君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十五話 復帰の日と、奪われた夜

 一週間ぶりの喫茶リコリコは、少しだけ眩しく見えた。

 

 朝の光が窓から差し込み、木目のテーブルを照らしている。

 

 カウンターの奥からはコーヒーの香り。

 

 厨房からは仕込みの音。

 

 いつもの店。

 

 いつもの空気。

 

 ただ、その中へ戻ってきた押村奏斗にとっては、ほんの少しだけ違って感じられた。

 

「おはようございます」

 

 奏斗が扉を開けて挨拶すると、最初に反応したのはミカだった。

 

「おはよう、奏斗」

 

 厨房から出てきたミカは、いつもの穏やかな顔をしていた。

 

 だが、その視線はすぐに奏斗の脇腹へ向かう。

 

「痛みは?」

 

「日常動作には支障ありません」

 

「無理はするな」

 

「はい」

 

「今日は軽い仕事だけだ」

 

「皿洗い、配膳程度なら可能です」

 

「重いものは持たない。長時間立ち続けない。痛むならすぐ座る」

 

「分かっています」

 

 そう答えた瞬間、隣から千束の声が飛んできた。

 

「本当に?」

 

 奏斗はそちらを見る。

 

 千束はすでにリコリコの制服姿だった。

 

 赤いリボンもいつもの位置。

 

 ただ、腕を組んで奏斗を見ている。

 

「昨日も確認しました」

 

「何回でも確認する」

 

「監視が増えましたね」

 

「療養監視員だから」

 

「その役職はありません」

 

「今日からも継続」

 

「拒否します」

 

「拒否権なし」

 

 千束は得意そうに笑う。

 

 奏斗は小さく息を吐いた。

 

 その背後から、ミズキがぬっと顔を出す。

 

「で?」

 

「何ですか?」

 

「一週間ぶりに出勤して最初の言葉が、それ?」

 

「挨拶はしました」

 

「違うでしょ」

 

 ミズキはにやにやと笑った。

 

「千束との同棲生活はどうだったのよ」

 

 やはり来た。

 

 予想どおりだった。

 

 むしろ、来ない方がおかしい。

 

「同棲ではありません」

 

「一週間、一緒に寝泊まりしてたんでしょ?」

 

「療養中の見舞いです」

 

「毎日?」

 

「千束が来ました」

 

「泊まりで?」

 

「結果的に」

 

「それを世間では同棲って言うのよ」

 

「言いません」

 

「言うわよ。少なくとも私は言う」

 

「ミズキさんの定義に従う必要はありません」

 

「千束、どうだった?」

 

 ミズキが今度は千束へ向く。

 

 千束は少しだけ頬を赤くしながら、わざとらしく胸を張った。

 

「楽しかったよ」

 

「千束」

 

「ご飯作ったり、一緒に寝たり」

 

「千束」

 

「朝、起きたら近かったり」

 

「千束」

 

「タオル渡してもらったり」

 

「それ以上言わないでください」

 

 奏斗が低い声で止める。

 

 ミズキの目が一瞬で光った。

 

「タオル?」

 

「何でもありません」

 

「何でもなくないでしょ」

 

「浴室でタオルが足りなくなっただけです」

 

「浴室?」

 

「ミズキさん」

 

「奏斗君が渡したの?」

 

「扉越しです」

 

「見た?」

 

「見ていません」

 

「見えかけた?」

 

 奏斗は黙った。

 

 千束が横で小さく笑う。

 

「見えかけ変態」

 

「千束」

 

「何それ、詳しく」

 

 ミズキがさらに身を乗り出す。

 

「説明しません」

 

「千束」

 

「奏斗がね、タオル渡すときに――」

 

「開店準備をしましょう」

 

 奏斗は強引に話を切った。

 

「逃げた!」

 

 千束が笑う。

 

「逃げたわね」

 

 ミズキも笑う。

 

「通常業務です」

 

「怪しいわねぇ」

 

「怪しくありません」

 

 ミカが静かに口を挟んだ。

 

「ミズキ」

 

「何よ」

 

「開店準備だ」

 

「はーい」

 

 ミズキは不満そうにしながらも、カウンターへ戻った。

 

 ミカは奏斗の横へ来ると、少しだけ声を落とした。

 

「本当に、痛みが出たらすぐ言いなさい」

 

「はい」

 

「千束も見ているだろうが、お前自身も隠すな」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「一週間、千束の相手をしてくれてありがとう」

 

 奏斗は少しだけ言葉を止めた。

 

「私が世話をされていた側です」

 

「そうとも言える」

 

 ミカは穏やかに笑う。

 

「だが、千束にとっても必要な一週間だった」

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

 ミカはそれ以上言わず、厨房へ戻った。

 

 奏斗は千束を見る。

 

 千束はミズキと言い合いながら、テーブルを拭いていた。

 

 相変わらず明るい。

 

 相変わらず騒がしい。

 

 だが、奏斗の脇腹へ一瞬視線を向けることが何度かあった。

 

 心配されている。

 

 それが分かった。

 

 そのことが、少しだけくすぐったかった。

 

     ◇

 

 開店後、常連客たちも奏斗の復帰に気づいた。

 

「あら、奏斗君。戻ってきたの?」

 

「はい。本日から復帰しました」

 

「怪我したって聞いたわよ」

 

「大したことはありません」

 

「若いからって無理しちゃ駄目よ」

 

「ありがとうございます」

 

「千束ちゃんに看病してもらったんでしょ?」

 

 隣で水を置いていた千束が、にやっと笑った。

 

「はい! 私が毎日見張ってました!」

 

「見張っていたのですか?」

 

「看病!」

 

「今、見張っていたと言いました」

 

「細かいなぁ」

 

 常連客が楽しそうに笑う。

 

「仲いいわねぇ」

 

「友達ですので」

 

 奏斗が答えると、千束が一瞬こちらを見た。

 

 そのあと、少しだけ笑う。

 

「うん。友達」

 

 その言葉は間違っていない。

 

 間違っていないはずなのに。

 

 一週間前より、少しだけ収まりが悪い響きに感じた。

 

 午前中は、奏斗の体調を考慮して、配膳は少なめだった。

 

 重い皿は千束が持つ。

 

 食器の片づけも、千束やミズキが自然に引き受ける。

 

 奏斗が少しでも長く立っていると、千束がすぐに近づいてくる。

 

「座って」

 

「まだ大丈夫です」

 

「座って」

 

「命令形ですね」

 

「療養監視員だから」

 

「復帰しました」

 

「復帰初日」

 

「分かりました」

 

 奏斗が座ると、千束は満足そうに頷く。

 

 ミズキはそれを見て、また笑った。

 

「本当に新婚みたいね」

 

「ミズキ」

 

「何?」

 

「違います」

 

「千束は?」

 

「え?」

 

 突然振られた千束が固まる。

 

「新婚みたいって言われて、否定しないの?」

 

「ち、違うよ!」

 

「遅い」

 

「今のは!」

 

「照れた?」

 

「照れてない!」

 

 奏斗はカップを拭きながら、あえて口を挟まなかった。

 

 ここで何か言えば、さらに話が広がる。

 

 この一週間で学んだことの一つ。

 

 ミズキと千束がこの話題で盛り上がっているとき、無理に止めようとすると悪化する。

 

 沈黙が最善の場合もある。

 

「奏斗君、何黙ってるの?」

 

 だが、ミズキは見逃さなかった。

 

「通常業務中です」

 

「逃げ方が板についてきたわね」

 

「リコリコで学びました」

 

「誰から?」

 

「主にミズキさんと千束からです」

 

「よし、成長」

 

「褒められる内容ではありません」

 

 店内に笑い声が響く。

 

 奏斗は小さく息を吐いた。

 

 戻ってきた。

 

 そう感じた。

 

     ◇

 

 昼頃。

 

 入口のベルが鳴った。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 千束の声が店内に響く。

 

 奏斗はカウンターの中から入口を見る。

 

 入ってきた人物を見て、手が止まった。

 

 黒髪の青年。

 

 軽い足取り。

 

 どこか気の抜けた笑み。

 

 だが、隙は少ない。

 

 久世蒼士だった。

 

「よっ、奏斗」

 

「蒼士」

 

「元気そうじゃん。撃たれたって聞いたから、もっとしおれてるかと思った」

 

「見舞いの言葉がそれですか?」

 

「ちゃんと心配してたって」

 

 蒼士は店内を見回し、千束へ視線を向ける。

 

「で、こっちが噂の千束ちゃん?」

 

 千束がぱっと顔を上げる。

 

「錦木千束です!」

 

「久世蒼士。奏斗の同期みたいなもん」

 

「奏斗の友達?」

 

「友達って言ってもらえるかは微妙だなぁ」

 

 蒼士が奏斗を見る。

 

「なあ?」

 

「同期です」

 

「ほらな」

 

「仲悪いの?」

 

 千束が尋ねる。

 

「俺は仲いいと思ってる」

 

「私は、最低限信頼できる相手だと思っています」

 

「奏斗の褒め言葉って分かりにくいよな」

 

「かなり高く評価しています」

 

「だってさ、千束ちゃん」

 

「うん、奏斗らしい」

 

 なぜそこで納得するのか。

 

 奏斗は少しだけ疑問に思った。

 

 蒼士はカウンター席へ座る。

 

「何かおすすめある?」

 

「コーヒーと軽食なら」

 

「甘いものは?」

 

「奏斗が好きなやつ?」

 

 千束が言う。

 

「チョコ系」

 

「じゃあそれで」

 

「蒼士、甘いものはそこまで好きではないでしょう」

 

「奏斗の好みを知るため」

 

「必要ありません」

 

「お前、千束ちゃんとは一週間同棲してたんだろ? 俺とも少しは情報共有しろよ」

 

 奏斗は眉を寄せた。

 

「その話はどこから?」

 

「リリベル内部」

 

「やはり噂になっていましたか」

 

「そりゃなるだろ。負傷療養中の押村奏斗の部屋に、毎晩女の子が泊まりに来てるって監視報告が上がってるんだから」

 

 千束が少しだけ顔を赤くする。

 

「毎晩って言い方」

 

「事実です」

 

 奏斗が淡々と答える。

 

「奏斗、否定してよ」

 

「泊まりに来ていたことは事実です」

 

「そうだけど!」

 

 蒼士が楽しそうに笑う。

 

「いやー、聞いたときは耳を疑ったね。あの奏斗が? しかも一週間? 同じ部屋? 同じベッド?」

 

「蒼士」

 

「同じベッドは当たりか」

 

「黙ってください」

 

「顔に出てる」

 

「出ていません」

 

「千束ちゃんは分かりやすいな」

 

「私は何も!」

 

「赤い」

 

「赤くない!」

 

 千束は慌てて厨房の方へ逃げる。

 

 蒼士は笑いながら、奏斗へ視線を戻した。

 

「で、本題だろ?」

 

 軽い声だった。

 

 だが、その目は先ほどまでと違っていた。

 

 奏斗は静かに頷く。

 

「話が早いですね」

 

「お前が俺を呼ばずに、俺がここに来た。それでも警戒しないってことは、何か頼みたいことがある」

 

「半分正解です」

 

「もう半分は?」

 

「蒼士が来る可能性は想定していました」

 

「噂を聞いて?」

 

「はい」

 

「俺の行動読まれてるなぁ」

 

「分かりやすいので」

 

「千束ちゃんにも言われてなかった?」

 

「なぜ知っているのですか?」

 

「想像」

 

 蒼士は出されたコーヒーを一口飲む。

 

「で、調べてほしいのは四人組の方か?」

 

「はい」

 

「フードのやつら」

 

 奏斗は声を落とした。

 

「通常の経路では情報が不自然に制限されています」

 

「だろうな」

 

「何か知っていますか?」

 

「少しだけ」

 

 蒼士は店内を確認する。

 

 客席には数人いるが、距離はある。

 

 千束は少し離れた場所で注文を取っている。

 

 ミズキはカウンターの奥。

 

 ミカは厨房。

 

 奏斗はカウンターの内側から、蒼士の前へ水を置くふりをしながら近づいた。

 

「外国組織の方だけどな」

 

 蒼士は声を抑える。

 

「フードを好んで使うことは確認されてる」

 

「装備としてですか?」

 

「顔を隠すためだけじゃない。チーム単位で統一した装備にすることで、個人識別を避ける。監視映像でも体格差をごまかしやすい。防弾装備も隠せる」

 

「では、四人組は外国組織の可能性が高いと?」

 

「可能性はある。少なくとも、最初に千束ちゃんを襲った連中と関係がある可能性は高い」

 

「しかし、今回の情報遮断はリリベル内部にも及んでいます」

 

「ああ」

 

 蒼士の表情が少しだけ真面目になる。

 

「そこが厄介だ」

 

「内部協力者がいると?」

 

「協力者というより、内部の一部が何かを隠している可能性だな」

 

「何を」

 

「お前だよ、奏斗」

 

 奏斗は沈黙した。

 

 蒼士は続ける。

 

「リリベル内部には、お前の能力に危機感を持っている連中がいる」

 

 能力。

 

 その言葉が出た瞬間、奏斗の表情がわずかに硬くなる。

 

 まだ千束にも話していない。

 

 リコリコの誰にも詳細は明かしていない。

 

 奏斗自身に宿る、通常のリリベルとは違うもの。

 

 そして、それを蒼士は知っている。

 

「その話はここでするべきではありません」

 

「分かってる。だから詳しくは言わない」

 

「内部で動きがあるのですか?」

 

「お前の負傷後、一部の記録へのアクセスがさらに制限された。普通なら、被害者であるお前に共有されるべき情報まで閉じられてる」

 

「確認済みです」

 

「だろうな。お前なら見に行くと思った」

 

「理由は?」

 

「表向きは情報保護。だけど、本当はお前が独自に動くのを嫌がってる」

 

「私が?」

 

「正確には、お前の能力が暴走する、もしくは利用されることを恐れてる連中がいる」

 

 奏斗は目を伏せる。

 

「今回の敵の狙いが、千束ではなく私だと?」

 

「最初は千束ちゃんだった。けど、途中からお前を測ってるように見える」

 

「測っている?」

 

「お前の判断。戦闘能力。千束ちゃんとの関係。どこまで庇うか。どこで迷うか。負傷させたあと、どれくらい動けなくなるか」

 

「観察されていますね」

 

「それに、犯罪組織を先に殲滅した件」

 

 蒼士はカップを置く。

 

「あれは単なる殺しじゃない。お前たちを現場に呼び込むための演出にも見える」

 

「私たちが到着する前に殺し、死体を見せる」

 

「そのうえで背後から攻撃。お前は千束ちゃんを庇って負傷した」

 

「狙撃の位置から考えて、千束を狙っていたように見えました」

 

「本当に?」

 

 蒼士が問う。

 

「お前なら庇うって分かってたんじゃないか?」

 

 奏斗は答えなかった。

 

 その可能性は、考えていた。

 

 千束へ銃口を向ければ、奏斗は必ず動く。

 

 狙いは千束ではなく、庇いに入る奏斗。

 

 もしそうなら、奏斗が負傷したのは偶然ではない。

 

 敵の計算どおり。

 

「調査を頼めますか?」

 

 奏斗は低く言った。

 

「リリベル内部で、私の能力に関する情報へ最近アクセスした者。四人組に関する記録を制限した者。現場の回収報告を改ざんできる立場の者」

 

「重いな」

 

「蒼士にしか頼めません」

 

「そこまで言われると断れないだろ」

 

 蒼士は軽く笑う。

 

 だが、目は笑っていない。

 

「ただし、危ない橋だ」

 

「分かっています」

 

「お前も動きすぎるな。まだ怪我人だろ」

 

「千束にも言われています」

 

「千束ちゃんに言われたなら聞けよ」

 

「蒼士に言われるよりは検討します」

 

「ひどいなぁ」

 

 蒼士は背もたれへ寄りかかる。

 

「分かった。非公式に調べる。ただ、何か出てもすぐには連絡しない。安全な経路を作る」

 

「お願いします」

 

「あと」

 

「何ですか?」

 

「千束ちゃんには、能力のことをいつか話せ」

 

 奏斗は蒼士を見る。

 

「今はまだ」

 

「分かってる。けど、あの子はもう外側にいない」

 

「巻き込みたくありません」

 

「もう巻き込まれてる」

 

 蒼士の声は静かだった。

 

「隠して守れる段階を過ぎてるかもしれないぞ」

 

 奏斗は何も言えなかった。

 

 千束がこちらへ戻ってくる。

 

「何の話?」

 

 明るい声。

 

 だが、その目は少し鋭い。

 

 何かを感じ取っている。

 

 奏斗は答える。

 

「リリベル内部の調査を頼んでいました」

 

「奏斗の怪我の?」

 

「はい」

 

「危ないこと?」

 

「危険はあります」

 

「私にも教えて」

 

 奏斗は少し迷った。

 

「必要になれば」

 

「それ、また隠すやつ」

 

「まだ不確定です」

 

「私も関係あるよね」

 

「あります」

 

「じゃあ教えて」

 

 千束がまっすぐ見てくる。

 

 奏斗は答えられなかった。

 

 蒼士が横から助け舟を出す。

 

「千束ちゃん」

 

「何?」

 

「今日のところは、奏斗に免じて待ってやって」

 

「何で?」

 

「こいつ、説明が下手だから」

 

「それは分かる」

 

「納得しないでください」

 

「ちゃんと整理してから話させた方がいい。今話すと、余計に分かりにくくなる」

 

「……本当?」

 

 千束が奏斗を見る。

 

「はい」

 

「じゃあ、あとでちゃんと話して」

 

「分かりました」

 

「約束」

 

「約束します」

 

 千束は少しだけ不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。

 

 蒼士はチョコ系の甘味を食べ終えると、立ち上がった。

 

「うまかった。また来るわ」

 

「今度は普通の客として来てください」

 

「今日は?」

 

「半分仕事です」

 

「もう半分は、同棲確認」

 

「帰ってください」

 

「はいはい」

 

 蒼士は千束へ軽く手を振る。

 

「千束ちゃん、奏斗のことよろしく」

 

「うん!」

 

「蒼士」

 

「何だよ」

 

「余計なことを言わないでください」

 

「大事なことだろ?」

 

 蒼士は笑って店を出ていった。

 

 入口のベルが鳴る。

 

 奏斗はその背中を見送りながら、胸の奥に残る嫌な予感を消せずにいた。

 

     ◇

 

 閉店後。

 

 片づけを終えたリコリコの店内で、千束は当然のように言った。

 

「じゃあ、奏斗の家行こう」

 

「行きません」

 

「早い!」

 

「今日は千束をセーフハウスへ送ります」

 

「何で?」

 

「療養期間は終わりました。千束が私の部屋へ来る理由はありません」

 

「料理の練習」

 

「リコリコでしてください」

 

「お見舞い」

 

「治りました」

 

「まだ完全じゃないでしょ」

 

「日常動作には支障ありません」

 

「じゃあ遊びに」

 

「夜です」

 

「泊まりに」

 

「認めません」

 

「奏斗のケチ」

 

「常識的判断です」

 

 千束は少しだけ口を尖らせた。

 

「一週間いたのに」

 

「例外です」

 

「楽しかったって言った」

 

「言いました」

 

「じゃあまた」

 

「それとこれは別です」

 

「むー」

 

 ミズキが奥から顔を出す。

 

「何、もう通い妻終了?」

 

「違います」

 

「千束、押しかければいいじゃない」

 

「ミズキさん」

 

「だって一回許したら二回も三回も同じでしょ」

 

「違います」

 

「奏斗君、固いわねぇ」

 

「当然です」

 

 千束が期待した目でこちらを見る。

 

「駄目です」

 

「まだ何も言ってない」

 

「言う前に否定しました」

 

「ひどい」

 

 ミカが静かに口を開く。

 

「千束、今日はセーフハウスへ戻りなさい」

 

「先生まで」

 

「奏斗も復帰初日だ。休ませてやれ」

 

「……分かった」

 

 千束は渋々頷いた。

 

 奏斗は少しだけ安心する。

 

 ミカの言葉は強い。

 

 それでも、千束は帰り道でも諦めていなかった。

 

     ◇

 

 夜道。

 

 奏斗と千束は並んで歩いていた。

 

 いつものように、奏斗が車道側。

 

 千束が建物側。

 

 周辺には遠距離監視もいる。

 

 しかし、奏斗は気を抜かなかった。

 

 蒼士の言葉が頭に残っている。

 

 リリベル内部。

 

 能力。

 

 情報制限。

 

 そして、敵が奏斗を測っている可能性。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今日、家行っちゃ駄目?」

 

「駄目です」

 

「即答」

 

「何度聞かれても同じです」

 

「じゃあ明日」

 

「未定です」

 

「未定ってことは可能性ある?」

 

「低いです」

 

「ゼロじゃない」

 

「千束」

 

「何?」

 

「一週間の例外を基準にしないでください」

 

「でも、楽しかった」

 

「私もです」

 

 千束が少し驚いたようにこちらを見る。

 

「また素直」

 

「否定する理由がありません」

 

「じゃあ」

 

「駄目です」

 

「まだ言ってない」

 

「流れで分かります」

 

「奏斗、最近ちょっと意地悪」

 

「千束に鍛えられました」

 

「いい成長」

 

「そうでしょうか」

 

 千束は笑う。

 

 その笑顔を見て、奏斗は少しだけ胸が軽くなる。

 

 だが、同時に思う。

 

 この笑顔を守るために、どこまで隠すべきなのか。

 

 どこまで話すべきなのか。

 

 蒼士は言った。

 

 隠して守れる段階を過ぎているかもしれない。

 

 それは、奏斗自身も薄々感じていた。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「蒼士さんと話してたこと、いつか教えてね」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「約束しました」

 

「奏斗の約束は信用してる」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、隠し事は嫌」

 

「分かっています」

 

「私も巻き込まれてるなら、一緒に考える」

 

「千束らしいですね」

 

「一人で抱え込むの禁止」

 

「善処します」

 

「分かったって言って」

 

「分かりました」

 

「よし」

 

 セーフハウスが見えてきた。

 

 周囲を確認する。

 

 不審な人物なし。

 

 停車車両なし。

 

 窓の明かり。

 

 建物の入口。

 

 異常なし。

 

「着きました」

 

「うん」

 

 千束は少し名残惜しそうに玄関前で立ち止まった。

 

「本当に来ない?」

 

「来ません」

 

「お茶だけ」

 

「帰ります」

 

「五分」

 

「帰ります」

 

「奏斗のケチ」

 

「はい」

 

「認めた」

 

「この場合は認めます」

 

 千束は小さく笑い、鍵を取り出す。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

「明日、リコリコで」

 

「はい」

 

「傷、痛くなったら連絡して」

 

「分かりました」

 

「無理したら怒る」

 

「分かっています」

 

「じゃあね」

 

 千束が中へ入る。

 

 扉が閉まる。

 

 鍵がかかる音。

 

 奏斗はその場で数秒待った。

 

 いつもの確認。

 

 千束が安全に室内へ入ったか。

 

 周囲に動きはないか。

 

 玄関前。

 

 廊下。

 

 階段。

 

 背後。

 

 そのとき。

 

 微かな気配。

 

 遅かった。

 

 首筋に、鋭い痛み。

 

「っ……!」

 

 振り返ろうとした瞬間、電流が体を貫いた。

 

 スタンガン。

 

 筋肉が強制的に硬直する。

 

 傷口へ痛みが走る。

 

 手が銃へ届かない。

 

 膝が崩れる。

 

 視界が揺れる。

 

 最後に見えたのは、黒い袖。

 

 フード。

 

 そして、薄く笑うような影。

 

「……千束……」

 

 声にならなかった。

 

 奏斗の意識はそこで途切れた。

 

     ◇

 

 目を覚ましたとき、最初に感じたのは冷たい床の感触だった。

 

 次に、両手の痛み。

 

 背中側へ回された腕が、きつく縛られている。

 

 手首の拘束。

 

 さらに、その拘束具から伸びる鎖のようなものが、背後の柱へ繋がれていた。

 

 肩が痛む。

 

 脇腹の傷にも鈍い痛みが戻っている。

 

 視界は暗い。

 

 古い建物の中。

 

 倉庫か、廃工場。

 

 コンクリートの柱。

 

 天井からぶら下がる古い照明。

 

 湿った空気。

 

 火薬の匂いはない。

 

 まだ戦闘は起きていない。

 

「……起きた?」

 

 声。

 

 すぐ横。

 

「千束」

 

 奏斗は顔を向けた。

 

 千束も同じように、手を後ろで縛られ、別の柱へ繋がれていた。

 

 制服ではない。

 

 セーフハウスへ戻ったときの服。

 

 意識はある。

 

 目立った外傷は見えない。

 

「怪我は?」

 

「ないと思う」

 

「なぜここに?」

 

「奏斗が帰ったあと、玄関で物音がしたの」

 

 千束は苦い顔をする。

 

「確認しに行ったら、後ろからスタンガン。気づいたときにはここ」

 

「私も同じです」

 

「ごめん」

 

「なぜ謝るのですか?」

 

「家に入ったあと、ちゃんと警戒してれば」

 

「敵が上でした」

 

「でも」

 

「千束のせいではありません」

 

 奏斗は周囲を見る。

 

 拘束はかなり厳重。

 

 通常のロープではない。

 

 切断しにくい素材。

 

 手首の位置も悪い。

 

 背中側で固定され、柱へ繋がれているため、体を大きく動かせない。

 

 銃はない。

 

 端末もない。

 

 靴の中の予備器具も抜かれている可能性が高い。

 

 敵は、こちらの装備を把握している。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「これ、前と似てるね」

 

「倉庫で捕らえられたときですか?」

 

「うん」

 

「今回は二人とも拘束されています」

 

「もっと悪いね」

 

「はい」

 

 千束は無理に笑おうとした。

 

 だが、目は笑っていない。

 

 奏斗は呼吸を整える。

 

 痛みはある。

 

 だが、意識ははっきりしている。

 

 敵の目的。

 

 なぜ殺さなかったのか。

 

 なぜ二人を同時に捕らえたのか。

 

 千束を人質にして奏斗を動かす。

 

 以前と同じ。

 

 だが今回は、奏斗も拘束されている。

 

 逃走を警戒している。

 

 あるいは。

 

 奏斗をどこかへ連れていくため。

 

 その考えに至った瞬間、奥の闇が動いた。

 

 足音。

 

 一人。

 

 二人。

 

 三人。

 

 四人。

 

 黒いフードを被った者たちが、照明の下へ現れる。

 

 前回と同じ装備。

 

 顔は見えない。

 

 防弾装備。

 

 手には銃。

 

 四人組。

 

 千束の表情が鋭くなる。

 

「また会ったね」

 

 返事はない。

 

 四人のうち、一人が奏斗の前へ進む。

 

 低い声で言った。

 

「押村奏斗」

 

 奏斗は相手を見る。

 

「何が目的ですか?」

 

 フードの男は、答えの代わりに短く告げた。

 

「我々と来い」

 

 空気が重くなる。

 

 千束が即座に声を上げた。

 

「奏斗をどこに連れてく気?」

 

 男は千束を見ない。

 

 ただ奏斗だけを見ている。

 

「押村奏斗。我々と来い」

 

「拒否した場合は?」

 

 奏斗が問う。

 

 男は初めて千束の方を見た。

 

「錦木千束を殺す」

 

 千束の目が細くなる。

 

 奏斗は表情を変えなかった。

 

 だが、胸の奥で確信した。

 

 やはり、狙いは自分だ。

 

 そして彼らは、奏斗が千束を見捨てられないことを知っている。

 

 奏斗の能力。

 

 リリベル内部。

 

 情報遮断。

 

 蒼士の警告。

 

 すべてが、一本の線になりかけていた。

 

 まだ足りない。

 

 だが、確実に近づいている。

 

「千束」

 

 奏斗は静かに呼んだ。

 

「何?」

 

「動かないでください」

 

「嫌」

 

 即答だった。

 

「奏斗だけ連れて行かせるわけないじゃん」

 

「今は状況を見ます」

 

「私も見る」

 

「無茶をしないでください」

 

「それは奏斗も」

 

 フードの男が、銃口をわずかに上げる。

 

「時間はない」

 

 奏斗は男を見る。

 

 両手は縛られ、柱へ繋がれている。

 

 逃げ道はない。

 

 敵は四人。

 

 千束も拘束。

 

 こちらの武器はない。

 

 それでも。

 

 奏斗は、諦めていなかった。

 

「分かりました」

 

 奏斗は低く言う。

 

「話を聞きましょう」

 

 千束がこちらを見る。

 

「奏斗」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫じゃない」

 

「まだ、終わっていません」

 

 奏斗はフードの四人を見据える。

 

 胸の奥にある、まだ誰にも明かしていない力。

 

 使うべきか。

 

 使えば、何が起きるか。

 

 リリベル内部が恐れるもの。

 

 敵が求めるもの。

 

 それが今、この場で必要になるかもしれない。

 

 薄暗い倉庫の中。

 

 四人組は、黙って奏斗を見ていた。

 

 そして、もう一度告げた。

 

「押村奏斗。我々と来い」

 

 その言葉だけが、冷たい空気の中に響いた。

 

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