押村奏斗の負傷は、本人が考えていたよりも重かった。
弾丸は脇腹をかすめただけ。
体内に残ってはいない。
動脈も外れている。
致命傷ではない。
だから、数針縫って包帯を巻けば、すぐに普段どおり動ける。
奏斗はそう考えていた。
だが、リリベルの医療担当者は、その考えを一切認めなかった。
「一日入院。その後、一週間の自宅療養」
「長すぎます」
「短い」
「歩行に問題はありません」
「傷が開けば、また縫い直すことになる」
「軽い運動程度なら」
「禁止」
「護衛任務は」
「当然、禁止」
医療担当者は端末へ診断結果を入力しながら、奏斗を一度も見なかった。
「異論は?」
「あります」
「却下」
「まだ内容を言っていません」
「押村の異論は、どうせ動ける、任務に戻せ、問題ない、のどれかだろう」
「概ね合っています」
「だから却下だ」
奏斗は病室のベッドへ背を預けた。
傷の周辺には鈍い痛みが残っている。
体をひねれば、縫合した皮膚が引かれる感覚があった。
歩くことはできる。
短い距離なら走ることも、おそらく可能。
だが、戦闘となれば話は別だった。
急な動き。
踏み込み。
回避。
射撃姿勢。
どれも脇腹へ負担がかかる。
冷静に考えれば、医療担当者の判断は正しい。
それでも、一週間という期間は長く感じた。
現在、千束を狙う敵がいる。
しかも、その敵は奏斗自身も標的としている可能性がある。
四人組は、奏斗たちの任務先を把握していた。
先に犯罪者たちを殲滅し、現場で待ち伏せしていた。
奏斗を負傷させたにもかかわらず、深追いせず逃走した。
目的は不明。
ただ殺すだけなら、もっと確実な機会があった。
奏斗と千束の反応を確認しているようにも見える。
その状況で、護衛任務から外される。
納得しにくい。
しかし、さらに納得しにくい知らせが、同日の午後に届いた。
千束の護衛体制変更。
奏斗の療養期間中、近距離護衛は一時中止。
別のリリベルが遠距離から監視にあたる。
さらに、千束の夜間任務はすべて停止。
喫茶リコリコへの出勤と、必要最低限の移動のみ。
理由は、対象本人からの強い要望。
「……わがままですね」
奏斗は端末の画面を見ながら呟いた。
千束が何を言ったのかは想像できる。
奏斗が戻るまで任務へ行かない。
別の護衛は嫌だ。
遠くから見ているだけならいい。
おそらく、そのような内容だったのだろう。
千束自身は、任務へ出られる状態にある。
負傷もしていない。
前回の戦闘でも、動きに問題はなかった。
本来なら奏斗の不在だけを理由に、任務を止める必要はない。
それでもミカが了承し、DA側も受け入れた。
敵による待ち伏せが続いている以上、千束を不用意に動かさない判断は理解できる。
ただし。
千束が自分の負傷を理由に任務を止めたという事実は、奏斗にとって少し重かった。
自分がいなければ動かない。
それは信頼とも言える。
同時に、依存へ近づく危険もある。
護衛としては喜ぶべきではない。
友人としては。
少しだけ、うれしいと思ってしまった。
「……不適切ですね」
奏斗は端末を閉じた。
◇
翌日。
入院は一日で終わった。
診察。
傷口の確認。
薬の受け取り。
生活上の注意。
重い物を持たない。
激しい運動をしない。
入浴は短時間。
出血や発熱があれば、すぐに連絡。
そして、絶対安静ではないが、可能な限り休むこと。
最後の注意を聞きながら、奏斗はすでに今後の調査について考えていた。
四人組が使用した武器。
現場へ残された薬莢。
敵が先に殲滅した犯罪グループとの関係。
任務情報へアクセスした人物。
久世蒼士にも、確認を頼みたいことがある。
「押村」
医療担当者の声で、奏斗は顔を上げた。
「聞いていたか?」
「はい」
「今、何を考えていた?」
「療養期間中に可能な情報整理です」
「休むことを考えろ」
「横になりながらでもできます」
「端末の使用もほどほどにしろ」
「善処します」
「守らない人間の返事だな」
「努力はします」
「同じだ」
医療担当者は呆れた顔で退院許可証を渡した。
奏斗はそれを受け取り、病室を出た。
外へ出たのは昼過ぎ。
拠点から自宅までは、電車と徒歩で移動できる距離だった。
歩行には問題ない。
ただし、階段を上ると傷が少し痛んだ。
体をかばいすぎると、今度は別の場所へ負担がかかる。
普段どおりに歩こうとするほど、脇腹の痛みを意識させられた。
自宅のマンションへ着き、玄関を開ける。
一人暮らし用としては、十分な広さ。
玄関。
短い廊下。
浴室と洗面所。
その先に、リビングと寝室がつながった一室。
簡単なキッチン。
小さなテーブル。
椅子が二脚。
ベッド。
収納棚。
必要なものは揃っている。
だが、娯楽用品はほとんどない。
テレビはあるが、見る頻度は低い。
ゲーム機もない。
漫画も、小説も少ない。
棚にあるのは、資料、書籍、救急用品、予備の端末、生活用品。
来客を想定した部屋ではなかった。
奏斗は上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。
処方された薬と水をテーブルへ置く。
横になる前に、室内の施錠と窓を確認した。
外部監視員が配置されていることも分かっている。
奏斗自身が狙われている可能性を考慮し、マンションから少し離れた場所でリリベルが警戒にあたっている。
完全に気が休まる状況ではない。
それでも、病室よりは落ち着いた。
奏斗がベッドへ腰を下ろしたところで、端末が振動した。
表示された名前。
錦木千束。
数日前に交換した連絡先。
メッセージが一件。
――退院した?
奏斗は短く返信した。
――今、自宅へ戻りました。
すぐに既読がつく。
――じゃあ今からお見舞い行く!
奏斗の指が止まる。
予想していなかったわけではない。
千束なら、一度は言い出すと思っていた。
だが、来る必要はない。
奏斗は返信する。
――必要ありません。傷は安定しています。
数秒。
――お菓子持ってくよ。
話が通じていない。
――療養中です。休む必要があります。
――私が静かにする。
それは最も信用できない返答だった。
――リコリコへ出勤してください。
――今日はもう終わった。
時刻を見る。
まだ夕方前。
通常なら、営業中のはず。
――なぜですか。
――先生が早く上がっていいって。
ミカが許可したらしい。
奏斗は額へ手を当てた。
――明日、店で会えます。
――奏斗は一週間休みでしょ?
――療養期間が終われば会えます。
――一週間も待てない。
奏斗は画面を見つめた。
単に見舞いへ来たいだけなのか。
傷の状態が心配なのか。
どちらもだろう。
千束は一度決めると、簡単には引かない。
説得を続けても、自力で住所を調べる可能性すらある。
上層部へ聞く。
ミカへ聞く。
監視員を追う。
千束なら、どれかを実行しかねない。
――見舞いは短時間にしてください。
奏斗は妥協した。
すぐに返信が来る。
――住所教えて!
奏斗は自宅の住所を送った。
送信した直後、別の問題が頭に浮かぶ。
現在、マンション周辺には監視員がいる。
千束が奏斗の自宅へ来れば、当然報告される。
リリベル所属の少年の自宅へ、DAのリコリスが単独で訪問。
しかも、勤務後。
監視員の中に口の軽い者がいれば、すぐに拠点内へ噂が広がる。
久世蒼士へ知られれば、確実に面白がられる。
上層部が問題視する可能性もある。
「……面倒ですね」
奏斗は小さく呟いた。
だが、住所はすでに送った。
今さら来るなと言っても、千束は来る。
短時間で帰すしかない。
◇
その日の夜。
インターホンが鳴ったのは、奏斗が簡単な夕食を作ろうとしていたときだった。
時刻は十九時前。
予想より早い。
画面を確認する。
千束だった。
普段着。
片手には大きな紙袋。
もう片方には、肩から提げた鞄。
さらに背中にも荷物がある。
「……なぜ、それほど荷物が」
奏斗は独り言を言いながら、玄関の解錠操作をした。
数分後。
玄関のチャイムが鳴る。
扉を開ける。
「お見舞いに来ました!」
千束は明るい笑顔で立っていた。
「声が大きいです」
「元気そうだね」
「見たとおりです」
「顔色は?」
千束が奏斗の顔を覗き込む。
「問題ありません」
「傷は?」
「安定しています」
「見せて」
「玄関で言うことですか?」
「中で見る」
千束は当然のように入ろうとする。
奏斗は一度、千束の荷物を見た。
紙袋。
大きめの鞄。
背中の荷物。
「千束」
「何?」
「見舞いにしては、荷物が多くありませんか?」
「必要なもの」
「何が入っていますか?」
「着替え」
「なぜですか?」
「歯ブラシ」
「なぜですか?」
「タオル」
「部屋にあります」
「寝るときの服」
「千束」
奏斗は低い声で名前を呼んだ。
千束は笑顔のまま首を傾げる。
「何?」
「泊まるつもりですか?」
「うん」
即答だった。
奏斗は数秒、何も言えなかった。
「見舞いでは?」
「見舞いもするよ」
「短時間にする約束でした」
「短時間とは言ってない」
「私は、短時間にしてくださいと送りました」
「返信してないから、同意してない」
「既読はついていました」
「読んだだけ」
「その理屈はおかしいでしょう」
「でも来ちゃった」
「帰ってください」
「嫌」
「即答しないでください」
千束は少し真面目な顔になる。
「私、一人で帰るの危ないでしょ?」
「監視員がついています」
「遠くからだけ」
「必要なら、セーフハウスまで別の者をつけます」
「奏斗といた方が安全」
「現在の私は負傷しています」
「でも銃は使える」
「使わせないでください」
「それに」
千束は奏斗を見る。
「奏斗も狙われてるかもしれない」
「その可能性はあります」
「一人より二人の方がいいよ」
「千束が増えれば、守る対象も増えます」
「私は自分で戦える」
「知っています」
「じゃあ問題ない」
「問題しかありません」
千束は靴を脱ぎ始めた。
「入っていい?」
「すでに入る動作をしていますね」
「お邪魔します!」
「まだ許可していません」
奏斗が止める前に、千束は玄関へ入った。
荷物を置き、室内を見回す。
「へえ」
「何ですか?」
「奏斗の家」
「見れば分かります」
「きれい」
「散らかす物がありませんので」
「本当に何もないね」
「必要なものはあります」
「ゲームは?」
「ありません」
「漫画は?」
「少しだけです」
「映画は?」
「端末で見られます」
「ぬいぐるみは?」
「なぜあると思ったのですか?」
「意外とかわいいもの好きかも」
「ゲームセンターで取ったぬいぐるみは千束が持っているでしょう」
「奏斗の部屋に置けばよかったかな」
「不要です」
千束は室内の奥へ進む。
ベッドを見る。
小さなテーブルを見る。
棚を見る。
窓を見る。
「本当に一人暮らしの部屋だね」
「ほかに何を想像していたのですか?」
「秘密基地みたいなの」
「リリベルの拠点ではありません」
「壁の裏に武器庫」
「ありません」
「床下に逃走路」
「ありません」
「つまんない」
「普通の住居です」
千束は荷物を床へ置いた。
その中から、大量の菓子を取り出す。
チョコレート。
クッキー。
小さなケーキ。
ゼリー。
飲み物。
「お見舞い」
「多すぎます」
「一週間分」
「毎日食べる前提ですか?」
「療養中は甘いもの必要でしょ」
「医学的根拠はありません」
「気分が良くなる」
「ミカさんと同じことを言いますね」
「先生に聞いた」
「やはり」
奏斗は紙袋の中を見る。
甘いものばかりではない。
簡単に食べられるパン。
スープ。
果物。
栄養補助食品。
傷へ負担をかけずに食べられそうなものも入っている。
千束なりに考えたらしい。
「ありがとうございます」
「素直」
「見舞い品については感謝します」
「泊まるのも?」
「それは別です」
千束の表情が少し曇る。
「やっぱり迷惑?」
先ほどまでの強引な態度が少し消えた。
声も小さい。
奏斗はすぐに答えようとした。
だが、一度言葉を選ぶ。
迷惑ではない。
千束が来たこと自体は、嫌ではない。
むしろ、病院と一人の部屋を往復したあとで、千束の明るい声を聞くと安心する。
ただし。
泊まることには、別の問題がある。
「迷惑ではありません」
「本当?」
「はい」
「じゃあ泊まっていい?」
「話を飛ばさないでください」
「迷惑じゃないんでしょ?」
「女性が一人で男性の家へ泊まりに来ること自体に問題があります」
「何が?」
「一般的にです」
「奏斗、何かするの?」
「しません」
「じゃあ大丈夫」
「私だけの問題ではありません」
「誰かに見られる?」
「すでに監視員に見られています」
「あ」
千束はようやく気づいた顔をする。
「噂になる?」
「高い確率で」
「奏斗の家に泊まったって?」
「はい」
「ミズキに知られたら、ずっと言われそう」
「それだけではありません」
「上の人に怒られる?」
「可能性があります」
「じゃあ、護衛のためって言えばいいよ」
「事実を都合よく利用しないでください」
「本当に護衛だよ」
「負傷者の家へ護衛対象が泊まり込むのですか?」
「お互いに守る」
「効率が悪すぎます」
千束は少し考える。
「でも、今から帰ったら危ないかもしれない」
「監視員へ連絡します」
「嫌」
「なぜですか?」
「知らない人と帰りたくない」
「護衛担当者です」
「奏斗がいい」
まっすぐ言われ、奏斗は言葉を止めた。
「負傷しています」
「知ってる」
「今、襲撃された場合、普段ほど動けません」
「私が守る」
「立場が逆です」
「たまにはいいでしょ」
「良くありません」
「じゃあ」
千束は少しだけ困ったように笑う。
「今日は、友達の家に泊まるってことで」
「さらに問題が増えました」
「でも迷惑じゃないんでしょ?」
奏斗は千束を見る。
帰れと言えば、帰るかもしれない。
ただし、その場合。
千束はおそらく少し傷つく。
監視員をつけたとしても、夜道を一人で帰すことへの不安も残る。
奏斗自身が狙われているなら、千束がそばにいることは危険。
しかし、千束も狙われている。
どちらかが単独になるより、互いの位置を把握できる方が安全とも言える。
理屈を並べれば、どちらの結論にもできた。
問題は。
奏斗が本当に、千束を帰したいのか。
「……分かりました」
「泊まっていい?」
「今日だけです」
「やった」
「ただし、勝手に部屋を探らないでください」
「探らないよ」
「武器や資料には触れない」
「うん」
「夜更かしをしない」
「それは難しいかも」
「帰ってください」
「守る!」
「声が大きいです」
「分かった」
千束はうれしそうに笑った。
奏斗は小さく息を吐く。
一週間の療養初日から、静かに休む予定は完全に崩れた。
◇
夕食は、奏斗が簡単な料理を作ろうとした。
だが、千束に止められた。
「療養中でしょ」
「立って作る程度なら問題ありません」
「傷開いたらどうするの?」
「開きません」
「先生に言うよ」
「ミカさんを利用しないでください」
「じゃあ私が作る」
「できますか?」
「失礼だなぁ」
「何が作れますか?」
「卵焼き」
「夕食としては少なくありませんか?」
「あと、ご飯炊く」
「おかずは?」
「卵焼き」
「増えていません」
「奏斗が教えて」
「結局、私が作ることになるのでは?」
最終的に、二人で簡単なスープと炒め物を作った。
奏斗が指示を出し、千束が動く。
千束は器用なはずだが、料理になると少し大雑把だった。
「野菜の大きさが違います」
「食べれば同じ」
「火の通りが変わります」
「小さい方に合わせればいい」
「大きい方が残ります」
「じゃあ長く炒める」
「小さい方が焦げます」
「料理って難しいね」
「切り方を揃えるだけです」
「奏斗、細かい」
「基本です」
「先生みたい」
「ミカさんなら、もっと丁寧に教えると思います」
「奏斗も優しいよ」
「今、注意しかしていません」
「ちゃんと教えてくれてるから」
奏斗は返事をせず、鍋の火を調整した。
できあがった料理は、見た目こそ少し不揃いだったが、味は悪くなかった。
二人でテーブルを挟んで食べる。
「おいしい」
千束が言う。
「少し味が濃いですね」
「私が調味料入れたから?」
「はい」
「でもおいしい」
「食べられます」
「褒め方が固い」
「千束が作った部分も問題ありません」
「それ、褒めてる?」
「はい」
「じゃあ、また作る」
「次はリコリコで練習してください」
「奏斗の家で」
「なぜですか?」
「また来る理由になる」
千束は何気なく言った。
奏斗はスープを飲む。
「来客用の設備はありません」
「今日泊めてくれるじゃん」
「例外です」
「次も例外にする」
「例外が増えれば通常になります」
「じゃあ通常で」
「駄目です」
食後。
千束が持ってきた菓子をテーブルへ並べた。
小さなチョコレートケーキ。
クッキー。
果物のゼリー。
「全部食べるのですか?」
「少しずつ」
「夕食直後です」
「デザートは別」
「胃は同じです」
「奏斗も甘いもの好きでしょ」
「限度はあります」
「今日はお見舞い記念」
「また記念ですか?」
「奏斗が退院した記念」
「入院は一日です」
「無事だった記念」
「それなら理解できます」
「じゃあ食べよう」
チョコレートケーキを半分ずつに分ける。
奏斗はコーヒー。
千束は持参したオレンジジュース。
「奏斗の部屋、静かだね」
「一人なので」
「音楽とか聞かない?」
「たまに」
「テレビは?」
「ニュース程度です」
「休みの日、何してるの?」
「資料を読むか、訓練か、外出です」
「遊ばないの?」
「必要なら」
「遊びに必要とかないって、前も言ったよね」
「覚えています」
「今度、ゲーム置こうよ」
「不要です」
「二人でできるやつ」
「千束が来る前提になっています」
「来るよ」
「勝手に決めないでください」
「嫌?」
「嫌ではありません」
即答してから、奏斗は少しだけ後悔した。
千束が笑う。
「じゃあ来る」
「頻度の問題です」
「週一」
「多いです」
「月一」
「許可した覚えはありません」
「その間くらい」
「交渉制ですか?」
「うん」
千束はクッキーを一つ取る。
「奏斗、リコリコ休んでる間、何するの?」
「調査資料を整理します」
「休んで」
「横になりながらできます」
「病院の人にも言われたでしょ」
「なぜ知っているのですか?」
「奏斗なら絶対言われると思った」
「予想ですか」
「当たってる?」
「はい」
「じゃあ、今日から私が見張る」
「護衛対象に療養を監視されるのですか?」
「変なことしないように」
「変なこととは?」
「勝手に訓練するとか、傷開くまで動くとか」
「しません」
「本当?」
「軽い動作確認程度は」
「駄目」
「千束に決める権限はありません」
「先生に連絡するよ」
「またですか」
「ミズキにも」
「さらに面倒になります」
「じゃあ言うこと聞いて」
奏斗はコーヒーを飲んだ。
「……分かりました」
「素直」
「今だけです」
「明日も来るから」
「その話は後でしてください」
◇
食事と菓子を終えたあと。
千束が浴室へ向かった。
「先に入っていい?」
「どうぞ」
「タオル借りるね」
「洗面所の棚にあります」
「新しいの?」
「来客用ではありませんが、未使用のものがあります」
「奏斗、ちゃんと予備あるんだ」
「消耗品です」
「下着は?」
「知りません」
「私の持ってきた」
「聞いていません」
「言っただけ」
「言わなくて結構です」
千束は着替えを持ち、浴室の前で振り返った。
「奏斗」
「何ですか?」
「見ないでよ、変態」
奏斗は数秒、千束を見た。
「では、泊まらないでください」
「何で?」
「自分から男性の家へ泊まりに来て、浴室へ入る前に変態扱いする人を、どう扱えばいいのですか?」
「普通に待ってて」
「見ません」
「本当?」
「見たいと思っていません」
「それはそれで失礼!」
「どう答えれば正解なのですか?」
「見たいけど我慢する、とか」
「千束」
「冗談」
「早く入ってください」
「はーい」
千束は楽しそうに浴室へ入った。
扉が閉まる。
しばらくして、シャワーの音が聞こえ始める。
奏斗はテーブルの片づけをしながら、小さく息を吐いた。
「……じゃあ泊まらなければいいでしょう」
もちろん、本人には聞こえない声で呟く。
片づけを終え、寝具について考える。
来客用の布団はない。
ソファもない。
椅子を並べて寝られる広さでもない。
床へ毛布を敷けば、一人は眠れる。
だが、負傷している奏斗が床で寝るのは現実的ではない。
千束を床へ寝かせることもできない。
ベッドは一つ。
大きさは一人用より少し広い程度。
どう考えても、千束へベッドを使わせ、奏斗が椅子か床で休むしかない。
傷への負担はあるが、一晩なら耐えられる。
奏斗が毛布を用意していると、浴室の扉が開いた。
「上がったよ」
千束が髪を乾かしながら出てくる。
持参した部屋着。
普段より柔らかい印象。
赤いリボンは外されている。
髪も少し湿っていた。
「髪を完全に乾かしてください」
「今やってる」
「風邪を引きます」
「奏斗、先生みたい」
「何度目ですか」
「でも似てる」
千束はドライヤーを使いながら、奏斗の手元を見る。
「何してるの?」
「寝る準備です」
「布団一つ?」
「来客用はありません」
「どうするの?」
「千束がベッドを使ってください」
「奏斗は?」
「床で休みます」
「駄目」
「私は問題ありません」
「怪我してるでしょ」
「体勢を工夫します」
「傷開くよ」
「開きません」
「ベッド使って」
「千束はどうするのですか?」
「一緒に寝る」
奏斗の動きが止まった。
ドライヤーの音だけが部屋へ響く。
「今、何と?」
「一緒に寝ればいいじゃん」
「このベッドで?」
「うん」
「狭いです」
「詰めれば入る」
「そういう問題ではありません」
「何が?」
「男女が同じベッドで寝ることです」
「何もしないんでしょ?」
「しません」
「じゃあ大丈夫」
「またその理屈ですか」
「奏斗が床で寝る方が駄目」
「私は椅子でも」
「眠れないよ」
「横にならなくても休めます」
「一週間療養って言われた人が、椅子で寝るの?」
千束はドライヤーを止めた。
「先生に言うよ」
「ミカさんを万能の脅しに使わないでください」
「じゃあ一緒」
「千束」
「嫌?」
また、その聞き方だった。
強引に押し進めたあとで。
最後だけ少し不安そうに確認する。
奏斗は弱かった。
「嫌ではありません」
「じゃあ決まり」
「ただし」
「何?」
「私は端へ寄ります。千束も自分の側から動かないでください」
「寝てる間は分かんないよ」
「努力してください」
「奏斗こそ」
「私は動きません」
「寝相悪いかも」
「初めて聞きました」
「今日分かるね」
「確認したくありません」
結局、同じベッドで寝ることになった。
奏斗が先に横になる。
傷を下にしないよう、左側を避ける。
千束も反対側へ入る。
布団を分けることはできない。
一枚を二人で使う。
距離はある。
しかし、普段一人で使っているベッドに二人が入れば、どうしても相手の気配を近くに感じる。
布団が動く音。
呼吸。
髪の匂い。
わずかな体温。
奏斗は千束へ背中を向けた。
「奏斗」
「何ですか?」
「何で背中向けるの?」
「寝るためです」
「こっち向いても寝られるよ」
「傷の位置の都合です」
「傷、反対側じゃない?」
「……気分の問題です」
「照れてる?」
「寝てください」
「耳赤い?」
「暗いので見えません」
「触って確認しようか?」
「やめてください」
「額は触らせてくれたのに」
「あれは体温確認です」
「今日も熱あるかも」
「ありません」
千束が少し動く。
布団が揺れる。
背中側の距離が近くなったように感じる。
「千束」
「何?」
「自分の側から動かないでください」
「動いてないよ」
「近くなっています」
「ベッド狭いから」
「先ほど言いました」
「でも一緒に寝るって決めた」
「千束が決めました」
「奏斗も嫌じゃないって言った」
「それは」
「嫌じゃないんでしょ?」
「……はい」
「じゃあいいじゃん」
奏斗は目を閉じた。
寝る。
考えない。
隣に千束がいることも。
同じ布団を使っていることも。
明日、監視員の報告でリリベル内に噂が広がることも。
今は休む。
「奏斗」
「……」
「もう寝た?」
「……」
「早くない?」
奏斗は寝たふりをすることにした。
返事をしなければ、千束も諦めて眠るだろう。
数秒。
千束が小さく息を吐く。
「本当に寝たのかな」
布団がまた少し動く。
「奏斗」
返事をしない。
「私が隣にいるのに、何もしないんだ」
奏斗の意識が完全に覚醒した。
それでも動かない。
「襲わないの?」
何を言っているのか。
返事をした方がいいのか。
無視した方がいいのか。
奏斗は判断に困った。
千束は続ける。
「私って、そんなに魅力ない?」
奏斗の眉がわずかに動く。
魅力がないわけではない。
むしろ。
明るい。
話しやすい。
一緒にいて退屈しない。
強い。
人を助けようとする。
笑顔が自然に周囲を明るくする。
以前、好きな女性のタイプを聞かれたとき、奏斗が答えた内容。
その多くが、千束に当てはまっていた。
外見についても。
かわいいと思う。
似合う服を見れば、そう伝えられる。
髪を下ろした今の姿も、普段とは違って見える。
だが。
それを今、この状況で答えるわけにはいかない。
何より、千束が本気で聞いているのか分からない。
からかっているだけかもしれない。
奏斗は呼吸を一定に保つ。
寝たふりを続ける。
「……寝てるの?」
千束の声が少し小さくなる。
「本当に?」
奏斗は動かない。
「つまんない」
布団が動く。
千束が反対側を向いたようだった。
「でも」
かすかな声。
「寝ててよかったかも」
その後、千束は何も言わなくなった。
しばらくして、呼吸がゆっくりと一定になる。
本当に眠ったらしい。
奏斗は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
返事をしなくて正解だったのか。
分からない。
ただ、答えていれば。
さらに眠れない夜になっていたことだけは確かだった。
「……魅力がないわけではありません」
千束に聞こえないほどの声で呟く。
返事はない。
奏斗はそのまま目を閉じた。
◇
翌朝。
目を覚ました奏斗が最初に感じたのは、右腕の重みだった。
ゆっくり目を開く。
千束が、奏斗の腕を抱くようにして眠っている。
自分の側から動かない。
昨夜、そのように約束したはずだった。
千束の寝相が悪い可能性は、自分で言っていた。
そのとおりになっている。
「千束」
小声で呼ぶ。
反応なし。
「起きてください」
「ん……」
千束が少しだけ動く。
腕をさらに強く抱いた。
「千束」
「まだ……」
「出勤時間があります」
「あと五分」
「ここは千束の家ではありません」
「奏斗の家……」
目を閉じたまま答える。
「分かっているなら起きてください」
「奏斗、朝早いね」
「通常です」
千束がゆっくり目を開く。
数秒。
自分が奏斗の腕を抱いていることに気づく。
「……おはよう」
「おはようございます」
「これ、違うからね」
「何がですか?」
「寝てる間に動いただけ」
「知っています」
「奏斗が近づいたんじゃないよね?」
「私は動いていません」
「本当?」
「はい」
「じゃあ私かぁ」
千束は腕を離す。
少しだけ顔が赤い。
「変態」
「なぜですか?」
「腕抱かせた」
「千束が勝手に抱いたのでしょう」
「避けなかった」
「寝ていました」
「本当に?」
「寝たふりをした時間はあります」
奏斗は正直に答えた。
千束の動きが止まる。
「え」
「何ですか?」
「いつまで起きてた?」
「ある程度です」
「私が話してたとき?」
「どの話ですか?」
「……知らない!」
千束は勢いよくベッドから出る。
「着替える!」
「洗面所を使ってください」
「見ないでよ、変態!」
「昨日と同じです。では泊まらないでください」
「もう泊まった!」
「自分で言っていますね」
千束は着替えを持って洗面所へ逃げた。
奏斗は起き上がる。
脇腹が少し痛む。
だが、昨日より悪化はしていない。
傷も開いていない。
千束が洗面所にいる間に、朝食を作る。
米は昨夜炊いた残り。
卵。
簡単な味噌汁。
焼いた魚。
負傷していても、この程度なら問題ない。
洗面所から出てきた千束が、キッチンに立つ奏斗を見て眉を寄せる。
「何してるの?」
「朝食です」
「休んでって言ったよね」
「軽い調理です」
「私がやる」
「出勤時間へ間に合いません」
「でも」
「もう完成します」
千束は不満そうに椅子へ座る。
「先生に言うから」
「この程度で報告しないでください」
「療養中なのに料理した」
「自炊を禁止されていません」
「細かい」
「規則は確認しました」
「そういうところ奏斗らしいね」
二人で朝食を食べる。
千束は一口ごとに、おいしいと言った。
「そんなに何度も言わなくていいです」
「本当においしいから」
「普通の朝食です」
「奏斗が作ったから」
「味へ影響しますか?」
「するよ」
「心理的な問題ですね」
「そうかも」
食後。
千束は荷物をまとめる。
昨日持ってきた菓子の大半は、そのまま奏斗の部屋へ置いていく。
「ちゃんと食べてね」
「一日一つ程度にします」
「少ない」
「十分です」
「傷治るまで甘いものいっぱい食べた方がいいよ」
「根拠がありません」
「元気になる」
「気分は良くなります」
「じゃあいいじゃん」
千束は玄関で靴を履く。
奏斗も上着を羽織ろうとした。
「どこ行くの?」
「下まで送ります」
「療養中」
「マンションの入口までです」
「部屋にいて」
「監視員へ引き継ぎます」
「連絡すればいいよ」
「直接確認します」
結局、奏斗は玄関前まで見送ることにした。
扉を開く。
廊下。
朝の光。
「今日はリコリコへ直行してください」
「分かってる」
「寄り道はしない」
「子供じゃないよ」
「周囲の監視員と連携してください」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「分かりました」
千束は一度振り返る。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日も来るから」
奏斗は目を瞬く。
「なぜですか?」
「お見舞い」
「昨日しました」
「今日の分」
「見舞いは日課ではありません」
「一週間休みでしょ?」
「はい」
「毎日来る」
「泊まりは認めません」
「今日はまだ分かんない」
「今、認めないと言いました」
「荷物はリコリコに置いてある」
「準備済みですか?」
「念のため」
「帰ってください」
「今から出勤するところ!」
千束が笑う。
「夕方、連絡するね」
「来なくて結構です」
「またね」
「千束」
「いってきます!」
千束は手を振り、廊下を歩いていく。
奏斗はその背中を見送る。
角を曲がり、姿が見えなくなる。
遠くから監視員が動いたことを確認する。
安全に移動を開始した。
奏斗は部屋へ戻ろうとする。
その前に、端末が振動した。
千束からのメッセージ。
――朝ごはんおいしかった! 夜もよろしく!
「……来る気ですね」
奏斗は小さく息を吐く。
返信する。
――夕食はリコリコで食べてください。
すぐに既読。
――じゃあデザート持ってく!
奏斗は画面を見つめる。
断っても来る。
昨日で十分理解した。
部屋の中には、千束が残した菓子。
洗面所には、使ったタオル。
ベッドには、二人で使った布団。
静かだった部屋に、千束がいた痕跡だけが残っている。
面倒。
騒がしい。
療養には向かない。
リリベル内で噂になる可能性も高い。
それでも。
一人で過ごすはずだった一週間が、少しだけ短く感じられた。
奏斗は端末へ返信する。
――量は控えてください。
送信。
すぐに、笑顔の絵文字が返ってきた。
奏斗は小さく笑い、玄関の扉を閉めた。