蒼士の呼吸は荒かった。
廃墟から離れた車内で、千束は何度も後部座席の蒼士を振り返った。
蒼士は脇腹を押さえ、肩で息をしている。
出血はひどくはない。
けれど、遥斗に壁へ叩きつけられた衝撃で、体のあちこちを痛めているようだった。
「蒼士さん、大丈夫?」
「大丈夫って言いたいところだけど……まあ、正直、結構痛い」
「リコリス式の応急処置いる?」
「怖いから遠慮する」
「失礼だなぁ」
千束は軽口を返した。
でも、声はいつもより少し硬かった。
リリベル二人は別車両で周辺警戒に回っている。
外国組織の迎撃部隊は、完全に排除できたわけではない。
遥斗も、フードの四人組も逃げた。
奏斗は戻ってこなかった。
それが、千束の胸に重く残っていた。
「リコリコへ戻る」
運転席のリリベルが言う。
「そこが一番安全なの?」
千束が聞く。
「現状、DA側の施設は信用できない。リリベル本部も情報が漏れる可能性がある。リコリコは民間店舗だが、ミカさんがいる」
「先生なら、何とかしてくれる」
千束は小さく頷いた。
車は夜の道を走る。
窓の外を街灯が流れていく。
千束はスマホを握っていた。
奏斗へのメッセージ画面。
既読はつかない。
さっきまで遥斗が奏斗の体を使っていた。
奏斗の意識が奥にいるなら、スマホを見る余裕なんてないのは分かっている。
それでも、画面を見てしまう。
「奏斗……」
声に出すと、胸が苦しくなった。
遥斗の言葉が蘇る。
俺は兄貴に負けたことなんて、ほとんどない。
だが、一つだけ負けたものがある。
お前を、ものにできなかった。
千束は拳を握った。
遥斗は危険だ。
強い。
迷いがない。
でも、奏斗を完全に消しているわけではない。
奏斗はまだいる。
だから、呼ぶ。
何度でも。
◇
深夜のリコリコは、すでに照明が落とされていた。
裏口から入ると、ミカが待っていた。
ミズキもいた。
ミズキは普段ならこの時間、酒を片手に軽口を言っているはずだった。
けれど、千束たちの姿を見ると、すぐに表情が変わった。
「何があったの?」
千束は答えようとして、言葉に詰まった。
蒼士がリリベル二人に支えられながら奥の椅子へ座る。
ミカはすぐに応急処置用の道具を取り出した。
「蒼士、傷を見せなさい」
「すみません、ミカさん。ちょっと派手にやられました」
「話は後だ」
ミカは蒼士の上着を脱がせ、傷の状態を確認する。
千束はその様子を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「先生、ミズキ」
「うん」
ミズキはいつものように茶化そうとして、口を開きかけた。
でも、千束の顔を見て黙った。
千束は自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
ただ、笑えていないことだけは分かっていた。
「奏斗が……遥斗に乗っ取られてる」
店内が静まり返った。
ミズキの目が揺れる。
「乗っ取られてるって……何よ、それ」
「奏斗の中にいる弟の人格。遥斗が、今は表に出てる」
「ちょっと待って」
ミズキは混乱したように額へ手を当てる。
「二重人格ってこと? いや、そんな映画みたいな話……」
軽口を言おうとして、途中で止まった。
千束がまっすぐ見ていたからだ。
ミズキは唇を結び、椅子へ座った。
「……ごめん。続けて」
「遥斗は、DAの幹部を殺してる」
千束の声が震えそうになる。
でも、堪えた。
「今日も、フードの四人と一緒に、複数のDA幹部を殺したって言ってた」
「何ですって……」
ミズキが呟く。
ミカは蒼士の処置を続けながらも、静かに聞いていた。
「遥斗の目的は、DA上層部を殺して、組織を壊すこと。リコリスやリリベルの子どもは対象じゃないって言ってた。でも、だからって止めなくていいわけじゃない」
「奏斗は?」
ミカが聞いた。
「中にいる。遥斗が言ってた。奏斗の意識は朦朧としてるって。でも、奏斗が中で目覚めれば戻るって」
「なるほど」
ミカは包帯を巻きながら、小さく頷いた。
「つまり、奏斗の体は遥斗が使っている。奏斗本人の意思ではないが、外から見れば奏斗がDA幹部を殺していることになる」
「先生」
「分かっている」
ミカは千束を見た。
「だが、状況としてはそう扱われる可能性が高い」
胸が冷たくなる。
千束はミカの次の言葉を聞きたくなかった。
けれど、ミカは言った。
「今後、DAやリリベルが奏斗を“敵”として扱わざるを得なくなる可能性がある」
「違う!」
千束の声が店内に響いた。
ミズキがびくりとする。
ミカは動じない。
千束は一歩前に出た。
「奏斗は敵じゃない」
「千束」
「奏斗は今、遥斗に体を取られてるだけ。奏斗が殺したんじゃない。奏斗は、そんなこと望んでない」
「それは私も分かっている」
「じゃあ敵って言わないで」
千束の目に、強い光が宿る。
「遥斗は止める。でも奏斗は助ける」
「簡単ではない」
「分かってる」
「遥斗を止めるために、奏斗の体を撃たなければならない場面もあるかもしれない」
「撃つなら私が撃つ」
千束は即答した。
「殺さない。止めるために撃つ。奏斗が戻れるように」
「もし戻らなければ?」
「戻す」
「もし遥斗が、さらに人を殺そうとしたら?」
「止める」
「もし奏斗の体を守ることと、誰かの命を守ることが両立しなければ?」
千束は一瞬、答えられなかった。
それは、今までの千束なら簡単に言えたはずのことだった。
命大事に。
誰も殺さない。
助けられる命は助ける。
でも、今回はそこに奏斗がいる。
奏斗の体がある。
千束が好きだと言った相手。
キスをした相手。
自分を選んでくれた相手。
千束は拳を握った。
唇を噛みそうになるのを堪える。
「……それでも」
声は小さかった。
でも、消えなかった。
「それでも、どっちかじゃない」
千束は顔を上げた。
「両方やる」
ミカが黙って千束を見る。
「奏斗を助ける。遥斗を止める。人も死なせない。無理だって言われてもやる。だって、それを諦めたら、私じゃない」
「千束……」
ミズキが小さく名前を呼ぶ。
千束はまっすぐ言った。
「奏斗は敵じゃない」
もう一度。
はっきりと。
「絶対に、敵にしない」
ミカはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「分かった」
「先生」
「なら、その覚悟で動きなさい」
「うん」
「ただし、一人で行くな」
「分かってる」
「分かっていない顔だ」
「……分かってる」
ミカは少しだけ厳しい目で千束を見た。
「奏斗を助けたいなら、千束自身も生きて戻らなければならない」
「うん」
「それを忘れるな」
「忘れない」
◇
蒼士の処置が終わると、全員で情報を整理した。
蒼士は脇腹と肩に包帯を巻かれ、椅子に深く座っている。
顔色は少し悪いが、意識ははっきりしていた。
「遥斗について、俺が知ってることを話す」
蒼士はそう切り出した。
「昔から、あいつはリリベル内で異質だった」
「異質?」
ミズキが聞く。
「ああ。強すぎた。子どもなのに、すでに周りを支配するような空気を持ってた。戦闘能力も異常だったけど、それ以上に、人を恐れさせる力があった」
「【恐怖】」
千束が呟く。
「そう。正式に能力として扱われたのは後かもしれないけど、兆候は遥斗の時点であった」
「蒼士さんには効かないんだよね」
「効きにくい、だな」
「何で?」
蒼士は少し考えた。
「俺は昔から、恐怖に対する反応が鈍い。感覚がないわけじゃない。怖いものは怖い。でも、体が止まりにくい」
「訓練?」
「それもある。たぶん体質もある。だから遥斗にとって、俺は邪魔な存在だった」
「恐怖で従わないから」
「そうだ」
蒼士は苦笑した。
「遥斗は、自分を怖がらない相手が嫌いだった。俺は特に目障りだったんだろうな」
「だから殺すって」
「ああ」
蒼士は表情を少し引き締める。
「それと、遥斗の計画に賛同していた候補生たちが昔いた」
「フード四人組?」
「可能性は高い。一部は死んだと記録されている。だが、記録そのものが正しいかは分からない」
「DAが偽装したかもしれない?」
「あるいは、生き残った者が死亡扱いにされた」
ミカが静かに言う。
「DAは、本当に遥斗を危険視していたのか」
「はい」
蒼士は頷いた。
「遥斗は危険だった。でも同時に、DAにとって都合の悪いことを考えていた」
「リコリスやリリベルの解放」
千束が言う。
「その言葉だけなら、間違ってない部分もある」
蒼士は苦い顔をした。
「俺たちは子どもの頃から武器を持たされ、任務に出される。自由だの未来だの、そんなものは後回しだ。遥斗はそれを憎んでいた」
「でも、殺して壊すのは違う」
「ああ。だから止めなきゃならない」
「遥斗は、DAに潰された存在でもあるんだね」
ミズキがぽつりと言った。
誰もすぐには答えなかった。
遥斗は危険だ。
人を殺している。
奏斗の体を奪い、千束を拘束した。
許せることではない。
でも、ただの悪役として切り捨てられる存在でもない。
DAの闇に潰された子ども。
兄だけを本音の拠り所にしていた弟。
その末に、恐怖で世界を変えようとしている。
千束は胸の奥が重くなった。
遥斗を止める。
でも、遥斗を理解しないまま撃つことはできない。
奏斗のためにも。
◇
深夜。
少しだけ店内が落ち着いた頃、ミカは千束を店の外へ呼んだ。
外は、夜風が少し冷たかった。
街の明かりが遠くに見える。
千束は入口近くに立ち、空を見上げた。
ミカは隣へ来る。
「冷えるな」
「うん」
「大丈夫か?」
「大丈夫って言ったら嘘かも」
「そうか」
ミカは無理に励まさなかった。
それが千束にはありがたかった。
「先生」
「何だ」
「奏斗、戻ってくるよね」
その問いに、ミカはすぐには答えなかった。
千束も分かっている。
大丈夫だ、と簡単に言える状況ではない。
奏斗の意識がどこまで残っているのか。
遥斗がどれだけ強く主導権を握っているのか。
誰にも分からない。
「千束」
「うん」
「もし、奏斗が戻らなかったらどうする」
胸が詰まった。
千束は答えられなかった。
戻らなかったら。
遥斗のままだったら。
奏斗が奥に沈んだままだったら。
そんなこと、考えたくない。
「先生は、奏斗を撃てって言うの?」
「状況による」
「……」
「私は、お前に残酷なことを言うかもしれない」
「聞きたくない」
「それでも言う。千束が生きるために必要なら」
「私は奏斗を助ける」
「ああ」
「遥斗も止める」
「ああ」
「だから、奏斗が戻らないなんて言わないで」
声が震えた。
千束は拳を握る。
「戻らないなら」
言葉が詰まる。
でも、飲み込まない。
ちゃんと言う。
「戻るまで呼ぶ」
ミカは千束を見る。
「奏斗が私を呼んでくれたから」
千束の中に、あの夜の記憶が浮かぶ。
遥斗が表へ出たとき。
自分が恐怖を感じたとき。
それでも、奏斗は戻ってきた。
千束が呼んだから。
戻ってこい、と言ったから。
「今度は私が呼ぶ」
「何度でもか」
「何度でも」
「届かなくても?」
「届くまで」
千束は顔を上げた。
「奏斗は、私の声なら聞こえる」
それは確信ではなかった。
願いに近い。
でも、千束にはそれしかなかった。
ミカは静かに頷いた。
「分かった」
「先生」
「なら、呼び続けなさい」
「うん」
「そして、戻った奏斗を受け止めてやれ」
千束は少しだけ笑った。
「うん」
◇
店内へ戻ると、千束はスマホを取り出した。
奏斗へのメッセージ画面。
既読はついていない。
それでも、送る。
千束は指を動かした。
――奏斗、帰ってきて。
少し迷って、次の文を打つ。
――怒ってない。
すぐに消した。
違う。
怒っていないわけではない。
遥斗に体を奪われたこと。
勝手にいなくなったこと。
何も言わずに一人で抱え込んだこと。
それには怒っている。
千束はもう一度打ち直す。
――怒ってない、って言いたいけど、ちょっと怒ってる。
――勝手にいなくなったのは怒ってる。
――でも、待ってるから。
――帰ってきて。
送信。
画面を見つめる。
既読はつかない。
分かっていた。
それでも、胸が少し痛んだ。
千束はスマホを握りしめる。
「届いてよ……」
小さく呟いた。
その時、蒼士が近づいてきた。
「千束ちゃん」
「何?」
「奏斗の発信機をまだ拾えてる」
「発信機?」
「ああ」
蒼士は端末を見せた。
位置情報が点滅している。
「奏斗が事前に用意してたやつだ。DAには言ってない」
「DAに言ってない?」
「情報が漏れる可能性があるからな。俺と奏斗だけが知っている」
「奏斗……」
千束は画面を見る。
奏斗は、ちゃんと道を残していた。
自分が消えたとき、誰かが追えるように。
「助けて」とは言わないくせに。
助けられる準備だけはしている。
そういうところが奏斗らしくて、千束は泣きそうになった。
「行ける?」
千束が聞く。
「俺は負傷してる。正面からはきつい」
「でも来るんでしょ?」
「行くに決まってるだろ」
蒼士は苦笑した。
「奏斗を止められる可能性があるのは、千束ちゃんと俺くらいだ」
「じゃあ行こう」
ミカが奥から銃のケースを持ってきた。
「千束」
「先生」
「非致死弾は多めに用意した」
「ありがとう」
「無理はするな」
「分かってる」
ミカの声は静かだった。
「お前ならできる」
千束は深く頷いた。
「やる」
銃を手に取る。
重さ。
冷たさ。
いつもの相棒。
でも今夜撃つ相手は、いつもの敵ではない。
奏斗の体をした遥斗。
千束は銃を握りしめた。
「奏斗を助ける」
◇
その頃。
遥斗はフードの四人組とアジトにいた。
地下に作られた簡易拠点。
壁には地図。
机には武器と端末。
外部との通信機器。
外国組織から受け取った弾薬箱。
フードの四人は、それぞれ装備の確認をしている。
遥斗は椅子に座り、奏斗のスマホを手に取った。
通知が来ていた。
千束から。
画面を開く。
――奏斗、帰ってきて。
遥斗は眉をひそめる。
無視しようとした。
スマホを伏せる。
だが、指が止まった。
続きのメッセージが目に入る。
――怒ってない、って言いたいけど、ちょっと怒ってる。
――勝手にいなくなったのは怒ってる。
――でも、待ってるから。
――帰ってきて。
遥斗の手が、ほんの一瞬だけ震えた。
「……っ」
胸の奥で、何かが動く。
奏斗だ。
眠っているはずの兄が、メッセージに反応した。
千束の言葉に。
帰ってきて、という声に。
遥斗は奥歯を噛む。
「……まだ起きるなよ、兄貴」
低く呟いた。
フードの一人が近づく。
「遥斗様?」
「何でもない」
遥斗はスマホを机へ置いた。
画面を伏せる。
見なかったことにする。
でも、手の震えは完全には消えていなかった。
「次の目標を伝える」
遥斗は立ち上がった。
四人が一斉に姿勢を正す。
壁の地図。
その中心にある施設。
DA本部。
「次は、DA本部を狙う」
四人の空気が変わった。
緊張。
興奮。
覚悟。
「上層部の一部を殺した程度では、DAは止まらない。中枢を叩く」
「突入計画は?」
「正面からは行かない。内部情報を使う」
「協力者は?」
「まだいる」
遥斗は冷たく笑った。
「DAは自分たちの中に何が残っているか知らない」
机の上で、奏斗のスマホが小さく震えた。
新しい通知ではない。
ただ、画面が一瞬光っただけだった。
遥斗はそれを見ない。
見れば、また兄が揺れる。
今はまだ戻らせない。
計画は始まった。
もう止まらない。
「行くぞ」
遥斗の声に、フードの四人が頷いた。
次の標的は、DA本部。
千束たちが追いつく前に、遥斗はさらに深い闇へ踏み込もうとしていた。