一週間ぶりの喫茶リコリコは、少しだけ眩しく見えた。
朝の光が窓から差し込み、木目のテーブルを照らしている。
カウンターの奥からはコーヒーの香り。
厨房からは仕込みの音。
いつもの店。
いつもの空気。
ただ、その中へ戻ってきた押村奏斗にとっては、ほんの少しだけ違って感じられた。
「おはようございます」
奏斗が扉を開けて挨拶すると、最初に反応したのはミカだった。
「おはよう、奏斗」
厨房から出てきたミカは、いつもの穏やかな顔をしていた。
だが、その視線はすぐに奏斗の脇腹へ向かう。
「痛みは?」
「日常動作には支障ありません」
「無理はするな」
「はい」
「今日は軽い仕事だけだ」
「皿洗い、配膳程度なら可能です」
「重いものは持たない。長時間立ち続けない。痛むならすぐ座る」
「分かっています」
そう答えた瞬間、隣から千束の声が飛んできた。
「本当に?」
奏斗はそちらを見る。
千束はすでにリコリコの制服姿だった。
赤いリボンもいつもの位置。
ただ、腕を組んで奏斗を見ている。
「昨日も確認しました」
「何回でも確認する」
「監視が増えましたね」
「療養監視員だから」
「その役職はありません」
「今日からも継続」
「拒否します」
「拒否権なし」
千束は得意そうに笑う。
奏斗は小さく息を吐いた。
その背後から、ミズキがぬっと顔を出す。
「で?」
「何ですか?」
「一週間ぶりに出勤して最初の言葉が、それ?」
「挨拶はしました」
「違うでしょ」
ミズキはにやにやと笑った。
「千束との同棲生活はどうだったのよ」
やはり来た。
予想どおりだった。
むしろ、来ない方がおかしい。
「同棲ではありません」
「一週間、一緒に寝泊まりしてたんでしょ?」
「療養中の見舞いです」
「毎日?」
「千束が来ました」
「泊まりで?」
「結果的に」
「それを世間では同棲って言うのよ」
「言いません」
「言うわよ。少なくとも私は言う」
「ミズキさんの定義に従う必要はありません」
「千束、どうだった?」
ミズキが今度は千束へ向く。
千束は少しだけ頬を赤くしながら、わざとらしく胸を張った。
「楽しかったよ」
「千束」
「ご飯作ったり、一緒に寝たり」
「千束」
「朝、起きたら近かったり」
「千束」
「タオル渡してもらったり」
「それ以上言わないでください」
奏斗が低い声で止める。
ミズキの目が一瞬で光った。
「タオル?」
「何でもありません」
「何でもなくないでしょ」
「浴室でタオルが足りなくなっただけです」
「浴室?」
「ミズキさん」
「奏斗君が渡したの?」
「扉越しです」
「見た?」
「見ていません」
「見えかけた?」
奏斗は黙った。
千束が横で小さく笑う。
「見えかけ変態」
「千束」
「何それ、詳しく」
ミズキがさらに身を乗り出す。
「説明しません」
「千束」
「奏斗がね、タオル渡すときに――」
「開店準備をしましょう」
奏斗は強引に話を切った。
「逃げた!」
千束が笑う。
「逃げたわね」
ミズキも笑う。
「通常業務です」
「怪しいわねぇ」
「怪しくありません」
ミカが静かに口を挟んだ。
「ミズキ」
「何よ」
「開店準備だ」
「はーい」
ミズキは不満そうにしながらも、カウンターへ戻った。
ミカは奏斗の横へ来ると、少しだけ声を落とした。
「本当に、痛みが出たらすぐ言いなさい」
「はい」
「千束も見ているだろうが、お前自身も隠すな」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「一週間、千束の相手をしてくれてありがとう」
奏斗は少しだけ言葉を止めた。
「私が世話をされていた側です」
「そうとも言える」
ミカは穏やかに笑う。
「だが、千束にとっても必要な一週間だった」
「……そうですか」
「ああ」
ミカはそれ以上言わず、厨房へ戻った。
奏斗は千束を見る。
千束はミズキと言い合いながら、テーブルを拭いていた。
相変わらず明るい。
相変わらず騒がしい。
だが、奏斗の脇腹へ一瞬視線を向けることが何度かあった。
心配されている。
それが分かった。
そのことが、少しだけくすぐったかった。
◇
開店後、常連客たちも奏斗の復帰に気づいた。
「あら、奏斗君。戻ってきたの?」
「はい。本日から復帰しました」
「怪我したって聞いたわよ」
「大したことはありません」
「若いからって無理しちゃ駄目よ」
「ありがとうございます」
「千束ちゃんに看病してもらったんでしょ?」
隣で水を置いていた千束が、にやっと笑った。
「はい! 私が毎日見張ってました!」
「見張っていたのですか?」
「看病!」
「今、見張っていたと言いました」
「細かいなぁ」
常連客が楽しそうに笑う。
「仲いいわねぇ」
「友達ですので」
奏斗が答えると、千束が一瞬こちらを見た。
そのあと、少しだけ笑う。
「うん。友達」
その言葉は間違っていない。
間違っていないはずなのに。
一週間前より、少しだけ収まりが悪い響きに感じた。
午前中は、奏斗の体調を考慮して、配膳は少なめだった。
重い皿は千束が持つ。
食器の片づけも、千束やミズキが自然に引き受ける。
奏斗が少しでも長く立っていると、千束がすぐに近づいてくる。
「座って」
「まだ大丈夫です」
「座って」
「命令形ですね」
「療養監視員だから」
「復帰しました」
「復帰初日」
「分かりました」
奏斗が座ると、千束は満足そうに頷く。
ミズキはそれを見て、また笑った。
「本当に新婚みたいね」
「ミズキ」
「何?」
「違います」
「千束は?」
「え?」
突然振られた千束が固まる。
「新婚みたいって言われて、否定しないの?」
「ち、違うよ!」
「遅い」
「今のは!」
「照れた?」
「照れてない!」
奏斗はカップを拭きながら、あえて口を挟まなかった。
ここで何か言えば、さらに話が広がる。
この一週間で学んだことの一つ。
ミズキと千束がこの話題で盛り上がっているとき、無理に止めようとすると悪化する。
沈黙が最善の場合もある。
「奏斗君、何黙ってるの?」
だが、ミズキは見逃さなかった。
「通常業務中です」
「逃げ方が板についてきたわね」
「リコリコで学びました」
「誰から?」
「主にミズキさんと千束からです」
「よし、成長」
「褒められる内容ではありません」
店内に笑い声が響く。
奏斗は小さく息を吐いた。
戻ってきた。
そう感じた。
◇
昼頃。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
千束の声が店内に響く。
奏斗はカウンターの中から入口を見る。
入ってきた人物を見て、手が止まった。
黒髪の青年。
軽い足取り。
どこか気の抜けた笑み。
だが、隙は少ない。
久世蒼士だった。
「よっ、奏斗」
「蒼士」
「元気そうじゃん。撃たれたって聞いたから、もっとしおれてるかと思った」
「見舞いの言葉がそれですか?」
「ちゃんと心配してたって」
蒼士は店内を見回し、千束へ視線を向ける。
「で、こっちが噂の千束ちゃん?」
千束がぱっと顔を上げる。
「錦木千束です!」
「久世蒼士。奏斗の同期みたいなもん」
「奏斗の友達?」
「友達って言ってもらえるかは微妙だなぁ」
蒼士が奏斗を見る。
「なあ?」
「同期です」
「ほらな」
「仲悪いの?」
千束が尋ねる。
「俺は仲いいと思ってる」
「私は、最低限信頼できる相手だと思っています」
「奏斗の褒め言葉って分かりにくいよな」
「かなり高く評価しています」
「だってさ、千束ちゃん」
「うん、奏斗らしい」
なぜそこで納得するのか。
奏斗は少しだけ疑問に思った。
蒼士はカウンター席へ座る。
「何かおすすめある?」
「コーヒーと軽食なら」
「甘いものは?」
「奏斗が好きなやつ?」
千束が言う。
「チョコ系」
「じゃあそれで」
「蒼士、甘いものはそこまで好きではないでしょう」
「奏斗の好みを知るため」
「必要ありません」
「お前、千束ちゃんとは一週間同棲してたんだろ? 俺とも少しは情報共有しろよ」
奏斗は眉を寄せた。
「その話はどこから?」
「リリベル内部」
「やはり噂になっていましたか」
「そりゃなるだろ。負傷療養中の押村奏斗の部屋に、毎晩女の子が泊まりに来てるって監視報告が上がってるんだから」
千束が少しだけ顔を赤くする。
「毎晩って言い方」
「事実です」
奏斗が淡々と答える。
「奏斗、否定してよ」
「泊まりに来ていたことは事実です」
「そうだけど!」
蒼士が楽しそうに笑う。
「いやー、聞いたときは耳を疑ったね。あの奏斗が? しかも一週間? 同じ部屋? 同じベッド?」
「蒼士」
「同じベッドは当たりか」
「黙ってください」
「顔に出てる」
「出ていません」
「千束ちゃんは分かりやすいな」
「私は何も!」
「赤い」
「赤くない!」
千束は慌てて厨房の方へ逃げる。
蒼士は笑いながら、奏斗へ視線を戻した。
「で、本題だろ?」
軽い声だった。
だが、その目は先ほどまでと違っていた。
奏斗は静かに頷く。
「話が早いですね」
「お前が俺を呼ばずに、俺がここに来た。それでも警戒しないってことは、何か頼みたいことがある」
「半分正解です」
「もう半分は?」
「蒼士が来る可能性は想定していました」
「噂を聞いて?」
「はい」
「俺の行動読まれてるなぁ」
「分かりやすいので」
「千束ちゃんにも言われてなかった?」
「なぜ知っているのですか?」
「想像」
蒼士は出されたコーヒーを一口飲む。
「で、調べてほしいのは四人組の方か?」
「はい」
「フードのやつら」
奏斗は声を落とした。
「通常の経路では情報が不自然に制限されています」
「だろうな」
「何か知っていますか?」
「少しだけ」
蒼士は店内を確認する。
客席には数人いるが、距離はある。
千束は少し離れた場所で注文を取っている。
ミズキはカウンターの奥。
ミカは厨房。
奏斗はカウンターの内側から、蒼士の前へ水を置くふりをしながら近づいた。
「外国組織の方だけどな」
蒼士は声を抑える。
「フードを好んで使うことは確認されてる」
「装備としてですか?」
「顔を隠すためだけじゃない。チーム単位で統一した装備にすることで、個人識別を避ける。監視映像でも体格差をごまかしやすい。防弾装備も隠せる」
「では、四人組は外国組織の可能性が高いと?」
「可能性はある。少なくとも、最初に千束ちゃんを襲った連中と関係がある可能性は高い」
「しかし、今回の情報遮断はリリベル内部にも及んでいます」
「ああ」
蒼士の表情が少しだけ真面目になる。
「そこが厄介だ」
「内部協力者がいると?」
「協力者というより、内部の一部が何かを隠している可能性だな」
「何を」
「お前だよ、奏斗」
奏斗は沈黙した。
蒼士は続ける。
「リリベル内部には、お前の能力に危機感を持っている連中がいる」
能力。
その言葉が出た瞬間、奏斗の表情がわずかに硬くなる。
まだ千束にも話していない。
リコリコの誰にも詳細は明かしていない。
奏斗自身に宿る、通常のリリベルとは違うもの。
そして、それを蒼士は知っている。
「その話はここでするべきではありません」
「分かってる。だから詳しくは言わない」
「内部で動きがあるのですか?」
「お前の負傷後、一部の記録へのアクセスがさらに制限された。普通なら、被害者であるお前に共有されるべき情報まで閉じられてる」
「確認済みです」
「だろうな。お前なら見に行くと思った」
「理由は?」
「表向きは情報保護。だけど、本当はお前が独自に動くのを嫌がってる」
「私が?」
「正確には、お前の能力が暴走する、もしくは利用されることを恐れてる連中がいる」
奏斗は目を伏せる。
「今回の敵の狙いが、千束ではなく私だと?」
「最初は千束ちゃんだった。けど、途中からお前を測ってるように見える」
「測っている?」
「お前の判断。戦闘能力。千束ちゃんとの関係。どこまで庇うか。どこで迷うか。負傷させたあと、どれくらい動けなくなるか」
「観察されていますね」
「それに、犯罪組織を先に殲滅した件」
蒼士はカップを置く。
「あれは単なる殺しじゃない。お前たちを現場に呼び込むための演出にも見える」
「私たちが到着する前に殺し、死体を見せる」
「そのうえで背後から攻撃。お前は千束ちゃんを庇って負傷した」
「狙撃の位置から考えて、千束を狙っていたように見えました」
「本当に?」
蒼士が問う。
「お前なら庇うって分かってたんじゃないか?」
奏斗は答えなかった。
その可能性は、考えていた。
千束へ銃口を向ければ、奏斗は必ず動く。
狙いは千束ではなく、庇いに入る奏斗。
もしそうなら、奏斗が負傷したのは偶然ではない。
敵の計算どおり。
「調査を頼めますか?」
奏斗は低く言った。
「リリベル内部で、私の能力に関する情報へ最近アクセスした者。四人組に関する記録を制限した者。現場の回収報告を改ざんできる立場の者」
「重いな」
「蒼士にしか頼めません」
「そこまで言われると断れないだろ」
蒼士は軽く笑う。
だが、目は笑っていない。
「ただし、危ない橋だ」
「分かっています」
「お前も動きすぎるな。まだ怪我人だろ」
「千束にも言われています」
「千束ちゃんに言われたなら聞けよ」
「蒼士に言われるよりは検討します」
「ひどいなぁ」
蒼士は背もたれへ寄りかかる。
「分かった。非公式に調べる。ただ、何か出てもすぐには連絡しない。安全な経路を作る」
「お願いします」
「あと」
「何ですか?」
「千束ちゃんには、能力のことをいつか話せ」
奏斗は蒼士を見る。
「今はまだ」
「分かってる。けど、あの子はもう外側にいない」
「巻き込みたくありません」
「もう巻き込まれてる」
蒼士の声は静かだった。
「隠して守れる段階を過ぎてるかもしれないぞ」
奏斗は何も言えなかった。
千束がこちらへ戻ってくる。
「何の話?」
明るい声。
だが、その目は少し鋭い。
何かを感じ取っている。
奏斗は答える。
「リリベル内部の調査を頼んでいました」
「奏斗の怪我の?」
「はい」
「危ないこと?」
「危険はあります」
「私にも教えて」
奏斗は少し迷った。
「必要になれば」
「それ、また隠すやつ」
「まだ不確定です」
「私も関係あるよね」
「あります」
「じゃあ教えて」
千束がまっすぐ見てくる。
奏斗は答えられなかった。
蒼士が横から助け舟を出す。
「千束ちゃん」
「何?」
「今日のところは、奏斗に免じて待ってやって」
「何で?」
「こいつ、説明が下手だから」
「それは分かる」
「納得しないでください」
「ちゃんと整理してから話させた方がいい。今話すと、余計に分かりにくくなる」
「……本当?」
千束が奏斗を見る。
「はい」
「じゃあ、あとでちゃんと話して」
「分かりました」
「約束」
「約束します」
千束は少しだけ不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。
蒼士はチョコ系の甘味を食べ終えると、立ち上がった。
「うまかった。また来るわ」
「今度は普通の客として来てください」
「今日は?」
「半分仕事です」
「もう半分は、同棲確認」
「帰ってください」
「はいはい」
蒼士は千束へ軽く手を振る。
「千束ちゃん、奏斗のことよろしく」
「うん!」
「蒼士」
「何だよ」
「余計なことを言わないでください」
「大事なことだろ?」
蒼士は笑って店を出ていった。
入口のベルが鳴る。
奏斗はその背中を見送りながら、胸の奥に残る嫌な予感を消せずにいた。
◇
閉店後。
片づけを終えたリコリコの店内で、千束は当然のように言った。
「じゃあ、奏斗の家行こう」
「行きません」
「早い!」
「今日は千束をセーフハウスへ送ります」
「何で?」
「療養期間は終わりました。千束が私の部屋へ来る理由はありません」
「料理の練習」
「リコリコでしてください」
「お見舞い」
「治りました」
「まだ完全じゃないでしょ」
「日常動作には支障ありません」
「じゃあ遊びに」
「夜です」
「泊まりに」
「認めません」
「奏斗のケチ」
「常識的判断です」
千束は少しだけ口を尖らせた。
「一週間いたのに」
「例外です」
「楽しかったって言った」
「言いました」
「じゃあまた」
「それとこれは別です」
「むー」
ミズキが奥から顔を出す。
「何、もう通い妻終了?」
「違います」
「千束、押しかければいいじゃない」
「ミズキさん」
「だって一回許したら二回も三回も同じでしょ」
「違います」
「奏斗君、固いわねぇ」
「当然です」
千束が期待した目でこちらを見る。
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「言う前に否定しました」
「ひどい」
ミカが静かに口を開く。
「千束、今日はセーフハウスへ戻りなさい」
「先生まで」
「奏斗も復帰初日だ。休ませてやれ」
「……分かった」
千束は渋々頷いた。
奏斗は少しだけ安心する。
ミカの言葉は強い。
それでも、千束は帰り道でも諦めていなかった。
◇
夜道。
奏斗と千束は並んで歩いていた。
いつものように、奏斗が車道側。
千束が建物側。
周辺には遠距離監視もいる。
しかし、奏斗は気を抜かなかった。
蒼士の言葉が頭に残っている。
リリベル内部。
能力。
情報制限。
そして、敵が奏斗を測っている可能性。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日、家行っちゃ駄目?」
「駄目です」
「即答」
「何度聞かれても同じです」
「じゃあ明日」
「未定です」
「未定ってことは可能性ある?」
「低いです」
「ゼロじゃない」
「千束」
「何?」
「一週間の例外を基準にしないでください」
「でも、楽しかった」
「私もです」
千束が少し驚いたようにこちらを見る。
「また素直」
「否定する理由がありません」
「じゃあ」
「駄目です」
「まだ言ってない」
「流れで分かります」
「奏斗、最近ちょっと意地悪」
「千束に鍛えられました」
「いい成長」
「そうでしょうか」
千束は笑う。
その笑顔を見て、奏斗は少しだけ胸が軽くなる。
だが、同時に思う。
この笑顔を守るために、どこまで隠すべきなのか。
どこまで話すべきなのか。
蒼士は言った。
隠して守れる段階を過ぎているかもしれない。
それは、奏斗自身も薄々感じていた。
「奏斗」
「はい」
「蒼士さんと話してたこと、いつか教えてね」
「はい」
「本当に?」
「約束しました」
「奏斗の約束は信用してる」
「ありがとうございます」
「でも、隠し事は嫌」
「分かっています」
「私も巻き込まれてるなら、一緒に考える」
「千束らしいですね」
「一人で抱え込むの禁止」
「善処します」
「分かったって言って」
「分かりました」
「よし」
セーフハウスが見えてきた。
周囲を確認する。
不審な人物なし。
停車車両なし。
窓の明かり。
建物の入口。
異常なし。
「着きました」
「うん」
千束は少し名残惜しそうに玄関前で立ち止まった。
「本当に来ない?」
「来ません」
「お茶だけ」
「帰ります」
「五分」
「帰ります」
「奏斗のケチ」
「はい」
「認めた」
「この場合は認めます」
千束は小さく笑い、鍵を取り出す。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「明日、リコリコで」
「はい」
「傷、痛くなったら連絡して」
「分かりました」
「無理したら怒る」
「分かっています」
「じゃあね」
千束が中へ入る。
扉が閉まる。
鍵がかかる音。
奏斗はその場で数秒待った。
いつもの確認。
千束が安全に室内へ入ったか。
周囲に動きはないか。
玄関前。
廊下。
階段。
背後。
そのとき。
微かな気配。
遅かった。
首筋に、鋭い痛み。
「っ……!」
振り返ろうとした瞬間、電流が体を貫いた。
スタンガン。
筋肉が強制的に硬直する。
傷口へ痛みが走る。
手が銃へ届かない。
膝が崩れる。
視界が揺れる。
最後に見えたのは、黒い袖。
フード。
そして、薄く笑うような影。
「……千束……」
声にならなかった。
奏斗の意識はそこで途切れた。
◇
目を覚ましたとき、最初に感じたのは冷たい床の感触だった。
次に、両手の痛み。
背中側へ回された腕が、きつく縛られている。
手首の拘束。
さらに、その拘束具から伸びる鎖のようなものが、背後の柱へ繋がれていた。
肩が痛む。
脇腹の傷にも鈍い痛みが戻っている。
視界は暗い。
古い建物の中。
倉庫か、廃工場。
コンクリートの柱。
天井からぶら下がる古い照明。
湿った空気。
火薬の匂いはない。
まだ戦闘は起きていない。
「……起きた?」
声。
すぐ横。
「千束」
奏斗は顔を向けた。
千束も同じように、手を後ろで縛られ、別の柱へ繋がれていた。
制服ではない。
セーフハウスへ戻ったときの服。
意識はある。
目立った外傷は見えない。
「怪我は?」
「ないと思う」
「なぜここに?」
「奏斗が帰ったあと、玄関で物音がしたの」
千束は苦い顔をする。
「確認しに行ったら、後ろからスタンガン。気づいたときにはここ」
「私も同じです」
「ごめん」
「なぜ謝るのですか?」
「家に入ったあと、ちゃんと警戒してれば」
「敵が上でした」
「でも」
「千束のせいではありません」
奏斗は周囲を見る。
拘束はかなり厳重。
通常のロープではない。
切断しにくい素材。
手首の位置も悪い。
背中側で固定され、柱へ繋がれているため、体を大きく動かせない。
銃はない。
端末もない。
靴の中の予備器具も抜かれている可能性が高い。
敵は、こちらの装備を把握している。
「奏斗」
「はい」
「これ、前と似てるね」
「倉庫で捕らえられたときですか?」
「うん」
「今回は二人とも拘束されています」
「もっと悪いね」
「はい」
千束は無理に笑おうとした。
だが、目は笑っていない。
奏斗は呼吸を整える。
痛みはある。
だが、意識ははっきりしている。
敵の目的。
なぜ殺さなかったのか。
なぜ二人を同時に捕らえたのか。
千束を人質にして奏斗を動かす。
以前と同じ。
だが今回は、奏斗も拘束されている。
逃走を警戒している。
あるいは。
奏斗をどこかへ連れていくため。
その考えに至った瞬間、奥の闇が動いた。
足音。
一人。
二人。
三人。
四人。
黒いフードを被った者たちが、照明の下へ現れる。
前回と同じ装備。
顔は見えない。
防弾装備。
手には銃。
四人組。
千束の表情が鋭くなる。
「また会ったね」
返事はない。
四人のうち、一人が奏斗の前へ進む。
低い声で言った。
「押村奏斗」
奏斗は相手を見る。
「何が目的ですか?」
フードの男は、答えの代わりに短く告げた。
「我々と来い」
空気が重くなる。
千束が即座に声を上げた。
「奏斗をどこに連れてく気?」
男は千束を見ない。
ただ奏斗だけを見ている。
「押村奏斗。我々と来い」
「拒否した場合は?」
奏斗が問う。
男は初めて千束の方を見た。
「錦木千束を殺す」
千束の目が細くなる。
奏斗は表情を変えなかった。
だが、胸の奥で確信した。
やはり、狙いは自分だ。
そして彼らは、奏斗が千束を見捨てられないことを知っている。
奏斗の能力。
リリベル内部。
情報遮断。
蒼士の警告。
すべてが、一本の線になりかけていた。
まだ足りない。
だが、確実に近づいている。
「千束」
奏斗は静かに呼んだ。
「何?」
「動かないでください」
「嫌」
即答だった。
「奏斗だけ連れて行かせるわけないじゃん」
「今は状況を見ます」
「私も見る」
「無茶をしないでください」
「それは奏斗も」
フードの男が、銃口をわずかに上げる。
「時間はない」
奏斗は男を見る。
両手は縛られ、柱へ繋がれている。
逃げ道はない。
敵は四人。
千束も拘束。
こちらの武器はない。
それでも。
奏斗は、諦めていなかった。
「分かりました」
奏斗は低く言う。
「話を聞きましょう」
千束がこちらを見る。
「奏斗」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
「まだ、終わっていません」
奏斗はフードの四人を見据える。
胸の奥にある、まだ誰にも明かしていない力。
使うべきか。
使えば、何が起きるか。
リリベル内部が恐れるもの。
敵が求めるもの。
それが今、この場で必要になるかもしれない。
薄暗い倉庫の中。
四人組は、黙って奏斗を見ていた。
そして、もう一度告げた。
「押村奏斗。我々と来い」
その言葉だけが、冷たい空気の中に響いた。