君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十六話 恐怖の名

 薄暗い倉庫の中で、押村奏斗は拘束されたまま、正面のフードの男を見据えていた。

 

 両手は背後で縛られている。

 

 その拘束具は柱へ繋がれ、体を大きく動かすことはできない。

 

 脇腹の傷は、スタンガンで倒されたときに少し響いたのか、鈍く痛んでいた。

 

 隣には、同じように柱へ繋がれた錦木千束がいる。

 

 千束もまた手を縛られているが、その目はまだ死んでいない。

 

 こちらの状況を見ている。

 

 敵の位置を見ている。

 

 逃げ道を探している。

 

 いつでも何かをしようとしている。

 

 だからこそ、奏斗は静かに声をかけた。

 

「千束、まだ動かないでください」

 

「分かってるよ」

 

 千束は小さく答えた。

 

 だが、完全には分かっていない声だった。

 

 自分が少しでも隙を見せれば、千束は動く。

 

 たとえ自分が撃たれる可能性があっても。

 

 いや、むしろ奏斗が危険に晒されれば、千束は迷わず動くだろう。

 

 フードの四人組は、そのことを理解している。

 

 だから、二人を同時に捕らえた。

 

 千束を人質にし、奏斗の自由を奪う。

 

 最も単純で、最も効果的な方法。

 

「押村奏斗」

 

 正面の一人が、再び名前を呼んだ。

 

 低く、抑えた声。

 

 性別は男。

 

 体格から見ても、前回から主導していた人物と同じ可能性が高い。

 

「我々と来い」

 

「目的を聞いていません」

 

 奏斗は落ち着いた声で返した。

 

「私を連れていく理由は何ですか?」

 

 フードの男はしばらく黙っていた。

 

 背後の三人は銃を構えたまま動かない。

 

 千束へ一人。

 

 奏斗へ二人。

 

 入口付近へ一人。

 

 それぞれの配置に無駄がない。

 

 単なる犯罪者ではない。

 

 訓練を受けている。

 

 それも、かなり実戦に近い訓練。

 

「お前の能力がほしい」

 

 男が言った。

 

 倉庫の空気が、わずかに変わる。

 

 千束が隣で息を飲むのが分かった。

 

 能力。

 

 蒼士が口にしたもの。

 

 リリベル内部の一部が危機感を持っているというもの。

 

 奏斗が、千束にもまだ話していないもの。

 

「能力?」

 

 千束が小さく呟く。

 

 奏斗は答えなかった。

 

 今、ここで説明することではない。

 

 だが、敵は知っている。

 

 少なくとも、その存在は把握している。

 

 そこまで知っているなら、やはりリリベル内部から情報が漏れている可能性が高い。

 

「誰から聞きましたか?」

 

 奏斗が尋ねる。

 

「質問する立場ではない」

 

「質問に答える立場でもないと言いたいのですか?」

 

「お前は選べばいい。我々に協力するか、錦木千束をここで失うか」

 

 銃口が千束へ向いた。

 

 千束は一歩も引かない。

 

 縛られた状態でも、真っ直ぐに男を睨んだ。

 

「私を盾にして奏斗を脅すなんて、最低だね」

 

「盾ではない。交渉材料だ」

 

「もっと最低」

 

「我々に協力しなければ、錦木千束を殺す」

 

 男は淡々と言った。

 

 感情がないような声だった。

 

 だが、その奥に何かがある。

 

 憎しみ。

 

 怒り。

 

 諦め。

 

 それらが混ざったような、重い何か。

 

 奏斗は男の声を聞きながら、四人を改めて観察した。

 

 動きの癖。

 

 銃の持ち方。

 

 立ち位置。

 

 視線の配り方。

 

 リコリスやリリベルの訓練を受けた者に近い。

 

 完全に同じではない。

 

 だが、似ている。

 

 年齢は分からないが、成人している可能性が高い。

 

 現役ではない。

 

 だが、過去に所属していたとすれば説明がつく。

 

「あなたたちは、元リリベルか元リコリスですか?」

 

 奏斗がそう言うと、四人のうち一人がわずかに肩を揺らした。

 

 反応は小さい。

 

 だが、十分だった。

 

「図星ですか」

 

「黙れ」

 

 別のフードが低く言った。

 

 男が片手を上げ、制する。

 

「いい。隠す必要はない」

 

「やはり」

 

「我々は知っている。リコリスも、リリベルも、この国の闇も」

 

 男の声に、わずかに熱が混じる。

 

「孤児を集め、名前を与え、武器を持たせる。外の世界を知らない子どもたちに、正義だ、平和だ、役目だと教え込み、夢も希望もないまま殺戮を繰り返させる」

 

 倉庫に男の声が響く。

 

「リコリスもリリベルも、ただの子どもだ。誰かに使われるために生まれたわけではない。人を殺すために育てられるべきではない」

 

 千束の表情が少し変わった。

 

 怒りだけではない。

 

 その言葉の一部には、千束自身も思うところがあるのだろう。

 

 DAのやり方。

 

 リコリスの在り方。

 

 誰にも知られず、殺し、処理される子どもたち。

 

 千束はそれをすべて肯定しているわけではない。

 

 奏斗も同じだった。

 

 リリベルの存在が正しいと、無条件には言えない。

 

 自分が立っている場所に、歪みがないとも思っていない。

 

 だが。

 

 目の前の四人がやっていることは、解放ではない。

 

「目的は何ですか?」

 

 奏斗は問う。

 

「リコリス、リリベルの解放」

 

 男は即答した。

 

「孤児を集め、夢も希望もなく、ただ殺戮を繰り返すリコリスとリリベルの子どもたちを解放する。自由と幸せを与える」

 

「そのために犯罪組織を殲滅し、千束を襲い、私たちを拉致したと?」

 

「必要な犠牲だ」

 

「自由と幸せを与えると言いながら、人を脅して従わせるのですね」

 

「大きな変革には力がいる」

 

「その力として、私の能力がほしい」

 

「そうだ」

 

 男は奏斗を見た。

 

「お前の【恐怖】は、この国を変えるのに役に立つ」

 

 恐怖。

 

 その言葉が出た瞬間、奏斗の中で何かが冷たく沈んだ。

 

 千束がこちらを見る。

 

 彼女は何も知らない。

 

 奏斗の能力の名前も。

 

 その性質も。

 

 なぜリリベル内部の一部が危機感を抱いているのかも。

 

 だが、今の言葉だけで分かったはずだ。

 

 それが、普通の力ではないということを。

 

「恐怖……?」

 

 千束が呟く。

 

 奏斗はゆっくりと息を吐いた。

 

 そして。

 

 笑った。

 

 自分でも、久しぶりに聞く笑い声だった。

 

 乾いた、低い笑い。

 

 リコリコで千束やミズキにからかわれて出る笑いとは違う。

 

 常連客へ向ける穏やかな笑みとも違う。

 

 蒼士と軽口を交わすときの笑いとも違う。

 

 もっと冷たく。

 

 もっと暗く。

 

 人を遠ざけるための笑い。

 

「……何がおかしい」

 

 フードの男が言う。

 

 奏斗は顔を上げた。

 

「あなたたちは、私の能力を知っていると言いましたね」

 

 声が変わった。

 

 自分でも分かる。

 

 普段より低く、抑揚が少ない。

 

 丁寧な言葉遣いは残っている。

 

 だが、その奥の温度が消えている。

 

「知っているからこそ、仲間にしようとしている」

 

「では」

 

 奏斗は笑みを深めた。

 

「私の能力を知っていて、千束を人質に仲間になれというのは、甘いんじゃないか?」

 

 フードの四人が、同時にわずかに後ろへ下がった。

 

 ほんの半歩。

 

 だが、確かな後退。

 

 銃口は向いたまま。

 

 それでも、四人の空気が変わった。

 

 警戒ではない。

 

 怯え。

 

 奏斗はそれを感じ取った。

 

 千束もまた、隣で息を止めた。

 

「奏斗……?」

 

 千束の声が揺れる。

 

 奏斗は彼女を見なかった。

 

 見れば、この空気が崩れる。

 

 あるいは、千束を怖がらせている自分を直視してしまう。

 

「そこまで言うなら」

 

 奏斗は続けた。

 

「俺の能力を見せてやろうか?」

 

 その瞬間、倉庫の中の空気がさらに重くなった。

 

 実際に何かを発動したわけではない。

 

 まだ、何もしていない。

 

 だが、奏斗の声に、視線に、表情に、四人は反応した。

 

 彼らは知っている。

 

 この能力が何であるかを。

 

 少なくとも、名前だけではなく、結果を知っている。

 

 だから後ずさる。

 

 だから、銃を持つ手がわずかに震える。

 

 奏斗はゆっくりと拘束された手首を動かした。

 

 拘束は解けない。

 

 柱へ繋がれている。

 

 それでも四人は警戒した。

 

 奏斗の能力が、物理的な自由を必要としない可能性を知っているからだ。

 

「やめろ」

 

 フードの一人が低く言った。

 

 声に焦りが混じっている。

 

「協力しろと言ったのはあなたたちです」

 

「今使えば、錦木千束も巻き込むぞ」

 

 その言葉に、千束がこちらを見る。

 

 奏斗はわずかに笑った。

 

「巻き込む?」

 

 言いながら、視線だけを男へ向ける。

 

「俺が、それを制御できないと思っているのか?」

 

 四人のうち一人が、明らかに息を呑んだ。

 

 奏斗はさらに言葉を続けようとした。

 

 能力を本当に使うつもりだったか。

 

 自分でも分からない。

 

 千束が隣にいる。

 

 彼女へ影響を及ぼす可能性がゼロではない。

 

 使えば、状況は変えられる。

 

 だが、何を失うか分からない。

 

 それでも、奏斗の中の何かは、久しぶりに表へ出ようとしていた。

 

 恐怖。

 

 それは敵だけに向けるものではない。

 

 使う本人の中にも巣食う。

 

 だから、リリベル内部の一部は恐れている。

 

 だから、奏斗自身も必要なとき以外は触れない。

 

「奏斗!」

 

 千束の声。

 

 その声が、ぎりぎりのところで奏斗を引き止めた。

 

 次の瞬間。

 

 倉庫の側面で爆音が響いた。

 

 扉が吹き飛ぶ。

 

 閃光ではない。

 

 突入用の破砕音。

 

「全員、動くな!」

 

 鋭い声。

 

 黒い装備のリリベル隊員たちが、複数方向から突入してきた。

 

 先頭にいたのは久世蒼士だった。

 

「奏斗! 千束ちゃん!」

 

 蒼士が叫ぶ。

 

 フードの四人は即座に反応した。

 

 一人が煙幕を投げる。

 

 白い煙が床を這い、視界を奪う。

 

「逃がすな!」

 

 リリベル隊員が追う。

 

 銃声。

 

 金属音。

 

 誰かが壁へ飛び込む音。

 

 奏斗は煙の中で、千束の位置を確認しようとする。

 

「千束!」

 

「いる!」

 

 千束の声。

 

 すぐ横。

 

 リリベル隊員の一人が奏斗へ駆け寄り、拘束具を確認する。

 

「解除します」

 

「千束を先に」

 

「同時にやる!」

 

 蒼士が煙の中から返す。

 

 別の隊員が千束の拘束を外しにかかる。

 

 奏斗の手首を縛る拘束具が切断され、柱から外れる。

 

 腕が前へ戻る。

 

 血流が戻り、手首が痛む。

 

 奏斗は立ち上がろうとして、わずかに膝をついた。

 

「無理すんな」

 

 蒼士が肩を支える。

 

「敵は?」

 

「一人も確保できてない。逃げ足が速すぎる」

 

「追跡は」

 

「別班が行ってる。でも期待はするな」

 

 煙が薄れていく。

 

 倉庫の奥の非常口が開いている。

 

 フードの四人は、すでに姿を消していた。

 

 千束も拘束を解かれ、こちらへ駆け寄ってくる。

 

「奏斗!」

 

「怪我は?」

 

「私は平気。奏斗は?」

 

「問題ありません」

 

「嘘つくところまで戻らなくていい」

 

 千束は奏斗の顔を見た。

 

 そして、言葉を止めた。

 

 おそらく、さっきまでの奏斗と今の奏斗の違いを見ている。

 

 奏斗は意識して呼吸を整える。

 

 声を戻す。

 

 表情を戻す。

 

 リコリコで働く、いつもの押村奏斗へ。

 

「千束、本当に怪我はありませんか?」

 

「……うん」

 

「なら良かったです」

 

 千束は何か言いたげだった。

 

 だが、何も聞かなかった。

 

 それが、かえって奏斗には重く感じた。

 

     ◇

 

 倉庫の外。

 

 リリベル隊員たちが周囲を確認し、撤収準備を進めていた。

 

 フードの四人は逃走。

 

 拉致に使われたと思われる車両も、倉庫裏から消えている。

 

 追跡班からの連絡はまだない。

 

 奏斗と千束は、簡易的な医療確認を受けた。

 

 新たな外傷はなし。

 

 奏斗の脇腹の傷は少し痛んでいるが、縫合部が大きく開いたわけではない。

 

 念のため、再処置は必要。

 

 だが、緊急搬送するほどではない。

 

「本当に無茶するよな、お前」

 

 蒼士が奏斗の横に立って言った。

 

「今回は私から動いたわけではありません」

 

「拉致された時点で十分厄介なんだよ」

 

「助かりました」

 

「お前が素直に礼言うと怖い」

 

「では撤回します」

 

「するな」

 

 蒼士は軽く笑ったあと、声を落とした。

 

「さっきの、お前……使う気だったのか?」

 

 奏斗は答えなかった。

 

 少し離れた場所に千束がいる。

 

 彼女は隊員から何か説明を受けているが、こちらの様子を気にしている。

 

「分かりません」

 

 奏斗は正直に答えた。

 

「使うつもりだったかもしれません」

 

「千束ちゃんがいた」

 

「はい」

 

「だから心配なんだよ」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「分かっています」

 

 蒼士は真面目な顔で奏斗を見た。

 

「お前の能力は便利な武器じゃない。使い方を間違えれば、敵も味方も関係なく壊す」

 

「だから普段は使っていません」

 

「さっきのお前は、使う前の顔だった」

 

 奏斗は黙る。

 

「昔と同じ顔」

 

 その言葉に、奏斗の胸の奥が少し冷えた。

 

 昔。

 

 その言葉で思い出すものは多い。

 

 任務。

 

 血。

 

 暗い部屋。

 

 倒れた誰か。

 

 そして、もう一人の自分。

 

「蒼士」

 

「何だ」

 

「まだ、千束には」

 

「分かってる」

 

 蒼士は遮るように言った。

 

「俺からは言わない。でも、そろそろ話せ」

 

「……はい」

 

「お前が話さないと、あの子は自分で調べるぞ」

 

「千束なら、あり得ます」

 

「それに、見ただろ。あの子は怖がっても逃げなかった」

 

 奏斗は千束を見る。

 

 確かに、さっき千束は恐怖を感じていた。

 

 奏斗の変化に。

 

 能力の気配に。

 

 それでも、彼女は奏斗の名前を呼んだ。

 

 止めようとした。

 

 逃げなかった。

 

「話せる範囲から話します」

 

「そうしろ」

 

 蒼士は少し笑った。

 

「あと、今日はお前ら二人とも一人にしない方がいい。セーフハウスも割れてる。奏斗の部屋も監視対象として固めてある」

 

「私の部屋へ?」

 

「ああ。送る」

 

「千束は」

 

「一緒でいいだろ」

 

 奏斗は千束を見る。

 

 千束はこちらを見つめたまま、何も言わない。

 

 その目に、不安がある。

 

 恐怖も少しある。

 

 だが、それ以上に心配があった。

 

「分かりました」

 

 奏斗は頷いた。

 

     ◇

 

 車内。

 

 運転は蒼士。

 

 後部座席に奏斗と千束。

 

 二人の間には、微妙な距離があった。

 

 いつもより近くもなく。

 

 遠すぎもしない。

 

 だが、言葉が少ない。

 

 蒼士は何度か軽口を言おうとしたが、二人の空気を見てやめたようだった。

 

「奏斗」

 

 千束が小さく呼ぶ。

 

「はい」

 

「痛い?」

 

「少しです」

 

「傷、また悪くなった?」

 

「大きくは」

 

「リコリコ戻る?」

 

「今日は私の部屋の方が警備を固めやすいそうです」

 

「そっか」

 

 そこで会話が切れた。

 

 千束は能力について聞かなかった。

 

 恐怖とは何か。

 

 なぜ敵が欲しがるのか。

 

 なぜ奏斗があんなふうに変わったのか。

 

 聞きたいことは山ほどあるはずだ。

 

 だが、千束は聞かない。

 

 その沈黙が、奏斗には苦しかった。

 

 聞かれれば答えられるのか。

 

 分からない。

 

 だが、聞かれないと、余計に自分から言えない。

 

 車は夜の街を進む。

 

 やがて奏斗のマンションへ到着した。

 

 周囲には、蒼士の言ったとおり監視が配置されている。

 

 以前よりも厳重だ。

 

 外から見る限り不自然ではない。

 

 だが、奏斗には分かる。

 

 複数の視線。

 

 配置。

 

 逃走経路の確保。

 

「着いたぞ」

 

 蒼士が言う。

 

「ありがとうございます」

 

「今日は外に張っとく。何かあったらすぐ連絡」

 

「分かりました」

 

「千束ちゃん」

 

「はい」

 

「こいつが変な無理しそうになったら、止めて」

 

「うん」

 

「蒼士」

 

「何だよ」

 

「余計なことを」

 

「大事なことだろ」

 

 蒼士は軽く笑う。

 

 奏斗と千束は車を降りた。

 

 エントランスを通り、部屋へ向かう。

 

 扉を開ける。

 

 数日前まで一週間を過ごした部屋。

 

 朝、二人で片づけたばかりの部屋。

 

 だが、今夜また二人で戻ってきた。

 

「ただいま」

 

 千束が小さく言った。

 

 奏斗は少しだけ驚いて彼女を見る。

 

「何?」

 

「いえ」

 

「一週間いたから、何となく」

 

「そうですか」

 

「奏斗は?」

 

「……ただいま、でいいのでしょうか」

 

「奏斗の家でしょ」

 

「そうでした」

 

 奏斗は玄関の鍵をかけ、窓を確認する。

 

 千束は慣れた様子で荷物を置いた。

 

 今日は泊まる準備などない。

 

 だが、千束の歯ブラシはまだ洗面所にある。

 

 部屋着も、一部残っている。

 

 一週間の痕跡が、役に立つ形になってしまった。

 

「奏斗、座って」

 

「先に周辺確認を」

 

「外は蒼士さんたちがいるんでしょ」

 

「室内も」

 

「私が見た。誰もいない」

 

「いつの間に?」

 

「入ってすぐ」

 

「さすがですね」

 

「でしょ」

 

 千束は少しだけ笑った。

 

 その笑顔は、まだいつもより薄い。

 

 奏斗は椅子へ座る。

 

 千束は冷蔵庫を開けた。

 

「何か飲む?」

 

「水で」

 

「私はオレンジジュース残ってたよね」

 

「はい」

 

「お菓子もある」

 

「この状況で食べますか?」

 

「食べる」

 

 千束はあえて明るく言った。

 

「甘いものは気分が良くなるんでしょ?」

 

「ミカさんの言葉ですね」

 

「奏斗も言ってた」

 

「はい」

 

 千束は小さなチョコレート菓子とクッキーを出した。

 

 テーブルに並べる。

 

 湯を沸かし、奏斗用に温かい飲み物も用意する。

 

「コーヒー?」

 

「夜ですので、薄めで」

 

「了解」

 

 手際がいい。

 

 一週間で、この部屋のどこに何があるか、千束はほとんど覚えてしまった。

 

 カップの場所。

 

 スプーン。

 

 皿。

 

 菓子の箱。

 

 タオル。

 

 救急用品。

 

 それを見ていると、不思議な気持ちになる。

 

 自分の部屋なのに、千束がいることがもう不自然ではなくなっている。

 

 二人はテーブルを挟んで座った。

 

 チョコレートを一つずつ食べる。

 

 千束は、能力の話をしなかった。

 

 代わりに、リコリコでの話をした。

 

「今日、常連のおばさんがね、奏斗が戻ってきてうれしいって言ってたよ」

 

「聞きました」

 

「あと、また無理しちゃ駄目って」

 

「それも聞きました」

 

「みんな心配してる」

 

「ありがたいことです」

 

「ミズキは同棲の話ばっかりだったけど」

 

「予想どおりです」

 

「明日も言われるかな」

 

「高確率で」

 

「今夜も泊まったって知られたら?」

 

「確実に悪化します」

 

「じゃあ内緒?」

 

「監視員が見ています」

 

「あー」

 

「蒼士も知っています」

 

「もう駄目だね」

 

「はい」

 

 千束は少し笑う。

 

 その笑いに、ようやくいつもの色が少し戻った。

 

「奏斗の部屋、やっぱり落ち着く」

 

「騒がしくなりますが」

 

「私が?」

 

「はい」

 

「でも嫌じゃないでしょ」

 

「……はい」

 

「素直」

 

「今日はいろいろありましたので」

 

「それ、理由になる?」

 

「なるかもしれません」

 

 千束はクッキーを一つ取る。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「怖かった?」

 

 能力のことではなかった。

 

 拉致されたことでも、敵に脅されたことでもない。

 

 たぶん、奏斗自身が自分を失いかけたことについて。

 

 奏斗は少し考えた。

 

「少し」

 

「奏斗も怖いんだ」

 

「怖いものはあります」

 

「お化けは?」

 

「いません」

 

「まだ言う」

 

「存在しません」

 

「じゃあ何が怖いの?」

 

 奏斗はすぐには答えなかった。

 

 千束は急かさない。

 

 ただ、こちらを見る。

 

「自分が、制御できなくなることです」

 

 ようやく、そう言った。

 

 千束の表情が少し変わる。

 

 だが、何も聞かない。

 

「さっきの奏斗?」

 

「はい」

 

「いつもの奏斗じゃなかった」

 

「そうですね」

 

「でも、奏斗だった」

 

 奏斗は千束を見る。

 

「怖くなかったのですか?」

 

「怖かったよ」

 

 千束は正直に答えた。

 

「ちょっとだけ」

 

「……そうですか」

 

「でも、奏斗が私を傷つけようとしてたわけじゃないのは分かった」

 

「確実ではありません」

 

「私には分かった」

 

「なぜですか?」

 

「奏斗、私を見なかったから」

 

「え?」

 

「見たら、たぶん止まるって自分で分かってたんでしょ?」

 

 奏斗は言葉を失った。

 

 千束は、あの短い時間でそこまで見ていたのか。

 

「私を巻き込みたくなかった。だから見なかった」

 

「……分かるのですね」

 

「奏斗のこと、結構見てるから」

 

 千束は照れ隠しのように笑った。

 

 その笑顔が、奏斗の胸に刺さる。

 

「千束」

 

「何?」

 

「能力について、聞かないのですか?」

 

 ついに、奏斗から言った。

 

 千束はクッキーを置いた。

 

 そして、少しだけ首を傾げる。

 

「聞いてほしい?」

 

「分かりません」

 

「聞かれたくない?」

 

「それも、分かりません」

 

「じゃあ、今は聞かない」

 

「なぜですか?」

 

「奏斗が話したい時に話してほしい」

 

「千束は気にならないのですか?」

 

「気になるよ」

 

「なら」

 

「でも、無理に聞いて、奏斗が苦しそうな顔するのは嫌」

 

 千束の声は静かだった。

 

「奏斗は奏斗だから」

 

 その言葉に、奏斗は息を止めた。

 

「能力があっても、さっき怖い顔してても、奏斗は奏斗でしょ?」

 

「私は」

 

「うん」

 

「私は、私だけではありません」

 

 千束の目がわずかに揺れた。

 

 奏斗は自分の手を見る。

 

 この一週間、千束と一緒に料理をし、同じベッドで眠り、笑い合った手。

 

 そして、倉庫で恐怖を見せようとした手。

 

「私の中には、自分以外がいます」

 

 千束は黙って聞いている。

 

「能力は、私だけのものではありません」

 

「……もう一人いるってこと?」

 

「はい」

 

 奏斗はゆっくり頷いた。

 

「正確に話すには、少し長くなります」

 

「うん」

 

「聞いて、千束がどう思うかは分かりません」

 

「大丈夫」

 

「怖くなるかもしれません」

 

「さっきも少し怖かった」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

 千束はまっすぐ奏斗を見た。

 

「話したいなら聞く。まだなら待つ」

 

 奏斗は、長く息を吐いた。

 

 今まで何度も、話す機会はあった。

 

 敵に人質に取られたとき。

 

 一週間一緒に過ごしたとき。

 

 夜、背中に抱きつかれたとき。

 

 だが、言えなかった。

 

 話せば、千束との距離が変わる気がした。

 

 護衛対象。

 

 友人。

 

 それ以上になりかけている何か。

 

 それが、自分の中にあるものを知れば、壊れてしまうかもしれない。

 

 でも、千束は言った。

 

 奏斗は奏斗だと。

 

「千束」

 

「何?」

 

「話します」

 

 奏斗は静かに言った。

 

「私の能力について。私の中にいる、もう一人について」

 

 千束は何も言わず、頷いた。

 

 テーブルの上には、食べかけのチョコレートとクッキー。

 

 外には、リリベルの監視。

 

 敵はまだ逃げている。

 

 何一つ解決していない。

 

 それでも。

 

 この部屋で。

 

 この夜に。

 

 奏斗は初めて、自分の奥へ千束を招き入れる決意をした。

 

「少し、昔の話になります」

 

 奏斗はそう言って、ゆっくりと言葉を選び始めた。

 

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