翌朝。
押村奏斗が喫茶リコリコの扉を開けた瞬間、店内から三つの視線が向けられた。
一つは、厨房に立つミカの穏やかな視線。
一つは、カウンター内で頬杖をつくミズキの、明らかに何かを企んでいる視線。
そしてもう一つは、テーブルを拭いていた千束の、どこか落ち着かない視線だった。
「おはようございます」
奏斗は何も気づいていないふりをして、普段どおり店内へ入った。
「おはよう、奏斗君」
ミズキがにやにやと笑う。
「昨日の夜はどうだった?」
「任務は問題なく完了しました」
「そうじゃなくて」
「ほかに何かありましたか?」
「千束の顔を拭いてあげたんですって?」
やはり知られていた。
予想はしていた。
千束が黙っていられる可能性は低いと思っていたし、たとえ千束が言わなくても、ハンカチを洗って返すという話からミズキが何かを察する可能性もある。
だが。
「千束」
奏斗はゆっくりと千束を見る。
「言ったのですか?」
「私は言ってないよ」
千束はすぐに両手を上げた。
「本当ですか?」
「本当! まだ!」
「今、まだと言いましたね」
「言おうかなとは思ってたけど」
「同じではありませんか」
「実際には言ってないもん」
「じゃあ、どうしてミズキさんが知っているのですか?」
奏斗が尋ねると、ミズキがテーブルの上を指さした。
そこには、きれいに洗われ、丁寧に畳まれたハンカチが置かれていた。
奏斗が昨夜、千束へ貸したものだった。
「朝来たら、千束がそれを畳みながら、ずっと顔を赤くしてたのよ」
「赤くしてない!」
「ハンカチを見て、思い出し笑いまでしてたじゃない」
「笑ってない!」
「じゃあ何してたの?」
「ちゃんと汚れ落ちたかなって見てただけ!」
「ずいぶん大事そうに持ってたわねぇ」
「借りたものだから!」
奏斗はテーブルへ近づき、ハンカチを手に取った。
きれいに洗われている。
アイロンまでかけられているのか、折り目も整っていた。
「ありがとうございます」
「うん」
千束は少しだけ視線をそらした。
「でも」
奏斗はハンカチを広げる。
隅に、小さな赤い猫の刺繍が入っていた。
ゲームセンターで買った、お揃いのキーホルダーと似た猫。
「これは何ですか?」
「かわいいでしょ?」
「装飾は不要だと言いました」
「小さいから任務中でも使えるよ」
「そういう問題ではありません」
「嫌?」
千束が少し不安そうに尋ねる。
奏斗は刺繍を見る。
慣れているとは言い難い縫い目。
少し形が歪んでいる。
おそらく、昨夜帰宅してから自分で縫ったのだろう。
「……嫌ではありません」
「じゃあ使ってね」
「任務では目立つ可能性があります」
「その小ささで?」
「可能性の話です」
「普段使いでいいよ」
「分かりました」
奏斗がハンカチを折り畳むと、ミズキが耐えきれないように笑い始めた。
「何ですか?」
「いやぁ、良かったわね、奏斗君」
「何がですか?」
「千束に顔拭き専用のハンカチ作ってもらえて」
「そのような用途ではありません」
「次はどこ拭いてもらうの?」
「ミズキさん」
「昨日は顔。その前は胸」
「言い方に悪意があります」
「順番が逆よ。先に胸、次に顔」
「訂正する必要がありますか?」
「奏斗君、着実に触る場所を増やしてるじゃない」
「増やしていません」
「変態護衛」
「予想どおりの呼び方ですね」
奏斗は呆れたように息を吐いた。
「ほら、千束も言ってあげなさいよ」
ミズキが千束を見る。
「奏斗の変態」
千束は少し笑いながら言う。
「千束まで」
「昨日急に顔に近づいてきたから」
「汚れを拭いただけでしょう」
「触る前に聞いてって言ったよね」
「次からは確認します」
「次も触るつもりなの?」
「汚れていれば」
「ほら、変態」
「会話が成立していません」
ミズキが笑いながら奏斗の肩を叩こうとする。
奏斗は自然に半歩避けた。
「また避けた」
「酒の匂いがします」
「朝から飲んでないわよ!」
「昨日のものが残っています」
「失礼ね!」
「事実です」
「千束には近づくくせに、私からは逃げるのね」
「必要性の違いです」
「私の顔が汚れてたら拭いてくれる?」
「自分で拭いてください」
「千束にはしたのに!」
「千束は何度説明しても違う場所を拭いていたので」
「奏斗!」
千束が声を上げる。
「そこまで言わなくていいでしょ!」
「事実です」
「私が不器用みたいじゃん」
「少なくとも、鏡なしで頬の位置を特定することは苦手なようです」
「普通、見えないから!」
「感覚である程度は分かります」
「奏斗が変なんだよ」
「私が変態で、変で、真面目すぎる。評価が増えましたね」
「甘党も」
「それは認めます」
奏斗が平然と答えると、千束が笑う。
ミズキも肩を揺らした。
厨房からミカが静かに声をかける。
「そろそろ開店準備を始めよう」
「はーい」
千束が返事をする。
「奏斗君」
ミズキがカウンターへ戻りながら言う。
「今日はお客さんの顔を拭いちゃ駄目よ」
「拭いません」
「千束だけ?」
「必要があれば」
「奏斗!」
「冗談です」
奏斗が小さく笑うと、千束は驚いた顔をした。
「今、自分から言った?」
「何がですか?」
「こういう冗談」
「リコリコの環境に適応しているだけです」
「良い成長だねぇ」
「原因の一部は千束です」
「半分?」
「二割です」
「減ってる!」
いつもの朝。
からかわれ、言い返し、笑い声が響く。
敵の存在を忘れたわけではない。
入口が開けば、奏斗はまず相手の手を見る。
窓の外に車が止まれば、運転席を確認する。
千束も、以前より周囲を意識するようになった。
それでも、店の中ではできる限り普通に過ごす。
それが、この場所を守ることにもつながる。
奏斗は猫の刺繍が入ったハンカチをポケットへしまい、開店準備へ取りかかった。
◇
その日の営業は、特に異常なく終わった。
奏斗を変態護衛と呼ぶ回数が増えたことを除けば。
千束は料理を運びながら、すれ違うたびに距離を取るふりをした。
「変態が近くにいる」
「接触しません」
「本当?」
「業務中です」
「業務外なら?」
「千束」
「冗談だよ」
常連客に、何の話をしているのか聞かれたときには、千束が言葉に詰まり、奏斗が「店内での接客距離についてです」と答えた。
完全な嘘ではない。
だが、ミズキはカウンターの奥で笑っていた。
夕方。
最後の客を見送ったあと、奏斗は端末へ届いた任務情報を確認した。
千束の夜間任務。
犯罪組織の拠点制圧。
対象は、国外から持ち込まれた武器を国内の反社会勢力へ流しているグループ。
人数は八名。
倉庫街にある古い事務所を拠点としている。
武器は拳銃と短機関銃。
情報はDA側だけではなく、別系統の監視記録とも一致している。
前回の罠を受け、奏斗自身が確認できる範囲で裏を取っていた。
指定時刻の二時間前までは、対象の出入りが確認されている。
不自然な点はない。
少なくとも、資料上は。
「今日、任務あるんだ」
千束が横から画面を覗く。
「はい」
「久しぶりって感じしないね」
「前回から数日です」
「その間に休みもあったから」
「楽しかったですか?」
「うん」
千束は迷わず答えた。
「奏斗は?」
「以前も答えました」
「もう一回」
「楽しかったです」
「素直」
「何度も聞かれると分かっているので」
「また行こうね」
「安全状況によります」
「約束したよ」
「覚えています」
「じゃあ次、どこ行く?」
「今日の任務が先です」
「真面目だなぁ」
千束は笑いながら、任務用の鞄を確認する。
奏斗も武器と装備を整えた。
昨夜のような通常任務であればいい。
何も起きず。
千束が対象を拘束し。
奏斗が周囲を警戒し。
帰り道に軽口を交わす。
それだけでいい。
だが、奏斗の胸の奥には、小さな違和感が残っていた。
今回の任務情報に、明確な異常はない。
だからこそ。
敵が意図的に普通の任務へ紛れ込む可能性もある。
◇
夜。
二人は倉庫街の外れに立っていた。
周囲には古い建物が並び、街灯も少ない。
対象の拠点は、二階建ての事務所。
一階は倉庫。
二階に事務スペースがある。
窓の一部から明かりが漏れていた。
「人いるね」
千束が小声で言う。
「熱源は確認できています」
「何人?」
「内部に八。ただし、動きが少なすぎます」
「寝てる?」
「全員が同時に?」
「会議中とか」
「その可能性もあります」
奏斗は周辺を確認する。
外部に見張りはいない。
駐車車両は三台。
資料に記載されたナンバーと一致。
出入口は正面と裏口。
建物周囲に不審な通信反応はない。
地下通路の存在も確認されていない。
「前回より普通だね」
千束が言う。
「普通すぎることが不自然にも思えます」
「疑い始めたら全部怪しく見えるよ」
「だから確認しています」
「奏斗、寝る前も周り確認してそう」
「します」
「本当に?」
「窓と扉の施錠は確認するでしょう」
「ベッドの下とか?」
「必要なら」
「何かいたら怖いね」
「人が隠れていれば気配で分かります」
「お化け」
「いません」
「夢がない」
「存在しないものを警戒する余裕はありません」
「奏斗がお化け苦手だったら面白いのに」
「苦手ではありません」
「今度、怖い映画見ようよ」
「護衛と関係がありますか?」
「休日の予定」
「今決めることではありません」
千束は楽しそうに笑う。
「行こうか」
「はい」
二人は建物へ接近する。
千束が正面。
奏斗は少し離れて周囲を警戒しながら続く。
入口は施錠されていた。
千束が器具を使って静かに解除する。
「開いた」
「内部の反応は?」
「変わらない」
「慎重に」
「分かってる」
扉を少し開く。
音はない。
人の話し声も。
足音も。
聞こえるのは、古い空調設備の低い音だけ。
千束が先に入る。
奏斗も続く。
薄暗い一階。
棚。
木箱。
机。
そして。
「……何これ」
千束の声が止まった。
床に、人が倒れていた。
一人。
二人。
奥にも複数。
全員、任務対象として共有された顔と一致する。
血の匂い。
火薬の残り香。
壁には弾痕。
床に転がる薬莢。
八人すべてが、すでに倒されていた。
奏斗はすぐに周囲へ銃を向ける。
「生存確認は後です。敵が残っている可能性があります」
「分かってる」
千束も笑顔を消し、銃を構える。
二人は背中合わせに近い位置を取る。
一階。
物陰。
階段。
二階。
気配はない。
奏斗は倒れている男の一人へ近づき、短時間だけ状態を確認する。
「死亡しています」
「ほかも?」
「おそらく」
傷は正確だった。
胸部。
頭部。
首。
致命箇所へ一発か二発。
無駄撃ちが少ない。
戦闘は長く続いていない。
「誰がやったのかな」
千束が小声で言う。
「不明です」
「DAの別部隊?」
「同じ対象へ重複した任務を出す理由がありません」
「リリベル?」
「私には共有されていません」
「内部の誰かが、先に片づけた?」
「可能性はあります」
奏斗は床の薬莢を確認する。
複数の口径。
一人によるものではない。
「犯行側は複数です」
「何人くらい?」
「少なくとも三人。射撃方向から考えれば四人以上の可能性があります」
四人。
その数字に、二人の間で同じ記憶が浮かんだ。
フードをかぶった四人組。
防弾装備。
偽の任務。
千束を人質にし、奏斗へ死を要求した敵。
「前の人たち?」
千束が尋ねる。
「断定できません」
「でも、人数は近い」
「はい」
奏斗は壁の弾痕を見る。
同じ高さ。
同じ間隔。
敵は対象を一か所へ追い込み、逃げ道を潰しながら撃っている。
訓練された動き。
ただ殲滅したのではない。
最初から全員を殺す目的で侵入した。
「私たちより先に入って、全員殺した」
千束の声が少し低くなる。
「任務情報を知っていた可能性があります」
「また漏れてた?」
「あるいは、敵自身がこの組織を監視していた」
「偶然同じ場所に来た?」
「可能性は低いです」
奏斗は階段へ視線を向ける。
二階に気配はない。
だが。
何かが引っかかる。
空調の音。
血の匂い。
古い建物の軋み。
その中に、ほんのわずかな違和感。
布がこすれるような音。
背後。
千束の右側。
「千束!」
奏斗は反射的に手を伸ばした。
千束を自分の側へ引き寄せ、射線から外す。
そうするはずだった。
いつもなら。
だが、その一瞬。
昨日、千束に変態と呼ばれたことが頭をよぎった。
胸へ触れた事故。
顔を拭こうとして避けられたこと。
触る前に聞いて。
次も触るつもりなの。
変態護衛。
ほんの一瞬。
本当に、一秒にも満たない時間。
奏斗の手が止まった。
千束のどこをつかむべきか。
肩か。
腕か。
腰か。
触れてもいいのか。
余計な躊躇い。
その遅れが、致命的だった。
銃声。
奏斗は千束を押し出す。
同時に、自分の左脇腹へ強い衝撃が走った。
「っ……!」
体が横へ崩れる。
弾丸は防護装備の端を抜け、脇腹をかすめていた。
完全な貫通ではない。
だが、皮膚と筋肉が裂け、熱い痛みが広がる。
「奏斗!」
千束が振り返る。
「前を見てください!」
奏斗は痛みを押し殺し、銃を向ける。
暗い二階の通路。
四つの影。
黒いフード。
顔を覆う装備。
以前の倉庫で襲ってきた四人組。
「やっぱり」
千束の声から明るさが消える。
「前の人たちだね」
四人は答えない。
奏斗と千束へ銃を向ける。
「遮蔽物へ!」
二人は同時に動く。
弾丸が床と壁を削る。
千束は倒れた棚の陰へ。
奏斗は柱の裏へ。
脇腹から血が流れる。
呼吸するたびに痛む。
「奏斗、傷は?」
「軽傷です」
「血出てる!」
「戦闘中です!」
敵の二人が階段を下りる。
残り二人は二階から射撃を続ける。
前回と同じ。
こちらの射撃方法を理解している。
千束の非致死弾を防ぐ装備。
奏斗の実弾を受け止める防弾板。
「足を狙います!」
「分かった!」
奏斗が柱から体を出し、敵の膝へ二発。
一発は外側の装甲へ当たる。
もう一発は関節部へ入った。
敵が体勢を崩す。
千束がその隙に飛び出す。
銃弾を避けながら距離を詰め、敵の手首へ非致死弾。
拳銃が落ちる。
続けて顎へ蹴り。
だが、もう一人が千束の背後へ回ろうとする。
「右です!」
奏斗が発砲。
敵の腕へ命中。
動きが止まる。
千束が振り返り、腹部へ三発。
防弾装備で止まるが、衝撃で敵が後退する。
「奏斗、大丈夫?」
「問題ありません」
「声がいつもと違う!」
「集中してください!」
二階の敵が何かを取り出した。
小型の円筒。
奏斗はすぐに気づく。
「閃光手榴弾!」
敵が投げる。
「目を閉じて!」
奏斗は千束の位置へ手を伸ばす。
今度は躊躇わない。
千束の肩をつかみ、床へ引き倒す。
二人で机の陰へ伏せる。
白い光。
爆音。
建物全体が揺れたような衝撃。
一瞬、音が遠くなる。
視界が白く染まる。
奏斗は目を閉じたまま、足音を聞こうとする。
四人分。
奥へ向かう。
窓ガラスが割れる音。
外へ逃げた。
「逃げる!」
千束が立ち上がろうとする。
奏斗は肩を押さえた。
「追わないでください」
「でも!」
「私が負傷しています」
千束の動きが止まる。
奏斗は柱へ手をつき、ゆっくり立ち上がる。
脇腹からの出血は続いている。
服の色が濃く変わっていた。
「奏斗」
千束がすぐに駆け寄る。
「見せて」
「敵の確認が先です」
「もういない」
「残っている可能性があります」
「私が見るから、奏斗は座って!」
「動けます」
「言うこと聞いて!」
千束の声が強くなる。
奏斗は一瞬、反論しようとした。
だが、痛みで呼吸が乱れ始めている。
この状態で追跡しても、千束の足を引っ張る。
「……分かりました」
奏斗は壁際へ腰を下ろした。
千束が周囲を確認する。
一階。
二階。
裏口。
窓。
四人組の姿はない。
外で待機していた車両も、すでに走り去ったようだった。
「いない」
千束が戻ってくる。
「応急処置するよ」
「自分でできます」
「黙って」
「千束」
「動かないで」
奏斗は口を閉じた。
千束が装備の上着を開き、傷の位置を確認する。
「かすっただけじゃない」
「弾丸は残っていません」
「傷深いよ」
「致命傷ではありません」
「だから大丈夫って?」
「はい」
「大丈夫じゃない」
千束の手が少し震えている。
奏斗はそれを見て、何も言えなくなった。
千束は止血材を傷口へ当て、強く押さえる。
「痛い?」
「問題ありません」
「痛いかって聞いてるの」
「……痛みはあります」
「最初から言ってよ」
「戦闘継続が可能だったので」
「もう終わったから」
千束は傷口を固定する。
「リリベルの医療班呼ぶ?」
「この現場は情報が漏れている可能性があります」
「じゃあリコリコ」
「ミカさんに負担をかけます」
「先生なら絶対そうしろって言う」
「しかし」
「私が連れて帰る」
千束は譲らなかった。
奏斗は少し考える。
敵は逃走。
現場には八人の遺体。
DAへ報告すれば、回収班が来る。
だが、自分たちの位置を敵が把握していた可能性が高い。
公式の医療施設へ移動すれば、さらに狙われる危険もある。
「分かりました。リコリコへ戻ります」
「歩ける?」
「はい」
「肩貸す」
「必要ありません」
「強がらないで」
「千束に支えられると、余計に目立ちます」
「人いないよ」
「建物を出れば分かりません」
「じゃあ、外までは貸す」
奏斗が立ち上がる。
足元がわずかに揺れる。
千束がすぐに腕を回し、支えた。
「ほら」
「一瞬です」
「倒れたらもっと恥ずかしいよ」
「恥ずかしさの問題ではありません」
「変態護衛が、次は貧血護衛になる」
「冗談を言う余裕があるなら安心しました」
「奏斗が心配させるから言ってるの」
千束の声は明るくしようとしていた。
だが、奏斗には分かった。
本当は、かなり動揺している。
奏斗は千束へ体重を預けすぎないよう、自分の足で歩いた。
◇
深夜の喫茶リコリコ。
店内の照明は最低限だけ点いていた。
ミズキは外出しており、不在。
連絡を受けたミカが、裏口から二人を中へ入れた。
「こちらへ」
普段客が座るテーブルではなく、店の奥。
簡易的な処置ができる部屋へ案内される。
奏斗は椅子へ座った。
ミカが上着を脱がせ、脇腹の傷を確認する。
「弾は?」
「かすめています。内部には残っていません」
「出血が多い」
「動脈は外れています」
「自分で診断するな」
ミカの声は穏やかだったが、いつもより少し厳しい。
「すみません」
「傷を洗う。痛むぞ」
「問題ありません」
「痛いなら言いなさい」
千束が横から口を挟む。
「千束」
「何?」
「先ほども同じ話をしました」
「言わないから何回も言うの」
ミカは傷口を洗浄し、縫合の準備をする。
奏斗は痛みに眉を寄せる。
「痛い?」
千束がすぐに聞く。
「少し」
「少しじゃない顔してる」
「どのような顔ですか?」
「我慢してる顔」
「普段と変わらないでしょう」
「分かるよ」
奏斗は返事をしなかった。
ミカが傷を縫い、消毒し、包帯を巻く。
処置は静かに進んだ。
「しばらく激しい動きは控えろ」
「期間は?」
「傷が閉じるまでだ」
「具体的には」
「最低でも数日」
「護衛任務があります」
「別の者を立てる」
「それは」
「奏斗」
ミカがはっきりと名前を呼ぶ。
「今のお前では、千束を守るどころか、千束に守られることになる」
奏斗は黙った。
否定できない。
「今夜はここで休みなさい」
「拠点へ戻ります」
「敵が待っている可能性がある」
「しかし」
「上層部への報告は、こちらから最低限行う」
ミカは処置道具を片づける。
「千束」
「はい」
「奏斗についていてくれ」
「うん」
「私は連絡を済ませてくる」
ミカは道具を持って奥へ移動した。
部屋に、奏斗と千束だけが残る。
静かだった。
店内の時計の音。
冷蔵庫の低い作動音。
遠くを走る車の音。
奏斗は椅子へ背を預けた。
千束は向かいには座らず、すぐ隣の椅子へ腰を下ろした。
「奏斗」
「何ですか?」
「ごめん」
奏斗は千束を見る。
「なぜ千束が謝るのですか?」
「私を庇って怪我したから」
「護衛です」
「それだけじゃない」
「何がですか?」
千束は膝の上で両手を握る。
「奏斗、さっき一瞬止まったよね」
奏斗の表情がわずかに固くなる。
「見ていたのですか?」
「うん」
「敵の気配に気づいて、私を動かそうとした。でも、手を伸ばしたまま一瞬止まった」
「……はい」
「昨日のこと、気にした?」
奏斗は答えなかった。
だが、その沈黙が答えになった。
「やっぱり」
千束が小さく息を吐く。
「私が変態って言いすぎたから?」
「千束だけが原因ではありません」
「ミズキも?」
「それもあります」
「でも、最初に言ったの私だよ」
「単なる冗談だと理解しています」
「本当に?」
「はい」
「じゃあどうして止まったの?」
奏斗は自分の手を見る。
敵の気配を感じた瞬間。
本来なら考える必要のないことを考えた。
千束へ触れていいのか。
どこなら誤解されないか。
昨日までなら、そんなことは一度も考えなかった。
護衛対象を動かす。
必要な場所をつかむ。
それだけだった。
「判断に不要な迷いが生じました」
「私のせいだよね」
「私自身の問題です」
「違う」
千束は首を振る。
「私がからかったから」
「千束」
「奏斗に死んでほしくない」
その言葉は、以前にも聞いた。
敵に人質に取られた夜。
奏斗が自分の命を差し出す可能性を考えたとき。
千束は同じことを言った。
「今日だって、もう少し弾がずれてたら」
「致命傷になる位置ではありませんでした」
「結果の話じゃない」
「ですが」
「奏斗は、私が嫌がるかもしれないって考えて、触るのを止めた」
「はい」
「そのせいで撃たれた」
「私の判断ミスです」
「だから」
千束は奏斗の方へ向き直った。
「触っていいよ」
奏斗は瞬きをする。
「何をですか?」
「必要なとき」
「……言い方が曖昧です」
「護衛するとき!」
千束の顔が少し赤くなる。
「引っ張るとか、押すとか、庇うとか。そういうときは、どこでもいいから触って」
「どこでも?」
「命の方が大事でしょ」
「胸へ触れる可能性もありますよ」
奏斗は、半分は確認。
半分は、重くなった空気を少し軽くするために言った。
千束の顔が一気に赤くなる。
「またそこ触る気!?」
「どこでもいいと言ったのは千束です」
「わざと触るのは駄目!」
「当然です」
「奏斗の変態!」
「冗談です」
「そういう冗談言うようになったよね!」
「千束の影響です」
「何でも私のせいにして!」
千束は怒ったように頬を膨らませた。
だが、すぐに視線を落とす。
「でも」
声が少し小さくなる。
「奏斗なら……触られても、別にいいけど」
奏斗は聞き間違えたのかと思った。
「何ですか?」
「何でもない!」
千束がすぐに声を大きくする。
「今、奏斗ならと」
「言ってない!」
「聞こえました」
「言い間違い!」
「何と間違えたのですか?」
「必要なら触っていいって意味!」
「それは先ほど聞きました」
「だから、それ以上ない!」
千束は顔をそらした。
耳まで赤くなっている。
奏斗はどう答えるべきか分からなかった。
冗談で返せばいいのか。
聞かなかったことにすればいいのか。
確認すれば、さらに困らせるだけだろう。
沈黙が流れる。
数秒。
十秒。
時計の針の音が、妙に大きく聞こえる。
千束は顔をそらしたまま、膝の上で指を動かしている。
奏斗も正面を向き、何も言わない。
傷の痛みより、この沈黙の方が落ち着かなかった。
「……千束」
「何?」
「必要な場合は、躊躇しません」
「うん」
「ただし、可能な限り誤解を生まない位置を選びます」
「今それ言う?」
「重要です」
「奏斗らしい」
千束が少しだけ笑った。
「それと」
「まだあるの?」
「変態と呼ばれるのは控えてください」
「それは無理」
「なぜですか?」
「奏斗が変態だから」
「話が戻りましたね」
「でも、護衛を代えてほしいとは思ってない」
千束は奏斗を見る。
「奏斗がいい」
今度の言葉は、はっきりしていた。
「護衛としてですか?」
「それも」
「それ以外は?」
「友達として」
少し間を置いて答える。
「店員仲間としても」
「そうですか」
「不満?」
「いいえ」
奏斗は少しだけ笑った。
「私も、護衛担当を外れるつもりはありません」
「怪我治してからね」
「数日で戻ります」
「先生の言うこと聞いて」
「分かっています」
「本当?」
「善処します」
「聞く気ない人の言い方」
「完全に休むわけにはいきません」
「じゃあ、リコリコで座って見張ってれば?」
「店員業務ができません」
「注文だけ聞く」
「運ぶ人が必要です」
「私が運ぶ」
「千束一人では忙しいでしょう」
「ミズキもいる」
「仕事を増やすと文句を言います」
「でもやるよ」
「そうですね」
二人で少し笑う。
さっきまでの気まずい沈黙が、少しずつ薄れていく。
「奏斗」
「はい」
「今日、触るの躊躇ったこと」
「はい」
「もう気にしないで」
「努力します」
「分かったって言って」
「分かりました」
「ちゃんと?」
「はい」
「次はすぐ助けてね」
「次がないことが最善です」
「それでもあったら」
「躊躇しません」
「うん」
千束は安心したように笑った。
そのとき。
奥から足音が聞こえる。
ミカが戻ってきた。
手には、大きなグラスが二つ載ったトレイ。
中には、チョコレートパフェと、いちごパフェ。
「話は終わったか?」
「先生」
千束の顔が一瞬で明るくなる。
「パフェ!」
「夜も遅いが、二人とも食事を取っていないだろう」
「負傷者にパフェは適切ですか?」
奏斗が尋ねる。
「傷の治療にはならない」
ミカが答える。
「だが、気分は少し良くなる」
「先生、分かってる!」
千束が立ち上がり、トレイを受け取る。
「奏斗はチョコ。私はいちご!」
「最初から決まっているのですか?」
「先生がそう作ってる」
「好みを把握されていますね」
「奏斗が毎回チョコ頼むから」
ミカは二人の前へパフェを置く。
「上層部への連絡は最低限にしてある」
「内容は?」
「任務先で別勢力の襲撃を受け、奏斗が負傷。敵は逃走。詳細は明日報告すると伝えた」
「四人組については?」
「まだ伏せている」
「ありがとうございます」
「今夜は休みなさい」
ミカは二人を一度見た。
「千束」
「何?」
「奏斗へ無理をさせるな」
「分かってる」
「奏斗」
「はい」
「千束へ心配をかけすぎるな」
「……努力します」
「分かったと言いなさい」
千束がすぐ横から言う。
奏斗は小さく息を吐いた。
「分かりました」
「よし」
ミカは静かに笑い、再び奥へ戻っていった。
店内に二人だけが残る。
奏斗はチョコレートパフェを見る。
いつもより少し大きい。
チョコレートアイス。
生クリーム。
砕いたクッキー。
果物。
千束はいちごパフェを見ながら、すでに笑顔になっている。
「いただきます!」
「いただきます」
二人でスプーンを取る。
奏斗は一口食べた。
甘い。
傷の痛みが消えるわけではない。
敵への疑問も。
自分の判断ミスも。
四人組が先に犯罪者たちを殲滅していた理由も。
何一つ解決していない。
それでも、少しだけ肩の力が抜ける。
「おいしい?」
千束が尋ねる。
「はい」
「顔に出てる」
「出ていません」
「出てるよ」
「千束もです」
「私は隠してないもん」
「そうですね」
千束は自分のパフェを一口食べる。
「一口交換する?」
「今回は食器を分けますか?」
「そこ気にしてるの?」
「ミズキさんに誤解されたので」
「今いないよ」
「ミカさんはいます」
「先生は変なこと言わないよ」
「千束が言う可能性があります」
「言わない!」
「本当ですか?」
「たぶん」
「信用できません」
千束が笑う。
「じゃあ、私のいちご一個あげる」
「交換条件は?」
「チョコアイス一口」
「分かりました」
奏斗は小皿へチョコレートアイスを少し移す。
千束もいちごを一つ載せる。
「今回は完全に別だね」
「はい」
「間接キスじゃない」
「朝と同じ話をしないでください」
「奏斗、ちょっと残念?」
「なぜですか?」
「何となく」
「千束」
「冗談」
二人は交換したものを食べる。
千束はチョコアイスを口に入れ、満足そうに笑った。
「おいしい」
「いちごも悪くありません」
「今度はいちごパフェ頼む?」
「チョコレートの方が上です」
「一途だね」
「食べ物の話ですよね?」
「何の話だと思ったの?」
「何も」
「照れてる?」
「負傷による発熱かもしれません」
「熱あるの?」
千束が心配そうに手を伸ばす。
奏斗の額へ触れようとして、途中で止まった。
「触っていい?」
奏斗は少し驚く。
それから、笑った。
「はい」
千束の手が額へ触れる。
「熱くないね」
「ありません」
「じゃあ照れてた?」
「違います」
「本当?」
「千束」
「はい」
「今、額へ触られました。変態です」
「私は確認した!」
「そうでしたね」
「奏斗の方が変態!」
「また戻りました」
千束は笑いながら手を離す。
奏斗もスプーンを持ち直す。
深夜のリコリコ。
誰もいない客席。
負傷した護衛と、無傷で戻った護衛対象。
二人の前には、ミカが作ったパフェ。
敵は消えていない。
むしろ、以前より一歩近づいている。
四人組は、奏斗たちの任務を知っていた。
先に対象を殲滅し、待ち伏せしていた。
目的はまだ分からない。
今回も、奏斗を狙った可能性がある。
それでも今は。
甘いものを食べながら、千束の笑う声を聞けている。
奏斗はそれで十分だと思った。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日、助けてくれてありがとう」
「判断が遅れました」
「それでも助けてくれた」
「怪我をしました」
「それは怒ってる」
「感謝と怒りが同時ですか?」
「両方」
「複雑ですね」
「奏斗のせい」
「私の責任が多すぎませんか?」
「変態護衛だから」
「関係ありません」
「でも」
千束は少しだけ声を落とす。
「生きててよかった」
奏斗はスプーンを止めた。
千束はパフェを見たまま、こちらを見ていない。
「……はい」
奏斗は静かに答える。
「私も、千束が無事でよかったです」
「じゃあ次から、すぐ触ってね」
「言い方を変えてください」
「すぐ助けてね」
「はい」
「胸でもいいから」
奏斗が千束を見る。
千束は言った直後に、自分の言葉へ気づいたようだった。
「違う! 今のは例!」
「自分から言いましたね」
「忘れて!」
「記憶力には自信があります」
「奏斗の変態!」
「私が言ったわけではありません」
「もう食べて!」
「はい」
二人は顔をそらしながら、残ったパフェを食べる。
ほんの少しだけ、互いの顔が赤かった。
店の外には静かな夜が広がっている。
不穏な気配は、まだ消えていない。
それでも店内には、甘い香りと小さな笑い声が残っていた。