翌朝。
いつもより少し早く喫茶リコリコへ着いた私は、入口の扉を勢いよく開けた。
「おっはよーございまーす!」
からん、とベルが鳴る。
まだ開店前の店内には、お客さんの姿はない。
カウンターの奥では先生がコーヒー豆を確認していて、ミズキは窓際のテーブルに椅子を並べていた。
「朝からうるさいわね」
ミズキが振り返り、迷惑そうに眉を寄せる。
「朝だから元気なんだよ」
「あんた、夜でも同じくらいうるさいでしょうが」
「じゃあ時間に左右されない安定した元気ってことだね」
「物は言いようね」
私は笑いながら店内へ入り、扉を閉めた。
昨日の夜、奏斗が帰ってから、私は何度も同じことを考えていた。
奏斗は本当にリコリコの店員になるのか。
リリベルの上層部は許可を出すのか。
普通に考えれば、簡単に決まる話ではない。
奏斗自身も、許可が出るとは思っていない様子だった。
それでも私は、何となく大丈夫な気がしていた。
先生も店内で護衛することには一定の合理性があると言っていたし、奏斗は真面目だから、上層部への説明もきちんとするだろう。
あとは上の人が、どれだけ柔軟かだ。
「先生」
「何だ」
「奏斗から連絡あった?」
鞄をいつもの場所へ置きながら尋ねる。
先生は豆の入った容器を棚へ戻した。
「あった」
「えっ」
私は動きを止めた。
「いつ?」
「昨夜だ」
「何で教えてくれなかったの?」
「千束はすでにセーフハウスへ戻っていただろう」
「連絡してくれればよかったじゃん」
「夜も遅かった」
「起きてたよ」
「怪我をした人間は休むべきだ」
「もう治ったってば」
私は頬へ手を触れた。
昨日まで貼っていた絆創膏は、今朝には外している。
傷は小さく、近くで見なければ分からない程度になっていた。
背中にはまだ少しだけ痛みが残っているけれど、日常生活には問題ない。
「それで?」
私はカウンターへ身を乗り出した。
「どうだったの?」
「何が?」
「奏斗の店員!」
「許可が出た」
「本当!?」
思わず大きな声を上げる。
ミズキが耳を押さえた。
「うるさい!」
「だって許可出たって!」
「聞こえてるわよ」
「奏斗、店員になるんだよ!」
「昨日、あんたが無理やり提案したんでしょうが」
「無理やりじゃないよ。画期的な提案」
「奏斗君、断らなかったの?」
「上層部と相談するって言ってたもん」
「本人の意思を聞いてるのよ」
「任務だから大丈夫でしょ」
「それ、本人の意思じゃないじゃない」
ミズキの指摘は聞かなかったことにする。
「いつから?」
私は先生へ尋ねた。
「今日からだ」
「今日?」
「九時までに来る予定だ」
時計を見る。
八時四十分。
あと二十分ほどしかない。
「えっ、制服は?」
「準備が間に合っていない」
先生は落ち着いた声で答える。
「採寸もしてないもんね」
「今日は私服の上にエプロンを着けてもらう」
「エプロン!」
私は頭の中に奏斗の姿を思い浮かべた。
いつもの落ち着いた私服。
その上から、リコリコのエプロン。
「似合いそう」
「まだ見てもないでしょうが」
「分かるよ。私、想像力豊かだから」
「勝手に変な格好を想像してないでしょうね」
「してないって」
リコリコの店員は、普段は和服を意識した制服を着ている。
先生は紫を基調とした和服。
私やミズキの制服も、それぞれ色や形は違うけれど、店の雰囲気に合う着物風のデザインだ。
奏斗にも、いずれ専用の制服が用意されるのだろう。
どんな色になるのか。
黒や紺なら落ち着いた奏斗に似合う。
でも、少しくらい明るい色でも面白いかもしれない。
「先生、奏斗の制服は赤にしよう」
「なぜ千束が決める」
「私とおそろい」
「店員の衣装でおそろいを求めるな」
ミズキが椅子を並べながら言う。
「じゃあ黒」
「急に無難ね」
「白もいいなぁ」
「全部言ってるだけじゃない」
「実際に着てもらって決めよう」
「衣装合わせをする店じゃないのよ」
私は店の入口へ視線を向けた。
まだ奏斗は来ない。
昨日、上層部へ相談すると言って帰った。
それからすぐ許可が出て、今日から勤務。
奏斗自身も驚いただろう。
「どんな顔で来るかな」
「いつもの無表情じゃない?」
「ちょっと困った顔だと思う」
「朝からあんたに捕まったら、確実に困るでしょうね」
「失礼だなぁ。私は教育係だよ?」
「誰が決めたのよ」
「私」
「また自称じゃない」
前にも似たような会話をした気がする。
「先生、私が奏斗の指導していいよね?」
「接客については、千束かミズキに任せる」
「ほら!」
「調理や店内の規則については私が教える」
「つまり、私が主任教官」
「そこまでは言っていない」
「奏斗、かわいそうに」
ミズキが小さく呟いた。
「何で?」
「初日から千束の指導を受けるのよ」
「最高でしょ」
「地獄の間違いじゃない?」
「ミズキには頼まないから安心して」
「誰もやりたいと言ってないわよ!」
そんなやり取りをしていると、入口のベルが鳴った。
まだ開店前。
鍵は開けてあったけれど、看板は出していない。
この時間に来る人は一人しかいない。
私はすぐに振り返った。
扉の前に、奏斗が立っていた。
白いシャツに黒いパンツ。
その上に薄手の落ち着いた色の上着を羽織っている。
片手には小さな鞄。
いつものように姿勢がよく、寝不足にも緊張しているようにも見えない。
「おはようございます」
「奏斗!」
「はい」
「本当に来た!」
「昨日も同じことを言われた気がします」
奏斗は店内へ入り、扉を閉めた。
「店員になったんだね!」
「上層部から許可が出ました」
「ほらね!」
「何がですか?」
「私の勘が当たった」
「上層部へ相談したのは私ですが」
「提案したのは私」
「そこまで勝ち負けにする必要がありますか?」
「あるよ」
「ありません」
いつもの調子で返される。
それだけで少しうれしくなった。
奏斗は先生の前へ進み、丁寧に頭を下げた。
「本日から、護衛任務の一環として勤務します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく頼む」
先生が穏やかに答える。
次に、奏斗はミズキへ視線を向けた。
「ミズキさんも、よろしくお願いします」
「ええ。千束に振り回されないように気をつけて」
「余計なこと言わないでよ」
「最も重要な注意事項でしょうが」
「昨日の報告にはありませんでした」
奏斗が真面目な顔で言う。
「報告されなくても、もう分かってるでしょ?」
ミズキが笑う。
「はい。ある程度は」
「奏斗!」
「嘘は言えませんので」
私は頬を膨らませた。
「今日から私が指導するのに、その態度でいいのかな?」
「千束が指導担当なのですか?」
「そうだよ」
「変更は可能でしょうか」
「開始前から教官変更を希望しないで!」
「冗談です」
「最近、奏斗の冗談が分かりづらい!」
「千束の影響かもしれません」
「じゃあ私の指導力がもう出てるね」
「今のところ、不安しかありません」
奏斗の口元が少しだけ緩む。
先生はカウンターの下から、黒いエプロンを取り出した。
「奏斗、今日はこれを使ってほしい」
「分かりました」
「制服は準備に時間がかかる。しばらくは私服にエプロンになるかもしれない」
「問題ありません」
奏斗は上着を脱ぎ、丁寧にたたんで鞄の上へ置いた。
白いシャツの上から黒いエプロンを身につける。
背中の紐を結び、前を整える。
予想していたとおり、よく似合っていた。
派手ではない。
むしろかなり普通の格好だ。
それなのに、姿勢がいいからか、きちんとした店員に見える。
「おお」
私は腕を組み、奏斗の周りを一周した。
「何ですか?」
「似合うね」
「そうですか」
「思ったより店員っぽい」
「店員として働くのですから、問題はないでしょう」
「でも、まだ少し真面目すぎるなぁ」
「真面目で何が悪いのですか?」
「リコリコらしさが足りない」
「リコリコらしさとは?」
「楽しく、明るく、元気よく!」
「主に千束らしさでは?」
「同じようなものだよ」
「店の方針を個人の性格と混同しないでください」
私は奏斗のエプロンの胸元を軽く直した。
「まずは笑顔」
「笑顔?」
「接客の基本」
「必要であれば笑います」
「必要だから」
奏斗は少しだけ口元を上げた。
整った表情。
失礼のない、自然な微笑み。
でも、何か違う。
「硬い」
「笑っていると思いますが」
「営業用すぎる」
「営業中に使用する笑顔なので、正しいのでは?」
「もっとこう、楽しい感じ」
「具体性がありません」
「私を見て」
私は奏斗の正面で、いつものように大きく笑った。
「いらっしゃいませー!」
「声が大きすぎます」
「そこじゃない!」
「表情は確認しました」
「じゃあやってみて」
奏斗は一度息を整える。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声。
笑顔も先ほどより少しだけ柔らかい。
「うん。悪くない」
「上からですね」
「指導者だからね」
「一分前に自称したばかりでしょう」
「先生も認めてたよ」
「接客について任せると言っただけだ」
先生の冷静な補足が入る。
「ほぼ同じ!」
「かなり違うと思います」
「奏斗は細かいなぁ」
「店員として必要な確認です」
「その真面目さはいいね。加点一」
「何点満点ですか?」
「百点」
「先は長そうですね」
「大丈夫。私についてくれば、すぐ一流のリコリコ店員になれるよ」
「その一流は、誰が認定するのですか?」
「私」
「やはり自称ではありませんか」
ミズキが耐えきれず笑い出した。
◇
開店までの時間、先生から店内の基本的な説明が行われた。
食器の位置。
注文票の扱い方。
会計方法。
厨房へ入る際の注意。
コーヒー豆や食材の保管場所。
奏斗は一度聞いただけで、ほとんどの内容を覚えていた。
「この棚の上段が通常のカップ。下段がセット用ですね」
「そうだ」
「使用後は、こちらへ」
「問題ない」
「伝票は注文順に固定し、追加注文は同じ番号へ記入」
「そのとおりだ」
先生の確認に、奏斗が迷わず答える。
私は少し離れたところで腕を組み、うんうんとうなずいた。
「さすが私の弟子」
「まだ千束から何も教わっていません」
「笑顔を教えた」
「採用したかは分かりません」
「加点一もあげた」
「不要です」
先生からの説明が終わると、次は私が奏斗を店内へ連れ回した。
「ここが一番大事な場所」
私は店の入口近くで足を止めた。
「入口ですか?」
「そう。ベルが鳴ったら、すぐにお客さんを見る」
「はい」
「それから、とびっきりの笑顔で『いらっしゃいませー!』」
「先ほど確認しました」
「声はもっと大きく」
「店内で会話できる程度で十分です」
「元気がないと負けるよ」
「何にですか?」
「ほかの店に」
「接客を競技のように考えないでください」
「競争社会は厳しいんだよ、奏斗」
「千束が言うと、説得力がありませんね」
「何で?」
「何となくです」
私は奏斗へおしぼりと水の載ったトレイを持たせた。
「次。運び方」
「これは見れば分かります」
「甘い!」
「甘い?」
「パフェじゃないよ」
「分かっています」
「ただ運ぶだけじゃ駄目。お客さんの様子を見て、邪魔にならない位置から置くの」
「はい」
「水は右側。おしぼりは取りやすい場所」
「テーブルの状況によって変更」
「おっ、分かってる」
「一般的な接客です」
「それから、子供がいたら少し離して置く」
「倒す可能性があるためですね」
「正解!」
「普通だと思います」
「加点三!」
「先ほどは一だったのに、基準が変わっていますよ」
「成長するといっぱいもらえる」
「採点方法に一貫性がありません」
奏斗はそう言いながらも、トレイの持ち方を確認し、店内を歩いた。
動きに無駄がない。
姿勢も安定している。
訓練の影響だろう。
足元や周囲を確認する癖もあり、椅子やテーブルへぶつかる気配がない。
「覚えるの早いね」
「それほど難しい作業ではありません」
「油断すると落とすよ」
「千束は落としたことがありますか?」
「ないよ」
少し間を置く。
「……たぶん」
「今の間は何ですか?」
「昔のことは覚えてない」
「あるのですね」
「成長したから大丈夫!」
「その言葉は便利ですね」
次に、注文の取り方を教える。
私が客役として椅子へ座り、奏斗が注文票を持って立つ。
「いらっしゃいませ!」
「もう入店済みです」
「練習だからいいの」
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「うーん、どうしようかなぁ」
私はメニューを広げる。
「おすすめは?」
「チョコレートパフェです」
「即答!」
「私のおすすめです」
「奏斗の好みじゃん」
「おいしいことは確認済みです」
「店員としては、今日のおすすめとか聞かないと」
「本日のおすすめは何ですか?」
「先生、今日のおすすめ何?」
「指導する前に確認しておきなさい」
先生から指摘される。
「今日は日替わりランチだ」
「だって」
「千束は指導役ですよね?」
「大事なのは、分からないことをすぐ聞く勇気」
「今、作りましたね」
「細かい細かい」
奏斗は注文票へ視線を落とす。
「本日のおすすめは日替わりランチです」
「でも甘いものが食べたい」
「でしたら、チョコレートパフェがおすすめです」
「抹茶じゃなくて?」
「個人的にはチョコレートです」
「店員の好みを押しつけてる!」
「千束が毎回していたことでは?」
返す言葉がなかった。
「……奏斗、接客向いてるね」
「今のは千束の接客を再現しただけです」
「私の指導がいいってことだね」
「そういう結論になりますか?」
奏斗は小さく息を吐いた。
でも、少し楽しそうだった。
◇
開店時間になる。
入口の看板を出し、扉の鍵を開ける。
奏斗の初勤務が始まった。
最初のお客さんは、近所に住む年配の男性だった。
扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいませー!」
私はいつもどおり大きな声で迎える。
少し遅れて、奏斗も頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声。
先ほどより自然な笑顔。
男性は奏斗を見て、少し驚いた様子を見せた。
「あれ、新しい子かい?」
「はい。本日から勤務します、押村です」
奏斗が丁寧に答える。
「よろしくお願いいたします」
「ずいぶん真面目そうな子だねぇ」
「私が指導しました!」
横から口を挟む。
「勤務開始から、まだ十分ほどです」
「でも成果出てるでしょ?」
「もともとの性格だと思いますよ」
「ほら、ツッコミも上手!」
男性が楽しそうに笑った。
「千束ちゃんの相手ができるなら、長く続きそうだ」
「どういう意味ですか?」
「奏斗君、大変だねって意味よ」
ミズキがカウンターの向こうから言う。
「まだ初日なので判断できません」
奏斗は真面目に答えたあと、男性を席へ案内した。
水とおしぼりを運び、注文を取る。
少しぎこちなさはある。
でも、初めてとは思えないほど自然だった。
相手の話をきちんと聞き、聞き返すときも丁寧。
注文内容を復唱し、先生へ伝える。
「日替わりランチ一つ、食後にホットコーヒーです」
「分かった」
初めての注文は問題なし。
私はカウンターの陰から、得意げにうなずいた。
「私の教え方がいい」
「本人の能力でしょ」
ミズキが即座に否定する。
「でも教えたのは私」
「十分くらいね」
「時間より質だよ」
「ほとんど雑談してたように見えたけど」
「奏斗は会話から学ぶタイプなの」
「勝手に分析しないでください」
少し離れた位置から奏斗の声が飛んできた。
「聞こえてた?」
「店内で大きな声を出しているので」
「聞き耳を立てるのはよくないよ」
「聞こえるように話している側が悪いと思います」
お客さんがまた笑う。
初勤務の緊張は、ほとんど感じられなかった。
その後も、少しずつお客さんが入ってきた。
奏斗は一度教えられたことを繰り返さない。
水を置く位置。
食器を下げる順番。
伝票の扱い。
会計時の言葉。
どれもすぐに覚えた。
混雑しても慌てない。
周囲を見て、自分が今何をすべきかを判断して動く。
「二番テーブル、食器下げてくれる?」
「はい」
「終わったら三番にお水」
「すでに追加しています」
「えっ」
見ると、三番テーブルの水はすでに補充されていた。
「いつの間に」
「二番テーブルへ向かう途中です」
「やるね」
「お客様のグラスが空いていたので」
「加点十!」
「まだ採点を続けていたのですか?」
「現在十四点」
「先が長いですね」
「今日中に百点目指そう」
「目標設定が突然ですね」
昼に近づくと、店内は少し忙しくなった。
私は料理を運び、奏斗は注文と片づけを中心に動く。
先生は厨房。
ミズキは会計と飲み物。
新しい一人が増えたことで、店内の流れは普段よりスムーズだった。
奏斗は接客中も、お客さんとの会話を避けなかった。
「新しい店員さん?」
女性客に聞かれると、丁寧に答える。
「はい。本日から勤務しています」
「高校生?」
「十七歳です」
「落ち着いてるね」
「よく言われます」
「千束ちゃんと同い年くらい?」
「私より一つ上!」
少し離れた場所から答える。
「千束、今は私が聞かれていました」
「補足しただけ」
「必要ありません」
女性客たちが楽しそうに笑う。
「仲良いのね」
「まだ知り合って間もないよ」
「勤務上の関係です」
私と奏斗が同時に答える。
内容が違った。
「ほら、息ぴったり」
女性客の一人に言われ、奏斗が少し困った顔をした。
「そうでしょうか」
「そうだよ!」
「千束が肯定すると、説得力が下がります」
「何で!」
また笑いが起きる。
気づけば、奏斗は女性客から何度も声をかけられていた。
最初は近所の女性客。
そのあと入ってきた若い二人組。
さらに、外から店内を見た女性たちが、奏斗の姿を確認して入店してきた。
「あの店員さん、新しい人?」
「はい。本日からです!」
私が答える。
「注文取ってもらってもいい?」
「もちろん!」
奏斗を手招きする。
「奏斗、四番テーブル!」
「はい」
奏斗は何も疑わず向かう。
女性客たちは、奏斗が近づくと少しだけ声を明るくした。
「おすすめは何ですか?」
「本日は日替わりランチがおすすめです」
「甘いものなら?」
「チョコレートパフェです」
「奏斗、それ自分の好み!」
「おいしいので問題ありません」
女性客が笑う。
「じゃあ、チョコレートパフェにしようかな」
「私も同じもの」
「二つですね。少々お待ちください」
奏斗は注文票へ記入し、カウンターへ戻ってくる。
「パフェ二つです」
「見た?」
私は得意げに言った。
「何をですか?」
「奏斗のおすすめで二つ売れた」
「お客様が選んだ結果です」
「指導の成果だね」
「私の好みを答えただけですが」
「それで売れたなら立派な接客」
「千束の教えとは関係ないでしょう」
「でも、私がすすめ方を教えた」
「千束は強引に誘導していただけでは?」
「結果がすべて!」
ミズキが横で呆れた顔をする。
「指導者として何もしてないのに、手柄だけ持っていく気ね」
「そんなことないよ。奏斗の成長を見守ってる」
「親みたいな言い方をするな」
「奏斗が反抗期!」
「反抗していません」
それからも、女性客は増えた。
奏斗を目当てにしているのが分かりやすい人もいた。
注文を追加するたびに奏斗を呼ぶ。
会計のときに次の勤務日を聞く。
名前を確認する。
奏斗は終始、丁寧に対応していた。
「次はいついますか?」
「護衛――」
言いかけて、奏斗が止まる。
「勤務予定は、まだ確定していません」
危ない。
普通のお客さんへ護衛任務と言いかけた。
私はすぐに横から入った。
「奏斗は今日から毎日いる予定でーす!」
「千束、勝手に決めないでください」
「でも護――」
私も言いかけて止まる。
奏斗がじっとこちらを見る。
「人のことを言えませんね」
「今のは奏斗につられたの」
「責任を押しつけないでください」
女性客が笑いながら店を出ていく。
「また来ますね」
「ありがとうございました!」
奏斗も丁寧に頭を下げた。
扉が閉まる。
店内が一時的に静かになった。
「人気だね、奏斗」
「初日だから珍しいだけでしょう」
「女性客、すっごく増えたよ」
「偶然では?」
「外から奏斗を見て入ってきた人もいた」
「監視していたのですか?」
「指導者として弟子の様子を見るのは当然」
「私が周囲を警戒する任務では?」
「店内は私の担当」
「聞いていません」
「今日決めた」
ミズキが売上の途中経過を確認し、感心したような声を出す。
「でも、本当にいつもより多いわね」
「でしょ!」
「何で千束が得意そうなのよ」
「私が育てた店員だから」
「まだ数時間よ」
「優秀な教え子を持つと、指導者も誇らしいね」
「教え子になった覚えはありません」
奏斗はそう言いながら、空いたテーブルを手際よく拭いていた。
布巾の使い方も、椅子を戻す位置も正確。
「奏斗」
「何ですか?」
「九十点!」
「急に点数が上がりましたね」
「女性客をいっぱい呼んだから」
「私の意思ではありません」
「人気も実力のうち」
「残り十点は?」
「笑顔」
「先ほどから笑顔で対応しています」
「もっと自然なやつ」
「具体的には?」
「パフェを食べたときの顔」
「接客中に同じ顔をする必要はありません」
「ちょっとだけうれしそうでいいじゃん」
「お客様へパフェを渡しながら、私がうれしそうにするのですか?」
「甘いものへの愛が伝わる」
「店員が食べたいようにしか見えないでしょう」
私は笑った。
奏斗も、小さく息を吐く。
その口元が少しだけ緩んでいた。
「今の笑顔で百点!」
「採点が雑すぎませんか?」
「合格おめでとう!」
「資格試験ではありませんよ」
「今日から立派なリコリコ店員だね」
「初日が終わってもいません」
「細かいなぁ」
それでも、奏斗は本当に覚えが早かった。
午後には、ほとんど指示を出さなくても自分で動けるようになっていた。
店内の様子を見て、必要な場所へ行く。
お客さんへ声をかける。
先生やミズキの動きを邪魔しない。
私が少しくらいさぼっても――。
「千束」
「はい?」
「五番テーブルの注文をお願いします」
「奏斗が行ってよ」
「今、私は会計中です」
「ミズキは?」
「飲み物を作ってるわよ」
「先生は?」
「厨房だ」
「じゃあ私しかいないかぁ」
「最初から千束の仕事です」
新しい店員が増えたからといって、私の仕事がなくなるわけではなかった。
「奏斗、店員らしくなったね」
「千束は店員らしく働いてください」
「弟子に注意された!」
「正しい指摘でしょ」
ミズキが笑う。
「奏斗君が来て、少しは千束も真面目になるかと思ったけど」
「私はずっと真面目だよ」
「どの口が言うのよ」
「奏斗、どう思う?」
「回答を拒否します」
「そこは味方してよ!」
「嘘は言えませんので」
「二人ともひどい!」
店内に笑い声が広がった。
奏斗が来て、まだ一日目。
それなのに、前からここにいたような感じがした。
もちろん、完全に馴染んだわけではない。
まだ動きに少し硬さがある。
休憩中も背筋を伸ばしている。
お客さんがいなくても、店内や窓の外を確認している。
護衛任務としてここにいることを、奏斗は忘れていない。
でも、パフェの話をすれば真面目に答える。
冗談にもツッコミを返す。
女性客に人気が出ても、少し困った顔をするだけで態度は変わらない。
私はそんな奏斗を見ながら、昨日自分が提案したことは間違っていなかったと思った。
奏斗はリリコリの店員に向いている。
少なくとも、私の弟子としては上出来だ。
◇
閉店後。
最後のお客さんが帰ると、奏斗は店内の片づけを手伝った。
使用済みの食器を集める。
テーブルを拭く。
椅子を整える。
ゴミをまとめる。
一度教えただけなのに、すべて正確だった。
「初日、お疲れさま!」
私は奏斗の背中を軽く叩く。
「まだ終わっていません」
「もうお店は閉店だよ」
「今夜は千束の任務へ同行します」
「あ、そうだった」
「忘れていたのですか?」
「店員の奏斗が自然すぎて」
「本来の目的は護衛です」
「でも、今日かなり売上に貢献したよ」
「それは任務に含まれません」
「上の人に報告しないの?」
「女性客から人気が出た、とですか?」
「重要情報」
「不要です」
ミズキがカウンターに頬杖をつく。
「明日も入るの?」
「護衛任務中は、基本的に勤務する予定です」
「女性客がまた来そうね」
「私を何だと思っているのですか?」
「集客要員」
「護衛です」
「店員でしょ?」
「護衛を目的とした店員です」
「じゃあ半分ずつね」
「割合の問題ではありません」
先生が奏斗へ、小さな紙袋を渡した。
「これは?」
「まかないだ。任務前に食べるといい」
「ありがとうございます」
奏斗は丁寧に受け取る。
「パフェじゃないの?」
私が横から袋を覗こうとする。
「任務前にパフェは食べません」
「何が入ってるの?」
「千束の分は別に用意してある」
先生がもう一つの袋を差し出した。
「やった!」
「食べながら歩かないように」
「はーい」
奏斗は自分のエプロンを外し、きれいにたたんだ。
白いシャツ姿へ戻る。
その上から、持ってきていた黒い上着を羽織った。
店員から護衛へ。
見た目だけなら、それほど大きく変わらない。
でも、表情と目の動きが違う。
店内にいたときより、周囲への警戒が鋭くなる。
「それでは、行きましょう」
「うん!」
私は鞄を肩へかけた。
「先生、ミズキ、行ってきまーす!」
「気をつけなさい」
「奏斗君、千束をお願いね」
「はい」
「私の方が強いんだけど」
「昨日殺されかけたのは誰よ」
「昨日は昨日、今日は今日!」
「反省しなさい!」
ミズキの声を背中に受けながら、私たちは店を出た。
◇
夜。
押村奏斗は、錦木千束から一定の距離を保って歩いていた。
昼間の喫茶店勤務から、数時間。
今は店員用のエプロンも、穏やかな接客用の笑顔もない。
黒い上着の内側には拳銃。
通信機は左耳。
周辺の地形と人の動きを、歩きながら確認する。
千束は前を歩いていた。
歩調は軽い。
任務へ向かっているにもかかわらず、散歩でもしているように見える。
「奏斗」
不意に千束が振り返る。
「何ですか?」
「今日、楽しかった?」
「勤務についてですか?」
「そう」
「慣れない部分はありましたが、大きな問題はありませんでした」
「それ、楽しかった人の答えじゃないね」
「問題がなかったことは重要です」
「女性客に人気だったよ」
「千束とミズキさんが何度も言うので把握しています」
「うれしくないの?」
「接客に支障がなければ、どちらでも構いません」
「もったいないなぁ」
「何がですか?」
「せっかく人気なんだから、喜べばいいのに」
「千束が代わりに十分喜んでいたでしょう」
「指導者としてね」
「数時間説明しただけで、よくそこまで自信を持てますね」
「奏斗の成長が早かったから」
「もともとできたことも含まれています」
「教え方がいいと、生徒はそう思うんだよ」
「教え方に関係なく、事実です」
千束は笑い、再び前を向いた。
任務前にもかかわらず、緊張した様子はない。
しかし、周囲への注意を失っているわけではなかった。
歩く速度。
視線。
ガラスへ映る背後。
何気ない動作の中で、必要な確認を行っている。
昨日のような失敗は繰り返さない。
少なくとも本人は、そのつもりだろう。
今夜の任務は、都内の廃ビルへ侵入した武装集団の制圧。
外国組織との直接的な関係は、現時点では確認されていない。
DAからリコリスへ割り当てられた通常任務。
奏斗の役割は、千束の護衛。
対象の制圧ではない。
可能な限り、千束の戦闘へ干渉しない。
周囲を警戒し、外国組織による襲撃があれば対応する。
「今夜は、本当に見てるだけ?」
建物へ近づいたところで、千束が尋ねた。
「その予定です」
「危なくても?」
「千束が対応できる範囲であれば」
「冷たいなぁ」
「史上最強なのでしょう?」
「そうだけど、少しくらい応援してくれてもいいじゃん」
「頑張ってください」
「軽い!」
「何と言えば満足するのですか?」
「千束なら絶対大丈夫、とか」
「事実として、通常の対象であれば問題ないと判断しています」
「もっと気持ちを込めて」
「任務前に必要ですか?」
「大事だよ」
奏斗は小さく息を吐いた。
「千束なら、大丈夫です」
「本当?」
「はい」
「絶対?」
「油断しなければ」
「最後の一言いらない!」
千束は口を尖らせながらも、楽しそうだった。
廃ビルの手前で、二人は足を止める。
奏斗は周辺の建物を確認した。
正面。
左右の路地。
屋上。
窓。
車両。
人影は見えない。
不自然な通信も、現時点では検知されていない。
「対象は五名です」
奏斗が端末を確認する。
「一階に二人。三階に三人」
「情報どおりだね」
「裏口から侵入できます」
「正面から行くよ」
「なぜですか?」
「早いから」
「待ち伏せされている可能性があります」
「でも、正面から来ると思ってないかも」
「普通は正面を警戒します」
「じゃあ裏から」
「判断が早いですね」
「奏斗が正しいと思ったから」
「珍しいですね」
「何、その言い方」
千束は裏口へ回った。
奏斗は建物へ入らず、隣接する低い建物の屋上へ移動する。
階段を使い、音を立てずに上がる。
そこから廃ビルの窓と、周辺一帯を確認できた。
通信機越しに、千束の声が聞こえる。
『入るよー』
「了解しました」
『もう少し応援して』
「任務中です」
『一言だけ』
「気をつけてください」
『普通だなぁ』
通信が切れる。
奏斗はライフルスコープではなく、小型の光学機器を使って建物内部を確認した。
窓越しに、一階の対象二名が見える。
千束は視界に入らない。
裏口から近づいている。
数秒後。
建物内部から声が上がった。
「誰だ!」
『こんばんはー!』
千束の明るい声。
銃声。
一発。
二発。
対象側の射撃。
それに対し、千束の非致死弾が返される。
奏斗は手を出さなかった。
窓の中で、一人目が倒れる。
二人目が机の陰へ隠れる。
千束が側面へ回り込み、銃を持つ腕へ発砲。
対象が武器を落とす。
さらに腹部へ一発。
一階の二人は、短時間で無力化された。
『一階終わり!』
「周囲に変化はありません」
『褒めてくれてもいいんだよ』
「想定どおりです」
『もうちょっと何かない?』
「早かったと思います」
『よし!』
千束が階段へ向かう。
三階の対象は、すでに銃声へ反応していた。
一人が階段前。
二人が部屋の奥。
奏斗は窓越しに位置を確認する。
「三階、階段前に一名。奥に二名です」
『見えてるの?』
「一部は」
『便利だねー』
「階段を上がる際、右側から狙われます」
『了解!』
千束が二階を通過する。
足音を隠していない。
あえて相手へ位置を知らせている。
階段前の男が銃を構える。
千束が三階へ姿を見せた瞬間、男が発砲した。
しかし、千束はその前に体を低くしていた。
弾丸が頭上を通過する。
階段を駆け上がりながら二発。
男の肩と胸に命中。
銃が床へ落ちる。
千束はそのまま廊下を走る。
奥の部屋から、別の男が短機関銃を向けた。
連続した銃声。
千束は壁際へ身を寄せ、弾道から外れる。
わずかな射撃の切れ目。
部屋へ飛び込み、机を蹴って遮蔽物にする。
『ちょっと多いなぁ!』
「必要であれば援護します」
『大丈夫!』
即答だった。
奏斗は引き金へ指をかけなかった。
手を出さない。
これは千束の任務だ。
護衛対象が対応可能な状況で、こちらが敵を殺せば、再び価値観の衝突が起きる。
千束は、それを望まない。
奏斗も、今は命令されていない対象へ介入する必要はない。
建物内の銃声が止む。
次の瞬間、千束が机の陰から飛び出した。
短機関銃を持つ男の射線へ入る。
だが、撃たれる前に銃口を蹴り上げた。
男の顎へ掌底。
体勢を崩したところで、非致死弾を二発。
残る一人が窓へ逃げる。
奏斗のいる建物側へ姿を見せた。
拳銃を持っている。
千束ではなく、外へ向けて発砲しようとしている。
奏斗は一瞬、銃を構えた。
しかし、撃つ前に千束の非致死弾が男の背中へ当たった。
男が倒れる。
『終了!』
「確認しました」
『手を出さなかったね』
「必要ありませんでした」
『信用してくれた?』
「実力は把握しています」
『それって信用?』
「近いものです」
『素直じゃないなぁ』
奏斗は建物内部ではなく、周囲へ視線を戻した。
この任務に関係する対象は全員制圧された。
だが、奏斗が警戒しているのは別の敵だ。
外国組織。
千束を最優先で排除しようとしている人間たち。
昨日の襲撃者は拘束した。
しかし、監視役も攻撃役も一人ではない。
いつ、どこから狙われるか分からない。
周辺の窓を順番に確認する。
北側の建物。
異常なし。
東側の駐車場。
車両が二台。
どちらも無人。
南側の道路。
通行人はいない。
西側。
古いマンション。
屋上に給水設備。
窓の多くは暗い。
その一つ。
最上階の端。
一瞬だけ、光が反射した。
奏斗の視線が止まる。
ガラスか。
金属か。
光学機器のレンズか。
反射はすぐに消えた。
奏斗は体を低くし、位置を変える。
別角度から同じ窓を確認する。
カーテンは閉じられている。
人影は見えない。
熱源も、距離のため正確には判断できない。
「……」
通信機を操作する。
「千束、任務は完了しましたか?」
『今、拘束してるところ』
「急いでください」
『どうしたの?』
「周辺に不審な反射を確認しました」
『敵?』
「断定できません」
千束の声が少しだけ真面目になる。
『私には何も感じないよ』
「分かりました」
『奏斗は感じるの?』
「見られている可能性があります」
『どこから?』
「西側の建物です」
奏斗はもう一度、窓を確認する。
変化はない。
あまりにも静かだった。
監視者がいるなら、すでに移動している可能性が高い。
こちらが気づいたことまで把握されているかもしれない。
『見に行く?』
「いいえ」
『何で?』
「千束から離れることになります」
『私も一緒に行けばいいじゃん』
「相手の目的が、千束を移動させることである可能性があります」
『誘い出すため?』
「はい」
あえて視線を感じさせる。
気づいた護衛役が確認へ向かう。
その間に、別方向から千束を攻撃する。
あり得ない話ではない。
「この場から離れます」
『対象は?』
「DAの回収班へ引き継いでください」
『もう連絡したよ』
「ならば、建物の裏口から出てください。私が合流します」
『正面は?』
「使用しないでください」
『了解』
奏斗は屋上から階段へ向かった。
移動しながら、背後と周囲を確認する。
足音はない。
追跡する気配もない。
それが逆に不自然だった。
数分後。
廃ビルの裏手で、千束と合流する。
千束はいつもどおりの表情をしていた。
「本当に誰かいた?」
「分かりません」
「私、全然気づかなかった」
「視線ではなく、反射を確認しただけです」
「見間違いかも?」
「その可能性もあります」
「奏斗でも見間違えるんだ」
「当然です」
「もっと、私は間違えません、って言うかと思った」
「そこまで自信過剰ではありません」
「でも、周りの警戒は私より得意かもね」
「千束は戦闘中でした」
「任務が終わったあとも感じなかったよ」
千束は周囲を見渡す。
暗い建物。
人気のない道。
遠くの街灯。
「今も感じない」
「相手がすでに離れた可能性があります」
「最初からいなかった可能性は?」
「あります」
「じゃあ、今日は帰ろう」
「はい」
千束は意外なほど素直だった。
昨日の襲撃を思い出しているのかもしれない。
奏斗は周囲を警戒しながら、通りへ出る。
「セーフハウスまで送ります」
「えー」
「何ですか?」
「奏斗は?」
「任務終了後、拠点へ戻ります」
「同じ家に帰るんじゃないんだね」
「当然です」
「護衛なら、一緒の方がよくない?」
「セーフハウスには警備設備があります」
「でも二十四時間護衛じゃないの?」
「交代要員が周辺を監視します」
「ほかのリリベルもいるの?」
「姿は見せません」
「つまらないなぁ」
「娯楽ではありません」
「奏斗なら話し相手になるのに」
「明日も店へ行きます」
「本当?」
「護衛任務ですので」
「店員として?」
「それも含まれます」
千束は少しだけ笑った。
「じゃあ明日、また指導してあげる」
「今日で基本は覚えました」
「まだまだだよ」
「何を教えるのですか?」
「自然な笑顔」
「百点をもらったと思いますが」
「明日は百二十点を目指す」
「上限が変わっています」
「成長に限界はないんだよ」
「採点に一貫性がないだけでしょう」
千束が楽しそうに笑う。
奏斗も、口元をわずかに緩めた。
しかし、意識の一部は常に背後へ向けていた。
歩く速度を変える。
曲がり角を一つ増やす。
店のガラスへ映る後方を確認する。
追跡者は見つからない。
監視されている感覚もない。
それでも、先ほどの反射が気になっていた。
偶然だったのか。
誰かが本当に見ていたのか。
千束を。
あるいは、千束と行動する奏斗を。
セーフハウスの近くまで来る。
「ここからは一人で大丈夫」
千束が言う。
「入口まで送ります」
「近いよ?」
「距離の問題ではありません」
「真面目だね」
「任務です」
「店でもそれ言ってた」
「事実なので」
セーフハウスの入口が見える。
周辺に不審な人物はいない。
監視担当のリリベルからも、異常なしの短い連絡が入った。
「到着しました」
「うん。ありがと」
「中へ入ったら施錠してください」
「分かってるって」
「窓も確認してください」
「お母さんみたい」
「護衛です」
「奏斗の方が年上だけど、一歳だけだよ?」
「年齢は関係ありません」
「じゃあ、お兄ちゃん?」
「違います」
「即答!」
「当然です」
千束は笑いながら扉の前へ進む。
鍵を取り出し、扉を開けた。
中へ入る直前、振り返る。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日、手を出さないで見ててくれてありがと」
「護衛任務に従っただけです」
「私が殺さないの、少し認めてくれた?」
奏斗はすぐには答えなかった。
今夜の対象は全員生きている。
武装した五人を相手に、千束は一人で制圧した。
効率だけを考えれば、奏斗が遠距離から射殺した方が早かったかもしれない。
しかし、必要はなかった。
「少なくとも」
奏斗は言葉を選ぶ。
「千束が一人で対応できる状況では、私が介入する理由はありません」
「それだけ?」
「命令上も、護衛が優先です」
「まだ足りないなぁ」
「何を言ってほしいのですか?」
「千束のやり方も悪くない、って」
「今後の結果を見て判断します」
「真面目だね」
「簡単に考えを変える方が不自然でしょう」
「そっか」
千束は少しだけ笑った。
落ち込んだようには見えない。
「じゃあ、見てて」
「何をですか?」
「私が誰も殺さずに終わらせるところ」
「すでに何度か見ています」
「もっといっぱい」
「護衛任務中は、見ることになるでしょう」
「そのうち奏斗も、殺さなくてよかったって思うかも」
「可能性は否定しません」
千束の目が少しだけ大きくなる。
「今、ちょっと認めた?」
「可能性を否定しなかっただけです」
「一歩前進だね!」
「判断が早すぎます」
「じゃあ、明日もよろしくね。奏斗店員」
「店では真面目に働いてください」
「奏斗も女性客に笑顔を振りまいてね」
「その表現はやめてください」
「おやすみ!」
「おやすみなさい」
千束はセーフハウスの中へ入り、扉を閉めた。
施錠する音を確認する。
奏斗はすぐには動かなかった。
周辺をもう一度見渡す。
異常なし。
監視担当の配置にも問題はない。
それでも、廃ビル近くで感じた違和感は消えなかった。
光の反射。
ほんの一瞬。
見間違いと片づけることもできる。
だが、外国組織は千束の行動を継続的に監視している。
こちらが護衛を始めたことも、すでに知られている可能性がある。
奏斗は通信機を操作した。
「押村です。任務終了。護衛対象はセーフハウスへ到着しました」
『了解。異常は?』
「任務場所西側の建物で、不審な反射を確認しました。人物は確認できていません」
『追跡は?』
「行っていません。陽動の可能性を考慮しました」
『妥当だ。周辺記録を確認する』
「お願いします」
通信を切る。
奏斗は一度だけ、セーフハウスの建物を見上げた。
明日になれば、再び喫茶リコリコで働く。
エプロンを着け、注文を取り、千束から根拠のない採点を受ける。
女性客に話しかけられ、ミズキにからかわれ、ミカから仕事を教えられる。
それが護衛任務の一部だ。
昼間だけを見れば、危険とは無縁の場所に思える。
しかし、誰かが確実に千束を狙っている。
昨夜の襲撃者だけではない。
もっと遠くから。
こちらの動きを観察しながら、次の機会を待っている。
奏斗はセーフハウスへ背を向けた。
拠点へ戻るため、夜道を歩き始める。
数十メートル進んだところで、一度だけ足を止めた。
背後を振り返る。
人影はない。
視線も感じない。
静かな夜道が続いているだけだった。
「……気のせいなら、いいのですが」
小さく呟く。
もちろん、本当に気のせいだとは思っていない。
誰かが見ていた。
その確信に近い感覚だけが、胸の内に残っている。
奏斗は再び歩き出した。
次に相手が動く前に、見つけなければならない。
千束が、その視線に気づかないうちに。