君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十四話 一週間の同居療養

 翌日の夕方。

 

 押村奏斗は、玄関先に立つ錦木千束を見て、しばらく言葉を失った。

 

「お見舞いに来ました!」

 

「……昨日も聞きました」

 

「今日の分!」

 

 千束は満面の笑みだった。

 

 昨日よりも荷物が多い。

 

 手には買い物袋が二つ。

 

 肩には鞄。

 

 さらに背中にも、小さめのリュックを背負っている。

 

 どう見ても、数時間だけ見舞いに来た人間の荷物ではなかった。

 

「千束」

 

「何?」

 

「その荷物は?」

 

「食材」

 

「食材」

 

「うん。奏斗、ちゃんと食べないと駄目でしょ」

 

「食べています」

 

「昨日の朝ごはんは作ってくれたけど、療養中なんだから私が作る」

 

「千束がですか?」

 

「何、その確認」

 

「いえ」

 

「今、できるのかって思ったでしょ」

 

「少しだけ」

 

「正直!」

 

 千束は頬を膨らませた。

 

「昨日、野菜切ったし」

 

「大きさが不揃いでした」

 

「今日は揃える」

 

「卵焼き以外も?」

 

「作る」

 

「何を?」

 

「炒め物」

 

「昨日と同じですね」

 

「あとスープ」

 

「昨日と同じです」

 

「成長するから!」

 

 千束は自信満々に言いながら、玄関へ上がろうとした。

 

 奏斗はその前に、一つ確認する。

 

「帰りは?」

 

「ん?」

 

「今日は帰りますよね」

 

「泊まるよ」

 

 やはり。

 

「昨日、泊まりは認めないと言いました」

 

「でも荷物持ってきた」

 

「理由になっていません」

 

「食材もある」

 

「なおさら帰れます」

 

「一人で帰るの危ないし」

 

「監視員がいます」

 

「奏斗も一人だと危ないし」

 

「監視員がいます」

 

「一緒の方が安心」

 

「同じ会話を昨日もしました」

 

「今日も同じ結論で」

 

「結論はまだ出ていません」

 

「泊めてくれるでしょ?」

 

 千束が上目遣いでこちらを見る。

 

 奏斗は小さく息を吐いた。

 

 この表情をされると、強く追い返しにくい。

 

 迷惑ではない。

 

 それは事実だ。

 

 だが、問題は山ほどある。

 

 リリベルの監視員には、すでに昨日の時点で見られている。

 

 今日も泊まれば、噂はほぼ確定する。

 

 久世蒼士の耳に入るのも時間の問題だ。

 

 それでも。

 

 千束が買い物袋を両手に持ち、少しだけ不安そうに立っているのを見ると、結局、同じ答えになった。

 

「……今日だけです」

 

「やった!」

 

「昨日も似たことを言いました」

 

「明日は明日の奏斗が考える」

 

「私を分割しないでください」

 

「お邪魔します!」

 

 千束は元気よく部屋へ入った。

 

 昨日と同じように見えたはずの部屋が、千束の荷物だけで一気に生活感を帯びる。

 

 買い物袋から出てくるのは、野菜、卵、肉、魚、果物、飲み物、そして当然のように甘い菓子。

 

「お菓子は必要ですか?」

 

「必要」

 

「昨日の分もまだ残っています」

 

「一週間分って言ったでしょ」

 

「増えています」

 

「療養が長引くかも」

 

「長引かせるつもりはありません」

 

「じゃあ元気になった記念に食べる」

 

「記念が増えています」

 

 奏斗は呆れながらも、冷蔵庫へ食材をしまった。

 

 千束は隣で手伝う。

 

 並んで立つと、狭いキッチンでは距離が近い。

 

「千束、少し下がってください」

 

「何で?」

 

「動きにくいです」

 

「怪我人は動かない」

 

「冷蔵庫へ入れているだけです」

 

「私がやる」

 

「野菜を冷凍庫へ入れようとしています」

 

「あ」

 

「やはり私も確認します」

 

「細かいなぁ」

 

「食材管理です」

 

 二人で夕食を作る。

 

 今日は千束が主導する、と本人は主張した。

 

 しかし実際には、奏斗が火加減を見て、調味料を調整し、切る大きさを指示し、千束が動く形になった。

 

「奏斗、料理の先生できるよ」

 

「本職ではありません」

 

「リコリコで料理担当してみる?」

 

「ミカさんほどできません」

 

「でもおいしいよ」

 

「家庭料理程度です」

 

「家庭料理できるの、すごい」

 

「必要なので」

 

「私は必要でも、適当になっちゃう」

 

「千束らしいですね」

 

「褒めてる?」

 

「半分は」

 

「もう半分は?」

 

「注意です」

 

「奏斗らしい」

 

 作った食事は、昨日よりも確かに整っていた。

 

 野菜の大きさも、少しは揃っている。

 

 味も濃すぎない。

 

 千束は一口食べるたびに、自分で頷いた。

 

「成長した」

 

「はい」

 

「今、ちゃんと褒めた?」

 

「褒めました」

 

「じゃあ明日も作る」

 

「明日も来る前提ですね」

 

「うん」

 

「まだ許可していません」

 

「明日の奏斗が考えるんでしょ?」

 

「その言葉を使わないでください」

 

     ◇

 

 翌日も。

 

 その翌日も。

 

 千束は来た。

 

 最初は、今日だけ。

 

 次は、昨日も泊まったから今日も。

 

 その次は、食材が残っているから。

 

 その次は、奏斗の傷の様子を見る必要があるから。

 

 理由は毎日変わった。

 

 だが結論は変わらない。

 

 千束はリコリコの営業を終えると、食材や着替えを持って奏斗の部屋へ来る。

 

 夕食を作り。

 

 菓子を食べ。

 

 取り留めのない話をし。

 

 風呂へ入り。

 

 同じベッドで眠る。

 

 そして朝になると、奏斗が簡単な朝食を作り、千束をリコリコへ送り出す。

 

 そんな生活が、一週間続いた。

 

 奏斗にとって、それは奇妙な一週間だった。

 

 療養という名目なのに、静かではない。

 

 千束がいるだけで、部屋の音が増える。

 

 冷蔵庫を開ける音。

 

 キッチンで鍋を探す音。

 

 ドライヤーの音。

 

 笑い声。

 

 文句。

 

 変態という言葉。

 

 質問。

 

 報告。

 

 今日リコリコで誰が来たとか、ミズキにまたからかわれたとか、先生が新しい甘味を試作していたとか。

 

 奏斗の部屋は、元々音の少ない場所だった。

 

 必要な生活音しかない。

 

 それが千束の存在によって、毎日少しずつ変わっていった。

 

 テーブルには、千束が買ってきた菓子の箱。

 

 冷蔵庫には、二人分の食材。

 

 洗面所には、千束用の歯ブラシ。

 

 椅子の背には、千束が一時的に掛けた上着。

 

 ベッド脇には、小さな荷物。

 

 生活の中に、千束の痕跡が増えていく。

 

 不思議と、嫌ではなかった。

 

 むしろ、千束が来る時間が近づくと、奏斗は自然と部屋を整えるようになった。

 

 食材の残りを確認する。

 

 傷の包帯を替える。

 

 部屋の換気をする。

 

 テーブルを片づける。

 

 そして、インターホンが鳴ると、少しだけ安心する。

 

 そのことを自覚するたびに、奏斗は自分へ言い聞かせた。

 

 療養中だからだ。

 

 一人でいる時間が長いから、誰かの訪問に安心しているだけ。

 

 千束でなくても同じ。

 

 そう考えようとした。

 

 だが、すぐに否定する。

 

 千束でなければ、ここまで気を許してはいない。

 

 それもまた、事実だった。

 

     ◇

 

 もちろん、平穏なだけではなかった。

 

 一週間も同じ部屋で過ごせば、当然のようにハプニングは起きる。

 

 三日目の夜。

 

 千束が風呂に入っている最中、浴室の方から声がした。

 

「奏斗ー!」

 

「何ですか?」

 

「タオル!」

 

「棚にあるはずです」

 

「ない!」

 

「昨日、新しいものを置きました」

 

「使った!」

 

「予備は?」

 

「見つからない!」

 

 奏斗は洗面所の前で足を止めた。

 

 浴室の扉は閉まっている。

 

 中からシャワーの音は止まっていた。

 

「少し待ってください」

 

「早く!」

 

「タオルの場所を探します」

 

「寒い!」

 

「だから完全に準備してから入ってくださいと言いました」

 

「今言わなくていいでしょ!」

 

 奏斗は収納棚を開けた。

 

 未使用のタオルは、別の棚へ移していた。

 

 千束が料理中にこぼした水を拭くため、数枚使ったためだ。

 

 奏斗は新しいタオルを取り、洗面所の扉の前へ立つ。

 

「扉の外へ置きます」

 

「届かない!」

 

「少し開けてください」

 

「見ないでよ」

 

「見ません」

 

「絶対?」

 

「絶対です」

 

「変態だから信用できない」

 

「では自力で乾いてください」

 

「嘘! ごめん!」

 

 浴室の扉が少しだけ開いた。

 

 白い湯気が漏れる。

 

 濡れた手が伸びてくる。

 

 奏斗は目をそらしたまま、タオルを渡そうとした。

 

 その瞬間。

 

 千束がタオルをつかみ損ねた。

 

「あっ」

 

 タオルが床へ落ちる。

 

 反射的に奏斗が拾おうと視線を動かす。

 

 扉の隙間。

 

 湯気。

 

 肌色。

 

 濡れた髪。

 

 奏斗は即座に目を閉じ、顔を背けた。

 

「すみません」

 

「見た!?」

 

「見ていません」

 

「今こっち向いた!」

 

「タオルを拾おうとしました」

 

「見たでしょ!」

 

「見えかけましたが、認識していません」

 

「何その言い方!」

 

「事実です」

 

「変態!」

 

「千束がタオルを落としたのでしょう」

 

「拾い方が変態!」

 

「どう拾えばよかったのですか?」

 

「目を閉じて!」

 

「閉じました」

 

「もっと早く!」

 

「無茶です」

 

 奏斗は目を閉じたままタオルを拾い、扉の隙間へ差し出した。

 

 今度は千束がしっかり受け取る。

 

 扉が勢いよく閉まった。

 

「奏斗の変態!」

 

「今後は自分で準備してください」

 

「冷たい!」

 

「当然の対策です」

 

 その夜、千束は風呂から上がったあともしばらく頬を赤くしていた。

 

 奏斗が何か言うたびに、変態、見えかけ変態、と呼ばれた。

 

 完全に見えてはいない。

 

 そう説明しても、千束は聞かなかった。

 

     ◇

 

 別の日の朝。

 

 奏斗が目を覚ますと、目の前に千束の顔があった。

 

 距離が近すぎる。

 

 本当に、あと少しで唇が触れそうな距離だった。

 

 千束はまだ眠っている。

 

 昨夜、眠る前には確かに反対側にいた。

 

 背中合わせに近い形だったはずだ。

 

 それが、夜のうちに寝返りを繰り返したのか、千束は奏斗の方へ寄ってきていた。

 

 片腕は奏斗の胸元に置かれている。

 

 足も布団の中で少し絡んでいる。

 

 奏斗は呼吸を止めた。

 

 動けば起こす。

 

 起きた千束がこの距離に気づけば、間違いなく変態扱いされる。

 

 だが、このまま動かないわけにもいかない。

 

 時計を見る。

 

 出勤まで、まだ少し余裕はある。

 

 ならば、千束が自然に離れるまで待つ。

 

 奏斗はそう判断した。

 

 しかし、千束は離れなかった。

 

 むしろ、寝ぼけたまま少しだけ近づいた。

 

 唇までの距離が、さらに縮まる。

 

「千束」

 

 小声で呼ぶ。

 

 反応なし。

 

「起きてください」

 

「ん……」

 

 千束が目を閉じたまま、何かを呟いた。

 

 奏斗は首をわずかに引く。

 

 傷へ負担がかかる。

 

 痛い。

 

 だが、それよりもこの距離の方が危険だった。

 

「千束」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 千束の目がゆっくり開いた。

 

 数秒。

 

 視線が合う。

 

「……おはよ」

 

「おはようございます」

 

「近いね」

 

「千束が近づきました」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「奏斗が近づいたんじゃなくて?」

 

「私は動いていません」

 

「でも、今ちょっとキスしそうだったよね」

 

「事故です」

 

「してないの?」

 

「していません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「したかった?」

 

 奏斗は無言で目を閉じた。

 

「寝たふりするのやめて」

 

「朝食を作ります」

 

 奏斗はできるだけ自然に体を起こそうとする。

 

 千束が布団をつかんだ。

 

「答えてない」

 

「答える必要がありません」

 

「ある」

 

「ありません」

 

「私とキスしそうになって、何とも思わないの?」

 

「思うから起きるのです」

 

 言ってから、奏斗は自分の失言に気づいた。

 

 千束の顔が少し赤くなる。

 

「……思うんだ」

 

「一般論です」

 

「今の一般論じゃないよね」

 

「朝食にしましょう」

 

「逃げた」

 

「逃げます」

 

「認めた!」

 

 その日一日、千束は妙に機嫌が良かった。

 

 そして何かにつけて、朝の距離の話を持ち出そうとした。

 

 奏斗はそのたびに話題を変えた。

 

     ◇

 

 一週間の療養は、驚くほど早く過ぎた。

 

 痛みは日ごとに引いていった。

 

 最初は体を起こすだけでも傷が引きつった。

 

 三日目には歩くのが楽になった。

 

 五日目には、軽い家事ならほとんど問題なくこなせるようになった。

 

 七日目には、まだ違和感は残るものの、日常動作で痛みを強く感じることは少なくなっていた。

 

 千束は毎日、奏斗の様子を見た。

 

「今日は痛い?」

 

「少しです」

 

「昨日より?」

 

「軽いです」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「嘘ついてない?」

 

「ついていません」

 

「傷見せて」

 

「毎日確認しなくても」

 

「見せて」

 

 結局、包帯の交換を手伝われる。

 

 最初の頃は、千束が傷を見るたびに表情を曇らせた。

 

 自分のせいで負わせた傷だと思っているのだろう。

 

 奏斗は何度も違うと言った。

 

 判断を誤ったのは自分。

 

 千束のせいではない。

 

 それでも千束は、しばらく傷口を見るたびに黙った。

 

 だが、治りが進むにつれ、少しずつ表情も明るくなった。

 

「だいぶ良くなってきたね」

 

「はい」

 

「もうすぐ復帰?」

 

「医療担当者の確認次第です」

 

「無理したら駄目だよ」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「じゃあ、まだ激しい訓練禁止」

 

「軽い訓練は」

 

「禁止」

 

「千束に権限はありません」

 

「先生に言う」

 

「その脅しも聞き飽きました」

 

「じゃあミズキにも言う」

 

「それは効果があります」

 

「でしょ?」

 

 千束は得意そうに笑った。

 

 奏斗は呆れながらも、反論しなかった。

 

     ◇

 

 療養最終日。

 

 夕方。

 

 千束が来るまで、まだ時間があった。

 

 奏斗はテーブルの上にPCを開き、リリベル内部の報告書へアクセスしていた。

 

 もちろん、すべての情報へ入れるわけではない。

 

 負傷中の隊員に対して、閲覧権限は一部制限されている。

 

 特に今回の四人組に関する情報は、機密度が高く設定されていた。

 

 表示されるのは、最低限の任務記録と、周辺の警戒情報。

 

 それでも、確認できることはある。

 

 一週間。

 

 千束への襲撃情報はなし。

 

 セーフハウス周辺に不審な車両なし。

 

 リコリコ周辺でも、特筆すべき監視者の確認なし。

 

 フード姿の人物の目撃情報もない。

 

 犯罪組織を殲滅した四人組についても、新たな足取りは掴めていない。

 

 まるで、奏斗が負傷した途端に敵が消えたようだった。

 

「狙いは俺か……?」

 

 奏斗は画面を見ながら呟く。

 

 だが、それでは最初の事件と噛み合わない。

 

 最初に狙われたのは千束だった。

 

 千束が襲撃され、奏斗が救出した。

 

 その後、奏斗の関与が深まるにつれて、敵の行動は奏斗へ向いてきた。

 

 千束を人質に取り、奏斗へ死を要求した。

 

 そして今回、犯罪組織を先に殲滅し、任務現場で待ち伏せた。

 

 負傷したのは奏斗。

 

 敵は深追いせず撤退。

 

 殺害よりも、何かを確認する目的があったのか。

 

 あるいは、奏斗を戦線から一時的に外すことそのものが目的だったのか。

 

 奏斗は報告書をスクロールする。

 

 現場の薬莢情報。

 

 弾痕の角度。

 

 敵の逃走経路。

 

 どれも曖昧な書き方になっている。

 

 重要な部分が隠されている。

 

 リリベルの報告書でありながら、リリベル隊員の奏斗に情報が回っていない。

 

 あるいは。

 

 リリベル内部でも、限られた者しか知らない情報になっている。

 

「やはり、内部が絡んでいるのか……」

 

 奏斗は画面を閉じずに、椅子へ背を預けた。

 

 DA側の情報改ざん。

 

 リリベル通信に似た通信。

 

 フードの四人組。

 

 リリベルでありながら共有されない情報。

 

 もし敵が、リリベル内部の何者かとつながっているなら。

 

 通常の経路で報告を上げるのは危険だ。

 

 上へ出した情報が、敵へ流れる可能性もある。

 

 ならば、非公式に調べるしかない。

 

 協力を頼める相手。

 

 久世蒼士。

 

 奏斗と同期で、口は軽いが腕は立つ。

 

 冗談ばかり言うが、信頼できる。

 

 何より、奏斗が上層部を通さずに頼める数少ないリリベルだった。

 

「蒼士に頼むか」

 

 奏斗はそう呟いた。

 

 そのとき、インターホンが鳴った。

 

 画面を見る。

 

 千束。

 

 今日も予定どおり来た。

 

 奏斗はPCを閉じる。

 

「相手をするか」

 

 自分でも、少し柔らかい声になったと思った。

 

     ◇

 

「今日で最後だね」

 

 夜。

 

 千束は夕食後、テーブルに頬杖をついて言った。

 

「何がですか?」

 

「ここに泊まるの」

 

「療養期間は今日までです」

 

「残念」

 

「本来、毎日泊まりに来るものではありません」

 

「楽しかったでしょ?」

 

「騒がしかったです」

 

「楽しかった?」

 

 千束が聞き直す。

 

 奏斗は少し間を置いた。

 

「楽しかったです」

 

「素直!」

 

「最終日なので」

 

「最終日だと素直になるの?」

 

「かもしれません」

 

「じゃあもっと聞こうかな」

 

「答えるとは言っていません」

 

 千束は笑った。

 

 その日の夕食は、二人で作った。

 

 千束の料理は、一週間前より明らかに上達していた。

 

 野菜の大きさはかなり揃うようになった。

 

 火加減も、奏斗が口を出す前に調整するようになった。

 

 味付けはまだ少し濃いときがあるが、食べられるという段階はとっくに越えていた。

 

「私、料理うまくなった?」

 

「はい」

 

「どのくらい?」

 

「一週間前と比べれば、大きく上達しました」

 

「じゃあリコリコで厨房入れる?」

 

「ミカさんの判断です」

 

「先生、許してくれるかな」

 

「千束が真面目に練習すれば」

 

「奏斗が教えてくれる?」

 

「必要であれば」

 

「また来る理由できた」

 

「部屋ではなく、リコリコで」

 

「えー」

 

「えー、ではありません」

 

 食後、風呂に入り、片づけを済ませる。

 

 千束が荷物の一部をまとめ始めた。

 

 歯ブラシ。

 

 部屋着。

 

 余った菓子。

 

 着替え。

 

 一週間で少しずつ増えた千束の物が、鞄へ戻っていく。

 

 それを見ると、部屋が急に元の静けさへ戻るような気がした。

 

 明日からは一人。

 

 それが本来の形だったはずなのに。

 

 奏斗は少しだけ、違和感を覚えた。

 

     ◇

 

 寝る時間になった。

 

 この一週間で、同じベッドで寝ることにもある程度慣れてしまった。

 

 慣れてしまったこと自体が、奏斗には問題のように思えた。

 

 千束は自分の側に入り、布団をかぶる。

 

 奏斗も反対側へ横になった。

 

 いつものように、千束へ背中を向ける。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今日で最後かぁ」

 

「はい」

 

「残念」

 

 さっきと同じ言葉。

 

 だが、今度は少しだけ声が静かだった。

 

 奏斗は背中を向けたまま答える。

 

「私も、そうですね」

 

 言ったあと、奏斗は自分でも驚いた。

 

 自然に口から出た。

 

 千束も一瞬、黙った。

 

「奏斗も残念?」

 

「……はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「こっち向いて言って」

 

 奏斗は迷った。

 

 だが、最終日だからか。

 

 先ほど自分で言ったように、少し素直になっていたのかもしれない。

 

 ゆっくり体を動かし、千束の方を向く。

 

 暗い部屋。

 

 窓から入るわずかな光で、千束の顔が見える。

 

 いつもの明るい笑顔ではない。

 

 少し照れたような、少し寂しそうな顔。

 

「残念です」

 

 奏斗は言った。

 

 千束の目が少し大きくなる。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「私だけじゃないんだ」

 

「一週間、一人ではありませんでしたから」

 

「うん」

 

「騒がしかったですが」

 

「そこ付け足す?」

 

「事実です」

 

「でも楽しかった?」

 

「はい」

 

 目が合う。

 

 近い。

 

 一週間前なら、この距離だけでかなり動揺していただろう。

 

 今も平然としているわけではない。

 

 ただ、少しだけ慣れた。

 

 いや。

 

 慣れたふりをしているだけかもしれない。

 

 千束の表情が柔らかくなる。

 

 奏斗は急に恥ずかしくなった。

 

「寝ましょう」

 

 そう言って、また背中を向ける。

 

「逃げた」

 

「眠るためです」

 

「さっきまでこっち向いてたのに」

 

「気が変わりました」

 

「照れた?」

 

「寝ます」

 

「奏斗」

 

「おやすみなさい」

 

「まだ寝るには早いよ」

 

「療養中です」

 

「もう最終日でしょ」

 

「最終日だからこそです」

 

 千束が布団の中で動いた。

 

 次の瞬間。

 

 背中に、千束の体温が近づく。

 

 腕が、そっと奏斗の背中へ回った。

 

 抱きつかれた。

 

「千束」

 

「何?」

 

「離れてください」

 

「嫌」

 

「距離が近すぎます」

 

「最後だから」

 

「最後なら、なおさら問題を起こさないでください」

 

「何か起きるの?」

 

「千束が近いと、眠れません」

 

「私の寝相、悪いしね」

 

「起きている状態でこれは寝相ではありません」

 

「そうだね」

 

 千束の声が少し楽しそうになる。

 

「奏斗、固まってる」

 

「当たり前です」

 

「何で?」

 

「理性が保てなくなるからやめてください」

 

 言った瞬間。

 

 奏斗はしまったと思った。

 

 千束の腕に力が入る。

 

「へえ」

 

「千束」

 

「理性が?」

 

「今のは」

 

「保てなくなる?」

 

「言葉の選択を誤りました」

 

「奏斗の変態」

 

 千束の声は、罵っているというより、どこか嬉しそうだった。

 

「変態護衛」

 

「嬉しそうに言わないでください」

 

「嬉しくないよ」

 

「声が笑っています」

 

「だって、奏斗もそういうこと思うんだなって」

 

「一般的な反応です」

 

「また一般論」

 

「はい」

 

「私相手でも?」

 

 奏斗は黙る。

 

 返事をすれば、さらに墓穴を掘る。

 

 返事をしなければ、肯定に近い。

 

 どちらにしても逃げ場はない。

 

「寝たふり?」

 

「まだ寝ていません」

 

「じゃあ答えて」

 

「千束」

 

「何?」

 

「離れてください」

 

「答えたら考える」

 

「交渉材料にしないでください」

 

「奏斗が逃げるから」

 

「……千束相手だからです」

 

 静かな声で、奏斗は答えた。

 

 千束の動きが止まる。

 

 腕の力も少し緩んだ。

 

「それ、どういう意味?」

 

「言葉どおりです」

 

「私だから、理性が保てなくなるの?」

 

「その表現を繰り返さないでください」

 

「奏斗が言ったんだよ」

 

「後悔しています」

 

「後悔しないでよ」

 

 千束の声が少し小さくなる。

 

「私は、ちょっとうれしい」

 

 奏斗は目を閉じた。

 

 心拍が速い。

 

 傷の痛みは、もうほとんどない。

 

 だが、それとは別の理由で落ち着かなかった。

 

「千束」

 

「何?」

 

「このままでは本当に眠れません」

 

「じゃあ、ちょっとだけ」

 

「ちょっとだけとは?」

 

「寝るまで」

 

「結局、朝まででは?」

 

「かも」

 

「千束」

 

「今日は最後だから」

 

 その言葉に、奏斗は反論できなかった。

 

 千束の腕は、強すぎない。

 

 傷に触れないよう、気を遣っているのが分かる。

 

 ただ背中に寄り添うように、抱きついている。

 

 拒めばいい。

 

 いつものように理屈を並べればいい。

 

 だが、奏斗は何も言わなかった。

 

「……傷に当たらないようにしてください」

 

「うん」

 

「寝返りで強く押さないでください」

 

「努力する」

 

「努力では不安です」

 

「じゃあ、気をつける」

 

「はい」

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

 千束はそのまま目を閉じたらしい。

 

 しばらくすると、呼吸がゆっくりになった。

 

 本当に寝た。

 

 抱きついたまま。

 

 奏斗は眠れなかった。

 

 千束の体温。

 

 背中越しに感じる呼吸。

 

 一週間分の会話。

 

 夕食の匂い。

 

 タオルのハプニング。

 

 朝、キスしそうになった距離。

 

 そして、今日で最後という言葉。

 

 それらが頭の中で混ざる。

 

「……本当に、困った人ですね」

 

 奏斗は小さく呟いた。

 

 返事はない。

 

 それでも、千束の腕は離れなかった。

 

 奏斗はそのまま、ゆっくり目を閉じた。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 奏斗が目を覚ましたとき、千束はまだ背中にくっついていた。

 

 最終日だからと言った本人は、完全に熟睡している。

 

 奏斗は慎重に体を動かした。

 

 傷の痛みはない。

 

 千束の腕を少しずつ外す。

 

「ん……」

 

「起きてください」

 

「あと五分……」

 

「出勤日です」

 

「奏斗も……?」

 

「はい。今日からリコリコへ復帰します」

 

 その言葉に、千束の目がぱちりと開いた。

 

「本当?」

 

「医療担当者の許可が出れば、軽い業務からです」

 

「無理しない?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「じゃあ一緒に行ける?」

 

「そのつもりです」

 

 千束は一瞬で目を覚ました。

 

「じゃあ準備しよ!」

 

「まず離れてください」

 

「あ」

 

 千束は自分が抱きついたままだと気づき、少し顔を赤くした。

 

「これは寝相」

 

「昨夜からです」

 

「寝相が早めに出た」

 

「起きていましたよね」

 

「細かいなぁ」

 

 千束は布団から出る。

 

 部屋には、千束の荷物が散らばっている。

 

 一週間で増えた荷物。

 

 服。

 

 歯ブラシ。

 

 菓子。

 

 使いかけの調味料。

 

 小さなメモ。

 

 料理の途中で奏斗が書いた手順の紙。

 

 二人でそれを片づけ始めた。

 

「このお菓子は?」

 

「千束が持って帰ってください」

 

「奏斗用」

 

「量が多すぎます」

 

「じゃあ半分」

 

「それでも多いです」

 

「傷治った記念」

 

「また記念ですか」

 

「最後の日記念」

 

「記念が増えすぎです」

 

「全部大事だから」

 

 千束は笑いながら菓子を分ける。

 

 冷蔵庫の食材も整理した。

 

 残っているものは、その日の夜に使えるようにしておく。

 

「今日も来ようかな」

 

「療養は終わりました」

 

「夕食作りに」

 

「リコリコで食べてください」

 

「奏斗の部屋の方が練習しやすい」

 

「ここは料理教室ではありません」

 

「じゃあ、友達の家」

 

「その言い方も問題があります」

 

「問題多いね」

 

「千束が増やしています」

 

 洗面所の歯ブラシを見て、千束は少しだけ動きを止めた。

 

「これは?」

 

「持って帰ってください」

 

「また来るかもしれないし」

 

「置いていくつもりですか?」

 

「駄目?」

 

「……衛生面を考えると、ケースに入れて保管してください」

 

「いいの?」

 

「置き場所を決めます」

 

「やった」

 

「頻繁に来る許可ではありません」

 

「分かってる」

 

「本当ですか?」

 

「たぶん」

 

 奏斗は小さく息を吐いた。

 

 結局、千束の歯ブラシは洗面所の棚の端へ置かれることになった。

 

 完全に、生活の痕跡が残った。

 

 片づけを終えると、二人で朝食を作った。

 

 療養最後の日。

 

 いや、通常へ戻る最初の日。

 

 奏斗は味噌汁を作り、千束は卵焼きを焼いた。

 

 少し形は崩れたが、以前よりずっと上手くできていた。

 

「成長」

 

「はい」

 

「奏斗のおかげ」

 

「千束が練習したからです」

 

「素直に褒めた」

 

「事実です」

 

「じゃあ、また教えてね」

 

「必要であれば」

 

「約束」

 

「検討します」

 

「約束!」

 

「……分かりました」

 

 朝食を終え、二人は出勤準備をした。

 

 奏斗は久しぶりにリコリコ用の服へ着替える。

 

 傷へ負担がかからないよう、動きやすい服を選ぶ。

 

 千束はいつものように赤いリボンを結ぶ。

 

 鏡の前で位置を確認している。

 

「曲がってる?」

 

「少しだけ」

 

「直して」

 

「自分でできますよね」

 

「奏斗の方が見える」

 

「また顔に近づくことになります」

 

「今日は変態って言わない」

 

「信用できません」

 

「本当」

 

 奏斗は少し迷い、千束の横へ立った。

 

 リボンの位置を指で軽く直す。

 

 千束は鏡越しに奏斗を見る。

 

「ありがと」

 

「はい」

 

「変態」

 

「言いましたね」

 

「小声だから」

 

「聞こえています」

 

「だって、距離近かったから」

 

「千束が頼んだのでしょう」

 

「そうだけど」

 

 二人は少し笑った。

 

 部屋を出る前、奏斗は室内を見回した。

 

 片づいている。

 

 だが、一週間前とは違う。

 

 千束の歯ブラシ。

 

 残された菓子。

 

 冷蔵庫の食材。

 

 棚に置かれた小さなメモ。

 

 完全には元に戻っていない。

 

 奏斗は玄関で靴を履く。

 

 千束が隣に並ぶ。

 

「一週間、ありがとうございました」

 

 奏斗が言うと、千束は少し驚いた顔をした。

 

「急に?」

 

「世話になりましたので」

 

「こっちこそ」

 

「何がですか?」

 

「泊めてくれて。ご飯作ってくれて。料理教えてくれて」

 

「療養中でしたが」

 

「楽しかった」

 

「はい」

 

「奏斗は?」

 

「楽しかったです」

 

「何回聞いてもいいね」

 

「これ以上は控えてください」

 

「また聞く」

 

「でしょうね」

 

 扉を開ける。

 

 朝の空気が入ってくる。

 

 二人は並んで廊下へ出た。

 

 監視員がどこかで見ているだろう。

 

 リリベル内では、すでに噂が広がっているかもしれない。

 

 リコリコへ着けば、ミズキにも何か言われる。

 

 蒼士から連絡が来る可能性もある。

 

 面倒なことは多い。

 

 だが、今は不思議と、それほど嫌ではなかった。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今日からまた、リコリコだね」

 

「はい」

 

「無理したら、すぐ怒るから」

 

「分かっています」

 

「先生にも言う」

 

「分かっています」

 

「ミズキにも」

 

「それは控えてください」

 

「じゃあ無理しないでね」

 

「はい」

 

 千束は笑って歩き出す。

 

 奏斗もその隣へ並んだ。

 

 一週間ぶりの出勤。

 

 完全に元通りではない。

 

 敵の問題は残っている。

 

 リリベル内部への疑念も消えていない。

 

 それでも、奏斗の隣には千束がいた。

 

 この一週間、毎晩同じ部屋で笑い、食事をし、眠った相手。

 

 護衛対象。

 

 友人。

 

 そして、もうそれだけでは説明しきれなくなりつつある存在。

 

「奏斗、歩くの遅くない?」

 

「傷を考慮しています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「じゃあ、今日はゆっくり行こう」

 

「遅刻します」

 

「少しくらい大丈夫」

 

「駄目です」

 

「真面目」

 

「店員ですので」

 

「じゃあ、早歩きは禁止。普通に歩く」

 

「分かりました」

 

 二人は朝の道を歩いていく。

 

 リコリコへ向かって。

 

 騒がしく、面倒で、少し甘い一週間が終わる。

 

 だが、その痕跡は消えない。

 

 部屋にも。

 

 日常にも。

 

 二人の距離にも。

 

 確かに残っていた。

 

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