君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十八話 戻ってこい

 朝。

 

 押村奏斗が目を覚ましたとき、最初に見えたのは、天井ではなかった。

 

 すぐ横で眠る、錦木千束の顔だった。

 

 昨夜と同じベッド。

 

 同じ部屋。

 

 外にはリリベルの監視。

 

 そして、隣には千束。

 

 昨日、奏斗は自分の過去を話した。

 

 弟の遥斗のこと。

 

 【恐怖】と呼ばれる能力のこと。

 

 自分の中に、もう一人がいること。

 

 話し終えたあと、千束は嫌いにならないと言ってくれた。

 

 奏斗はその言葉に救われた。

 

 救われた、はずだった。

 

 けれど。

 

「……」

 

 今、目の前にいる千束は、そんな重い話など存在しなかったかのように眠っていた。

 

 口が少し開いている。

 

 頬は枕に押されている。

 

 そして、口元には。

 

「……よだれ」

 

 奏斗は小さく呟いた。

 

 千束の口元から、ほんの少しだけよだれが垂れている。

 

 あまりにも平和な寝顔だった。

 

 昨夜の真剣な表情。

 

 奏斗の話を静かに聞いていた千束。

 

 嫌いにならないと、まっすぐ言った千束。

 

 そのすべてが、夢だったのではないかと思うほどに。

 

 今の千束は、ただの寝起きの悪い女の子だった。

 

「……昨日のことは、本当にあったんですよね」

 

 奏斗は自分に確認するように言う。

 

 千束は眠ったまま、もぞもぞと動いた。

 

「ん……」

 

 返事のような寝言。

 

 奏斗は少しだけ笑ってしまった。

 

 その瞬間、千束のまぶたがゆっくり開く。

 

「……おはよ」

 

「おはようございます」

 

「何笑ってんの?」

 

「いえ」

 

「今、笑ってた」

 

「気のせいです」

 

「絶対笑ってた」

 

 千束は半分眠ったまま、奏斗をじっと見る。

 

 そして、口元に違和感を覚えたのか、自分の頬に触れた。

 

 指先がよだれに触れる。

 

 数秒。

 

 千束の顔が赤くなった。

 

「見た?」

 

「何をですか?」

 

「よだれ」

 

「はい」

 

「見たんじゃん!」

 

「起きた時点で視界に入っていました」

 

「忘れて」

 

「努力します」

 

「今すぐ忘れて!」

 

「難しいですね」

 

「奏斗の変態」

 

「今回は関係ありません」

 

 千束は慌てて布団で口元を隠した。

 

「昨日、あんな真面目な話したのに」

 

「私も一瞬、昨日のことが嘘だったのかと思いました」

 

「何で?」

 

「千束があまりにも普段どおりだったので」

 

 千束は少しだけ目を細めた。

 

「普段どおりが嫌?」

 

「いいえ」

 

 奏斗はすぐに答えた。

 

「むしろ、安心しました」

 

「ならよかった」

 

 千束は布団の中から顔を出し、笑った。

 

「昨日の話、嘘じゃないよ」

 

「はい」

 

「私、ちゃんと覚えてる」

 

「……はい」

 

「奏斗は奏斗」

 

 昨日と同じ言葉。

 

 朝の光の中で聞くと、昨夜よりも少し柔らかく感じた。

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 千束は満足そうに頷き、それから急に顔をしかめた。

 

「でも今日、リコリコどうしよう」

 

「何がですか?」

 

「昨日、拉致されたこと」

 

「ミカさんとミズキさんには言えません」

 

「先生には言った方がよくない?」

 

「詳細は後で報告します。ただし、今朝の時点で騒ぎにするのは避けたい」

 

「ミズキにバレたら?」

 

「間違いなく騒ぎます」

 

「だよね」

 

 千束はベッドの上で起き上がる。

 

「あと、私が奏斗の家に泊まったこともバレたら」

 

「すでにミズキさんには一週間の件があります」

 

「昨日は別じゃん」

 

「さらに悪化しますね」

 

「絶対からかわれる」

 

「間違いありません」

 

 奏斗は時計を見る。

 

 出勤時間までは余裕がある。

 

「時間差で出勤しましょう」

 

「時間差?」

 

「千束が先に出る。私は少し遅れて出ます」

 

「何で私が先?」

 

「千束は普段どおりセーフハウスから来たように見せる必要があります」

 

「でもここから出るの、監視員には見られてるよね」

 

「リリベル側には隠せません。ですが、リコリコ内での余計な説明は減らせます」

 

「奏斗は?」

 

「少し遅れて、体調確認のためにゆっくり来たことにします」

 

「嘘下手じゃない?」

 

「必要最低限しか言いません」

 

「それ、奏斗向きだね」

 

 千束は笑う。

 

 結局、二人は口裏を合わせた。

 

 昨日の夜、千束はセーフハウスへ戻った。

 

 奏斗は自宅へ戻った。

 

 何か聞かれた場合は、奏斗の療養経過とリリベルの警戒体制について話をぼかす。

 

 拉致の詳細は、ミカへ別途伝える。

 

 ミズキには言わない。

 

「ミズキに隠し事できるかなぁ」

 

 千束が不安そうに言う。

 

「千束が余計な反応をしなければ」

 

「私だけ?」

 

「主に」

 

「奏斗も顔に出るよ」

 

「出ません」

 

「最近ちょっと出る」

 

「千束の前だけです」

 

 言ってから、奏斗は少しだけ失言に気づいた。

 

 千束が一瞬固まる。

 

「……私の前だけ?」

 

「朝食にしましょう」

 

「逃げた」

 

「時間がありません」

 

「あとで聞く」

 

「聞かないでください」

 

     ◇

 

 予定どおり、千束が先に出た。

 

 その後、奏斗が少し時間を置いて部屋を出る。

 

 リリベルの監視員は何も言わない。

 

 だが、視線には明らかに何かが含まれていた。

 

 昨日の拉致。

 

 奏斗の部屋へ戻った二人。

 

 そして、今朝の時間差出勤。

 

 噂になる要素しかない。

 

「……蒼士が余計なことを言わなければいいのですが」

 

 無理だろう。

 

 奏斗は半ば諦めて、リコリコへ向かった。

 

 店へ着くと、千束はすでに元気よく開店準備をしていた。

 

「おはよう、奏斗!」

 

「おはようございます」

 

 わざとらしいほど普通。

 

 奏斗は少しだけ警戒した。

 

 普通すぎる。

 

 これは逆に不自然だ。

 

 案の定、ミズキがカウンターから目を細める。

 

「何か怪しい」

 

「朝から何ですか?」

 

「二人とも、何か隠してない?」

 

「隠していません」

 

「千束」

 

「何?」

 

「顔赤い」

 

「赤くない!」

 

「ほら」

 

「違うから!」

 

「まだ何も言ってないわよ」

 

 千束はすぐに墓穴を掘った。

 

 奏斗は無言でカップを並べる。

 

 口を挟むと悪化する。

 

「奏斗君」

 

「何ですか?」

 

「昨日の夜、千束と一緒だった?」

 

「リリベルの警戒体制上、一定時間行動を共にしました」

 

「長い説明ね」

 

「事実です」

 

「泊まった?」

 

「ミズキ」

 

 ミカの低い声が厨房から届いた。

 

 ミズキは肩をすくめる。

 

「はいはい、開店準備ね」

 

 ミカは奏斗と千束を一度見た。

 

 その視線には、心配と確認が混ざっている。

 

 奏斗は小さく頷いた。

 

 詳細は後で話す。

 

 ミカもそれ以上は聞かなかった。

 

     ◇

 

 昼前。

 

 店内が少し落ち着いた頃、壁のカレンダーが奏斗の視界に入った。

 

 明日には赤い丸。

 

 リコリコ定休日。

 

「明日は定休日ですね」

 

 奏斗が呟くと、千束がぱっと反応した。

 

「そうだよ!」

 

「忘れていましたか?」

 

「覚えてたよ」

 

「今、思い出した顔でした」

 

「そうとも言う」

 

 千束はすぐに楽しそうな顔になる。

 

「明日、どこ行く?」

 

「どこへ?」

 

「遊びに」

 

「明日も警戒は必要です」

 

「だから一緒に行けばいいじゃん」

 

「その理屈、以前も聞きました」

 

「前は服買って、カフェ行って、ゲーセン行ったよね」

 

「その帰りに車で襲撃されました」

 

「でも楽しかった」

 

「危険でした」

 

「楽しかった」

 

「両立しないでください」

 

「両立するよ」

 

 千束は指折り数え始めた。

 

「次は映画でもいいし、買い物でもいいし、また甘いもの食べてもいいし」

 

「映画はじっとしていられますか?」

 

「それ、私を子ども扱いしてる?」

 

「千束が以前、じっとしているのは苦手だと言っていたので」

 

「言ったかも」

 

「なら映画は不向きでは?」

 

「奏斗となら平気かも」

 

「なぜですか?」

 

「何となく」

 

 奏斗が返事に困っていると、ミカが奥から出てきた。

 

「二人とも、明日のことだが」

 

「先生、明日休みだよね?」

 

「ああ。店は休みだ」

 

「じゃあ奏斗と――」

 

「二人とも本部で定期訓練日だ」

 

 千束の顔が固まった。

 

 奏斗も少し眉を動かす。

 

「本部で?」

 

「そうだ。千束はDA本部。奏斗はリリベル側の本部で、それぞれ定期訓練と状態確認が入っている」

 

「えー!」

 

 千束の不満の声が店内に響いた。

 

「休みなのに?」

 

「店は休みだが、仕事がないとは言っていない」

 

「聞いてない!」

 

「今言った」

 

「先生、ひどい!」

 

「前から予定に入っていたはずだ」

 

「見てなかった!」

 

「それは千束の問題だ」

 

 奏斗は端末を確認する。

 

 確かに通知が入っていた。

 

 療養中の情報整理に気を取られて、細かい日程を見落としていたらしい。

 

「私にも入っていますね」

 

「奏斗も忘れてた?」

 

「確認不足でした」

 

「じゃあ同罪!」

 

「罪ではありません」

 

 千束は不満そうにテーブルへ突っ伏した。

 

「奏斗と遊ぶつもりだったのに」

 

「定期訓練は必要です」

 

「面倒くさい」

 

「千束も体を動かす方が好きでは?」

 

「訓練と遊びは違う」

 

「それは分かります」

 

「奏斗は嫌じゃないの?」

 

「必要な確認ですので」

 

「真面目」

 

「復帰直後です。身体能力と反応に問題がないか確認する必要があります」

 

「正論で返してくる」

 

 千束は不満そうに奏斗を見る。

 

「奏斗は私と遊びたくないの?」

 

「そうは言っていません」

 

「じゃあ遊びたい?」

 

 奏斗は少し言葉に詰まった。

 

 ミズキが遠くから聞き耳を立てているのが分かる。

 

 ミカも特に止めない。

 

 逃げ道は少ない。

 

「……遊びたくないわけではありません」

 

「回りくどい」

 

「こういう場で聞くからです」

 

「照れてる?」

 

「照れていません」

 

「耳赤い?」

 

「店内の照明です」

 

「昼だよ」

 

「反射です」

 

「何の?」

 

「……訓練には行くべきです」

 

「逃げた」

 

「事実です」

 

 千束はまだ不満そうだったが、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、終わったら外食」

 

「訓練後ですか?」

 

「うん。お疲れ様会」

 

「リコリコは休みですが」

 

「だから外で食べる」

 

「時間が合えば」

 

「合わせる」

 

「本部が別です」

 

「連絡する」

 

「分かりました」

 

 千束の顔が明るくなる。

 

「約束?」

 

「はい」

 

「訓練終わったら外食」

 

「約束です」

 

「よし!」

 

 ミズキがカウンターの奥でにやにやしていた。

 

「定休日デートが、訓練後デートになったわね」

 

「デートではありません」

 

「奏斗君、毎回言ってるわよね」

 

「毎回必要なので」

 

「千束は?」

 

「外食!」

 

「否定しないのね」

 

「お腹空くし!」

 

 千束は笑ってごまかした。

 

 奏斗は何も言わなかった。

 

     ◇

 

 翌日。

 

 奏斗はリリベル本部の訓練施設にいた。

 

 久しぶりの本部。

 

 無機質な廊下。

 

 白い壁。

 

 管理された空気。

 

 喫茶リコリコの温かさとは、まるで違う場所。

 

 療養明けの状態確認として、いくつかのメニューが組まれていた。

 

 射撃訓練。

 

 反応速度の測定。

 

 対人訓練。

 

 基本運動能力の確認。

 

 医療班による傷の状態確認。

 

「無理はするなよ」

 

 訓練担当が言う。

 

「分かっています」

 

「押村の分かっていますは信用してない」

 

「なぜですか?」

 

「自覚がないのか」

 

 最初は射撃訓練だった。

 

 奏斗は射撃レーンへ立つ。

 

 傷へ負担がかからない姿勢。

 

 呼吸。

 

 視線。

 

 照準。

 

 発砲。

 

 的の中心へ弾が集まる。

 

 反応速度も、負傷前から大きく落ちていない。

 

 ただし、体をひねる動作ではわずかに遅れが出た。

 

 医療担当者はそれを見逃さなかった。

 

「まだ完全ではないな」

 

「日常と軽い戦闘には支障ありません」

 

「本格戦闘は禁止」

 

「状況によります」

 

「禁止」

 

「了解しました」

 

「本当に了解したか?」

 

「状況により再判断します」

 

「してないな」

 

 次は対人訓練。

 

 相手は同世代のリリベル隊員。

 

 木製の訓練ナイフ。

 

 非殺傷の模擬戦。

 

 奏斗は無理に踏み込まず、相手の動きを読んで受け流す。

 

 体の負担を抑えながら、最小限の動きで崩す。

 

 一人目。

 

 二人目。

 

 三人目。

 

 問題なくこなしていく。

 

 傷は痛む。

 

 だが、耐えられないほどではない。

 

 呼吸も乱れていない。

 

 制御できている。

 

 そう思ったときだった。

 

『随分と慎重だな』

 

 頭の奥で声がした。

 

 奏斗の動きが一瞬止まる。

 

 相手の訓練ナイフが迫る。

 

 奏斗は紙一重でかわし、手首を取って投げた。

 

 相手がマットへ倒れる。

 

「押村?」

 

 訓練担当が声をかける。

 

「問題ありません」

 

 奏斗は答えながら、内側の声へ意識を向ける。

 

 遥斗。

 

 最近、完全に表へ出ることはなかった。

 

 昨日、千束へ話したばかり。

 

 その影響か。

 

『たまには俺にも訓練させろよ』

 

 遥斗の声は、不機嫌そうで、どこか楽しそうだった。

 

『珍しいですね』

 

 奏斗は心の中で返す。

 

『あなたから訓練をしたがるとは』

 

『鈍ってるのはお前だ』

 

『療養明けです』

 

『言い訳だな』

 

 奏斗は次の相手へ向かう。

 

 目の前の訓練をこなしながら、内側で遥斗と会話する。

 

『この前みたいに、お前だけじゃ対処できないことがある』

 

『拉致の件ですか』

 

『ああ』

 

『あれは不意を突かれました』

 

『それも含めて弱いって言ってんだよ』

 

 遥斗の声に、苛立ちが混ざる。

 

『千束を守れない』

 

 その言葉に、奏斗の胸がわずかに揺れた。

 

 千束。

 

 隣で拘束されていた姿。

 

 銃を向けられた姿。

 

 奏斗の変化に恐怖を感じながらも、名前を呼んでくれた姿。

 

『俺が必要になる』

 

『必要ありません』

 

『強がるなよ、兄貴』

 

 兄貴。

 

 その呼び方に、奏斗の集中が一瞬乱れた。

 

 次の対戦相手が踏み込む。

 

 奏斗は対応しようとする。

 

 だが、傷の痛みと遥斗の声が重なった。

 

『守りたいんだろ?』

 

『はい』

 

『なら貸せよ』

 

『駄目です』

 

『お前が迷ってる間に、千束は死ぬ』

 

 その言葉は、鋭く刺さった。

 

 奏斗の脳裏に、銃口を向けられた千束が浮かぶ。

 

 フードの男の声。

 

 錦木千束を殺す。

 

 自分の能力がほしい。

 

 お前の【恐怖】は、この国を変えるのに役に立つ。

 

 千束を守る。

 

 そのためには、何が必要か。

 

 奏斗は考えた。

 

 考えてしまった。

 

 迷った。

 

 その一瞬。

 

『遅い』

 

 遥斗が笑った。

 

 視界が暗転した。

 

     ◇

 

 夜。

 

 奏斗の体は、訓練施設を出ていた。

 

 外見はいつもの奏斗。

 

 歩き方も、表情も、声も、ほとんど変わらない。

 

 だが、その奥にいるのは奏斗ではなかった。

 

 押村遥斗。

 

 奏斗の中に生まれた、もう一つの人格。

 

 遥斗は、奏斗の端末を見た。

 

 千束からのメッセージが届いている。

 

 ――訓練終わった? こっちは終わったよ!

 

 遥斗は少しだけ口元を歪める。

 

「錦木千束、か」

 

 名前を口にする。

 

 兄が守ろうとする女。

 

 兄を揺らす女。

 

 兄の弱点。

 

 そして、おそらく兄にとって一番大事な存在。

 

 遥斗は短く返信した。

 

 ――終わりました。予定どおり外食にしましょう。

 

 文面は奏斗らしく。

 

 丁寧で、少し固い。

 

 すぐに返信が来る。

 

 ――やった! 駅前集合で!

 

 遥斗は端末を閉じた。

 

「兄貴の真似も、面倒だな」

 

     ◇

 

 駅前で千束と合流した。

 

 千束はすぐに手を振る。

 

「奏斗!」

 

 遥斗は奏斗の表情を作る。

 

「お疲れ様です」

 

「お疲れ! 訓練どうだった?」

 

「問題ありません」

 

「傷は?」

 

「痛みはありません」

 

「本当?」

 

「はい」

 

 千束は少しだけ首を傾げた。

 

 その目が、遥斗を観察する。

 

 鋭い。

 

 さすがだ、と遥斗は内心で笑った。

 

 だが、すぐに気づかれるほどではない。

 

 奏斗の記憶も、癖も、言葉遣いも使える。

 

 表面だけなら、十分に真似られる。

 

「千束はどうでしたか?」

 

「私? いつもどおり」

 

「面倒がっていましたね」

 

「それはそう」

 

「怪我は?」

 

「ないよ」

 

「なら良かったです」

 

 千束は少しだけ笑った。

 

「今日、何食べる?」

 

「千束が決めてください」

 

「奏斗、いつもそう言うよね」

 

「そうでしょうか」

 

「うん」

 

「では、今日は千束の希望で」

 

「じゃあ洋食!」

 

 二人は駅前の洋食店へ入った。

 

 店内はほどよく混んでいた。

 

 千束は楽しそうにメニューを見ている。

 

 遥斗はその様子を観察していた。

 

 明るい。

 

 よく笑う。

 

 警戒心がないようでいて、実際には周囲を見ている。

 

 食事中も、入口や窓の位置をさりげなく確認している。

 

 兄が惹かれるのも分からなくはない。

 

 だが、甘い。

 

 この女は甘い。

 

 殺さない。

 

 人を救いたがる。

 

 兄も、この女といるせいで甘くなっている。

 

「奏斗?」

 

「何ですか?」

 

「ぼーっとしてた」

 

「少し疲れたのかもしれません」

 

「大丈夫?」

 

「はい」

 

「無理してない?」

 

「していません」

 

 千束はまだ少し疑っている。

 

 遥斗は奏斗らしく、穏やかに笑った。

 

「今日は約束していましたから」

 

「……そっか」

 

 千束の表情が少し柔らかくなる。

 

「嬉しいこと言うじゃん」

 

「事実です」

 

「奏斗っぽい」

 

 遥斗は内心で舌打ちした。

 

 奏斗っぽい。

 

 その言葉に、わずかな違和感が混ざっていた気がした。

 

 千束は完全には騙されていない。

 

 だが、決定的なものは掴んでいない。

 

 食事は何事もなく進んだ。

 

 千束は訓練の愚痴を話した。

 

 奏斗なら、適度に相槌を打ち、時折ツッコミを入れる。

 

 遥斗もそれをなぞる。

 

「模擬戦でさ、相手がすっごい真面目で」

 

「訓練ですから真面目なのでは?」

 

「違うの。私が避けるたびに、もっと真剣にやれって顔するの」

 

「千束は真剣だったのですか?」

 

「もちろん!」

 

「怪しいですね」

 

「奏斗まで!」

 

 千束は笑う。

 

 その笑顔を見て、遥斗は思う。

 

 この女を手に入れれば、兄はもっと強くなるのか。

 

 それとも、もっと弱くなるのか。

 

 どちらにせよ。

 

 自分のものにしてしまえばいい。

 

 遥斗にとって、人との関係とはそういうものだった。

 

 従わせる。

 

 手に入れる。

 

 支配する。

 

 兄が大事にしているものなら、なおさら。

 

     ◇

 

 食事を終え、夜道を歩く。

 

 千束をセーフハウスまで送る。

 

 いつもと同じ流れ。

 

 遥斗は車道側を歩く。

 

 奏斗の記憶どおりに。

 

 千束は少し前を歩きながら、振り返る。

 

「今日、奏斗ちょっと静かだね」

 

「訓練で疲れました」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「何かあった?」

 

「特には」

 

「ふーん」

 

 千束は納得していない顔だった。

 

 遥斗は笑みを抑える。

 

 この女は勘がいい。

 

 だが、まだ決定的ではない。

 

 セーフハウスに着く。

 

 千束が鍵を開ける。

 

「送ってくれてありがと」

 

「いえ」

 

「奏斗、今日は帰る?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「千束が無事に入れば」

 

「入るよ」

 

 千束が部屋へ入る。

 

 本来なら、そこで扉が閉まる。

 

 奏斗なら、鍵がかかる音を確認して帰る。

 

 だが、遥斗は扉が閉まる前に足を進めた。

 

「え?」

 

 千束が振り返る。

 

「奏斗?」

 

「少しだけ」

 

 遥斗は部屋へ入った。

 

 扉が閉まる。

 

 鍵がかかる音。

 

 室内は静かだった。

 

 遥斗は千束を後ろから抱きしめた。

 

「っ!」

 

 千束の体が強張る。

 

 遥斗の腕は強い。

 

 奏斗の体を使っているが、その力の使い方が違う。

 

 ためらいがない。

 

 遠慮がない。

 

 千束の背中に、ぞわりとした恐怖が走った。

 

 顔は奏斗。

 

 声も奏斗に近い。

 

 けれど、違う。

 

 いつもの奏斗なら、こんな触れ方はしない。

 

 触れる前に必ず迷う。

 

 必要以上には近づかない。

 

 相手が嫌がればすぐに離れる。

 

 でも、今の腕にはそれがない。

 

 所有物を抱くような強さ。

 

 逃がさないという意思。

 

「離して」

 

 千束が低く言う。

 

「嫌だね」

 

「離して」

 

「兄貴は甘い。お前を大事にしすぎる」

 

「あなた、遥斗?」

 

「正解だ」

 

「奏斗はどこ?」

 

「奥で寝てる」

 

「戻して」

 

「俺の方が、お前をうまく使える」

 

 千束の目が鋭くなる。

 

「使う?」

 

「ああ」

 

 遥斗は千束の耳元で囁く。

 

「お前は強い。兄貴を動かす餌にもなる。俺の側に置いておけば便利だ」

 

「ふざけんな」

 

 千束の声に怒りが混じる。

 

 遥斗は笑う。

 

「俺の女になれ、千束」

 

 千束は一瞬、息を止めた。

 

 遥斗はその隙を逃さなかった。

 

 体をひねらせ、千束を正面へ向ける。

 

 そして強引に唇を重ねた。

 

「んっ!」

 

 千束の目が見開かれる。

 

 それは優しいキスではなかった。

 

 気持ちを確かめるためのものでもない。

 

 相手を支配し、奪うための接触。

 

 千束の中で、怒りが一気に弾けた。

 

 次の瞬間。

 

 千束は全力で遥斗を突き飛ばした。

 

 遥斗の体が後ろへ下がる。

 

 傷の治りきっていない脇腹へ衝撃が走り、遥斗はわずかに顔をしかめた。

 

 千束は唇を手の甲で拭い、強い目で睨む。

 

「最低」

 

 声が震えていた。

 

 恐怖ではない。

 

 怒りで。

 

「奏斗の体で、そんなことすんな」

 

「お前が欲しいと言っただけだ」

 

「私は物じゃない」

 

「強い奴が手に入れる。それだけだ」

 

「奏斗はそんなこと言わない」

 

「だから兄貴は弱い」

 

「違う!」

 

 千束の声が部屋に響く。

 

「奏斗は弱くない!」

 

 遥斗の表情が少し変わる。

 

 千束は一歩前へ出た。

 

「奏斗は、怖い力を持ってても、それを好き勝手使わないようにしてる。人を傷つけないように考えてる。迷うし、悩むし、謝るし、ちゃんと止まれる」

 

「それが弱いんだよ」

 

「それが奏斗の強さでしょ!」

 

 千束は拳を握った。

 

「遥斗。あなたが奏斗の弟でも、今のは絶対に許さない」

 

「俺を怒るのか?」

 

「当たり前でしょ」

 

「怖くないのか?」

 

「怖いよ」

 

 千束は即答した。

 

「でも、怖いからって黙ると思うな」

 

 遥斗は笑みを消した。

 

 千束は奏斗の顔をした相手を睨み続ける。

 

「奏斗」

 

 今度は、呼びかける相手を変えた。

 

「聞こえてるんでしょ」

 

 遥斗の表情がわずかに揺れる。

 

「戻ってこい」

 

「無駄だ」

 

「奏斗!」

 

 千束はさらに声を強くする。

 

「戻ってこい!」

 

 遥斗の体が一瞬止まる。

 

 右手が震える。

 

 表情が歪む。

 

「黙れ……」

 

「奏斗!」

 

「黙れ!」

 

「私は遥斗じゃなくて、奏斗に言ってる!」

 

 千束は真っ直ぐ近づいた。

 

 逃げない。

 

 怯えない。

 

 ただ、怒っている。

 

 そして信じている。

 

「奏斗、戻ってきて」

 

 その声は、さっきより少しだけ柔らかかった。

 

「私、奏斗と話したい」

 

 遥斗の呼吸が乱れる。

 

 目の奥で、何かが揺れる。

 

 やがて。

 

 力が抜けた。

 

 膝がわずかに崩れる。

 

 奏斗は壁へ手をついた。

 

「……千束」

 

 声が戻った。

 

 遥斗の冷たさが消え、いつもの奏斗の声になる。

 

 千束は息を呑む。

 

「奏斗?」

 

「はい」

 

 奏斗は自分の状況を理解するのに数秒かかった。

 

 セーフハウス。

 

 千束の部屋。

 

 自分は壁に手をついている。

 

 千束は怒った顔をしている。

 

 唇を押さえている。

 

 記憶は断片的だった。

 

 遥斗の言葉。

 

 抱きしめた感触。

 

 強引な接触。

 

 キス。

 

 奏斗の顔から血の気が引いた。

 

「……すみません」

 

 最初に出た言葉は、それだった。

 

「千束、私は」

 

「奏斗がやったんじゃない」

 

「ですが、私の体で」

 

「それでも奏斗じゃない」

 

「止められませんでした」

 

「うん」

 

「本当に、すみません」

 

 奏斗は深く頭を下げた。

 

 千束はしばらく黙っていた。

 

 怒っている。

 

 当然だ。

 

 遥斗がしたことは、許されることではない。

 

 奏斗自身も、許していいとは思わない。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「顔上げて」

 

 奏斗はゆっくり顔を上げた。

 

 その瞬間。

 

 千束が近づいた。

 

「え――」

 

 今度は、千束から奏斗の唇へキスをした。

 

 短い。

 

 けれど、はっきりとしたキスだった。

 

 奏斗は完全に固まった。

 

 千束はすぐに離れた。

 

 顔は赤い。

 

 でも、目は逸らさない。

 

「今のは、私がした」

 

「千束……?」

 

「さっきのはノーカウント」

 

「ノーカウント?」

 

「私のファーストキスを遥斗に奪われたままにするの、嫌だったから」

 

 千束は少しだけ唇を尖らせた。

 

「だから、上書き」

 

 奏斗は言葉が出なかった。

 

 ファーストキス。

 

 遥斗が奪った。

 

 その事実が、奏斗の胸へ重く落ちる。

 

「すみません」

 

「だから、それは後で怒る」

 

「後で?」

 

「遥斗に。奏斗にも、ちゃんと話はする」

 

「はい」

 

「でも今は」

 

 千束は少しだけ笑った。

 

「奏斗に戻ってきてほしかったから」

 

「……はい」

 

「戻ってきてくれてよかった」

 

 奏斗は何も言えず、ただ千束を見る。

 

 千束もかなり恥ずかしいのだろう。

 

 顔は赤い。

 

 手も少し震えている。

 

 それでも、奏斗を見ている。

 

「千束」

 

「何?」

 

「私は、またあなたを怖がらせました」

 

「怖かったよ」

 

「はい」

 

「怒ってる」

 

「はい」

 

「でも、奏斗が戻ってきたのは嬉しい」

 

「……はい」

 

 千束は深く息を吐いた。

 

「今日は、奏斗の家行く」

 

「ですが」

 

「一人にしたら駄目な気がする」

 

「千束も危険です」

 

「だから一緒にいる」

 

「私は」

 

「奏斗」

 

 千束は強く名前を呼ぶ。

 

「一人で抱え込むの禁止って言ったよね」

 

 奏斗は何も言えなくなった。

 

「帰ろ」

 

 千束は言った。

 

「奏斗の家。蒼士さんにも連絡して、ちゃんと監視つけてもらう」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「はい」

 

「今日は、ちゃんと寝るまで起きてて」

 

「なぜですか?」

 

「また遥斗が出てこないように見張る」

 

「分かりました」

 

「それと」

 

「まだありますか?」

 

「……さっきのキスのこと、変に謝りすぎないで」

 

「しかし」

 

「私がしたやつは、謝らなくていい」

 

 奏斗は目を伏せる。

 

「分かりました」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「じゃあ帰る」

 

 千束は玄関へ向かう。

 

 奏斗もその後に続いた。

 

 その背中を見ながら、奏斗は胸の奥で遥斗の気配を探す。

 

 遥斗は沈黙していた。

 

 だが、完全に消えたわけではない。

 

 今夜起きたことは、何かの始まりかもしれない。

 

 それでも、今は千束の言葉に従うしかなかった。

 

 戻ってこい。

 

 彼女のその声だけが、奏斗を引き戻した。

 

 そして、千束からのキスが。

 

 遥斗に奪われたものを、奏斗とのものへ変えた。

 

 夜のセーフハウスを出る。

 

 千束は少し前を歩き、途中で振り返った。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「手、つなぐ?」

 

 奏斗は驚く。

 

「今ですか?」

 

「嫌ならいい」

 

「嫌ではありません」

 

「じゃあ」

 

 千束が手を差し出す。

 

 奏斗は少し迷い、その手を取った。

 

 千束の手は温かかった。

 

 まだ少し震えていた。

 

 奏斗はその震えを感じながら、静かに握り返す。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「もう勝手にどっか行かないでよ」

 

「努力します」

 

「分かったって言って」

 

「……分かりました」

 

「よし」

 

 二人はそのまま夜道を歩いた。

 

 約束した外食の後。

 

 思いもよらない形で、二人の距離は変わってしまった。

 

 怖さも、怒りも、謝罪も、照れも。

 

 全部抱えたまま。

 

 それでも千束は、奏斗の手を離さなかった。

 

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