奏斗のマンションへ着くまで、二人はほとんど話さなかった。
夜の道を並んで歩く。
手はつないだまま。
千束の手は、いつもより少しだけ強く奏斗の手を握っていた。
奏斗も離さなかった。
何を話せばいいのか、分からなかった。
謝るべきことはある。
説明すべきこともある。
それでも、言葉にすれば何かが壊れてしまうような気がした。
遥斗がしたこと。
千束を後ろから抱きしめたこと。
強引にキスをしたこと。
俺の女になれ、と言ったこと。
それは奏斗ではない。
そう千束は言ってくれた。
だが、使われたのは奏斗の体だ。
声も、顔も、手も。
千束が恐怖を感じた相手は、奏斗の姿をしていた。
その事実が、重かった。
マンションの入口には、リリベルの監視が配置されていた。
蒼士へ連絡は済ませてある。
奏斗と千束が一緒に戻ることも伝えてある。
今夜は周囲の警戒を厚くする。
蒼士は短くそう返した。
そして最後に、余計な一文を添えた。
――今夜は変なことすんなよ。
奏斗はその文面を千束へ見せなかった。
見せれば、間違いなく余計な話になる。
部屋へ入る。
玄関の扉を閉め、鍵をかける。
奏斗はいつものように窓と室内を確認しようとした。
だが、千束が手を離さない。
「千束」
「何?」
「室内を確認します」
「私が見る」
「二人で確認した方が」
「奏斗は座って」
声は穏やかだった。
しかし、有無を言わせない強さがあった。
「まだ顔、ちょっと白い」
「体調に問題はありません」
「あるかどうかは私が見る」
「判断基準が不明です」
「奏斗が無理しそうかどうか」
「それは」
「座って」
奏斗は少し迷ったあと、靴を脱ぎ、部屋の奥へ進んだ。
椅子へ座る。
千束は素早く部屋を確認した。
玄関。
窓。
浴室。
収納。
ベッドの下。
以前の泊まり込みで、この部屋の構造は覚えている。
数分もしないうちに、千束は戻ってきた。
「異常なし」
「ありがとうございます」
「うん」
千束は奏斗の向かいには座らなかった。
テーブルの横に立ったまま、奏斗を見ている。
「奏斗」
「はい」
「聞いていい?」
声が少しだけ静かになる。
「遥斗に体を奪われた経緯」
奏斗は目を伏せた。
予想していた質問だった。
避けられない。
避けてはいけない。
「訓練中でした」
「本部の?」
「はい」
「射撃とか、対人訓練?」
「そのあたりです」
奏斗はゆっくり話し始めた。
朝からリリベル本部で定期訓練を受けたこと。
射撃訓練では大きな問題がなかったこと。
対人訓練中に、遥斗が話しかけてきたこと。
たまには俺にも訓練させろ、と言ったこと。
この前のように奏斗だけでは対処できない。
千束を守れない。
俺が必要になる。
遥斗はそう言った。
そして、奏斗は迷った。
ほんの一瞬。
本当に遥斗の力が必要になるのではないか、と。
千束を守るために。
自分だけでは足りないのではないか、と。
「その瞬間、意識の主導権を奪われました」
奏斗は静かに言った。
「抵抗できませんでした」
千束は黙って聞いていた。
途中で責めることも、慰めることもなかった。
ただ、奏斗の言葉を待っていた。
「外食の時も、私ではありません」
「……うん」
「途中から違和感はありましたか?」
「少し」
「いつからですか?」
「駅前で会ったときから」
奏斗は千束を見る。
「気づいていたのですか?」
「気づいたってほどじゃないよ」
千束は少し眉を寄せる。
「でも、何か違った。奏斗っぽいけど、奏斗じゃない感じ」
「その時点で確認すべきでしたね」
「確信なかったもん」
「すみません」
「それはいい」
千束は首を振った。
「外食中も、ずっと奏斗みたいに話してた。でも、何か違う。いつもの奏斗なら、私がからかったとき、もっと困った顔する」
「そこですか」
「大事だよ」
「判断基準としては独特ですね」
「奏斗を見る基準だから」
千束は少しだけ笑った。
でも、その笑みはすぐに消える。
「セーフハウスに入ってきたとき、はっきり分かった」
「……はい」
「あれは奏斗じゃなかった」
奏斗は何も言えなかった。
千束はゆっくり近づいてくる。
「遥斗に、俺の女になれって言われた」
その言葉に、奏斗の肩が強張る。
「嫌だった」
「当然です」
「怖かった」
「はい」
「怒った」
「はい」
「でも、一番嫌だったのは」
千束は奏斗の前で立ち止まった。
「奏斗の顔で、奏斗じゃないことをされたこと」
奏斗は目を伏せた。
「すみません」
「奏斗が謝ることじゃないって、分かってる」
「ですが」
「でも、言わせて」
「はい」
「嫌だった」
千束の声は震えていない。
真っ直ぐだった。
「私、誰かのものになるとか、使われるとか、そういうの嫌。遥斗に言われたのも、嫌だった」
「はい」
「でも」
千束は一度息を吸った。
それから、奏斗を見た。
「奏斗のなら、いい」
奏斗の思考が止まった。
「……千束」
「私、奏斗が好き」
静かな部屋で、その言葉だけがはっきり響いた。
「護衛とか、友達とか、店員仲間とか。そういうのも全部本当だけど」
千束の頬が少し赤くなる。
それでも目を逸らさない。
「それだけじゃない」
奏斗は何かを言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
「遥斗に奪われるのは嫌だった」
千束は続ける。
「でも、奏斗になら、自分で選びたいって思った」
「……私でいいのですか?」
ようやく出た言葉は、それだった。
弱い言葉だと、自分でも思った。
千束ほど強く、真っ直ぐ言えない。
自分には遥斗がいる。
【恐怖】がある。
また今日のようなことが起きるかもしれない。
千束を怖がらせた。
傷つけた。
そんな自分でいいのか。
その考えが浮かぶ。
そして、奏斗は小さく笑いそうになった。
「それが弱いんでしょうね」
「何が?」
「自分でいいのか、と考えてしまうことです」
奏斗は千束を見る。
「遥斗なら、きっと迷わない」
「そうだね」
「だから、弱いと言われる」
「奏斗はそれでいいよ」
千束は即答した。
「迷っても、考えても、ちゃんと相手を見てくれる奏斗がいい」
「……千束」
「遥斗みたいに、俺の女になれって命令されたら嫌だけど」
千束は少しだけ口元を緩める。
「奏斗に言われるなら、ちょっと聞いてみたいかも」
奏斗は一瞬、目を瞬いた。
千束が恥ずかしそうに視線をそらす。
「今の、忘れて」
「聞きました」
「忘れて」
「無理です」
「奏斗の記憶力、こういうときだけ良すぎ」
「いつも良い方です」
「じゃあ、言って」
千束が少しだけ顔を上げる。
「ちゃんと、奏斗の言葉で」
奏斗はゆっくり立ち上がった。
千束と向き合う。
距離は近い。
それでも、今度は怖くなかった。
遥斗のように奪うためではない。
従わせるためでもない。
千束へ、自分の意思を伝えるために。
「千束」
「うん」
「遥斗の言葉を借りるのは癪ですが」
「うん」
「俺の女になってください」
千束の目が大きくなる。
すぐに、ぱっと笑顔になった。
照れと嬉しさが混ざった、千束らしい笑顔。
「うん」
その返事は、迷いがなかった。
次の瞬間、千束が奏斗へ飛び込むように抱きついた。
ぎゅっと、強く。
奏斗の背中へ腕を回し、離さないように抱きしめる。
「千束」
「何?」
「傷に少し響きます」
「あ、ごめん!」
千束が慌てて力を緩める。
しかし、離れはしない。
「でも、もうちょっとだけ」
「……はい」
奏斗もゆっくり千束の背中へ腕を回した。
体温が近い。
髪の匂い。
服越しの柔らかさ。
胸元の感触。
それを意識した瞬間、奏斗の顔が熱くなった。
千束がすぐに気づく。
「奏斗」
「何ですか?」
「今、何か変なこと考えた?」
「考えていません」
「顔赤い」
「室温です」
「胸、当たってるから?」
「千束」
「変態」
「今の状況でそれを言いますか?」
「だって照れてる」
「照れます」
奏斗が正直に答えると、千束が少し驚いた。
そのあと、嬉しそうに笑う。
「奏斗、素直」
「今日は隠す余裕がありません」
「じゃあ、もっと素直にしていいよ」
千束の声が少し近づく。
奏斗は息を止める。
次の瞬間、千束は奏斗の胸を軽く押した。
「え」
奏斗の体が後ろへ倒れる。
反射的に支えようとしたが、千束はそのまま奏斗をベッドへ押し倒した。
衝撃は強くない。
傷へ響かないよう、ちゃんと加減されている。
奏斗はベッドに仰向けになり、千束がその上から覗き込む形になった。
「千束」
「何?」
「これは」
「私がした」
「はい」
「だから謝らなくていい」
「そういう問題では」
千束は奏斗の言葉を遮るように、そっと額を近づけた。
「キスは奪われた」
その声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「でも、さっき私から上書きした」
「はい」
「それ以外の初めては」
千束の顔が赤くなる。
それでも、逃げなかった。
「奏斗にあげる」
奏斗の呼吸が止まった。
「千束」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「なら、いい?」
奏斗は、千束の目を見た。
強引ではない。
怯えてもいない。
選んでいる。
自分の意思で。
奏斗を見ている。
だからこそ、奏斗も曖昧にしてはいけないと思った。
「千束」
「うん」
「無理はしていませんか?」
「してない」
「遥斗のことで、焦っているのでは」
「それも、少しはあるかも」
千束は正直に言った。
「でも、それだけじゃない」
「はい」
「私が、奏斗とそうしたいと思った」
奏斗はゆっくり息を吐く。
心の奥を確認する。
遥斗の気配はない。
今ここにいるのは、自分だ。
千束を奪うのではなく。
千束に選ばれ、千束を選ぶ。
「……分かりました」
奏斗はそっと千束の頬へ触れた。
触れる前に、短く確認する。
「触れても?」
千束は笑った。
「今さら?」
「大事です」
「うん。いいよ」
奏斗の指が、千束の頬へ触れる。
千束は少し目を細めた。
「奏斗らしいね」
「そうでしょうか」
「うん」
千束がゆっくり顔を近づける。
今度のキスは、どちらかが奪うものではなかった。
短く触れて、離れる。
もう一度、確かめるように触れる。
千束の手が奏斗の服を握る。
奏斗の手が、千束の背中へ回る。
怖さは完全には消えない。
遥斗の影も、過去も、能力も。
何もかもがなくなったわけではない。
それでも今、この瞬間だけは、二人の間にあった。
言葉にできないものが、ゆっくり形を変えていく。
「奏斗」
「はい」
「好き」
千束が囁く。
「私も」
「何?」
「千束が好きです」
千束は嬉しそうに笑った。
「やっと言った」
「遅かったですか?」
「うん」
「すみません」
「謝るところじゃないよ」
「では」
「もう一回」
「千束が好きです」
「うん」
千束はまたキスをした。
それから二人は、ゆっくりと言葉を減らしていった。
急がず。
確かめながら。
触れるたびに、確認するように。
怖くないか。
嫌ではないか。
大丈夫か。
千束は何度も笑って、何度も少し照れて、時々いつものように「変態」と言った。
奏斗はそのたびに困った顔をし、それでも手を離さなかった。
夜は静かに更けていく。
外では、リリベルの監視が続いている。
敵はまだ消えていない。
遥斗の問題も解決していない。
けれど、この部屋の中だけは、少し違っていた。
奪われたものを、奪われたままにしないために。
恐怖で縛られた言葉を、自分たちの言葉に変えるために。
二人は、その夜を一緒に過ごした。
◇
眠る少し前。
千束は奏斗の胸元に顔を寄せていた。
奏斗は彼女の髪をそっと撫でる。
「奏斗」
「はい」
「遥斗に言われたこと、もう嫌なだけじゃなくなった」
「なぜですか?」
「奏斗が言い直してくれたから」
「そうですか」
「俺の女になってください、って」
「改めて言われると恥ずかしいですね」
「言ったの奏斗だよ」
「分かっています」
「私は、奏斗のだよ」
千束は小さく笑った。
「でも、物じゃないからね」
「分かっています」
「私が選んだ」
「はい」
「奏斗も、私を選んだ?」
「はい」
奏斗は静かに答えた。
「千束を選びました」
「よし」
千束は満足そうに目を閉じる。
「おやすみ、奏斗」
「おやすみなさい、千束」
千束の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
奏斗はしばらく眠れなかった。
けれど、それは不安のせいではない。
胸の中に残る温かさが、あまりにも慣れないものだったからだ。
奏斗は千束を抱き寄せる。
今度は恐怖ではなく。
支配でもなく。
ただ、大切に思う気持ちだけで。
夜の静けさの中、二人は同じ布団の中で眠りについた。