君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第二十二話 ひとつだけ負けたもの

 夜の廃墟は、ひどく静かだった。

 

 かつて工場だった建物。

 

 割れた窓。

 

 錆びた鉄骨。

 

 床に積もった埃。

 

 壁には、誰かが残した落書きが薄く残っている。

 

 周囲には人の気配がない。

 

 いや、正確には、隠された気配が四つあった。

 

 押村奏斗の姿をした押村遥斗は、廃墟の奥へ足を踏み入れた。

 

 呼吸は少し荒い。

 

 右肩の服が裂けている。

 

 脇腹にはかすり傷。

 

 左腕にも、銃弾が掠めた痕がある。

 

 致命傷ではない。

 

 だが、ここへ来るまでに楽な道ではなかった。

 

 リリベルの追手。

 

 それも、訓練された者たちが遠距離から撃ってきた。

 

 近づいてはこない。

 

 こちらの姿を確認しても、距離を詰めない。

 

 遮蔽物越しに狙撃し、逃走経路を潰そうとしてきた。

 

 おそらく、【恐怖】を知っている。

 

 接近すれば精神を折られる。

 

 それを理解しているから、近距離戦を仕掛けてこない。

 

「面倒な連中だ」

 

 遥斗は舌打ちした。

 

 奏斗の体は扱いやすい。

 

 訓練を積んでいる。

 

 反応も速い。

 

 傷の治りも悪くない。

 

 だが、遥斗自身の体ではない。

 

 完全に馴染んでいるわけではない。

 

 それに、奥では奏斗の意識が時折揺れる。

 

 完全に眠ってはいない。

 

 千束の声。

 

 千束の顔。

 

 それらが、奏斗を奥から引っ張っている。

 

 だから、長く無理はできない。

 

 遥斗はそれを理解していた。

 

 理解した上で、今夜は動く必要があった。

 

 廃墟の中央。

 

 崩れかけた柱の近くで、黒いフードを被った四人が待っていた。

 

 一人が一歩前へ出る。

 

「遥斗様」

 

「ああ」

 

 遥斗は短く返す。

 

「追手は?」

 

「距離を取っていた。接近してこなかった」

 

「【恐怖】を警戒しているのでしょう」

 

「だろうな」

 

 遥斗は肩を回し、軽く痛みを確認した。

 

「撃たれたか?」

 

「かすっただけだ」

 

「処置を」

 

「後でいい」

 

 遥斗は四人を見た。

 

「報告しろ」

 

 主導役のフードが頭を下げる。

 

「計画通り、各自目標を殺害完了しました」

 

 別の一人が続ける。

 

「第一目標、DA上層幹部。移動中に襲撃、死亡確認」

 

「第二目標、医療部門監督者。自宅付近で排除」

 

「第三目標、作戦情報管理責任者。車両ごと処理」

 

「第四目標、リリベル候補生運用に関与したDA側連絡役。死亡確認」

 

 遥斗は静かに聞いた。

 

 昼間。

 

 遥斗と四人は別々に動いた。

 

 DAの上層部。

 

 過去の作戦に関わった者。

 

 リコリスやリリベルを駒として運用し、子どもたちを使い潰してきた者たち。

 

 彼らを個別に殺害した。

 

 情報統制が始まる前に、同時多発で。

 

 混乱を広げるために。

 

 そして、DAに思い知らせるために。

 

「よくやった」

 

 遥斗は言った。

 

 四人は一斉に頭を下げる。

 

 その様子に、遥斗は少しだけ口元を歪めた。

 

 恐怖で従っているだけではない。

 

 彼らは遥斗の計画に賛同している。

 

 かつて、リリベルやリコリスとして使われ、捨てられかけた者たち。

 

 組織の裏を知り、壊すことを選んだ者たち。

 

 遥斗は彼らを信用しているわけではない。

 

 だが、使える。

 

 同じ目的へ向かう間は、それでいい。

 

「リリベルの追手が来る」

 

 遥斗が言うと、四人の空気が変わった。

 

「やはり」

 

「ああ。兄貴の端末か、別の追跡手段か。どちらにせよ、ここも長くは持たない」

 

「迎撃しますか?」

 

「正面からはやらない」

 

 遥斗は廃墟の外へ視線を向けた。

 

「外国組織へ連絡しろ」

 

「はい」

 

「追手を迎撃させる。こちらはアジトへ戻る」

 

 フードの一人がすぐに通信機を取り出す。

 

 暗号化された短距離通信ではない。

 

 経由を挟んだ別系統。

 

 外国組織との接続。

 

 武器弾薬の供給源。

 

 隠れ家。

 

 逃走経路。

 

 フードの四人は、外国組織を利用している。

 

 外国組織もまた、彼らを利用している。

 

 目的は一致していない。

 

 外国組織は日本国内の治安網を乱したい。

 

 優秀なリコリスやリリベルの排除、組織の内乱、武器流通の拡大。

 

 どれも都合がいい。

 

 一方で、遥斗たちは武器と隠れ場所が必要だった。

 

 利害の一致。

 

 ただそれだけの関係。

 

「外国組織は、どこまで信用できますか?」

 

 フードの一人が尋ねる。

 

「信用する必要はない」

 

 遥斗は即答した。

 

「使える間だけ使う。邪魔になれば潰す」

 

「了解しました」

 

「向こうも同じことを考えているだろうがな」

 

 遥斗はそう言って笑った。

 

 フードの一人が通信を終える。

 

「迎撃部隊を出すそうです。廃墟周辺の道路と南側の空き地に配置」

 

「数は?」

 

「少なくとも八。武装あり」

 

「十分だ」

 

 遥斗は歩き出した。

 

「移動する」

 

 その時、別のフードが一枚の黒い布を差し出した。

 

 フード付きの上着。

 

「これを」

 

 遥斗は一瞬、それを見る。

 

 黒いフード。

 

 四人と同じもの。

 

 顔を隠し、個人を消すための装い。

 

 かつて彼らが名を捨て、組織へ反旗を翻した象徴。

 

「俺にも被れと?」

 

「追手の目を撹乱できます」

 

「それだけか?」

 

「我々にとっては、あなたが戻られた証でもあります」

 

 遥斗は鼻で笑った。

 

「大げさだな」

 

 そう言いながらも、受け取った。

 

 袖を通す。

 

 フードを被る。

 

 視界が少し暗くなる。

 

 顔の輪郭が隠れる。

 

 押村奏斗の顔が、夜の影へ沈む。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 黒いフードの五人は、廃墟の出口へ向かって歩き出した。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 千束は蒼士の運転する車の後部座席に座っていた。

 

 助手席にはリリベルの一人。

 

 もう一人は千束の隣で周囲を確認している。

 

 車内には緊張が満ちていた。

 

 速度は速い。

 

 しかし、無闇に飛ばしているわけではない。

 

 追跡を悟られないよう、経路を変えながら進んでいる。

 

「位置は?」

 

 千束が前のめりに聞く。

 

「まだ動いてる」

 

 蒼士は片手でハンドルを握り、もう片方で端末を確認する。

 

「奏斗のスマホに仕込んである発信機が生きてる」

 

「奏斗が仕込んだの?」

 

「ああ」

 

「いつ?」

 

「少し前だ。もし自分が連絡できなくなったとき、端末側から拾えるようにしておくってな」

 

「そんなこと言ってたの?」

 

「俺にはな」

 

 蒼士は前方を見ながら続ける。

 

「多分、奏斗はこうなる可能性を予想してたんだろう」

 

「遥斗に体を取られること?」

 

「少なくとも、自分が制御できなくなる可能性は考えてた」

 

 千束は唇を結ぶ。

 

 奏斗は、もしものために準備していた。

 

 自分がいなくなっても、誰かが追えるように。

 

 蒼士へ伝えていた。

 

 それは奏斗らしい。

 

 でも、それを自分へは言わなかった。

 

 心配させたくなかったのか。

 

 巻き込みたくなかったのか。

 

 どちらにしても、千束は少し悔しかった。

 

「奏斗、また一人で考えてたんだ」

 

「そういう奴だ」

 

「知ってる」

 

「でも今回は、その準備に助けられてる」

 

「うん」

 

 千束は拳を握った。

 

「絶対見つける」

 

「見つけた後が問題だ」

 

 蒼士の声が少し低くなる。

 

「今、表にいるのは遥斗だ。奏斗じゃない」

 

「分かってる」

 

「顔が奏斗でも、動きは違う。ためらわない。速い。強い。あと、【恐怖】がある」

 

「蒼士さんは効かないんだよね?」

 

「効かないというか、効きにくい」

 

「何で?」

 

「俺にも色々あるんだよ」

 

「ごまかした」

 

「今は詳しく話す時間じゃない」

 

「あとで聞く」

 

「生きて戻れたらな」

 

「戻るよ」

 

 千束は即答した。

 

「奏斗も連れて」

 

 蒼士は少しだけ笑った。

 

「いい返事だ」

 

 端末の位置情報が更新される。

 

 発信源は廃墟付近で一度止まり、今は少しずつ動き始めている。

 

「近い」

 

 蒼士が言った。

 

「全員、警戒」

 

 その直後だった。

 

 前方の廃ビルの影から火花が走る。

 

 銃声。

 

 車体のフロントガラスに亀裂が入る。

 

「伏せろ!」

 

 蒼士が叫ぶ。

 

 車が急ハンドルを切る。

 

 千束は座席に体を低くする。

 

 さらに銃弾が車体を叩く。

 

「待ち伏せ!」

 

 助手席のリリベルが叫ぶ。

 

「数は?」

 

「正面二、右側三以上!」

 

 黒いフードを被った数人が、廃墟近くの道路脇から現れる。

 

 四人組とは違う。

 

 動きはやや荒い。

 

 だが、武装は本物だ。

 

 外国組織の兵か、協力者。

 

「迎撃役か」

 

 蒼士が舌打ちする。

 

 車は廃材の山の陰へ滑り込むように止まった。

 

 千束はすぐに扉を開け、身を低くして外へ出る。

 

 蒼士も反対側から出る。

 

 リリベル二人は素早く車を遮蔽物にして銃を構えた。

 

「蒼士、千束ちゃん!」

 

 リリベルの一人が叫ぶ。

 

「先に行け!」

 

「でも!」

 

「ここは俺たちが抑える!」

 

 もう一人が続ける。

 

「発信源が動いてる! 逃がすな!」

 

 銃弾が飛ぶ。

 

 リリベル二人は正確に応射し、敵の動きを抑える。

 

 千束は一瞬迷った。

 

 ここで戦えば、二人を助けられる。

 

 でも、奏斗を逃がすかもしれない。

 

 遥斗を止められないかもしれない。

 

「千束ちゃん!」

 

 蒼士が叫ぶ。

 

「行くぞ!」

 

「……うん!」

 

 千束は歯を食いしばり、蒼士とともに走り出した。

 

 銃弾の音を背に、廃墟へ向かう。

 

     ◇

 

 廃墟の出口付近。

 

 千束と蒼士は、息を殺して物陰に身を寄せた。

 

 前方。

 

 崩れた壁の向こうから、黒いフードを被った五人組が出てくる。

 

 四人ではない。

 

 五人。

 

 その中の一人。

 

 歩き方。

 

 体格。

 

 雰囲気。

 

 フードを被っていても、千束には分かった。

 

「奏斗……」

 

「いや、今は遥斗だ」

 

 蒼士が低く言う。

 

「分かってる」

 

 千束は銃を構える。

 

 蒼士も同時に構えた。

 

「殺さない」

 

「分かってる」

 

「足止めする」

 

「ああ」

 

 二人は同時に飛び出した。

 

 銃声。

 

 千束の非致死弾が、五人組の足元と手元を狙う。

 

 蒼士の弾は、遮蔽物へ追い込む位置を正確に撃つ。

 

 五人は即座に散った。

 

 それぞれ物陰へ飛び込み、銃弾を避ける。

 

 反応が速い。

 

 訓練されている。

 

 四人組の一人が応戦しようと身を乗り出す。

 

 だが、その直前。

 

 中央のフードが手を上げた。

 

「撃つな」

 

 声。

 

 奏斗の声。

 

 でも、違う。

 

 千束の胸が痛む。

 

 遥斗だ。

 

「しかし」

 

「下がれ」

 

 遥斗が言うと、フードの一人はすぐに銃口を下げた。

 

 命令に逆らわない。

 

 遥斗はゆっくり前へ出た。

 

 蒼士が銃口を向けたまま低く言う。

 

「久しぶりだな、遥斗」

 

「久世蒼士」

 

 遥斗はフードの下で笑った。

 

「まだ生きていたか」

 

「お前こそ、死んだはずだったんだけどな」

 

「兄貴の中で生き残った」

 

「迷惑な話だ」

 

「相変わらず口が減らない」

 

 千束は銃を構えたまま、遥斗を睨む。

 

「奏斗を返して」

 

「まだ無理だ」

 

「無理じゃない」

 

「兄貴は奥で眠っている」

 

「起こす」

 

「今のお前には無理だ」

 

「やってみないと分からない」

 

 遥斗は千束を見た。

 

 フードの影で表情は読みづらい。

 

 だが、声には少しだけ苛立ちがあった。

 

「千束。お前は関わるな」

 

「嫌」

 

「俺はお前とは戦いたくない」

 

「私は遥斗を止めたい」

 

「止めれば兄貴が苦しむぞ」

 

「止めなくても苦しむ!」

 

 千束の声が廃墟に響く。

 

 遥斗は黙った。

 

 その隙に、蒼士が一歩前へ出る。

 

「遥斗。お前の相手は俺だ」

 

「そうだな」

 

 遥斗の視線が蒼士へ移る。

 

「千束は別だ。兄貴の女だからな」

 

「勝手に変な言い方するな!」

 

 千束が叫ぶ。

 

 遥斗はそれを無視した。

 

「蒼士、お前は別だ」

 

「何が?」

 

「お前は殺す」

 

 空気が一気に冷えた。

 

 フードの四人がわずかに動く。

 

 しかし、遥斗は手で制した。

 

「お前たちは帰れ」

 

「遥斗様」

 

「命令だ。アジトへ戻れ」

 

「しかし」

 

「俺が相手をする」

 

 四人は一瞬だけ迷った。

 

 だが、すぐに頭を下げる。

 

「仰せのままに」

 

 四人は煙幕を投げる準備をし、後退し始めた。

 

 千束が追おうとする。

 

 遥斗が一歩動いた。

 

 それだけで、千束の進路が塞がれる。

 

「行かせない」

 

「どいて」

 

「嫌だ」

 

 蒼士が横から声をかける。

 

「千束ちゃん、四人は後回しだ」

 

「でも!」

 

「今はこいつ」

 

 蒼士は銃をしまい、ナイフを抜いた。

 

 遥斗も同じように、腰から刃を抜く。

 

「銃じゃないのか?」

 

 遥斗が笑う。

 

「お前に銃だけじゃ止まらないだろ」

 

「よく分かってる」

 

「あと、近づかないと奏斗を呼べない奴がいる」

 

 蒼士がちらりと千束を見る。

 

 千束は拳を握った。

 

 遥斗は鼻で笑う。

 

「【恐怖】が効かないお前は、昔から鬱陶しかった」

 

「効かないんじゃない。慣れてるだけだ」

 

「普通は慣れない」

 

「俺も普通じゃないんでね」

 

 二人が同時に動いた。

 

     ◇

 

 遥斗は速かった。

 

 奏斗と同じ体。

 

 しかし、使い方が違う。

 

 奏斗は無駄を削る。

 

 観察し、最小の動きで相手を崩す。

 

 遥斗は違う。

 

 最初から相手を壊す速度で踏み込む。

 

 ためらいがない。

 

 相手の反撃を恐れない。

 

 殺すつもりで動く。

 

 蒼士は初撃を受け流し、横へ逃げる。

 

 だが、遥斗の次の蹴りが脇腹へ入る。

 

「ぐっ……!」

 

 蒼士が後退する。

 

 遥斗は止まらない。

 

 刃が走る。

 

 蒼士は紙一重でかわし、反撃のナイフを振るう。

 

 遥斗はそれを手首の角度だけで避け、肘を蒼士の顎へ叩き込もうとした。

 

 蒼士は身を沈めて回避。

 

 低い位置から足払い。

 

 遥斗は軽く跳んで避ける。

 

「動きは悪くない」

 

 遥斗が笑う。

 

「だが、遅い」

 

「お前が速すぎるんだよ」

 

 蒼士は呼吸を整えながら言う。

 

 千束は銃を構えたまま、撃てないでいた。

 

 撃てば奏斗の体に当たる。

 

 非致死弾でも、場所によっては傷つける。

 

 それに二人の動きが速すぎる。

 

 割って入る隙がない。

 

「蒼士さん!」

 

「来るな!」

 

 蒼士が叫ぶ。

 

 その瞬間、遥斗の拳が蒼士の腹へ入った。

 

 蒼士の体が折れる。

 

 遥斗は腕を掴み、壁へ叩きつける。

 

 鈍い音。

 

 蒼士が膝をつく。

 

「くそ……」

 

「昔から、お前は兄貴の味方だったな」

 

 遥斗は蒼士の胸倉を掴む。

 

「俺を止める側だ」

 

「そりゃそうだろ」

 

 蒼士は苦しげに笑う。

 

「お前、昔から危なっかしかったからな」

 

「危ないのはDAだ」

 

「それは否定しない」

 

 蒼士は遥斗の腕を掴む。

 

「でも、お前のやり方は違う」

 

「お前も兄貴と同じことを言う」

 

「奏斗の方が正しいからな」

 

 遥斗の目が冷たくなる。

 

「なら死ね」

 

 刃が上がる。

 

 千束はその瞬間、迷わず動いた。

 

「やめて!」

 

 千束の非致死弾が、遥斗の手首を撃った。

 

 弾が当たり、刃がわずかに逸れる。

 

 蒼士の首を裂くはずだった刃は、壁を削った。

 

 遥斗が千束を見る。

 

「千束」

 

「やめて」

 

 千束は銃を構えたまま近づく。

 

「奏斗の体で、人を殺さないで」

 

「蒼士は俺の邪魔をする」

 

「それでも殺さないで」

 

「お前に指図される理由はない」

 

「あるよ」

 

 千束は一歩近づく。

 

「奏斗が悲しむ」

 

 遥斗の動きが止まった。

 

「奏斗は蒼士さんを信頼してる。殺したら、奏斗が傷つく」

 

「兄貴は甘い」

 

「何回でも言えばいい。私は何回でも言う」

 

 千束は銃を下ろさない。

 

 でも、撃たない。

 

「戻ってきて、奏斗」

 

「今は戻らない」

 

「奏斗!」

 

 遥斗の表情がわずかに揺れる。

 

 だが、前回ほどではない。

 

 奏斗の意識はまだ深い。

 

 遥斗は舌打ちした。

 

「しつこい女だ」

 

「奏斗の女だから」

 

 言ってから、千束は一瞬だけ顔を赤くした。

 

 だが、視線は逸らさない。

 

 遥斗はそれを見て、なぜか少し笑った。

 

「そうか」

 

 そして、蒼士を突き飛ばした。

 

 蒼士は地面へ倒れ、咳き込む。

 

 遥斗は刃をしまう。

 

「今日はここまでだ」

 

「逃げるの?」

 

 千束が言う。

 

「違う。必要なことは終わった」

 

「DAの幹部を殺したこと?」

 

「そうだ」

 

「そんなこと、奏斗は望んでない」

 

「兄貴が望まなくても、俺がやる」

 

 遥斗は後ろへ下がる。

 

 千束が追おうとする。

 

 だが、遥斗は右手を上げた。

 

 遠くで爆音が響く。

 

 外国組織の迎撃部隊が、まだ動いている。

 

 蒼士が咳き込みながら叫ぶ。

 

「千束ちゃん、深追いするな!」

 

「でも!」

 

「罠だ!」

 

 千束は悔しそうに足を止めた。

 

 遥斗はフードを少し上げ、千束を見る。

 

「千束」

 

「何」

 

「俺は兄貴に負けたことなんて、ほとんどない」

 

「……」

 

「戦闘も、判断も、覚悟も。兄貴はいつも迷う。甘い。弱い」

 

「奏斗は弱くない」

 

「だが、一つだけ負けたものがある」

 

 遥斗の声が、少しだけ低くなる。

 

「お前を、ものにできなかった」

 

 千束は息を呑んだ。

 

「俺が奪おうとしても、お前は拒んだ。兄貴を呼んだ。兄貴を選んだ」

 

「当たり前でしょ」

 

「そうだな」

 

 遥斗は薄く笑った。

 

「そこだけは、兄貴に負けた」

 

 千束は銃を握りしめる。

 

「だったら、奏斗に返して」

 

「まだだ」

 

「遥斗!」

 

「兄貴が目覚めたら、いずれ戻る」

 

「今戻って!」

 

「次に会う時までに、考えておけ」

 

「何を」

 

「俺を止めるのか。兄貴を守るのか」

 

「両方やる」

 

 千束は即答した。

 

 遥斗は少しだけ目を細める。

 

「本当に面倒な女だ」

 

「奏斗にはそこがいいって言われてるから」

 

「言ってないだろ」

 

「そのうち言わせる」

 

 千束の声に、わずかな強さと照れが混ざる。

 

 遥斗は短く笑った。

 

 そして背を向ける。

 

「追ってくるな。蒼士を死なせたくなければな」

 

「遥斗!」

 

 千束の声を背に、遥斗は廃墟の奥へ消えていった。

 

 黒いフードが夜の闇に溶ける。

 

 千束は追えなかった。

 

 足元では蒼士が苦しげに息をしている。

 

 遠くではまだ銃声がしている。

 

 フードの四人も逃げた。

 

 奏斗も、戻ってこなかった。

 

「くそ……」

 

 蒼士が小さく吐き捨てる。

 

「やっぱり遥斗は強いな」

 

 千束は何も言わなかった。

 

 ただ、遥斗が消えた方向を見つめる。

 

 怖かった。

 

 悔しかった。

 

 でも、諦めるつもりはなかった。

 

「奏斗」

 

 千束は小さく呼んだ。

 

 今は届かない。

 

 でも、必ず届かせる。

 

 奏斗を取り戻す。

 

 遥斗も止める。

 

 DAの闇も、外国組織も、フードの四人も。

 

 全部が絡み合っている。

 

 それでも、千束の中で答えは一つだった。

 

「両方やるよ」

 

 千束は銃を下ろし、蒼士のもとへ駆け寄った。

 

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