部屋の中は、静かだった。
テーブルの上には、千束が出したチョコレート菓子とクッキーが置かれている。
湯気の薄くなったコーヒー。
半分ほど残ったオレンジジュース。
いつもなら、千束が何かを言って、奏斗が返し、そこから話が広がっていく。
けれど今は、どちらもすぐには言葉を出さなかった。
押村奏斗は椅子に座ったまま、目の前のカップを見つめていた。
錦木千束は、その向かいに座っている。
急かすこともなく。
茶化すこともなく。
ただ、待っていた。
それが奏斗にはありがたくもあり、少し怖くもあった。
話すと決めた。
それなのに、最初の一言が重い。
自分の能力について。
自分の過去について。
そして、自分の中にいる、もう一人について。
これを話せば、千束がどう反応するか分からない。
怖がるかもしれない。
拒絶するかもしれない。
それでも、もう隠し続けるべきではないと思った。
千束はすでに巻き込まれている。
敵は奏斗の能力を知っている。
リリベル内部にも、奏斗を危険視する者がいる。
知らないままでそばにいさせる方が、よほど危険だった。
「千束」
「うん」
千束は静かに返事をした。
「先に言っておきます。私自身も、すべてを完全に理解しているわけではありません」
「うん」
「記録上分かっていること。私が覚えていること。あと、推測が混ざります」
「分かった」
「それでも聞きますか?」
千束は少しだけ首を傾げた。
「奏斗が話してくれるなら、聞くよ」
迷いのない声だった。
奏斗は小さく息を吐いた。
「私の能力は、リリベル内部で【恐怖】と呼ばれています」
「恐怖……」
「名前の通り、他人に恐怖を与える能力です」
千束の表情がわずかに変わる。
けれど、怖がって後ろへ引くような動きはなかった。
「どういうふうに?」
「対象の精神へ直接作用する、とされています。視線、声、存在感、敵意。発動条件は明確ではありませんが、相手に強い恐怖反応を起こさせることができる」
「それって……相手が動けなくなるってこと?」
「場合によります。動けなくなる者もいます。錯乱する者もいます。逃げ出す者も、逆に暴れる者もいる。重度の場合、戦闘継続は不可能になります」
「……強いね」
「はい」
奏斗は静かに頷いた。
「強い能力です。だからこそ危険です」
「自分で制御できないことがある?」
「完全には」
千束は黙って聞いている。
奏斗は続けた。
「私は、この能力を自分のものだと思っていません」
「自分のものじゃない?」
「正確には、私だけのものではない、というべきかもしれません」
奏斗はカップの横に置いた自分の手を見る。
手首には、先ほど拘束されていた痕がまだ薄く残っている。
「この能力には、私の弟が関係しています」
「弟……?」
「はい」
奏斗はゆっくりと言った。
「遥斗。押村遥斗。それが弟の名前です」
千束の目が少し大きくなった。
奏斗に弟がいたことを、彼女は知らない。
話したこともなかった。
「遥斗は、どんな子だったの?」
千束が静かに尋ねる。
奏斗は少しだけ目を伏せた。
「幼い頃は、横暴な性格でした」
「横暴?」
「自分の思い通りにならないと怒る。欲しいものは奪う。気に入らない相手には強く出る。そういう子でした」
「奏斗と全然違うね」
「よく言われました」
「兄弟なのに」
「兄弟でも、性格は違います」
「そっか」
千束は小さく頷く。
奏斗は遠い記憶を辿る。
まだDAに拾われる前。
両親がいた頃。
家の中で、弟が大きな声を上げていた。
自分の玩具を取られたと怒る遥斗。
奏斗の持っていた菓子を勝手に奪って、当然のように食べる遥斗。
そのたびに、両親が叱っていた。
奏斗はあまり怒らなかった。
弟だから仕方ない。
そう思っていたのかもしれない。
あるいは、弟と真正面からぶつかるのが面倒だっただけかもしれない。
「遥斗は、強くなりたいというより、周りを従わせたい子でした」
「従わせたい?」
「自分が上に立ちたい。自分を怖がらせたい。自分へ逆らわせたくない。幼いながらに、そういう欲求が強かった」
千束は難しい顔をした。
「ちょっと嫌な子だね」
「はい」
奏斗は否定しなかった。
「でも、弟でした」
その一言だけ、少し声が柔らかくなった。
千束はそれを聞いて、何も言わなかった。
「私たちの両親は、私と遥斗が幼い頃に事故で亡くなりました」
「……事故」
「はい。交通事故です。細かいことは、当時の私もすべて理解していたわけではありません。ただ、ある日突然、家に帰る場所がなくなった」
奏斗の声は静かだった。
もう何年も前のこと。
感情は整理したはずだった。
だが、言葉にすると、胸の奥に古い痛みが少しだけ戻る。
「親戚に引き取られることはありませんでした。私たちは孤児となり、やがてDAに拾われました」
千束の表情が少し曇る。
彼女にとっても、DAは他人事ではない。
リコリスとして育てられた彼女は、同じ構造の中にいた。
「そこから、リリベルになるための訓練が始まりました」
「小さい頃から?」
「はい」
「奏斗も、遥斗君も?」
「二人ともです」
奏斗は頷く。
「私は、訓練に適応するのに時間がかかりました。射撃や身体能力は平均より上でしたが、突出していたわけではありません。状況判断と観察で補っていた」
「今の奏斗っぽい」
「今より不器用でした」
「今も結構不器用だよ」
「否定できません」
千束が少しだけ笑う。
その笑みのおかげで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
しかし、奏斗の話はすぐに重く戻る。
「遥斗は違いました」
「強かったの?」
「はい。戦闘のセンスは抜群でした。射撃、格闘、反応速度、相手の心理を読む力。どれも異常に高かった」
「天才だったんだ」
「そう呼ぶ者もいました」
奏斗は記憶を思い出す。
訓練場。
年上の候補生を倒す遥斗。
小さな体で、相手の動きを読み、急所を的確に突く。
倒された相手が、悔しさより先に怯えた顔をする。
遥斗はそれを見て笑っていた。
自分が恐れられることを喜んでいた。
「遥斗は、その高い力で周りを従えるようになりました」
「リリベルの候補生を?」
「はい。自分より年上の者にも、教官にも、時には逆らいました。けれど結果を出す。だから、周囲は強く叱れなかった」
「強いから許される」
「そうです」
「嫌な環境だね」
「否定はしません」
奏斗はゆっくりと息を吐く。
「周りは遥斗を恐れました。候補生だけではなく、教官の一部もです。彼が本気で睨むだけで、動けなくなる者がいた。声をかけられただけで、震える者もいた」
「それが【恐怖】?」
「分かりません」
「分からない?」
「当時は、遥斗の性格や威圧感、戦闘能力によるものだと考えられていました。能力として認識されていたかは不明です。記録も曖昧です」
「じゃあ、遥斗君が元々持ってたかもしれないってこと?」
「その可能性があります」
奏斗は視線を落とす。
「あるいは、遥斗の中にあった資質が、後に私の中で能力として形を持ったのかもしれません」
「奏斗の中で……」
千束はその言葉を繰り返した。
「遥斗は、私に対しても横暴でした」
「お兄ちゃんなのに?」
「むしろ、兄だからでしょう。近い相手には遠慮がなかった」
「ひどいことされた?」
「よくありました」
奏斗は淡々と言った。
「訓練で負ければ罵られました。物を取られることもありました。命令されることもありました」
「奏斗、怒らなかったの?」
「怒ることはありました」
「喧嘩した?」
「しました。だいたい、私が負けました」
「そっか」
「ただ」
「ただ?」
「遥斗は、私を本気で見捨てることはありませんでした」
千束は黙る。
「横暴で、強引で、人を従わせようとする。けれど、任務や訓練で私が危険になると、必ず助けに来ました」
「弟なのに、お兄ちゃんみたい」
「本人は、自分のものを勝手に壊されるのが嫌だっただけだと言っていました」
「素直じゃないね」
「はい」
奏斗は少しだけ笑った。
「本当に、素直ではありませんでした」
幼い頃の遥斗。
不機嫌な顔で手を差し出す。
倒れた奏斗を引き起こしながら、弱いくせに前に出るな、と言う。
そのくせ、自分以外が奏斗を侮辱すると怒る。
ひどい弟だった。
扱いにくい弟だった。
それでも、弟だった。
大切ではなかったわけではない。
「ある日、大規模な作戦がありました」
奏斗の声が、少し低くなる。
千束も表情を引き締めた。
「私と遥斗も参加しました。まだ正式配属前でしたが、候補生の中でも実戦投入できると判断された者が複数組み込まれました」
「子どもなのに?」
「リリベルでは珍しくありません」
「……そっか」
千束は苦い顔をした。
リコリスでも同じだ。
子どもだから戦場へ出ない。
そんな優しいルールは、DAにもリリベルにも存在しない。
「作戦は、失敗しました」
奏斗は短く言った。
「情報が不完全だった。敵の数も、装備も、想定を上回っていました。撤退命令が遅れ、部隊は分断された」
記憶がよみがえる。
暗い建物。
警報音。
銃声。
煙。
倒れる候補生。
無線の混線。
遥斗の怒鳴り声。
走れ。
伏せろ。
邪魔だ。
死ぬな。
命令なのか、罵倒なのか分からない言葉。
「私と遥斗は、同じ区画に取り残されました」
「二人だけ?」
「最終的には」
「それで……?」
千束の声が小さくなる。
奏斗は一度目を閉じた。
「爆発がありました」
短い一言。
それだけで、あの瞬間の熱と衝撃が戻ってくる。
視界が白く弾ける。
耳が聞こえなくなる。
体が床へ叩きつけられる。
何かが腹部を貫く。
息ができない。
血の匂い。
遥斗の声。
兄貴。
いや、あいつは普段、そう呼ばなかった。
奏斗、と呼んだのかもしれない。
記憶は曖昧だった。
「私は重傷を負いました。遥斗も同じです」
「二人とも……」
「搬送された時点で、私の生存率はかなり低かったそうです。臓器の損傷が大きく、通常の治療では間に合わない」
奏斗は自分の腹部へ視線を向けた。
今ある銃創とは別の、古い傷。
普段は服の下に隠れている。
「遥斗も助からない状態でした」
千束が唇を結ぶ。
「そこで、移植が行われました」
「……遥斗君の?」
「はい」
奏斗は頷いた。
「遥斗の臓器が、私へ移植されました。そのおかげで、私は助かりました」
部屋の空気が止まったようだった。
千束は何も言わない。
言葉を探しているようにも見える。
けれど、安易な慰めはしなかった。
それが奏斗にはありがたかった。
「遥斗は死亡しました」
奏斗は静かに言った。
「私は生き残りました」
「奏斗……」
「それからです」
「何が?」
「私の中に、もう一つの人格が生まれました」
千束の目が揺れる。
「遥斗君?」
「はい。本人が遥斗なのか、私の精神が作り出したものなのか、移植による何らかの影響なのか。それは分かりません」
「でも、奏斗は遥斗君だと思ってる?」
「そう思わなければ、説明できないことが多い」
「話したことあるの?」
「直接会話するような感覚は、普段はありません」
「普段は?」
「はい」
奏斗は言葉を選ぶ。
「普段、遥斗は出てきません。私の意識の奥に沈んでいる。存在は感じることがありますが、表に出ることはほとんどない」
「じゃあ、さっきみたいなとき?」
「はい」
「焦ったときとか?」
「焦り、恐怖、強い危険、怒り。特に、生命の危機や、大切な誰かを失う可能性を感じたときに出やすい」
千束は静かに聞いている。
「遥斗は、私より攻撃的です。ためらいがない。相手を恐怖で支配することに抵抗がない」
「だから【恐怖】」
「おそらく」
「さっき、奏斗が笑ったとき」
「はい」
「あれは、遥斗君だったの?」
奏斗は少し考えた。
「あれは、完全に入れ替わったわけではありません」
「半分?」
「境界が曖昧になることがあります。私の意識は残っている。ただ、言葉や感情、判断に遥斗の影響が強く出る」
「じゃあ、奏斗でもあった」
「はい」
「遥斗君でもあった」
「そうです」
千束は難しい顔で頷いた。
「難しいね」
「はい」
「でも、何となく分かった」
「本当ですか?」
「何となく」
「十分です」
奏斗は小さく息を吐いた。
「だから私は、精神を安定させて制御しています」
「いつも落ち着いてるのは、そのため?」
「理由の一つです」
「焦らないように?」
「はい」
「怖がらないように?」
「はい」
「怒らないように?」
「はい」
「それ、すごく大変じゃない?」
奏斗はすぐには答えなかった。
大変。
そう言われると、不思議な感じがした。
それが普通だった。
自分の感情を常に観察し、制御する。
怒りを抑える。
恐怖を飲み込む。
焦りを切り離す。
心拍を整える。
呼吸を揃える。
そうしなければ、遥斗が出てくるかもしれない。
そして、【恐怖】が発動するかもしれない。
だから、奏斗はいつも冷静でいようとした。
周りには、落ち着いていると言われた。
判断が早いと言われた。
合理的だと言われた。
でも、それは性格だけではない。
そうしなければならなかったからだ。
「慣れました」
奏斗は答えた。
「慣れたっていうの、ちょっと嫌だな」
「なぜですか?」
「大変なことを、大変じゃないみたいに言ってるから」
「事実です」
「それも奏斗らしいけど」
千束は少しだけ眉を寄せた。
「でも、リコリコに来てから、結構笑うようになったよね」
「そうでしょうか」
「うん。冗談も言うし、ツッコミも速いし」
「千束とミズキさんに鍛えられました」
「良いことだね」
「精神制御の面では、必ずしも良いとは限りません」
「えー」
「感情の揺れが増えます」
「でも、ずっと抑えてるより良くない?」
「制御が難しくなります」
「でも奏斗は、人間でしょ」
その言葉に、奏斗は顔を上げた。
「ずっと落ち着いて、ずっと我慢して、ずっと一人で何とかするのって、奏斗が壊れちゃうよ」
「壊れるほどではありません」
「そうやって言う」
「事実です」
「じゃあ、私が勝手に心配する」
千束はまっすぐ言った。
「奏斗が大丈夫って言っても、勝手に心配する。勝手に怒るし、勝手に泊まりに行くし、勝手にご飯作る」
「すでに実行済みですね」
「うん」
「困ります」
「でも嫌じゃないでしょ?」
「……はい」
「じゃあいいじゃん」
「よくはありませんが」
奏斗は小さく笑った。
千束も少し笑う。
空気が、また少し和らいだ。
だが、奏斗の胸の奥には、まだ一つだけ重いものが残っていた。
ここまで話した。
能力のことも。
遥斗のことも。
過去のことも。
それでも、最後に聞きたいことがある。
聞くべきではないかもしれない。
だが、聞かずにはいられなかった。
「千束」
「何?」
「嫌いになりましたか?」
千束は瞬きをした。
「え?」
「私のことです」
「何で?」
「今の話を聞いて」
「何で嫌いになるの?」
「私は、他人に恐怖を与える能力を持っています。自分の中には、攻撃的な別人格がいる。過去には、それを完全に制御できなかったこともあります」
「うん」
「危険だと思うのが普通です」
「普通って誰の?」
「一般的にです」
「また一般論」
千束は少し難しい顔をした。
怒っているわけではない。
考えている顔。
千束にしては珍しく、すぐに言葉を出さなかった。
奏斗はその沈黙を待つ。
怖かった。
フードの四人に囲まれたときよりも。
銃を向けられたときよりも。
千束が何を言うのか分からない、この数秒の方が怖かった。
やがて、千束は口を開いた。
「そんなに深く考えなくていいんじゃない?」
「……はい?」
予想外の言葉だった。
奏斗は思わず聞き返す。
千束は腕を組み、少し首を傾げる。
「だって、奏斗は奏斗でしょ?」
「先ほども聞きました」
「何回でも言うよ」
「しかし」
「能力があっても、遥斗君がいても、怖い顔になっても、奏斗は奏斗」
千束はまっすぐこちらを見た。
「それに、奏斗がその力を好き勝手使って、誰かを苦しめてるなら怒るよ」
「はい」
「でも、奏斗はそうならないように頑張ってるんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、それを聞いて嫌いになる理由がない」
「怖くありませんか?」
「怖い部分はあるよ」
千束は正直に答えた。
「でも、怖いから嫌いってならない」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
「単純ですね」
「奏斗が複雑に考えすぎ」
「複雑な事情なので」
「でも、人を好きとか嫌いとかって、そんなに資料みたいに整理するものじゃないよ」
千束は少し笑った。
「私は、奏斗が助けてくれたことも知ってる。甘いもの食べると分かりやすいことも知ってる。料理が細かいことも知ってる。変態だけど本当は変態じゃないことも知ってる」
「変態ではありません」
「そういうところ」
「どこですか?」
「あと、私を守ろうとして迷って怪我したことも知ってる。一週間、文句言いながら泊めてくれたことも知ってる」
千束の声が少し柔らかくなる。
「だから、能力の話を聞いたからって、それまで知ってた奏斗が全部変わるわけじゃない」
奏斗は言葉を失った。
千束は簡単に言う。
深く考えなくていい。
奏斗は奏斗だ。
そんなことで嫌いになったりしない。
それは、あまりにも単純で。
だからこそ、奏斗の中へ真っ直ぐ入ってきた。
「そんなことで嫌いになったりしないよ」
千束は改めて言った。
「絶対」
「……そうですか」
「うん」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
千束は笑った。
いつもの笑顔。
少し照れたような、でもまっすぐな笑顔。
奏斗は目を伏せた。
胸の奥にあった重さが、完全に消えたわけではない。
能力の危険性は変わらない。
遥斗が消えたわけでもない。
敵が逃げたことも、リリベル内部の疑いも残っている。
だが、今この瞬間だけは、少し息がしやすくなった気がした。
「奏斗」
「はい」
「遥斗君のこと、嫌い?」
千束の質問に、奏斗は少しだけ考えた。
「分かりません」
「分かんない?」
「ひどい弟でした。横暴で、人を見下し、力で周囲を従えようとしていた」
「うん」
「でも、私を助けてくれた。命を救われた。今も私の中にいる」
「うん」
「嫌いだった時期もあります。怖かった時期もあります。恨んだこともある」
「うん」
「それでも、弟です」
奏斗は静かに言った。
「それだけは変わりません」
「そっか」
千束は小さく頷いた。
「いつか、遥斗君とも話せるのかな」
「お勧めしません」
「そんなに?」
「千束とは相性が悪いと思います」
「何で?」
「遥斗は千束のような人間を嫌うでしょう」
「明るいから?」
「自分に従わないからです」
「私、絶対従わないね」
「はい」
「じゃあ喧嘩になる」
「高確率で」
「でも、奏斗の弟なら少し気になる」
「会わせるつもりはありません」
「奏斗が決められるの?」
「できる限り」
「そっか」
千束はそれ以上、遥斗について踏み込まなかった。
その距離感が、奏斗にはありがたかった。
◇
話を終えた頃には、かなり夜も深くなっていた。
外の監視は続いている。
蒼士から、異常なしという短い連絡も入った。
千束はテーブルの上を片づけ、奏斗はカップを洗おうとしたが、すぐに止められた。
「奏斗は座ってて」
「もう動けます」
「今日は話したから疲れてるでしょ」
「体力的には」
「精神的に」
奏斗は少し黙る。
「……少し」
「じゃあ座ってて」
「分かりました」
千束は食器を洗った。
水音を聞きながら、奏斗は椅子に座る。
自分の過去をここまで話したのは、久しぶりだった。
蒼士は知っている。
上層部も知っている。
医療記録にも残っている。
だが、それは情報としての過去だ。
自分の口で。
自分の言葉で。
千束へ話したのは初めてだった。
話してしまえば、意外と部屋の空気は変わらなかった。
千束は食器を洗いながら、いつものように少し鼻歌を歌っている。
その背中を見て、奏斗は思った。
本当に、この人は変わらない。
いや、変わらないのではない。
知ったうえで、普段どおりでいようとしてくれている。
それが分かった。
「奏斗」
「はい」
「お風呂入る?」
「千束が先でいいです」
「タオル、ちゃんとある?」
「確認済みです」
「見えかけ変態対策?」
「はい」
「認めた」
「対策名としては不本意です」
千束が笑う。
「じゃあ先入るね。見ないでよ、変態」
「毎回言いますね」
「お約束」
「泊まらなければ言う必要はありません」
「今日は特別」
「最近、特別が多いですね」
「奏斗が巻き込まれるから」
「原因は私だけではありません」
「でも、私は来る」
「知っています」
千束は着替えを持って浴室へ向かった。
扉が閉まる。
シャワーの音が聞こえ始める。
奏斗は椅子に座ったまま、目を閉じた。
心は疲れている。
だが、不思議と乱れてはいなかった。
遥斗の気配も、今は静かだった。
千束に話したことで何かが変わったのか。
それとも、単に疲れたのか。
分からない。
ただ、今夜は能力が暴れる心配はないように思えた。
◇
風呂を終え、寝る準備を済ませる。
結局、その夜も二人は同じベッドで寝ることになった。
理由は簡単だった。
千束が当然のように布団へ入ったからだ。
「千束」
「何?」
「自分の家ではありません」
「一週間いたから慣れた」
「慣れないでください」
「奏斗も慣れたでしょ?」
「……ある程度は」
「ほら」
「ほら、ではありません」
奏斗はいつものように端へ横になる。
千束も反対側へ入る。
照明を消すと、部屋は暗くなった。
外からわずかに入る街灯の光だけが、輪郭を浮かび上がらせる。
しばらく無言だった。
けれど、沈黙は重くない。
話すべきことを話したあとの、静かな時間だった。
「奏斗」
「はい」
「話してくれてありがとう」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとうございます」
「嫌いになってないからね」
「はい」
「本当だよ」
「分かっています」
「不安になったら何回でも聞いていいよ」
「さすがに何度も聞くのは」
「いいの」
千束の声は優しかった。
「私も何回でも言うから」
「……ありがとうございます」
「またお礼言った」
「言うべき場面です」
「奏斗って、変なところ律儀」
「よく言われます」
「誰に?」
「主に蒼士に」
「蒼士さん、いろいろ知ってるんだね」
「はい」
「ちょっと悔しい」
「なぜですか?」
「私より先に奏斗のこと知ってたから」
「同期ですので」
「でも今、私も知った」
「はい」
「じゃあ同じくらい?」
「情報量で比べるものではありません」
「じゃあ、気持ちで」
「気持ち?」
「奏斗のこと、ちゃんと知りたいって思ってる気持ち」
奏斗は暗闇の中で、千束の方を向いた。
表情はよく見えない。
けれど、声ははっきり聞こえた。
「私、奏斗のこともっと知りたいよ」
「……はい」
「でも無理やり聞かない」
「はい」
「奏斗が話したい時に話して」
「分かりました」
「約束」
「約束します」
しばらくして、千束が布団の中で少し動いた。
「今日は抱きつかないで寝る」
「そうしてください」
「ちょっと残念?」
「寝やすくなります」
「そこは残念って言うところ」
「寝やすくなります」
「頑固」
千束が小さく笑う。
奏斗も少しだけ笑った。
「おやすみ、奏斗」
「おやすみなさい、千束」
千束の呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。
奏斗は目を閉じた。
遥斗のことを話した。
【恐怖】のことを話した。
嫌いになったかと聞いた。
千束は、そんなことで嫌いになったりしないと言った。
単純な言葉。
けれど、奏斗にはそれで十分だった。
暗い部屋の中で、奏斗は小さく息を吐く。
今夜は、よく眠れそうだった。