朝。
押村奏斗が目を覚ましたとき、最初に見えたのは、天井ではなかった。
すぐ横で眠る、錦木千束の顔だった。
昨夜と同じベッド。
同じ部屋。
外にはリリベルの監視。
そして、隣には千束。
昨日、奏斗は自分の過去を話した。
弟の遥斗のこと。
【恐怖】と呼ばれる能力のこと。
自分の中に、もう一人がいること。
話し終えたあと、千束は嫌いにならないと言ってくれた。
奏斗はその言葉に救われた。
救われた、はずだった。
けれど。
「……」
今、目の前にいる千束は、そんな重い話など存在しなかったかのように眠っていた。
口が少し開いている。
頬は枕に押されている。
そして、口元には。
「……よだれ」
奏斗は小さく呟いた。
千束の口元から、ほんの少しだけよだれが垂れている。
あまりにも平和な寝顔だった。
昨夜の真剣な表情。
奏斗の話を静かに聞いていた千束。
嫌いにならないと、まっすぐ言った千束。
そのすべてが、夢だったのではないかと思うほどに。
今の千束は、ただの寝起きの悪い女の子だった。
「……昨日のことは、本当にあったんですよね」
奏斗は自分に確認するように言う。
千束は眠ったまま、もぞもぞと動いた。
「ん……」
返事のような寝言。
奏斗は少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、千束のまぶたがゆっくり開く。
「……おはよ」
「おはようございます」
「何笑ってんの?」
「いえ」
「今、笑ってた」
「気のせいです」
「絶対笑ってた」
千束は半分眠ったまま、奏斗をじっと見る。
そして、口元に違和感を覚えたのか、自分の頬に触れた。
指先がよだれに触れる。
数秒。
千束の顔が赤くなった。
「見た?」
「何をですか?」
「よだれ」
「はい」
「見たんじゃん!」
「起きた時点で視界に入っていました」
「忘れて」
「努力します」
「今すぐ忘れて!」
「難しいですね」
「奏斗の変態」
「今回は関係ありません」
千束は慌てて布団で口元を隠した。
「昨日、あんな真面目な話したのに」
「私も一瞬、昨日のことが嘘だったのかと思いました」
「何で?」
「千束があまりにも普段どおりだったので」
千束は少しだけ目を細めた。
「普段どおりが嫌?」
「いいえ」
奏斗はすぐに答えた。
「むしろ、安心しました」
「ならよかった」
千束は布団の中から顔を出し、笑った。
「昨日の話、嘘じゃないよ」
「はい」
「私、ちゃんと覚えてる」
「……はい」
「奏斗は奏斗」
昨日と同じ言葉。
朝の光の中で聞くと、昨夜よりも少し柔らかく感じた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
千束は満足そうに頷き、それから急に顔をしかめた。
「でも今日、リコリコどうしよう」
「何がですか?」
「昨日、拉致されたこと」
「ミカさんとミズキさんには言えません」
「先生には言った方がよくない?」
「詳細は後で報告します。ただし、今朝の時点で騒ぎにするのは避けたい」
「ミズキにバレたら?」
「間違いなく騒ぎます」
「だよね」
千束はベッドの上で起き上がる。
「あと、私が奏斗の家に泊まったこともバレたら」
「すでにミズキさんには一週間の件があります」
「昨日は別じゃん」
「さらに悪化しますね」
「絶対からかわれる」
「間違いありません」
奏斗は時計を見る。
出勤時間までは余裕がある。
「時間差で出勤しましょう」
「時間差?」
「千束が先に出る。私は少し遅れて出ます」
「何で私が先?」
「千束は普段どおりセーフハウスから来たように見せる必要があります」
「でもここから出るの、監視員には見られてるよね」
「リリベル側には隠せません。ですが、リコリコ内での余計な説明は減らせます」
「奏斗は?」
「少し遅れて、体調確認のためにゆっくり来たことにします」
「嘘下手じゃない?」
「必要最低限しか言いません」
「それ、奏斗向きだね」
千束は笑う。
結局、二人は口裏を合わせた。
昨日の夜、千束はセーフハウスへ戻った。
奏斗は自宅へ戻った。
何か聞かれた場合は、奏斗の療養経過とリリベルの警戒体制について話をぼかす。
拉致の詳細は、ミカへ別途伝える。
ミズキには言わない。
「ミズキに隠し事できるかなぁ」
千束が不安そうに言う。
「千束が余計な反応をしなければ」
「私だけ?」
「主に」
「奏斗も顔に出るよ」
「出ません」
「最近ちょっと出る」
「千束の前だけです」
言ってから、奏斗は少しだけ失言に気づいた。
千束が一瞬固まる。
「……私の前だけ?」
「朝食にしましょう」
「逃げた」
「時間がありません」
「あとで聞く」
「聞かないでください」
◇
予定どおり、千束が先に出た。
その後、奏斗が少し時間を置いて部屋を出る。
リリベルの監視員は何も言わない。
だが、視線には明らかに何かが含まれていた。
昨日の拉致。
奏斗の部屋へ戻った二人。
そして、今朝の時間差出勤。
噂になる要素しかない。
「……蒼士が余計なことを言わなければいいのですが」
無理だろう。
奏斗は半ば諦めて、リコリコへ向かった。
店へ着くと、千束はすでに元気よく開店準備をしていた。
「おはよう、奏斗!」
「おはようございます」
わざとらしいほど普通。
奏斗は少しだけ警戒した。
普通すぎる。
これは逆に不自然だ。
案の定、ミズキがカウンターから目を細める。
「何か怪しい」
「朝から何ですか?」
「二人とも、何か隠してない?」
「隠していません」
「千束」
「何?」
「顔赤い」
「赤くない!」
「ほら」
「違うから!」
「まだ何も言ってないわよ」
千束はすぐに墓穴を掘った。
奏斗は無言でカップを並べる。
口を挟むと悪化する。
「奏斗君」
「何ですか?」
「昨日の夜、千束と一緒だった?」
「リリベルの警戒体制上、一定時間行動を共にしました」
「長い説明ね」
「事実です」
「泊まった?」
「ミズキ」
ミカの低い声が厨房から届いた。
ミズキは肩をすくめる。
「はいはい、開店準備ね」
ミカは奏斗と千束を一度見た。
その視線には、心配と確認が混ざっている。
奏斗は小さく頷いた。
詳細は後で話す。
ミカもそれ以上は聞かなかった。
◇
昼前。
店内が少し落ち着いた頃、壁のカレンダーが奏斗の視界に入った。
明日には赤い丸。
リコリコ定休日。
「明日は定休日ですね」
奏斗が呟くと、千束がぱっと反応した。
「そうだよ!」
「忘れていましたか?」
「覚えてたよ」
「今、思い出した顔でした」
「そうとも言う」
千束はすぐに楽しそうな顔になる。
「明日、どこ行く?」
「どこへ?」
「遊びに」
「明日も警戒は必要です」
「だから一緒に行けばいいじゃん」
「その理屈、以前も聞きました」
「前は服買って、カフェ行って、ゲーセン行ったよね」
「その帰りに車で襲撃されました」
「でも楽しかった」
「危険でした」
「楽しかった」
「両立しないでください」
「両立するよ」
千束は指折り数え始めた。
「次は映画でもいいし、買い物でもいいし、また甘いもの食べてもいいし」
「映画はじっとしていられますか?」
「それ、私を子ども扱いしてる?」
「千束が以前、じっとしているのは苦手だと言っていたので」
「言ったかも」
「なら映画は不向きでは?」
「奏斗となら平気かも」
「なぜですか?」
「何となく」
奏斗が返事に困っていると、ミカが奥から出てきた。
「二人とも、明日のことだが」
「先生、明日休みだよね?」
「ああ。店は休みだ」
「じゃあ奏斗と――」
「二人とも本部で定期訓練日だ」
千束の顔が固まった。
奏斗も少し眉を動かす。
「本部で?」
「そうだ。千束はDA本部。奏斗はリリベル側の本部で、それぞれ定期訓練と状態確認が入っている」
「えー!」
千束の不満の声が店内に響いた。
「休みなのに?」
「店は休みだが、仕事がないとは言っていない」
「聞いてない!」
「今言った」
「先生、ひどい!」
「前から予定に入っていたはずだ」
「見てなかった!」
「それは千束の問題だ」
奏斗は端末を確認する。
確かに通知が入っていた。
療養中の情報整理に気を取られて、細かい日程を見落としていたらしい。
「私にも入っていますね」
「奏斗も忘れてた?」
「確認不足でした」
「じゃあ同罪!」
「罪ではありません」
千束は不満そうにテーブルへ突っ伏した。
「奏斗と遊ぶつもりだったのに」
「定期訓練は必要です」
「面倒くさい」
「千束も体を動かす方が好きでは?」
「訓練と遊びは違う」
「それは分かります」
「奏斗は嫌じゃないの?」
「必要な確認ですので」
「真面目」
「復帰直後です。身体能力と反応に問題がないか確認する必要があります」
「正論で返してくる」
千束は不満そうに奏斗を見る。
「奏斗は私と遊びたくないの?」
「そうは言っていません」
「じゃあ遊びたい?」
奏斗は少し言葉に詰まった。
ミズキが遠くから聞き耳を立てているのが分かる。
ミカも特に止めない。
逃げ道は少ない。
「……遊びたくないわけではありません」
「回りくどい」
「こういう場で聞くからです」
「照れてる?」
「照れていません」
「耳赤い?」
「店内の照明です」
「昼だよ」
「反射です」
「何の?」
「……訓練には行くべきです」
「逃げた」
「事実です」
千束はまだ不満そうだったが、少しだけ笑った。
「じゃあ、終わったら外食」
「訓練後ですか?」
「うん。お疲れ様会」
「リコリコは休みですが」
「だから外で食べる」
「時間が合えば」
「合わせる」
「本部が別です」
「連絡する」
「分かりました」
千束の顔が明るくなる。
「約束?」
「はい」
「訓練終わったら外食」
「約束です」
「よし!」
ミズキがカウンターの奥でにやにやしていた。
「定休日デートが、訓練後デートになったわね」
「デートではありません」
「奏斗君、毎回言ってるわよね」
「毎回必要なので」
「千束は?」
「外食!」
「否定しないのね」
「お腹空くし!」
千束は笑ってごまかした。
奏斗は何も言わなかった。
◇
翌日。
奏斗はリリベル本部の訓練施設にいた。
久しぶりの本部。
無機質な廊下。
白い壁。
管理された空気。
喫茶リコリコの温かさとは、まるで違う場所。
療養明けの状態確認として、いくつかのメニューが組まれていた。
射撃訓練。
反応速度の測定。
対人訓練。
基本運動能力の確認。
医療班による傷の状態確認。
「無理はするなよ」
訓練担当が言う。
「分かっています」
「押村の分かっていますは信用してない」
「なぜですか?」
「自覚がないのか」
最初は射撃訓練だった。
奏斗は射撃レーンへ立つ。
傷へ負担がかからない姿勢。
呼吸。
視線。
照準。
発砲。
的の中心へ弾が集まる。
反応速度も、負傷前から大きく落ちていない。
ただし、体をひねる動作ではわずかに遅れが出た。
医療担当者はそれを見逃さなかった。
「まだ完全ではないな」
「日常と軽い戦闘には支障ありません」
「本格戦闘は禁止」
「状況によります」
「禁止」
「了解しました」
「本当に了解したか?」
「状況により再判断します」
「してないな」
次は対人訓練。
相手は同世代のリリベル隊員。
木製の訓練ナイフ。
非殺傷の模擬戦。
奏斗は無理に踏み込まず、相手の動きを読んで受け流す。
体の負担を抑えながら、最小限の動きで崩す。
一人目。
二人目。
三人目。
問題なくこなしていく。
傷は痛む。
だが、耐えられないほどではない。
呼吸も乱れていない。
制御できている。
そう思ったときだった。
『随分と慎重だな』
頭の奥で声がした。
奏斗の動きが一瞬止まる。
相手の訓練ナイフが迫る。
奏斗は紙一重でかわし、手首を取って投げた。
相手がマットへ倒れる。
「押村?」
訓練担当が声をかける。
「問題ありません」
奏斗は答えながら、内側の声へ意識を向ける。
遥斗。
最近、完全に表へ出ることはなかった。
昨日、千束へ話したばかり。
その影響か。
『たまには俺にも訓練させろよ』
遥斗の声は、不機嫌そうで、どこか楽しそうだった。
『珍しいですね』
奏斗は心の中で返す。
『あなたから訓練をしたがるとは』
『鈍ってるのはお前だ』
『療養明けです』
『言い訳だな』
奏斗は次の相手へ向かう。
目の前の訓練をこなしながら、内側で遥斗と会話する。
『この前みたいに、お前だけじゃ対処できないことがある』
『拉致の件ですか』
『ああ』
『あれは不意を突かれました』
『それも含めて弱いって言ってんだよ』
遥斗の声に、苛立ちが混ざる。
『千束を守れない』
その言葉に、奏斗の胸がわずかに揺れた。
千束。
隣で拘束されていた姿。
銃を向けられた姿。
奏斗の変化に恐怖を感じながらも、名前を呼んでくれた姿。
『俺が必要になる』
『必要ありません』
『強がるなよ、兄貴』
兄貴。
その呼び方に、奏斗の集中が一瞬乱れた。
次の対戦相手が踏み込む。
奏斗は対応しようとする。
だが、傷の痛みと遥斗の声が重なった。
『守りたいんだろ?』
『はい』
『なら貸せよ』
『駄目です』
『お前が迷ってる間に、千束は死ぬ』
その言葉は、鋭く刺さった。
奏斗の脳裏に、銃口を向けられた千束が浮かぶ。
フードの男の声。
錦木千束を殺す。
自分の能力がほしい。
お前の【恐怖】は、この国を変えるのに役に立つ。
千束を守る。
そのためには、何が必要か。
奏斗は考えた。
考えてしまった。
迷った。
その一瞬。
『遅い』
遥斗が笑った。
視界が暗転した。
◇
夜。
奏斗の体は、訓練施設を出ていた。
外見はいつもの奏斗。
歩き方も、表情も、声も、ほとんど変わらない。
だが、その奥にいるのは奏斗ではなかった。
押村遥斗。
奏斗の中に生まれた、もう一つの人格。
遥斗は、奏斗の端末を見た。
千束からのメッセージが届いている。
――訓練終わった? こっちは終わったよ!
遥斗は少しだけ口元を歪める。
「錦木千束、か」
名前を口にする。
兄が守ろうとする女。
兄を揺らす女。
兄の弱点。
そして、おそらく兄にとって一番大事な存在。
遥斗は短く返信した。
――終わりました。予定どおり外食にしましょう。
文面は奏斗らしく。
丁寧で、少し固い。
すぐに返信が来る。
――やった! 駅前集合で!
遥斗は端末を閉じた。
「兄貴の真似も、面倒だな」
◇
駅前で千束と合流した。
千束はすぐに手を振る。
「奏斗!」
遥斗は奏斗の表情を作る。
「お疲れ様です」
「お疲れ! 訓練どうだった?」
「問題ありません」
「傷は?」
「痛みはありません」
「本当?」
「はい」
千束は少しだけ首を傾げた。
その目が、遥斗を観察する。
鋭い。
さすがだ、と遥斗は内心で笑った。
だが、すぐに気づかれるほどではない。
奏斗の記憶も、癖も、言葉遣いも使える。
表面だけなら、十分に真似られる。
「千束はどうでしたか?」
「私? いつもどおり」
「面倒がっていましたね」
「それはそう」
「怪我は?」
「ないよ」
「なら良かったです」
千束は少しだけ笑った。
「今日、何食べる?」
「千束が決めてください」
「奏斗、いつもそう言うよね」
「そうでしょうか」
「うん」
「では、今日は千束の希望で」
「じゃあ洋食!」
二人は駅前の洋食店へ入った。
店内はほどよく混んでいた。
千束は楽しそうにメニューを見ている。
遥斗はその様子を観察していた。
明るい。
よく笑う。
警戒心がないようでいて、実際には周囲を見ている。
食事中も、入口や窓の位置をさりげなく確認している。
兄が惹かれるのも分からなくはない。
だが、甘い。
この女は甘い。
殺さない。
人を救いたがる。
兄も、この女といるせいで甘くなっている。
「奏斗?」
「何ですか?」
「ぼーっとしてた」
「少し疲れたのかもしれません」
「大丈夫?」
「はい」
「無理してない?」
「していません」
千束はまだ少し疑っている。
遥斗は奏斗らしく、穏やかに笑った。
「今日は約束していましたから」
「……そっか」
千束の表情が少し柔らかくなる。
「嬉しいこと言うじゃん」
「事実です」
「奏斗っぽい」
遥斗は内心で舌打ちした。
奏斗っぽい。
その言葉に、わずかな違和感が混ざっていた気がした。
千束は完全には騙されていない。
だが、決定的なものは掴んでいない。
食事は何事もなく進んだ。
千束は訓練の愚痴を話した。
奏斗なら、適度に相槌を打ち、時折ツッコミを入れる。
遥斗もそれをなぞる。
「模擬戦でさ、相手がすっごい真面目で」
「訓練ですから真面目なのでは?」
「違うの。私が避けるたびに、もっと真剣にやれって顔するの」
「千束は真剣だったのですか?」
「もちろん!」
「怪しいですね」
「奏斗まで!」
千束は笑う。
その笑顔を見て、遥斗は思う。
この女を手に入れれば、兄はもっと強くなるのか。
それとも、もっと弱くなるのか。
どちらにせよ。
自分のものにしてしまえばいい。
遥斗にとって、人との関係とはそういうものだった。
従わせる。
手に入れる。
支配する。
兄が大事にしているものなら、なおさら。
◇
食事を終え、夜道を歩く。
千束をセーフハウスまで送る。
いつもと同じ流れ。
遥斗は車道側を歩く。
奏斗の記憶どおりに。
千束は少し前を歩きながら、振り返る。
「今日、奏斗ちょっと静かだね」
「訓練で疲れました」
「本当に?」
「はい」
「何かあった?」
「特には」
「ふーん」
千束は納得していない顔だった。
遥斗は笑みを抑える。
この女は勘がいい。
だが、まだ決定的ではない。
セーフハウスに着く。
千束が鍵を開ける。
「送ってくれてありがと」
「いえ」
「奏斗、今日は帰る?」
「はい」
「本当に?」
「千束が無事に入れば」
「入るよ」
千束が部屋へ入る。
本来なら、そこで扉が閉まる。
奏斗なら、鍵がかかる音を確認して帰る。
だが、遥斗は扉が閉まる前に足を進めた。
「え?」
千束が振り返る。
「奏斗?」
「少しだけ」
遥斗は部屋へ入った。
扉が閉まる。
鍵がかかる音。
室内は静かだった。
遥斗は千束を後ろから抱きしめた。
「っ!」
千束の体が強張る。
遥斗の腕は強い。
奏斗の体を使っているが、その力の使い方が違う。
ためらいがない。
遠慮がない。
千束の背中に、ぞわりとした恐怖が走った。
顔は奏斗。
声も奏斗に近い。
けれど、違う。
いつもの奏斗なら、こんな触れ方はしない。
触れる前に必ず迷う。
必要以上には近づかない。
相手が嫌がればすぐに離れる。
でも、今の腕にはそれがない。
所有物を抱くような強さ。
逃がさないという意思。
「離して」
千束が低く言う。
「嫌だね」
「離して」
「兄貴は甘い。お前を大事にしすぎる」
「あなた、遥斗?」
「正解だ」
「奏斗はどこ?」
「奥で寝てる」
「戻して」
「俺の方が、お前をうまく使える」
千束の目が鋭くなる。
「使う?」
「ああ」
遥斗は千束の耳元で囁く。
「お前は強い。兄貴を動かす餌にもなる。俺の側に置いておけば便利だ」
「ふざけんな」
千束の声に怒りが混じる。
遥斗は笑う。
「俺の女になれ、千束」
千束は一瞬、息を止めた。
遥斗はその隙を逃さなかった。
体をひねらせ、千束を正面へ向ける。
そして強引に唇を重ねた。
「んっ!」
千束の目が見開かれる。
それは優しいキスではなかった。
気持ちを確かめるためのものでもない。
相手を支配し、奪うための接触。
千束の中で、怒りが一気に弾けた。
次の瞬間。
千束は全力で遥斗を突き飛ばした。
遥斗の体が後ろへ下がる。
傷の治りきっていない脇腹へ衝撃が走り、遥斗はわずかに顔をしかめた。
千束は唇を手の甲で拭い、強い目で睨む。
「最低」
声が震えていた。
恐怖ではない。
怒りで。
「奏斗の体で、そんなことすんな」
「お前が欲しいと言っただけだ」
「私は物じゃない」
「強い奴が手に入れる。それだけだ」
「奏斗はそんなこと言わない」
「だから兄貴は弱い」
「違う!」
千束の声が部屋に響く。
「奏斗は弱くない!」
遥斗の表情が少し変わる。
千束は一歩前へ出た。
「奏斗は、怖い力を持ってても、それを好き勝手使わないようにしてる。人を傷つけないように考えてる。迷うし、悩むし、謝るし、ちゃんと止まれる」
「それが弱いんだよ」
「それが奏斗の強さでしょ!」
千束は拳を握った。
「遥斗。あなたが奏斗の弟でも、今のは絶対に許さない」
「俺を怒るのか?」
「当たり前でしょ」
「怖くないのか?」
「怖いよ」
千束は即答した。
「でも、怖いからって黙ると思うな」
遥斗は笑みを消した。
千束は奏斗の顔をした相手を睨み続ける。
「奏斗」
今度は、呼びかける相手を変えた。
「聞こえてるんでしょ」
遥斗の表情がわずかに揺れる。
「戻ってこい」
「無駄だ」
「奏斗!」
千束はさらに声を強くする。
「戻ってこい!」
遥斗の体が一瞬止まる。
右手が震える。
表情が歪む。
「黙れ……」
「奏斗!」
「黙れ!」
「私は遥斗じゃなくて、奏斗に言ってる!」
千束は真っ直ぐ近づいた。
逃げない。
怯えない。
ただ、怒っている。
そして信じている。
「奏斗、戻ってきて」
その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「私、奏斗と話したい」
遥斗の呼吸が乱れる。
目の奥で、何かが揺れる。
やがて。
力が抜けた。
膝がわずかに崩れる。
奏斗は壁へ手をついた。
「……千束」
声が戻った。
遥斗の冷たさが消え、いつもの奏斗の声になる。
千束は息を呑む。
「奏斗?」
「はい」
奏斗は自分の状況を理解するのに数秒かかった。
セーフハウス。
千束の部屋。
自分は壁に手をついている。
千束は怒った顔をしている。
唇を押さえている。
記憶は断片的だった。
遥斗の言葉。
抱きしめた感触。
強引な接触。
キス。
奏斗の顔から血の気が引いた。
「……すみません」
最初に出た言葉は、それだった。
「千束、私は」
「奏斗がやったんじゃない」
「ですが、私の体で」
「それでも奏斗じゃない」
「止められませんでした」
「うん」
「本当に、すみません」
奏斗は深く頭を下げた。
千束はしばらく黙っていた。
怒っている。
当然だ。
遥斗がしたことは、許されることではない。
奏斗自身も、許していいとは思わない。
「奏斗」
「はい」
「顔上げて」
奏斗はゆっくり顔を上げた。
その瞬間。
千束が近づいた。
「え――」
今度は、千束から奏斗の唇へキスをした。
短い。
けれど、はっきりとしたキスだった。
奏斗は完全に固まった。
千束はすぐに離れた。
顔は赤い。
でも、目は逸らさない。
「今のは、私がした」
「千束……?」
「さっきのはノーカウント」
「ノーカウント?」
「私のファーストキスを遥斗に奪われたままにするの、嫌だったから」
千束は少しだけ唇を尖らせた。
「だから、上書き」
奏斗は言葉が出なかった。
ファーストキス。
遥斗が奪った。
その事実が、奏斗の胸へ重く落ちる。
「すみません」
「だから、それは後で怒る」
「後で?」
「遥斗に。奏斗にも、ちゃんと話はする」
「はい」
「でも今は」
千束は少しだけ笑った。
「奏斗に戻ってきてほしかったから」
「……はい」
「戻ってきてくれてよかった」
奏斗は何も言えず、ただ千束を見る。
千束もかなり恥ずかしいのだろう。
顔は赤い。
手も少し震えている。
それでも、奏斗を見ている。
「千束」
「何?」
「私は、またあなたを怖がらせました」
「怖かったよ」
「はい」
「怒ってる」
「はい」
「でも、奏斗が戻ってきたのは嬉しい」
「……はい」
千束は深く息を吐いた。
「今日は、奏斗の家行く」
「ですが」
「一人にしたら駄目な気がする」
「千束も危険です」
「だから一緒にいる」
「私は」
「奏斗」
千束は強く名前を呼ぶ。
「一人で抱え込むの禁止って言ったよね」
奏斗は何も言えなくなった。
「帰ろ」
千束は言った。
「奏斗の家。蒼士さんにも連絡して、ちゃんと監視つけてもらう」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「今日は、ちゃんと寝るまで起きてて」
「なぜですか?」
「また遥斗が出てこないように見張る」
「分かりました」
「それと」
「まだありますか?」
「……さっきのキスのこと、変に謝りすぎないで」
「しかし」
「私がしたやつは、謝らなくていい」
奏斗は目を伏せる。
「分かりました」
「本当?」
「はい」
「じゃあ帰る」
千束は玄関へ向かう。
奏斗もその後に続いた。
その背中を見ながら、奏斗は胸の奥で遥斗の気配を探す。
遥斗は沈黙していた。
だが、完全に消えたわけではない。
今夜起きたことは、何かの始まりかもしれない。
それでも、今は千束の言葉に従うしかなかった。
戻ってこい。
彼女のその声だけが、奏斗を引き戻した。
そして、千束からのキスが。
遥斗に奪われたものを、奏斗とのものへ変えた。
夜のセーフハウスを出る。
千束は少し前を歩き、途中で振り返った。
「奏斗」
「はい」
「手、つなぐ?」
奏斗は驚く。
「今ですか?」
「嫌ならいい」
「嫌ではありません」
「じゃあ」
千束が手を差し出す。
奏斗は少し迷い、その手を取った。
千束の手は温かかった。
まだ少し震えていた。
奏斗はその震えを感じながら、静かに握り返す。
「奏斗」
「はい」
「もう勝手にどっか行かないでよ」
「努力します」
「分かったって言って」
「……分かりました」
「よし」
二人はそのまま夜道を歩いた。
約束した外食の後。
思いもよらない形で、二人の距離は変わってしまった。
怖さも、怒りも、謝罪も、照れも。
全部抱えたまま。
それでも千束は、奏斗の手を離さなかった。