薄暗い倉庫の中で、押村奏斗は拘束されたまま、正面のフードの男を見据えていた。
両手は背後で縛られている。
その拘束具は柱へ繋がれ、体を大きく動かすことはできない。
脇腹の傷は、スタンガンで倒されたときに少し響いたのか、鈍く痛んでいた。
隣には、同じように柱へ繋がれた錦木千束がいる。
千束もまた手を縛られているが、その目はまだ死んでいない。
こちらの状況を見ている。
敵の位置を見ている。
逃げ道を探している。
いつでも何かをしようとしている。
だからこそ、奏斗は静かに声をかけた。
「千束、まだ動かないでください」
「分かってるよ」
千束は小さく答えた。
だが、完全には分かっていない声だった。
自分が少しでも隙を見せれば、千束は動く。
たとえ自分が撃たれる可能性があっても。
いや、むしろ奏斗が危険に晒されれば、千束は迷わず動くだろう。
フードの四人組は、そのことを理解している。
だから、二人を同時に捕らえた。
千束を人質にし、奏斗の自由を奪う。
最も単純で、最も効果的な方法。
「押村奏斗」
正面の一人が、再び名前を呼んだ。
低く、抑えた声。
性別は男。
体格から見ても、前回から主導していた人物と同じ可能性が高い。
「我々と来い」
「目的を聞いていません」
奏斗は落ち着いた声で返した。
「私を連れていく理由は何ですか?」
フードの男はしばらく黙っていた。
背後の三人は銃を構えたまま動かない。
千束へ一人。
奏斗へ二人。
入口付近へ一人。
それぞれの配置に無駄がない。
単なる犯罪者ではない。
訓練を受けている。
それも、かなり実戦に近い訓練。
「お前の能力がほしい」
男が言った。
倉庫の空気が、わずかに変わる。
千束が隣で息を飲むのが分かった。
能力。
蒼士が口にしたもの。
リリベル内部の一部が危機感を持っているというもの。
奏斗が、千束にもまだ話していないもの。
「能力?」
千束が小さく呟く。
奏斗は答えなかった。
今、ここで説明することではない。
だが、敵は知っている。
少なくとも、その存在は把握している。
そこまで知っているなら、やはりリリベル内部から情報が漏れている可能性が高い。
「誰から聞きましたか?」
奏斗が尋ねる。
「質問する立場ではない」
「質問に答える立場でもないと言いたいのですか?」
「お前は選べばいい。我々に協力するか、錦木千束をここで失うか」
銃口が千束へ向いた。
千束は一歩も引かない。
縛られた状態でも、真っ直ぐに男を睨んだ。
「私を盾にして奏斗を脅すなんて、最低だね」
「盾ではない。交渉材料だ」
「もっと最低」
「我々に協力しなければ、錦木千束を殺す」
男は淡々と言った。
感情がないような声だった。
だが、その奥に何かがある。
憎しみ。
怒り。
諦め。
それらが混ざったような、重い何か。
奏斗は男の声を聞きながら、四人を改めて観察した。
動きの癖。
銃の持ち方。
立ち位置。
視線の配り方。
リコリスやリリベルの訓練を受けた者に近い。
完全に同じではない。
だが、似ている。
年齢は分からないが、成人している可能性が高い。
現役ではない。
だが、過去に所属していたとすれば説明がつく。
「あなたたちは、元リリベルか元リコリスですか?」
奏斗がそう言うと、四人のうち一人がわずかに肩を揺らした。
反応は小さい。
だが、十分だった。
「図星ですか」
「黙れ」
別のフードが低く言った。
男が片手を上げ、制する。
「いい。隠す必要はない」
「やはり」
「我々は知っている。リコリスも、リリベルも、この国の闇も」
男の声に、わずかに熱が混じる。
「孤児を集め、名前を与え、武器を持たせる。外の世界を知らない子どもたちに、正義だ、平和だ、役目だと教え込み、夢も希望もないまま殺戮を繰り返させる」
倉庫に男の声が響く。
「リコリスもリリベルも、ただの子どもだ。誰かに使われるために生まれたわけではない。人を殺すために育てられるべきではない」
千束の表情が少し変わった。
怒りだけではない。
その言葉の一部には、千束自身も思うところがあるのだろう。
DAのやり方。
リコリスの在り方。
誰にも知られず、殺し、処理される子どもたち。
千束はそれをすべて肯定しているわけではない。
奏斗も同じだった。
リリベルの存在が正しいと、無条件には言えない。
自分が立っている場所に、歪みがないとも思っていない。
だが。
目の前の四人がやっていることは、解放ではない。
「目的は何ですか?」
奏斗は問う。
「リコリス、リリベルの解放」
男は即答した。
「孤児を集め、夢も希望もなく、ただ殺戮を繰り返すリコリスとリリベルの子どもたちを解放する。自由と幸せを与える」
「そのために犯罪組織を殲滅し、千束を襲い、私たちを拉致したと?」
「必要な犠牲だ」
「自由と幸せを与えると言いながら、人を脅して従わせるのですね」
「大きな変革には力がいる」
「その力として、私の能力がほしい」
「そうだ」
男は奏斗を見た。
「お前の【恐怖】は、この国を変えるのに役に立つ」
恐怖。
その言葉が出た瞬間、奏斗の中で何かが冷たく沈んだ。
千束がこちらを見る。
彼女は何も知らない。
奏斗の能力の名前も。
その性質も。
なぜリリベル内部の一部が危機感を抱いているのかも。
だが、今の言葉だけで分かったはずだ。
それが、普通の力ではないということを。
「恐怖……?」
千束が呟く。
奏斗はゆっくりと息を吐いた。
そして。
笑った。
自分でも、久しぶりに聞く笑い声だった。
乾いた、低い笑い。
リコリコで千束やミズキにからかわれて出る笑いとは違う。
常連客へ向ける穏やかな笑みとも違う。
蒼士と軽口を交わすときの笑いとも違う。
もっと冷たく。
もっと暗く。
人を遠ざけるための笑い。
「……何がおかしい」
フードの男が言う。
奏斗は顔を上げた。
「あなたたちは、私の能力を知っていると言いましたね」
声が変わった。
自分でも分かる。
普段より低く、抑揚が少ない。
丁寧な言葉遣いは残っている。
だが、その奥の温度が消えている。
「知っているからこそ、仲間にしようとしている」
「では」
奏斗は笑みを深めた。
「私の能力を知っていて、千束を人質に仲間になれというのは、甘いんじゃないか?」
フードの四人が、同時にわずかに後ろへ下がった。
ほんの半歩。
だが、確かな後退。
銃口は向いたまま。
それでも、四人の空気が変わった。
警戒ではない。
怯え。
奏斗はそれを感じ取った。
千束もまた、隣で息を止めた。
「奏斗……?」
千束の声が揺れる。
奏斗は彼女を見なかった。
見れば、この空気が崩れる。
あるいは、千束を怖がらせている自分を直視してしまう。
「そこまで言うなら」
奏斗は続けた。
「俺の能力を見せてやろうか?」
その瞬間、倉庫の中の空気がさらに重くなった。
実際に何かを発動したわけではない。
まだ、何もしていない。
だが、奏斗の声に、視線に、表情に、四人は反応した。
彼らは知っている。
この能力が何であるかを。
少なくとも、名前だけではなく、結果を知っている。
だから後ずさる。
だから、銃を持つ手がわずかに震える。
奏斗はゆっくりと拘束された手首を動かした。
拘束は解けない。
柱へ繋がれている。
それでも四人は警戒した。
奏斗の能力が、物理的な自由を必要としない可能性を知っているからだ。
「やめろ」
フードの一人が低く言った。
声に焦りが混じっている。
「協力しろと言ったのはあなたたちです」
「今使えば、錦木千束も巻き込むぞ」
その言葉に、千束がこちらを見る。
奏斗はわずかに笑った。
「巻き込む?」
言いながら、視線だけを男へ向ける。
「俺が、それを制御できないと思っているのか?」
四人のうち一人が、明らかに息を呑んだ。
奏斗はさらに言葉を続けようとした。
能力を本当に使うつもりだったか。
自分でも分からない。
千束が隣にいる。
彼女へ影響を及ぼす可能性がゼロではない。
使えば、状況は変えられる。
だが、何を失うか分からない。
それでも、奏斗の中の何かは、久しぶりに表へ出ようとしていた。
恐怖。
それは敵だけに向けるものではない。
使う本人の中にも巣食う。
だから、リリベル内部の一部は恐れている。
だから、奏斗自身も必要なとき以外は触れない。
「奏斗!」
千束の声。
その声が、ぎりぎりのところで奏斗を引き止めた。
次の瞬間。
倉庫の側面で爆音が響いた。
扉が吹き飛ぶ。
閃光ではない。
突入用の破砕音。
「全員、動くな!」
鋭い声。
黒い装備のリリベル隊員たちが、複数方向から突入してきた。
先頭にいたのは久世蒼士だった。
「奏斗! 千束ちゃん!」
蒼士が叫ぶ。
フードの四人は即座に反応した。
一人が煙幕を投げる。
白い煙が床を這い、視界を奪う。
「逃がすな!」
リリベル隊員が追う。
銃声。
金属音。
誰かが壁へ飛び込む音。
奏斗は煙の中で、千束の位置を確認しようとする。
「千束!」
「いる!」
千束の声。
すぐ横。
リリベル隊員の一人が奏斗へ駆け寄り、拘束具を確認する。
「解除します」
「千束を先に」
「同時にやる!」
蒼士が煙の中から返す。
別の隊員が千束の拘束を外しにかかる。
奏斗の手首を縛る拘束具が切断され、柱から外れる。
腕が前へ戻る。
血流が戻り、手首が痛む。
奏斗は立ち上がろうとして、わずかに膝をついた。
「無理すんな」
蒼士が肩を支える。
「敵は?」
「一人も確保できてない。逃げ足が速すぎる」
「追跡は」
「別班が行ってる。でも期待はするな」
煙が薄れていく。
倉庫の奥の非常口が開いている。
フードの四人は、すでに姿を消していた。
千束も拘束を解かれ、こちらへ駆け寄ってくる。
「奏斗!」
「怪我は?」
「私は平気。奏斗は?」
「問題ありません」
「嘘つくところまで戻らなくていい」
千束は奏斗の顔を見た。
そして、言葉を止めた。
おそらく、さっきまでの奏斗と今の奏斗の違いを見ている。
奏斗は意識して呼吸を整える。
声を戻す。
表情を戻す。
リコリコで働く、いつもの押村奏斗へ。
「千束、本当に怪我はありませんか?」
「……うん」
「なら良かったです」
千束は何か言いたげだった。
だが、何も聞かなかった。
それが、かえって奏斗には重く感じた。
◇
倉庫の外。
リリベル隊員たちが周囲を確認し、撤収準備を進めていた。
フードの四人は逃走。
拉致に使われたと思われる車両も、倉庫裏から消えている。
追跡班からの連絡はまだない。
奏斗と千束は、簡易的な医療確認を受けた。
新たな外傷はなし。
奏斗の脇腹の傷は少し痛んでいるが、縫合部が大きく開いたわけではない。
念のため、再処置は必要。
だが、緊急搬送するほどではない。
「本当に無茶するよな、お前」
蒼士が奏斗の横に立って言った。
「今回は私から動いたわけではありません」
「拉致された時点で十分厄介なんだよ」
「助かりました」
「お前が素直に礼言うと怖い」
「では撤回します」
「するな」
蒼士は軽く笑ったあと、声を落とした。
「さっきの、お前……使う気だったのか?」
奏斗は答えなかった。
少し離れた場所に千束がいる。
彼女は隊員から何か説明を受けているが、こちらの様子を気にしている。
「分かりません」
奏斗は正直に答えた。
「使うつもりだったかもしれません」
「千束ちゃんがいた」
「はい」
「だから心配なんだよ」
「分かっています」
「本当に?」
「分かっています」
蒼士は真面目な顔で奏斗を見た。
「お前の能力は便利な武器じゃない。使い方を間違えれば、敵も味方も関係なく壊す」
「だから普段は使っていません」
「さっきのお前は、使う前の顔だった」
奏斗は黙る。
「昔と同じ顔」
その言葉に、奏斗の胸の奥が少し冷えた。
昔。
その言葉で思い出すものは多い。
任務。
血。
暗い部屋。
倒れた誰か。
そして、もう一人の自分。
「蒼士」
「何だ」
「まだ、千束には」
「分かってる」
蒼士は遮るように言った。
「俺からは言わない。でも、そろそろ話せ」
「……はい」
「お前が話さないと、あの子は自分で調べるぞ」
「千束なら、あり得ます」
「それに、見ただろ。あの子は怖がっても逃げなかった」
奏斗は千束を見る。
確かに、さっき千束は恐怖を感じていた。
奏斗の変化に。
能力の気配に。
それでも、彼女は奏斗の名前を呼んだ。
止めようとした。
逃げなかった。
「話せる範囲から話します」
「そうしろ」
蒼士は少し笑った。
「あと、今日はお前ら二人とも一人にしない方がいい。セーフハウスも割れてる。奏斗の部屋も監視対象として固めてある」
「私の部屋へ?」
「ああ。送る」
「千束は」
「一緒でいいだろ」
奏斗は千束を見る。
千束はこちらを見つめたまま、何も言わない。
その目に、不安がある。
恐怖も少しある。
だが、それ以上に心配があった。
「分かりました」
奏斗は頷いた。
◇
車内。
運転は蒼士。
後部座席に奏斗と千束。
二人の間には、微妙な距離があった。
いつもより近くもなく。
遠すぎもしない。
だが、言葉が少ない。
蒼士は何度か軽口を言おうとしたが、二人の空気を見てやめたようだった。
「奏斗」
千束が小さく呼ぶ。
「はい」
「痛い?」
「少しです」
「傷、また悪くなった?」
「大きくは」
「リコリコ戻る?」
「今日は私の部屋の方が警備を固めやすいそうです」
「そっか」
そこで会話が切れた。
千束は能力について聞かなかった。
恐怖とは何か。
なぜ敵が欲しがるのか。
なぜ奏斗があんなふうに変わったのか。
聞きたいことは山ほどあるはずだ。
だが、千束は聞かない。
その沈黙が、奏斗には苦しかった。
聞かれれば答えられるのか。
分からない。
だが、聞かれないと、余計に自分から言えない。
車は夜の街を進む。
やがて奏斗のマンションへ到着した。
周囲には、蒼士の言ったとおり監視が配置されている。
以前よりも厳重だ。
外から見る限り不自然ではない。
だが、奏斗には分かる。
複数の視線。
配置。
逃走経路の確保。
「着いたぞ」
蒼士が言う。
「ありがとうございます」
「今日は外に張っとく。何かあったらすぐ連絡」
「分かりました」
「千束ちゃん」
「はい」
「こいつが変な無理しそうになったら、止めて」
「うん」
「蒼士」
「何だよ」
「余計なことを」
「大事なことだろ」
蒼士は軽く笑う。
奏斗と千束は車を降りた。
エントランスを通り、部屋へ向かう。
扉を開ける。
数日前まで一週間を過ごした部屋。
朝、二人で片づけたばかりの部屋。
だが、今夜また二人で戻ってきた。
「ただいま」
千束が小さく言った。
奏斗は少しだけ驚いて彼女を見る。
「何?」
「いえ」
「一週間いたから、何となく」
「そうですか」
「奏斗は?」
「……ただいま、でいいのでしょうか」
「奏斗の家でしょ」
「そうでした」
奏斗は玄関の鍵をかけ、窓を確認する。
千束は慣れた様子で荷物を置いた。
今日は泊まる準備などない。
だが、千束の歯ブラシはまだ洗面所にある。
部屋着も、一部残っている。
一週間の痕跡が、役に立つ形になってしまった。
「奏斗、座って」
「先に周辺確認を」
「外は蒼士さんたちがいるんでしょ」
「室内も」
「私が見た。誰もいない」
「いつの間に?」
「入ってすぐ」
「さすがですね」
「でしょ」
千束は少しだけ笑った。
その笑顔は、まだいつもより薄い。
奏斗は椅子へ座る。
千束は冷蔵庫を開けた。
「何か飲む?」
「水で」
「私はオレンジジュース残ってたよね」
「はい」
「お菓子もある」
「この状況で食べますか?」
「食べる」
千束はあえて明るく言った。
「甘いものは気分が良くなるんでしょ?」
「ミカさんの言葉ですね」
「奏斗も言ってた」
「はい」
千束は小さなチョコレート菓子とクッキーを出した。
テーブルに並べる。
湯を沸かし、奏斗用に温かい飲み物も用意する。
「コーヒー?」
「夜ですので、薄めで」
「了解」
手際がいい。
一週間で、この部屋のどこに何があるか、千束はほとんど覚えてしまった。
カップの場所。
スプーン。
皿。
菓子の箱。
タオル。
救急用品。
それを見ていると、不思議な気持ちになる。
自分の部屋なのに、千束がいることがもう不自然ではなくなっている。
二人はテーブルを挟んで座った。
チョコレートを一つずつ食べる。
千束は、能力の話をしなかった。
代わりに、リコリコでの話をした。
「今日、常連のおばさんがね、奏斗が戻ってきてうれしいって言ってたよ」
「聞きました」
「あと、また無理しちゃ駄目って」
「それも聞きました」
「みんな心配してる」
「ありがたいことです」
「ミズキは同棲の話ばっかりだったけど」
「予想どおりです」
「明日も言われるかな」
「高確率で」
「今夜も泊まったって知られたら?」
「確実に悪化します」
「じゃあ内緒?」
「監視員が見ています」
「あー」
「蒼士も知っています」
「もう駄目だね」
「はい」
千束は少し笑う。
その笑いに、ようやくいつもの色が少し戻った。
「奏斗の部屋、やっぱり落ち着く」
「騒がしくなりますが」
「私が?」
「はい」
「でも嫌じゃないでしょ」
「……はい」
「素直」
「今日はいろいろありましたので」
「それ、理由になる?」
「なるかもしれません」
千束はクッキーを一つ取る。
「奏斗」
「はい」
「怖かった?」
能力のことではなかった。
拉致されたことでも、敵に脅されたことでもない。
たぶん、奏斗自身が自分を失いかけたことについて。
奏斗は少し考えた。
「少し」
「奏斗も怖いんだ」
「怖いものはあります」
「お化けは?」
「いません」
「まだ言う」
「存在しません」
「じゃあ何が怖いの?」
奏斗はすぐには答えなかった。
千束は急かさない。
ただ、こちらを見る。
「自分が、制御できなくなることです」
ようやく、そう言った。
千束の表情が少し変わる。
だが、何も聞かない。
「さっきの奏斗?」
「はい」
「いつもの奏斗じゃなかった」
「そうですね」
「でも、奏斗だった」
奏斗は千束を見る。
「怖くなかったのですか?」
「怖かったよ」
千束は正直に答えた。
「ちょっとだけ」
「……そうですか」
「でも、奏斗が私を傷つけようとしてたわけじゃないのは分かった」
「確実ではありません」
「私には分かった」
「なぜですか?」
「奏斗、私を見なかったから」
「え?」
「見たら、たぶん止まるって自分で分かってたんでしょ?」
奏斗は言葉を失った。
千束は、あの短い時間でそこまで見ていたのか。
「私を巻き込みたくなかった。だから見なかった」
「……分かるのですね」
「奏斗のこと、結構見てるから」
千束は照れ隠しのように笑った。
その笑顔が、奏斗の胸に刺さる。
「千束」
「何?」
「能力について、聞かないのですか?」
ついに、奏斗から言った。
千束はクッキーを置いた。
そして、少しだけ首を傾げる。
「聞いてほしい?」
「分かりません」
「聞かれたくない?」
「それも、分かりません」
「じゃあ、今は聞かない」
「なぜですか?」
「奏斗が話したい時に話してほしい」
「千束は気にならないのですか?」
「気になるよ」
「なら」
「でも、無理に聞いて、奏斗が苦しそうな顔するのは嫌」
千束の声は静かだった。
「奏斗は奏斗だから」
その言葉に、奏斗は息を止めた。
「能力があっても、さっき怖い顔してても、奏斗は奏斗でしょ?」
「私は」
「うん」
「私は、私だけではありません」
千束の目がわずかに揺れた。
奏斗は自分の手を見る。
この一週間、千束と一緒に料理をし、同じベッドで眠り、笑い合った手。
そして、倉庫で恐怖を見せようとした手。
「私の中には、自分以外がいます」
千束は黙って聞いている。
「能力は、私だけのものではありません」
「……もう一人いるってこと?」
「はい」
奏斗はゆっくり頷いた。
「正確に話すには、少し長くなります」
「うん」
「聞いて、千束がどう思うかは分かりません」
「大丈夫」
「怖くなるかもしれません」
「さっきも少し怖かった」
「それでも?」
「それでも」
千束はまっすぐ奏斗を見た。
「話したいなら聞く。まだなら待つ」
奏斗は、長く息を吐いた。
今まで何度も、話す機会はあった。
敵に人質に取られたとき。
一週間一緒に過ごしたとき。
夜、背中に抱きつかれたとき。
だが、言えなかった。
話せば、千束との距離が変わる気がした。
護衛対象。
友人。
それ以上になりかけている何か。
それが、自分の中にあるものを知れば、壊れてしまうかもしれない。
でも、千束は言った。
奏斗は奏斗だと。
「千束」
「何?」
「話します」
奏斗は静かに言った。
「私の能力について。私の中にいる、もう一人について」
千束は何も言わず、頷いた。
テーブルの上には、食べかけのチョコレートとクッキー。
外には、リリベルの監視。
敵はまだ逃げている。
何一つ解決していない。
それでも。
この部屋で。
この夜に。
奏斗は初めて、自分の奥へ千束を招き入れる決意をした。
「少し、昔の話になります」
奏斗はそう言って、ゆっくりと言葉を選び始めた。