翌日の夕方。
押村奏斗は、玄関先に立つ錦木千束を見て、しばらく言葉を失った。
「お見舞いに来ました!」
「……昨日も聞きました」
「今日の分!」
千束は満面の笑みだった。
昨日よりも荷物が多い。
手には買い物袋が二つ。
肩には鞄。
さらに背中にも、小さめのリュックを背負っている。
どう見ても、数時間だけ見舞いに来た人間の荷物ではなかった。
「千束」
「何?」
「その荷物は?」
「食材」
「食材」
「うん。奏斗、ちゃんと食べないと駄目でしょ」
「食べています」
「昨日の朝ごはんは作ってくれたけど、療養中なんだから私が作る」
「千束がですか?」
「何、その確認」
「いえ」
「今、できるのかって思ったでしょ」
「少しだけ」
「正直!」
千束は頬を膨らませた。
「昨日、野菜切ったし」
「大きさが不揃いでした」
「今日は揃える」
「卵焼き以外も?」
「作る」
「何を?」
「炒め物」
「昨日と同じですね」
「あとスープ」
「昨日と同じです」
「成長するから!」
千束は自信満々に言いながら、玄関へ上がろうとした。
奏斗はその前に、一つ確認する。
「帰りは?」
「ん?」
「今日は帰りますよね」
「泊まるよ」
やはり。
「昨日、泊まりは認めないと言いました」
「でも荷物持ってきた」
「理由になっていません」
「食材もある」
「なおさら帰れます」
「一人で帰るの危ないし」
「監視員がいます」
「奏斗も一人だと危ないし」
「監視員がいます」
「一緒の方が安心」
「同じ会話を昨日もしました」
「今日も同じ結論で」
「結論はまだ出ていません」
「泊めてくれるでしょ?」
千束が上目遣いでこちらを見る。
奏斗は小さく息を吐いた。
この表情をされると、強く追い返しにくい。
迷惑ではない。
それは事実だ。
だが、問題は山ほどある。
リリベルの監視員には、すでに昨日の時点で見られている。
今日も泊まれば、噂はほぼ確定する。
久世蒼士の耳に入るのも時間の問題だ。
それでも。
千束が買い物袋を両手に持ち、少しだけ不安そうに立っているのを見ると、結局、同じ答えになった。
「……今日だけです」
「やった!」
「昨日も似たことを言いました」
「明日は明日の奏斗が考える」
「私を分割しないでください」
「お邪魔します!」
千束は元気よく部屋へ入った。
昨日と同じように見えたはずの部屋が、千束の荷物だけで一気に生活感を帯びる。
買い物袋から出てくるのは、野菜、卵、肉、魚、果物、飲み物、そして当然のように甘い菓子。
「お菓子は必要ですか?」
「必要」
「昨日の分もまだ残っています」
「一週間分って言ったでしょ」
「増えています」
「療養が長引くかも」
「長引かせるつもりはありません」
「じゃあ元気になった記念に食べる」
「記念が増えています」
奏斗は呆れながらも、冷蔵庫へ食材をしまった。
千束は隣で手伝う。
並んで立つと、狭いキッチンでは距離が近い。
「千束、少し下がってください」
「何で?」
「動きにくいです」
「怪我人は動かない」
「冷蔵庫へ入れているだけです」
「私がやる」
「野菜を冷凍庫へ入れようとしています」
「あ」
「やはり私も確認します」
「細かいなぁ」
「食材管理です」
二人で夕食を作る。
今日は千束が主導する、と本人は主張した。
しかし実際には、奏斗が火加減を見て、調味料を調整し、切る大きさを指示し、千束が動く形になった。
「奏斗、料理の先生できるよ」
「本職ではありません」
「リコリコで料理担当してみる?」
「ミカさんほどできません」
「でもおいしいよ」
「家庭料理程度です」
「家庭料理できるの、すごい」
「必要なので」
「私は必要でも、適当になっちゃう」
「千束らしいですね」
「褒めてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
「注意です」
「奏斗らしい」
作った食事は、昨日よりも確かに整っていた。
野菜の大きさも、少しは揃っている。
味も濃すぎない。
千束は一口食べるたびに、自分で頷いた。
「成長した」
「はい」
「今、ちゃんと褒めた?」
「褒めました」
「じゃあ明日も作る」
「明日も来る前提ですね」
「うん」
「まだ許可していません」
「明日の奏斗が考えるんでしょ?」
「その言葉を使わないでください」
◇
翌日も。
その翌日も。
千束は来た。
最初は、今日だけ。
次は、昨日も泊まったから今日も。
その次は、食材が残っているから。
その次は、奏斗の傷の様子を見る必要があるから。
理由は毎日変わった。
だが結論は変わらない。
千束はリコリコの営業を終えると、食材や着替えを持って奏斗の部屋へ来る。
夕食を作り。
菓子を食べ。
取り留めのない話をし。
風呂へ入り。
同じベッドで眠る。
そして朝になると、奏斗が簡単な朝食を作り、千束をリコリコへ送り出す。
そんな生活が、一週間続いた。
奏斗にとって、それは奇妙な一週間だった。
療養という名目なのに、静かではない。
千束がいるだけで、部屋の音が増える。
冷蔵庫を開ける音。
キッチンで鍋を探す音。
ドライヤーの音。
笑い声。
文句。
変態という言葉。
質問。
報告。
今日リコリコで誰が来たとか、ミズキにまたからかわれたとか、先生が新しい甘味を試作していたとか。
奏斗の部屋は、元々音の少ない場所だった。
必要な生活音しかない。
それが千束の存在によって、毎日少しずつ変わっていった。
テーブルには、千束が買ってきた菓子の箱。
冷蔵庫には、二人分の食材。
洗面所には、千束用の歯ブラシ。
椅子の背には、千束が一時的に掛けた上着。
ベッド脇には、小さな荷物。
生活の中に、千束の痕跡が増えていく。
不思議と、嫌ではなかった。
むしろ、千束が来る時間が近づくと、奏斗は自然と部屋を整えるようになった。
食材の残りを確認する。
傷の包帯を替える。
部屋の換気をする。
テーブルを片づける。
そして、インターホンが鳴ると、少しだけ安心する。
そのことを自覚するたびに、奏斗は自分へ言い聞かせた。
療養中だからだ。
一人でいる時間が長いから、誰かの訪問に安心しているだけ。
千束でなくても同じ。
そう考えようとした。
だが、すぐに否定する。
千束でなければ、ここまで気を許してはいない。
それもまた、事実だった。
◇
もちろん、平穏なだけではなかった。
一週間も同じ部屋で過ごせば、当然のようにハプニングは起きる。
三日目の夜。
千束が風呂に入っている最中、浴室の方から声がした。
「奏斗ー!」
「何ですか?」
「タオル!」
「棚にあるはずです」
「ない!」
「昨日、新しいものを置きました」
「使った!」
「予備は?」
「見つからない!」
奏斗は洗面所の前で足を止めた。
浴室の扉は閉まっている。
中からシャワーの音は止まっていた。
「少し待ってください」
「早く!」
「タオルの場所を探します」
「寒い!」
「だから完全に準備してから入ってくださいと言いました」
「今言わなくていいでしょ!」
奏斗は収納棚を開けた。
未使用のタオルは、別の棚へ移していた。
千束が料理中にこぼした水を拭くため、数枚使ったためだ。
奏斗は新しいタオルを取り、洗面所の扉の前へ立つ。
「扉の外へ置きます」
「届かない!」
「少し開けてください」
「見ないでよ」
「見ません」
「絶対?」
「絶対です」
「変態だから信用できない」
「では自力で乾いてください」
「嘘! ごめん!」
浴室の扉が少しだけ開いた。
白い湯気が漏れる。
濡れた手が伸びてくる。
奏斗は目をそらしたまま、タオルを渡そうとした。
その瞬間。
千束がタオルをつかみ損ねた。
「あっ」
タオルが床へ落ちる。
反射的に奏斗が拾おうと視線を動かす。
扉の隙間。
湯気。
肌色。
濡れた髪。
奏斗は即座に目を閉じ、顔を背けた。
「すみません」
「見た!?」
「見ていません」
「今こっち向いた!」
「タオルを拾おうとしました」
「見たでしょ!」
「見えかけましたが、認識していません」
「何その言い方!」
「事実です」
「変態!」
「千束がタオルを落としたのでしょう」
「拾い方が変態!」
「どう拾えばよかったのですか?」
「目を閉じて!」
「閉じました」
「もっと早く!」
「無茶です」
奏斗は目を閉じたままタオルを拾い、扉の隙間へ差し出した。
今度は千束がしっかり受け取る。
扉が勢いよく閉まった。
「奏斗の変態!」
「今後は自分で準備してください」
「冷たい!」
「当然の対策です」
その夜、千束は風呂から上がったあともしばらく頬を赤くしていた。
奏斗が何か言うたびに、変態、見えかけ変態、と呼ばれた。
完全に見えてはいない。
そう説明しても、千束は聞かなかった。
◇
別の日の朝。
奏斗が目を覚ますと、目の前に千束の顔があった。
距離が近すぎる。
本当に、あと少しで唇が触れそうな距離だった。
千束はまだ眠っている。
昨夜、眠る前には確かに反対側にいた。
背中合わせに近い形だったはずだ。
それが、夜のうちに寝返りを繰り返したのか、千束は奏斗の方へ寄ってきていた。
片腕は奏斗の胸元に置かれている。
足も布団の中で少し絡んでいる。
奏斗は呼吸を止めた。
動けば起こす。
起きた千束がこの距離に気づけば、間違いなく変態扱いされる。
だが、このまま動かないわけにもいかない。
時計を見る。
出勤まで、まだ少し余裕はある。
ならば、千束が自然に離れるまで待つ。
奏斗はそう判断した。
しかし、千束は離れなかった。
むしろ、寝ぼけたまま少しだけ近づいた。
唇までの距離が、さらに縮まる。
「千束」
小声で呼ぶ。
反応なし。
「起きてください」
「ん……」
千束が目を閉じたまま、何かを呟いた。
奏斗は首をわずかに引く。
傷へ負担がかかる。
痛い。
だが、それよりもこの距離の方が危険だった。
「千束」
もう一度呼ぶ。
千束の目がゆっくり開いた。
数秒。
視線が合う。
「……おはよ」
「おはようございます」
「近いね」
「千束が近づきました」
「本当?」
「はい」
「奏斗が近づいたんじゃなくて?」
「私は動いていません」
「でも、今ちょっとキスしそうだったよね」
「事故です」
「してないの?」
「していません」
「本当に?」
「はい」
「したかった?」
奏斗は無言で目を閉じた。
「寝たふりするのやめて」
「朝食を作ります」
奏斗はできるだけ自然に体を起こそうとする。
千束が布団をつかんだ。
「答えてない」
「答える必要がありません」
「ある」
「ありません」
「私とキスしそうになって、何とも思わないの?」
「思うから起きるのです」
言ってから、奏斗は自分の失言に気づいた。
千束の顔が少し赤くなる。
「……思うんだ」
「一般論です」
「今の一般論じゃないよね」
「朝食にしましょう」
「逃げた」
「逃げます」
「認めた!」
その日一日、千束は妙に機嫌が良かった。
そして何かにつけて、朝の距離の話を持ち出そうとした。
奏斗はそのたびに話題を変えた。
◇
一週間の療養は、驚くほど早く過ぎた。
痛みは日ごとに引いていった。
最初は体を起こすだけでも傷が引きつった。
三日目には歩くのが楽になった。
五日目には、軽い家事ならほとんど問題なくこなせるようになった。
七日目には、まだ違和感は残るものの、日常動作で痛みを強く感じることは少なくなっていた。
千束は毎日、奏斗の様子を見た。
「今日は痛い?」
「少しです」
「昨日より?」
「軽いです」
「本当?」
「はい」
「嘘ついてない?」
「ついていません」
「傷見せて」
「毎日確認しなくても」
「見せて」
結局、包帯の交換を手伝われる。
最初の頃は、千束が傷を見るたびに表情を曇らせた。
自分のせいで負わせた傷だと思っているのだろう。
奏斗は何度も違うと言った。
判断を誤ったのは自分。
千束のせいではない。
それでも千束は、しばらく傷口を見るたびに黙った。
だが、治りが進むにつれ、少しずつ表情も明るくなった。
「だいぶ良くなってきたね」
「はい」
「もうすぐ復帰?」
「医療担当者の確認次第です」
「無理したら駄目だよ」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、まだ激しい訓練禁止」
「軽い訓練は」
「禁止」
「千束に権限はありません」
「先生に言う」
「その脅しも聞き飽きました」
「じゃあミズキにも言う」
「それは効果があります」
「でしょ?」
千束は得意そうに笑った。
奏斗は呆れながらも、反論しなかった。
◇
療養最終日。
夕方。
千束が来るまで、まだ時間があった。
奏斗はテーブルの上にPCを開き、リリベル内部の報告書へアクセスしていた。
もちろん、すべての情報へ入れるわけではない。
負傷中の隊員に対して、閲覧権限は一部制限されている。
特に今回の四人組に関する情報は、機密度が高く設定されていた。
表示されるのは、最低限の任務記録と、周辺の警戒情報。
それでも、確認できることはある。
一週間。
千束への襲撃情報はなし。
セーフハウス周辺に不審な車両なし。
リコリコ周辺でも、特筆すべき監視者の確認なし。
フード姿の人物の目撃情報もない。
犯罪組織を殲滅した四人組についても、新たな足取りは掴めていない。
まるで、奏斗が負傷した途端に敵が消えたようだった。
「狙いは俺か……?」
奏斗は画面を見ながら呟く。
だが、それでは最初の事件と噛み合わない。
最初に狙われたのは千束だった。
千束が襲撃され、奏斗が救出した。
その後、奏斗の関与が深まるにつれて、敵の行動は奏斗へ向いてきた。
千束を人質に取り、奏斗へ死を要求した。
そして今回、犯罪組織を先に殲滅し、任務現場で待ち伏せた。
負傷したのは奏斗。
敵は深追いせず撤退。
殺害よりも、何かを確認する目的があったのか。
あるいは、奏斗を戦線から一時的に外すことそのものが目的だったのか。
奏斗は報告書をスクロールする。
現場の薬莢情報。
弾痕の角度。
敵の逃走経路。
どれも曖昧な書き方になっている。
重要な部分が隠されている。
リリベルの報告書でありながら、リリベル隊員の奏斗に情報が回っていない。
あるいは。
リリベル内部でも、限られた者しか知らない情報になっている。
「やはり、内部が絡んでいるのか……」
奏斗は画面を閉じずに、椅子へ背を預けた。
DA側の情報改ざん。
リリベル通信に似た通信。
フードの四人組。
リリベルでありながら共有されない情報。
もし敵が、リリベル内部の何者かとつながっているなら。
通常の経路で報告を上げるのは危険だ。
上へ出した情報が、敵へ流れる可能性もある。
ならば、非公式に調べるしかない。
協力を頼める相手。
久世蒼士。
奏斗と同期で、口は軽いが腕は立つ。
冗談ばかり言うが、信頼できる。
何より、奏斗が上層部を通さずに頼める数少ないリリベルだった。
「蒼士に頼むか」
奏斗はそう呟いた。
そのとき、インターホンが鳴った。
画面を見る。
千束。
今日も予定どおり来た。
奏斗はPCを閉じる。
「相手をするか」
自分でも、少し柔らかい声になったと思った。
◇
「今日で最後だね」
夜。
千束は夕食後、テーブルに頬杖をついて言った。
「何がですか?」
「ここに泊まるの」
「療養期間は今日までです」
「残念」
「本来、毎日泊まりに来るものではありません」
「楽しかったでしょ?」
「騒がしかったです」
「楽しかった?」
千束が聞き直す。
奏斗は少し間を置いた。
「楽しかったです」
「素直!」
「最終日なので」
「最終日だと素直になるの?」
「かもしれません」
「じゃあもっと聞こうかな」
「答えるとは言っていません」
千束は笑った。
その日の夕食は、二人で作った。
千束の料理は、一週間前より明らかに上達していた。
野菜の大きさはかなり揃うようになった。
火加減も、奏斗が口を出す前に調整するようになった。
味付けはまだ少し濃いときがあるが、食べられるという段階はとっくに越えていた。
「私、料理うまくなった?」
「はい」
「どのくらい?」
「一週間前と比べれば、大きく上達しました」
「じゃあリコリコで厨房入れる?」
「ミカさんの判断です」
「先生、許してくれるかな」
「千束が真面目に練習すれば」
「奏斗が教えてくれる?」
「必要であれば」
「また来る理由できた」
「部屋ではなく、リコリコで」
「えー」
「えー、ではありません」
食後、風呂に入り、片づけを済ませる。
千束が荷物の一部をまとめ始めた。
歯ブラシ。
部屋着。
余った菓子。
着替え。
一週間で少しずつ増えた千束の物が、鞄へ戻っていく。
それを見ると、部屋が急に元の静けさへ戻るような気がした。
明日からは一人。
それが本来の形だったはずなのに。
奏斗は少しだけ、違和感を覚えた。
◇
寝る時間になった。
この一週間で、同じベッドで寝ることにもある程度慣れてしまった。
慣れてしまったこと自体が、奏斗には問題のように思えた。
千束は自分の側に入り、布団をかぶる。
奏斗も反対側へ横になった。
いつものように、千束へ背中を向ける。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日で最後かぁ」
「はい」
「残念」
さっきと同じ言葉。
だが、今度は少しだけ声が静かだった。
奏斗は背中を向けたまま答える。
「私も、そうですね」
言ったあと、奏斗は自分でも驚いた。
自然に口から出た。
千束も一瞬、黙った。
「奏斗も残念?」
「……はい」
「本当に?」
「はい」
「こっち向いて言って」
奏斗は迷った。
だが、最終日だからか。
先ほど自分で言ったように、少し素直になっていたのかもしれない。
ゆっくり体を動かし、千束の方を向く。
暗い部屋。
窓から入るわずかな光で、千束の顔が見える。
いつもの明るい笑顔ではない。
少し照れたような、少し寂しそうな顔。
「残念です」
奏斗は言った。
千束の目が少し大きくなる。
「……そっか」
「はい」
「私だけじゃないんだ」
「一週間、一人ではありませんでしたから」
「うん」
「騒がしかったですが」
「そこ付け足す?」
「事実です」
「でも楽しかった?」
「はい」
目が合う。
近い。
一週間前なら、この距離だけでかなり動揺していただろう。
今も平然としているわけではない。
ただ、少しだけ慣れた。
いや。
慣れたふりをしているだけかもしれない。
千束の表情が柔らかくなる。
奏斗は急に恥ずかしくなった。
「寝ましょう」
そう言って、また背中を向ける。
「逃げた」
「眠るためです」
「さっきまでこっち向いてたのに」
「気が変わりました」
「照れた?」
「寝ます」
「奏斗」
「おやすみなさい」
「まだ寝るには早いよ」
「療養中です」
「もう最終日でしょ」
「最終日だからこそです」
千束が布団の中で動いた。
次の瞬間。
背中に、千束の体温が近づく。
腕が、そっと奏斗の背中へ回った。
抱きつかれた。
「千束」
「何?」
「離れてください」
「嫌」
「距離が近すぎます」
「最後だから」
「最後なら、なおさら問題を起こさないでください」
「何か起きるの?」
「千束が近いと、眠れません」
「私の寝相、悪いしね」
「起きている状態でこれは寝相ではありません」
「そうだね」
千束の声が少し楽しそうになる。
「奏斗、固まってる」
「当たり前です」
「何で?」
「理性が保てなくなるからやめてください」
言った瞬間。
奏斗はしまったと思った。
千束の腕に力が入る。
「へえ」
「千束」
「理性が?」
「今のは」
「保てなくなる?」
「言葉の選択を誤りました」
「奏斗の変態」
千束の声は、罵っているというより、どこか嬉しそうだった。
「変態護衛」
「嬉しそうに言わないでください」
「嬉しくないよ」
「声が笑っています」
「だって、奏斗もそういうこと思うんだなって」
「一般的な反応です」
「また一般論」
「はい」
「私相手でも?」
奏斗は黙る。
返事をすれば、さらに墓穴を掘る。
返事をしなければ、肯定に近い。
どちらにしても逃げ場はない。
「寝たふり?」
「まだ寝ていません」
「じゃあ答えて」
「千束」
「何?」
「離れてください」
「答えたら考える」
「交渉材料にしないでください」
「奏斗が逃げるから」
「……千束相手だからです」
静かな声で、奏斗は答えた。
千束の動きが止まる。
腕の力も少し緩んだ。
「それ、どういう意味?」
「言葉どおりです」
「私だから、理性が保てなくなるの?」
「その表現を繰り返さないでください」
「奏斗が言ったんだよ」
「後悔しています」
「後悔しないでよ」
千束の声が少し小さくなる。
「私は、ちょっとうれしい」
奏斗は目を閉じた。
心拍が速い。
傷の痛みは、もうほとんどない。
だが、それとは別の理由で落ち着かなかった。
「千束」
「何?」
「このままでは本当に眠れません」
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ちょっとだけとは?」
「寝るまで」
「結局、朝まででは?」
「かも」
「千束」
「今日は最後だから」
その言葉に、奏斗は反論できなかった。
千束の腕は、強すぎない。
傷に触れないよう、気を遣っているのが分かる。
ただ背中に寄り添うように、抱きついている。
拒めばいい。
いつものように理屈を並べればいい。
だが、奏斗は何も言わなかった。
「……傷に当たらないようにしてください」
「うん」
「寝返りで強く押さないでください」
「努力する」
「努力では不安です」
「じゃあ、気をつける」
「はい」
「奏斗」
「何ですか?」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
千束はそのまま目を閉じたらしい。
しばらくすると、呼吸がゆっくりになった。
本当に寝た。
抱きついたまま。
奏斗は眠れなかった。
千束の体温。
背中越しに感じる呼吸。
一週間分の会話。
夕食の匂い。
タオルのハプニング。
朝、キスしそうになった距離。
そして、今日で最後という言葉。
それらが頭の中で混ざる。
「……本当に、困った人ですね」
奏斗は小さく呟いた。
返事はない。
それでも、千束の腕は離れなかった。
奏斗はそのまま、ゆっくり目を閉じた。
◇
翌朝。
奏斗が目を覚ましたとき、千束はまだ背中にくっついていた。
最終日だからと言った本人は、完全に熟睡している。
奏斗は慎重に体を動かした。
傷の痛みはない。
千束の腕を少しずつ外す。
「ん……」
「起きてください」
「あと五分……」
「出勤日です」
「奏斗も……?」
「はい。今日からリコリコへ復帰します」
その言葉に、千束の目がぱちりと開いた。
「本当?」
「医療担当者の許可が出れば、軽い業務からです」
「無理しない?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ一緒に行ける?」
「そのつもりです」
千束は一瞬で目を覚ました。
「じゃあ準備しよ!」
「まず離れてください」
「あ」
千束は自分が抱きついたままだと気づき、少し顔を赤くした。
「これは寝相」
「昨夜からです」
「寝相が早めに出た」
「起きていましたよね」
「細かいなぁ」
千束は布団から出る。
部屋には、千束の荷物が散らばっている。
一週間で増えた荷物。
服。
歯ブラシ。
菓子。
使いかけの調味料。
小さなメモ。
料理の途中で奏斗が書いた手順の紙。
二人でそれを片づけ始めた。
「このお菓子は?」
「千束が持って帰ってください」
「奏斗用」
「量が多すぎます」
「じゃあ半分」
「それでも多いです」
「傷治った記念」
「また記念ですか」
「最後の日記念」
「記念が増えすぎです」
「全部大事だから」
千束は笑いながら菓子を分ける。
冷蔵庫の食材も整理した。
残っているものは、その日の夜に使えるようにしておく。
「今日も来ようかな」
「療養は終わりました」
「夕食作りに」
「リコリコで食べてください」
「奏斗の部屋の方が練習しやすい」
「ここは料理教室ではありません」
「じゃあ、友達の家」
「その言い方も問題があります」
「問題多いね」
「千束が増やしています」
洗面所の歯ブラシを見て、千束は少しだけ動きを止めた。
「これは?」
「持って帰ってください」
「また来るかもしれないし」
「置いていくつもりですか?」
「駄目?」
「……衛生面を考えると、ケースに入れて保管してください」
「いいの?」
「置き場所を決めます」
「やった」
「頻繁に来る許可ではありません」
「分かってる」
「本当ですか?」
「たぶん」
奏斗は小さく息を吐いた。
結局、千束の歯ブラシは洗面所の棚の端へ置かれることになった。
完全に、生活の痕跡が残った。
片づけを終えると、二人で朝食を作った。
療養最後の日。
いや、通常へ戻る最初の日。
奏斗は味噌汁を作り、千束は卵焼きを焼いた。
少し形は崩れたが、以前よりずっと上手くできていた。
「成長」
「はい」
「奏斗のおかげ」
「千束が練習したからです」
「素直に褒めた」
「事実です」
「じゃあ、また教えてね」
「必要であれば」
「約束」
「検討します」
「約束!」
「……分かりました」
朝食を終え、二人は出勤準備をした。
奏斗は久しぶりにリコリコ用の服へ着替える。
傷へ負担がかからないよう、動きやすい服を選ぶ。
千束はいつものように赤いリボンを結ぶ。
鏡の前で位置を確認している。
「曲がってる?」
「少しだけ」
「直して」
「自分でできますよね」
「奏斗の方が見える」
「また顔に近づくことになります」
「今日は変態って言わない」
「信用できません」
「本当」
奏斗は少し迷い、千束の横へ立った。
リボンの位置を指で軽く直す。
千束は鏡越しに奏斗を見る。
「ありがと」
「はい」
「変態」
「言いましたね」
「小声だから」
「聞こえています」
「だって、距離近かったから」
「千束が頼んだのでしょう」
「そうだけど」
二人は少し笑った。
部屋を出る前、奏斗は室内を見回した。
片づいている。
だが、一週間前とは違う。
千束の歯ブラシ。
残された菓子。
冷蔵庫の食材。
棚に置かれた小さなメモ。
完全には元に戻っていない。
奏斗は玄関で靴を履く。
千束が隣に並ぶ。
「一週間、ありがとうございました」
奏斗が言うと、千束は少し驚いた顔をした。
「急に?」
「世話になりましたので」
「こっちこそ」
「何がですか?」
「泊めてくれて。ご飯作ってくれて。料理教えてくれて」
「療養中でしたが」
「楽しかった」
「はい」
「奏斗は?」
「楽しかったです」
「何回聞いてもいいね」
「これ以上は控えてください」
「また聞く」
「でしょうね」
扉を開ける。
朝の空気が入ってくる。
二人は並んで廊下へ出た。
監視員がどこかで見ているだろう。
リリベル内では、すでに噂が広がっているかもしれない。
リコリコへ着けば、ミズキにも何か言われる。
蒼士から連絡が来る可能性もある。
面倒なことは多い。
だが、今は不思議と、それほど嫌ではなかった。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日からまた、リコリコだね」
「はい」
「無理したら、すぐ怒るから」
「分かっています」
「先生にも言う」
「分かっています」
「ミズキにも」
「それは控えてください」
「じゃあ無理しないでね」
「はい」
千束は笑って歩き出す。
奏斗もその隣へ並んだ。
一週間ぶりの出勤。
完全に元通りではない。
敵の問題は残っている。
リリベル内部への疑念も消えていない。
それでも、奏斗の隣には千束がいた。
この一週間、毎晩同じ部屋で笑い、食事をし、眠った相手。
護衛対象。
友人。
そして、もうそれだけでは説明しきれなくなりつつある存在。
「奏斗、歩くの遅くない?」
「傷を考慮しています」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、今日はゆっくり行こう」
「遅刻します」
「少しくらい大丈夫」
「駄目です」
「真面目」
「店員ですので」
「じゃあ、早歩きは禁止。普通に歩く」
「分かりました」
二人は朝の道を歩いていく。
リコリコへ向かって。
騒がしく、面倒で、少し甘い一週間が終わる。
だが、その痕跡は消えない。
部屋にも。
日常にも。
二人の距離にも。
確かに残っていた。