取った監視担当者。
それだけではない。
二人が商業施設へ入ってから尾行された可能性もある。
「尾行に気づきませんでした」
奏斗が低い声で言う。
「私も」
「どこから追われていたか分かりません」
「今日ずっと見られてたかも?」
「可能性は否定できません」
千束は鞄についた赤い猫のキーホルダーを見る。
少しだけ表情が曇る。
「せっかく楽しかったのに」
「今日の外出を後悔していますか?」
「してないよ」
千束はすぐに答える。
「最後に襲われたからって、今日一日が全部嫌になるわけじゃない」
「そうですか」
「服も買えたし、ケーキも食べたし、ゲームもしたし」
キーホルダーを持ち上げる。
「お揃いも買った」
「はい」
「奏斗に胸も触られた」
「最後に追加しないでください」
「大事な思い出」
「忘れてください」
「無理」
「千束」
「奏斗が困るから覚えとく」
「性格が悪くありませんか?」
「今日、変態扱いされた記念」
「記念にしないでください」
千束は楽しそうに笑う。
奏斗は大きく息を吐いた。
敵の襲撃。
尾行の可能性。
内部からの情報漏洩。
警戒すべき点は増えた。
それでも、千束の笑顔を見ると、今日の外出そのものが間違いだったとは思えなかった。
「帰りましょう」
「うん」
「今後は人通りの多い道を選びます」
「奏斗」
「何ですか?」
「次に車が来ても、胸以外で助けてね」
「選べる状況なら」
「また触る可能性あるの?」
「言葉の綾です」
「変態」
「違います」
「奏斗の変態」
「明日から護衛担当を交代してもらいますよ」
「それは嫌」
千束が即答する。
「じゃあ変態って言わないでください」
「奏斗」
「はい」
「変態護衛」
「悪化しています」
千束が声を上げて笑う。
奏斗は呆れながらも、少しだけ笑った。
二人は再び並んで歩き始める。
奏斗は車道側。
千束は建物側。
鞄には色違いの猫のキーホルダー。
楽しかった休日は、最後に襲撃を受けた。
敵はまた一つ、二人の日常へ踏み込んできた。
それでも。
千束の新しい服も。
カフェで食べた甘いものも。
ゲームセンターでの勝負も。
お揃いのキーホルダーも。
なかったことにはならない。
「奏斗」
「今度は何ですか?」
「今日はありがと」
「護衛のことですか?」
「全部」
千束が笑う。
「楽しかった」
奏斗は少しだけ間を置いた。
「私もです」
「じゃあ、また行こうね」
「安全が確認できれば」
「そこは、うん、でいいの」
「……はい」
「約束?」
「約束です」
千束の笑顔が、さらに大きくなる。
「よし!」
「その代わり」
「何?」
「今日の事故については忘れてください」
「それは無理」
「では約束は撤回します」
「駄目!」
「条件交渉です」
「奏斗の変態」
「帰りますよ」
二人の声が、夕暮れの道へ続いていく。
逃走した車は、もう見えない。
けれど、日常のすぐ隣まで迫った敵の気配だけは、確かに残っていた。