リコリコで働き始めて、数日が経った。
最初は護衛任務の一環として、必要な時間だけ店内にいればいいと思っていた。
外から監視するよりも、店員として千束のそばにいた方が自然である。
それだけの理由だった。
実際、上層部へ提出した報告書にもそう記載している。
喫茶店員として勤務することで、護衛対象へ近い位置を維持し、店内外の監視を行う。
接客業務はあくまで偽装の一部。
任務の妨げにならない範囲で協力する。
そのはずだった。
「奏斗、三番テーブルにコーヒー追加!」
「分かりました」
「あと二番の食器下げて!」
「すでに下げました」
「じゃあ四番のお水!」
「先ほど補充しています」
「……奏斗、仕事取りすぎじゃない?」
「千束が遅いだけでは?」
「違うよ。私はお客さんとの交流を大事にしてるの」
「先ほどから常連客と雑談しているだけに見えます」
「それが交流!」
店内の中央で、千束が得意げに胸を張る。
数日前まで、奏斗の接客を指導すると言っていた人物とは思えない。
「接客指導をする前に、通常業務を行ってください」
「弟子に注意された!」
「弟子になった覚えはありません」
「でも百点あげたよ」
「採点基準が不明です」
「今日は百五十点目指そう」
「満点が増え続けていますよ」
千束の声に、近くの客が笑う。
奏斗は小さく息を吐き、空になったカップをトレイへ載せた。
護衛任務。
そう思って勤務を始めたが、今では通常の店員業務が思った以上に増えている。
注文を取る。
料理を運ぶ。
食器を片づける。
会計を行う。
空いた時間には簡単な仕込みを手伝い、ミカからコーヒーの淹れ方も教わり始めていた。
まだ客へ出せるほどではない。
だが、豆の種類や器具の扱いについては、少しずつ覚えている。
上層部からは、店員として自然に振る舞うよう命じられている。
そのためには仕事を覚える必要がある。
合理的な判断だ。
決して、店の仕事そのものに慣れてきたわけではない。
奏斗はそう考えていた。
「押村君」
常連の女性客に呼ばれる。
五十代ほどの女性で、週に何度か昼食を取りに来る人物だった。
「はい」
「お水をお願いしてもいい?」
「承知しました」
水差しを持ち、テーブルへ向かう。
女性は千束と話していた。
「最近、このお店、前よりお客さんが増えたわね」
「そうでしょー?」
千束が自分のことのように喜ぶ。
「やっぱり看板娘の力かなぁ」
「前から千束ちゃんはいたでしょう?」
「今、少しずつ実力が認められてきたんだよ」
「奏斗君が来たからじゃない?」
「えっ」
千束の表情が固まる。
女性客は楽しそうに笑い、奏斗を見る。
「若い女性のお客さん、増えたでしょう?」
「それは……偶然だと思います」
「ほら、謙虚なところもいいのよ」
「奏斗、人気者だね」
千束が言う。
笑顔ではあるが、少しだけ納得していないように見える。
「千束ちゃんが教えたんでしょう?」
女性が尋ねる。
千束の表情が一気に明るくなった。
「そう! 私が一から育てました!」
「店内の位置と挨拶を少し教わっただけです」
「笑顔も教えたよ!」
「採用したかは不明です」
「奏斗は照れてるだけだから」
「事実と異なる説明をしないでください」
女性客がまた笑う。
「二人とも仲がいいわね」
「護――」
奏斗は言いかけて止まった。
「勤務上、協力しています」
「今、何か違うこと言おうとした?」
千束がすぐに反応する。
「何も言っていません」
「護、って聞こえた」
「聞き間違いです」
「護衛って言いそうになった?」
「店内で大きな声を出さないでください」
「奏斗が先に言いかけたんじゃん」
奏斗は水を注ぎ、話を切り上げるために頭を下げた。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
女性客は笑顔で答えたあと、ふと思い出したように言った。
「そういえば、昨日、駅前でこのお店のことを聞かれたわよ」
奏斗の手が止まる。
表情は変えない。
「リコリコについてですか?」
「ええ。場所を知っているかって」
千束も興味を持ったように身を乗り出した。
「本当? 宣伝してないのに有名になってる!」
「観光客の方ですか?」
奏斗は自然な口調を保ちながら尋ねた。
「たぶんね。外国の方だったから」
「外国人?」
千束が繰り返す。
「片言の日本語で、この近くに喫茶リコリコはありますか、って。私、この店によく来るから場所を教えてあげたの」
「来てくれた?」
「昨日は見なかったわね」
奏斗は水差しを持ったまま、女性客へ視線を向ける。
外国人。
この店を探していた。
偶然である可能性は高い。
リコリコは一般の喫茶店として営業している。
近隣の住民や観光客から場所を聞かれること自体、不自然ではない。
しかし、現在は状況が違う。
国外の武装組織が千束を狙っている。
店の存在も、すでに把握されている可能性がある。
確認する必要があった。
ただし、警戒していることを客へ悟らせる理由はない。
「どのような方でしたか?」
奏斗は穏やかな口調で尋ねた。
女性客が少し不思議そうに奏斗を見る。
「気になる?」
「最近、外国からのお客様も増えていますので、対応の参考になればと思いまして」
「奏斗、真面目だねぇ」
千束が感心したように言う。
理由を補強してくれた形になった。
「二人だったわよ」
「二人?」
「男の人と女の人。カップルか、ご夫婦じゃないかしら」
「年齢は?」
質問が直接的になりすぎないよう、奏斗は少し間を置いた。
「お二人とも、若い方でしたか?」
「そうねぇ。三十歳前後かしら。男性の方が少し上に見えたけど」
「服装は覚えていますか?」
「男性は灰色っぽい上着。女性は明るい色のコートだったと思うわ」
「どちらが話しかけてきたのでしょう」
「女の人の方。日本語を話していたのも、その人よ」
「男性は?」
「ほとんど喋らなかったわね。横で周りを見ていたかしら」
周囲を見ていた。
観光客なら、場所を確認していた可能性もある。
警戒や監視と断定はできない。
「何か持っていましたか?」
「小さな鞄くらい。旅行者にしては荷物が少なかったわね」
「近くのホテルに泊まっているのかもしれませんね」
「そうかもしれないわ」
女性客はそれ以上、特に気にしていない様子だった。
奏斗は頭を下げる。
「ありがとうございます。来店された際には、迷わず対応できそうです」
「奏斗、英語話せる?」
千束が尋ねる。
「最低限は」
「すごいじゃん」
「任務で必要になる場合があります」
「今、普通に任務って言ったね」
「……海外客への対応で必要になる場合があります」
「言い直した」
「気のせいです」
奏斗は水差しを持ち、カウンターへ戻る。
背後では、千束と女性客の会話が続いていた。
「外国人のお客さんも来たら、もっと人気出るかなぁ」
「千束ちゃん、外国語できるの?」
「気持ちがあれば大丈夫!」
「通じないと思うわよ」
「身振り手振りで何とかなるって」
いつもの調子。
千束は今の話を、特に危険とは感じていないようだった。
奏斗はカウンターへ水差しを戻す。
「聞こえていた」
ミカが静かに言った。
「はい」
「どう見る?」
「現時点では判断できません」
声を落として答える。
「駅前で場所を尋ねること自体は不自然ではありません。しかし、組織が店の周辺を確認している可能性もあります」
「上へ報告するか?」
「特徴だけ共有します。該当する人物が入国者リストや監視記録にないか確認させます」
「分かった」
ミカはそれ以上言わない。
奏斗は小型端末へ簡単な情報を入力する。
外国人男女。
三十歳前後。
男性は灰色の上着。
女性は明るい色のコート。
女性が片言の日本語を使用。
喫茶リコリコの場所を質問。
男性は周囲を確認していた可能性あり。
送信。
すぐに回答が来ることはない。
店員業務を続けながら、来店者を注意深く見る必要があった。
◇
正午を過ぎると、店内は昼食を取る客で混み始めた。
テーブルの半分以上が埋まり、先生は厨房から離れられない。
ミズキは飲み物と会計。
千束と奏斗が注文と配膳を担当する。
「奏斗、一番テーブルお願い!」
「承知しました」
「五番のランチ運んで!」
「千束が持っていますよね?」
「あ、そうだった」
「自分の仕事を私へ渡さないでください」
「連携を確認しただけ」
「言い訳が雑です」
千束は両手に料理を持ちながら、器用に肩をすくめる。
奏斗は一番テーブルへ向かった。
年配の男性客が一人。
いつもの常連ではない。
服装は一般的な会社員。
注文を取り、厨房へ戻る。
その途中、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
千束の明るい声が響く。
奏斗は振り返らず、伝票を先生へ渡した。
「一番テーブル、日替わりランチとホットコーヒーです」
「分かった」
入口へ視線を向ける。
男女が二人、店内へ入ってきていた。
年齢は三十歳前後。
男性は灰色の上着。
女性は薄い色のコート。
常連客が話していた特徴と一致している。
奏斗は表情を変えなかった。
ただし、男と女の立ち位置、視線、手荷物、靴、服の膨らみを短時間で確認する。
女性は小型の鞄を肩へかけている。
男性は何も持っていない。
服の下に大型の武器を隠している様子はない。
女性が店内を見渡す。
男性は入口と窓を一度確認した。
不自然と言い切るほどではない。
初めて訪れる場所なら、周囲を見ることは普通だ。
「二名様ですか?」
千束が二人へ近づく。
笑顔。
警戒した様子はない。
「ハイ。フタリ、デス」
女性が片言の日本語で答えた。
千束は大きくうなずく。
「お好きな席へどうぞー!」
言葉が通じているのかは分からない。
しかし、千束が手で席を示すと、女性は笑顔を見せた。
「アリガトウ」
男女は窓際の二人掛け席へ向かった。
男性は女性の椅子を引く。
女性が座ってから、自分も向かいへ腰を下ろした。
少なくとも、関係は悪くなさそうだ。
常連客が言ったように、夫婦か恋人同士かもしれない。
奏斗は別の客へ料理を運ぶ。
護衛対象へ近づく人物を注視したいが、勤務中に露骨な視線を向けるわけにはいかない。
店内のガラスや金属面へ映る姿を使い、二人の動きを確認する。
千束が水とメニューを運ぶ。
「お水とメニューでーす」
「メニュー?」
女性が聞き返す。
「そうそう。食べ物!」
千束がメニュー表を開き、写真を示す。
女性が理解したように笑う。
「オイシイ、ナニ?」
「おすすめ?」
「オススメ」
「うーん。お昼なら、日替わりランチ!」
通じているのかいないのか、千束はいつもどおりの速さで話している。
奏斗は近くのテーブルへ食器を置きながら、会話を聞く。
「コレ?」
「そう! 今日はハンバーグ!」
「ハンバーグ」
「あと甘いものなら、パフェ!」
千束が別の写真を指さす。
「パフェ」
女性が楽しそうに繰り返す。
男性はメニューを見ながら、女性へ外国語で何かを話した。
言語は英語ではない。
奏斗にも完全には理解できなかった。
ただ、発音から東欧圏の言葉である可能性がある。
女性が男性へ短く返答する。
再び千束を見る。
「ハンバーグ、フタツ。コーヒー、フタツ」
「はい! ハンバーグ二つ、コーヒー二つ!」
千束は注文票へ記入する。
「パフェは?」
自分から追加を促している。
女性が笑う。
「パフェ、アト」
「食後ね! 何味?」
「チョコ」
女性が指さしたのは、チョコレートパフェ。
「おっ、分かってるねぇ」
千束がうれしそうに言う。
男性も同じものを指した。
「フタツ」
「チョコパフェ二つ!」
千束は満足そうに注文を確定した。
女性が千束の赤い制服と髪のリボンを見る。
「カワイイ」
「えっ、私?」
千束が自分を指さす。
「カワイイ」
「ありがとー!」
言葉が通じた瞬間、千束の笑顔がさらに大きくなる。
「お姉さんもかわいいよ!」
「?」
女性は理解できずに首を傾げた。
千束は自分の頬の近くで両手を広げる。
「かわいい!」
それから女性を指す。
「あなた!」
女性が意味を理解したらしく、笑いながら胸元へ手を置く。
「アリガトウ」
二人の間に、特に不自然な緊張はない。
男性も穏やかな表情で見ている。
奏斗は料理を置き終え、次の注文を取りに向かった。
女が千束へ接触する様子もない。
周辺を探るような質問もない。
店内の出入口やカウンターを繰り返し確認しているわけでもない。
普通の観光客に見える。
ただ、普通に見せる訓練を受けた人間である可能性は残る。
それは奏斗自身も同じだ。
見た目だけでは判断できない。
「押村君」
別の女性客から呼ばれる。
「はい」
「会計お願いできる?」
「承知しました」
レジへ向かう。
会計を行い、店を出る客へ頭を下げる。
「ありがとうございました」
その間にも、外国人男女へ意識を向ける。
千束が料理を運ぶ。
女性はうれしそうに写真を撮っている。
男性もスマートフォンを取り出し、料理と店内の一部を撮影した。
観光客なら普通だ。
しかし、撮影範囲を確認する必要がある。
男の端末は料理を中心に向けられている。
千束や店の奥を重点的に撮っている様子はない。
食事中、二人は穏やかに会話していた。
女性は料理を何度も褒め、片言の日本語で千束へ話しかける。
「オイシイ」
「でしょー?」
「コレ、ナニ?」
「それは大根!」
「ダイコン」
「そうそう!」
男性は女性ほど話さない。
時折、小さく笑うだけだった。
奏斗がコーヒーを運んだ際も、男性は丁寧に頭を下げた。
「アリガトウ」
「ごゆっくりどうぞ」
視線が一瞬だけ合う。
男の目に敵意はない。
警戒も、それほど強くない。
手元を見る。
指に目立った傷はない。
拳銃を長期間扱う人間に見られる特有の硬さも、確認できない。
ただし、手はテーブルの下に置かれている時間が長かった。
完全には確認できない。
やがて、食後のパフェを二つ運ぶ。
千束が自分で持っていった。
「お待たせしましたー! チョコレートパフェ!」
「オオ」
女性が目を輝かせる。
「奏斗の一番好きなやつだよ!」
なぜそこで自分の名前を出すのか。
奏斗は少し離れた場所から千束を見る。
女性が奏斗へ視線を向ける。
「カナト?」
「そう、奏斗!」
千束がこちらを指す。
「新しい店員!」
女性が奏斗へ笑顔を見せる。
「カナト、オススメ?」
奏斗は仕方なく答えた。
「はい。おすすめです」
「オイシイ?」
「おいしいです」
女性がうなずき、パフェを一口食べる。
すぐに笑顔になった。
「オイシイ!」
「ほらね!」
千束が自分のことのように喜ぶ。
「奏斗のおすすめ、海外でも通用するね」
「パフェがおいしいだけです」
「奏斗がすすめたから食べたんだよ」
「注文を取ったのは千束でしょう」
「細かいなぁ」
外国人男女は、最後まで特に変わった行動を見せなかった。
食事とパフェをきれいに食べ、会計も現金で済ませた。
女性は帰り際、千束へ何度も礼を言った。
「アリガトウ。オイシカッタ」
「また来てねー!」
「マタ、キマス」
男性も頭を下げる。
「Thank you」
「ありがとうございました」
奏斗が答える。
二人は並んで店を出た。
扉が閉まる。
千束は手を振りながら、満足そうに言った。
「良いお客さんだったね」
「そうですね」
「やっぱり怪しくなかったでしょ?」
奏斗が千束を見る。
「警戒していたことに気づいていたのですか?」
「奏斗、ずっと二人のこと見てたから」
「接客中に周囲を確認していただけです」
「視線、ちょっと多かったよ」
「護衛任務です」
「私は怪しくないと思う」
千束は使用済みのグラスを集めながら言った。
「理由は?」
「女の人の手」
「手?」
「うん。近くで何回か見たけど、戦闘訓練してる人の手じゃなかった」
奏斗は少しだけ考える。
千束は相手の服や筋肉の動きから、行動を予測する。
観察力については、奏斗よりも優れている部分がある。
「具体的には?」
「銃をたくさん撃ってる感じじゃなかった。手のひらも柔らかかったし、指の付け根にも変な硬さがない。刃物を握る人の手でもないと思う」
「触れたのですか?」
「メニューを指さしたとき近くで見えた。それと、帰りに握手した」
「いつの間に」
「奏斗が会計してるとき」
護衛対象が警戒対象と勝手に握手していた。
注意すべきか迷う。
「不用意に接触しないでください」
「怪しくなかったって」
「確認する前に接触したのでしょう」
「握手くらい普通だよ」
「昨日、顔を確認せず相手へ近づいて襲われたばかりでは?」
「今回は顔も見えたし、明るい店内だったもん」
「状況が違っても、警戒は必要です」
「奏斗は心配性だなぁ」
「護衛です」
「でも、女の人は違うよ」
「男性は?」
奏斗が尋ねる。
千束は少し考えた。
「男の人は分からない」
「分からない?」
「手をちゃんと見られなかった。コーヒー持つときも袖で隠れてたし」
「それは偶然でしょうか」
「分かんない。でも、女の人と一緒にいるときの感じは自然だったよ」
「演技の可能性もあります」
「奏斗みたいに?」
「私を基準にしないでください」
「普通の高校生っぽく見えるリリベルだもんね」
「千束も普通の店員に見えるリコリスでしょう」
「私は看板娘!」
「自称の」
「そこはもう認めてよ!」
千束が抗議する。
奏斗は小さく息を吐いた。
「現時点では、敵と断定する材料はありません」
「でしょ?」
「ただし、警戒を解除する理由もありません」
「真面目だね」
「必要なことです」
「じゃあ私は、普通のお客さんとして覚えておく」
「それで構いません」
「次に来たら、またパフェすすめる」
「店員としては正しい対応です」
「奏斗も笑顔でね」
「必要に応じて」
千束は満足そうにうなずき、テーブルを片づけ始めた。
奏斗も次の客へ対応するため、店内を見渡す。
そのときだった。
「お会計をお願いします」
一人の男性客がレジ前へ立っていた。
四十歳前後。
日本人。
昼前から店内の隅の席に座り、コーヒーと軽食を注文していた。
派手な服装ではない。
会社員にも、近所の住民にも見える。
ほかの客と話すこともなく、長時間端末を見ていた。
「お待たせしました」
奏斗は伝票を受け取り、金額を確認する。
「こちらの金額になります」
男が財布を取り出す。
現金を受け取る。
その手を見た瞬間、奏斗の意識が止まった。
厚い皮膚。
親指と人差し指の付け根に、硬くなった部分がある。
指先にも細かな傷。
拳銃だけとは限らない。
工具を扱う職人にも似た特徴は出る。
スポーツや重い荷物を扱う仕事でも、手のひらは硬くなる。
しかし、男の手はそれだけではなかった。
右手の人差し指。
第一関節から先の動きが滑らかで、ほかの指とは独立している。
引き金を扱う訓練を受けた人間に見られる動き。
金銭を差し出すだけの動作なのに、手首が安定している。
無意識に周囲へ対して手のひらを隠すような角度を保っていた。
戦闘訓練。
その言葉が頭に浮かぶ。
「どうしました?」
男が尋ねる。
奏斗はすぐに視線を上げた。
「失礼しました。お預かりします」
表情は変えない。
会計を行い、釣り銭を返す。
「ありがとうございました」
男は釣り銭を受け取り、財布へ入れた。
「ごちそうさま」
穏やかな声。
訛りもない。
ごく普通の日本人男性だった。
男は扉へ向かう。
歩き方を見る。
足音が小さい。
重心が安定している。
姿勢はやや猫背だが、周囲への視線は自然に動いている。
訓練を受けた人間が、そう見えないようにしている可能性がある。
しかし、決めつける材料はない。
「ありがとうございましたー!」
千束の声に送られ、男は店を出た。
奏斗は閉まった扉を数秒見つめる。
「奏斗?」
千束が声をかける。
「何ですか?」
「今の人、何かあった?」
「いいえ」
「ずっと見てたよ」
「少し気になっただけです」
「何が?」
奏斗は答えるか迷った。
今の段階で千束へ伝えれば、必要以上に意識する可能性がある。
逆に、共有しなければ危険を見落とすかもしれない。
「手です」
「手?」
「戦闘訓練を受けている人間の手に見えました」
千束の表情が少しだけ真面目になる。
「さっきの人が?」
「断定はできません。仕事や趣味による可能性もあります」
「日本人だったよね」
「はい」
「外国組織じゃない?」
「日本人構成員がいないとは限りません」
国外組織が国内で活動するなら、日本人協力者を利用する可能性は高い。
現地の言語、土地勘、身分証、車両、住居。
外国人だけで活動するより、はるかに目立ちにくい。
「顔、覚えた?」
「はい」
「私も見たけど、普通の人に見えたなぁ」
「私にも普通に見えました」
「でも手だけ?」
「はい」
千束は少し考え、扉の向こうを見る。
「追いかける?」
「いいえ」
「何で?」
「敵と断定できません。それに、店を空けるわけにはいかないでしょう」
「私が残るよ」
「護衛対象から離れることになります」
「じゃあ私も行く」
「相手が千束を誘い出すために、わざと違和感を見せた可能性もあります」
「考えすぎじゃない?」
「可能性を挙げただけです」
「奏斗って、何でも疑うんだね」
「任務中は必要です」
「今は店員中」
「護衛任務中でもあります」
千束は小さく息を吐いた。
「分かった。今は何もしない」
「はい」
「でも、また来たら教えて」
「そのつもりです」
「私も手を見る」
「露骨に確認しないでください」
「握手すればいいじゃん」
「やめてください」
「冗談だって」
「千束の場合、実行しそうなので困ります」
「信用ないなぁ」
「昨日の行動を考えてください」
「またそれ言う」
千束は口を尖らせながらも、話を終えた。
奏斗は男の特徴を記憶し、隙を見て端末へ記録する。
日本人男性。
四十歳前後。
中肉中背。
暗い色の上着。
右手に戦闘訓練の痕跡と思われる特徴。
店内に長時間滞在。
外国人男女と同時間帯に在店。
ただし、接触や視線の交換は確認できず。
報告を送信する。
外国人男女と、日本人男性。
関連があるかは分からない。
偶然、同じ時間に店へいただけかもしれない。
それでも、少しだけ気になった。
◇
その日の営業は、何事もなく終わった。
外国人男女が戻ってくることも、日本人男性が再び現れることもなかった。
閉店後、奏斗は通常どおり片づけを手伝った。
「今日もお疲れさまー!」
千束が両腕を伸ばす。
「千束は途中で休んでいたでしょう」
「休憩も仕事のうち」
「その間、私が二つのテーブルを担当しました」
「奏斗ならできると思ったから任せた」
「良いように言わないでください」
「信頼だよ、信頼」
「便利な言葉ですね」
ミズキが売上を確認しながら口を挟む。
「今日もお客さん多かったわね」
「人気店になってきたね!」
千束がうれしそうに言う。
「奏斗のおかげかなぁ」
「今日は外国人のお客さんも来たしね」
「私の国際的な接客が通じた!」
「ほとんど身振り手振りだったでしょうが」
「通じればいいの」
奏斗は外国人男女が座っていた席を拭く。
特に置き忘れはない。
椅子の下、テーブルの裏もさりげなく確認した。
盗聴器や小型機器は見つからない。
「奏斗、まだ疑ってる?」
千束が後ろから尋ねる。
「確認しているだけです」
「何もなかったでしょ?」
「はい」
「だから普通のお客さんだって」
「そうであれば問題ありません」
「男の人も、女の人と一緒にいるときは普通だったよ」
「女性が組織と無関係でも、男性だけが関係者である可能性はあります」
「夫婦なのに?」
「相手の仕事を知らない夫婦もいるでしょう」
「夢がないなぁ」
「現実的な話です」
「でも、仲良さそうだった」
「演技かもしれません」
「奏斗、それ言ったら何も信じられないよ」
千束の言葉に、奏斗は手を止める。
「何ですか?」
「全部演技かも。全部嘘かも。そう思ってたら、誰とも話せないじゃん」
「警戒と不信は別です」
「同じようなものじゃない?」
「違います」
奏斗は布巾を絞る。
「相手を信用しながら、危険の可能性を確認することはできます」
「奏斗はできてる?」
「何をですか?」
「私を信用しながら、警戒してる?」
「千束は護衛対象です」
「答えになってない」
「戦闘能力は信用しています」
「それ以外は?」
「油断しやすいので警戒しています」
「ひどい!」
千束が声を上げる。
奏斗は少しだけ口元を緩めた。
「冗談です」
「最近、冗談の使い方が上手くなったね」
「千束の影響だとすれば、不本意です」
「百六十点!」
「採点はもう終わったのでは?」
「今日も更新中」
「何の意味があるのですか」
「奏斗が立派なリコリコ店員になってる証明」
「上層部への報告には書きませんよ」
「書いてよ。接客能力百六十点って」
「意味不明として差し戻されます」
ミズキが笑う。
店内の空気は穏やかだった。
昼間の違和感も、この場所にいると薄れていく。
しかし、奏斗は忘れなかった。
外国人男女。
日本人男性。
手の硬さ。
視線。
動き。
少なくとも、確認が終わるまでは偶然と決めつけるべきではない。
◇
夜。
その日は千束にも奏斗にも、追加の任務は入っていなかった。
閉店作業を終え、ミカとミズキへ挨拶して店を出る。
「じゃあ先生、ミズキ、おやすみー!」
「寄り道するんじゃないわよ」
「奏斗がいるから大丈夫!」
「護衛を保護者みたいに使わないでください」
「似たようなものでしょ?」
「違います」
扉を閉める。
夜の空気は少し冷たかった。
通りにはまだ人がいる。
飲食店の明かり。
車の音。
仕事帰りの人。
この辺りでは、すぐに襲撃される可能性は低い。
しかし、セーフハウスへ向かう途中には人通りの少ない道もある。
奏斗は千束の半歩後ろを歩いた。
「今日は本当に任務ないんだよね?」
千束が尋ねる。
「はい」
「じゃあ、ゆっくり帰れるね」
「寄り道はしません」
「まだ何も言ってないじゃん」
「コンビニへ行きたいと言うと思いました」
「何で分かったの?」
「これまでの行動から予想しました」
「すごいね」
「感心する前に、諦めてください」
「甘いもの買うだけだよ?」
「セーフハウスにもあるでしょう」
「ないかも」
「昨日、ミズキさんが補充したと言っていました」
「聞いてたんだ」
「店内で話していたので」
「奏斗、私のこと何でも知ってるね」
「必要な情報だけです」
「好きな食べ物は?」
「甘いもの全般」
「私のだよ」
「……千束の好きな食べ物ですか?」
「そう」
「特定できません」
「ほら、何でも知ってるわけじゃない」
「知る必要がありますか?」
「護衛対象の好みは大事じゃない?」
「非常食を選ぶ際には参考になるかもしれません」
「もっと普通に考えようよ」
千束が笑う。
奏斗も周囲を確認しながら答える。
「では、何が好きなのですか?」
「知りたい?」
「聞かれたので」
「その言い方だと教えたくなくなるなぁ」
「では、結構です」
「諦めるの早い!」
「どちらなのですか?」
「教えてあげる。私はね――」
千束が話し始めたとき、二人は表通りから一本外れた道へ入った。
人通りが急に減る。
街灯の間隔が広い。
片側には閉まった店舗。
反対側には古い建物と駐車場。
奏斗の意識が自然に周囲へ広がる。
前方。
約三十メートル。
一人の人影がこちらへ歩いてくる。
性別は男性。
身長は平均的。
暗い色の上着。
両手をポケットへ入れている。
顔は街灯の外にあり、はっきり見えない。
歩調は一定。
こちらを見ている様子はない。
「奏斗?」
千束が呼ぶ。
「何ですか?」
「聞いてた?」
「好きな食べ物の話ですね」
「途中で反応なくなったから」
「聞いています」
「じゃあ何て言った?」
「まだ答えを聞いていません」
「正解」
千束は前方の人物を気にしていない。
奏斗は歩く速度を変えず、男を観察する。
ポケットの中の手。
肩の位置。
歩幅。
不自然な膨らみは見えない。
しかし、右側のポケットだけが少し下がっている。
重量物が入っている可能性。
拳銃。
工具。
端末。
断定はできない。
男はこちらへ近づいてくる。
二十メートル。
十五メートル。
顔が少し見える。
日本人。
四十歳前後。
どこかで見たような気がする。
だが、暗さと距離のため判断できない。
奏斗は千束との位置をわずかに変える。
男と千束の間へ入れるよう、半歩前へ出る。
「どうしたの?」
千束が小声で尋ねる。
「前方の人物を警戒しています」
「怪しい?」
「分かりません」
千束も男を見る。
「普通に歩いてるだけじゃない?」
「両手が見えません」
「ポケットに入れてるだけでしょ」
「その中身が分かりません」
「奏斗は本当に心配性だね」
男との距離が五メートルになる。
奏斗は右手を上着の近くへ置く。
すぐに拳銃を抜ける位置。
千束も気づいているはずだが、特に構えない。
男は顔を上げない。
そのまま二人の横を通り過ぎた。
何も起きない。
足を止めない。
ポケットから手も出さない。
そのまま背後へ遠ざかっていく。
「ほら、普通の人だった」
千束が言う。
「そうかもしれません」
「警戒しすぎると疲れるよ」
「必要な警戒です」
「でも、全員疑ってたら大変じゃん」
「全員ではありません」
「さっきの人、何もしてないよ?」
「はい」
奏斗は前を向いたまま数歩進む。
思い過ごしか。
両手をポケットへ入れた人間など、珍しくない。
夜道で顔が見えにくいのも当然だ。
それでも、違和感が消えない。
男の歩き方。
肩。
顔。
どこかで見た。
今日。
店。
会計。
手。
そこまで考えた瞬間、奏斗は足を止めた。
「千束」
「何?」
「前へ進んでください」
「え?」
奏斗は振り返る。
通り過ぎた男も、すでに振り返っていた。
右手がポケットから出ている。
手には拳銃。
銃口が、こちらへ向けられていた。
「伏せてください!」
叫ぶと同時に、奏斗は千束の肩をつかんだ。
自分の体を千束と男の射線の間へ入れる。
銃声。
夜道に乾いた音が響く。
奏斗は千束を抱えるようにして横へ飛んだ。
弾丸が上着の肩口をかすめ、背後の壁へ当たる。
千束とともに地面へ倒れ込む。
「奏斗!」
「動かないでください!」
二発目。
奏斗は千束の体を押し、建物のくぼみへ入れる。
自分も低い姿勢のまま銃を抜いた。
男は歩きながら距離を詰めてくる。
拳銃を両手で構えている。
昼間、会計をした日本人男性。
間違いない。
右手。
戦闘訓練の痕跡。
あの違和感は正しかった。
男が三発目を撃つ。
奏斗は銃口と肩の動きから、狙いを読む。
壁際へ体を沈める。
弾丸がすぐ横を通過する。
奏斗は撃ち返した。
一発。
男が右へ避ける。
動きが速い。
訓練を受けている。
二発目。
男の左肩へ命中。
体勢が崩れる。
それでも男は銃を落とさない。
千束のいる方向へ銃口を戻そうとする。
奏斗は迷わず、もう一度引き金を引いた。
胸部。
男の体が大きく揺れる。
後ろへ倒れる。
拳銃が手から離れ、路面を滑った。
静寂。
銃声の余韻だけが残る。
奏斗は銃を構えたまま、周囲を見る。
別の人影はない。
車両の接近もない。
狙撃位置になりそうな窓にも動きは見えない。
「千束、怪我は?」
「私は大丈夫。それより奏斗!」
千束が起き上がる。
「肩、撃たれた?」
「かすっただけです」
上着の肩口が裂けている。
その下のシャツにも小さな赤い跡が見えた。
弾丸は皮膚を浅く削っただけで、深くは入っていない。
「見せて!」
「あとです」
奏斗は男へ近づく。
銃口を向けたまま、倒れた人物の状態を確認する。
呼吸は浅い。
まだ生きている。
胸部への弾丸は急所を少し外れていた。
意図的に外したわけではない。
短い時間で、千束への射線を止めることを優先した結果だ。
「武器から離れてください」
男は反応しない。
意識を失っている。
奏斗は男の拳銃を足で遠ざけ、腕を後ろへ回して拘束した。
その顔を見る。
昼間、店で会計をした男。
間違いない。
「この人……」
千束も近づいてくる。
「リコリコにいた人だよね」
「はい」
「奏斗が手を気にしてた」
「その人物です」
千束の表情から、いつもの笑みが消える。
「日本人だよね」
「少なくとも、見た目と話し方は」
「外国組織の人じゃないの?」
「分かりません」
奏斗は男の上着とポケットを調べる。
身分証。
日本人名が記載された運転免許証。
現金。
鍵。
一般的な端末。
予備弾倉。
小型の通信機。
拳銃は外国製だが、日本国内で入手することも不可能ではない。
「名前は?」
千束が尋ねる。
「免許証では、日本人名です」
「偽物かも?」
「可能性はあります」
「外国組織に雇われた日本人?」
「それも考えられます」
奏斗は通信機へ手を伸ばす。
「押村です。護衛対象への襲撃が発生。襲撃者一名を確保しました」
『護衛対象の状態は?』
「無傷です。私は肩に軽傷」
「軽傷じゃないかもしれないよ!」
千束の声が通信へ入る。
『場所を送れ。回収班と医療班を向かわせる』
「了解しました」
位置情報を送信する。
千束は奏斗の肩を見ていた。
「本当に大丈夫?」
「問題ありません」
「見せて」
「回収班が来てからです」
「今見せて」
「この場の警戒が先です」
「私も見てるから」
「千束は襲撃者を確認してください」
「奏斗」
声が少し強くなる。
奏斗は千束を見る。
いつもの笑顔はない。
本気で心配している。
「……浅い傷です」
「だったら見せてもいいでしょ」
「今、上着を脱ぐ必要はありません」
「頑固」
「任務中です」
「任務が終わったら絶対見せてよ」
「必要であれば」
「必要!」
即答だった。
奏斗はそれ以上反論しなかった。
周囲の警戒を続けながら、男の持ち物を確認する。
端末には強固なロックがかかっている。
通信機も暗号化されていた。
組織的な背景がある可能性は高い。
「どうして日本人が私を狙うの?」
千束が小さく呟く。
「外国組織に協力する理由があったのかもしれません」
「お金?」
「可能性の一つです」
「脅されてたとか?」
「それも考えられます」
「自分から参加してたかもしれない?」
「はい」
奏斗は男の顔を見る。
店内では普通の客に見えた。
静かにコーヒーを飲み、会計を済ませ、礼を言って帰った。
外国人男女よりも、はるかに目立たなかった。
奏斗が手を見なければ、記憶にも残らなかった可能性がある。
「外国人二人と関係あると思う?」
千束が尋ねる。
「現時点では分かりません」
「同じ時間に店にいたよね」
「はい。しかし、接触は確認できませんでした」
「目で合図してたとか?」
「少なくとも、私は気づきませんでした」
「私も」
千束は少し考える。
「じゃあ、たまたま?」
「それも判断できません」
「分からないことばっかりだね」
「情報が不足しています」
「でも、この人が敵だったことは分かった」
「はい」
「奏斗が気づいてくれたから」
千束が奏斗を見る。
「手、見逃さなかったんだね」
「確証はありませんでした」
「それでも覚えてた」
「気になっただけです」
「そのおかげで助かったよ」
「私が振り返るのが遅ければ、危険でした」
「でも振り返った」
「念のためです」
「奏斗の念のため、すごいね」
千束は少しだけ笑った。
無理に明るくしているようにも見える。
銃を向けられたことより、奏斗が庇ったことを気にしているのかもしれない。
「何で私の前に出たの?」
千束が尋ねる。
「避ける時間がありませんでした」
「私は避けられたかも」
「確認する余裕はありません」
「奏斗が撃たれるかもしれなかったよ」
「護衛です」
「それだけ?」
「それ以外に何があるのですか?」
千束は奏斗の顔を見つめる。
「私を守りたかった、とか」
「護衛なので守りました」
「同じじゃん」
「任務上の行動です」
「でも、体が勝手に動いたでしょ?」
「判断して動きました」
「本当に?」
「はい」
「一瞬で?」
「そのための訓練を受けています」
奏斗は淡々と答える。
実際、判断した。
敵の銃口。
千束との位置。
射線。
回避できる方向。
すべてを短時間で確認した。
ただ。
千束を庇う以外の選択肢を考える前に、体が動いていたことも事実だった。
それを言う必要はない。
「奏斗って、素直じゃないね」
「千束に言われたくありません」
「私は素直だよ」
「怪我を隠します」
「今は奏斗の話!」
「話を変えないでください」
「変えてないよ」
遠くから車両の音が近づいてくる。
回収班。
奏斗は周囲を確認し、武器を少し下げる。
黒い車両が二台、道の入口で止まった。
複数のリリベルが降りてくる。
警戒役。
回収担当。
医療担当。
奏斗は状況を簡潔に報告する。
「襲撃者は一名。護衛対象へ背後から発砲。左肩と胸部に命中させ、拘束しました。所持品はこちらです」
「押村、負傷は?」
「肩をかすっただけです」
「確認する」
医療担当が奏斗の上着へ手を伸ばす。
千束がすぐ隣へ立つ。
「私も見る」
「千束は離れていてください」
「何で?」
「処置の邪魔になります」
「邪魔しないよ」
「近いです」
「見えないじゃん」
「見る必要はありません」
「ある!」
医療担当の少年が、二人を交互に見る。
「処置していいか?」
「お願いします」
「私も見ていい?」
「千束は護衛対象だろ。周囲の警戒範囲内にいてくれ」
「ここも警戒範囲でしょ?」
千束は引かない。
奏斗は諦め、小さく息を吐いた。
「静かにしてください」
「やった」
「喜ぶことではありません」
上着を脱ぐ。
シャツの肩口が切れ、血がにじんでいた。
傷は浅い。
弾丸が皮膚の表面を削っただけで、骨や筋肉への損傷はない。
「ほら、血出てる!」
「かすり傷です」
「痛くないの?」
「多少は」
「嘘。絶対もっと痛いでしょ」
「耐えられる範囲です」
「奏斗も怪我を隠すじゃん」
「隠していません」
「軽く言ってる」
「千束より正確に報告しています」
「先生に言うからね」
「なぜミカさんへ?」
「奏斗が怪我を軽く考えてるって」
「店長へ報告する内容ではありません」
「一緒に働いてる店員だもん」
「護衛任務中の負傷です」
「明日の仕事に影響するかもしれないでしょ」
「影響しません」
「トレイ持てる?」
「右手で持てます」
「左は?」
「使えます」
「じゃあ大丈夫かな」
「切り替えが早いですね」
千束が少し安心したように笑う。
医療担当が傷を洗い、簡単な処置を行う。
その間に、襲撃者は担架へ載せられた。
「この人、生きてる?」
千束が確認する。
「はい」
「よかった」
「情報を得る必要がありますので」
「それだけじゃなくて、生きてる方がいいよ」
「そうですか」
「奏斗、今日は殺さなかったね」
奏斗は答えなかった。
千束へ銃を向けた相手。
必要であれば、急所を撃ち抜くつもりだった。
胸部へ当てた弾が致命傷にならなかったのは、結果にすぎない。
しかし、千束はうれしそうに見える。
「別に、千束に合わせたわけではありません」
「聞いてないのに言った」
「誤解されそうだったので」
「ちょっとは意識した?」
「していません」
「本当?」
「状況に応じた射撃です」
「じゃあ、殺さなくても止められたってことだね」
「今回は」
「それで十分!」
千束は笑った。
今日、外国人の客を普通の人だと言ったときと同じような笑顔。
相手を疑うより、信じる方を選ぶ笑顔。
奏斗にはまだ、その考え方を理解できない部分がある。
今夜の日本人男性も、店内では普通の客だった。
千束が普通だと信じた外国人男女よりも、目立たない存在。
それが突然、背後から銃を向けた。
人は見た目だけでは判断できない。
手の特徴一つで敵と断定することもできない。
だが、小さな違和感を見落とせば、千束が撃たれる。
「奏斗」
「何ですか?」
「考え込んでる?」
「状況を整理しています」
「外国組織のこと?」
「はい」
奏斗は担架で運ばれていく男を見る。
「国外組織が日本人を雇用、あるいは協力者として利用している可能性があります」
「そしたら、外国人だけ警戒しても駄目だね」
「最初から、国籍だけで判断するべきではありません」
「今日の二人も関係ないかもしれない」
「はい」
「関係あるかもしれない」
「はい」
「難しいなぁ」
「だから調査します」
「奏斗たちが?」
「リリベルの情報部門が行います」
「私にも教えてね」
「共有可能な範囲で」
「またそれ」
「規則です」
「護衛対象なのに」
「必要な情報は伝えます」
「本当に?」
「はい」
処置が終わる。
奏斗は新しい包帯の上からシャツを整え、上着を羽織った。
破れた肩口は隠れない。
「そのまま帰るの?」
千束が尋ねる。
「問題ありません」
「寒くない?」
「少し破れただけです」
「私の上着貸そうか?」
「サイズが合いません」
「着られるよ」
「赤い制服を着て帰るつもりですか?」
「上着じゃなくて、鞄に入ってる予備」
「必要ありません」
「遠慮しなくても」
「本当に不要です」
「じゃあ一緒に買いに行く?」
「この時間にですか?」
「まだ開いてる店あるよ」
「先にセーフハウスへ送ります」
「奏斗の服が先」
「護衛対象の安全が先です」
「頑固だなぁ」
「千束に言われたくありません」
回収班の責任者が近づいてくる。
「押村、対象は拠点へ運ぶ。お前は護衛を継続しろ」
「了解しました」
「その負傷なら任務継続可能と判断する。異常があれば交代を要請しろ」
「はい」
車両が動き出す。
襲撃者と回収班が夜道の向こうへ消える。
残ったのは奏斗と千束。
周辺を監視するリリベルが数名いるが、姿は見えない。
「帰ろうか」
千束が言う。
「はい」
二人は再びセーフハウスへ向かって歩き始める。
今度は奏斗が千束より少し前。
敵が通り過ぎてから背後を取ったことを考慮し、前方だけではなく後方も定期的に確認する。
「奏斗」
「何ですか?」
「さっきの続き」
「何の話ですか?」
「私の好きな食べ物」
「まだ話すのですか?」
「途中だったじゃん」
「襲撃があった直後ですよ」
「だからこそ、普通の話をしようよ」
「切り替えが早すぎます」
「今日を楽しく終わらせたいからね」
千束は少しだけ早足になり、奏斗の隣へ並ぶ。
「それでね、私は――」
楽しそうに話し始める。
奏斗は周囲を警戒しながら、その声を聞いた。
外国人男女。
日本人の襲撃者。
国外組織。
国内協力者。
まだ分からないことが多い。
男が単独で動いていたのか。
昼間から千束を狙っていたのか。
外国人男女と関係があるのか。
なぜ店内では攻撃せず、帰路を狙ったのか。
情報はこれから解析される。
すぐに答えは出ないだろう。
それでも、一つだけ確かなことがある。
敵は外国人だけではない。
普通の客として店へ入り、普通の日本語を話し、普通に会計を済ませる。
そして夜になれば、背後から銃を向ける。
千束を守るには、国籍や外見ではなく、もっと小さな違和感を見つけなければならない。
「奏斗、聞いてる?」
「聞いています」
「じゃあ、今何て言った?」
「甘いものも好きですが、食事なら肉料理が好きだと」
「正解!」
「それほど意外ではありませんね」
「何で?」
「よく動くので、食事量も多いでしょう」
「でも、野菜もちゃんと食べるよ」
「知っています」
「何で?」
「店のまかないを見ているので」
「やっぱり私のこと何でも知ってるね」
「必要な範囲だけです」
「じゃあ、奏斗の好きな食べ物は?」
「甘いものです」
「それは知ってる。食事なら?」
「特にありません」
「絶対あるでしょ」
「何でも食べます」
「つまらない答え」
「食事に面白さを求めないでください」
「じゃあ今度、先生に奏斗の好きなもの作ってもらおう」
「私のために用意する必要はありません」
「店員歓迎会、まだしてないじゃん」
「必要ですか?」
「必要!」
「また勝手に決めていませんか?」
「ミズキも賛成するよ」
「本人へ確認していないでしょう」
「先生もきっと」
「ミカさんを巻き込まないでください」
千束の笑い声が夜道へ響く。
先ほど銃撃があったことが嘘のようだった。
奏斗は一度だけ、包帯の巻かれた肩へ意識を向ける。
痛みはある。
だが、任務に支障はない。
「それとね」
千束が続ける。
「明日、店に来たら先生にちゃんと傷見せてよ」
「処置は終わっています」
「先生にも確認してもらう」
「必要ありません」
「私から言うから」
「やめてください」
「ミズキにも言う」
「さらに面倒になります」
「奏斗が素直に見せればすぐ終わるよ」
「なぜ店員の負傷確認が、店舗業務の一部になっているのですか」
「仲間だから」
千束が何でもないことのように言った。
奏斗は一瞬、返事を止める。
「奏斗はリコリコの店員でしょ?」
「護衛任務の一環です」
「でも店員」
「はい」
「だったら仲間」
「判断が単純ですね」
「分かりやすくていいじゃん」
千束は笑う。
「だから、怪我したら心配する。普通でしょ?」
奏斗は前を向いた。
「……そうかもしれません」
「おっ」
「何ですか?」
「素直!」
「一般論としてです」
「照れなくていいのに」
「照れていません」
「じゃあ明日、歓迎会ね」
「話が飛んでいます」
「怪我も確認して、甘いものも食べて、歓迎会」
「勝手に予定を増やさないでください」
「今日、私を守ったご褒美」
「任務です」
「でもありがとう」
千束の声が少しだけ柔らかくなる。
「本当に、助かったよ」
「……はい」
奏斗は短く答えた。
セーフハウスが見えてくる。
今夜も千束は無事に帰る。
それが奏斗の任務だ。
だから庇った。
だから撃った。
それだけのはずだった。
しかし、千束から礼を言われると、肩の痛みとは別の場所に小さな熱を感じた。
何なのかは考えない。
考える必要もない。
「到着しました」
「うん」
千束が入口の鍵を取り出す。
扉を開ける前に、奏斗を振り返った。
「明日も来るよね?」
「護衛任務が継続しているので」
「店員としても?」
「勤務予定です」
「じゃあ、朝から傷の確認!」
「忘れてください」
「忘れないよ。記憶力いいから」
「自分に都合の良いことだけでは?」
「奏斗、私のこと分かってきたね」
「分かりやすいだけです」
「それ、前にも言った」
「事実は変わりません」
千束は笑いながら中へ入る。
「おやすみ、奏斗」
「おやすみなさい」
「気をつけて帰ってね」
「千束は施錠してください」
「はーい」
扉が閉まり、鍵のかかる音がする。
奏斗は周囲を見渡す。
異常なし。
監視担当からも問題なしの連絡が入った。
それでも、すぐにはその場を離れなかった。
数秒。
窓。
屋上。
路地。
停車車両。
すべてを確認する。
今夜の襲撃者は日本人だった。
外国組織を追っていたはずの任務に、国内の人間が現れた。
組織が想定より深く日本へ入り込んでいるのか。
あるいは。
外国組織とは別に、千束を狙う存在がいるのか。
「……どちらでしょうね」
小さく呟く。
答えはない。
夜の街は静かだった。
奏斗は端末を取り出し、上層部へ追加報告を送る。
外国組織との関連は未確認。
襲撃者は日本人名の身分証を所持。
昼間、喫茶リコリコへ一般客として来店。
戦闘訓練の痕跡を手に確認。
帰路で護衛対象を銃撃。
外国人男女二名との接触は確認できず。
送信。
画面を閉じる。
店内で見つけた小さな違和感。
その違和感がなければ、振り返る判断が遅れていたかもしれない。
今回は間に合った。
次も間に合う保証はない。
奏斗はセーフハウスへ背を向け、拠点へ向かって歩き始めた。
肩の傷が、歩くたびにわずかに痛む。
それでも足は止めない。
敵が外国人か、日本人かは関係ない。
千束を狙う者であれば、見つける。
次は銃口を向ける前に。
店員として交わした笑顔の裏に、何が隠れているのかを。
見落とさないように。