翌朝。
喫茶リコリコの扉を開けた瞬間、私は嫌な予感がした。
店内はまだ開店前。
先生は厨房で仕込み中。
奏斗はカウンターの奥で、昨日使った器具の確認をしている。
そしてミズキは、窓際の席に座りながらコーヒーを飲んでいた。
いつもなら、この時間のミズキは眠そうにしている。
昨日の夜に飲みすぎた日は、もっとひどい。
髪は少し乱れ、眼鏡の奥の目は半分くらいしか開いていない。コーヒーを薬みたいな顔で飲みながら、朝なんてなくなればいいのに、とか言っている。
ところが今日は違った。
扉を開けた私を見た瞬間、目がはっきりと開いた。
口元が、楽しそうに曲がる。
「おはよう、千束」
「……おはよう、ミズキ」
声が少し警戒気味になった。
「昨日はどうだった?」
やっぱり。
絶対に聞かれると思っていた。
「普通」
「普通って?」
「普通に遊びに行った」
「服を買って、カフェに行って、ゲームセンターに行ったのよね?」
「何で知ってるの?」
「昨日、予定を立ててたでしょうが」
「そうだった」
私は鞄を置きながら、ミズキの前を通り過ぎようとする。
しかし、ミズキが片手を伸ばして私の腕をつかんだ。
「待ちなさいよ」
「開店準備あるから」
「まだ時間あるでしょ」
「忙しいの」
「先生」
ミズキが厨房へ声をかける。
「千束、今忙しい?」
「まだ余裕はある」
先生が落ち着いた声で答えた。
「先生!」
逃げ道を塞がれた。
ミズキは満足そうに、向かいの椅子を指さす。
「座りなさい」
「尋問?」
「昨日の休日についての報告会」
「奏斗に聞けば?」
カウンターの奥にいる奏斗を見る。
奏斗はこちらを一度見たあと、すぐに視線を器具へ戻した。
「私はすでに、昨日の襲撃について報告しました」
「襲撃の話じゃないのよ」
ミズキが言う。
「何を食べたとか、何を買ったとか、どっちから誘ったとか」
「それは報告する必要がありません」
「ほら、奏斗君も隠す気よ」
「隠しているのではなく、業務と無関係です」
「一日一緒に出かけたのに?」
「護衛任務です」
「はいはい」
ミズキは完全に信じていない顔をした。
私は仕方なく椅子へ座る。
「別に普通だったよ」
「朝は奏斗君が迎えに来たの?」
「うん」
「どんな服だった?」
「普通」
「千束は?」
「普通」
「会話にならないわね」
ミズキはコーヒーを一口飲む。
「奏斗君に服を選んでもらったんでしょ?」
「……何でそれ知ってるの?」
「顔に書いてある」
「書いてない!」
「今日、紙袋持ってきてるじゃない」
ミズキが入口近くへ置いた袋を指さした。
昨日買った上着。
店へ持ってきた理由は、先生とミズキに見せようと思ったからだ。
でも、今の流れでは見せたくない。
「それは自分で選んだの」
「奏斗君は何て言った?」
「似合うって」
「へえ」
ミズキの笑みが深くなる。
「何、その顔」
「別にぃ?」
「絶対何か思ってる!」
「奏斗君に服を選んでもらって、似合うって言われて、うれしかったのね」
「普通にうれしいでしょ!」
「誰に言われても?」
「それは……」
一瞬だけ言葉に詰まる。
ミズキがそこを見逃すはずがなかった。
「奏斗君だから?」
「違う!」
「まだ何も言ってないわよ」
「言ったじゃん!」
「奏斗君だから特別うれしかったの?」
「だから違うって!」
店内に私の声が響く。
奏斗が静かにこちらを見る。
「朝から元気ですね」
「奏斗も何か言って!」
「何をですか?」
「ミズキを止めて」
「私には難しいと思います」
「早い段階で諦めないでよ!」
ミズキが笑う。
「それで、カフェでは?」
「パフェ食べた」
「奏斗君は?」
「チョコレートケーキ」
「交換した?」
「何で分かるの!?」
「したのね」
「あ」
言ってしまった。
「一口交換しただけ!」
「間接キスね」
「違う!」
「食器は別です」
奏斗が淡々と訂正する。
「私の皿へ千束が少量置き、私も千束の皿へケーキを移しました。直接同じ食器を使用していないため、一般的に言われる間接的接触には該当しないかと」
「何でそんなに詳しく説明するのよ」
ミズキが呆れた顔をする。
「誤解を訂正しただけです」
「奏斗、そこまで言わなくていいから!」
「事実確認は重要です」
「こういうときだけ任務みたいにしないで!」
私はテーブルへ突っ伏したくなった。
まだ朝なのに疲れる。
「ゲームセンターでは何したの?」
ミズキは話を続ける。
「クレーンゲームとか」
「何か取った?」
「奏斗が大きいぬいぐるみ取ってくれた」
「へえ」
「あと、お揃いのキーホルダー買った」
言った直後。
奏斗が手を止めた。
ミズキの目も光った。
「お揃い?」
「色違い」
「どこにつけてるの?」
「鞄」
私は自分の鞄を持ち上げる。
赤い猫のキーホルダーが揺れる。
ミズキはすぐ奏斗の方を見る。
「奏斗君は?」
「普段使用している鞄です」
「今日持ってきてる?」
「持っていますが」
「見せて」
「なぜですか?」
「お揃いなんでしょう?」
「色が違います」
「見せなさいよ」
「嫌です」
「何で?」
「騒がれることが分かっているからです」
「もう騒いでる」
私が言うと、奏斗は小さく息を吐いた。
「千束が先に話したのでしょう」
「うっ」
「自分から情報を出しておいて、私へ助けを求めないでください」
「奏斗も仲間でしょ!」
「こういう場合だけ仲間を強調しますね」
「友達!」
「さらに強くなりましたね」
先生が厨房から出てくる。
「お揃いのキーホルダーか」
「先生まで聞いてたの?」
「店内で話しているからな」
先生の顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。
「良い思い出になったようだな」
「うん!」
先生に言われると、素直に答えられた。
昨日は楽しかった。
最後に車で襲われたけれど。
それでも、一日全部が嫌な記憶になったわけじゃない。
服を選んでもらったことも。
甘いものを交換したことも。
ゲームで勝ったり負けたりしたことも。
お揃いのキーホルダーも。
全部、楽しかった。
「で?」
ミズキが身を乗り出す。
「それだけ?」
「それだけって?」
「帰りに何かあったんじゃないの?」
私は固まった。
奏斗も動きを止めた。
ほんの一瞬。
でも、ミズキには十分だった。
「何かあったのね」
「何もない!」
「反応が分かりやすすぎるわよ」
「車に襲われたことなら、すでに先生へ報告しています」
奏斗が言う。
「それは聞いたわ」
「では、ほかにはありません」
「奏斗君」
「何ですか?」
「今、千束より先に答えたわね」
「襲撃に関する報告責任があるためです」
「怪しい」
「何がですか?」
「車を避けるとき、何かしたんじゃないの?」
どうしてこの人は、こういうときだけ妙に鋭いのだろう。
私は視線をそらした。
奏斗は無表情を保っている。
でも、少しだけ耳が赤いように見えた。
「千束」
ミズキが私を呼ぶ。
「何?」
「奏斗君に抱きしめられた?」
「違う!」
「違うの?」
「その……避けるために押された」
「どこを?」
答えたくない。
絶対に。
「肩?」
「……違う」
「腰?」
「違う」
「じゃあどこよ」
「もういいでしょ!」
「良くない!」
ミズキは完全に楽しんでいる。
奏斗が静かに口を開いた。
「車両を避ける際、千束の体を押して移動させました」
「だからどこを?」
「位置を選ぶ時間はありませんでした」
「奏斗」
私は嫌な予感がして、奏斗を止めようとした。
「千束の胸部へ手が当たりました」
「奏斗!」
全部言った。
店内が静かになる。
先生は少しだけ目を見開いた。
ミズキは口を半分開けたまま止まっている。
数秒後。
「……胸?」
ミズキがゆっくり聞き返した。
「事故です」
奏斗が即座に補足する。
「奏斗君が、千束の?」
「事故です」
「思いっきり触った」
「千束!」
「だって本当じゃん!」
「悪意のある説明をしないでください」
ミズキの口元が震え始める。
笑いを我慢している。
「奏斗君」
「何ですか?」
「変態」
「違います」
「この変態護衛!」
「不可抗力です」
「千束、大丈夫だった?」
ミズキが私を見る。
「何が?」
「お嫁に行ける?」
私は一瞬考えた。
そして。
「もうお嫁にいけない」
「千束!」
奏斗の声が少し大きくなる。
ミズキが机を叩いて笑い出した。
「ちょっと、朝から笑わせないでよ!」
「笑い事ではありません」
「奏斗のせいで、もうお嫁にいけない」
私は両手で顔を覆う。
わざとらしく肩を震わせる。
「責任を取って」
「何の責任ですか?」
「お嫁にいけなくなった責任」
「事故だと説明しました」
「触ったことは認めるんだ」
「接触した事実は認めますが、意図はありません」
「変態」
「違います」
「変態奏斗」
「護衛担当の変更を申請しますよ」
「それは嫌」
私はすぐに顔を上げた。
ミズキが笑いを止め、私を見る。
しまった。
「へえ」
「何?」
「変態でも、奏斗君がいいんだ?」
「そういう意味じゃない!」
「じゃあ代えてもらえば?」
「慣れてるから!」
「奏斗君に?」
「護衛に!」
「胸を触られるのにも?」
「ミズキ!」
また笑い声が店内に響く。
奏斗は完全に呆れた顔をしていた。
「先生」
「何だ?」
「開店準備を始めてもよろしいですか?」
「ああ」
「逃げる気ね」
ミズキが言う。
「通常業務です」
「変態護衛さん、カップ並べて」
「その呼び方はやめてください」
「奏斗の変態」
「千束まで続けないでください」
奏斗はカウンターの奥へ戻る。
私はその背中を見ながら笑った。
昨日のことを思い出すと、まだ少し顔が熱くなる。
本当に事故だった。
奏斗が助けてくれなければ、私は車に轢かれていたかもしれない。
分かっている。
だから怒ってはいない。
ただ。
奏斗が珍しく本気で困っているから、少しからかいたくなるだけ。
「千束」
先生が小さな声で呼ぶ。
「何?」
「ほどほどにな」
「分かってるよ」
「奏斗は本当に気にしている」
「……そうなの?」
「自分の判断で、お前へ不快な思いをさせたと思っている」
奏斗を見る。
カップを並べる手は、いつもどおり正確だった。
でも、こちらを一度も見ない。
「あとで、ちゃんと怒ってないって言う」
「そうしなさい」
「でも変態は言う」
「ほどほどにな」
先生はもう一度同じことを言った。
◇
開店すると、店内はいつもどおりの空気になった。
先生は厨房。
ミズキはカウンター。
私と奏斗が接客。
「いらっしゃいませー!」
「いらっしゃいませ」
朝の最初のお客さんは、近所の会社員だった。
コーヒーとトースト。
次に常連のおばさん。
それから、買い物帰りの夫婦。
奏斗は普段と変わらない様子で注文を取り、料理を運んでいる。
朝の話を引きずっているようには見えない。
ただ、私が近くを通るたびに少しだけ距離を取っていた。
「奏斗」
「何ですか?」
「何で避けるの?」
「接触しないためです」
「普通に歩けばぶつからないよ」
「念のためです」
「意識しすぎ」
「千束に変態扱いされたくないので」
「もうしたよ」
「これ以上増やさないでください」
小声で話していると、近くの常連客が首を傾げる。
「二人とも何の話?」
「店内で安全に歩く方法です」
奏斗が即座に答える。
「そんな話してた?」
「はい」
「奏斗、嘘うまくなったね」
「千束」
「何でもないです!」
私は笑って別のテーブルへ向かった。
昼前。
店内に、二人組の若い女性客が入ってきた。
何度か来ている人たちだった。
たぶん、奏斗が店員になってから来るようになった。
二人とも大学生くらい。
いつも窓際の席へ座り、長めに話していく。
注文を取るのは、なぜか毎回奏斗。
今日も入口から店内を見たあと、奏斗を見つけて少しうれしそうな顔をした。
「奏斗、二名様!」
「分かりました」
奏斗が水とメニューを持って向かう。
私は別の客の食器を下げながら、その様子を横目で見た。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
「ありがとうございます」
女性の一人が奏斗へ笑顔を向ける。
もう一人も小さく笑っている。
奏斗はいつもどおり。
特別愛想がいいわけでもない。
冷たいわけでもない。
自然な店員の笑顔。
それなのに、二人は楽しそうだった。
「千束」
横からミズキの声。
「何?」
「手止まってる」
「あ」
持っていた皿を慌てて重ねる。
「落とさないでよ」
「分かってる」
「何見てたの?」
「別に」
「奏斗君?」
「違う!」
ミズキの目が細くなる。
「まだ何も言ってないわよ」
「言ったじゃん!」
「奏斗君を見てたの?」
「店内を見てたの!」
「その割に、一か所しか見てなかったけど」
「ミズキも仕事して!」
「してるわよ」
私は食器を持って厨房へ逃げた。
しばらくして、二人組の女性客が注文する。
パスタとケーキ。
奏斗が料理を運ぶ。
そのたびに、二人は奏斗へ何か話しかけていた。
学校のこと。
この店でいつ働いているのか。
好きなメニューは何か。
奏斗は答えられる範囲で、穏やかに返している。
見ていて、何となく落ち着かない。
仕事なんだから普通。
常連さんとの会話だって大事。
私も毎日やっている。
それなのに。
「千束ちゃん、コーヒーお願い」
別の常連客に呼ばれる。
「はーい!」
私はいつもより少し大きな声で返事をした。
コーヒーを運ぶ。
笑顔で話す。
普段どおり。
でも、耳は二人組の席の方へ向いていた。
食事が終わり、二人が会計へ向かう。
レジにいるのは奏斗。
私は少し離れたテーブルを拭いていた。
「ありがとうございました」
奏斗が会計を終える。
女性の一人が財布をしまいながら、少し迷うような顔をした。
「あの」
「はい」
「押村さんって、連絡先聞いても大丈夫ですか?」
私の手が止まった。
布巾を持ったまま、耳だけがはっきりと反応する。
店内にいるほかのお客さんは、特に気にしていない。
でも私には、その言葉だけがやけに大きく聞こえた。
奏斗は一瞬、女性を見る。
「申し訳ありません」
穏やかな声。
「個人的な連絡先は、お客様へお伝えしていません」
「あ、そうですよね」
女性は少し恥ずかしそうに笑う。
「すみません、急に」
「いえ」
「また来てもいいですか?」
「もちろんです。お待ちしております」
奏斗は自然に頭を下げた。
二人の女性客は店を出ていく。
「ありがとうございましたー!」
私は少し遅れて声を出した。
扉が閉まる。
胸の奥に、変な感じが残る。
連絡先を聞かれた瞬間。
嫌だった。
奏斗が教えるかもしれないと思った。
昨日、私と連絡先を交換したばかりなのに。
お揃いのキーホルダーも買ったのに。
また一緒に出かける約束もしたのに。
別の女の人と連絡を取るのが、何となく嫌だった。
でも。
奏斗が断った瞬間、ほっとした。
安心した。
「よかったわね」
真横から声がした。
「わっ!」
ミズキが立っていた。
「何が?」
「断ってくれて」
「聞いてたの?」
「同じ店内にいるもの」
「私は別に」
「連絡先教えるかもって心配した?」
「してない!」
「断って安心した?」
「してない!」
「じゃあ何で、さっきから口元が少し緩んでるの?」
私は自分の口元を触る。
「緩んでない!」
「分かりやすいわねぇ」
「違うって!」
「嫉妬した?」
「してない!」
少し声が大きくなった。
カウンターの奥にいた奏斗がこちらを見る。
「何かありましたか?」
「何もない!」
私は即答した。
ミズキが笑う。
「千束が――」
「ミズキ!」
私は全力でミズキの口を塞いだ。
「んー!」
「何も言わなくていいから!」
ミズキは私の手を外そうともがく。
「千束、何をしているのですか?」
奏斗が近づいてくる。
「ミズキが変なこと言おうとするから!」
「変なこと?」
「何でもない!」
「んんー!」
「静かにして!」
ミズキが私の手の下で笑っている。
絶対に楽しんでいる。
「千束」
奏斗が少し呆れた顔をする。
「ミズキさんが苦しそうです」
「大丈夫!」
「大丈夫には見えません」
「ミズキ、何も言わない?」
私は小声で確認する。
ミズキがうなずく。
「本当に?」
もう一度うなずく。
私はゆっくり手を離した。
「千束が嫉妬――」
「ミズキ!」
もう一度口を塞ぐ。
「約束したじゃん!」
「うなずいただけよ!」
ミズキが笑いながら私の手を外す。
「言わないとは言ってない」
「ずるい!」
「奏斗君」
「聞かなくていい!」
私は奏斗の前へ立ち、両腕を広げる。
物理的にミズキを隠す。
「千束が、さっきの女の子たちに連絡先を聞かれた奏斗君を見て――」
「わあああ!」
大声でかき消す。
店内のお客さんが驚いてこちらを見る。
先生が厨房から顔を出した。
「千束、店内だ」
「ごめんなさい!」
奏斗は私とミズキを交互に見る。
「私が連絡先を聞かれたことと、千束に何の関係があるのですか?」
「ない!」
「あるわよ」
「ミズキ!」
「嫉妬してたの」
言われた。
結局。
全部。
奏斗が目を瞬く。
「嫉妬?」
「違う!」
「断って安心してた」
「してない!」
「口元が緩んでた」
「ミズキの見間違い!」
「私、眼鏡かけてるけど見えてるわよ」
「だから何!」
奏斗はしばらく黙っていた。
私は顔が熱くなる。
逃げたい。
今すぐ厨房へ入って、先生の後ろに隠れたい。
「千束」
「何?」
「私が連絡先を教えなくて安心したのですか?」
「だから違う!」
「では、教えてもよかったと?」
「それも嫌!」
答えた瞬間。
自分で何を言ったのか分かった。
奏斗も少し目を見開く。
ミズキは勝ち誇った顔をしている。
「ほら」
「今のは!」
「今のは?」
「店員とお客さんだから!」
「それだけ?」
「奏斗が困るかもしれないから!」
「心配だったの?」
「友達だから!」
私は一気に言った。
「友達が、よく知らない人に連絡先聞かれてたら心配するでしょ!」
奏斗は少しだけ考える。
「そういうことですか」
「そう!」
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
奏斗は穏やかにうなずく。
ミズキが不満そうな顔をする。
「奏斗君、そこで納得する?」
「千束がそう言っているので」
「鈍いわねぇ」
「何がですか?」
「何でもない」
今度はミズキが諦めたように手を振った。
私はほっと息を吐く。
何とかごまかせた。
たぶん。
奏斗がカウンターへ戻ろうとする。
その途中で、一度だけ振り返った。
「ただ」
「何?」
「私が連絡先を教える予定はありません」
「……うん」
「業務上必要な相手以外へ、個人的に伝えるつもりもありません」
「何で私に言うの?」
「安心するのでしょう?」
奏斗の口元が少しだけ上がる。
「奏斗!」
「違いましたか?」
「もう!」
奏斗は小さく笑いながら戻っていく。
完全にからかわれた。
ミズキが私の肩へ腕を回す。
「奏斗君も分かってるんじゃない?」
「何を?」
「千束が気にしてたこと」
「友達だから!」
「はいはい」
「本当に!」
「そういうことにしておくわ」
私は奏斗の背中を見た。
何となく悔しい。
でも。
連絡先を教えるつもりはない。
そう言われて。
やっぱり少しだけ、うれしかった。
◇
夜。
千束にとって久しぶりとなる通常任務が入った。
標的は、違法武器の取引を行う小規模な犯罪グループ。
場所は、郊外の廃工場。
人数は六人。
装備は拳銃が中心。
前回のような不自然に簡単な任務ではない。
情報も、複数の経路から確認されている。
それでも、押村奏斗は完全には信用していなかった。
DAから共有された資料。
周辺地図。
監視映像。
内部の見取り図。
すべてを事前に確認した。
別の監視担当者からも、対象が現地にいることを確認している。
今回は罠ではない。
少なくとも、現時点で不自然な点はなかった。
「奏斗」
工場から少し離れた建物の陰で、千束が小声で呼ぶ。
「何ですか?」
「今日は、いつもより確認多くない?」
「前回の件がありますので」
「大丈夫だよ」
「何を根拠に?」
「ちゃんと敵いるし」
「見えていますか?」
「窓の近くに二人。奥に三人。もう一人はたぶん二階」
奏斗も確認していた人数と一致する。
「周囲に別の人影は?」
「今のところなし」
「地下通路は?」
「資料にはないね」
「資料を信用しすぎないでください」
「奏斗が調べたんでしょ?」
「確認できる範囲だけです」
千束は少し笑う。
「本当に心配性になったね」
「以前からです」
「前よりもっと」
「千束が何度も危険な状況になるからです」
「私のせい?」
「敵のせいです」
「そこは優しいんだ」
「事実を言っただけです」
千束は鞄から拳銃を取り出す。
赤い制服。
いつもの銃。
表情もいつもどおり明るい。
しかし、周囲への警戒は以前より強くなっていた。
窓の反射。
屋根。
足元。
背後。
敵だけではなく、さらに外側にいるかもしれない何者かを意識している。
奏斗にはそれが分かった。
「私が先に入ります」
「今日は私の任務」
「護衛として周囲を確認します」
「中は私がやるよ」
「必要なら介入します」
「五分で終わらせる」
「前回と同じことを言っていますね」
「今回は本当に」
「七分を超えたら減点です」
「また採点するの?」
「百点満点です」
「百二十点取ったら?」
「チョコレートパフェを一つ」
「本当?」
「自費ではありません」
「誰が払うの?」
「千束です」
「私が自分にご褒美あげるの!?」
「合理的です」
千束が小さく笑う。
「奏斗、待っててね」
「無理はしないでください」
「任せて」
千束は工場へ向かった。
奏斗は少し離れた位置から追う。
前回と同じ轍は踏まない。
千束だけを見るのではなく、周囲全体を確認する。
敵の動き。
逃走経路。
外から接近する人影。
通信反応。
不審な車両。
異常なし。
千束は建物の側面から内部へ入った。
数秒後。
「何だ、お前!」
男の声。
続いて銃声。
千束が柱の陰から飛び出す。
敵の銃口の向きを読み、弾丸を避ける。
走りながら非致死弾を二発。
一人の胸部。
もう一人の肩。
二人が倒れる。
「相変わらずですね」
奏斗は小さく呟く。
敵の一人が二階から銃を向ける。
奏斗は射線を確認する。
千束も気づいている。
発砲の瞬間、体を沈める。
弾丸が頭上を通過。
千束は手すりを蹴り、階段を数段飛ばして上がる。
敵の腕を払い、銃口を外へ向ける。
膝蹴り。
体勢を崩したところへ非致死弾。
三人目。
「三人!」
千束の声が通信へ入る。
「時間は二分です」
『まだ余裕!』
奥から二人が現れる。
一人は拳銃。
もう一人は金属製の棒。
千束は銃撃を避けながら距離を詰める。
棒が振り下ろされる。
体を横へずらす。
空振り。
相手の手首へ銃の底を打ち込み、武器を落とす。
腹部へ蹴り。
続けて足元へ非致死弾。
四人目。
もう一人が背後へ回る。
「後ろです」
『分かってる!』
千束は振り返らず、近くにあった金属板へ向けて一発撃つ。
弾丸が跳ね返り、背後の男の腕へ当たる。
「相変わらず無茶な角度ですね」
『当たったからいいの!』
五人目が倒れる。
残る一人。
工場奥から走って逃げようとしている。
「裏口へ向かっています」
『お願い!』
「介入していいのですか?」
『逃げちゃうでしょ!』
「採点対象外になりますよ」
『細かい!』
奏斗は裏口へ回る。
飛び出してきた男の前へ出る。
「止まってください」
「どけ!」
男が銃を向ける。
奏斗はその手首を撃った。
銃が落ちる。
男が怯んだ瞬間、足を払って地面へ倒す。
「六人目、確保しました」
千束が工場の中から走ってくる。
「奏斗が一人取ったから、私の点数下がる?」
「救援要請がありましたので、減点です」
「厳しい!」
「九十点」
「高い!」
「周囲を警戒しながら戦闘していました。以前より安全意識が高かった点を評価しました」
「先生みたい」
「褒めています」
「じゃあ百点にしてよ」
「五分三十四秒です」
「七分以内!」
「一人逃しました」
「奏斗が取ったじゃん」
「千束の担当です」
「じゃあ九十五点」
「交渉制ですか?」
「歓迎会のときは交渉してたよ」
「それは別です」
回収担当へ連絡する。
敵は全員生存。
一般人への被害なし。
千束にも負傷はない。
通常任務としては、問題なく成功だった。
◇
工場を出る前。
千束は周囲の確認を続けていた。
倒した敵の武器。
奥の扉。
二階の窓。
外へ通じる通路。
「異常はありません」
奏斗が言う。
「本当に?」
「周辺監視からも報告なしです」
「じゃあ終わりだね」
「はい」
千束が笑う。
その頬に、黒い汚れがついていた。
戦闘中、柱か床へ触れた際についたのだろう。
「千束」
「何?」
「頬が汚れています」
「どこ?」
「右側です」
千束は自分の右頬を触る。
「そこではありません」
「もっと上?」
「反対です」
「左?」
「千束本人から見て右です」
「奏斗から見て?」
「左です」
「どっち?」
「今、説明しました」
千束は何度か頬をこする。
しかし、汚れとは違う場所ばかり触っている。
「取れた?」
「取れていません」
「ここ?」
「違います」
「分かんない!」
千束が少し不満そうに言う。
奏斗はポケットからハンカチを取り出した。
「動かないでください」
「え?」
奏斗は千束へ一歩近づく。
頬の汚れを拭うため、ハンカチを持った手を伸ばす。
その瞬間。
千束が驚いたように体を引いた。
「何するの!?」
奏斗の手が止まる。
「汚れを拭こうとしただけです」
「自分で拭ける!」
「先ほどから場所が分かっていませんでした」
「教えてくれればいいじゃん!」
「何度も教えました」
「もっと正確に!」
「頬の中央付近です」
「最初からそう言って!」
「右側と言いました」
「顔近い!」
「拭くためです」
「急に来たからびっくりしたの!」
千束の顔が少し赤い。
戦闘直後だから体温が上がっているのか。
工場内が暑いのか。
奏斗には判断できない。
「すみません」
奏斗は少し距離を取った。
「驚かせるつもりはありませんでした」
「……うん」
千束も少しだけ目をそらす。
「ハンカチ貸して」
「自分で分かりますか?」
「鏡見る」
千束は端末の画面を使って顔を確認する。
「あ、本当だ」
「かなり分かりやすくついています」
「奏斗、笑ってた?」
「笑っていません」
「絶対少し面白がってた」
「汚れたまま得意そうに採点交渉をしていたので」
「やっぱり!」
千束はハンカチで頬を拭く。
黒い汚れが少しずつ取れる。
「取れた?」
「まだ少し残っています」
「どこ?」
「先ほどと同じ場所です」
「分かんない」
千束はまた違う場所を拭く。
奏斗は小さく息を吐いた。
「貸してください」
「え」
「自分で取れていません」
「でも」
「今度は先に言いました」
奏斗が手を差し出す。
千束は少し迷ったあと、ハンカチを渡した。
「動かないでください」
「近づきすぎないでね」
「拭けません」
「ちょっとだけ」
「無理な要求です」
奏斗はゆっくり手を伸ばす。
先ほどよりも慎重に。
千束はなぜか体を固くしている。
ハンカチで頬へ触れる。
軽く一度拭く。
汚れが取れる。
「終わりました」
「早い」
「汚れを拭いただけです」
「……そうだよね」
千束は頬へ手を当てる。
顔はまだ少し赤い。
「どうしました?」
「何でもない!」
「体調が悪いのですか?」
「違う!」
「顔が赤いですが」
「戦ったから!」
「終了してから時間が経っています」
「工場が暑い!」
「外は涼しいです」
「奏斗!」
「はい」
「変態!」
奏斗は完全に動きを止めた。
「なぜですか?」
「顔近づけた!」
「頬の汚れを拭くためです」
「ハンカチで触った!」
「そのためのハンカチです」
「昨日は胸、今日は顔!」
「意味が違いすぎます」
「変態護衛!」
「ミズキさんの呼び方を持ち込まないでください」
千束は少しだけ恥ずかしそうな顔で、奏斗からハンカチを奪い取る。
「これ洗って返す」
「必要ありません」
「汚れたから」
「捨てるほどではありません」
「私が洗う!」
「分かりました」
奏斗はまだ納得できなかった。
「ですが、なぜ変態なのですか?」
「知らない!」
「千束が言ったのでしょう」
「奏斗が悪い!」
「理不尽ですね」
「女の子の顔を急に拭こうとするから!」
「汚れていたので」
「普通はもっと聞くの!」
「拭いていいですか、と?」
「そう!」
「先ほど動かないでくださいと言いました」
「許可じゃない!」
「なるほど」
「何が?」
「次からは確認します」
「次もあるの?」
「汚れていれば」
「また顔触る気?」
「ハンカチです」
「変態!」
「会話が戻りましたね」
千束はぷいっと顔をそらす。
奏斗はその横顔を見る。
頬の汚れは取れている。
耳まで少し赤い。
怒っているようには見えない。
むしろ。
何かを恥ずかしがっているように見える。
「千束」
「何?」
「照れていますか?」
「照れてない!」
即答。
奏斗は少しだけ口元を緩めた。
「分かりやすいですね」
「奏斗!」
「店で聞いた言葉を返しました」
「変態のくせに!」
「違います」
「胸触った」
「事故です」
「顔も触った」
「ハンカチです」
「次はどこ?」
「何もしません」
「本当?」
「千束が警戒するので」
「警戒するよ。奏斗の変態」
「では今後、汚れていても放置します」
「それは教えて!」
「教えました」
「ちゃんと分かるように!」
「鏡を持ち歩いてください」
「護衛が教えてよ」
「要求が多いですね」
二人は工場を出る。
夜風が頬を冷やす。
千束は少し前を歩いていた。
奏斗はいつもの位置へ戻り、周囲を警戒する。
「千束」
「今度は何?」
「ハンカチは返してください」
「洗って返すって言った」
「今後の任務で必要です」
「予備あるでしょ?」
「ありますが」
「じゃあ借りる」
「なくさないでください」
「洗って、きれいに畳んで返すよ」
「変な装飾は不要です」
「刺繍しようかな」
「やめてください」
「猫」
「必要ありません」
「お揃いのキーホルダーと同じ猫」
「さらに不要です」
「かわいいよ」
「任務中に使用できなくなります」
「じゃあ普段用」
「ハンカチを用途別にするのですか?」
「奏斗がくれたやつ」
「貸しただけです」
「私の顔拭いたやつ」
「その表現はやめてください」
千束が振り返る。
もう顔の赤みは少し引いていた。
いつもの笑顔。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日もありがと」
「任務のことですか?」
「それも。汚れ取ってくれたことも」
「その直後に変態扱いされましたが」
「それはそれ」
「便利ですね」
「でも、次はちゃんと聞いてね」
「拭いてもいいですか、と?」
「うん」
「分かりました」
「素直」
「同じ誤解を避けるためです」
「変態って言われたくない?」
「当然です」
「でもミズキはもう呼ぶと思う」
「原因は千束です」
「私だけじゃないよ」
「最初に言ったのは千束です」
「昨日は本当に胸触ったから」
「事故です」
「今日も顔触った」
「ハンカチです」
「変態」
「帰りますよ」
奏斗は歩く速度を少し上げる。
千束もすぐに隣へ並んだ。
「逃げた」
「帰路についているだけです」
「明日、ミズキに言おう」
「何をですか?」
「奏斗に顔拭かれた」
「絶対にやめてください」
「何で?」
「面倒になるからです」
「じゃあ内緒?」
「はい」
「二人だけの秘密?」
奏斗は一瞬、言葉に詰まる。
「その言い方もやめてください」
「照れてる?」
「照れていません」
「耳赤いよ」
「夜間です。見えるのですか?」
「何となく」
「適当ですね」
千束は笑う。
奏斗も小さく笑った。
任務は、何事もなく終わった。
敵の罠も。
不自然な監視者も。
新たな襲撃もなかった。
ただの通常任務。
それが久しぶりに感じるほど、最近は異常なことが続いていた。
奏斗は周囲を確認しながら、千束と並んで帰路につく。
横では、千束がまだ頬を時々触っている。
「千束」
「何?」
「まだ痛みますか?」
「違う」
「では?」
「何でもない」
「そうですか」
「奏斗」
「はい」
「本当に、照れてないからね」
「自分から言うと、逆に見えますよ」
「変態!」
「またですか」
二人の声が、夜道へ小さく響いた。
平穏な任務の帰り道。
それでも二人の間には、昨日までとは少し違う空気が流れていた。