翌日。
頬に貼った小さな絆創膏を見て、ミズキは朝から何度目か分からないため息をついた。
「本当に、それだけなの?」
「それだけだってば」
私はカウンターの中でグラスを拭きながら答えた。
頬に残った傷は、昨夜の銃弾がかすめたものだ。背中にも倒されたときの痛みが少し残っているけれど、動くことに問題はない。
胸元には、ナイフの先で切れた服の代わりに、別の制服を着ている。
あの刃がもう少し深く入っていたら。
考えると少しだけ寒くなる。
でも、今はいつもどおりだ。
先生が店を開け、ミズキが文句を言い、私は看板娘として働いている。
「背中は?」
「ちょっと痛い」
「ほら、怪我してるじゃない」
「打っただけだよ」
「それを怪我って言うのよ」
「ミズキは細かいなぁ」
「千束が大雑把すぎるの!」
ミズキの声が店内へ響く。
幸い、まだ開店直後でお客さんはいなかった。
カウンターの奥でコーヒー豆を確認していた先生が、静かにこちらを見る。
「今日は任務を入れていない。無理はしないように」
「先生まで大げさだなぁ。これくらい平気だよ」
「平気かどうかを決めるのは千束ではない」
「私の体なのに?」
「千束は、自分の怪我を正しく判断しない」
「信用ないなぁ」
「これまでの行動を振り返りなさい」
反論しようとして、言葉に詰まった。
ちょっとくらいの傷なら黙っていたことはある。
撃たれたわけじゃないから大丈夫、と報告しなかったこともある。
「過去は過去だよ」
「反省してない人の言い方ね」
ミズキが呆れた顔をする。
私は拭き終わったグラスを棚へ戻した。
昨夜のことは、セーフハウスから先生へ報告した。
フードの男に襲われたこと。
その男が外国人だったこと。
奏斗が現れて助けてくれたこと。
相手はリリベルが追っている対象で、奏斗たちが回収したこと。
分からないことは多い。
男がどこの組織に属していたのか。
なぜ私を狙ったのか。
最初に奏斗が店へ来た日の夜、私を監視していたのも同じ男だったのか。
奏斗は、リリベル側から必要な情報がDAへ伝わると言っていた。
でも、いつ伝わるのかは分からない。
「奏斗、今日来るかな」
私が呟くと、ミズキが露骨にこちらを見た。
「またそれ?」
「だって、任務が終わったら来るって言ったし」
「正確には、行くつもりはある、でしょ」
「同じだよ」
「全然違うわよ」
「ミズキ、細かすぎると嫌われるよ」
「今は私の話じゃない!」
私は笑いながら入口を見る。
扉は閉じたまま。
もちろん、まだ朝だ。
奏斗がこんな時間からパフェを食べに来るとは思えない。
「来たらどうするの?」
ミズキが尋ねる。
「何が?」
「昨夜のこと、詳しく聞くんでしょ?」
「うん」
「相手はリリベルよ。素直に全部話すとは限らないわ」
「話せる範囲で話してくれればいいよ」
「ずいぶん信用してるのね」
「助けてくれたからね」
「それとこれとは別でしょ」
「そうかな?」
私は少し考える。
奏斗が来なければ、私は今ここにいなかったかもしれない。
あの場に奏斗がいたのは偶然だと言っていた。
リリベルの対象を追っていただけ。
私を助けるために来たわけではない。
それでも、私と敵が重なって射線が通らない中、確実に撃てる位置まで移動してくれた。
そのあとも怪我を確認し、強い口調で帰れと言った。
奏斗自身は、それを必要な行動だったと言うのだろう。
でも、必要だからといって誰でも同じように動くとは限らない。
「奏斗は悪い人じゃないよ」
「人を撃ち殺すリリベルでしょ?」
「それは……考え方が違うだけ」
「ずいぶん簡単にまとめるわね」
「簡単じゃないよ」
倒れた男たちの姿は、今も覚えている。
動けなくなっていたのに、奏斗は撃った。
命令された対象だから。
生かす理由がないから。
その考えを、私は納得できない。
たぶん、これからも。
「でも、考え方が違うからって、話せないわけじゃないでしょ」
私が言うと、ミズキはしばらく黙っていた。
「まあ、あんたはそういう子よね」
「褒めた?」
「呆れてるの」
「照れなくてもいいのに」
「照れてないわよ!」
先生は私たちの会話を聞きながら、何も言わなかった。
ただ、店の入口へ一度だけ視線を向けた。
◇
その日、奏斗は昼になっても来なかった。
午後三時を過ぎても来ない。
昨日までと違い、今日は店内が少し忙しかった。
近所の常連客が昼食を食べに来て、少し遅れて観光客の二人組が入ってきた。午後には子供を連れた家族も来た。
私は注文を取り、料理を運び、空いた食器を片づける。
店内が忙しければ、入口を気にしている暇はない。
そう思っていたけれど、ベルが鳴るたびに反射的に顔を上げてしまった。
「いらっしゃいませー!」
声はいつもどおり。
でも、扉の向こうにいるのが奏斗ではないと分かると、胸の奥にほんの少しだけ残念な気持ちが浮かぶ。
もちろん、すぐに消える。
来てくれたお客さんは大事だ。
奏斗だけが特別というわけではない。
たぶん。
「千束、三番テーブル」
「はーい!」
先生から渡された飲み物を持ち上げる。
少し勢いよく振り向いたせいで、背中に鈍い痛みが走った。
「いった……」
「ほら!」
すぐにミズキが反応した。
「大丈夫大丈夫」
「交代しなさい」
「これくらい運べるよ」
「落としたらどうするの」
「落とさないもん」
私は慎重に飲み物を運ぶ。
さすがに痛みはある。
けれど、何もできないほどではない。
お客さんへ笑顔で飲み物を渡し、カウンターへ戻る。
ミズキがじっとこちらを見ていた。
「何?」
「意地張ってない?」
「張ってないよ」
「奏斗君が来たとき、弱ってるところを見せたくないとか?」
「何で奏斗が出てくるの?」
「朝からずっと気にしてるから」
「気にしてないって」
「入口、何回見た?」
「覚えてない」
「数え切れないくらい見たってことでしょ」
私はミズキから目をそらした。
別に、弱っているところを隠したいわけじゃない。
奏斗には昨夜、押し倒されて殺されかけている姿を見られている。
今さら絆創膏や背中の痛みを隠しても意味はない。
ただ。
来ると言ったから。
来てほしいと思っているだけだ。
それの何が悪い。
午後五時を過ぎると、客足は少しずつ落ち着いた。
六時には最後のお客さんも帰り、店内は静かになった。
閉店時間まで、あとわずか。
「今日は来ないね」
私はテーブルを拭きながら呟いた。
ミズキは椅子を上げていた手を止める。
「残念?」
「別に」
「そう」
「任務が忙しいのかも」
「そうかもね」
「昨夜の外国人のこともあるし」
「そうね」
「私が狙われてるかもしれないから、調べてるのかも」
「はいはい」
「何、その返事」
「残念じゃない人は、そんなに理由を考えないのよ」
私は布巾を握ったまま黙った。
ミズキが笑う。
「素直になれば?」
「何に?」
「来てほしかったって」
「来てほしかったよ」
素直に答えると、今度はミズキが少し驚いた顔をした。
「何?」
「いや、あっさり認めるのね」
「だって本当だもん」
奏斗と話したい。
昨夜のことを聞きたい。
それだけではなく、またパフェを食べながら、くだらない話もしたい。
任務のときとは違う、普通の十七歳の奏斗と。
「でも、今日はもう閉店だね」
私は入口にかかった札を見た。
まだ営業中。
あと数分で裏返す予定だった。
「千束、札を――」
先生が言いかけた瞬間。
扉のベルが鳴った。
からん、と店内へ明るい音が響く。
私は勢いよく振り返った。
入口には、奏斗が立っていた。
黒い任務服ではない。
最初に店へ来たときと似た、落ち着いた色の私服姿。
髪も整えられている。
ただ、表情は普段より少し硬かった。
「奏斗!」
思わず大きな声が出た。
「こんばんは」
「来た!」
「来ました」
「本当に来た!」
「前にも同じやり取りをした気がします」
「今日は来ないと思ってた!」
「閉店間際になってしまい、すみません」
奏斗は店内を見る。
客がいないことを確認し、先生とミズキへ頭を下げた。
「お話ししたいことがあります」
「私に?」
「千束と、こちらの皆さんにです」
声がいつもより真面目だった。
私は布巾をカウンターへ置く。
「じゃあ座って。今、お水持ってくる」
「その前に閉店の準備を続けてください。急ぎませんので」
「でも、閉店間際に来たお客さんを待たせるわけにはいかないよ」
「客として来たというより、報告に来ました」
「パフェは?」
「……注文しなければいけませんか?」
「もちろん」
「そこは譲らないのですね」
「リコリコに来た奏斗は、甘いものが好きなお客さんだからね」
奏斗は少しだけ私を見る。
昨夜、私が言った言葉を覚えているらしい。
「分かりました」
「何にする?」
「抹茶パフェをお願いします」
「えっ」
今度は私が驚いた。
「何ですか?」
「抹茶にするの?」
「千束が何度も勧めていたので」
「やった!」
「なぜ勝ち誇るのですか」
「奏斗との勝負に勝ったから」
「勝負をした覚えはありません」
「抹茶を食べさせたら私の勝ち」
「今、初めて聞きました」
「勝負って、始まってから気づくこともあるんだよ」
「それは一方的に巻き込まれただけです」
奏斗の真面目なツッコミ。
いつもの調子。
それを聞いて、少し安心した。
「先生、抹茶パフェ一つ!」
「分かった」
先生は静かにうなずく。
ミズキは奏斗を見ながら腕を組んでいた。
「昨夜ぶりね」
「はい」
「あんたがリリベルだなんて、まだ信じられないわ」
「私も、千束が史上最強のリコリスだという事実には疑問があります」
「ちょっと!」
「普段の言動だけを見れば、ですが」
「フォローになってないよ!」
「実力は昨夜も確認しました」
「押し倒されてたところ?」
「その前です」
さらりと返され、私は口を尖らせる。
ミズキが吹き出した。
「やっぱり、あんたたち普通に話せるのね」
「会話はできます」
「奏斗、今の言い方だと、私が会話できない人みたいじゃん」
「否定はしていません」
「ひどい!」
「冗談です」
奏斗の口元がわずかに緩む。
その表情を見て、私はまた安心した。
昨夜の冷たい目だけが、奏斗ではない。
「それで、話って?」
「パフェが来てからにします」
「甘いもの優先?」
「千束が注文させたのでしょう」
「じゃあ、食べながら話そう」
「内容は軽くありません」
「重い話ほど、甘いものが必要だよ」
「そういうものですか?」
「そういうもの!」
奏斗は少し考えたあと、諦めたように椅子へ座った。
私も向かい側へ座ろうとする。
「千束」
先生に呼ばれる。
「何?」
「まだ営業時間中だ」
「あ」
「閉店の準備を終わらせなさい」
「はーい」
私は急いで残りのテーブルを片づけ、入口の札を裏返した。
扉を施錠する。
外から見れば、いつもの閉店後の喫茶店だ。
店内には先生、ミズキ、奏斗、そして私。
先生が作った抹茶パフェを、私は奏斗の前へ置いた。
「お待たせしました! 念願の抹茶パフェです!」
「念願ではありません」
「検討に何日もかけたでしょ」
「単に来店できなかっただけです」
「はい、食べて食べて」
奏斗はスプーンを手に取る。
抹茶アイスと生クリームを一緒にすくい、口へ運んだ。
いつものように、大きく表情は変わらない。
それでも、目元が少しだけ柔らかくなる。
「どう?」
「おいしいです」
「チョコといちごと抹茶、どれが一番?」
「今、決めなければいけませんか?」
「大事な問題だよ」
「これから、もっと重要な話をする予定なのですが」
「じゃあ先に決めよう」
「なぜですか?」
「話の途中だとパフェが溶けるから」
「千束」
先生に低い声で呼ばれる。
「はい。黙ります」
私は姿勢を正した。
ミズキがカウンター席へ座る。
先生も奏斗の近くへ立った。
奏斗はスプーンを置く。
店内の空気が変わった。
奏斗の表情から、甘いものを食べていた十七歳の少年らしさが薄れていく。
任務中と同じではない。
でも、リリベルとして話す顔だった。
「昨夜、千束を襲撃した男について、ある程度の情報が判明しました」
「もう分かったの?」
「完全ではありません。所持品と通信記録から確認できた範囲です」
奏斗は私たちを順番に見る。
「男は、国外を拠点とする武装組織の構成員と考えられます」
「組織名は?」
ミズキが尋ねる。
「現時点ではお伝えできません」
「機密ってこと?」
「はい。名称そのものが確定していないこともあります」
「複数の偽名を使っている?」
「その可能性が高いです」
奏斗は静かに続けた。
「その組織は、武器の密輸、要人暗殺、破壊活動などに関与しています。特定の国家へ所属しているわけではなく、依頼や利益に応じて活動する武装集団です」
「傭兵みたいなもの?」
私が聞く。
「それに近いですが、より組織的です。情報部門、工作部門、戦闘部門を持ち、複数の国に拠点があります」
「そんなのが日本に入ってきてるの?」
「はい」
奏斗は短く答えた。
「リリベルは現在、その外国組織の国内構成員を殲滅しています」
殲滅。
奏斗はためらわず、その言葉を使った。
捕まえるでも、排除するでもない。
すべて殺す。
そういう意味だ。
私は少しだけ眉を寄せる。
「全員、殺すの?」
「それが任務です」
「生きたまま捕まえて、情報を聞いた方がいい人もいるでしょ」
「必要な対象は拘束します。しかし、戦闘員の多くは排除対象です」
「どうして?」
「危険だからです」
「それだけ?」
「十分な理由だと思います」
「私はそう思わない」
「今は、私たちの方針について話しに来たのではありません」
奏斗の声は落ち着いている。
でも、少しだけ会話を切るような硬さがあった。
私はそれ以上言わなかった。
今ここで言い争っても、奏斗の任務は変わらない。
「その組織が、私を狙ってるんだよね?」
「はい」
奏斗は私を見る。
「昨夜拘束した男の通信端末から、錦木千束に関する情報が確認されました」
「私の写真も?」
「複数ありました」
「いつ撮られたもの?」
「リコリコ周辺、任務先、移動中です」
背中に冷たい感覚が走る。
自分の知らないところで、ずっと見られていた。
最初の日だけではない。
「じゃあ、一回目に奏斗が店へ来た日の夜、私を見てたのもその人たち?」
「可能性が高いです」
「昨夜の男?」
「同一人物かは断定できません。監視に関わっていた構成員は複数いると考えられます」
「複数……」
私は思わず入口や窓を見る。
閉じられたカーテン。
外から店内は見えにくい。
でも、周辺の建物や通りから、人の出入りを確認することはできる。
「この店も監視されているのか?」
先生が尋ねた。
「その可能性があります。ただし、現時点でリコリコへの直接攻撃を示す情報はありません」
「油断はできないわね」
ミズキが小さく呟く。
「どうして私を狙うの?」
私は奏斗へ尋ねた。
「過去に何かした相手?」
「個人的な復讐ではありません」
「じゃあ何?」
「組織の活動を行いやすくするためです」
奏斗は一度言葉を区切った。
「彼らは、日本国内での活動を継続するうえで、DAとリコリスを障害と判断しています」
「そりゃ犯罪を止めるからね」
「特に、能力の高いリコリスを優先的に排除する計画を立てていました」
「能力の高いリコリス……」
「その最優先対象が、千束です」
店内が静かになる。
時計の秒針が進む音まで聞こえそうだった。
「私、一番人気ってこと?」
冗談めかして言ってみる。
誰も笑わない。
「そこは笑ってよ」
「笑える内容ではありません」
奏斗が真面目に返す。
「でも、私を消したら本当に活動しやすくなるのかな」
「少なくとも、彼らはそう判断しています」
「私、今はDA本部にいないよ?」
「だからこそ狙いやすいと考えたのでしょう」
先生の表情が険しくなる。
リコリコでの私は、街中に溶け込んで生活している。
DA本部のような厳重な警備はない。
任務の行き帰りに一人になることも多い。
「旧電波塔事件を含め、千束の戦闘能力は国外にも知られているようです」
奏斗が続ける。
「日本で大規模な活動を行う前に、脅威になり得る人物を排除する。彼らにとっては合理的な判断です」
「奏斗まで合理的とか言わないでよ」
「敵側の判断を説明しているだけです」
「私を殺すためなら、一般人を巻き込む可能性もある?」
「あります」
即答だった。
私は先生とミズキを見る。
二人とも表情が硬い。
私だけなら、どうにでもなる。
撃たれても避ければいい。
襲われても返り討ちにする。
でも、店を狙われたら。
先生やミズキ、お客さんが巻き込まれたら。
「リコリコから離れた方がいい?」
言葉が口から出た。
先生がすぐにこちらを見る。
「千束」
「だって、私がここにいるせいで――」
「それを決めるのはまだ早い」
先生の声は落ち着いていた。
「敵の目的と戦力を把握し、対策を立てる」
「でも」
「千束がいなくなれば安全になるという保証もない。すでにこの店の存在を知られているなら、関係者として狙われる可能性もある」
「そうですね」
奏斗も同意する。
「千束だけが移動しても、リコリコへの監視が解除されるとは限りません」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「そのために、今日来ました」
奏斗が私を見る。
「本日、リリベル上層部から新たな命令を受けました」
「新しい任務?」
「はい」
奏斗は姿勢をわずかに正した。
「外国組織の国内拠点を殲滅するまで、錦木千束の護衛を担当します」
「……護衛?」
「はい」
「奏斗が?」
「そうです」
私は何度か瞬きをした。
奏斗が、私の護衛。
「私、護衛されるの?」
「命令では、そうなっています」
「私、強いよ?」
「知っています」
「昨日はちょっと油断しただけで」
「知っています」
「本当なら一人でも平気だよ?」
「上層部へ直接言ってください」
「奏斗はどう思ってるの?」
「命令であれば従います」
「そうじゃなくて」
「何ですか?」
「私の護衛、嫌?」
奏斗が少しだけ黙った。
「嫌であれば、任務を拒否できると思いますか?」
「できないの?」
「正当な理由がなければ難しいでしょう」
「じゃあ、本当は嫌なんだ」
「そうは言っていません」
「でも、うれしいとも言ってない」
「護衛任務を命じられて、喜ぶ人間は少ないと思います」
「私と一緒にいられるんだよ?」
「なぜ、それを利点として提示するのですか?」
「楽しいじゃん」
「任務です」
「任務でも楽しい方がいいでしょ」
「護衛対象が油断しなければ、もう少し楽になると思います」
「まだ昨日のこと言ってる」
「重要な反省点です」
奏斗の真面目な顔に、少しだけ安心する。
護衛という言葉には重さがある。
私が狙われていることも、まだ危険が続いていることも変わらない。
それでも、奏斗がそばにいると聞いて、胸の中に浮かんだのは不安より先にうれしさだった。
「護衛って、具体的に何するの?」
ミズキが尋ねる。
「千束の任務への同行、移動時の警戒、リコリコ周辺の監視です」
「二十四時間ずっと?」
「必要に応じて交代要員が配置される可能性はあります。ただし、現時点では私が主担当です」
「店の中にもいるの?」
私は聞いた。
「周辺の状況によります。外部から監視する場合もあります」
「えー」
「何ですか?」
「外に隠れてるだけじゃつまらないじゃん」
「護衛に娯楽を求めないでください」
「でも、ずっと外にいたら怪しいよ」
「一般人に紛れて行動します」
「奏斗、普通の高校生っぽく見えるからね」
「実際に十七歳です」
「三十四歳に見えるけど」
「またその話ですか」
「じゃあ、もっと自然に店の中にいればいいよ」
「長時間客席にいる方が不自然です」
「何か注文し続ければ?」
「一日に何個パフェを食べさせるつもりですか?」
「三個くらい」
「護衛任務中に体調を崩します」
ミズキが笑いをこらえるように口元を押さえた。
私は少し考える。
奏斗が店内へ自然にいられる方法。
客ではなく。
外から見ても不自然ではなく。
周囲を確認できる立場。
「あ」
一つ、思いついた。
「奏斗、リコリコで働けば?」
奏斗の動きが止まった。
ミズキも先生も、私を見る。
「……何を言っているのですか?」
「店員だよ、店員」
「意味は分かっています」
「だったら話が早いね」
「早くありません」
奏斗は困ったように眉を寄せた。
「私は護衛として来たのです」
「だから店員になれば、ずっと店内にいても自然でしょ?」
「任務と接客業は別です」
「接客もできるよ。コミュニケーション能力高いし」
「自分で言った覚えはありません」
「私やミズキと普通に話せるなら大丈夫」
「それは接客能力の基準になりますか?」
「私の相手ができる人は、大体何でもできるよ」
「どういう自信ですか」
「奏斗なら敬語も使えるし、真面目だし、仕事も早そうだし」
「厨房の経験はありません」
「先生が教えてくれるよ」
「私を巻き込まないでほしいわね」
ミズキが言う。
「ミズキも教えてあげればいいじゃん」
「私は接客担当よ」
「じゃあ接客を」
「何で本当に雇う流れになってるのよ」
「いい案だと思わない?」
私は先生を見る。
先生は腕を組み、奏斗を見ていた。
「店内の警戒という点では、理にかなっている」
「先生?」
奏斗が少し驚いた声を出す。
「外から監視を続ければ、組織側に護衛の存在を悟られる可能性がある。店員として店内にいれば、千束の近くにいても不自然ではない」
「ほら!」
私は得意になって奏斗を見る。
「先生も賛成!」
「まだ賛成とは言っていない」
「でも反対でもないでしょ?」
「奏斗の所属組織との調整が必要だ」
「そう、それです」
奏斗がすぐに言った。
「私個人の判断で、勤務形態を変更することはできません」
「じゃあ上の人に聞けばいいじゃん」
「リリベルの護衛任務中に、喫茶店の店員として働きたいと上申するのですか?」
「そう」
「許可が出ると思いますか?」
「出るんじゃない?」
「なぜ、そんなに楽観的なのですか」
「だって護衛しやすいんでしょ?」
「合理性はありますが」
「それに、お給料も出るよ」
「必要ありません」
「まかないもあるよ」
「任務中の食事は支給されます」
「パフェも食べられる」
奏斗が一瞬黙った。
私は見逃さない。
「今、迷った」
「迷っていません」
「絶対迷ったよ」
「パフェを報酬にしないでください」
「従業員割引もあるかも」
「まだ雇うと決まっていませんよね?」
「先生、従業員割引ある?」
「考えておこう」
「先生まで!」
奏斗が珍しく少し強い声を出した。
ミズキが楽しそうに笑っている。
「いいじゃない。似合いそうよ、店員」
「ミズキさんまで何を言っているのですか」
「顔も悪くないし、女性客が増えるかも」
「それは護衛任務と関係ありません」
「お店としては重要よ」
「勝手に集客要員へ変更しないでください」
私は奏斗が店員として立っている姿を想像する。
真面目な顔で注文を取る。
お客さんには敬語。
変な注文にも冷静に対応する。
たまに鋭いツッコミを入れる。
「絶対似合うよ」
「何を想像しているのですか?」
「奏斗がエプロンしてるところ」
「やめてください」
「色は何がいいかな」
「決まっていません」
「赤?」
「千束と同じになるでしょう」
「黒もいいね」
「話を進めないでください」
「奏斗」
先生が声をかける。
奏斗は私から視線を外し、先生を見る。
「はい」
「護衛任務の詳細と、店内での立場について、上層部へ確認してほしい」
「……本気ですか?」
「店員として勤務するかは、許可が出たあとに判断する。だが、選択肢として検討する価値はある」
奏斗は少しの間、黙っていた。
おそらく頭の中で、上層部へどのように説明するかを考えているのだろう。
「分かりました」
やがて、静かに答えた。
「上層部へ相談します」
「やった!」
「まだ許可は出ていません」
「でも相談するんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、ほぼ決まりだね」
「どのような計算ですか」
「千束式」
「信用できません」
「ひどいなぁ」
私は笑いながら、奏斗の抹茶パフェを見る。
話している間に、少し溶け始めていた。
「奏斗、パフェ」
「あ」
「ほら、重い話をしてると溶けるって言ったでしょ」
「千束が店員の話を広げたからです」
「早く食べないと」
奏斗は再びスプーンを手に取る。
抹茶アイスと餡、白玉を一緒にすくう。
「白玉はどう?」
「おいしいです」
「順位は?」
「まだ聞くのですか」
「大事だから」
奏斗はパフェを見つめ、少し考えた。
「一位はチョコレートです」
「抹茶は?」
「二位です」
「いちごが負けた!」
「なぜ千束が悔しがるのですか?」
「全部うちの商品だから、どれが勝ってもいいんだけどね」
「それでは順位を聞く意味がないでしょう」
「奏斗の好みを知れる」
「知ってどうするのですか?」
「次に出すパフェを決める」
「また食べさせる前提ですか」
「店員になったら、休憩中に毎日食べられるよ」
「毎日は食べません」
「本当に?」
「……毎日は食べません」
一瞬の間。
私はにやりと笑う。
「今、ちょっと迷った」
「気のせいです」
「奏斗、甘いもののことになると分かりやすいよね」
「千束がしつこいだけです」
いつものやり取り。
でも今日は、その奥に新しい関係が生まれようとしている。
奏斗は私の護衛になる。
もしかしたら、リコリコの店員にもなる。
リコリスとリリベル。
考え方も、任務のやり方も違う。
それでも、同じ店に立つことができるかもしれない。
私はその未来を想像して、少し楽しくなった。
◇
パフェを食べ終えると、奏斗は会計を済ませた。
「今日は報告に来たんだから、代金いらないよ」
私が言うと、奏斗は財布からきっちり料金を出した。
「パフェを食べたので支払います」
「護衛の報告料ってことで」
「それは組織へ請求してください」
「じゃあ、護衛対象からの差し入れ」
「次回から検討します」
「次回があるんだ?」
「護衛任務が始まるのであれば、来る機会は増えるでしょう」
「おお」
私は受け取ったお金をレジへ入れる。
「じゃあ明日から?」
「上層部の判断次第です」
「連絡先交換しようよ」
「なぜですか?」
「結果を教えてもらうため」
「正式な連絡は、ミカさんを通じて行います」
「えー」
「個人的な連絡先は必要ありません」
「護衛対象と連絡取れない方が困らない?」
奏斗が少し黙る。
「それは……状況によります」
「ほら、必要かも」
「正式な端末が支給される可能性があります」
「じゃあ、それがなかったら交換ね」
「勝手に決めないでください」
奏斗は入口へ向かう。
私もついていく。
「気をつけて帰ってね」
「それは私の台詞です」
「私は今日は任務ないよ」
「外出は?」
「セーフハウスに帰るだけ」
「ミカさんかミズキさんと一緒に移動してください」
「奏斗は?」
「上層部へ報告があります」
「一緒に帰ってくれないの?」
「まだ護衛任務の正式な開始時刻を確認していません」
「真面目だなぁ」
「命令系統は重要です」
「じゃあ、早く許可もらってきて」
「店員の許可まで出るとは限りません」
「大丈夫だよ」
「根拠は?」
「私の勘」
「最も信用できない答えですね」
「昨日は勘で奏斗だと思って失敗したけど、今日は大丈夫」
「それを自分で言いますか」
「成長したからね」
「一日で?」
「人はいつだって変われるんだよ」
「ミズキさんに同じことを言っていませんでしたか?」
「聞いてたの?」
「店の外まで声が聞こえました」
「えっ」
「冗談です」
「奏斗、そういう冗談言うようになったね」
「千束の影響かもしれません」
「それ、褒めてる?」
「判断は任せます」
奏斗は扉を開ける。
ベルが鳴った。
「では、相談してきます」
「うん!」
私は大きく手を振る。
「明日からよろしくね、奏斗店員!」
「決まっていません!」
奏斗の少し強い声が、閉まる扉の向こうへ消えていった。
私は笑いながら、扉を見つめる。
「楽しそうね」
背後からミズキの声。
「うん」
「護衛される立場なの、分かってる?」
「分かってるよ」
「命を狙われてるのよ?」
「それも分かってる」
私は頬の絆創膏へ触れた。
怖くないわけじゃない。
また暗い場所から撃たれるかもしれない。
次は奏斗が間に合わないかもしれない。
リコリコが狙われる可能性もある。
でも、不安なことだけを考えていても何も変わらない。
「奏斗が護衛してくれるなら、少し安心でしょ?」
「まあね」
「店員になったら、もっと安心」
「本当に働かせる気なの?」
「もちろん!」
先生がカウンターの奥からこちらを見る。
「千束」
「何?」
「奏斗の意思も尊重しなさい」
「ちゃんと相談するって言ってたよ」
「押し切ったように見えたが」
「気のせい気のせい」
私は奏斗が食べ終えたパフェグラスを持ち上げる。
中身はきれいになくなっていた。
白玉も、餡も、抹茶アイスも残っていない。
「でも、ちゃんと抹茶食べてくれた」
「それと店員の話は関係ないでしょ」
ミズキが呆れる。
「関係あるよ」
「どういう?」
「約束を守る人ってこと」
奏斗は抹茶パフェを注文するとは約束していなかった。
検討すると言っただけ。
それでも、私がすすめたものを選んでくれた。
店に来るという言葉も守った。
なら、きっとまた来る。
今度は客としてではなく、店員として。
「明日が楽しみだね」
「許可が出なかったら?」
「そのとき考える」
「本当にそればっかりね」
私は笑いながら、グラスを洗い始めた。
◇
同じ頃。
押村奏斗は、リリベルの国内活動拠点へ戻っていた。
外見上は、民間企業が使用する事務所ビル。
受付も看板もあり、昼間は一般人らしい人間が出入りしている。
しかし、地下には複数の作戦室と武器庫、通信設備が設けられていた。
奏斗は認証を通過し、廊下を進む。
周囲では、同年代のリリベルたちが報告書を提出し、装備を返却していた。
誰も大きな声を出さない。
喫茶リコリコとは正反対の空気だ。
静かで、無駄がなく、必要な会話だけが交わされる。
奏斗は上層部への報告室へ入った。
室内には一人の男性がいた。
四十代ほど。
暗い色のスーツを着て、端末へ目を落としている。
「押村奏斗、帰還しました」
「入れ」
奏斗は扉を閉め、机の前へ立った。
「錦木千束および喫茶リコリコへの接触結果を報告します」
「続けろ」
「対象へ、外国組織による襲撃計画と護衛任務について説明しました。ミカおよび中原ミズキも同席しています」
「反応は?」
「護衛について、強い拒否はありません」
「強い拒否は、か」
「錦木千束は、自分に護衛は必要ないと主張しました」
「予想どおりだな」
「最終的には受け入れています」
男性は端末へいくつか入力する。
「リコリコ側の警備状況は?」
「外部からの攻撃へ対応する設備は十分ではありません。周辺には一般住宅と店舗が多く、目立つ形で警備要員を配置することは困難です」
「お前が常駐する必要があると?」
「はい」
「方法は考えているか」
奏斗は一瞬だけ黙った。
ここまでは予定どおりの報告だ。
問題は、次だった。
「喫茶リコリコ側から、提案がありました」
「何だ」
「私が、喫茶リコリコの店員として勤務する案です」
男性が端末から顔を上げた。
無表情。
何を考えているか分からない。
「店員?」
「はい」
「お前が?」
「はい」
「喫茶店の?」
「……はい」
確認を重ねられるたびに、奏斗は自分が何を報告しているのか分からなくなってきた。
リリベルの任務報告室。
外国武装組織の殲滅作戦。
最重要護衛対象。
その流れで、喫茶店の店員として働く許可を求めている。
「理由を説明しろ」
「店員として勤務すれば、対象の近くに長時間滞在しても不自然ではありません。店内と周辺の警戒を同時に行うことができます」
「外部から監視する場合と比べて、敵に護衛の存在を悟られにくい」
「はい」
「店員としての業務に支障はないか」
「接客経験はありません」
「最低限の会話はできるな」
「はい」
「調理は?」
「できません」
「店長から指導を受けろ」
男性は再び端末へ視線を落とした。
「許可する」
奏斗は一瞬、返事が遅れた。
「……許可、ですか?」
「聞こえなかったか」
「いえ。聞こえました」
「ならば、明日から勤務しろ」
「あの」
「何だ」
「もう少し、審査や協議があるものかと」
「必要ない」
「所属の異なる組織の関係者が運営する店舗です」
「ミカの経歴は把握している。喫茶リコリコもDAの外部拠点として登録されている。問題はない」
「しかし、私が接客業務を行うことについては」
「潜入任務の一種と考えろ」
「喫茶店への潜入ですか」
「不満か?」
「いいえ」
奏斗は即答した。
不満ではない。
ただ、拍子抜けしている。
千束に提案されたときは、認められるはずがないと思った。
護衛任務中に喫茶店で働く。
理由は合理的でも、組織が簡単に許可するとは考えていなかった。
「勤務中の報酬は?」
男性が尋ねる。
「報酬?」
「店舗から給与が支払われるのか」
「確認していません」
「二重報酬になる場合は申請しろ」
「はい」
「食事の提供は?」
「まかないがある可能性はあります」
「任務への支障がなければ許可する」
「はい」
「ほかに報告は?」
奏斗の脳裏に、千束の言葉が浮かんだ。
パフェも食べられる。
従業員割引もあるかもしれない。
さすがに、それを報告する必要はない。
「ありません」
「では、明日九時までに喫茶リコリコへ入れ。開店準備から参加し、自然な形で勤務を開始しろ」
「開店準備からですか?」
「店員なら当然だろう」
「……了解しました」
男性は端末へ何かを入力し、正式な命令書を奏斗の端末へ送信した。
画面に表示された任務名を確認する。
外国武装組織対策特別護衛任務。
任務場所、喫茶リコリコ。
活動上の身分、店舗従業員。
冗談ではない。
本当に許可が出た。
それも、上申してから数分も経っていない。
「下がっていい」
「失礼します」
奏斗は一礼し、報告室を出た。
扉が閉まる。
静かな廊下を歩きながら、もう一度端末を見る。
命令内容は変わらない。
明日から、喫茶リコリコの店員。
「……簡単すぎるでしょう」
思わず、小さく呟いた。
もっと反対されると思っていた。
リコリスとリリベルの管轄について質問される。
勤務中の情報管理について長い確認が入る。
場合によっては上層部同士の協議に数日かかる。
そう予想していた。
実際は、許可する、の一言だった。
奏斗は歩みを止める。
明日の朝、リコリコへ行けば、千束はどんな反応をするだろう。
おそらく、大きな声で喜ぶ。
自分の予想が当たったと勝ち誇る。
そして、店員用の服や仕事について、勝手に話を進める。
ミズキには面白がられ、ミカには冷静に仕事を教えられるだろう。
接客。
配膳。
片づけ。
もしかすると、簡単な調理も覚えさせられる。
「護衛任務のはずですが」
誰に言うでもなく呟く。
端末へ新しい通知が届いた。
上層部からの補足事項。
護衛対象と良好な関係を維持すること。
店舗業務へ可能な範囲で協力すること。
周辺住民へ不審感を与えないこと。
奏斗は画面を見つめ、小さく息を吐いた。
「完全に店員ですね」
それでも、不思議と嫌ではなかった。
喫茶リコリコの店内。
コーヒーの香り。
ミズキの大きな声。
ミカの落ち着いた雰囲気。
そして、自称看板娘として笑う千束。
あの場所で働く自分を、まだうまく想像できない。
任務中は感情を持ち込まない。
命令されたことを、必要な形で実行する。
明日からの勤務も、その一つだ。
ただ。
休憩中に、従業員割引でパフェを注文できるのか。
その点だけは、少し気になった。
「……確認する必要がありますね」
奏斗は誰もいない廊下で、小さく呟いた。
そして、明日の開店時刻を確認しながら、装備の返却へ向かった。