あの少年がもう一度、喫茶リコリコの扉を開けたのは、最初に来店してから数日後のことだった。
時間は、前とほとんど同じ午後三時過ぎ。
昼の忙しさが落ち着き、店内に少しだけのんびりとした空気が流れ始めた頃だった。
その日は珍しく、ミズキが自分からテーブルを拭いていた。
「ミズキ、どうしたの?」
「何がよ」
「働いてる」
「私はいつも働いてるわよ!」
「えー?」
「その心底意外そうな顔をやめなさい」
ミズキが布巾を握ったまま、こちらを睨む。
私はカウンターの中でグラスを並べながら、うんうんとうなずいた。
「分かった。今日は特別な日なんだね」
「何も分かってないでしょ」
「ミズキが自発的に働いた記念日」
「千束、あんた本当に失礼ね」
「冗談だってばー」
「冗談なら何を言ってもいいと思ってる?」
「そんなこと思ってないよ。ミズキなら何を言っても許してくれると思ってる」
「もっと悪いわよ!」
店内にミズキの声が響く。
先生はカウンターの奥で、いつものように穏やかな顔をしながらコーヒー豆を挽いていた。
「先生、ミズキが怒ってる」
「怒らせたのは千束だろう」
「えー、先生まで」
「二対一ね」
ミズキが勝ち誇ったように笑う。
私は少しだけ考え、それから入口へ視線を向けた。
「じゃあ、お客さんが来たら味方になってもらおう」
「初対面の客を巻き込むんじゃないわよ」
その直後だった。
扉のベルが、からんと鳴った。
「ほら来た!」
「絶対巻き込む気でしょ」
私が入口へ振り向くと、そこには見覚えのある少年が立っていた。
落ち着いた色の服。
きちんと整えられた髪。
年齢より少し大人びて見える、穏やかな表情。
数日前、チョコレートパフェをきれいに完食して帰っていった少年だった。
「あ!」
私が声を上げると、少年はこちらを見た。
「どうも」
「来た!」
「来ましたね」
「本当に来た!」
「来ると言ったと思いますが」
少年は少しだけ笑った。
最初に店へ来たときと比べると、入口で立ち止まる時間が短い。店内を確認することもなく、自然に前回と同じ席へ歩いていく。
「いらっしゃいませー! 甘いものが大好きなお客さん!」
「勝手な肩書きをつけないでください」
「でも、今日はパフェを食べに来たんでしょ?」
「まだ何も言っていませんよ」
「違うの?」
私が尋ねると、少年は椅子を引きながらわずかに黙った。
「……違うとは言っていません」
「やっぱり!」
「誘導されている気がします」
少年が席に座る。
私はすぐに水とおしぼりを持っていった。
「今日は何パフェにする?」
「パフェを頼むことは確定しているんですか?」
「もちろん」
「前回はチョコレートでしたよね」
「そうそう。今日は、いちごがおすすめ」
「それでは、いちごパフェを」
あまりにも素直に注文されて、今度は私が少し驚いた。
「もう頼むの?」
「おすすめなのでしょう?」
「そうだけど」
「もしかして、迷ってほしかったんですか?」
「ちょっとだけ」
「面倒な店員ですね」
「お客さん、前より遠慮がなくなってない?」
「店の雰囲気に慣れただけです」
「つまり、リコリコに馴染んだってことだね」
「二度目で馴染んだことになるのでしょうか」
「うちは一度来たら常連だから」
「ずいぶん基準が緩いですね」
少年は楽しそうに返してくる。
数日前と同じだ。
落ち着いていて、丁寧な話し方なのに、冗談を向ければすぐに返してくれる。
私はカウンターへ向かい、先生に注文を伝えた。
「先生、いちごパフェ一つ!」
「分かった」
「あら、本当に来たのね」
ミズキが少年を見て言う。
「こんにちは」
「いらっしゃい。千束に無理やり来させられたんじゃないでしょうね?」
「今のところ、そのような事実はありません」
「今のところ?」
「帰るまでに何が起きるか分かりませんので」
少年が真顔で答える。
ミズキが吹き出した。
「君、やっぱり面白いわね」
「ありがとうございます」
「褒めてるのよ」
「分かっています」
私はカウンターに両手をついた。
「ちょっと待って。二人だけで仲良くならないでよ」
「あんたが引き合わせたんでしょ」
「そうだけど、私を置いていくのは禁止」
「面倒ね」
「ミズキに言われたくない」
「どういう意味よ」
またミズキが睨んでくる。
少年は私たちを眺めながら、水を一口飲んだ。
「ところで」
私は少年の正面へ回った。
「はい」
「名前」
「名前?」
「前に聞くの忘れたから」
「ああ」
「私は錦木千束。覚えてる?」
「はい。前回、ご自分で看板娘と名乗っていましたので」
「自称じゃないよ」
「誰かから正式に任命されたんですか?」
「私が私を任命した」
「それは自称です」
「また正論で刺してくる!」
私は胸を押さえた。
少年は小さく笑う。
「それで、名前は?」
「押村奏斗です」
少年はそう答えた。
「おしむら、かなと」
私は確かめるように繰り返した。
「はい」
「奏でるに、北斗の斗?」
「そうです」
「奏斗かぁ」
声に出してみる。
なんとなく、少年の雰囲気に合っている気がした。
落ち着いているけれど、少し柔らかさもある。
「じゃあ、奏斗君」
「君は必要ありません」
「え?」
「年齢も一つしか違いませんし、奏斗で構いません」
私は少しだけ目を丸くした。
「いいの?」
「名前を聞いておいて、毎回お客さんと呼ぶつもりだったんですか?」
「甘いものが大好きなお客さん」
「もっと長くなっていますよ」
「じゃあ奏斗」
「はい」
呼ぶと、すぐに返事が返ってくる。
それだけのことなのに、少しだけ距離が縮まった気がした。
「奏斗は私のこと千束でいいよ」
「前回から、あなたが何度も自分の名前を口にしていたので、すでに覚えています」
「じゃあ呼んでみて」
「なぜですか?」
「名前を覚えてるか確認」
「今、覚えていると言いましたが」
「いいからいいから」
奏斗は少しだけ困ったように私を見る。
それから、ため息をつくほどでもない小さな息を吐いた。
「千束さん」
「さん付け?」
「基本的に敬語ですので」
「同い年みたいなものなのに」
「一つ違います」
「一つしか、でしょ?」
「では、錦木さんで」
「遠くなった!」
ミズキが隣で笑う。
「何よ、呼び捨てにしてほしいの?」
「せっかく名前を教えたんだから、仲良さそうな方がいいじゃん」
「二回目の客に距離を詰めすぎよ」
「じゃあミズキは?」
奏斗へ視線を向ける。
「ミズキさん、と呼びます」
「ほら!」
ミズキが得意そうに腕を組んだ。
「それが普通なのよ」
「じゃあ先生は?」
「店長さん、でしょうか」
「先生だよ」
「学校の先生なのですか?」
「違うけど先生」
「説明になっていませんよ」
「私の先生だから先生」
奏斗はカウンターの奥にいる先生を見る。
先生は小さく会釈した。
「ミカです。千束がいつも世話になっています」
「逆だよ。私が先生の世話をしてる」
「どの口が言うのよ」
ミズキがすぐに突っ込む。
奏斗はほんの少し考えてから、先生へ頭を下げた。
「押村奏斗です。先日もお世話になりました」
「こちらこそ。よく来てくれた」
「千束が騒がしくなかった?」
ミズキが尋ねる。
「それなりに」
「奏斗!」
「嘘は言えませんので」
「でも、また来たじゃん」
「パフェがおいしかったので」
「私じゃなくてパフェ目当て?」
「それ以外に何があると思ったんですか?」
「ひどい!」
私が机に突っ伏すと、奏斗が少しだけ笑った。
「冗談です」
「え?」
「店の雰囲気も良かったので、また来ました」
「……おお」
不意に真っすぐ言われて、私は顔を上げる。
「何ですか?」
「いや、奏斗って、そういうこと普通に言うんだなって」
「どういうことです?」
「もっと照れて言わないタイプかと思ってた」
「事実を言っただけです」
「そういうとこ大人っぽいよね」
「また三十四歳ですか?」
「今日は二十九歳くらい」
「少し若返りましたね」
「パフェを食べると十七歳になる」
「実年齢です」
先生が完成したパフェをカウンターに置く。
私はそれを受け取り、奏斗の前へ運んだ。
「お待たせしました! いちごパフェです!」
透明なグラスの中に、いちごアイス、バニラアイス、スポンジ、生クリームが重なっている。
上には鮮やかな赤いいちごが何粒も並び、いちごソースがかかっていた。
奏斗の視線が、パフェへ向く。
表情は大きく変わらない。
でも、少しだけ目元が柔らかくなる。
「今、十七歳になった」
「ずっと十七歳です」
「うれしそう」
「パフェを注文したのですから、届けばうれしいでしょう」
「素直になったね」
「前回も否定はしていなかったと思います」
「甘いもの好き?」
奏斗はスプーンを手に取った。
「好きですよ」
「認めた!」
「二回も来てパフェを食べているのに、今さら隠す意味がありません」
「じゃあ、かなり好き?」
「かなり好きです」
「すっごく好き?」
「質問が子供っぽくなっていますよ」
「いいから」
奏斗は私の顔を見る。
「そうですね。すっごく好きです」
「やった!」
「何に勝ったんですか?」
「奏斗の素直じゃない心」
「勝手に戦いを始めないでください」
「千束は勝負事になるとうるさいのよ」
ミズキが横から言う。
「うるさくないよ。全力なだけ」
「じゃんけんでも本気出すじゃない」
「勝負は勝負だからね」
「大人げないのよ」
「十六歳だもん」
「都合のいいときだけ子供になるわね」
奏斗はいちごとアイスを一緒にすくい、口へ運んだ。
前回と同じように、食べた瞬間だけ少し表情がほどける。
「どう?」
「おいしいです」
「チョコとどっちが好き?」
「難しい質問ですね」
「そんなに?」
「どちらにも良さがありますので」
「真剣に考えてる」
「甘いものに対しては真面目なのね」
ミズキが感心したように言う。
「好きなものくらい、真面目に選んでもいいでしょう」
「いいこと言うね」
私が言うと、奏斗はスプーンを止めた。
「ですが、どちらか一つならチョコレートです」
「決めるんだ」
「聞いたのは千束さんですよ」
「またさん付け」
「そこが気になるんですか?」
「気になる」
「では、千束」
何でもないように呼ばれた。
あまりにも自然だったから、私は一瞬だけ反応が遅れた。
「……うん」
「どうしました?」
「いや」
私はすぐに笑う。
「やればできるじゃん」
「名前を呼んだだけですよ」
「その名前を呼ぶのが大事なんだよ」
「そういうものですか」
「そういうもの!」
奏斗は少しだけ首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
そのあとも、私たちは他愛のない話をした。
最近見た映画。
駅前に新しくできた店。
甘いものと辛いものならどちらが好きか。
犬と猫ならどちらが好きか。
奏斗はどんな話題でも、少し考えてからきちんと答えた。
会話を切ろうとしない。
こちらが冗談を言えば、真面目な顔で冗談を返す。
「奏斗って学校でも人気ありそう」
私が何気なく言うと、奏斗は少しだけ目を伏せた。
「どうでしょう」
「友達多いでしょ?」
「普通です」
「その普通が分からないんだよ」
「必要な会話はしますし、冗談も言います」
「今みたいに?」
「今よりは少し控えます」
「私相手だと遠慮してないってこと?」
「遠慮してほしいですか?」
「全然」
「では、このままで」
それは何気ない会話だった。
でも、私は少しうれしかった。
奏斗がこの店では、無理に取り繕わず話してくれているように思えたからだ。
もちろん、まだ二度しか会っていない。
何をしているのかも、普段どこにいるのかも知らない。
それでも、悪い人ではないと思った。
少なくとも、甘いものを食べているときの奏斗は、とても普通の十七歳だった。
「ごちそうさまでした」
奏斗は今回もパフェをきれいに食べ切った。
「次は何にする?」
「もう次の話ですか?」
「次は抹茶にしよう」
「私に選択権はないのですか?」
「あるよ。抹茶か、抹茶以外」
「ほとんど誘導ですね」
「じゃあ何がいい?」
「そのとき決めます」
「また来るんだ?」
私が笑うと、奏斗は少しだけ間を置いた。
「甘いものが食べたくなれば」
「食べたくならなくても来ていいよ」
「喫茶店なのに、注文しなくてもいいのですか?」
「何かは頼んで」
「結局、注文は必要なんですね」
「お店だからね」
「急に現実的ですね」
会計を済ませ、奏斗は入口へ向かう。
私は扉の近くまでついていった。
「またね、奏斗」
「はい」
「次は抹茶パフェだからね」
「検討します」
「絶対だよ」
「努力します」
「なんでパフェを食べるのに努力がいるの?」
奏斗は扉を開ける。
ベルが鳴る。
「では、また」
「うん。またね!」
奏斗は一度だけ振り返り、小さく笑った。
それから午後の街へ歩いていった。
「完全に常連扱いね」
背後からミズキの声がする。
「二回来たからね」
「前は一回来たら常連って言ってなかった?」
「二回来たら超常連」
「基準がどんどんおかしくなってるわよ」
私は閉じた扉を見ながら笑った。
次はいつ来るだろう。
そのときは、また少しだけ奏斗のことを知れるかもしれない。
そう思っていた。
その日の夜に、まったく別の形で奏斗と会うことになるなんて、もちろん考えてもいなかった。
◇
夜。
任務先は、港に近い倉庫街だった。
海から吹く風が冷たい。
大きな倉庫がいくつも並び、錆びた金属の匂いと潮の匂いが混じっている。
街灯は少なく、辺りは薄暗い。
私は倉庫の屋根に伏せ、下の様子を確認していた。
今夜の対象は、違法な銃器の取引に関わっている男たち。
確認できるのは五人。
一人は倉庫の入口。
二人は車のそば。
残り二人は倉庫の中にいる。
『千束、状況は?』
通信機から先生の声が聞こえる。
「対象は五人。情報どおりだね」
『武器は?』
「全員持ってる。たぶん倉庫の中にもあるよ」
『無理に制圧する必要はない。取引の確認だけでも構わない』
「でも、放っておいたら危ないでしょ?」
『千束』
「大丈夫。いつもどおり、全員生かして終わらせるから」
私は屋根の端から下を見た。
倉庫の入口にいる男が煙草を捨てる。
車のそばにいる二人が、周囲を確認し始めた。
取引が終わり、移動するつもりだろう。
「それじゃ、行ってきまーす」
屋根から飛び降りる。
途中の配管をつかみ、勢いを落として地面へ着地した。
小さな音が響く。
近くにいた男が振り返る。
「誰だ!」
「こんばんはー」
私は笑顔で手を上げた。
「こんな時間までお仕事? 大変だね」
「ガキが、どこから入った!」
「普通に上から」
「上?」
男が屋根を見上げる。
「嘘。今のうちに逃げようとしてるでしょ」
車のそばにいた二人が銃へ手を伸ばした。
肩の動き。
肘の角度。
視線。
撃つ順番まで分かる。
私は地面を蹴った。
銃声が響く。
一発目を右へかわし、二発目を体を沈めて避ける。
そのまま距離を詰め、一人目の腕へ発砲。
「ぐあっ!」
男が拳銃を落とす。
さらに腹部へ二発。
男が地面に崩れた。
「一人!」
「こいつ、リコリスか!」
「正解!」
私は振り返る。
背後から撃たれた弾丸が、髪のすぐ横を通り過ぎた。
銃口の向きを見て、半歩ずれる。
それだけで当たらない。
男の懐へ踏み込み、銃を持つ手首を払う。
肘を腹へ打ち込み、姿勢が崩れたところで胸元へ二発撃った。
「二人目!」
倉庫の中から残りの男たちが飛び出してくる。
三人。
一人は拳銃。
一人は短機関銃。
最後の一人は、黒いケースを抱えていた。
「逃がすな!」
短機関銃がこちらを向く。
私は車の陰へ滑り込んだ。
激しい銃声。
車体に弾丸が当たり、火花が散る。
「危ないなぁ」
私は車の下へ一度視線を向けた。
男たちの足の位置を確認する。
銃撃が止まる瞬間に車の陰から飛び出す。
短機関銃を持つ男の腕へ三発。
非致死弾が当たり、銃口が上へ跳ねる。
そのまま走り込み、男の膝を蹴った。
倒れたところへ追加で一発。
「撃ちすぎかも」
でも、生きている。
問題なし。
拳銃を持った男が逃げながら発砲する。
私は銃弾をかわし、その背中を追った。
倉庫と倉庫の間にある狭い通路へ入る。
男は振り返りながら何度も撃つ。
焦っている。
狙いは雑だ。
かわすのは難しくない。
「待ってー!」
「来るな!」
「じゃあ銃を捨ててよ!」
「ふざけるな!」
「真面目に言ってるんだけどなぁ」
男の弾が切れる。
スライドが後退したまま止まった。
男は顔色を変え、拳銃を投げ捨てる。
そして腰からナイフを抜いた。
「まだやるの?」
「うるさい!」
男が突っ込んでくる。
右手の動き。
足の運び。
狙いは腹。
私は半身になって刃をかわし、男の手首をつかんだ。
そのまま体を回転させ、腕をひねり上げる。
ナイフが落ちる。
「ぐっ!」
「はい、終わり」
私は男の背中を壁へ押しつけ、拘束具を取り出した。
腕を後ろへ回す。
あとは拘束するだけ。
その瞬間だった。
乾いた銃声が響いた。
「え?」
私が押さえていた男の体が大きく揺れた。
胸元から血が飛び散る。
男は力を失い、その場に崩れ落ちた。
「ちょっと!」
私はすぐに身を低くする。
別方向から、続けて銃声が響く。
黒いケースを抱えて逃げようとしていた男の背中が撃ち抜かれる。
男は数歩よろめき、地面に倒れた。
遠くから、さらに二発。
先ほど私が倒した男たちのうち、まだ動こうとしていた者へ正確に命中する。
一発ずつ。
急所を狙った迷いのない射撃。
動いていた男たちが、完全に沈黙する。
「誰!」
私は銃を構え、弾が飛んできた方向を見る。
倉庫の屋根。
月明かりの下に、一つの人影が立っていた。
少年のように見える。
人影は屋根の端から飛び降りる。
地面へ着地し、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
暗がりから姿を現したその顔を見て、私は息を止めた。
「……奏斗?」
数時間前、リコリコでいちごパフェを食べていた少年。
押村奏斗。
今は昼間と違う、黒を基調とした服を身につけていた。
その手には拳銃。
表情はない。
店で冗談を返し、パフェを食べて笑っていた顔から、すべての感情が消えている。
「どうして……」
奏斗は答えない。
静かに周囲を見る。
倒れている男たちを一人ずつ確認する。
私が非致死弾で倒した者。
奏斗が銃弾で撃ち抜いた者。
さっきまで動いていた男たちは、もう誰一人として動かない。
「何で撃ったの?」
私は倒れた男へ駆け寄った。
首元へ手を当てる。
脈はない。
呼吸もしていない。
「この人、もう抵抗できなかったのに」
「対象だったからです」
奏斗が初めて口を開いた。
声は、昼間と同じように落ち着いていた。
けれど、そこに柔らかさはない。
「対象?」
「排除対象です」
「だからって、殺さなくてもよかったでしょ」
「生かす理由もありません」
奏斗の答えは早かった。
迷いがない。
まるで、それが当たり前だと言うように。
私は立ち上がる。
「あるよ」
「何がですか?」
「生きてるんだから、生かす理由はある」
「犯罪者です」
「犯罪者でも人でしょ」
「彼らが運んでいた武器で、これから多くの人間が殺される可能性がありました」
「だから止めた。もう動けないようにした」
「再び同じことをしない保証はありません」
「そんなの――」
言いかけた瞬間、奏斗の拳銃が動いた。
銃口が、まっすぐ私へ向けられる。
私は反射的に自分の銃を構えた。
互いの銃口が、相手を狙う。
夜の倉庫街に、冷たい風が吹き抜ける。
「奏斗」
「なぜ殺さないのですか?」
奏斗の声は静かだった。
怒っているわけでもない。
責めているようにも聞こえない。
本当に分からないから尋ねている。
そんな声だった。
「さっき言ったでしょ。命は大事だから」
「あなたはDAのリコリスです」
その言葉に、私は目を細めた。
「……知ってるんだ」
「はい」
「いつから?」
「最初に店へ行ったときには、知りませんでした」
「じゃあ、いつ?」
「その後です」
奏斗は銃口を下げない。
「錦木千束。ファーストリコリス。七歳のとき、旧電波塔事件の解決に関わった。現在はDA本部を離れ、喫茶リコリコを拠点に活動している」
「ずいぶん詳しく調べたね」
「必要な情報でしたので」
「今日、店に来たのも?」
「任務とは無関係です」
「本当に?」
「パフェを食べに行っただけです」
こんな状況なのに、その答えがあまりにも奏斗らしくて、私は少しだけ力が抜けそうになった。
「そこは普通なんだ」
「甘いものが好きなのは事実です」
「銃を向けながら言うことじゃないよ」
「先に構えたのは千束です」
「先に人を撃ったのは奏斗でしょ」
「排除対象を処理しただけです」
また同じ言葉。
排除対象。
処理。
奏斗は、倒れている人たちを人間として見ていないわけじゃない。
でも、任務の対象になった瞬間、それ以外のすべてを切り捨てている。
そう見えた。
「奏斗は何者なの?」
私は尋ねる。
奏斗の目がわずかに細くなる。
「リリベルです」
「リリベル……」
聞いたことはある。
DAが運用する男性エージェント。
リコリスとは別の系統に属する、少年たちの部隊。
詳しい情報は、私もほとんど知らない。
同じDAに関係しているはずなのに、普段は接点がない。
「本当にいたんだ」
「こちらも同じ感想です。史上最強のリコリスが、喫茶店で自分を看板娘と呼んでいるとは思いませんでした」
「そこはいいでしょ」
「事実を述べただけです」
「じゃあ、私を撃つの?」
私は奏斗の銃口を見る。
「リコリスとリリベルって、会ったら戦う決まりでもある?」
「そのような規則はありません」
「じゃあ下ろしてよ」
「千束が先に下ろしてください」
「奏斗が先」
「子供の喧嘩ではありませんよ」
「一つしか違わないじゃん」
「今は年齢の話をしていません」
真面目な顔でツッコミが返ってくる。
昼間と同じ。
でも、目の前には死体がある。
奏斗の手にある銃は、私を確実に撃てる位置に向けられている。
私は奏斗の体を見る。
視線。
肩。
指。
引き金を引く気配は、今のところない。
本当に撃つつもりなら、すでに撃っているはずだ。
奏斗も、おそらく私が同じように観察していると分かっている。
「私は奏斗を撃たないよ」
「なぜですか?」
「友達だから」
「二度会っただけですが」
「二回来たら超常連だよ」
「店の基準を人間関係にも適用しないでください」
「じゃあ知り合い」
「それなら理解できます」
「細かいなぁ」
私はゆっくり銃口を下げた。
奏斗は少しだけ私の動きを見つめたあと、自分の銃も下ろした。
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
「奏斗」
「はい」
「殺す以外にも方法はあるよ」
「非致死弾ですか?」
「それだけじゃない。拘束して、武器を取り上げて、もう悪いことができないようにすればいい」
「逃亡する可能性があります」
「そのときは、また捕まえる」
「効率が悪いですね」
「命に効率なんて関係ないよ」
奏斗は黙った。
無表情のまま、私を見ている。
「奏斗は、何とも思わないの?」
「何についてですか?」
「人を殺すこと」
「必要な行為です」
「そうじゃなくて、奏斗自身はどう思ってるの?」
少しだけ間が空いた。
初めて、奏斗の返事が遅れた。
「任務に個人の感情は必要ありません」
「でも、あるでしょ」
「必要がないので、考えません」
「それって、ないんじゃなくて隠してるだけじゃない?」
奏斗の目が、ほんのわずかに変わった。
怒ったわけでも、焦ったわけでもない。
でも、私の言葉が少しだけ内側へ届いたように見えた。
「千束は、敵の感情まで考えるのですか?」
「全部は分からないよ。でも、生きたいとは思ってるかもしれない」
「彼らに殺された人間も、生きたいと思っていたはずです」
「うん」
「それでも殺さないのですか?」
「殺さない」
私は即答した。
「私は、誰かを殺して平和を守るより、みんな生きたまま終わる方法を探したい」
「理想論です」
「理想でいいよ」
「実現できなければ意味がありません」
「だから実現させるの。私、強いから」
自分で言って笑う。
奏斗は笑わなかった。
けれど、呆れたような小さな息を吐いた。
「自信がありますね」
「史上最強らしいからね」
「自分で言いますか」
「有名なんでしょ?」
「少なくとも、リコリスとリリベルの間では」
「奏斗も私のファン?」
「違います」
「即答!」
「事実ですので」
「傷つくなぁ」
胸を押さえてみせる。
奏斗は無表情のまま私を見る。
「その反応も演技ですね」
「ばれた?」
「先ほどまで私に銃を向けていた人が、その程度で傷つくとは思えません」
「奏斗、私のこと分かってきたね」
「分かりやすいだけでは?」
「えー」
奏斗は周囲へ視線を向けた。
遠くから、車両の音が近づいてくる。
後処理の部隊だろう。
「私は行きます」
「もう?」
「ここに長くいる理由はありません」
「先生たちに会っていけば?」
「この状況で喫茶店へ戻るつもりですか?」
「戻るよ。帰る場所だもん」
「そうですか」
奏斗は拳銃を収め、背を向けた。
「待って」
私が呼び止める。
奏斗の足が止まった。
振り返りはしない。
「もうリコリコには来ない?」
「……なぜそう思うのですか?」
「私の正体を知ったし。私も奏斗の正体を知ったから」
「それが理由になりますか?」
「奏斗は気まずいかなって」
「千束は気まずいのですか?」
「ちょっとびっくりした。でも、昼間の奏斗まで嘘だったとは思ってないよ」
奏斗は何も言わない。
「甘いものが好きなのも、本当なんでしょ?」
「はい」
「パフェがおいしかったのも?」
「本当です」
「私たちと話して楽しかったのも?」
少しだけ沈黙が続いた。
夜風が、奏斗の服を揺らす。
「……本当です」
「じゃあ、また来なよ」
奏斗がゆっくり振り返る。
無表情に見える。
でも、その目には少しだけ迷いがあった。
「私たちは、考え方が違います」
「そうだね」
「次に任務で会えば、敵になる可能性もあります」
「そのときは、そのとき考える」
「ずいぶん軽いですね」
「明日のことばっかり考えてたら、今日が楽しくないじゃん」
「今日、銃を向け合ったばかりですが」
「でも昼は一緒にパフェ食べた」
「私は一人で食べていました」
「細かいことはいいの!」
私は奏斗へ笑いかけた。
「リコリコにいるときは、リリベルとかリコリスとか関係ないよ。奏斗は甘いものが好きなお客さん。私は看板娘」
「自称の」
「そこは言わなくていい!」
奏斗の口元が、ごくわずかに動いた。
笑った。
ほんの一瞬だったけれど、昼間と同じ笑い方だった。
「次は抹茶パフェだったね」
「まだ決めていません」
「約束したじゃん」
「検討すると言いました」
「検討した結果、抹茶ね」
「勝手に結論を出さないでください」
「じゃあ、来てから決めよう」
奏斗は私を見つめた。
そして、小さく息を吐く。
「機会があれば」
「それ、前にも言った」
「では、また行きます」
「うん!」
私は大きく手を振った。
「待ってるからね、奏斗!」
奏斗は答えなかった。
けれど、立ち去る前に一度だけ、小さくうなずいた。
そのまま暗い倉庫街の奥へ歩いていく。
黒い服が夜の闇に溶け、やがて姿が見えなくなった。
私はしばらく、その方向を見つめていた。
昼間はパフェを食べながら、真面目な顔で冗談を言っていた。
夜は同じ顔で人を撃ち、私へ銃を向けた。
どちらが本当の奏斗なのだろう。
たぶん、どちらも本当だ。
甘いものが好きで、会話も上手で、笑うこともできる十七歳の少年。
そして、命令された対象を迷わず排除するリリベル。
私は倒れている男たちを見る。
助けることは、もうできない。
少しだけ胸が痛んだ。
でも、奏斗を責めるだけでは何も変わらない。
奏斗がなぜそうするのか。
何を考えているのか。
まだ、私は何も知らない。
「……また来るって言ったもんね」
誰に言うでもなく呟く。
次に店へ来たら、普通に迎えよう。
抹茶パフェをすすめて、またくだらない話をする。
その中で少しずつ、奏斗のことを知ればいい。
もしかしたら、奏斗もいつか、私が殺さない理由を少しだけ分かってくれるかもしれない。
『千束、聞こえるか?』
通信機から先生の声が聞こえた。
「あ、先生」
『銃撃を確認した。状況を報告しなさい』
「えーっとね」
私は少し考える。
リリベルの奏斗と会った。
奏斗が対象を殺した。
銃を向け合い、価値観について話した。
そして、またリコリコに来るよう誘った。
全部をそのまま話したら、先生はどんな顔をするだろう。
「ちょっと長くなるかも」
『構わない』
「それと、怒らないで聞いてね」
『内容による』
「先に約束してよー」
『千束』
「はーい。話します」
私は歩き始めた。
夜の倉庫街を抜け、喫茶リコリコへ戻るために。
足取りは少しだけ重かった。
けれど、不思議と気持ちは沈み切っていなかった。
奏斗は、また来ると言った。
あの言葉が本当なら、次に会う場所は銃弾が飛び交う倉庫ではない。
コーヒーの香りがして、先生がいて、ミズキが騒いでいる喫茶店だ。
そこでなら、きっとまた笑える。
敵になるかもしれない少年に、私は次のパフェをすすめる。
それが正しいかどうかなんて、まだ分からない。
でも、正しいかどうかは明日考えればいい。
今日の私は、奏斗にまた来てほしいと思った。
だから、そう伝えた。
それで十分だった。