翌朝。
錦木千束は、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光はまだ薄く、部屋の中は静かだった。
普段なら、目覚ましが鳴るまで布団の中でごろごろしている。
もう少しだけ。
あと五分。
そう自分に言い聞かせながら、結局ぎりぎりまで寝てしまうことも多い。
けれど、今日は違った。
目が覚めた瞬間、千束は枕元に置いていたスマホを手に取った。
画面をつける。
通知。
奏斗からだった。
「……奏斗」
昨日の夜、奏斗からの返信はなかった。
既読もつかなかった。
寝る前に何度も画面を見た。
寝落ちする寸前まで、通知が来ないか気にしていた。
不安だった。
でも、今はメッセージが来ている。
千束はすぐに開いた。
――昨日は返信が遅れてすみません。
――少し体調が悪くなり、休んでいました。
――今日は念のためリコリコを休み、病院で診察を受けます。
千束は画面を見つめた。
返信が遅くなったことへの謝罪。
体調不良。
病院。
文面は奏斗らしい。
丁寧で、必要な情報だけが書かれている。
でも、胸の奥に残っていた不安は、完全には消えなかった。
「体調悪かったんだ……」
昨日、帰り道で何かあったのかもしれない。
傷の影響かもしれない。
訓練の疲れかもしれない。
あの日から、奏斗は完全に回復したわけではない。
無理をしていた可能性もある。
電話しようか。
そう思って、千束は通話ボタンへ指を動かしかけた。
けれど、止めた。
体調が悪いなら、寝ているかもしれない。
病院へ行く準備をしているかもしれない。
電話で起こすのはよくない。
そう考えて、メッセージだけを返すことにした。
――分かった。無理しないでね。
少し迷って、もう一文打つ。
――夜、奏斗の家に行くから。何か食べられそうなもの買っていくね。
送信。
すぐに既読はつかなかった。
千束はスマホを胸の上に置き、天井を見る。
「……大丈夫だよね」
昨日、頬にキスをして別れたときの奏斗を思い出す。
少し照れた顔。
でも、いつもの奏斗だった。
帰るときも、周囲を確認していた。
それなのに、連絡が遅れた。
体調不良。
そう言われれば納得できる。
だけど。
千束の奥にある小さな違和感は、まだ消えなかった。
◇
リコリコに着くと、ミカはすでに厨房で仕込みをしていた。
「おはよう、千束」
「おはよ、先生」
千束はいつもより少しだけ早く来たつもりだったが、ミカは変わらず落ち着いていた。
その横顔を見て、千束はすぐに聞いた。
「先生、奏斗から連絡あった?」
「ああ」
ミカは手を止めずに答える。
「今日は体調不良で休むと連絡があった。病院へ行くそうだ」
「そっか」
「千束にも?」
「うん。朝メッセージ来た」
「そうか」
ミカは千束を一度見た。
「心配か?」
「まあ、ちょっと」
「昨日まで無理をしていたのかもしれないな」
「うん……」
千束は曖昧に頷く。
本当は、無理だけではない気がしている。
でも、それを言葉にするほど確かなものは何もない。
奏斗が体調不良だと言った。
なら、まずはそれを信じるべきだ。
そう思おうとした。
そこへ、奥からミズキが出てきた。
まだ少し眠そうな顔をしている。
「おはよー……って、あれ? 奏斗君は?」
「今日は休み」
千束が答える。
「体調不良だって」
ミズキの目が、一瞬で眠気から悪戯っぽさへ変わった。
「へえ」
「何?」
「千束が無理させたんじゃないの?」
「はぁ!?」
「ほら、昨日から付き合い始めて、いろいろあったんでしょ?」
「ない!」
「声大きいわよ」
「ミズキが変なこと言うから!」
「体調崩すくらい、千束が張り切っちゃったのかと思って」
「違う!」
「じゃあ何でそんなに焦ってるの?」
「焦ってない!」
ミズキはにやにや笑う。
「若いっていいわねぇ」
「ミズキ!」
「はいはい。奏斗君がいないと、千束も寂しいのね」
「それは……」
千束は言い返そうとして、言葉に詰まった。
寂しくないわけではない。
昨日まで近くにいた。
リコリコでも、隣にいるのが当たり前になっていた。
それが今日は、いない。
しかも体調不良。
寂しいより、心配の方が大きい。
「ほら、黙った」
「うるさい」
「可愛い反応」
「仕事して!」
「してるわよ」
ミズキは笑いながらカウンターへ向かった。
千束は小さく息を吐く。
表面上は、いつもどおり言い返した。
でも、内心では不安が大きくなっていた。
奏斗がいないリコリコは、少し広く感じた。
◇
営業が始まってからも、千束は何度も時間を確認した。
料理を運ぶ。
注文を取る。
常連客と話す。
いつもどおり笑う。
けれど、気づけば視線が時計へ向かう。
そして、ポケットのスマホへ。
「千束ちゃん、今日は元気ない?」
常連の女性客に言われ、千束は慌てて笑った。
「そんなことないですよ!」
「奏斗君がいないから?」
「ち、違います!」
「ふふ。早く良くなるといいわね」
「はい」
素直に頷いた。
奏斗が休みだと知ると、常連客たちも心配してくれた。
昨日祝われたばかりなのに、今日はその相手がいない。
何となく落ち着かなかった。
昼過ぎ。
少し客足が落ち着いた時間。
千束はテーブルを拭くふりをしながらスマホを確認した。
奏斗から返信が来ていた。
――夜、来てくれるとのこと、ありがとうございます。
――食材は無理のない範囲で構いません。
――気をつけて来てください。
千束の顔がぱっと明るくなった。
奏斗らしい文面。
丁寧で、少し距離があるように見えるけれど、ちゃんと心配してくれている。
夜に来てくれることへの感謝。
気をつけて来てください、という言葉。
それだけで、胸の奥の不安が少し和らいだ。
「何、嬉しそうな顔してるの?」
背後からミズキの声。
「わっ!」
千束は慌ててスマホを隠した。
「奏斗君?」
「ち、違う!」
「その反応、絶対そうでしょ」
「仕事中に見ただけ!」
「見たのは認めるんだ」
「あ」
「分かりやすいわねぇ」
ミズキは呆れたように笑った。
「ちゃんと仕事しなさいよ」
「してる!」
「奏斗君のことばっかり考えてないで」
「考えてない!」
「顔に出てる」
千束はスマホをしまい、布巾を握り直した。
「夜、様子見てくるから」
「はいはい。看病ね」
「そう!」
「変な看病しないようにね」
「ミズキ!」
いつもどおり言い返せた。
少しだけ、元気が戻った気がした。
◇
閉店後。
千束は片づけを手早く終わらせた。
ミズキに「急ぎすぎ」とからかわれたが、聞こえないふりをした。
奏斗の部屋へ行く。
体調不良なら、消化の良いものがいい。
スープ。
お粥。
果物。
飲み物。
それから、甘いものを少し。
奏斗は甘いものが好きだから。
体調が悪くても、食べられるものなら喜ぶかもしれない。
鞄を持って店を出ようとすると、ミカが声をかけた。
「千束」
「何、先生?」
「奏斗がいない。いつもより気をつけなさい」
「分かってる」
「周囲は見ろ。人気の少ない道は避けること」
「うん」
「何かあれば、すぐ連絡しなさい」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
「はーい」
ミカの表情はいつもどおり落ち着いている。
けれど、声には少し心配が混じっていた。
奏斗がいない。
それだけで、いつもより危険が増える。
千束自身は戦える。
それでも、最近の敵は普通ではない。
千束はそれを分かっていた。
「先生」
「何だ?」
「奏斗、元気になったら連れてくるね」
「ああ」
ミカは静かに頷いた。
「頼んだ」
「任せて」
千束はリコリコを出た。
◇
スーパーで買い物をする。
米。
卵。
鶏肉。
野菜。
豆腐。
果物。
スポーツドリンク。
ゼリー。
そして小さなチョコレート菓子。
買い物かごへ入れながら、千束は自然と奏斗の顔を思い浮かべた。
お粥だけでは物足りないと言いそう。
食べられます、とか言いながら無理して普通の食事をしようとしそう。
甘いものを見れば少し顔が緩みそう。
そう考えると、少し楽しくなる。
「何作ろうかな」
小さく呟く。
この一週間、奏斗の部屋で料理を練習した。
最初は野菜の大きさもばらばらだった。
でも、少しずつ上手くなった。
今日は奏斗に、ちゃんと作ってあげたい。
体調が悪いなら、無理なく食べられるもの。
でも、少し嬉しくなるもの。
買い物を終え、袋を持って奏斗のマンションへ向かう。
道はできるだけ人通りのある場所を選んだ。
背後。
車。
路地。
窓の反射。
奏斗に言われたことを思い出しながら、周囲を見る。
不審な人影はない。
少なくとも、千束の感覚では。
それでも、奏斗が隣にいないことが、少し心細かった。
◇
奏斗のマンションへ着く。
エントランス前で一度、周囲を確認する。
異常なし。
千束はインターホンを押した。
数秒後、応答があった。
『はい』
奏斗の声。
少しだけ安心する。
「私。来たよ」
『今開けます』
自動ドアが開く。
エレベーターで部屋の階へ上がる。
廊下を歩き、奏斗の部屋の前へ。
チャイムを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
そこに奏斗が立っていた。
顔色は悪くない。
いつもの服。
ただ、少しだけ表情が薄いようにも見える。
「千束」
「来たよ。大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
「本当に? 病院行った?」
「行きました。大きな問題はありません」
「よかった」
千束は心からほっとした。
そのまま部屋へ入る。
扉が閉まる。
鍵がかかる。
買い物袋を床へ置こうとして、千束は我慢できなくなった。
「奏斗」
「はい」
返事を聞く前に、千束は奏斗へ抱きついた。
ぎゅっと。
昨日からずっと不安だった。
返信がなくて。
朝のメッセージも心配で。
店でも落ち着かなくて。
ようやく顔を見られた。
だから、抱きついた。
奏斗の体温。
服の感触。
いつもの匂い。
でも。
「……?」
千束の中に、わずかな違和感が走った。
抱き返す腕の力。
背中に回る手。
奏斗なら、まず傷や荷物を気にして、少しぎこちなく受け止める。
でも今の腕は、滑らかすぎた。
遠慮が薄い。
抱きしめ返すというより、逃がさないように固定するような。
「奏斗?」
千束が顔を上げようとした瞬間。
脇腹に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
電流。
スタンガン。
体が硬直する。
買い物袋が床へ落ちる音。
視界が揺れる。
「ごめんね、千束」
奏斗の声。
でも、声の奥が違う。
遅かった。
千束はその違和感の正体に気づく前に、意識を失った。
◇
目を覚ますと、天井が見えた。
見慣れた天井だった。
奏斗の部屋。
何度も泊まった部屋。
けれど、体は自由に動かなかった。
「……っ」
千束は起き上がろうとして、手足が拘束されていることに気づいた。
手首。
足首。
柔らかいが、簡単にはほどけない拘束具。
ベッドの端に固定されている。
痛みは少ない。
傷つけるためではなく、動きを封じるための縛り方。
「起きたか」
声がした。
部屋の椅子に、奏斗が座っていた。
いや。
違う。
奏斗の体。
奏斗の顔。
けれど、中にいるのは奏斗ではない。
「遥斗」
「正解」
遥斗は薄く笑った。
「奏斗は?」
「奥でぼんやりしてる」
「戻して」
「今は無理だ」
「戻して!」
千束は拘束されたまま体を動かす。
手首の拘束具が軋む。
遥斗は立ち上がらない。
「暴れるな。今日は乱暴なことはしない」
「昨日したくせに」
「昨日は悪かったな」
「謝る気ないでしょ」
「ないな」
「最低」
「そう言われるのは慣れてる」
千束は歯を食いしばる。
「これ、外して」
「外したら俺を殴るだろ」
「殴る」
「正直でいいな」
「当たり前でしょ!」
千束は拘束を引っ張る。
だが、外れない。
奏斗の部屋にあったものではない。
遥斗が用意したのか。
それとも、フードの四人組が持ち込んだのか。
「奏斗に何したの」
「何もしていない」
「嘘」
「本当だ。兄貴が迷ったから、俺が出た」
「また?」
「ああ」
遥斗は楽しそうに笑う。
「兄貴はお前のことになると弱い」
「それで体を奪うの?」
「必要だからな」
「必要って何」
千束は遥斗を睨む。
「俺の計画を遂行するうえで、お前の実力は邪魔だ」
「計画?」
「ああ」
「だから私を縛った?」
「お前は強い。下手に自由にしておくと面倒だ」
「褒めてる?」
「評価している」
「嬉しくない」
「だろうな」
遥斗は椅子に座り直す。
「だが、殺すつもりはない」
「当たり前でしょ」
「俺にとっても、兄貴にとっても、お前は特別だからな」
千束はその言い方に眉をひそめる。
「奏斗と一緒にしないで」
「俺は兄貴の中にいる」
「でも奏斗じゃない」
「そうだな」
遥斗は否定しなかった。
「だから話を聞け、千束」
「嫌」
「聞け」
声が変わった。
【恐怖】。
空気が重くなる。
千束の背筋に冷たいものが走る。
でも、千束は目を逸らさなかった。
「怖がらせても、言うこと聞くと思わないで」
「分かってる。お前はそういう女だ」
「女って言い方やめて」
「じゃあ、錦木千束」
遥斗は少しだけ笑みを消した。
「俺の計画を話す」
千束は黙った。
聞きたくない。
でも、聞かなければ分からない。
奏斗を取り戻すためにも。
遥斗が何をしようとしているのか知る必要がある。
「DA上層部を殺す」
遥斗は淡々と言った。
「そして組織を壊滅させる」
千束の表情が鋭くなる。
「何言ってるの」
「そのままの意味だ」
「リコリスは?」
「子どもは対象じゃない」
「リリベルは?」
「同じだ。リコリスやリリベルの子どもたちは殺さない。殺すのは、作っている側だ」
「DAの上層部」
「ああ」
「それで何が変わるの?」
「首を落とせば、組織は動きを失う」
「そんな簡単じゃない」
「だから壊滅させる」
遥斗の声に迷いはなかった。
「今日も、俺の仲間とDAの上層部を殺してきた」
「……今日?」
千束の背筋が冷える。
今日、奏斗は体調不良で休むと言った。
病院へ行くと言った。
でも、それは嘘だった。
遥斗が奏斗の体で動いていた。
DAの上層部を殺していた。
「奏斗の体で?」
「ああ」
「ふざけないで」
「兄貴なら止めるからな」
「当たり前でしょ!」
「だから俺がやる」
千束は拘束を強く引く。
「そんなことしたら、奏斗が」
「分かってる」
「分かってない!」
「分かってるさ」
遥斗は初めて、少しだけ声を低くした。
「だから、お前をここに置いた」
「どういう意味?」
「兄貴が戻っても、お前がいれば暴走は抑えられる」
「私を保険に使うな」
「兄貴にとって一番効くのはお前だ」
「……最低」
「それも慣れてる」
遥斗は少しだけ目を伏せる。
「この計画は、リリベルになった時から考えていた」
千束は息を飲んだ。
「子どもの頃から?」
「ああ」
「遥斗、あなた……」
「DAは壊すべきだった」
遥斗の声には、冷たい怒りがあった。
「孤児を拾い、訓練し、武器を持たせる。自由も未来も選ばせず、正義の名で殺しを教える。そんなものは壊すしかない」
「方法が間違ってる」
「正しい方法で変わると思うか?」
「それでも」
「千束。お前も分かっているだろう」
遥斗の目が千束を射抜く。
「DAがまともな組織じゃないことくらい」
千束は黙った。
DAに救われた命もある。
DAが守ってきた平和もある。
でも、その裏で何人もの子どもたちが銃を持たされ、人を殺してきた。
千束自身も、その一人だ。
否定はできない。
でも。
「それでも、殺して壊せばいいとは思わない」
「兄貴と同じだな」
「奏斗の方が正しい」
「甘い」
「甘くてもいい」
千束は睨み返す。
遥斗は少し笑った。
「だからお前は厄介だ」
そして、話を続けた。
「DAは俺の計画に気づいていた」
「気づいてた?」
「ああ。俺が死んだ大規模作戦。兄貴に話したやつだ」
「奏斗と遥斗が重傷を負った作戦」
「そうだ」
遥斗の声から笑みが消えた。
「あの作戦の参加者には、俺の計画に賛同していた奴らがいた」
「フードの四人?」
「一部だ。全員ではない」
「その人たちを、DAは」
「消した」
遥斗は短く言った。
「俺はそう思っている」
「証拠は?」
「作戦情報が不自然だった。敵の数も装備も、現場の構造も、何もかも違っていた。撤退命令は遅れ、通信は潰れた」
「罠だったってこと?」
「DAが仕掛けた処分だ」
「でも、奏斗も巻き込まれた」
千束の声に怒りが混じる。
「奏斗は計画に関係なかったんでしょ?」
「兄貴は俺の近くにいた」
「それだけで?」
「DAにとっては、それだけで十分だったんだろう」
遥斗の手が膝の上でわずかに握られる。
「俺は死んだ。計画は終わったはずだった」
「でも」
「俺は兄貴の中で生き残った」
遥斗は自分の胸へ手を当てる。
奏斗の体。
遥斗の意識。
「それには意味がある」
「意味?」
「俺がまだやるべきことを残しているという意味だ」
「違う」
千束は即座に言った。
「それは、奏斗が生きてるって意味でしょ」
遥斗の目がわずかに揺れた。
「遥斗の臓器で、奏斗が助かった。遥斗が奏斗の中にいるのが本当なら、それは奏斗を壊すためじゃない」
「お前に何が分かる」
「分からないよ」
千束は真っ直ぐ返す。
「でも、奏斗は遥斗のこと、嫌いになりきれてなかった」
「……」
「ひどい弟だったって言ってた。でも弟だって言ってた」
「兄貴は昔からそうだ」
遥斗の声が、少しだけ変わる。
それまでの冷たさに、別の感情が混じった。
「俺が何をしても、結局そばにいた」
「……」
「俺は人から恐れられていた」
遥斗は静かに言った。
「それは自覚していた。子どもの頃からだ。睨めば黙る。怒鳴れば従う。勝てば誰も逆らわない」
「うん」
「最初は気分が良かった。強い方が上。従わせる方が楽だ。そう思っていた」
「遥斗らしいね」
「だが、誰も本音を話さなくなった」
千束は黙って聞いた。
「友達なんていなかった。周りにいたのは、俺を怖がる奴か、俺の力を利用しようとする奴だけだ」
「奏斗は?」
「兄貴だけは違った」
遥斗の声が低くなる。
「兄貴は俺に怒った。文句も言った。殴られても、負けても、たまにまた向かってきた」
「奏斗らしい」
「弱いくせにな」
その言い方には、わずかに懐かしさがあった。
「両親がいなくなってから、本音を話せる唯一の存在が兄貴だった」
千束は、初めて遥斗の顔が少しだけ人間らしく見えた気がした。
支配したがる男。
恐怖を振りまく存在。
DAを潰そうとする危険な人格。
でも、その奥に、兄だけを頼りにしていた弟がいる。
「奏斗は、遥斗と周りの仲を取り持ってくれたんだよね」
「ああ」
「優しいね」
「余計なことばかりしていた」
「でも、嬉しかった?」
遥斗は答えなかった。
ただ、わずかに視線を逸らした。
それが答えのように見えた。
「なら、奏斗を傷つけないで」
千束の声が柔らかくなる。
「奏斗の体で人を殺したら、奏斗が苦しむ」
「それでもやる」
「何で」
「兄貴がやらないからだ」
「奏斗は殺すために生きてるんじゃない」
「なら、何のために生きてる」
「そんなの、これから決めればいいでしょ!」
千束は拘束されたまま身を乗り出した。
「奏斗は奏斗の人生を生きればいい。遥斗の計画のためじゃない」
「その奏斗の人生に、お前がいる」
遥斗は千束を見る。
「だから俺は、お前とは戦いたくない」
「え?」
「兄貴にとって、お前は大切な存在だ」
遥斗ははっきりと言った。
「だから殺さない。傷つけるつもりもない」
「スタンガンで気絶させて拘束してるけど?」
「最低限だ」
「最低限の意味、間違ってる」
「昨日乱暴にしたのは悪かった」
千束は目を細める。
「急に謝るの?」
「兄貴がうるさいからな」
「奏斗、起きてるの?」
「まだ朦朧としてる。でも、昨日の件だけは奥でかなり暴れている」
遥斗はうんざりしたように言った。
「俺は、兄貴がじれったいからさっさと付き合えと思っただけだ」
「はぁ?」
「結果的に付き合っただろ」
「それを自分のおかげみたいに言うな!」
「事実だ」
「違う!」
「兄貴一人なら、あと半年はうじうじしていた」
「……それは」
千束は一瞬だけ言葉に詰まった。
奏斗ならあり得る。
そう思ってしまった。
「でも、あのやり方は最悪!」
「だから悪かったと言っている」
「謝り方が全然悪いと思ってない!」
「思っていない部分もある」
「最悪!」
遥斗は肩をすくめる。
そして、少しだけ表情を戻した。
「兄貴と俺の入れ替わりについても話しておく」
千束はすぐに顔を上げた。
「どうやったら奏斗に戻るの?」
「兄貴に弱い心が出た時、俺が表に出たいと思えば出られる」
「弱い心?」
「迷い、恐怖、焦り、強い怒り。特に、お前が絡むと出やすい」
「私……」
「兄貴はお前のことになると揺れる」
遥斗ははっきり言った。
「守りたい。失いたくない。嫌われたくない。触れていいのか。傷つけたくない。そうやって迷う」
「奏斗らしいね」
「それが隙になる」
「でも、それが奏斗だよ」
「だから俺が出る」
「勝手に?」
「勝手にだ」
「戻るには?」
「出ている間、兄貴の意識は朦朧としている。完全に眠っているわけじゃない。だが、自分から強く表へ戻ろうとしない限り、俺が主導権を持つ」
「奏斗が中で目覚めたら?」
「強制的に兄貴が表になる」
「じゃあ、昨日は」
「お前が呼んだ」
遥斗は少し不機嫌そうに言った。
「兄貴の名前を何度も呼んだから、奥で目を覚ました」
「今日も呼べば戻る?」
「今は無理だ」
「何で」
「兄貴が疲れている」
「遥斗が無理やり動いたからでしょ!」
「そうだ」
「認めるな!」
千束は悔しそうに拘束を引く。
「外して。奏斗を起こす」
「無理だ」
「無理じゃない」
「お前が自由なら、俺は動きづらい」
「当たり前でしょ」
「だから縛っている」
遥斗は立ち上がった。
「話は終わりだ」
「まだ終わってない!」
「追手が来る」
「蒼士さんたち?」
「おそらく」
「じゃあ、早く奏斗に戻って」
「今は戻らない」
遥斗は玄関の方へ向かった。
黒い上着を羽織り、装備を確認する。
奏斗の部屋に置かれていたものではない。
フードの仲間が運び込んだ装備だろう。
「待って!」
千束が叫ぶ。
「遥斗!」
「何だ」
「奏斗の体で、これ以上人を殺さないで」
遥斗は一瞬だけ止まった。
「保証はしない」
「遥斗!」
「兄貴に言え。強くなれとな」
「奏斗は弱くない!」
遥斗は振り返らずに言った。
「なら、俺を止めてみろ」
玄関の扉が開く。
外へ出る直前、遥斗は少しだけ横顔を見せた。
「拘束は、すぐに外れる」
「じゃあ今外していって!」
「嫌だね」
「最悪!」
「それも聞き飽きた」
扉が閉まる。
鍵がかかる音はしなかった。
遥斗は出ていった。
◇
「ちょっと! 外していけってば!」
千束はベッドの上で暴れた。
手首と足首を固定されたまま、何とか拘束を外そうとする。
体をひねる。
指を伸ばす。
器用に手首を動かす。
だが、拘束具は簡単には外れない。
「遥斗のバカ! 最低! ほんと最悪!」
文句を言いながらも、千束は諦めない。
部屋の中には、買ってきた食材が床に散らばっている。
袋から転がった果物。
倒れたスポーツドリンク。
奏斗のために買った食材。
その光景を見ると、千束はさらに腹が立った。
「奏斗に食べさせるつもりだったのに……!」
遥斗の話は、重かった。
DAへの怒り。
過去の作戦。
死んだはずなのに、奏斗の中で生き残った意味。
兄への執着。
孤独。
全部が嘘だとは思えなかった。
でも、だからといって許せない。
奏斗の体で人を殺すことも。
奏斗を苦しめることも。
千束を利用することも。
全部、許せない。
「奏斗……」
千束は呼んだ。
でも、返事はない。
遥斗はもう出ていった。
奏斗はその奥で眠っている。
千束の声は、届かない。
それでも、千束は小さく呟いた。
「戻ってきてよ」
◇
それから五分ほど経った頃。
玄関の方で足音がした。
千束は即座に身構える。
遥斗が戻ってきたのか。
それともフードの仲間か。
扉が開く。
「千束ちゃん!」
入ってきたのは蒼士だった。
その後ろに、リリベルが二名。
千束は一気に力が抜けた。
「蒼士さん!」
「無事か?」
「無事だけど、これ外して!」
「今やる」
蒼士がすぐに拘束具を確認する。
「うわ、厄介なやつ使ってるな」
「感想いいから!」
「はいはい」
後ろのリリベル二人が室内を確認する。
一人は窓。
一人は玄関と廊下。
蒼士は専用の工具を使い、拘束を外していく。
「奏斗は?」
「いない」
「遥斗?」
「うん。出てった」
「くそ、やっぱり遅れたか」
「追わないの?」
「別班が追ってる。俺たちは千束ちゃんの回収優先」
「私は大丈夫!」
「縛られてる時点で大丈夫じゃない」
「それはそうだけど!」
拘束が外れる。
千束はすぐに起き上がった。
手首に痕が残っている。
足首も少し痛む。
「怪我は?」
「スタンガンされた。でも動ける」
「医療確認は?」
「あとでいい。奏斗を追わないと」
「千束ちゃん」
蒼士の声が少し低くなる。
「今、あいつを追うのは危ない」
「でも!」
「遥斗が完全に表に出てる。しかも仲間がいる。無策で追えば、また捕まる」
千束は歯を食いしばる。
「奏斗、奥で朦朧としてるって」
「遥斗が言ったのか?」
「うん。奏斗が中で目覚めれば、強制的に戻るって」
「……情報としては大きいな」
「蒼士さん」
「何だ?」
「奏斗を助けたい」
「分かってる」
「遥斗も止めたい」
「分かってる」
「でも、遥斗を殺したら駄目」
蒼士は少しだけ千束を見る。
「奏斗の体だから?」
「それもある」
「他には?」
「遥斗は奏斗の弟だから」
千束の声は強かった。
「奏斗は、遥斗を嫌いになりきれてない。だから、殺したら奏斗が壊れる」
「……難しいこと言うなぁ」
「難しくてもやる」
「だろうな」
蒼士は小さく息を吐いた。
「とりあえず、ここから移動しよう」
「リコリコ?」
「その前に安全確認だ」
「先生に連絡する」
「詳細はまだ伏せた方がいい」
「分かってる」
千束はスマホを探した。
テーブルの上に置かれていた。
遥斗は取り上げなかったらしい。
画面を開く。
ミカへメッセージを送る。
――奏斗の部屋に着いたよ。少し遅くなるかも。
嘘ではない。
奏斗の部屋に着いた。
ただ、奏斗はいない。
千束は送信したあと、しばらく画面を見つめた。
ミカに全部言いたい。
でも、今言えばリコリコを巻き込む。
ミズキにも知られる。
騒ぎが広がる。
まずは状況を整理しなければならない。
ミカからすぐ返信が来た。
――気をつけなさい。無理はするな。
千束は小さく頷いた。
「……先生には、とりあえず着いたって送った」
「それでいい」
蒼士が言う。
「千束ちゃん」
「何?」
「遥斗から何を聞いた?」
千束は手首をさすりながら、遥斗が話した内容を思い返す。
DA上層部を殺す計画。
リコリスやリリベルの子どもは対象ではないこと。
今日も仲間とDA上層部を殺してきたこと。
大規模作戦はDAによる処分だったと遥斗が考えていること。
協力者たち。
遥斗の孤独。
奏斗だけが本音を話せる存在だったこと。
入れ替わりの条件。
奏斗が中で目覚めれば戻ること。
全部、重要だ。
そして全部、重い。
「話す」
千束は言った。
「でも、その前に」
「何だ?」
「奏斗が帰ってきたときのために、食材だけ片づけていい?」
蒼士は一瞬、目を丸くした。
それから苦笑する。
「千束ちゃんらしいな」
「奏斗、体調不良ってことになってるから。食べやすいもの買ってきたんだよ」
「そうか」
「奏斗が戻ってきたら、食べさせる」
千束は床に落ちた買い物袋へ向かった。
手首は痛い。
足首も少しだるい。
でも、動ける。
奏斗を取り戻す。
遥斗を止める。
DAの闇も、フードの四人組も、全部これからだ。
その前に。
奏斗が戻ってきたとき、少しでも安心できるように。
千束は散らばった食材を、一つずつ拾い始めた。
胸の奥には、怒りと不安と決意が混ざっていた。
それでも、手は止めなかった。
奏斗は必ず戻ってくる。
そう信じて。