君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第十九話 俺の女になってください

 奏斗のマンションへ着くまで、二人はほとんど話さなかった。

 

 夜の道を並んで歩く。

 

 手はつないだまま。

 

 千束の手は、いつもより少しだけ強く奏斗の手を握っていた。

 

 奏斗も離さなかった。

 

 何を話せばいいのか、分からなかった。

 

 謝るべきことはある。

 

 説明すべきこともある。

 

 それでも、言葉にすれば何かが壊れてしまうような気がした。

 

 遥斗がしたこと。

 

 千束を後ろから抱きしめたこと。

 

 強引にキスをしたこと。

 

 俺の女になれ、と言ったこと。

 

 それは奏斗ではない。

 

 そう千束は言ってくれた。

 

 だが、使われたのは奏斗の体だ。

 

 声も、顔も、手も。

 

 千束が恐怖を感じた相手は、奏斗の姿をしていた。

 

 その事実が、重かった。

 

 マンションの入口には、リリベルの監視が配置されていた。

 

 蒼士へ連絡は済ませてある。

 

 奏斗と千束が一緒に戻ることも伝えてある。

 

 今夜は周囲の警戒を厚くする。

 

 蒼士は短くそう返した。

 

 そして最後に、余計な一文を添えた。

 

 ――今夜は変なことすんなよ。

 

 奏斗はその文面を千束へ見せなかった。

 

 見せれば、間違いなく余計な話になる。

 

 部屋へ入る。

 

 玄関の扉を閉め、鍵をかける。

 

 奏斗はいつものように窓と室内を確認しようとした。

 

 だが、千束が手を離さない。

 

「千束」

 

「何?」

 

「室内を確認します」

 

「私が見る」

 

「二人で確認した方が」

 

「奏斗は座って」

 

 声は穏やかだった。

 

 しかし、有無を言わせない強さがあった。

 

「まだ顔、ちょっと白い」

 

「体調に問題はありません」

 

「あるかどうかは私が見る」

 

「判断基準が不明です」

 

「奏斗が無理しそうかどうか」

 

「それは」

 

「座って」

 

 奏斗は少し迷ったあと、靴を脱ぎ、部屋の奥へ進んだ。

 

 椅子へ座る。

 

 千束は素早く部屋を確認した。

 

 玄関。

 

 窓。

 

 浴室。

 

 収納。

 

 ベッドの下。

 

 以前の泊まり込みで、この部屋の構造は覚えている。

 

 数分もしないうちに、千束は戻ってきた。

 

「異常なし」

 

「ありがとうございます」

 

「うん」

 

 千束は奏斗の向かいには座らなかった。

 

 テーブルの横に立ったまま、奏斗を見ている。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「聞いていい?」

 

 声が少しだけ静かになる。

 

「遥斗に体を奪われた経緯」

 

 奏斗は目を伏せた。

 

 予想していた質問だった。

 

 避けられない。

 

 避けてはいけない。

 

「訓練中でした」

 

「本部の?」

 

「はい」

 

「射撃とか、対人訓練?」

 

「そのあたりです」

 

 奏斗はゆっくり話し始めた。

 

 朝からリリベル本部で定期訓練を受けたこと。

 

 射撃訓練では大きな問題がなかったこと。

 

 対人訓練中に、遥斗が話しかけてきたこと。

 

 たまには俺にも訓練させろ、と言ったこと。

 

 この前のように奏斗だけでは対処できない。

 

 千束を守れない。

 

 俺が必要になる。

 

 遥斗はそう言った。

 

 そして、奏斗は迷った。

 

 ほんの一瞬。

 

 本当に遥斗の力が必要になるのではないか、と。

 

 千束を守るために。

 

 自分だけでは足りないのではないか、と。

 

「その瞬間、意識の主導権を奪われました」

 

 奏斗は静かに言った。

 

「抵抗できませんでした」

 

 千束は黙って聞いていた。

 

 途中で責めることも、慰めることもなかった。

 

 ただ、奏斗の言葉を待っていた。

 

「外食の時も、私ではありません」

 

「……うん」

 

「途中から違和感はありましたか?」

 

「少し」

 

「いつからですか?」

 

「駅前で会ったときから」

 

 奏斗は千束を見る。

 

「気づいていたのですか?」

 

「気づいたってほどじゃないよ」

 

 千束は少し眉を寄せる。

 

「でも、何か違った。奏斗っぽいけど、奏斗じゃない感じ」

 

「その時点で確認すべきでしたね」

 

「確信なかったもん」

 

「すみません」

 

「それはいい」

 

 千束は首を振った。

 

「外食中も、ずっと奏斗みたいに話してた。でも、何か違う。いつもの奏斗なら、私がからかったとき、もっと困った顔する」

 

「そこですか」

 

「大事だよ」

 

「判断基準としては独特ですね」

 

「奏斗を見る基準だから」

 

 千束は少しだけ笑った。

 

 でも、その笑みはすぐに消える。

 

「セーフハウスに入ってきたとき、はっきり分かった」

 

「……はい」

 

「あれは奏斗じゃなかった」

 

 奏斗は何も言えなかった。

 

 千束はゆっくり近づいてくる。

 

「遥斗に、俺の女になれって言われた」

 

 その言葉に、奏斗の肩が強張る。

 

「嫌だった」

 

「当然です」

 

「怖かった」

 

「はい」

 

「怒った」

 

「はい」

 

「でも、一番嫌だったのは」

 

 千束は奏斗の前で立ち止まった。

 

「奏斗の顔で、奏斗じゃないことをされたこと」

 

 奏斗は目を伏せた。

 

「すみません」

 

「奏斗が謝ることじゃないって、分かってる」

 

「ですが」

 

「でも、言わせて」

 

「はい」

 

「嫌だった」

 

 千束の声は震えていない。

 

 真っ直ぐだった。

 

「私、誰かのものになるとか、使われるとか、そういうの嫌。遥斗に言われたのも、嫌だった」

 

「はい」

 

「でも」

 

 千束は一度息を吸った。

 

 それから、奏斗を見た。

 

「奏斗のなら、いい」

 

 奏斗の思考が止まった。

 

「……千束」

 

「私、奏斗が好き」

 

 静かな部屋で、その言葉だけがはっきり響いた。

 

「護衛とか、友達とか、店員仲間とか。そういうのも全部本当だけど」

 

 千束の頬が少し赤くなる。

 

 それでも目を逸らさない。

 

「それだけじゃない」

 

 奏斗は何かを言おうとした。

 

 だが、言葉が出なかった。

 

「遥斗に奪われるのは嫌だった」

 

 千束は続ける。

 

「でも、奏斗になら、自分で選びたいって思った」

 

「……私でいいのですか?」

 

 ようやく出た言葉は、それだった。

 

 弱い言葉だと、自分でも思った。

 

 千束ほど強く、真っ直ぐ言えない。

 

 自分には遥斗がいる。

 

 【恐怖】がある。

 

 また今日のようなことが起きるかもしれない。

 

 千束を怖がらせた。

 

 傷つけた。

 

 そんな自分でいいのか。

 

 その考えが浮かぶ。

 

 そして、奏斗は小さく笑いそうになった。

 

「それが弱いんでしょうね」

 

「何が?」

 

「自分でいいのか、と考えてしまうことです」

 

 奏斗は千束を見る。

 

「遥斗なら、きっと迷わない」

 

「そうだね」

 

「だから、弱いと言われる」

 

「奏斗はそれでいいよ」

 

 千束は即答した。

 

「迷っても、考えても、ちゃんと相手を見てくれる奏斗がいい」

 

「……千束」

 

「遥斗みたいに、俺の女になれって命令されたら嫌だけど」

 

 千束は少しだけ口元を緩める。

 

「奏斗に言われるなら、ちょっと聞いてみたいかも」

 

 奏斗は一瞬、目を瞬いた。

 

 千束が恥ずかしそうに視線をそらす。

 

「今の、忘れて」

 

「聞きました」

 

「忘れて」

 

「無理です」

 

「奏斗の記憶力、こういうときだけ良すぎ」

 

「いつも良い方です」

 

「じゃあ、言って」

 

 千束が少しだけ顔を上げる。

 

「ちゃんと、奏斗の言葉で」

 

 奏斗はゆっくり立ち上がった。

 

 千束と向き合う。

 

 距離は近い。

 

 それでも、今度は怖くなかった。

 

 遥斗のように奪うためではない。

 

 従わせるためでもない。

 

 千束へ、自分の意思を伝えるために。

 

「千束」

 

「うん」

 

「遥斗の言葉を借りるのは癪ですが」

 

「うん」

 

「俺の女になってください」

 

 千束の目が大きくなる。

 

 すぐに、ぱっと笑顔になった。

 

 照れと嬉しさが混ざった、千束らしい笑顔。

 

「うん」

 

 その返事は、迷いがなかった。

 

 次の瞬間、千束が奏斗へ飛び込むように抱きついた。

 

 ぎゅっと、強く。

 

 奏斗の背中へ腕を回し、離さないように抱きしめる。

 

「千束」

 

「何?」

 

「傷に少し響きます」

 

「あ、ごめん!」

 

 千束が慌てて力を緩める。

 

 しかし、離れはしない。

 

「でも、もうちょっとだけ」

 

「……はい」

 

 奏斗もゆっくり千束の背中へ腕を回した。

 

 体温が近い。

 

 髪の匂い。

 

 服越しの柔らかさ。

 

 胸元の感触。

 

 それを意識した瞬間、奏斗の顔が熱くなった。

 

 千束がすぐに気づく。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「今、何か変なこと考えた?」

 

「考えていません」

 

「顔赤い」

 

「室温です」

 

「胸、当たってるから?」

 

「千束」

 

「変態」

 

「今の状況でそれを言いますか?」

 

「だって照れてる」

 

「照れます」

 

 奏斗が正直に答えると、千束が少し驚いた。

 

 そのあと、嬉しそうに笑う。

 

「奏斗、素直」

 

「今日は隠す余裕がありません」

 

「じゃあ、もっと素直にしていいよ」

 

 千束の声が少し近づく。

 

 奏斗は息を止める。

 

 次の瞬間、千束は奏斗の胸を軽く押した。

 

「え」

 

 奏斗の体が後ろへ倒れる。

 

 反射的に支えようとしたが、千束はそのまま奏斗をベッドへ押し倒した。

 

 衝撃は強くない。

 

 傷へ響かないよう、ちゃんと加減されている。

 

 奏斗はベッドに仰向けになり、千束がその上から覗き込む形になった。

 

「千束」

 

「何?」

 

「これは」

 

「私がした」

 

「はい」

 

「だから謝らなくていい」

 

「そういう問題では」

 

 千束は奏斗の言葉を遮るように、そっと額を近づけた。

 

「キスは奪われた」

 

 その声は小さかった。

 

 でも、はっきりしていた。

 

「でも、さっき私から上書きした」

 

「はい」

 

「それ以外の初めては」

 

 千束の顔が赤くなる。

 

 それでも、逃げなかった。

 

「奏斗にあげる」

 

 奏斗の呼吸が止まった。

 

「千束」

 

「嫌?」

 

「嫌ではありません」

 

「なら、いい?」

 

 奏斗は、千束の目を見た。

 

 強引ではない。

 

 怯えてもいない。

 

 選んでいる。

 

 自分の意思で。

 

 奏斗を見ている。

 

 だからこそ、奏斗も曖昧にしてはいけないと思った。

 

「千束」

 

「うん」

 

「無理はしていませんか?」

 

「してない」

 

「遥斗のことで、焦っているのでは」

 

「それも、少しはあるかも」

 

 千束は正直に言った。

 

「でも、それだけじゃない」

 

「はい」

 

「私が、奏斗とそうしたいと思った」

 

 奏斗はゆっくり息を吐く。

 

 心の奥を確認する。

 

 遥斗の気配はない。

 

 今ここにいるのは、自分だ。

 

 千束を奪うのではなく。

 

 千束に選ばれ、千束を選ぶ。

 

「……分かりました」

 

 奏斗はそっと千束の頬へ触れた。

 

 触れる前に、短く確認する。

 

「触れても?」

 

 千束は笑った。

 

「今さら?」

 

「大事です」

 

「うん。いいよ」

 

 奏斗の指が、千束の頬へ触れる。

 

 千束は少し目を細めた。

 

「奏斗らしいね」

 

「そうでしょうか」

 

「うん」

 

 千束がゆっくり顔を近づける。

 

 今度のキスは、どちらかが奪うものではなかった。

 

 短く触れて、離れる。

 

 もう一度、確かめるように触れる。

 

 千束の手が奏斗の服を握る。

 

 奏斗の手が、千束の背中へ回る。

 

 怖さは完全には消えない。

 

 遥斗の影も、過去も、能力も。

 

 何もかもがなくなったわけではない。

 

 それでも今、この瞬間だけは、二人の間にあった。

 

 言葉にできないものが、ゆっくり形を変えていく。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「好き」

 

 千束が囁く。

 

「私も」

 

「何?」

 

「千束が好きです」

 

 千束は嬉しそうに笑った。

 

「やっと言った」

 

「遅かったですか?」

 

「うん」

 

「すみません」

 

「謝るところじゃないよ」

 

「では」

 

「もう一回」

 

「千束が好きです」

 

「うん」

 

 千束はまたキスをした。

 

 それから二人は、ゆっくりと言葉を減らしていった。

 

 急がず。

 

 確かめながら。

 

 触れるたびに、確認するように。

 

 怖くないか。

 

 嫌ではないか。

 

 大丈夫か。

 

 千束は何度も笑って、何度も少し照れて、時々いつものように「変態」と言った。

 

 奏斗はそのたびに困った顔をし、それでも手を離さなかった。

 

 夜は静かに更けていく。

 

 外では、リリベルの監視が続いている。

 

 敵はまだ消えていない。

 

 遥斗の問題も解決していない。

 

 けれど、この部屋の中だけは、少し違っていた。

 

 奪われたものを、奪われたままにしないために。

 

 恐怖で縛られた言葉を、自分たちの言葉に変えるために。

 

 二人は、その夜を一緒に過ごした。

 

     ◇

 

 眠る少し前。

 

 千束は奏斗の胸元に顔を寄せていた。

 

 奏斗は彼女の髪をそっと撫でる。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「遥斗に言われたこと、もう嫌なだけじゃなくなった」

 

「なぜですか?」

 

「奏斗が言い直してくれたから」

 

「そうですか」

 

「俺の女になってください、って」

 

「改めて言われると恥ずかしいですね」

 

「言ったの奏斗だよ」

 

「分かっています」

 

「私は、奏斗のだよ」

 

 千束は小さく笑った。

 

「でも、物じゃないからね」

 

「分かっています」

 

「私が選んだ」

 

「はい」

 

「奏斗も、私を選んだ?」

 

「はい」

 

 奏斗は静かに答えた。

 

「千束を選びました」

 

「よし」

 

 千束は満足そうに目を閉じる。

 

「おやすみ、奏斗」

 

「おやすみなさい、千束」

 

 千束の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。

 

 奏斗はしばらく眠れなかった。

 

 けれど、それは不安のせいではない。

 

 胸の中に残る温かさが、あまりにも慣れないものだったからだ。

 

 奏斗は千束を抱き寄せる。

 

 今度は恐怖ではなく。

 

 支配でもなく。

 

 ただ、大切に思う気持ちだけで。

 

 夜の静けさの中、二人は同じ布団の中で眠りについた。

 

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