DA本部の空気は、いつも冷たかった。
白く磨かれた床。
無機質な壁。
規則正しく並ぶ端末。
必要最低限の会話だけが飛び交う管制室。
そこには、街の喫茶店にあるような笑い声も、コーヒーの香りもない。
命令。
報告。
処理。
隠蔽。
それだけが、静かに積み重なっていく場所。
リコリスたちは、その中で動く。
白い制服を着た少女たち。
国の治安を守るため。
誰にも知られず、誰かを殺すため。
それが当然だと教えられた少女たち。
そのDA本部で、最初の銃声が響いた。
乾いた音だった。
続けて二発。
管制室の奥にいた幹部の一人が、椅子から崩れ落ちる。
「え……?」
近くにいた職員が声を漏らした。
倒れた男の胸元から血が広がっていく。
その前に立っていたのは、リコリスだった。
年齢は十代半ば。
表情は冷たく、銃口はまだ煙を上げている。
「対象、排除」
少女は淡々と言った。
次の瞬間、別の場所でも銃声が鳴る。
廊下。
会議室前。
資料管理区画。
幹部用の執務室。
同時多発的に、DA本部内で銃撃が起こった。
数名のリコリスが、DA幹部へ銃を向けていた。
彼女たちは外部の侵入者ではない。
DA本部内で任務を受け、待機し、命令に従っていたはずのリコリスたちだった。
だが今、彼女たちは幹部を殺している。
内部からの反乱。
その言葉が管制室に届くまで、そう時間はかからなかった。
「第三区画で発砲!」
「幹部二名、応答なし!」
「第二区画にも反応! リコリスです、所属リコリスが幹部を攻撃しています!」
「隔壁を下ろせ!」
「駄目です、権限が書き換えられています!」
管制室が一気に騒然となる。
端末の警告表示が赤く染まる。
銃声は遠くから近くへ移動していた。
反乱リコリスたちはただ撃っているのではない。
狙いがある。
DA幹部。
作戦権限を持つ者。
情報統制に関わる者。
リコリス運用に関わる者。
そして、本部内部の一部システム。
偶発的な暴発ではない。
明確に準備された反乱だった。
「楠木司令!」
職員の一人が叫ぶ。
楠木は管制室の中央で、モニターを睨んでいた。
表情に大きな乱れはない。
だが、その目は鋭く細められている。
「反乱リコリスの数は」
「確認できているだけで六名。まだ増える可能性があります」
「外部からの侵入は」
「現時点で未確認。ただし、周辺の監視網に一部妨害あり」
「本部内協力者がいるな」
楠木は低く言った。
職員たちは返事をしない。
返事をする余裕がなかった。
銃声が、また近づく。
「各リコリスへ鎮圧命令」
「了解!」
楠木の声は冷たかった。
その直後、別のモニターに外部通信の警告が表示される。
DA本部付近で、複数の不審反応。
黒いフードの集団。
外部から接近中。
楠木の目がわずかに動いた。
「……来るか」
彼女はすぐに端末を操作した。
通信先は、喫茶リコリコ。
正確には、錦木千束の端末だった。
◇
車内で、千束の端末が鳴った。
運転席には蒼士。
助手席にはリリベルの一人。
後部座席に千束が座っている。
車は奏斗の発信機の位置を追って走っていた。
発信源は、DA本部の方向へ移動している。
その時点で、千束の胸には嫌な予感があった。
そこへ楠木からの通信。
千束はすぐに出た。
「楠木司令?」
『錦木千束』
通信越しの楠木の声は硬かった。
『DA本部で反乱が発生した』
「反乱?」
『本部所属リコリス数名が幹部を殺害。現在、本部内で銃撃戦が起きている』
千束の手に力が入る。
「リコリスが?」
『そうだ。さらに外部から武装勢力が接近している。黒いフードを被った集団だ』
千束は蒼士を見る。
蒼士も端末の位置情報を確認していた。
「奏斗……ううん、遥斗もそこに向かってる」
『押村奏斗か』
「今は遥斗が表に出てる」
『状況は把握している。詳細は後で聞く』
楠木は短く言う。
『錦木千束。DA本部へ救援に来い』
千束は一瞬、答えなかった。
DA本部。
そこにはリコリスがいる。
幹部がいる。
反乱を起こしたリコリスがいる。
そして、遥斗が向かっている。
奏斗の体で。
「命令?」
『そうだ』
楠木の声は変わらない。
『ただし、任務内容は反乱の鎮圧と、押村奏斗の確保。可能であれば生存状態で拘束しろ』
「可能であれば?」
千束の声が低くなる。
「奏斗は殺させない」
『ならばお前が止めろ』
楠木はそう返した。
冷たい言い方だった。
でも、千束には分かった。
楠木も、状況が最悪へ向かっていることを理解している。
DA本部で反乱。
幹部の殺害。
外部武装勢力の接近。
奏斗の体を使う遥斗。
このままなら、DAは奏斗を敵として処理する。
それを止められる可能性があるのは、千束だけ。
「分かった」
千束は答えた。
「行く」
『本部入口は混乱している。到着後、誘導を送る』
「いらない」
『何?』
「遥斗のところへ行けばいいんでしょ」
千束は端末を握りしめる。
「私が見つける」
通信を切る。
車内に沈黙が落ちた。
蒼士が前を見たまま言う。
「状況、最悪だな」
「うん」
「反乱リコリスが遥斗側なら、本部内に道案内がいる」
「遥斗たちを迎え入れるため?」
「そう考えるのが自然だ」
千束は窓の外を見る。
街の景色が流れていく。
もうすぐDA本部。
リコリスとしての古巣。
けれど今は、そこへ奏斗を助けに行く。
遥斗を止めるために。
同じリコリスたちとも戦うかもしれない。
「千束ちゃん」
蒼士が言う。
「迷うなとは言わない。でも、止まるな」
「分かってる」
「遥斗は、迷ったところを突く」
「知ってる」
千束は自分の銃を確認した。
非致死弾。
十分な数。
殺さない。
でも、止める。
「奏斗を戻す」
千束は小さく呟いた。
◇
DA本部へ近づくと、すでに外周は混乱していた。
通常なら、外からはただの管理施設にしか見えない場所。
今は違う。
警報灯が赤く回り、職員用車両が慌ただしく動いている。
遠くから銃声が聞こえる。
建物内部から響く、断続的な発砲音。
千束は車が完全に止まる前に扉へ手をかけた。
「千束ちゃん、待て!」
「待たない!」
車が停車する。
千束は飛び出した。
蒼士も後に続く。
負傷している体で無理をしているのが分かる。
だが、止めても聞かないだろう。
それは千束も同じだった。
入口付近には、DA職員とリコリスが数名いた。
彼女たちは千束を見ると、一瞬だけ驚いた顔をした。
「錦木千束……!」
「状況は?」
「内部で反乱リコリスが銃撃。上層階へ向かっています。外部からの侵入者も――」
説明の途中で、奥の通路から銃声が響いた。
壁の一部が砕ける。
反乱リコリスが数名、姿を現した。
白い制服。
年齢は千束と同じか、少し下。
顔には迷いがない。
彼女たちは千束を撃たなかった。
代わりに、一人が前へ出る。
「錦木千束」
千束は銃を構えた。
「あなたたち、何してるの?」
「DAを終わらせる」
少女は淡々と言った。
「遥斗様が来る」
「遥斗様?」
千束の目が鋭くなる。
「あなたたちも遥斗の仲間?」
「私たちは解放される」
「誰に?」
「DAから」
少女の声は静かだった。
でも、その奥には強い熱があった。
「私たちは、殺すために育てられた。命令され、撃ち、隠される。失敗すれば捨てられる。もう終わりにする」
「だから幹部を殺したの?」
「そう」
「それで自由になれると思ってるの?」
「少なくとも、鎖は壊せる」
千束は唇を結んだ。
彼女たちの言葉を、全部否定できるわけではない。
DAのやり方は、正しいだけではない。
千束自身も、それを知っている。
それでも。
「殺して壊した先に、何があるの?」
「何もないよりいい」
「違う」
千束は一歩前へ出る。
「何もないからって、人を殺していい理由にはならない」
「DAがそれを言うの?」
「私はDAのために言ってるんじゃない」
千束は銃口を下げなかった。
「私がそうしたくないから言ってる」
少女は少しだけ目を細めた。
「遥斗様のもとへ案内する」
「罠?」
「違う。遥斗様が、あなたに会うことを望んでいる」
「奏斗は?」
その名前を出した瞬間、少女の表情がわずかに変わった。
「押村奏斗は、遥斗様の器」
千束の指が引き金にかかる。
「その言い方、嫌い」
「事実」
「違う」
千束は低く言った。
「奏斗は奏斗。遥斗の器なんかじゃない」
少女は答えなかった。
ただ背を向ける。
「来るなら来て」
千束は蒼士を見た。
「行く」
「ああ」
蒼士は頷く。
「ただ、気をつけろ。案内されている時点で、向こうの土俵だ」
「分かってる」
千束は反乱リコリスの後を追った。
◇
本部内部は混乱していた。
白い廊下に銃痕。
倒れた端末。
壊れた監視カメラ。
遠くで続く銃声。
白い制服のリコリス同士が撃ち合っている。
DAの職員が壁際に倒れている。
幹部と思われる男が、血を流して廊下に横たわっている。
千束は歯を食いしばった。
これは、遥斗が起こしたものだ。
でも、それだけではない。
この中にいる反乱リコリスたちは、自分の意思で引き金を引いている。
遥斗に従っている。
あるいは、遥斗を信じている。
そのことが重かった。
反乱リコリスは、上層階へ続く通路の前で止まった。
「この先」
「奏斗は?」
「遥斗様がいる」
「だから、その言い方やめてってば」
千束は銃を構え直す。
扉が開く。
広い訓練ホールだった。
DA本部内にある、リコリス用の実戦訓練場。
高い天井。
複数の遮蔽物。
白い床に、薄く残る足跡。
その中央に、黒いフードを被った人物が立っていた。
フードがゆっくり外される。
奏斗の顔。
でも、目が違う。
「来たか、千束」
遥斗が笑った。
千束の胸が痛む。
それでも、銃を下ろさない。
「奏斗を返して」
「何度も言わせるな。まだ無理だ」
「じゃあ、無理やり戻す」
「できると思うか?」
「やる」
遥斗は楽しそうに笑った。
「いい目だ」
「褒められても嬉しくない」
「兄貴が惚れるわけだ」
「黙って」
千束は引き金を引いた。
非致死弾が床を蹴るように飛ぶ。
遥斗は横へ跳んで避けた。
速い。
けれど、千束の目は追えている。
奏斗の体。
遥斗の動き。
どこかに必ず、奏斗の癖が残る。
足の踏み込み。
視線の動き。
怪我をかばう癖。
完全に遥斗のものではない。
千束はそこを見る。
遥斗は近づく。
銃ではない。
ナイフを抜き、距離を詰める。
千束は撃つ。
一発。
二発。
三発。
遥斗は避ける。
だが、完全には避けきれない。
左肩に一発、右腿に一発、非致死弾が当たる。
「ちっ」
遥斗が顔を歪める。
「避けられると思った?」
「兄貴の体が邪魔だな」
「奏斗の体だから、私には見える」
千束は走る。
弾幕を張るのではなく、遥斗の動きを誘導する。
右へ逃げるなら、そこへ弾を置く。
左へ踏み込むなら、足元を撃つ。
遥斗は強い。
速い。
迷いがない。
でも、千束は銃弾を避ける天才だ。
相手の射線を読むだけではない。
体の動きから、次の行動を予測できる。
しかも、相手は奏斗の体。
この数週間、誰よりも近くで見てきた体だった。
戦う時の癖も。
迷った時の癖も。
傷をかばう時の癖も。
千束は知っている。
「奏斗!」
千束は呼びながら撃つ。
「聞こえてるんでしょ!」
遥斗が一瞬だけ眉をひそめる。
「呼んでも無駄だ」
「無駄じゃない!」
千束はさらに踏み込む。
遥斗のナイフが横薙ぎに走る。
千束は身を沈めて避け、近距離から腹部へ非致死弾を叩き込んだ。
遥斗の体が後ろへ飛ぶ。
「ぐっ……!」
床を滑り、膝をつく。
千束はすぐに銃口を向ける。
「終わり」
遥斗は息を荒くする。
非致死弾とはいえ、至近距離から複数発受ければ動きは鈍る。
しかも奏斗の体は、まだ完全ではない。
療養明けの傷もある。
遥斗は立とうとするが、膝がわずかに震えた。
「……兄貴の体が、足を引っ張る」
「違う」
千束は言う。
「奏斗が止めてるんだよ」
遥斗の目が鋭くなる。
「奏斗が、中で抵抗してる。だから、あなたは完全には動けない」
「黙れ」
「奏斗!」
千束は叫んだ。
「戻ってきて!」
その瞬間、遥斗の表情が大きく歪んだ。
奥で何かが揺れた。
奏斗が反応した。
千束には、それが分かった。
だが、次の瞬間。
横から黒い影が飛び込んできた。
「千束ちゃん!」
蒼士の声。
フードの一人。
どこに潜んでいたのか、反乱リコリスの案内に紛れていたのか。
黒いフードを被った一人が、千束へ刃を向けて襲いかかる。
千束は気づくのが一瞬遅れた。
遥斗へ意識を集中していた。
奏斗を呼ぶことに、全力を注いでいた。
刃が腕を裂いた。
「っ!」
左腕に鋭い痛み。
血が飛ぶ。
千束は反射的に後退し、右手で銃を構える。
だが、フードはさらに踏み込む。
「邪魔だ、錦木千束!」
千束は撃とうとした。
しかし、左腕の痛みで体勢が崩れる。
フードの刃が、今度は肩口を狙う。
その時。
「やめろ」
声がした。
遥斗の声ではない。
奏斗の声だった。
フードの動きが止まる。
千束も息を飲む。
床に膝をついていた奏斗が、顔を上げていた。
目の色が戻っている。
冷たい遥斗の目ではない。
いつもの、少し固くて、でも千束を見る時だけ柔らかくなる奏斗の目。
「奏斗……!」
千束の声が震える。
奏斗は立ち上がろうとして、よろめいた。
蒼士が駆け寄ろうとするが、奏斗は片手で制した。
「千束の傷を」
「奏斗、自分が」
「先に千束です」
奏斗は千束の方へ歩く。
一歩ごとに痛みがあるはずだ。
非致死弾を受けた体。
遥斗が無理に動かした体。
それでも奏斗は千束の前まで来た。
「見せてください」
「奏斗、戻ったの?」
「今は」
「今はって何」
「完全ではありません。でも、表には戻りました」
奏斗は持っていた簡易止血材を取り出す。
いつの間に取り戻したのか。
おそらく、訓練ホール内の応急処置セットから取ったのだろう。
奏斗は千束の腕の傷を確認する。
「深くはありません。止血します」
「奏斗」
「痛みますか?」
「痛いけど、それより」
「動かないでください」
いつもの奏斗だった。
こんな状況なのに。
千束の傷を見て、真っ先に手当てしようとしている。
千束は泣きそうになった。
「戻ってきた……」
「千束が呼びましたから」
奏斗は静かに言った。
「聞こえました」
「本当に?」
「はい」
その言葉に、千束の胸が熱くなる。
でも、安心する時間はなかった。
フードの一人が、少し離れた場所で笑った。
「甘いですね、押村奏斗」
奏斗は振り返る。
フードは銃を構えていた。
千束ではなく、奏斗へ。
「遥斗様なら、まず敵を排除する。あなたは負傷した女の手当てを優先した」
「千束は敵ではありません」
「だから弱い」
「その言葉は聞き飽きました」
「あなたが弱いから、遥斗様が必要になる。あなたが迷うから、遥斗様が表に出る。あなたが守れないから、遥斗様が殺す」
フードの言葉が、奏斗へ突き刺さる。
千束はすぐに声を上げた。
「違う!」
だが、フードは止まらない。
「今日、遥斗様は多くの幹部を殺した。あなたの体で。あなたの手で。DAはあなたを殺人犯として扱うでしょう」
奏斗の表情がわずかに揺れる。
「あなたが戻っても、もう遅い」
「やめて」
千束が言う。
「奏斗にそんなこと言わないで」
「事実です」
フードはさらに続ける。
「あなたがいなければ、遥斗様はもっと早くDAを壊せた。あなたが邪魔をしている。あなたの弱さが、すべてを遅らせている」
奏斗の呼吸が乱れる。
千束はそれに気づいた。
まずい。
奏斗が揺れている。
遥斗がまた表に出る条件。
焦り。
恐怖。
危険。
そして、自分を責める心。
「奏斗!」
千束は手当て途中の腕で、奏斗の袖を掴んだ。
「聞かないで!」
「ですが」
「私を見て!」
奏斗は千束を見る。
千束はまっすぐ見返す。
「奏斗は戻ってきた。私の傷も見てくれた。今ここにいるのは奏斗」
「……はい」
「遥斗じゃない」
「はい」
奏斗は頷こうとした。
その時、頭の奥で声がした。
『本当にそうか?』
遥斗の声。
奏斗の視界が揺れる。
『お前が戻ったせいで、千束は傷を負った』
『違います』
『俺なら防げた』
『違う』
『俺なら、あいつを先に殺していた』
『殺させません』
『だから弱い』
奏斗は目を閉じた。
内側へ沈む。
千束の声が遠くなる。
外の訓練ホールが薄れていく。
意識の中に、暗い空間が広がった。
そこに、遥斗が立っていた。
幼い頃の姿ではない。
今の奏斗と同じくらいの年齢。
だが、目だけは昔のままだった。
人を従わせる目。
恐怖を知り、恐怖を使う目。
「やっと向き合う気になったか、兄貴」
遥斗が笑う。
奏斗は静かに立つ。
「あなたを止めます」
「止めてどうする」
「千束を助ける。DA本部の反乱も止める」
「甘いな」
「何度も聞きました」
「お前は戻っても地獄だぞ」
遥斗は歩きながら言う。
「俺が殺した幹部の血は、お前の手につく。DAはお前を敵として見る。リリベルも、お前を危険物扱いする」
「それでも戻ります」
「千束も傷ついた」
「だから戻ります」
「お前がいれば、また傷つく」
「私がいなくても傷つきます」
奏斗は遥斗を見る。
「千束は、私が守ると言っても勝手に前へ出る人です」
「よく分かってるじゃないか」
「だから、一緒に戦うしかありません」
「守れないくせに?」
「守るだけでは足りない」
奏斗の声が少し強くなる。
「千束は、守られるだけの人ではありません」
遥斗の笑みが消える。
「私は千束を守りたい。でも、千束の意志を奪いたいわけではない」
「だから弱い」
「それが私です」
奏斗は一歩前へ出る。
「弱くても、迷っても、私は私のまま戻ります」
「俺を否定するのか」
「いいえ」
奏斗は首を振った。
「あなたも私の一部です。遥斗、あなたは私の弟です」
遥斗の目がわずかに揺れる。
「だから、もう私の体で勝手に殺させない」
「兄貴……」
「あなたの怒りも、痛みも、孤独も、知らなかったことにはしません」
奏斗は言う。
「でも、あなたの計画には従わない」
暗い空間が揺れる。
遥斗の周囲に黒い霧のようなものが広がる。
【恐怖】。
奏斗の中にある恐怖。
遥斗の中にある恐怖。
それが意識の空間を満たしていく。
「なら、力ずくで奪ってみろ」
遥斗が低く言った。
奏斗は構えた。
外では、千束が奏斗の体を支えている。
内側では、奏斗と遥斗が向かい合う。
兄と弟。
器と影。
恐怖を使う者と、恐怖を抑える者。
二人の戦いが、意識の奥で始まろうとしていた。