君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十一話 変態護衛と、顔の汚れ

 翌朝。

 

 喫茶リコリコの扉を開けた瞬間、私は嫌な予感がした。

 

 店内はまだ開店前。

 

 先生は厨房で仕込み中。

 

 奏斗はカウンターの奥で、昨日使った器具の確認をしている。

 

 そしてミズキは、窓際の席に座りながらコーヒーを飲んでいた。

 

 いつもなら、この時間のミズキは眠そうにしている。

 

 昨日の夜に飲みすぎた日は、もっとひどい。

 

 髪は少し乱れ、眼鏡の奥の目は半分くらいしか開いていない。コーヒーを薬みたいな顔で飲みながら、朝なんてなくなればいいのに、とか言っている。

 

 ところが今日は違った。

 

 扉を開けた私を見た瞬間、目がはっきりと開いた。

 

 口元が、楽しそうに曲がる。

 

「おはよう、千束」

 

「……おはよう、ミズキ」

 

 声が少し警戒気味になった。

 

「昨日はどうだった?」

 

 やっぱり。

 

 絶対に聞かれると思っていた。

 

「普通」

 

「普通って?」

 

「普通に遊びに行った」

 

「服を買って、カフェに行って、ゲームセンターに行ったのよね?」

 

「何で知ってるの?」

 

「昨日、予定を立ててたでしょうが」

 

「そうだった」

 

 私は鞄を置きながら、ミズキの前を通り過ぎようとする。

 

 しかし、ミズキが片手を伸ばして私の腕をつかんだ。

 

「待ちなさいよ」

 

「開店準備あるから」

 

「まだ時間あるでしょ」

 

「忙しいの」

 

「先生」

 

 ミズキが厨房へ声をかける。

 

「千束、今忙しい?」

 

「まだ余裕はある」

 

 先生が落ち着いた声で答えた。

 

「先生!」

 

 逃げ道を塞がれた。

 

 ミズキは満足そうに、向かいの椅子を指さす。

 

「座りなさい」

 

「尋問?」

 

「昨日の休日についての報告会」

 

「奏斗に聞けば?」

 

 カウンターの奥にいる奏斗を見る。

 

 奏斗はこちらを一度見たあと、すぐに視線を器具へ戻した。

 

「私はすでに、昨日の襲撃について報告しました」

 

「襲撃の話じゃないのよ」

 

 ミズキが言う。

 

「何を食べたとか、何を買ったとか、どっちから誘ったとか」

 

「それは報告する必要がありません」

 

「ほら、奏斗君も隠す気よ」

 

「隠しているのではなく、業務と無関係です」

 

「一日一緒に出かけたのに?」

 

「護衛任務です」

 

「はいはい」

 

 ミズキは完全に信じていない顔をした。

 

 私は仕方なく椅子へ座る。

 

「別に普通だったよ」

 

「朝は奏斗君が迎えに来たの?」

 

「うん」

 

「どんな服だった?」

 

「普通」

 

「千束は?」

 

「普通」

 

「会話にならないわね」

 

 ミズキはコーヒーを一口飲む。

 

「奏斗君に服を選んでもらったんでしょ?」

 

「……何でそれ知ってるの?」

 

「顔に書いてある」

 

「書いてない!」

 

「今日、紙袋持ってきてるじゃない」

 

 ミズキが入口近くへ置いた袋を指さした。

 

 昨日買った上着。

 

 店へ持ってきた理由は、先生とミズキに見せようと思ったからだ。

 

 でも、今の流れでは見せたくない。

 

「それは自分で選んだの」

 

「奏斗君は何て言った?」

 

「似合うって」

 

「へえ」

 

 ミズキの笑みが深くなる。

 

「何、その顔」

 

「別にぃ?」

 

「絶対何か思ってる!」

 

「奏斗君に服を選んでもらって、似合うって言われて、うれしかったのね」

 

「普通にうれしいでしょ!」

 

「誰に言われても?」

 

「それは……」

 

 一瞬だけ言葉に詰まる。

 

 ミズキがそこを見逃すはずがなかった。

 

「奏斗君だから?」

 

「違う!」

 

「まだ何も言ってないわよ」

 

「言ったじゃん!」

 

「奏斗君だから特別うれしかったの?」

 

「だから違うって!」

 

 店内に私の声が響く。

 

 奏斗が静かにこちらを見る。

 

「朝から元気ですね」

 

「奏斗も何か言って!」

 

「何をですか?」

 

「ミズキを止めて」

 

「私には難しいと思います」

 

「早い段階で諦めないでよ!」

 

 ミズキが笑う。

 

「それで、カフェでは?」

 

「パフェ食べた」

 

「奏斗君は?」

 

「チョコレートケーキ」

 

「交換した?」

 

「何で分かるの!?」

 

「したのね」

 

「あ」

 

 言ってしまった。

 

「一口交換しただけ!」

 

「間接キスね」

 

「違う!」

 

「食器は別です」

 

 奏斗が淡々と訂正する。

 

「私の皿へ千束が少量置き、私も千束の皿へケーキを移しました。直接同じ食器を使用していないため、一般的に言われる間接的接触には該当しないかと」

 

「何でそんなに詳しく説明するのよ」

 

 ミズキが呆れた顔をする。

 

「誤解を訂正しただけです」

 

「奏斗、そこまで言わなくていいから!」

 

「事実確認は重要です」

 

「こういうときだけ任務みたいにしないで!」

 

 私はテーブルへ突っ伏したくなった。

 

 まだ朝なのに疲れる。

 

「ゲームセンターでは何したの?」

 

 ミズキは話を続ける。

 

「クレーンゲームとか」

 

「何か取った?」

 

「奏斗が大きいぬいぐるみ取ってくれた」

 

「へえ」

 

「あと、お揃いのキーホルダー買った」

 

 言った直後。

 

 奏斗が手を止めた。

 

 ミズキの目も光った。

 

「お揃い?」

 

「色違い」

 

「どこにつけてるの?」

 

「鞄」

 

 私は自分の鞄を持ち上げる。

 

 赤い猫のキーホルダーが揺れる。

 

 ミズキはすぐ奏斗の方を見る。

 

「奏斗君は?」

 

「普段使用している鞄です」

 

「今日持ってきてる?」

 

「持っていますが」

 

「見せて」

 

「なぜですか?」

 

「お揃いなんでしょう?」

 

「色が違います」

 

「見せなさいよ」

 

「嫌です」

 

「何で?」

 

「騒がれることが分かっているからです」

 

「もう騒いでる」

 

 私が言うと、奏斗は小さく息を吐いた。

 

「千束が先に話したのでしょう」

 

「うっ」

 

「自分から情報を出しておいて、私へ助けを求めないでください」

 

「奏斗も仲間でしょ!」

 

「こういう場合だけ仲間を強調しますね」

 

「友達!」

 

「さらに強くなりましたね」

 

 先生が厨房から出てくる。

 

「お揃いのキーホルダーか」

 

「先生まで聞いてたの?」

 

「店内で話しているからな」

 

 先生の顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。

 

「良い思い出になったようだな」

 

「うん!」

 

 先生に言われると、素直に答えられた。

 

 昨日は楽しかった。

 

 最後に車で襲われたけれど。

 

 それでも、一日全部が嫌な記憶になったわけじゃない。

 

 服を選んでもらったことも。

 

 甘いものを交換したことも。

 

 ゲームで勝ったり負けたりしたことも。

 

 お揃いのキーホルダーも。

 

 全部、楽しかった。

 

「で?」

 

 ミズキが身を乗り出す。

 

「それだけ?」

 

「それだけって?」

 

「帰りに何かあったんじゃないの?」

 

 私は固まった。

 

 奏斗も動きを止めた。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも、ミズキには十分だった。

 

「何かあったのね」

 

「何もない!」

 

「反応が分かりやすすぎるわよ」

 

「車に襲われたことなら、すでに先生へ報告しています」

 

 奏斗が言う。

 

「それは聞いたわ」

 

「では、ほかにはありません」

 

「奏斗君」

 

「何ですか?」

 

「今、千束より先に答えたわね」

 

「襲撃に関する報告責任があるためです」

 

「怪しい」

 

「何がですか?」

 

「車を避けるとき、何かしたんじゃないの?」

 

 どうしてこの人は、こういうときだけ妙に鋭いのだろう。

 

 私は視線をそらした。

 

 奏斗は無表情を保っている。

 

 でも、少しだけ耳が赤いように見えた。

 

「千束」

 

 ミズキが私を呼ぶ。

 

「何?」

 

「奏斗君に抱きしめられた?」

 

「違う!」

 

「違うの?」

 

「その……避けるために押された」

 

「どこを?」

 

 答えたくない。

 

 絶対に。

 

「肩?」

 

「……違う」

 

「腰?」

 

「違う」

 

「じゃあどこよ」

 

「もういいでしょ!」

 

「良くない!」

 

 ミズキは完全に楽しんでいる。

 

 奏斗が静かに口を開いた。

 

「車両を避ける際、千束の体を押して移動させました」

 

「だからどこを?」

 

「位置を選ぶ時間はありませんでした」

 

「奏斗」

 

 私は嫌な予感がして、奏斗を止めようとした。

 

「千束の胸部へ手が当たりました」

 

「奏斗!」

 

 全部言った。

 

 店内が静かになる。

 

 先生は少しだけ目を見開いた。

 

 ミズキは口を半分開けたまま止まっている。

 

 数秒後。

 

「……胸?」

 

 ミズキがゆっくり聞き返した。

 

「事故です」

 

 奏斗が即座に補足する。

 

「奏斗君が、千束の?」

 

「事故です」

 

「思いっきり触った」

 

「千束!」

 

「だって本当じゃん!」

 

「悪意のある説明をしないでください」

 

 ミズキの口元が震え始める。

 

 笑いを我慢している。

 

「奏斗君」

 

「何ですか?」

 

「変態」

 

「違います」

 

「この変態護衛!」

 

「不可抗力です」

 

「千束、大丈夫だった?」

 

 ミズキが私を見る。

 

「何が?」

 

「お嫁に行ける?」

 

 私は一瞬考えた。

 

 そして。

 

「もうお嫁にいけない」

 

「千束!」

 

 奏斗の声が少し大きくなる。

 

 ミズキが机を叩いて笑い出した。

 

「ちょっと、朝から笑わせないでよ!」

 

「笑い事ではありません」

 

「奏斗のせいで、もうお嫁にいけない」

 

 私は両手で顔を覆う。

 

 わざとらしく肩を震わせる。

 

「責任を取って」

 

「何の責任ですか?」

 

「お嫁にいけなくなった責任」

 

「事故だと説明しました」

 

「触ったことは認めるんだ」

 

「接触した事実は認めますが、意図はありません」

 

「変態」

 

「違います」

 

「変態奏斗」

 

「護衛担当の変更を申請しますよ」

 

「それは嫌」

 

 私はすぐに顔を上げた。

 

 ミズキが笑いを止め、私を見る。

 

 しまった。

 

「へえ」

 

「何?」

 

「変態でも、奏斗君がいいんだ?」

 

「そういう意味じゃない!」

 

「じゃあ代えてもらえば?」

 

「慣れてるから!」

 

「奏斗君に?」

 

「護衛に!」

 

「胸を触られるのにも?」

 

「ミズキ!」

 

 また笑い声が店内に響く。

 

 奏斗は完全に呆れた顔をしていた。

 

「先生」

 

「何だ?」

 

「開店準備を始めてもよろしいですか?」

 

「ああ」

 

「逃げる気ね」

 

 ミズキが言う。

 

「通常業務です」

 

「変態護衛さん、カップ並べて」

 

「その呼び方はやめてください」

 

「奏斗の変態」

 

「千束まで続けないでください」

 

 奏斗はカウンターの奥へ戻る。

 

 私はその背中を見ながら笑った。

 

 昨日のことを思い出すと、まだ少し顔が熱くなる。

 

 本当に事故だった。

 

 奏斗が助けてくれなければ、私は車に轢かれていたかもしれない。

 

 分かっている。

 

 だから怒ってはいない。

 

 ただ。

 

 奏斗が珍しく本気で困っているから、少しからかいたくなるだけ。

 

「千束」

 

 先生が小さな声で呼ぶ。

 

「何?」

 

「ほどほどにな」

 

「分かってるよ」

 

「奏斗は本当に気にしている」

 

「……そうなの?」

 

「自分の判断で、お前へ不快な思いをさせたと思っている」

 

 奏斗を見る。

 

 カップを並べる手は、いつもどおり正確だった。

 

 でも、こちらを一度も見ない。

 

「あとで、ちゃんと怒ってないって言う」

 

「そうしなさい」

 

「でも変態は言う」

 

「ほどほどにな」

 

 先生はもう一度同じことを言った。

 

     ◇

 

 開店すると、店内はいつもどおりの空気になった。

 

 先生は厨房。

 

 ミズキはカウンター。

 

 私と奏斗が接客。

 

「いらっしゃいませー!」

 

「いらっしゃいませ」

 

 朝の最初のお客さんは、近所の会社員だった。

 

 コーヒーとトースト。

 

 次に常連のおばさん。

 

 それから、買い物帰りの夫婦。

 

 奏斗は普段と変わらない様子で注文を取り、料理を運んでいる。

 

 朝の話を引きずっているようには見えない。

 

 ただ、私が近くを通るたびに少しだけ距離を取っていた。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「何で避けるの?」

 

「接触しないためです」

 

「普通に歩けばぶつからないよ」

 

「念のためです」

 

「意識しすぎ」

 

「千束に変態扱いされたくないので」

 

「もうしたよ」

 

「これ以上増やさないでください」

 

 小声で話していると、近くの常連客が首を傾げる。

 

「二人とも何の話?」

 

「店内で安全に歩く方法です」

 

 奏斗が即座に答える。

 

「そんな話してた?」

 

「はい」

 

「奏斗、嘘うまくなったね」

 

「千束」

 

「何でもないです!」

 

 私は笑って別のテーブルへ向かった。

 

 昼前。

 

 店内に、二人組の若い女性客が入ってきた。

 

 何度か来ている人たちだった。

 

 たぶん、奏斗が店員になってから来るようになった。

 

 二人とも大学生くらい。

 

 いつも窓際の席へ座り、長めに話していく。

 

 注文を取るのは、なぜか毎回奏斗。

 

 今日も入口から店内を見たあと、奏斗を見つけて少しうれしそうな顔をした。

 

「奏斗、二名様!」

 

「分かりました」

 

 奏斗が水とメニューを持って向かう。

 

 私は別の客の食器を下げながら、その様子を横目で見た。

 

「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」

 

「ありがとうございます」

 

 女性の一人が奏斗へ笑顔を向ける。

 

 もう一人も小さく笑っている。

 

 奏斗はいつもどおり。

 

 特別愛想がいいわけでもない。

 

 冷たいわけでもない。

 

 自然な店員の笑顔。

 

 それなのに、二人は楽しそうだった。

 

「千束」

 

 横からミズキの声。

 

「何?」

 

「手止まってる」

 

「あ」

 

 持っていた皿を慌てて重ねる。

 

「落とさないでよ」

 

「分かってる」

 

「何見てたの?」

 

「別に」

 

「奏斗君?」

 

「違う!」

 

 ミズキの目が細くなる。

 

「まだ何も言ってないわよ」

 

「言ったじゃん!」

 

「奏斗君を見てたの?」

 

「店内を見てたの!」

 

「その割に、一か所しか見てなかったけど」

 

「ミズキも仕事して!」

 

「してるわよ」

 

 私は食器を持って厨房へ逃げた。

 

 しばらくして、二人組の女性客が注文する。

 

 パスタとケーキ。

 

 奏斗が料理を運ぶ。

 

 そのたびに、二人は奏斗へ何か話しかけていた。

 

 学校のこと。

 

 この店でいつ働いているのか。

 

 好きなメニューは何か。

 

 奏斗は答えられる範囲で、穏やかに返している。

 

 見ていて、何となく落ち着かない。

 

 仕事なんだから普通。

 

 常連さんとの会話だって大事。

 

 私も毎日やっている。

 

 それなのに。

 

「千束ちゃん、コーヒーお願い」

 

 別の常連客に呼ばれる。

 

「はーい!」

 

 私はいつもより少し大きな声で返事をした。

 

 コーヒーを運ぶ。

 

 笑顔で話す。

 

 普段どおり。

 

 でも、耳は二人組の席の方へ向いていた。

 

 食事が終わり、二人が会計へ向かう。

 

 レジにいるのは奏斗。

 

 私は少し離れたテーブルを拭いていた。

 

「ありがとうございました」

 

 奏斗が会計を終える。

 

 女性の一人が財布をしまいながら、少し迷うような顔をした。

 

「あの」

 

「はい」

 

「押村さんって、連絡先聞いても大丈夫ですか?」

 

 私の手が止まった。

 

 布巾を持ったまま、耳だけがはっきりと反応する。

 

 店内にいるほかのお客さんは、特に気にしていない。

 

 でも私には、その言葉だけがやけに大きく聞こえた。

 

 奏斗は一瞬、女性を見る。

 

「申し訳ありません」

 

 穏やかな声。

 

「個人的な連絡先は、お客様へお伝えしていません」

 

「あ、そうですよね」

 

 女性は少し恥ずかしそうに笑う。

 

「すみません、急に」

 

「いえ」

 

「また来てもいいですか?」

 

「もちろんです。お待ちしております」

 

 奏斗は自然に頭を下げた。

 

 二人の女性客は店を出ていく。

 

「ありがとうございましたー!」

 

 私は少し遅れて声を出した。

 

 扉が閉まる。

 

 胸の奥に、変な感じが残る。

 

 連絡先を聞かれた瞬間。

 

 嫌だった。

 

 奏斗が教えるかもしれないと思った。

 

 昨日、私と連絡先を交換したばかりなのに。

 

 お揃いのキーホルダーも買ったのに。

 

 また一緒に出かける約束もしたのに。

 

 別の女の人と連絡を取るのが、何となく嫌だった。

 

 でも。

 

 奏斗が断った瞬間、ほっとした。

 

 安心した。

 

「よかったわね」

 

 真横から声がした。

 

「わっ!」

 

 ミズキが立っていた。

 

「何が?」

 

「断ってくれて」

 

「聞いてたの?」

 

「同じ店内にいるもの」

 

「私は別に」

 

「連絡先教えるかもって心配した?」

 

「してない!」

 

「断って安心した?」

 

「してない!」

 

「じゃあ何で、さっきから口元が少し緩んでるの?」

 

 私は自分の口元を触る。

 

「緩んでない!」

 

「分かりやすいわねぇ」

 

「違うって!」

 

「嫉妬した?」

 

「してない!」

 

 少し声が大きくなった。

 

 カウンターの奥にいた奏斗がこちらを見る。

 

「何かありましたか?」

 

「何もない!」

 

 私は即答した。

 

 ミズキが笑う。

 

「千束が――」

 

「ミズキ!」

 

 私は全力でミズキの口を塞いだ。

 

「んー!」

 

「何も言わなくていいから!」

 

 ミズキは私の手を外そうともがく。

 

「千束、何をしているのですか?」

 

 奏斗が近づいてくる。

 

「ミズキが変なこと言おうとするから!」

 

「変なこと?」

 

「何でもない!」

 

「んんー!」

 

「静かにして!」

 

 ミズキが私の手の下で笑っている。

 

 絶対に楽しんでいる。

 

「千束」

 

 奏斗が少し呆れた顔をする。

 

「ミズキさんが苦しそうです」

 

「大丈夫!」

 

「大丈夫には見えません」

 

「ミズキ、何も言わない?」

 

 私は小声で確認する。

 

 ミズキがうなずく。

 

「本当に?」

 

 もう一度うなずく。

 

 私はゆっくり手を離した。

 

「千束が嫉妬――」

 

「ミズキ!」

 

 もう一度口を塞ぐ。

 

「約束したじゃん!」

 

「うなずいただけよ!」

 

 ミズキが笑いながら私の手を外す。

 

「言わないとは言ってない」

 

「ずるい!」

 

「奏斗君」

 

「聞かなくていい!」

 

 私は奏斗の前へ立ち、両腕を広げる。

 

 物理的にミズキを隠す。

 

「千束が、さっきの女の子たちに連絡先を聞かれた奏斗君を見て――」

 

「わあああ!」

 

 大声でかき消す。

 

 店内のお客さんが驚いてこちらを見る。

 

 先生が厨房から顔を出した。

 

「千束、店内だ」

 

「ごめんなさい!」

 

 奏斗は私とミズキを交互に見る。

 

「私が連絡先を聞かれたことと、千束に何の関係があるのですか?」

 

「ない!」

 

「あるわよ」

 

「ミズキ!」

 

「嫉妬してたの」

 

 言われた。

 

 結局。

 

 全部。

 

 奏斗が目を瞬く。

 

「嫉妬?」

 

「違う!」

 

「断って安心してた」

 

「してない!」

 

「口元が緩んでた」

 

「ミズキの見間違い!」

 

「私、眼鏡かけてるけど見えてるわよ」

 

「だから何!」

 

 奏斗はしばらく黙っていた。

 

 私は顔が熱くなる。

 

 逃げたい。

 

 今すぐ厨房へ入って、先生の後ろに隠れたい。

 

「千束」

 

「何?」

 

「私が連絡先を教えなくて安心したのですか?」

 

「だから違う!」

 

「では、教えてもよかったと?」

 

「それも嫌!」

 

 答えた瞬間。

 

 自分で何を言ったのか分かった。

 

 奏斗も少し目を見開く。

 

 ミズキは勝ち誇った顔をしている。

 

「ほら」

 

「今のは!」

 

「今のは?」

 

「店員とお客さんだから!」

 

「それだけ?」

 

「奏斗が困るかもしれないから!」

 

「心配だったの?」

 

「友達だから!」

 

 私は一気に言った。

 

「友達が、よく知らない人に連絡先聞かれてたら心配するでしょ!」

 

 奏斗は少しだけ考える。

 

「そういうことですか」

 

「そう!」

 

「分かりました」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 奏斗は穏やかにうなずく。

 

 ミズキが不満そうな顔をする。

 

「奏斗君、そこで納得する?」

 

「千束がそう言っているので」

 

「鈍いわねぇ」

 

「何がですか?」

 

「何でもない」

 

 今度はミズキが諦めたように手を振った。

 

 私はほっと息を吐く。

 

 何とかごまかせた。

 

 たぶん。

 

 奏斗がカウンターへ戻ろうとする。

 

 その途中で、一度だけ振り返った。

 

「ただ」

 

「何?」

 

「私が連絡先を教える予定はありません」

 

「……うん」

 

「業務上必要な相手以外へ、個人的に伝えるつもりもありません」

 

「何で私に言うの?」

 

「安心するのでしょう?」

 

 奏斗の口元が少しだけ上がる。

 

「奏斗!」

 

「違いましたか?」

 

「もう!」

 

 奏斗は小さく笑いながら戻っていく。

 

 完全にからかわれた。

 

 ミズキが私の肩へ腕を回す。

 

「奏斗君も分かってるんじゃない?」

 

「何を?」

 

「千束が気にしてたこと」

 

「友達だから!」

 

「はいはい」

 

「本当に!」

 

「そういうことにしておくわ」

 

 私は奏斗の背中を見た。

 

 何となく悔しい。

 

 でも。

 

 連絡先を教えるつもりはない。

 

 そう言われて。

 

 やっぱり少しだけ、うれしかった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 千束にとって久しぶりとなる通常任務が入った。

 

 標的は、違法武器の取引を行う小規模な犯罪グループ。

 

 場所は、郊外の廃工場。

 

 人数は六人。

 

 装備は拳銃が中心。

 

 前回のような不自然に簡単な任務ではない。

 

 情報も、複数の経路から確認されている。

 

 それでも、押村奏斗は完全には信用していなかった。

 

 DAから共有された資料。

 

 周辺地図。

 

 監視映像。

 

 内部の見取り図。

 

 すべてを事前に確認した。

 

 別の監視担当者からも、対象が現地にいることを確認している。

 

 今回は罠ではない。

 

 少なくとも、現時点で不自然な点はなかった。

 

「奏斗」

 

 工場から少し離れた建物の陰で、千束が小声で呼ぶ。

 

「何ですか?」

 

「今日は、いつもより確認多くない?」

 

「前回の件がありますので」

 

「大丈夫だよ」

 

「何を根拠に?」

 

「ちゃんと敵いるし」

 

「見えていますか?」

 

「窓の近くに二人。奥に三人。もう一人はたぶん二階」

 

 奏斗も確認していた人数と一致する。

 

「周囲に別の人影は?」

 

「今のところなし」

 

「地下通路は?」

 

「資料にはないね」

 

「資料を信用しすぎないでください」

 

「奏斗が調べたんでしょ?」

 

「確認できる範囲だけです」

 

 千束は少し笑う。

 

「本当に心配性になったね」

 

「以前からです」

 

「前よりもっと」

 

「千束が何度も危険な状況になるからです」

 

「私のせい?」

 

「敵のせいです」

 

「そこは優しいんだ」

 

「事実を言っただけです」

 

 千束は鞄から拳銃を取り出す。

 

 赤い制服。

 

 いつもの銃。

 

 表情もいつもどおり明るい。

 

 しかし、周囲への警戒は以前より強くなっていた。

 

 窓の反射。

 

 屋根。

 

 足元。

 

 背後。

 

 敵だけではなく、さらに外側にいるかもしれない何者かを意識している。

 

 奏斗にはそれが分かった。

 

「私が先に入ります」

 

「今日は私の任務」

 

「護衛として周囲を確認します」

 

「中は私がやるよ」

 

「必要なら介入します」

 

「五分で終わらせる」

 

「前回と同じことを言っていますね」

 

「今回は本当に」

 

「七分を超えたら減点です」

 

「また採点するの?」

 

「百点満点です」

 

「百二十点取ったら?」

 

「チョコレートパフェを一つ」

 

「本当?」

 

「自費ではありません」

 

「誰が払うの?」

 

「千束です」

 

「私が自分にご褒美あげるの!?」

 

「合理的です」

 

 千束が小さく笑う。

 

「奏斗、待っててね」

 

「無理はしないでください」

 

「任せて」

 

 千束は工場へ向かった。

 

 奏斗は少し離れた位置から追う。

 

 前回と同じ轍は踏まない。

 

 千束だけを見るのではなく、周囲全体を確認する。

 

 敵の動き。

 

 逃走経路。

 

 外から接近する人影。

 

 通信反応。

 

 不審な車両。

 

 異常なし。

 

 千束は建物の側面から内部へ入った。

 

 数秒後。

 

「何だ、お前!」

 

 男の声。

 

 続いて銃声。

 

 千束が柱の陰から飛び出す。

 

 敵の銃口の向きを読み、弾丸を避ける。

 

 走りながら非致死弾を二発。

 

 一人の胸部。

 

 もう一人の肩。

 

 二人が倒れる。

 

「相変わらずですね」

 

 奏斗は小さく呟く。

 

 敵の一人が二階から銃を向ける。

 

 奏斗は射線を確認する。

 

 千束も気づいている。

 

 発砲の瞬間、体を沈める。

 

 弾丸が頭上を通過。

 

 千束は手すりを蹴り、階段を数段飛ばして上がる。

 

 敵の腕を払い、銃口を外へ向ける。

 

 膝蹴り。

 

 体勢を崩したところへ非致死弾。

 

 三人目。

 

「三人!」

 

 千束の声が通信へ入る。

 

「時間は二分です」

 

『まだ余裕!』

 

 奥から二人が現れる。

 

 一人は拳銃。

 

 もう一人は金属製の棒。

 

 千束は銃撃を避けながら距離を詰める。

 

 棒が振り下ろされる。

 

 体を横へずらす。

 

 空振り。

 

 相手の手首へ銃の底を打ち込み、武器を落とす。

 

 腹部へ蹴り。

 

 続けて足元へ非致死弾。

 

 四人目。

 

 もう一人が背後へ回る。

 

「後ろです」

 

『分かってる!』

 

 千束は振り返らず、近くにあった金属板へ向けて一発撃つ。

 

 弾丸が跳ね返り、背後の男の腕へ当たる。

 

「相変わらず無茶な角度ですね」

 

『当たったからいいの!』

 

 五人目が倒れる。

 

 残る一人。

 

 工場奥から走って逃げようとしている。

 

「裏口へ向かっています」

 

『お願い!』

 

「介入していいのですか?」

 

『逃げちゃうでしょ!』

 

「採点対象外になりますよ」

 

『細かい!』

 

 奏斗は裏口へ回る。

 

 飛び出してきた男の前へ出る。

 

「止まってください」

 

「どけ!」

 

 男が銃を向ける。

 

 奏斗はその手首を撃った。

 

 銃が落ちる。

 

 男が怯んだ瞬間、足を払って地面へ倒す。

 

「六人目、確保しました」

 

 千束が工場の中から走ってくる。

 

「奏斗が一人取ったから、私の点数下がる?」

 

「救援要請がありましたので、減点です」

 

「厳しい!」

 

「九十点」

 

「高い!」

 

「周囲を警戒しながら戦闘していました。以前より安全意識が高かった点を評価しました」

 

「先生みたい」

 

「褒めています」

 

「じゃあ百点にしてよ」

 

「五分三十四秒です」

 

「七分以内!」

 

「一人逃しました」

 

「奏斗が取ったじゃん」

 

「千束の担当です」

 

「じゃあ九十五点」

 

「交渉制ですか?」

 

「歓迎会のときは交渉してたよ」

 

「それは別です」

 

 回収担当へ連絡する。

 

 敵は全員生存。

 

 一般人への被害なし。

 

 千束にも負傷はない。

 

 通常任務としては、問題なく成功だった。

 

     ◇

 

 工場を出る前。

 

 千束は周囲の確認を続けていた。

 

 倒した敵の武器。

 

 奥の扉。

 

 二階の窓。

 

 外へ通じる通路。

 

「異常はありません」

 

 奏斗が言う。

 

「本当に?」

 

「周辺監視からも報告なしです」

 

「じゃあ終わりだね」

 

「はい」

 

 千束が笑う。

 

 その頬に、黒い汚れがついていた。

 

 戦闘中、柱か床へ触れた際についたのだろう。

 

「千束」

 

「何?」

 

「頬が汚れています」

 

「どこ?」

 

「右側です」

 

 千束は自分の右頬を触る。

 

「そこではありません」

 

「もっと上?」

 

「反対です」

 

「左?」

 

「千束本人から見て右です」

 

「奏斗から見て?」

 

「左です」

 

「どっち?」

 

「今、説明しました」

 

 千束は何度か頬をこする。

 

 しかし、汚れとは違う場所ばかり触っている。

 

「取れた?」

 

「取れていません」

 

「ここ?」

 

「違います」

 

「分かんない!」

 

 千束が少し不満そうに言う。

 

 奏斗はポケットからハンカチを取り出した。

 

「動かないでください」

 

「え?」

 

 奏斗は千束へ一歩近づく。

 

 頬の汚れを拭うため、ハンカチを持った手を伸ばす。

 

 その瞬間。

 

 千束が驚いたように体を引いた。

 

「何するの!?」

 

 奏斗の手が止まる。

 

「汚れを拭こうとしただけです」

 

「自分で拭ける!」

 

「先ほどから場所が分かっていませんでした」

 

「教えてくれればいいじゃん!」

 

「何度も教えました」

 

「もっと正確に!」

 

「頬の中央付近です」

 

「最初からそう言って!」

 

「右側と言いました」

 

「顔近い!」

 

「拭くためです」

 

「急に来たからびっくりしたの!」

 

 千束の顔が少し赤い。

 

 戦闘直後だから体温が上がっているのか。

 

 工場内が暑いのか。

 

 奏斗には判断できない。

 

「すみません」

 

 奏斗は少し距離を取った。

 

「驚かせるつもりはありませんでした」

 

「……うん」

 

 千束も少しだけ目をそらす。

 

「ハンカチ貸して」

 

「自分で分かりますか?」

 

「鏡見る」

 

 千束は端末の画面を使って顔を確認する。

 

「あ、本当だ」

 

「かなり分かりやすくついています」

 

「奏斗、笑ってた?」

 

「笑っていません」

 

「絶対少し面白がってた」

 

「汚れたまま得意そうに採点交渉をしていたので」

 

「やっぱり!」

 

 千束はハンカチで頬を拭く。

 

 黒い汚れが少しずつ取れる。

 

「取れた?」

 

「まだ少し残っています」

 

「どこ?」

 

「先ほどと同じ場所です」

 

「分かんない」

 

 千束はまた違う場所を拭く。

 

 奏斗は小さく息を吐いた。

 

「貸してください」

 

「え」

 

「自分で取れていません」

 

「でも」

 

「今度は先に言いました」

 

 奏斗が手を差し出す。

 

 千束は少し迷ったあと、ハンカチを渡した。

 

「動かないでください」

 

「近づきすぎないでね」

 

「拭けません」

 

「ちょっとだけ」

 

「無理な要求です」

 

 奏斗はゆっくり手を伸ばす。

 

 先ほどよりも慎重に。

 

 千束はなぜか体を固くしている。

 

 ハンカチで頬へ触れる。

 

 軽く一度拭く。

 

 汚れが取れる。

 

「終わりました」

 

「早い」

 

「汚れを拭いただけです」

 

「……そうだよね」

 

 千束は頬へ手を当てる。

 

 顔はまだ少し赤い。

 

「どうしました?」

 

「何でもない!」

 

「体調が悪いのですか?」

 

「違う!」

 

「顔が赤いですが」

 

「戦ったから!」

 

「終了してから時間が経っています」

 

「工場が暑い!」

 

「外は涼しいです」

 

「奏斗!」

 

「はい」

 

「変態!」

 

 奏斗は完全に動きを止めた。

 

「なぜですか?」

 

「顔近づけた!」

 

「頬の汚れを拭くためです」

 

「ハンカチで触った!」

 

「そのためのハンカチです」

 

「昨日は胸、今日は顔!」

 

「意味が違いすぎます」

 

「変態護衛!」

 

「ミズキさんの呼び方を持ち込まないでください」

 

 千束は少しだけ恥ずかしそうな顔で、奏斗からハンカチを奪い取る。

 

「これ洗って返す」

 

「必要ありません」

 

「汚れたから」

 

「捨てるほどではありません」

 

「私が洗う!」

 

「分かりました」

 

 奏斗はまだ納得できなかった。

 

「ですが、なぜ変態なのですか?」

 

「知らない!」

 

「千束が言ったのでしょう」

 

「奏斗が悪い!」

 

「理不尽ですね」

 

「女の子の顔を急に拭こうとするから!」

 

「汚れていたので」

 

「普通はもっと聞くの!」

 

「拭いていいですか、と?」

 

「そう!」

 

「先ほど動かないでくださいと言いました」

 

「許可じゃない!」

 

「なるほど」

 

「何が?」

 

「次からは確認します」

 

「次もあるの?」

 

「汚れていれば」

 

「また顔触る気?」

 

「ハンカチです」

 

「変態!」

 

「会話が戻りましたね」

 

 千束はぷいっと顔をそらす。

 

 奏斗はその横顔を見る。

 

 頬の汚れは取れている。

 

 耳まで少し赤い。

 

 怒っているようには見えない。

 

 むしろ。

 

 何かを恥ずかしがっているように見える。

 

「千束」

 

「何?」

 

「照れていますか?」

 

「照れてない!」

 

 即答。

 

 奏斗は少しだけ口元を緩めた。

 

「分かりやすいですね」

 

「奏斗!」

 

「店で聞いた言葉を返しました」

 

「変態のくせに!」

 

「違います」

 

「胸触った」

 

「事故です」

 

「顔も触った」

 

「ハンカチです」

 

「次はどこ?」

 

「何もしません」

 

「本当?」

 

「千束が警戒するので」

 

「警戒するよ。奏斗の変態」

 

「では今後、汚れていても放置します」

 

「それは教えて!」

 

「教えました」

 

「ちゃんと分かるように!」

 

「鏡を持ち歩いてください」

 

「護衛が教えてよ」

 

「要求が多いですね」

 

 二人は工場を出る。

 

 夜風が頬を冷やす。

 

 千束は少し前を歩いていた。

 

 奏斗はいつもの位置へ戻り、周囲を警戒する。

 

「千束」

 

「今度は何?」

 

「ハンカチは返してください」

 

「洗って返すって言った」

 

「今後の任務で必要です」

 

「予備あるでしょ?」

 

「ありますが」

 

「じゃあ借りる」

 

「なくさないでください」

 

「洗って、きれいに畳んで返すよ」

 

「変な装飾は不要です」

 

「刺繍しようかな」

 

「やめてください」

 

「猫」

 

「必要ありません」

 

「お揃いのキーホルダーと同じ猫」

 

「さらに不要です」

 

「かわいいよ」

 

「任務中に使用できなくなります」

 

「じゃあ普段用」

 

「ハンカチを用途別にするのですか?」

 

「奏斗がくれたやつ」

 

「貸しただけです」

 

「私の顔拭いたやつ」

 

「その表現はやめてください」

 

 千束が振り返る。

 

 もう顔の赤みは少し引いていた。

 

 いつもの笑顔。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今日もありがと」

 

「任務のことですか?」

 

「それも。汚れ取ってくれたことも」

 

「その直後に変態扱いされましたが」

 

「それはそれ」

 

「便利ですね」

 

「でも、次はちゃんと聞いてね」

 

「拭いてもいいですか、と?」

 

「うん」

 

「分かりました」

 

「素直」

 

「同じ誤解を避けるためです」

 

「変態って言われたくない?」

 

「当然です」

 

「でもミズキはもう呼ぶと思う」

 

「原因は千束です」

 

「私だけじゃないよ」

 

「最初に言ったのは千束です」

 

「昨日は本当に胸触ったから」

 

「事故です」

 

「今日も顔触った」

 

「ハンカチです」

 

「変態」

 

「帰りますよ」

 

 奏斗は歩く速度を少し上げる。

 

 千束もすぐに隣へ並んだ。

 

「逃げた」

 

「帰路についているだけです」

 

「明日、ミズキに言おう」

 

「何をですか?」

 

「奏斗に顔拭かれた」

 

「絶対にやめてください」

 

「何で?」

 

「面倒になるからです」

 

「じゃあ内緒?」

 

「はい」

 

「二人だけの秘密?」

 

 奏斗は一瞬、言葉に詰まる。

 

「その言い方もやめてください」

 

「照れてる?」

 

「照れていません」

 

「耳赤いよ」

 

「夜間です。見えるのですか?」

 

「何となく」

 

「適当ですね」

 

 千束は笑う。

 

 奏斗も小さく笑った。

 

 任務は、何事もなく終わった。

 

 敵の罠も。

 

 不自然な監視者も。

 

 新たな襲撃もなかった。

 

 ただの通常任務。

 

 それが久しぶりに感じるほど、最近は異常なことが続いていた。

 

 奏斗は周囲を確認しながら、千束と並んで帰路につく。

 

 横では、千束がまだ頬を時々触っている。

 

「千束」

 

「何?」

 

「まだ痛みますか?」

 

「違う」

 

「では?」

 

「何でもない」

 

「そうですか」

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「本当に、照れてないからね」

 

「自分から言うと、逆に見えますよ」

 

「変態!」

 

「またですか」

 

 二人の声が、夜道へ小さく響いた。

 

 平穏な任務の帰り道。

 

 それでも二人の間には、昨日までとは少し違う空気が流れていた。

 

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