君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十三話 押しかけ見舞いと、ひとつのベッド

 押村奏斗の負傷は、本人が考えていたよりも重かった。

 

 弾丸は脇腹をかすめただけ。

 

 体内に残ってはいない。

 

 動脈も外れている。

 

 致命傷ではない。

 

 だから、数針縫って包帯を巻けば、すぐに普段どおり動ける。

 

 奏斗はそう考えていた。

 

 だが、リリベルの医療担当者は、その考えを一切認めなかった。

 

「一日入院。その後、一週間の自宅療養」

 

「長すぎます」

 

「短い」

 

「歩行に問題はありません」

 

「傷が開けば、また縫い直すことになる」

 

「軽い運動程度なら」

 

「禁止」

 

「護衛任務は」

 

「当然、禁止」

 

 医療担当者は端末へ診断結果を入力しながら、奏斗を一度も見なかった。

 

「異論は?」

 

「あります」

 

「却下」

 

「まだ内容を言っていません」

 

「押村の異論は、どうせ動ける、任務に戻せ、問題ない、のどれかだろう」

 

「概ね合っています」

 

「だから却下だ」

 

 奏斗は病室のベッドへ背を預けた。

 

 傷の周辺には鈍い痛みが残っている。

 

 体をひねれば、縫合した皮膚が引かれる感覚があった。

 

 歩くことはできる。

 

 短い距離なら走ることも、おそらく可能。

 

 だが、戦闘となれば話は別だった。

 

 急な動き。

 

 踏み込み。

 

 回避。

 

 射撃姿勢。

 

 どれも脇腹へ負担がかかる。

 

 冷静に考えれば、医療担当者の判断は正しい。

 

 それでも、一週間という期間は長く感じた。

 

 現在、千束を狙う敵がいる。

 

 しかも、その敵は奏斗自身も標的としている可能性がある。

 

 四人組は、奏斗たちの任務先を把握していた。

 

 先に犯罪者たちを殲滅し、現場で待ち伏せしていた。

 

 奏斗を負傷させたにもかかわらず、深追いせず逃走した。

 

 目的は不明。

 

 ただ殺すだけなら、もっと確実な機会があった。

 

 奏斗と千束の反応を確認しているようにも見える。

 

 その状況で、護衛任務から外される。

 

 納得しにくい。

 

 しかし、さらに納得しにくい知らせが、同日の午後に届いた。

 

 千束の護衛体制変更。

 

 奏斗の療養期間中、近距離護衛は一時中止。

 

 別のリリベルが遠距離から監視にあたる。

 

 さらに、千束の夜間任務はすべて停止。

 

 喫茶リコリコへの出勤と、必要最低限の移動のみ。

 

 理由は、対象本人からの強い要望。

 

「……わがままですね」

 

 奏斗は端末の画面を見ながら呟いた。

 

 千束が何を言ったのかは想像できる。

 

 奏斗が戻るまで任務へ行かない。

 

 別の護衛は嫌だ。

 

 遠くから見ているだけならいい。

 

 おそらく、そのような内容だったのだろう。

 

 千束自身は、任務へ出られる状態にある。

 

 負傷もしていない。

 

 前回の戦闘でも、動きに問題はなかった。

 

 本来なら奏斗の不在だけを理由に、任務を止める必要はない。

 

 それでもミカが了承し、DA側も受け入れた。

 

 敵による待ち伏せが続いている以上、千束を不用意に動かさない判断は理解できる。

 

 ただし。

 

 千束が自分の負傷を理由に任務を止めたという事実は、奏斗にとって少し重かった。

 

 自分がいなければ動かない。

 

 それは信頼とも言える。

 

 同時に、依存へ近づく危険もある。

 

 護衛としては喜ぶべきではない。

 

 友人としては。

 

 少しだけ、うれしいと思ってしまった。

 

「……不適切ですね」

 

 奏斗は端末を閉じた。

 

     ◇

 

 翌日。

 

 入院は一日で終わった。

 

 診察。

 

 傷口の確認。

 

 薬の受け取り。

 

 生活上の注意。

 

 重い物を持たない。

 

 激しい運動をしない。

 

 入浴は短時間。

 

 出血や発熱があれば、すぐに連絡。

 

 そして、絶対安静ではないが、可能な限り休むこと。

 

 最後の注意を聞きながら、奏斗はすでに今後の調査について考えていた。

 

 四人組が使用した武器。

 

 現場へ残された薬莢。

 

 敵が先に殲滅した犯罪グループとの関係。

 

 任務情報へアクセスした人物。

 

 久世蒼士にも、確認を頼みたいことがある。

 

「押村」

 

 医療担当者の声で、奏斗は顔を上げた。

 

「聞いていたか?」

 

「はい」

 

「今、何を考えていた?」

 

「療養期間中に可能な情報整理です」

 

「休むことを考えろ」

 

「横になりながらでもできます」

 

「端末の使用もほどほどにしろ」

 

「善処します」

 

「守らない人間の返事だな」

 

「努力はします」

 

「同じだ」

 

 医療担当者は呆れた顔で退院許可証を渡した。

 

 奏斗はそれを受け取り、病室を出た。

 

 外へ出たのは昼過ぎ。

 

 拠点から自宅までは、電車と徒歩で移動できる距離だった。

 

 歩行には問題ない。

 

 ただし、階段を上ると傷が少し痛んだ。

 

 体をかばいすぎると、今度は別の場所へ負担がかかる。

 

 普段どおりに歩こうとするほど、脇腹の痛みを意識させられた。

 

 自宅のマンションへ着き、玄関を開ける。

 

 一人暮らし用としては、十分な広さ。

 

 玄関。

 

 短い廊下。

 

 浴室と洗面所。

 

 その先に、リビングと寝室がつながった一室。

 

 簡単なキッチン。

 

 小さなテーブル。

 

 椅子が二脚。

 

 ベッド。

 

 収納棚。

 

 必要なものは揃っている。

 

 だが、娯楽用品はほとんどない。

 

 テレビはあるが、見る頻度は低い。

 

 ゲーム機もない。

 

 漫画も、小説も少ない。

 

 棚にあるのは、資料、書籍、救急用品、予備の端末、生活用品。

 

 来客を想定した部屋ではなかった。

 

 奏斗は上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。

 

 処方された薬と水をテーブルへ置く。

 

 横になる前に、室内の施錠と窓を確認した。

 

 外部監視員が配置されていることも分かっている。

 

 奏斗自身が狙われている可能性を考慮し、マンションから少し離れた場所でリリベルが警戒にあたっている。

 

 完全に気が休まる状況ではない。

 

 それでも、病室よりは落ち着いた。

 

 奏斗がベッドへ腰を下ろしたところで、端末が振動した。

 

 表示された名前。

 

 錦木千束。

 

 数日前に交換した連絡先。

 

 メッセージが一件。

 

 ――退院した?

 

 奏斗は短く返信した。

 

 ――今、自宅へ戻りました。

 

 すぐに既読がつく。

 

 ――じゃあ今からお見舞い行く!

 

 奏斗の指が止まる。

 

 予想していなかったわけではない。

 

 千束なら、一度は言い出すと思っていた。

 

 だが、来る必要はない。

 

 奏斗は返信する。

 

 ――必要ありません。傷は安定しています。

 

 数秒。

 

 ――お菓子持ってくよ。

 

 話が通じていない。

 

 ――療養中です。休む必要があります。

 

 ――私が静かにする。

 

 それは最も信用できない返答だった。

 

 ――リコリコへ出勤してください。

 

 ――今日はもう終わった。

 

 時刻を見る。

 

 まだ夕方前。

 

 通常なら、営業中のはず。

 

 ――なぜですか。

 

 ――先生が早く上がっていいって。

 

 ミカが許可したらしい。

 

 奏斗は額へ手を当てた。

 

 ――明日、店で会えます。

 

 ――奏斗は一週間休みでしょ?

 

 ――療養期間が終われば会えます。

 

 ――一週間も待てない。

 

 奏斗は画面を見つめた。

 

 単に見舞いへ来たいだけなのか。

 

 傷の状態が心配なのか。

 

 どちらもだろう。

 

 千束は一度決めると、簡単には引かない。

 

 説得を続けても、自力で住所を調べる可能性すらある。

 

 上層部へ聞く。

 

 ミカへ聞く。

 

 監視員を追う。

 

 千束なら、どれかを実行しかねない。

 

 ――見舞いは短時間にしてください。

 

 奏斗は妥協した。

 

 すぐに返信が来る。

 

 ――住所教えて!

 

 奏斗は自宅の住所を送った。

 

 送信した直後、別の問題が頭に浮かぶ。

 

 現在、マンション周辺には監視員がいる。

 

 千束が奏斗の自宅へ来れば、当然報告される。

 

 リリベル所属の少年の自宅へ、DAのリコリスが単独で訪問。

 

 しかも、勤務後。

 

 監視員の中に口の軽い者がいれば、すぐに拠点内へ噂が広がる。

 

 久世蒼士へ知られれば、確実に面白がられる。

 

 上層部が問題視する可能性もある。

 

「……面倒ですね」

 

 奏斗は小さく呟いた。

 

 だが、住所はすでに送った。

 

 今さら来るなと言っても、千束は来る。

 

 短時間で帰すしかない。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 インターホンが鳴ったのは、奏斗が簡単な夕食を作ろうとしていたときだった。

 

 時刻は十九時前。

 

 予想より早い。

 

 画面を確認する。

 

 千束だった。

 

 普段着。

 

 片手には大きな紙袋。

 

 もう片方には、肩から提げた鞄。

 

 さらに背中にも荷物がある。

 

「……なぜ、それほど荷物が」

 

 奏斗は独り言を言いながら、玄関の解錠操作をした。

 

 数分後。

 

 玄関のチャイムが鳴る。

 

 扉を開ける。

 

「お見舞いに来ました!」

 

 千束は明るい笑顔で立っていた。

 

「声が大きいです」

 

「元気そうだね」

 

「見たとおりです」

 

「顔色は?」

 

 千束が奏斗の顔を覗き込む。

 

「問題ありません」

 

「傷は?」

 

「安定しています」

 

「見せて」

 

「玄関で言うことですか?」

 

「中で見る」

 

 千束は当然のように入ろうとする。

 

 奏斗は一度、千束の荷物を見た。

 

 紙袋。

 

 大きめの鞄。

 

 背中の荷物。

 

「千束」

 

「何?」

 

「見舞いにしては、荷物が多くありませんか?」

 

「必要なもの」

 

「何が入っていますか?」

 

「着替え」

 

「なぜですか?」

 

「歯ブラシ」

 

「なぜですか?」

 

「タオル」

 

「部屋にあります」

 

「寝るときの服」

 

「千束」

 

 奏斗は低い声で名前を呼んだ。

 

 千束は笑顔のまま首を傾げる。

 

「何?」

 

「泊まるつもりですか?」

 

「うん」

 

 即答だった。

 

 奏斗は数秒、何も言えなかった。

 

「見舞いでは?」

 

「見舞いもするよ」

 

「短時間にする約束でした」

 

「短時間とは言ってない」

 

「私は、短時間にしてくださいと送りました」

 

「返信してないから、同意してない」

 

「既読はついていました」

 

「読んだだけ」

 

「その理屈はおかしいでしょう」

 

「でも来ちゃった」

 

「帰ってください」

 

「嫌」

 

「即答しないでください」

 

 千束は少し真面目な顔になる。

 

「私、一人で帰るの危ないでしょ?」

 

「監視員がついています」

 

「遠くからだけ」

 

「必要なら、セーフハウスまで別の者をつけます」

 

「奏斗といた方が安全」

 

「現在の私は負傷しています」

 

「でも銃は使える」

 

「使わせないでください」

 

「それに」

 

 千束は奏斗を見る。

 

「奏斗も狙われてるかもしれない」

 

「その可能性はあります」

 

「一人より二人の方がいいよ」

 

「千束が増えれば、守る対象も増えます」

 

「私は自分で戦える」

 

「知っています」

 

「じゃあ問題ない」

 

「問題しかありません」

 

 千束は靴を脱ぎ始めた。

 

「入っていい?」

 

「すでに入る動作をしていますね」

 

「お邪魔します!」

 

「まだ許可していません」

 

 奏斗が止める前に、千束は玄関へ入った。

 

 荷物を置き、室内を見回す。

 

「へえ」

 

「何ですか?」

 

「奏斗の家」

 

「見れば分かります」

 

「きれい」

 

「散らかす物がありませんので」

 

「本当に何もないね」

 

「必要なものはあります」

 

「ゲームは?」

 

「ありません」

 

「漫画は?」

 

「少しだけです」

 

「映画は?」

 

「端末で見られます」

 

「ぬいぐるみは?」

 

「なぜあると思ったのですか?」

 

「意外とかわいいもの好きかも」

 

「ゲームセンターで取ったぬいぐるみは千束が持っているでしょう」

 

「奏斗の部屋に置けばよかったかな」

 

「不要です」

 

 千束は室内の奥へ進む。

 

 ベッドを見る。

 

 小さなテーブルを見る。

 

 棚を見る。

 

 窓を見る。

 

「本当に一人暮らしの部屋だね」

 

「ほかに何を想像していたのですか?」

 

「秘密基地みたいなの」

 

「リリベルの拠点ではありません」

 

「壁の裏に武器庫」

 

「ありません」

 

「床下に逃走路」

 

「ありません」

 

「つまんない」

 

「普通の住居です」

 

 千束は荷物を床へ置いた。

 

 その中から、大量の菓子を取り出す。

 

 チョコレート。

 

 クッキー。

 

 小さなケーキ。

 

 ゼリー。

 

 飲み物。

 

「お見舞い」

 

「多すぎます」

 

「一週間分」

 

「毎日食べる前提ですか?」

 

「療養中は甘いもの必要でしょ」

 

「医学的根拠はありません」

 

「気分が良くなる」

 

「ミカさんと同じことを言いますね」

 

「先生に聞いた」

 

「やはり」

 

 奏斗は紙袋の中を見る。

 

 甘いものばかりではない。

 

 簡単に食べられるパン。

 

 スープ。

 

 果物。

 

 栄養補助食品。

 

 傷へ負担をかけずに食べられそうなものも入っている。

 

 千束なりに考えたらしい。

 

「ありがとうございます」

 

「素直」

 

「見舞い品については感謝します」

 

「泊まるのも?」

 

「それは別です」

 

 千束の表情が少し曇る。

 

「やっぱり迷惑?」

 

 先ほどまでの強引な態度が少し消えた。

 

 声も小さい。

 

 奏斗はすぐに答えようとした。

 

 だが、一度言葉を選ぶ。

 

 迷惑ではない。

 

 千束が来たこと自体は、嫌ではない。

 

 むしろ、病院と一人の部屋を往復したあとで、千束の明るい声を聞くと安心する。

 

 ただし。

 

 泊まることには、別の問題がある。

 

「迷惑ではありません」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「じゃあ泊まっていい?」

 

「話を飛ばさないでください」

 

「迷惑じゃないんでしょ?」

 

「女性が一人で男性の家へ泊まりに来ること自体に問題があります」

 

「何が?」

 

「一般的にです」

 

「奏斗、何かするの?」

 

「しません」

 

「じゃあ大丈夫」

 

「私だけの問題ではありません」

 

「誰かに見られる?」

 

「すでに監視員に見られています」

 

「あ」

 

 千束はようやく気づいた顔をする。

 

「噂になる?」

 

「高い確率で」

 

「奏斗の家に泊まったって?」

 

「はい」

 

「ミズキに知られたら、ずっと言われそう」

 

「それだけではありません」

 

「上の人に怒られる?」

 

「可能性があります」

 

「じゃあ、護衛のためって言えばいいよ」

 

「事実を都合よく利用しないでください」

 

「本当に護衛だよ」

 

「負傷者の家へ護衛対象が泊まり込むのですか?」

 

「お互いに守る」

 

「効率が悪すぎます」

 

 千束は少し考える。

 

「でも、今から帰ったら危ないかもしれない」

 

「監視員へ連絡します」

 

「嫌」

 

「なぜですか?」

 

「知らない人と帰りたくない」

 

「護衛担当者です」

 

「奏斗がいい」

 

 まっすぐ言われ、奏斗は言葉を止めた。

 

「負傷しています」

 

「知ってる」

 

「今、襲撃された場合、普段ほど動けません」

 

「私が守る」

 

「立場が逆です」

 

「たまにはいいでしょ」

 

「良くありません」

 

「じゃあ」

 

 千束は少しだけ困ったように笑う。

 

「今日は、友達の家に泊まるってことで」

 

「さらに問題が増えました」

 

「でも迷惑じゃないんでしょ?」

 

 奏斗は千束を見る。

 

 帰れと言えば、帰るかもしれない。

 

 ただし、その場合。

 

 千束はおそらく少し傷つく。

 

 監視員をつけたとしても、夜道を一人で帰すことへの不安も残る。

 

 奏斗自身が狙われているなら、千束がそばにいることは危険。

 

 しかし、千束も狙われている。

 

 どちらかが単独になるより、互いの位置を把握できる方が安全とも言える。

 

 理屈を並べれば、どちらの結論にもできた。

 

 問題は。

 

 奏斗が本当に、千束を帰したいのか。

 

「……分かりました」

 

「泊まっていい?」

 

「今日だけです」

 

「やった」

 

「ただし、勝手に部屋を探らないでください」

 

「探らないよ」

 

「武器や資料には触れない」

 

「うん」

 

「夜更かしをしない」

 

「それは難しいかも」

 

「帰ってください」

 

「守る!」

 

「声が大きいです」

 

「分かった」

 

 千束はうれしそうに笑った。

 

 奏斗は小さく息を吐く。

 

 一週間の療養初日から、静かに休む予定は完全に崩れた。

 

     ◇

 

 夕食は、奏斗が簡単な料理を作ろうとした。

 

 だが、千束に止められた。

 

「療養中でしょ」

 

「立って作る程度なら問題ありません」

 

「傷開いたらどうするの?」

 

「開きません」

 

「先生に言うよ」

 

「ミカさんを利用しないでください」

 

「じゃあ私が作る」

 

「できますか?」

 

「失礼だなぁ」

 

「何が作れますか?」

 

「卵焼き」

 

「夕食としては少なくありませんか?」

 

「あと、ご飯炊く」

 

「おかずは?」

 

「卵焼き」

 

「増えていません」

 

「奏斗が教えて」

 

「結局、私が作ることになるのでは?」

 

 最終的に、二人で簡単なスープと炒め物を作った。

 

 奏斗が指示を出し、千束が動く。

 

 千束は器用なはずだが、料理になると少し大雑把だった。

 

「野菜の大きさが違います」

 

「食べれば同じ」

 

「火の通りが変わります」

 

「小さい方に合わせればいい」

 

「大きい方が残ります」

 

「じゃあ長く炒める」

 

「小さい方が焦げます」

 

「料理って難しいね」

 

「切り方を揃えるだけです」

 

「奏斗、細かい」

 

「基本です」

 

「先生みたい」

 

「ミカさんなら、もっと丁寧に教えると思います」

 

「奏斗も優しいよ」

 

「今、注意しかしていません」

 

「ちゃんと教えてくれてるから」

 

 奏斗は返事をせず、鍋の火を調整した。

 

 できあがった料理は、見た目こそ少し不揃いだったが、味は悪くなかった。

 

 二人でテーブルを挟んで食べる。

 

「おいしい」

 

 千束が言う。

 

「少し味が濃いですね」

 

「私が調味料入れたから?」

 

「はい」

 

「でもおいしい」

 

「食べられます」

 

「褒め方が固い」

 

「千束が作った部分も問題ありません」

 

「それ、褒めてる?」

 

「はい」

 

「じゃあ、また作る」

 

「次はリコリコで練習してください」

 

「奏斗の家で」

 

「なぜですか?」

 

「また来る理由になる」

 

 千束は何気なく言った。

 

 奏斗はスープを飲む。

 

「来客用の設備はありません」

 

「今日泊めてくれるじゃん」

 

「例外です」

 

「次も例外にする」

 

「例外が増えれば通常になります」

 

「じゃあ通常で」

 

「駄目です」

 

 食後。

 

 千束が持ってきた菓子をテーブルへ並べた。

 

 小さなチョコレートケーキ。

 

 クッキー。

 

 果物のゼリー。

 

「全部食べるのですか?」

 

「少しずつ」

 

「夕食直後です」

 

「デザートは別」

 

「胃は同じです」

 

「奏斗も甘いもの好きでしょ」

 

「限度はあります」

 

「今日はお見舞い記念」

 

「また記念ですか?」

 

「奏斗が退院した記念」

 

「入院は一日です」

 

「無事だった記念」

 

「それなら理解できます」

 

「じゃあ食べよう」

 

 チョコレートケーキを半分ずつに分ける。

 

 奏斗はコーヒー。

 

 千束は持参したオレンジジュース。

 

「奏斗の部屋、静かだね」

 

「一人なので」

 

「音楽とか聞かない?」

 

「たまに」

 

「テレビは?」

 

「ニュース程度です」

 

「休みの日、何してるの?」

 

「資料を読むか、訓練か、外出です」

 

「遊ばないの?」

 

「必要なら」

 

「遊びに必要とかないって、前も言ったよね」

 

「覚えています」

 

「今度、ゲーム置こうよ」

 

「不要です」

 

「二人でできるやつ」

 

「千束が来る前提になっています」

 

「来るよ」

 

「勝手に決めないでください」

 

「嫌?」

 

「嫌ではありません」

 

 即答してから、奏斗は少しだけ後悔した。

 

 千束が笑う。

 

「じゃあ来る」

 

「頻度の問題です」

 

「週一」

 

「多いです」

 

「月一」

 

「許可した覚えはありません」

 

「その間くらい」

 

「交渉制ですか?」

 

「うん」

 

 千束はクッキーを一つ取る。

 

「奏斗、リコリコ休んでる間、何するの?」

 

「調査資料を整理します」

 

「休んで」

 

「横になりながらできます」

 

「病院の人にも言われたでしょ」

 

「なぜ知っているのですか?」

 

「奏斗なら絶対言われると思った」

 

「予想ですか」

 

「当たってる?」

 

「はい」

 

「じゃあ、今日から私が見張る」

 

「護衛対象に療養を監視されるのですか?」

 

「変なことしないように」

 

「変なこととは?」

 

「勝手に訓練するとか、傷開くまで動くとか」

 

「しません」

 

「本当?」

 

「軽い動作確認程度は」

 

「駄目」

 

「千束に決める権限はありません」

 

「先生に連絡するよ」

 

「またですか」

 

「ミズキにも」

 

「さらに面倒になります」

 

「じゃあ言うこと聞いて」

 

 奏斗はコーヒーを飲んだ。

 

「……分かりました」

 

「素直」

 

「今だけです」

 

「明日も来るから」

 

「その話は後でしてください」

 

     ◇

 

 食事と菓子を終えたあと。

 

 千束が浴室へ向かった。

 

「先に入っていい?」

 

「どうぞ」

 

「タオル借りるね」

 

「洗面所の棚にあります」

 

「新しいの?」

 

「来客用ではありませんが、未使用のものがあります」

 

「奏斗、ちゃんと予備あるんだ」

 

「消耗品です」

 

「下着は?」

 

「知りません」

 

「私の持ってきた」

 

「聞いていません」

 

「言っただけ」

 

「言わなくて結構です」

 

 千束は着替えを持ち、浴室の前で振り返った。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「見ないでよ、変態」

 

 奏斗は数秒、千束を見た。

 

「では、泊まらないでください」

 

「何で?」

 

「自分から男性の家へ泊まりに来て、浴室へ入る前に変態扱いする人を、どう扱えばいいのですか?」

 

「普通に待ってて」

 

「見ません」

 

「本当?」

 

「見たいと思っていません」

 

「それはそれで失礼!」

 

「どう答えれば正解なのですか?」

 

「見たいけど我慢する、とか」

 

「千束」

 

「冗談」

 

「早く入ってください」

 

「はーい」

 

 千束は楽しそうに浴室へ入った。

 

 扉が閉まる。

 

 しばらくして、シャワーの音が聞こえ始める。

 

 奏斗はテーブルの片づけをしながら、小さく息を吐いた。

 

「……じゃあ泊まらなければいいでしょう」

 

 もちろん、本人には聞こえない声で呟く。

 

 片づけを終え、寝具について考える。

 

 来客用の布団はない。

 

 ソファもない。

 

 椅子を並べて寝られる広さでもない。

 

 床へ毛布を敷けば、一人は眠れる。

 

 だが、負傷している奏斗が床で寝るのは現実的ではない。

 

 千束を床へ寝かせることもできない。

 

 ベッドは一つ。

 

 大きさは一人用より少し広い程度。

 

 どう考えても、千束へベッドを使わせ、奏斗が椅子か床で休むしかない。

 

 傷への負担はあるが、一晩なら耐えられる。

 

 奏斗が毛布を用意していると、浴室の扉が開いた。

 

「上がったよ」

 

 千束が髪を乾かしながら出てくる。

 

 持参した部屋着。

 

 普段より柔らかい印象。

 

 赤いリボンは外されている。

 

 髪も少し湿っていた。

 

「髪を完全に乾かしてください」

 

「今やってる」

 

「風邪を引きます」

 

「奏斗、先生みたい」

 

「何度目ですか」

 

「でも似てる」

 

 千束はドライヤーを使いながら、奏斗の手元を見る。

 

「何してるの?」

 

「寝る準備です」

 

「布団一つ?」

 

「来客用はありません」

 

「どうするの?」

 

「千束がベッドを使ってください」

 

「奏斗は?」

 

「床で休みます」

 

「駄目」

 

「私は問題ありません」

 

「怪我してるでしょ」

 

「体勢を工夫します」

 

「傷開くよ」

 

「開きません」

 

「ベッド使って」

 

「千束はどうするのですか?」

 

「一緒に寝る」

 

 奏斗の動きが止まった。

 

 ドライヤーの音だけが部屋へ響く。

 

「今、何と?」

 

「一緒に寝ればいいじゃん」

 

「このベッドで?」

 

「うん」

 

「狭いです」

 

「詰めれば入る」

 

「そういう問題ではありません」

 

「何が?」

 

「男女が同じベッドで寝ることです」

 

「何もしないんでしょ?」

 

「しません」

 

「じゃあ大丈夫」

 

「またその理屈ですか」

 

「奏斗が床で寝る方が駄目」

 

「私は椅子でも」

 

「眠れないよ」

 

「横にならなくても休めます」

 

「一週間療養って言われた人が、椅子で寝るの?」

 

 千束はドライヤーを止めた。

 

「先生に言うよ」

 

「ミカさんを万能の脅しに使わないでください」

 

「じゃあ一緒」

 

「千束」

 

「嫌?」

 

 また、その聞き方だった。

 

 強引に押し進めたあとで。

 

 最後だけ少し不安そうに確認する。

 

 奏斗は弱かった。

 

「嫌ではありません」

 

「じゃあ決まり」

 

「ただし」

 

「何?」

 

「私は端へ寄ります。千束も自分の側から動かないでください」

 

「寝てる間は分かんないよ」

 

「努力してください」

 

「奏斗こそ」

 

「私は動きません」

 

「寝相悪いかも」

 

「初めて聞きました」

 

「今日分かるね」

 

「確認したくありません」

 

 結局、同じベッドで寝ることになった。

 

 奏斗が先に横になる。

 

 傷を下にしないよう、左側を避ける。

 

 千束も反対側へ入る。

 

 布団を分けることはできない。

 

 一枚を二人で使う。

 

 距離はある。

 

 しかし、普段一人で使っているベッドに二人が入れば、どうしても相手の気配を近くに感じる。

 

 布団が動く音。

 

 呼吸。

 

 髪の匂い。

 

 わずかな体温。

 

 奏斗は千束へ背中を向けた。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「何で背中向けるの?」

 

「寝るためです」

 

「こっち向いても寝られるよ」

 

「傷の位置の都合です」

 

「傷、反対側じゃない?」

 

「……気分の問題です」

 

「照れてる?」

 

「寝てください」

 

「耳赤い?」

 

「暗いので見えません」

 

「触って確認しようか?」

 

「やめてください」

 

「額は触らせてくれたのに」

 

「あれは体温確認です」

 

「今日も熱あるかも」

 

「ありません」

 

 千束が少し動く。

 

 布団が揺れる。

 

 背中側の距離が近くなったように感じる。

 

「千束」

 

「何?」

 

「自分の側から動かないでください」

 

「動いてないよ」

 

「近くなっています」

 

「ベッド狭いから」

 

「先ほど言いました」

 

「でも一緒に寝るって決めた」

 

「千束が決めました」

 

「奏斗も嫌じゃないって言った」

 

「それは」

 

「嫌じゃないんでしょ?」

 

「……はい」

 

「じゃあいいじゃん」

 

 奏斗は目を閉じた。

 

 寝る。

 

 考えない。

 

 隣に千束がいることも。

 

 同じ布団を使っていることも。

 

 明日、監視員の報告でリリベル内に噂が広がることも。

 

 今は休む。

 

「奏斗」

 

「……」

 

「もう寝た?」

 

「……」

 

「早くない?」

 

 奏斗は寝たふりをすることにした。

 

 返事をしなければ、千束も諦めて眠るだろう。

 

 数秒。

 

 千束が小さく息を吐く。

 

「本当に寝たのかな」

 

 布団がまた少し動く。

 

「奏斗」

 

 返事をしない。

 

「私が隣にいるのに、何もしないんだ」

 

 奏斗の意識が完全に覚醒した。

 

 それでも動かない。

 

「襲わないの?」

 

 何を言っているのか。

 

 返事をした方がいいのか。

 

 無視した方がいいのか。

 

 奏斗は判断に困った。

 

 千束は続ける。

 

「私って、そんなに魅力ない?」

 

 奏斗の眉がわずかに動く。

 

 魅力がないわけではない。

 

 むしろ。

 

 明るい。

 

 話しやすい。

 

 一緒にいて退屈しない。

 

 強い。

 

 人を助けようとする。

 

 笑顔が自然に周囲を明るくする。

 

 以前、好きな女性のタイプを聞かれたとき、奏斗が答えた内容。

 

 その多くが、千束に当てはまっていた。

 

 外見についても。

 

 かわいいと思う。

 

 似合う服を見れば、そう伝えられる。

 

 髪を下ろした今の姿も、普段とは違って見える。

 

 だが。

 

 それを今、この状況で答えるわけにはいかない。

 

 何より、千束が本気で聞いているのか分からない。

 

 からかっているだけかもしれない。

 

 奏斗は呼吸を一定に保つ。

 

 寝たふりを続ける。

 

「……寝てるの?」

 

 千束の声が少し小さくなる。

 

「本当に?」

 

 奏斗は動かない。

 

「つまんない」

 

 布団が動く。

 

 千束が反対側を向いたようだった。

 

「でも」

 

 かすかな声。

 

「寝ててよかったかも」

 

 その後、千束は何も言わなくなった。

 

 しばらくして、呼吸がゆっくりと一定になる。

 

 本当に眠ったらしい。

 

 奏斗は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。

 

 返事をしなくて正解だったのか。

 

 分からない。

 

 ただ、答えていれば。

 

 さらに眠れない夜になっていたことだけは確かだった。

 

「……魅力がないわけではありません」

 

 千束に聞こえないほどの声で呟く。

 

 返事はない。

 

 奏斗はそのまま目を閉じた。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 目を覚ました奏斗が最初に感じたのは、右腕の重みだった。

 

 ゆっくり目を開く。

 

 千束が、奏斗の腕を抱くようにして眠っている。

 

 自分の側から動かない。

 

 昨夜、そのように約束したはずだった。

 

 千束の寝相が悪い可能性は、自分で言っていた。

 

 そのとおりになっている。

 

「千束」

 

 小声で呼ぶ。

 

 反応なし。

 

「起きてください」

 

「ん……」

 

 千束が少しだけ動く。

 

 腕をさらに強く抱いた。

 

「千束」

 

「まだ……」

 

「出勤時間があります」

 

「あと五分」

 

「ここは千束の家ではありません」

 

「奏斗の家……」

 

 目を閉じたまま答える。

 

「分かっているなら起きてください」

 

「奏斗、朝早いね」

 

「通常です」

 

 千束がゆっくり目を開く。

 

 数秒。

 

 自分が奏斗の腕を抱いていることに気づく。

 

「……おはよう」

 

「おはようございます」

 

「これ、違うからね」

 

「何がですか?」

 

「寝てる間に動いただけ」

 

「知っています」

 

「奏斗が近づいたんじゃないよね?」

 

「私は動いていません」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「じゃあ私かぁ」

 

 千束は腕を離す。

 

 少しだけ顔が赤い。

 

「変態」

 

「なぜですか?」

 

「腕抱かせた」

 

「千束が勝手に抱いたのでしょう」

 

「避けなかった」

 

「寝ていました」

 

「本当に?」

 

「寝たふりをした時間はあります」

 

 奏斗は正直に答えた。

 

 千束の動きが止まる。

 

「え」

 

「何ですか?」

 

「いつまで起きてた?」

 

「ある程度です」

 

「私が話してたとき?」

 

「どの話ですか?」

 

「……知らない!」

 

 千束は勢いよくベッドから出る。

 

「着替える!」

 

「洗面所を使ってください」

 

「見ないでよ、変態!」

 

「昨日と同じです。では泊まらないでください」

 

「もう泊まった!」

 

「自分で言っていますね」

 

 千束は着替えを持って洗面所へ逃げた。

 

 奏斗は起き上がる。

 

 脇腹が少し痛む。

 

 だが、昨日より悪化はしていない。

 

 傷も開いていない。

 

 千束が洗面所にいる間に、朝食を作る。

 

 米は昨夜炊いた残り。

 

 卵。

 

 簡単な味噌汁。

 

 焼いた魚。

 

 負傷していても、この程度なら問題ない。

 

 洗面所から出てきた千束が、キッチンに立つ奏斗を見て眉を寄せる。

 

「何してるの?」

 

「朝食です」

 

「休んでって言ったよね」

 

「軽い調理です」

 

「私がやる」

 

「出勤時間へ間に合いません」

 

「でも」

 

「もう完成します」

 

 千束は不満そうに椅子へ座る。

 

「先生に言うから」

 

「この程度で報告しないでください」

 

「療養中なのに料理した」

 

「自炊を禁止されていません」

 

「細かい」

 

「規則は確認しました」

 

「そういうところ奏斗らしいね」

 

 二人で朝食を食べる。

 

 千束は一口ごとに、おいしいと言った。

 

「そんなに何度も言わなくていいです」

 

「本当においしいから」

 

「普通の朝食です」

 

「奏斗が作ったから」

 

「味へ影響しますか?」

 

「するよ」

 

「心理的な問題ですね」

 

「そうかも」

 

 食後。

 

 千束は荷物をまとめる。

 

 昨日持ってきた菓子の大半は、そのまま奏斗の部屋へ置いていく。

 

「ちゃんと食べてね」

 

「一日一つ程度にします」

 

「少ない」

 

「十分です」

 

「傷治るまで甘いものいっぱい食べた方がいいよ」

 

「根拠がありません」

 

「元気になる」

 

「気分は良くなります」

 

「じゃあいいじゃん」

 

 千束は玄関で靴を履く。

 

 奏斗も上着を羽織ろうとした。

 

「どこ行くの?」

 

「下まで送ります」

 

「療養中」

 

「マンションの入口までです」

 

「部屋にいて」

 

「監視員へ引き継ぎます」

 

「連絡すればいいよ」

 

「直接確認します」

 

 結局、奏斗は玄関前まで見送ることにした。

 

 扉を開く。

 

 廊下。

 

 朝の光。

 

「今日はリコリコへ直行してください」

 

「分かってる」

 

「寄り道はしない」

 

「子供じゃないよ」

 

「周囲の監視員と連携してください」

 

「はいはい」

 

「返事が軽いです」

 

「分かりました」

 

 千束は一度振り返る。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今日も来るから」

 

 奏斗は目を瞬く。

 

「なぜですか?」

 

「お見舞い」

 

「昨日しました」

 

「今日の分」

 

「見舞いは日課ではありません」

 

「一週間休みでしょ?」

 

「はい」

 

「毎日来る」

 

「泊まりは認めません」

 

「今日はまだ分かんない」

 

「今、認めないと言いました」

 

「荷物はリコリコに置いてある」

 

「準備済みですか?」

 

「念のため」

 

「帰ってください」

 

「今から出勤するところ!」

 

 千束が笑う。

 

「夕方、連絡するね」

 

「来なくて結構です」

 

「またね」

 

「千束」

 

「いってきます!」

 

 千束は手を振り、廊下を歩いていく。

 

 奏斗はその背中を見送る。

 

 角を曲がり、姿が見えなくなる。

 

 遠くから監視員が動いたことを確認する。

 

 安全に移動を開始した。

 

 奏斗は部屋へ戻ろうとする。

 

 その前に、端末が振動した。

 

 千束からのメッセージ。

 

 ――朝ごはんおいしかった! 夜もよろしく!

 

「……来る気ですね」

 

 奏斗は小さく息を吐く。

 

 返信する。

 

 ――夕食はリコリコで食べてください。

 

 すぐに既読。

 

 ――じゃあデザート持ってく!

 

 奏斗は画面を見つめる。

 

 断っても来る。

 

 昨日で十分理解した。

 

 部屋の中には、千束が残した菓子。

 

 洗面所には、使ったタオル。

 

 ベッドには、二人で使った布団。

 

 静かだった部屋に、千束がいた痕跡だけが残っている。

 

 面倒。

 

 騒がしい。

 

 療養には向かない。

 

 リリベル内で噂になる可能性も高い。

 

 それでも。

 

 一人で過ごすはずだった一週間が、少しだけ短く感じられた。

 

 奏斗は端末へ返信する。

 

 ――量は控えてください。

 

 送信。

 

 すぐに、笑顔の絵文字が返ってきた。

 

 奏斗は小さく笑い、玄関の扉を閉めた。

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