喫茶リコリコへ戻ったときには、もう日付が変わろうとしていた。
表の照明は落とされ、入口の看板も店内へ片づけられている。けれど、カウンターの上には明かりが残されていた。
扉の鍵を開けて中へ入る。
「ただいまー」
いつもの調子で声をかけたつもりだった。
でも、自分で思っていたより、声に元気がなかった。
カウンターの奥には先生がいた。
紫色の和服姿のまま、椅子に腰かけている。その表情は穏やかだったけれど、私が帰ってくるのを待っていたことはすぐに分かった。
ミズキも店に残っていた。
カウンター席に座り、飲みかけの缶を片手にこちらを見る。
「遅かったじゃない」
「ミズキ、まだいたの?」
「通信を聞いてたら帰れるわけないでしょ」
「もしかして、心配してくれた?」
「違うわよ。面白そうな話を聞き逃したくなかっただけ」
「素直じゃないなぁ」
「無事そうなら、まず報告しなさい」
ミズキはそう言ったけれど、その視線は私の全身を確認していた。
怪我がないかを見ている。
私は両腕を広げ、その場で一回転した。
「見てのとおり、怪我なし。今日も元気!」
「傷を隠してないでしょうね?」
「隠してないって」
「念のため確認する」
先生に言われ、私は両手を上げた。
「先生まで疑うの?」
「千束には前科がある」
「ちょっとかすったくらいなら怪我じゃないよ」
「そういうところよ」
ミズキが呆れたように言う。
先生は私の腕や首元を簡単に確認し、本当に怪我がないと分かると、ようやく小さく息をついた。
「座りなさい」
「はーい」
私はカウンター席へ腰を下ろした。
いつもなら閉店後の静かな店内は落ち着く。
けれど、今夜は少しだけ違って感じられた。
つい数時間前、この店にいた少年が、夜の倉庫街で銃を持っていた。
パフェを食べながら冗談を言っていた奏斗。
無表情のまま人を撃った奏斗。
どちらも同じ人間だと分かっているのに、二つの姿がまだ頭の中でうまく重ならない。
「それで?」
ミズキが身を乗り出す。
「相手は何者だったの?」
「リリベル」
私が答えると、ミズキの表情が止まった。
先生も、わずかに目を細める。
「……リリベル?」
「うん」
「ちょっと待って。リリベルって、あのリリベル?」
「ほかのリリベルを知らないけど、たぶんそのリリベル」
「男性版リコリスみたいな連中のことでしょう?」
「そうみたい」
ミズキは持っていた缶をカウンターへ置いた。
「本当に実在してたの?」
「私も同じこと言った」
「いや、いるとは聞いてたわよ。でもリコリスとは運用系統が別だし、情報もほとんど出てこないじゃない。活動範囲も任務内容も不明。DAの中でも知ってる人間は限られてるはずよ」
「奏斗は、自分でリリベルだって言ってた」
「奏斗?」
ミズキが眉を寄せる。
「誰よ、それ」
「ほら、パフェ食べに来た子」
数秒の沈黙。
ミズキの目が大きく見開かれた。
「はあ!?」
静かだった店内に、大きな声が響いた。
「うるさいよ、ミズキ」
「うるさくもなるわよ! あの子がリリベルだったの!?」
「そうだよ」
「甘いものが大好きで、あんたの馬鹿話に普通に付き合ってた、あの十七歳が?」
「馬鹿話じゃないけど、あの奏斗」
「全然そう見えなかったじゃない!」
「私も気づかなかった」
「千束が?」
「うん」
私は素直にうなずいた。
最初に奏斗が店へ来たとき、何の違和感もなかった。
姿勢がよくて、少し大人びて見えた。
会話が上手で、周囲をよく見ているようにも感じた。
でも、それだけだった。
訓練を受けたエージェントだとは思わなかった。
まして、リリベルだなんて。
「武器を持っているようには見えなかった?」
先生が尋ねる。
「見えなかった。たぶん持ってなかったと思う。少なくとも、分かりやすい場所には」
「歩き方や視線は?」
「普通だったよ」
「普通?」
「うん。お店に初めて来たお客さん。周りを警戒してる感じもなかったし、出口ばっかり気にしてるわけでもなかった」
「完全に日常へ溶け込んでたわけね」
ミズキが腕を組む。
「リリベルの訓練って、そこまで徹底してるの?」
「それだけではないだろう」
先生が静かに言った。
「日常で普通に振る舞うことが、奏斗という少年にとって自然なのかもしれない」
「そうそう」
私は先生の言葉にうなずく。
「冗談も言うし、ツッコミも上手だよ。甘いものを食べるとちょっとだけうれしそうになるし」
「そこは今、重要なの?」
「重要だよ。人間性が出るところじゃん」
「リリベルの報告で甘党情報を最優先にするんじゃないわよ」
「最優先じゃないってば」
そう言いながら、私は少しだけ笑った。
奏斗がリリベルだった。
それは驚いた。
でも、リリベルだったからといって、店で見せていた姿が全部嘘だったとは思えない。
奏斗は任務とは関係なく、パフェを食べに来たと言った。
私たちと話して楽しかったことも本当だと答えた。
なら、それでいい。
少なくとも私は、そう思いたかった。
「それで、どうしてリリベルが千束の任務に?」
ミズキが聞く。
「同じ対象を追ってたみたい」
「任務が重複していた?」
「たぶんね。私が捕まえようとした相手を、奏斗が横から撃った」
「撃ったって……非致死弾?」
私は首を横へ振った。
「実弾」
ミズキの表情から、冗談めいた雰囲気が消えた。
「全員?」
「動いてた人は、全員」
「死亡を確認したのか?」
先生が聞く。
「うん」
短く答える。
倒れた男たち。
胸や背中から広がった血。
もう助けられないと分かったときの、冷たい感覚。
思い出したくはなかった。
でも、忘れてしまうのも違う気がした。
「私はもう拘束できる状態にしてたんだよ。逃げられないようにして、武器も落とさせてた。それなのに奏斗は撃った」
「リリベルにとっては、それが通常の任務遂行なのかもしれないわね」
ミズキの声は低かった。
「DAだって基本は同じでしょ。犯罪者を事前に見つけて、事件を起こす前に消す。あんたみたいに全員生かして終わらせる方が異常なのよ」
「異常って言わないでよ」
「組織の基準から見れば、ってこと」
「分かってるけどさ」
私はカウンターへ頬杖をついた。
「奏斗にも聞かれた。どうして殺さないのかって」
「何て答えたの?」
「命は大事だから」
「いつもの答えね」
「うん」
「納得してた?」
「全然」
「でしょうね」
ミズキはため息をついた。
「それで、言い争いになったの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「お互いに銃を向けた」
「それを先に言いなさいよ!」
またミズキの大声が店内に響く。
先生の表情も、明らかに険しくなった。
「撃ったのか?」
「撃ってないよ。私も奏斗も」
「本当に?」
「本当。奏斗には私を撃つつもりはなかったと思う」
「どうしてそう言い切れるのよ」
「見れば分かるもん」
引き金へ置かれた指。
腕の力。
視線の動き。
奏斗は私へ銃口を向けていた。
でも、撃つ動きはなかった。
少なくとも、あのときは。
「私が先に銃を下ろしたら、奏斗も下ろした」
「それで終わり?」
「少し話して、帰った」
「ずいぶん簡単に言うわね」
「実際、そんな感じだったよ」
「そんな感じで済ませる話じゃないでしょうが」
ミズキは頭を抱えた。
先生は何も言わず、しばらく私を見ていた。
その視線が少しだけ重い。
「先生?」
「奏斗は、千束の正体を知っていたのだな」
「うん。最初に来たときは知らなかったみたいだけど、そのあと調べたって」
「二度目に来店した時点では知っていた?」
「たぶん」
「それでも店へ来た」
「パフェを食べに」
「それが本当だという保証はない」
先生の言葉に、私は口を閉じた。
「店内の確認や、千束との接触を目的としていた可能性もある」
「でも、奏斗は任務と関係ないって」
「本人の言葉だけだ」
「先生、奏斗を疑ってるの?」
「判断するための情報が足りない」
先生の声は落ち着いていた。
奏斗を敵だと決めつけているわけではない。
でも、私のように簡単に信じてもいない。
「リリベルはDAの内部でも情報が少ない。命令系統も活動目的も分からない。奏斗がどのような指示を受け、なぜ千束へ接触したのかも不明だ」
「たまたまお店を見つけたって言ってたよ」
「それが事実であっても、その後の行動まで偶然とは限らない」
「でもさ」
「千束」
先生の声が、私の言葉を止める。
「奏斗が敵だとは言っていない」
「……うん」
「だが、味方とも限らない」
先生は私の目をまっすぐに見た。
「気をつけなさい」
それだけだった。
店へ来るなとも、奏斗と話すなとも言わない。
ただ、気をつけろ。
先生らしい言葉だと思った。
私が何を言っても聞かないことを知っているから、最初から止めようとしないのかもしれない。
「分かった」
私はうなずいた。
ミズキが疑わしそうにこちらを見る。
「本当に分かってる?」
「分かってるって」
「その顔は分かってない顔よ」
「どんな顔?」
「また来るといいな、とか考えてる顔」
「えっ、何で分かったの?」
「あんたが分かりやすすぎるのよ!」
ミズキの指摘に、私は笑った。
奏斗はまた店へ行くと言った。
たとえリリベルでも、来店したら普通に迎える。
次は抹茶パフェをすすめる。
その気持ちは変わらなかった。
「そういえば」
私はカウンターへ置かれた水のグラスを見ながら、ふと思い出した。
「最初の日の夜も、誰かにつけられてる気がしたんだよね」
「最初の日?」
「奏斗が初めて店に来た日の夜。任務の帰り道で、誰かに見られてる感じがした」
先生とミズキの視線がこちらへ集まる。
「それ、今まで報告してなかったわよね?」
「だって誰も見つからなかったし、気のせいだと思ったから」
「どういう状況だった?」
先生が尋ねる。
私は記憶をたどる。
「任務が終わって、一人で帰ってた。背後から視線を感じて、歩く速度を変えたり、途中で止まったりしたんだけど、誰もいなかった」
「進路を変えたか?」
「一本違う道を通った。コンビニの窓にも後ろが映ってたけど、人影は見えなかったよ」
「それで気のせいだと?」
「うん」
「奏斗だった可能性があると思っているのね」
ミズキが言った。
「最初に会ったあと、私のことを調べたって言ってたから。もしかしたら、あの夜に私を見つけて、ついてきてたのかなって」
「尾行されていたなら、千束が気づいても姿を確認できなかったことになる」
「奏斗ならできるかも」
「ずいぶん高く評価してるわね」
「昨日の射撃を見たからね。動きも速かったし」
奏斗は遠距離から、私が押さえていた男だけを正確に撃った。
夜の倉庫街。
暗さも距離もあった。
それでも迷わず急所へ当てていた。
戦闘能力は高い。
尾行や監視の訓練を受けていたとしても、不思議ではなかった。
「奏斗に直接聞いたのか?」
「聞いてない」
「次に会ったら聞くつもり?」
ミズキに聞かれ、私は少し考えた。
「聞いても本当のこと言わないかも」
「それなら、どうするのよ」
「顔を見る」
「顔?」
「奏斗、普通に会話してるときは分かりやすいところもあるから」
「リリベル相手に表情で嘘を見抜くつもり?」
「じゃんけんと同じだよ」
「相手が対策してたら?」
「そのとき考える」
「結局そればっかりね」
ミズキが呆れたように缶へ手を伸ばす。
先生は考え込むように黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「奏斗だったと決めつけない方がいい」
「どうして?」
「奏斗ではなかった場合、別の誰かが千束を監視していることになる」
その言葉に、店内の空気が少しだけ冷えたように感じた。
「別の誰か……」
「心当たりは?」
私は少し考え、首を横へ振った。
「ないよ」
「最近の任務で、逃がした相手は?」
「いない。みんな捕まえたし、クリーナーに任せた」
「組織の関係者に顔を見られた可能性は?」
「それはあるかも。でも、いつものことだよ」
「いつものことだから安全とは限らない」
先生が言う。
「しばらくは、任務後の移動にも注意しなさい」
「了解」
「一人で帰らない方がいいんじゃない?」
ミズキが口を挟む。
「大丈夫だよ。誰かいたら捕まえて聞くから」
「そういうところが心配なのよ」
「私、強いよ?」
「強くても、奇襲には限界があるでしょ」
ミズキの言葉に、私は一瞬だけ黙った。
視界の外からの攻撃。
煙や暗闇。
相手の姿が見えない状況。
どれだけ動きを読めても、見ることができなければ避けられない。
「分かってる」
そう答える。
けれど、その時点では、まだどこかで軽く考えていた。
最初の夜に感じた視線は奏斗だった。
きっと、そうだ。
リリベルとして私のことを調べていたのだろう。
もしまた見られている気配を感じても、今度は名前を呼べば出てくるかもしれない。
そんなふうに考えていた。
◇
翌日。
午後三時になっても、奏斗は来なかった。
「何度目?」
ミズキが尋ねる。
「何が?」
「入口を見るの」
「見てないよ」
「今、見たでしょ」
「扉の汚れを確認してただけ」
「どこにも汚れなんてないわよ」
「細かいほこりが」
「掃除したのは私よ」
「じゃあ、きれいにできてるか採点してた」
「最低ね」
私は笑いながら、カウンターの中へ戻った。
店内には二組のお客さんがいた。
奏斗が最初に来た日とは違い、完全な貸し切りではない。
入口のベルが鳴るたびに、私は反射的に顔を上げてしまう。
けれど入ってくるのは、近所の常連や観光客ばかりだった。
もちろん、それが普通だ。
奏斗が毎日来る約束をしたわけじゃない。
また行くと言っただけ。
それも昨夜は任務だった。
今日は別の任務があるかもしれないし、普通に学校のような場所へ行っているのかもしれない。
「千束」
先生に呼ばれる。
「はーい」
「注文」
「あっ」
私は伝票を受け取り、慌てて準備へ戻った。
ミズキが横でにやにやしている。
「何?」
「別に」
「言いたいことがあるなら言えば?」
「奏斗君、来ないわね」
「今日はまだ終わってないもん」
「待ってるんじゃない」
「待ってないよ」
「抹茶パフェの材料、朝から確認してたのは誰?」
「あれは在庫管理!」
「普段、在庫管理なんてしないでしょうが」
「成長したの」
「数時間で?」
「人はいつだって変われるんだよ、ミズキ」
「いいこと言った風にごまかすな」
私はミズキから顔を背けた。
別に、待っているわけではない。
来たら楽しいだろうとは思っている。
それだけだ。
午後四時。
奏斗は来ない。
午後五時。
入口の扉は何度か開いたが、奏斗の姿はなかった。
午後六時を過ぎ、外が暗くなり始める。
「今日は来ないね」
私はテーブルを拭きながら呟いた。
「ようやく認めた」
「何を?」
「待ってたこと」
「待ってないって」
「はいはい」
ミズキは笑いながら、使用済みのカップを片づける。
その日の営業が終わっても、奏斗は来なかった。
◇
次の日も来なかった。
その次の日も。
入口のベルが鳴るたびに少し期待し、違うお客さんだと分かると、何事もなかったように笑顔で迎えた。
もちろん、お客さんが来てくれるのはうれしい。
リコリコの看板娘として、誰に対しても全力で接客する。
それでも、扉の向こうに落ち着いた顔の少年が立っていないか、つい確かめてしまう。
「リリベルって忙しいのかな」
ある日の午後、私はカウンターへ頬杖をつきながら言った。
「知らないわよ」
ミズキは雑誌から目を上げない。
「連絡先は聞かなかったの?」
「聞いてない」
「名前を聞いた日に、そこまで聞けばよかったじゃない」
「二回目で連絡先まで聞いたら、距離が近すぎるってミズキが言うでしょ」
「普段から十分近いわよ」
「じゃあ聞けばよかったかな」
「今さら後悔しても遅いわね」
「後悔はしてないよ」
「その顔で?」
「どんな顔してる?」
「つまらなそうな顔」
「そんな顔してないって」
私は笑顔を作ってみせた。
ミズキは雑誌を下ろし、じっとこちらを見る。
「作り笑いが下手ね」
「失礼だなぁ。いつも笑顔の千束ちゃんですよ」
「そういうところよ」
それ以上、ミズキは何も言わなかった。
先生も、奏斗が店へ来ないことについて触れなかった。
ただ、入口の扉を私が見るたび、気づいているような気はした。
奏斗は、リコリスとリリベルは敵になる可能性があると言った。
私たちは考え方が違うとも。
もしかしたら、店へ来ない方がいいと判断したのかもしれない。
自分の正体を知られた以上、私たちと関わる理由はないと思ったのかもしれない。
「また行きます」
確かに、そう言ったのに。
でも、いつ行くとは言っていない。
明日かもしれない。
一週間後かもしれない。
もっと先かもしれない。
だから、今は待てばいい。
今日来ないなら、今日来たお客さんと楽しく過ごす。
明日は明日のことを考える。
それが私のやり方だ。
そう思っているのに、ときどき抹茶パフェの写真を見ると、奏斗の真面目なツッコミを思い出した。
◇
奏斗が店へ来ないまま、数日が過ぎた。
その夜、私は都内にある古い雑居ビルへ向かっていた。
今回の任務は、違法薬物の取引に関わる集団の制圧。
対象は四人。
すでに別のリコリスが周辺を確認し、一般人がいないことも確かめられている。
私の役目は、建物の三階に集まっている対象を無力化し、取引に使われる記録を確保することだった。
『千束、準備はいいか?』
耳元の通信機から先生の声が聞こえる。
「いつでもどうぞー」
『対象は武装している。狭い室内だ。油断するな』
「先生、最近そればっかりだね」
『何がだ』
「油断するな、気をつけろ、無理をするな」
『言われる理由を考えなさい』
「心配性だから?」
『千束』
「はーい。ちゃんと気をつけます」
私は裏口の扉を開け、建物へ入った。
照明の切れた階段は暗い。
非常灯の緑色の明かりだけが、壁と床をぼんやり照らしている。
足音を立てず、三階へ上がる。
廊下の奥。
一つの部屋から話し声が聞こえていた。
「それじゃ、お仕事開始」
鞄から拳銃を取り出す。
扉の横へ立ち、中の音を確認する。
四人。
一人は入口に近い。
二人はテーブルの周り。
残り一人は窓際。
全員の位置を予想してから、扉を蹴り開けた。
「こんばんはー!」
中にいた男たちが一斉にこちらを向く。
「何だ、お前!」
「夜遅くまでご苦労さまです。今日はここで解散してもらいまーす」
「リコリスだ!」
一人が銃を抜く。
私は銃口の動きを見て、左へ一歩ずれた。
発砲。
弾丸が背後の壁へ当たる。
そのまま二発撃ち返す。
非致死弾が男の肩と胸へ命中し、後ろへ倒れた。
別の男がテーブルを蹴り、身を隠しながら発砲する。
私は床を滑るように姿勢を下げ、弾丸を避けた。
テーブルの端から見えた腕へ一発。
「ぐっ!」
銃が落ちる。
すぐに立ち上がり、男の腹部へ二発撃ち込む。
「二人!」
「化け物か!」
「女の子に向かって失礼だなぁ」
三人目がナイフを持って突っ込んでくる。
腕の動きは大きい。
軌道も読みやすい。
刃を避け、手首をつかむ。
肘を押し上げ、体勢を崩させる。
「はい、没収」
ナイフを落とし、男の足を払う。
床へ倒れたところで背中へ一発。
最後の男は窓から逃げようとしていた。
「危ないよー」
窓枠へ足をかけた背中へ、非致死弾を二発撃つ。
男は声を上げ、その場に崩れた。
「はい、終了!」
静かになる。
銃声の余韻だけが室内に残っていた。
『状況は?』
「四人とも確保。全員生きてるよ」
『記録を回収しろ。周囲にも注意しなさい』
「了解」
男たちを拘束し、武器を遠ざける。
テーブルの上には、小さな袋と端末がいくつか置かれていた。
証拠として撮影し、指定された端末を回収する。
任務そのものは、いつもどおりだった。
対象を見つける。
攻撃を避ける。
全員を生かしたまま無力化する。
特に難しいことはなかった。
建物を出たときには、夜風が少し強くなっていた。
私は拳銃を鞄へ戻し、人気のない裏通りを歩く。
今回の任務場所からセーフハウスまでは、それほど遠くない。
先生からは迎えを出すと言われたけれど、歩いて帰ると断った。
少しくらい夜の街を歩きたい気分だった。
「今日は何食べようかなぁ」
任務後はお腹が空く。
冷蔵庫に何か残っていただろうか。
帰りにコンビニへ寄ってもいい。
甘いものでも買おうかな。
そう考えた瞬間、奏斗の顔が浮かぶ。
「奏斗なら、何を選ぶかな」
チョコレート。
いちご。
次は抹茶をすすめる予定だった。
でも本人に選ばせたら、またチョコレートを選ぶかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、不意に背中へ冷たい感覚が走った。
視線。
誰かに見られている。
私は歩みを止めなかった。
耳を澄ませる。
後ろから足音は聞こえない。
車の音もない。
道路の先に、一つだけ点滅している街灯が見える。
両側には閉まった店と古い建物。
人影はない。
「……また?」
小さく呟く。
最初の日の夜と同じだ。
誰かに見られている気配。
追いかけてくるわけでもない。
姿を見せるわけでもない。
一定の距離から、こちらを観察しているような感覚。
私は歩く速度を少し落とした。
気配も、それに合わせるようについてくる。
速度を上げる。
やはり消えない。
次の角を曲がり、建物の陰へ入る。
そこで足を止めた。
鞄へ手を添え、いつでも銃を抜けるようにする。
誰かが角から現れるのを待つ。
数秒。
十秒。
人影は出てこない。
「奏斗?」
私は暗い道へ向かって声をかけた。
返事はない。
「いるんでしょ?」
静寂。
遠くで風が看板を揺らし、金属の触れ合う音がした。
「最初の日も、ついてきてたの奏斗じゃないの?」
それでも答えはない。
でも、気配は消えていなかった。
見られている。
こちらの反応を確かめている。
「隠れるの上手だねー。さすがリリベル」
私は少しだけ笑う。
「でも、もう正体知ってるんだから、出てきてもいいじゃん」
建物と建物の間。
暗い路地の奥で、何かが動いた。
黒い人影。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
「ほら、やっぱり」
私は鞄から手を離した。
「奏斗、店に来ないから心配したんだよ」
人影は何も答えない。
頭から黒いフードをかぶり、顔は影に隠れている。
服装も全身が黒い。
背丈は奏斗とそれほど変わらないように見えた。
「何、その格好」
私が尋ねても、返事はない。
無言のまま、距離を詰めてくる。
「任務中?」
人影が足を止める。
十メートルほど先。
フードの奥から、こちらを見ている。
「奏斗?」
もう一度名前を呼ぶ。
人影の右腕が動いた。
上着の内側から拳銃を抜く。
銃口が、まっすぐ私へ向けられた。
「またそれ?」
私は困ったように笑った。
「この前も向けたでしょ。今度は何を聞くの?」
返事はない。
人影の姿勢を見る。
肩。
肘。
銃を握る手。
暗くて細かな動きまでは見えにくい。
それでも、奏斗なら私を撃たない。
前回だって、銃口を向けただけだった。
「とりあえず、顔見せてよ」
私は一歩、近づいた。
その瞬間。
人影の指が動いた。
銃声。
「えっ――」
弾丸が顔のすぐ横を通過した。
頬に熱い風を感じる。
私は反射的に体をひねり、二発目を避けた。
背後の壁が砕ける。
「撃った!?」
三発目。
地面を蹴り、横へ飛ぶ。
弾丸が足元を削った。
人影は止まらない。
続けて引き金を引く。
私は建物の壁へ身を寄せながら、銃口の向きに合わせて体をずらす。
でも暗い。
フードと黒い服が、細かな動きを隠している。
通常より予測が難しい。
「奏斗、ちょっと!」
呼びかけても返事はない。
撃ち方にも見覚えがなかった。
前回の奏斗は、必要な相手へ必要な数だけ正確に撃っていた。
目の前の人物は違う。
私の移動先を塞ぐように、連続して弾を撃ち込んでくる。
「……奏斗じゃない?」
疑問が浮かぶ。
その一瞬だった。
人影が一気に距離を詰めてきた。
速い。
予想よりもはるかに速い。
拳銃を持った腕を避けようとした瞬間、反対の手が私の肩をつかんだ。
「しまっ――」
強い力で引かれる。
体勢が崩れた。
足を払われ、背中から地面へ倒される。
「っ!」
衝撃で息が詰まる。
反撃しようと腕を動かすより早く、人影が私の上へ乗った。
両脚で腰を挟まれる。
馬乗り。
右手で拳銃を抜こうとする。
しかし、手首をつかまれ、地面へ押しつけられた。
「奏斗じゃ、ない……!」
至近距離からフードの奥を見る。
顔は黒い布で隠されている。
目元さえはっきり見えない。
呼吸が聞こえる。
奏斗よりも少し荒く、重い呼吸。
体格も、よく見れば奏斗より大きい。
完全に思い違いだった。
最初から、奏斗ではない。
「誰?」
問いかけても答えない。
人影は空いた手を腰へ伸ばした。
取り出したのはナイフ。
街灯の弱い光を受け、銀色の刃が一瞬だけ光る。
「ちょっと、待って!」
私は押さえられていない方の腕で相手の手首をつかんだ。
ナイフの切っ先が、胸元へ向けられる。
力が強い。
両手で押し返そうとするが、片腕は地面へ押さえられている。
刃が少しずつ下がってくる。
「話し合いとか、しない?」
返事はない。
「私、あなたに何かした?」
ナイフの切っ先が近づく。
あと少しで服に触れる。
相手の体を見る。
腕。
肩。
腰。
でも、この距離では避ける場所がない。
押し倒され、上から体重をかけられている。
足を使おうにも、腰を挟まれて動けない。
私は手首へ力を込めた。
「くっ……!」
刃が震える。
一度は押し返す。
しかし、人影はさらに力を加えた。
少しずつ負ける。
ナイフの先端が、服へ触れた。
胸の中心。
このまま押し込まれれば、避けられない。
視界の端で、相手の拳銃が地面に落ちているのが見えた。
手を伸ばしても届かない。
自分の銃も鞄の中だ。
こんなところで。
見知らぬ相手に。
奏斗だと思い込んだせいで。
思った瞬間、別方向から銃声が響いた。
人影の肩が大きく跳ねる。
「っ!」
ナイフを持つ力が緩んだ。
続けて二発目。
人影の脇腹へ命中する。
体が横へ傾く。
私はその隙を逃さず、両手で相手を押しのけた。
上に乗っていた人影が地面へ転がる。
すぐに距離を取り、鞄から拳銃を抜いた。
「誰!」
銃弾が飛んできた方向へ銃口を向ける。
暗い建物の屋上。
そこに、一つの人影が立っている。
黒い服。
拳銃を構えた少年。
今度はフードをかぶっていない。
月明かりの中に見えた顔を、私は知っていた。
「奏斗……!」
奏斗は屋上の端から飛び降りた。
途中の非常階段へ足をかけ、音をほとんど立てずに地面へ着地する。
こちらへ走ってくる。
表情はない。
前回の任務で見た、感情を消した顔。
奏斗は倒れたフードの人物へ近づくと、拳銃を向けたまま足でナイフを遠ざけた。
「動かないでください」
低い声。
フードの人物は肩と脇腹を撃たれながらも、まだ意識があるようだった。
逃げようと体を起こす。
奏斗は迷わず脚へ一発撃った。
「ぐっ……!」
初めて、相手の声が漏れる。
男の声。
日本語ではない短い言葉を吐き、再び地面へ倒れた。
奏斗は男の腕を後ろへ回し、手早く拘束する。
その動作には無駄がなかった。
「千束、怪我は?」
男から目を離さないまま、奏斗が尋ねる。
「え?」
「怪我です」
「あ、うん。たぶん大丈夫」
「たぶんでは困ります」
奏斗はようやくこちらを見る。
私の顔。
首。
胸元。
腕。
短い時間で全身を確認している。
「頬に傷があります」
「最初の弾がちょっとかすっただけ」
「ほかは?」
「背中を打ったくらい」
「ナイフは?」
私は胸元を見る。
服の表面に小さな切れ目があった。
けれど、皮膚までは届いていない。
「ぎりぎりセーフ」
「そうですか」
奏斗の声はいつもどおり落ち着いていた。
でも、握っている拳銃の手に、少しだけ強い力が入っているように見えた。
「助かったよ」
私は笑う。
「ありがと、奏斗」
「礼は必要ありません」
「でも、来てくれなかったら危なかったし」
「私が来なくても、千束なら対処できたのでは?」
「今回はちょっと無理だったかも」
素直に認める。
相手の正体を勘違いした。
奏斗だと思い込み、最初の一発への対応が遅れた。
そこから距離を詰められ、押し倒された。
最初から敵だと分かっていれば、もっと早く銃を抜いていた。
少なくとも、無防備に一歩近づくことはなかった。
「私、あの人のこと奏斗だと思ったんだよね」
「なぜですか?」
「前にも誰かに監視されてる感じがしたから。あれも奏斗だったのかなって」
奏斗の目がわずかに細くなる。
「いつの話ですか?」
「奏斗が最初にリコリコへ来た日の夜。任務帰りに誰かにつけられてる気がした」
「私はその場にいません」
「え?」
「千束を尾行したこともありません」
奏斗ははっきり答えた。
迷いもない。
嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ、あのときも……」
私は拘束された男を見る。
黒いフード。
顔を隠す布。
今回と同じ人物だったのかもしれない。
最初の日から、私を監視していた。
奏斗ではなく、この男が。
「奏斗は、どうしてここに?」
「説明はあとです」
奏斗は男のフードへ手をかけた。
「顔を確認します」
黒い布を外す。
現れたのは、見覚えのない男の顔だった。
年齢は三十代くらい。
彫りの深い顔立ち。
髪の色も瞳の色も、日本人とは違う。
「外国人……?」
奏斗は男の顔を確認し、服のポケットを探る。
財布はない。
身分証もない。
代わりに、小型の通信機と予備の弾倉が出てきた。
「日本語は話せる?」
私が聞いても、男は答えない。
こちらを睨むだけだ。
肩と脇腹から血が流れている。
「応急処置しないと」
近づこうとすると、奏斗が腕を伸ばして止めた。
「必要ありません」
「必要だよ。このままだと危ない」
「死ぬ場所には当てていません」
「でも血が出てる」
「すでに連絡しました。リリベルの回収班が対応します」
「リリベルの?」
「はい」
奏斗は立ち上がり、周囲を確認する。
暗い道。
建物の屋上。
路地の奥。
まだ仲間が潜んでいないかを警戒している。
「この男は、リリベルが追っていた対象です」
「知ってる人?」
「個人名までは分かりません。ただし、国外の武装組織に所属している可能性が高い」
「国外?」
「最近、日本国内へ複数の工作員が入ったという情報がありました」
奏斗の説明は簡潔だった。
「目的は不明です。武器の調達、要人への攻撃、国内組織との接触。複数の可能性が考えられています」
「その一人が私を狙った?」
「現状では断定できません」
「でも、私のことを監視してたかもしれない」
「その可能性はあります」
「どうして私を?」
「それも不明です」
奏斗は男の通信機を手に取り、画面を確認する。
外国語の文字が並んでいる。
「解析が必要です」
「じゃあ、私も残る」
「帰ってください」
すぐに言われた。
「え?」
「ここからはリリベルが対応します」
「でも私が襲われたんだよ?」
「だからこそ、現場から離れてください」
「私もこの人に聞きたいことがあるし」
「答えるとは思えません」
「奏斗たちだけなら答えるの?」
「尋問は専門の人間が行います」
「じゃあ、その結果を教えて」
「約束はできません」
「何で?」
「リリベルの情報は、リコリスへ共有されません」
「同じような組織なのに?」
「管轄が違います」
奏斗は冷静に答える。
私は少しだけ眉を寄せた。
「私が狙われてるかもしれないのに、何も教えてくれないの?」
「必要な情報であれば、適切な経路を通じてDAへ伝達されます」
「適切な経路って、いつ?」
「私には分かりません」
「だったら、ここに残って自分で聞く」
私は動こうとした。
奏斗が一歩前へ出て、進路を塞ぐ。
「帰ってください」
「だから――」
「帰ってください、千束」
声が強くなった。
昼間の穏やかな敬語でも、前回の冷たい問いかけでもない。
はっきりとした命令口調。
私は少しだけ驚いて、奏斗を見る。
「何でそんなに怒るの?」
「怒っていません」
「怒ってるよ」
「現場に残るべきではないと言っているだけです」
「私はまだ戦えるよ」
「戦えるかどうかの問題ではありません」
奏斗は倒れている男へ視線を向ける。
「この男が単独とは限りません」
「仲間がいるかもってこと?」
「はい。千束が標的なら、別の人間が周囲で待機している可能性もあります」
「だったら一緒に探す」
「だから帰ってください」
「奏斗一人で大丈夫なの?」
「すぐに増援が来ます」
「来るまでは一人でしょ」
「問題ありません」
「私だって問題ないよ」
言い返すと、奏斗の目が鋭くなった。
「先ほど、殺されかけていました」
その言葉に、私は口を閉じた。
「相手を私だと思い込み、警戒を解いた。その結果、初撃への反応が遅れ、接近を許した」
「……見てたんだ」
「途中からです」
「だったら、もっと早く撃ってくれてもよかったのに」
「射線が通りませんでした。千束と対象が重なっていたため、確実に外せる位置まで移動しました」
奏斗は淡々と説明する。
でも、言葉の奥に強い緊張が残っているように感じた。
「今回助かったのは、偶然です」
「偶然じゃないよ。奏斗が助けてくれた」
「私がここにいたことが偶然です」
「でも――」
「次も同じとは限りません」
奏斗の声が、さらに低くなる。
「敵かどうかを確認できない相手へ不用意に近づかないでください。私だと思っても、先に武器を確認するべきです」
「奏斗なら撃たないと思ったから」
「私が撃たない保証はありません」
「でも、撃たないでしょ?」
「状況によります」
「じゃあ今、私を撃てる?」
「そういう話ではありません」
「私は奏斗を信じたんだよ」
「それで死にかけたのでしょう」
冷たい言葉だった。
私は何も言えなくなる。
奏斗の言うことは正しい。
信じた相手を間違えた。
顔も見えないのに、背丈と気配だけで奏斗だと思った。
撃たないと決めつけた。
その結果、ナイフを胸へ突き立てられる寸前まで追い詰められた。
「……分かったよ」
私は小さく答えた。
「帰ればいいんでしょ」
「はい」
「セーフハウスまで?」
「できればリコリコへ戻ってください」
「今日はセーフハウスの方が近いよ」
「では、そこへ。到着したらミカさんへ連絡してください」
「先生のこと知ってるんだ」
「調べたと言いました」
「店に二回来ただけなのに、すごい調査力だね」
「感心している場合ですか?」
「奏斗が怖い顔してるから、ちょっと空気を変えようと思って」
「変える必要はありません」
「あるよ。怒ってるまま別れたくないし」
「怒っていません」
「じゃあ笑って」
「無理です」
「即答なんだ」
少しだけ、いつもの奏斗に戻った。
それだけで、胸にあった重さが少し軽くなる。
遠くから車の音が聞こえてきた。
黒い車両が二台。
ヘッドライトを落としたまま、こちらへ近づいてくる。
「増援?」
「はい」
「じゃあ、もう大丈夫だね」
「最初から問題ありません」
「私がいたから?」
「逆です」
「ひどいなぁ」
車両が少し離れた場所で止まる。
黒い服を着た少年たちが、複数降りてきた。
年齢は奏斗と同じくらいに見える。
全員が静かで、無駄な会話をしない。
倒れている外国人を確認し、周囲の警戒へ散っていく。
一人が奏斗へ近づき、短く状況を聞いた。
奏斗も簡潔に答える。
その横顔は完全に任務中のものだった。
私は少し離れたところから眺める。
本当にリリベルなんだ。
前回、自分でそう名乗った。
でも、同じ制服のような装備をした少年たちの中にいる姿を見ると、ようやく実感が湧いた。
「千束」
奏斗に呼ばれる。
「うん?」
「まだいたのですか?」
「増援が来るまで待ってた」
「もう来ました」
「冷たいなぁ」
「帰ってください」
「分かったってば」
私は数歩進み、それから振り返った。
「奏斗」
「何ですか?」
「助けてくれて、本当にありがとう」
「……はい」
今度は、礼は必要ないと言わなかった。
「それと」
「まだ何か?」
「リコリコに来てよ」
奏斗が少しだけ目を見開く。
「今、その話をしますか?」
「今だからするの」
「襲われた直後ですよ」
「だからだよ。今日も来てくれなかったし」
「店へ行く余裕がありませんでした」
「忙しかった?」
「はい」
「私を狙ってる人を追ってたから?」
「それはまだ分かりません」
「でも、この外国人を追ってたんでしょ」
「そうです」
「そっか」
奏斗が店へ来なかった理由。
私たちと距離を置こうとしていたのかもしれないと思った。
でも実際は、任務をしていただけだった。
そう分かると、少しだけうれしかった。
「じゃあ任務が終わったら来て」
「状況によります」
「またそれ?」
「約束できないことは言えません」
「抹茶パフェ、まだ食べてないじゃん」
「私は注文すると言っていません」
「検討するって言った」
「検討中です」
「何日検討するの?」
「重要な問題なので」
「甘いものには真面目だもんね」
「千束が勝手に抹茶へ誘導しているだけです」
奏斗の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
私はそれを見逃さない。
「今、笑った」
「笑っていません」
「笑ったよ」
「気のせいです」
「店に来たら認めてあげる」
「何をですか?」
「奏斗が私を助けてくれた、優しい甘党のリリベルだってこと」
「余計な肩書きをつけないでください」
「じゃあ、来る?」
奏斗は少し黙った。
背後では、リリベルたちが外国人を車両へ運んでいる。
奏斗もこのあと、報告や処理があるのだろう。
「任務が終われば」
「絶対?」
「可能であれば」
「また曖昧」
「ですが」
奏斗は私を見る。
「行くつもりはあります」
「本当?」
「はい」
「よし!」
私は思わず笑顔になる。
「じゃあ待ってるね」
「毎日入口を見続ける必要はありませんよ」
「何で知ってるの?」
「千束なら、そうしていそうなので」
「してないよ」
「本当ですか?」
「たまにしか見てない」
「見ていることは認めるんですね」
「細かいなぁ」
奏斗は小さく息を吐いた。
呆れているようで、でも少しだけ安心しているようにも見えた。
「早く帰ってください」
「はーい」
「寄り道はしないでください」
「コンビニくらいなら」
「しないでください」
「甘いもの買いたい」
「セーフハウスに何かあるでしょう」
「奏斗が買ってくれる?」
「なぜ私が」
「助けたついで」
「意味が分かりません」
「じゃあ今度、リコリコで一緒に食べよう」
「私は一人で食べます」
「前もそれ言ってたね」
私は笑いながら、今度こそ背を向ける。
数歩歩いてから、もう一度だけ手を振った。
「またね、奏斗!」
奏斗は答えなかった。
けれど、私が歩き出すまで、その場でこちらを見ていた。
夜道を進む。
頬の傷が、少しだけひりひりする。
背中も痛い。
ナイフが服へ触れた感覚を思い出すと、今さらになって心臓が速くなった。
本当に危なかった。
あと少し、奏斗の銃声が遅ければ。
私は今、歩いていなかったかもしれない。
「次からは、ちゃんと確認しないとね」
誰に言うでもなく呟く。
奏斗だから撃たない。
奏斗だから大丈夫。
そう思う気持ちは変わらない。
でも、顔も見えない相手まで奏斗だと決めつけるのは違う。
信じることと、油断することは同じではない。
先生に言われた「気をつけなさい」という言葉の意味を、ようやく少し理解した気がした。
それでも。
奏斗が本当に来てくれたことは、うれしかった。
偶然だと言っていた。
任務で対象を追っていただけだと。
でも、あの瞬間に奏斗が引き金を引いてくれたから、私は助かった。
「優しいじゃん」
私がそう言ったら、きっと奏斗は否定する。
必要な行動だった。
任務対象を撃っただけだ。
そう言うだろう。
でも、私の怪我を確認したときの目。
帰れと強く言った声。
あれは任務だけではない気がした。
私の思い込みかもしれない。
それでも、そう思う方が楽しい。
セーフハウスが見えてくる。
私は先生へ連絡するため、通信機へ手を伸ばした。
「先生、聞こえる?」
『千束か。どうした?』
「ちょっと報告がある」
『怪我をしたのか?』
「何で最初にそれ聞くの?」
『声で分かる』
「先生、すごいね」
『怪我をしたのか』
「ちょっとだけ」
通信の向こうで、重いため息が聞こえた。
『今どこにいる』
「もうセーフハウスの前。ちゃんと帰ってきたよ」
『一人か?』
「うん。でも途中までは奏斗がいた」
少しだけ間が空いた。
『奏斗が?』
「私を助けてくれた」
『詳しく話しなさい』
「長くなるよ」
『構わない』
「今日は先生、怒らないで聞ける?」
『内容による』
「前と同じじゃん」
私は笑いながら扉の鍵を開けた。
暗い室内へ入り、照明をつける。
いつもと変わらない部屋。
静かで、安全な場所。
扉を閉めて鍵をかけた瞬間、ようやく全身から力が抜けた。
「でもね、先生」
『何だ』
「奏斗、今度こそ店に来るって」
『……そうか』
「抹茶パフェ食べさせるんだ」
『まずは怪我の状態を説明しなさい』
「はーい」
私は頬へ触れる。
指先に、少しだけ乾いた血がついた。
今日の出来事は、たぶん簡単には終わらない。
私を監視していたかもしれない外国人。
その背後にいる組織。
なぜ私が狙われたのか。
奏斗たちリリベルが何を追っているのか。
分からないことばかりだ。
それでも今は、生きて帰ってこられた。
先生へ報告できる。
ミズキにまた心配される。
そして、奏斗へもう一度、店に来てと言えた。
今日できることは、きっとそれで十分だ。
明日のことは、明日考えればいい。
私は通信を続けながら、救急箱を取り出した。
次に奏斗がリコリコの扉を開けたとき、どんな顔で迎えよう。
助けてくれたお礼として、パフェを少し豪華にしてもいい。
でも、あまり特別扱いすると、きっと真面目な顔で断る。
だから、いつもどおりがいい。
大きな声で迎えて。
甘いものをすすめて。
冗談を言って、ツッコまれて。
そのあとで、ちゃんと聞こう。
どうしてあの場所にいたのか。
私を狙う相手について、何を知っているのか。
そして。
私が殺されそうになったとき、本当は何を思ったのか。
答えてくれるかは分からない。
でも、奏斗ならきっと、完全には無視できない。
「待ってるからね」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
けれど、私は笑っていた。
今夜の暗闇で見つけた本物の奏斗は、冷たい銃を持っていた。
それでも、その銃声は確かに私を救ってくれた。