君を守る、その理由   作:かなっち館長

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第七話 見えない意図と、にぎやかな歓迎会

 銃撃事件の処理が一段落した頃には、日付が変わっていた。

 

 押村奏斗は、リリベルの国内活動拠点にある報告室の前で足を止めた。

 

 肩には簡易処置が施されている。

 

 弾丸は表面をかすめただけだったが、傷口が動くたびに鈍い痛みが走った。任務を継続できないほどではない。腕も問題なく動く。

 

 千束が大げさに騒いでいただけだ。

 

 少なくとも、奏斗はそう考えていた。

 

 端末を認証装置へかざす。

 

 短い電子音のあと、扉が開いた。

 

「押村奏斗、入ります」

 

 室内には、以前リコリコでの勤務を許可した上官がいた。

 

 暗い色のスーツ姿。

 

 机の上には複数の端末と、今夜拘束した男の顔写真が表示されている。

 

 奏斗が机の前まで進むと、上官は傷のある肩へ一度だけ目を向けた。

 

「負傷したそうだな」

 

「軽傷です」

 

「医療班からも同じ報告を受けている。座れ」

 

「失礼します」

 

 奏斗は椅子へ腰を下ろした。

 

 肩が少し引かれ、傷口に痛みが走る。

 

 表情には出さない。

 

 上官は端末を操作し、道路の監視映像を表示した。

 

 そこには、奏斗と千束の背後から銃を向ける男の姿が映っている。

 

「現場での状況を、最初から説明しろ」

 

「了解しました」

 

 奏斗は姿勢を整えた。

 

「喫茶リコリコの営業終了後、護衛対象をセーフハウスへ送るため、徒歩で移動していました。二十一時十四分頃、人通りの少ない区画へ進入。前方から男性一名が接近しました」

 

「その時点で対象に気づいたか?」

 

「昼間にリコリコへ来店した人物と似ているとは感じました。ただし、暗所だったことと、相手が顔を伏せていたため、すぐには断定できませんでした」

 

「警戒した理由は?」

 

「両手をポケットへ入れており、右側だけが不自然に下がっていました。重量物を所持している可能性がありました。また、歩行時の重心と足音が一般人より安定していたためです」

 

「護衛対象は?」

 

「警戒していませんでした」

 

「錦木千束には気配を悟らせず、接近したわけか」

 

「はい。ただし、その時点では攻撃行動を見せていません」

 

「通過後は?」

 

「数歩進んだ時点で、昼間に店で確認した男性である可能性が高いと判断しました。会計時に見た手の特徴と、歩行時の姿勢が一致していました」

 

 上官は画面を切り替える。

 

 リコリコ店内の記録映像。

 

 レジ前に立つ日本人男性。

 

 奏斗へ金を差し出す右手が拡大される。

 

「この手か」

 

「はい。親指と人差し指の付け根に硬化があり、右手人差し指の動きがほかの指から独立していました。銃器の取り扱い訓練を受けている可能性を考えました」

 

「職業による可能性は?」

 

「ありました。そのため、店内では敵と断定していません」

 

「尾行もしなかった」

 

「護衛対象から離れることになるためです。また、相手が意図的に違和感を見せ、千束を店外へ誘導しようとしている可能性も考慮しました」

 

「結果的に、その男は帰路を待ち伏せした」

 

「はい」

 

 奏斗は簡潔に答えた。

 

「通過後、念のため振り返ったところ、男はすでに拳銃を構えていました。射線は千束へ向いていました」

 

「そこで庇った」

 

「回避させるために移動させました」

 

「自分の体を射線へ入れている」

 

「ほかの方法では間に合わないと判断しました」

 

 上官は奏斗を見た。

 

 しばらく沈黙が続く。

 

「錦木千束は、銃弾を回避できる人間だ」

 

「承知しています」

 

「本人に任せる選択肢は?」

 

「確認する時間がありませんでした」

 

「それだけか?」

 

「はい」

 

 奏斗は迷わず答えた。

 

 千束なら避けられたかもしれない。

 

 相手の銃口と指が見えていれば、発砲の瞬間を予測できただろう。

 

 だが、千束は男へ背を向けていた。

 

 警戒もしていなかった。

 

 撃たれてから避けることはできない。

 

 だから動いた。

 

 それ以上の理由はない。

 

「反撃後、男は生存した状態で拘束。現在は治療と尋問の準備中です」

 

「殺さなかった理由は?」

 

「情報を得る必要があるためです」

 

「錦木千束の影響ではないのか?」

 

 奏斗は一瞬だけ上官を見る。

 

「違います」

 

「即答だな」

 

「任務上、必要な判断でした」

 

「そういうことにしておこう」

 

「事実です」

 

 上官の口元が、わずかに動いたように見えた。

 

 笑ったのかどうかは分からない。

 

 奏斗は少しだけ眉を寄せる。

 

「何か?」

 

「いや。続けろ」

 

「以上です」

 

 奏斗が報告を終えると、上官は机上の端末を操作した。

 

 男の顔写真の横に、個人情報が表示される。

 

「こちらで判明したことを伝える」

 

「お願いします」

 

「男の身元は、本物だった」

 

 画面には、日本人名、生年月日、住所、経歴が並んでいる。

 

「日本国籍。四十二歳。以前は陸上自衛隊に所属していた」

 

「元自衛官ですか」

 

「ああ。普通科部隊に所属。その後、別部門へ異動した記録もある。詳細な任務内容は、防衛省側の情報管理下だ」

 

「退職時期は?」

 

「六年前」

 

「退職理由は?」

 

「表向きは一身上の都合」

 

「表向き、ということは」

 

「退職前に、複数回の規律違反があったらしい。ただし、重大な処分には至っていない」

 

 上官が別の資料を開く。

 

「退職後、一時期は警備会社に勤務していた。だが、二年ほどで退職。そのあと、足取りが途絶えている」

 

「行方不明扱いですか?」

 

「家族から捜索願が出されていた」

 

「いつですか?」

 

「約三年前だ」

 

 奏斗は画面を見る。

 

 一般的な証明写真。

 

 リコリコへ来たときより、少し若い。

 

 表情も穏やかに見える。

 

「三年間、どこで何をしていたかは不明」

 

「今回、日本国内で活動を確認した」

 

「そうなる」

 

「家族や知人との接触は?」

 

「確認できていない。本人名義の口座も、行方が分からなくなってからほとんど動いていない」

 

「別名義を使用していた可能性があります」

 

「情報部が調査中だ」

 

 上官は指を組み、机の上へ置いた。

 

「問題は、この男だけではない」

 

「同様の経歴を持つ人物がいる可能性ですか」

 

「そのとおりだ」

 

 奏斗は少しだけ目を細める。

 

「外国組織が、日本国内で訓練経験者を集めている」

 

「元自衛官、元警察官、民間警備会社の人間」

 

「それだけではない。射撃競技経験者、格闘技経験者、国外で軍事訓練を受けた者も含まれる可能性がある」

 

「組織への加入方法は?」

 

「まだ分からない。金銭で雇われたのか、思想的に同調したのか、脅迫されたのか」

 

「本人の尋問待ちですね」

 

「口を割ればな」

 

 拘束した男は負傷している。

 

 治療後、尋問が行われる。

 

 しかし、組織的な訓練を受けているなら、簡単には話さないだろう。

 

「現在、行方不明者や長期間所在が確認できていない訓練経験者について、調査を開始した」

 

「対象範囲は?」

 

「元自衛官を中心に、該当し得る人物を抽出している。警察庁や防衛省へ全面的に情報を求めることはできない。こちらの存在を明かさず、必要な記録だけを拾う」

 

「時間がかかりますね」

 

「そうだ」

 

 上官は別の画面を表示した。

 

 通信履歴。

 

 複数の番号と暗号化された記号が並んでいる。

 

「男が所持していた通信機と端末の解析も進めている」

 

「追っている外国組織との関連は?」

 

「高いと見ている」

 

「確定ではないのですか?」

 

「通信先は、これまで監視していた組織の中継網と複数一致した。ただし、本人が直接構成員なのか、外部協力者なのかは不明だ」

 

「少なくとも、無関係ではない」

 

「その可能性が高い」

 

 上官は一つの通信記録を拡大する。

 

「リコリコへ来店する前、男は海外経由の暗号化通信を受信している」

 

「内容は?」

 

「復号中だ。だが、通信のタイミングから考えれば、来店や襲撃の指示だった可能性がある」

 

「昼間の外国人男女との関連は?」

 

「現在確認している。男女が入国した記録は見つかった」

 

「身元は?」

 

「観光目的で入国。旅券に不審点はない。宿泊先も確認できている」

 

「組織との通信は?」

 

「現時点では見つかっていない」

 

「では、無関係の可能性も」

 

「ある」

 

 女性は戦闘訓練を受けた手ではない。

 

 千束はそう判断した。

 

 男については分からないと言った。

 

 奏斗も、二人から明確な敵意や訓練の痕跡を確認できなかった。

 

 単なる観光客。

 

 偶然、外国組織の日本人協力者と同時に店へいた。

 

 その可能性は十分にある。

 

 しかし、外国組織が偶然を利用することもある。

 

 関係のない観光客を目印にする。

 

 同じ時間に店へ入り、別々に行動する。

 

 片方へ注意を引きつける。

 

「外国人男女の監視は継続しますか?」

 

「行う。ただし、接触はするな。現在の情報だけでは一般人である可能性が高い」

 

「了解しました」

 

「お前は引き続き、リコリコ内部の警戒を最優先にしろ」

 

 上官の声が少し低くなる。

 

「今回の件で、敵が店の内部にまで入り込んでいることが確定した」

 

「はい」

 

「リコリコはすでに安全な場所ではない」

 

 奏斗は何も言わなかった。

 

 あの店は、外から見れば普通の喫茶店だ。

 

 コーヒーの香り。

 

 常連客の笑い声。

 

 千束の大きな声。

 

 ミズキの文句。

 

 ミカの穏やかな接客。

 

 その中に、千束を殺す目的を持った人間が座っていた。

 

 昼間から店内に滞在し、千束の動きと奏斗の位置を見ていた可能性がある。

 

「今後は来店者全員を警戒対象として見る必要があります」

 

「表には出すな」

 

「当然です」

 

「不自然な警戒は、一般客を遠ざけるだけではない。敵にこちらが気づいたことを知らせる」

 

「店員として通常どおり接客しながら確認します」

 

「できるな?」

 

「はい」

 

 奏斗は迷わず答えた。

 

 すでに数日間、同じことをしている。

 

 注文を取りながら手を見る。

 

 料理を置きながら視線を確認する。

 

 会計をしながら体の使い方を観察する。

 

 店員として自然に笑い、話しながら。

 

 以前であれば、演技として行っていた。

 

 最近は、千束や常連客との会話に対して、演技だけではない反応も増えている気がする。

 

 それが任務に支障を与えるとは思わない。

 

「もう一つ、疑問がある」

 

 上官が言った。

 

「なぜ、男は店内で襲撃しなかった?」

 

「一般客がいたためでは?」

 

「この組織が、一般人への被害を避けると思うか?」

 

「可能性は低いです」

 

「店内なら、錦木千束との距離は近い。会計時には、お前も手が届く位置にいた」

 

「はい」

 

「銃を隠していたなら、その場で撃つこともできた」

 

「しかし、千束は正面から銃を向けられれば避けます」

 

「不意打ちなら?」

 

「成功する可能性はあります」

 

「お前を先に撃つこともできた」

 

 奏斗は黙って考える。

 

 男が店内で攻撃しなかった理由。

 

 一般客が多かった。

 

 ミカとミズキがいた。

 

 店内は狭く、逃走経路が限られる。

 

 千束は銃撃への対応力が高い。

 

 奏斗も近くにいる。

 

 だが、それだけなら帰路を狙った理由にはなる。

 

 不自然ではない。

 

 それでも、何かが引っかかる。

 

「護衛の存在を確認するためだった可能性があります」

 

「続けろ」

 

「男は昼間、私の勤務状況と千束との距離を観察した。帰路でも同行することを確認し、そのうえで攻撃した」

 

「護衛がいると知りながら?」

 

「はい」

 

「成功率は下がる」

 

「私の対応能力を測る目的だった可能性があります」

 

 上官の視線が鋭くなる。

 

「襲撃そのものが、試験だったと?」

 

「断定はできません」

 

「だが、あり得る」

 

「男は千束を狙っていました。しかし、私が振り返ることも想定していた可能性があります」

 

「わざと気づかせた?」

 

「通過後、すぐに発砲姿勢へ移っています。私が振り返らなければ千束を撃てる。振り返れば、護衛がどのように動くか確認できる」

 

「使い捨ての駒か」

 

「男が逃げる準備をしていた様子はありませんでした」

 

 発砲後、男は距離を詰めてきた。

 

 逃げるよりも、千束への攻撃を優先していた。

 

 自分が生き残ることを考えていないようにも見えた。

 

「自爆用の装備は?」

 

「確認されていません」

 

「薬物反応は?」

 

「検査中だ」

 

 男が洗脳や薬物の影響下にあった可能性もある。

 

 あるいは、何らかの理由で命を捨てる覚悟をしていた。

 

「別の狙いも考えられます」

 

 奏斗が言う。

 

「何だ」

 

「千束を店の外で襲撃することで、リコリコが安全な場所だと思わせる」

 

「店内を警戒させないためか」

 

「はい。店で攻撃が起きなければ、敵は外にいると考えやすくなります」

 

「その直前に店内へ潜入しているにもかかわらず」

 

「店の中では何もしない。それを繰り返せば、一般客としての侵入に慣れが生じます」

 

「そして別の人間が、より深く内部へ入る」

 

「可能性の一つです」

 

 上官はしばらく黙った。

 

「警戒を厳にしろ」

 

「はい」

 

「店内、周辺、帰路。どこが本命かは分からない」

 

「交代要員の増員は?」

 

「目立つ。現状の配置を維持する」

 

「私一人で対応します」

 

「無理をするな、と言っても聞かない顔だな」

 

「必要な任務を行うだけです」

 

「錦木千束と同じことを言うようになったな」

 

 奏斗は少し眉を寄せた。

 

「似ていません」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

 千束は、怪我をしても笑って大丈夫と言う。

 

 奏斗は、任務に支障がないと判断して大丈夫と言う。

 

 理由はまったく違う。

 

 おそらく。

 

「明日も通常どおりリコリコへ入れ」

 

「了解しました」

 

「傷は?」

 

「問題ありません」

 

「店で騒がれるだろうな」

 

「……何のことでしょう」

 

「護衛対象は、お前の負傷を気にしていたと報告にある」

 

「誰がそのような報告を」

 

「現場の医療担当だ」

 

「不要な内容です」

 

「報告事項だ」

 

「そうですか」

 

 千束は朝から傷を見ると言っていた。

 

 忘れてくれている可能性は低い。

 

 むしろ、店へ入った瞬間に捕まるだろう。

 

「ほかに質問は?」

 

「ありません」

 

「では下がれ」

 

「失礼します」

 

 奏斗は立ち上がった。

 

 肩に痛みが走る。

 

 表情は変えず、報告室を出る。

 

 静かな廊下。

 

 深夜の拠点には人が少ない。

 

 奏斗は歩きながら端末を確認した。

 

 翌日の勤務予定。

 

 開店準備から閉店まで。

 

 夜間任務なし。

 

 その下に、リリコリ側から共有された予定が追加されている。

 

 閉店後、新任店員歓迎会。

 

「……聞いていませんが」

 

 思わず声が漏れる。

 

 主催者の欄には、錦木千束。

 

 参加予定者、ミカ、中原ミズキ、近隣の常連客数名。

 

 目的、新しい店員を歓迎し、交流を深める。

 

 備考、ゲーム大会あり。

 

「勝手に予定を入れていますね」

 

 奏斗は端末を見つめる。

 

 歓迎会は必要ない。

 

 護衛任務のために勤務している。

 

 通常の新入社員でもない。

 

 そう伝えれば、千束はこう言うだろう。

 

 でも店員でしょ。

 

 仲間なんだから歓迎会は必要。

 

 そして、奏斗が断っても、すでに準備を進めている。

 

 おそらく今さら中止にはならない。

 

「……ゲーム大会とは何でしょう」

 

 嫌な予感がした。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 喫茶リコリコへ入った瞬間、奏斗は予想どおり千束に捕まった。

 

「奏斗!」

 

 扉のベルが鳴るより早いのではないかと思うほどの反応だった。

 

 店内へ一歩入れたところで、千束が目の前まで走ってくる。

 

「おはようございます」

 

「おはよう! 上着脱いで!」

 

「朝一番に言うことではありません」

 

「傷見るから!」

 

「処置は終わっています」

 

「先生にも見せるって言ったでしょ」

 

「私は同意していません」

 

「でも私は決めた」

 

「それを同意とは言いません」

 

 奏斗は千束の横を通り、店内へ入ろうとする。

 

 千束も横へ動いて進路を塞いだ。

 

「駄目」

 

「何がですか?」

 

「逃げようとしてる」

 

「出勤しようとしています」

 

「だったら先に傷見せて」

 

「着替えと開店準備が先です」

 

「傷!」

 

「仕事!」

 

「傷!」

 

「小学生ですか?」

 

「十六歳です!」

 

「年齢の話ではありません」

 

 朝から声が店内へ響く。

 

 窓際では、ミズキが椅子を並べながら笑っていた。

 

「観念したら?」

 

「なぜミズキさんまで」

 

「私も見たいもの」

 

「見世物ではありません」

 

「千束が昨日から大騒ぎしてたのよ。奏斗が撃たれた、奏斗が血を出した、奏斗が怪我を軽く見てるって」

 

「かすり傷です」

 

「ほら!」

 

 千束が奏斗を指さす。

 

「また軽く言った!」

 

「事実です」

 

「先生!」

 

 千束がカウンターの奥へ助けを求める。

 

 ミカはいつものように穏やかな表情だった。

 

「奏斗」

 

「はい」

 

「傷を確認させてほしい」

 

「医療班の処置を受けています」

 

「店で働く以上、業務へ影響がないか確認する必要がある」

 

 正論だった。

 

 断りにくい。

 

 奏斗は少しだけ黙る。

 

「……分かりました」

 

「やった!」

 

 千束が両手を上げる。

 

「なぜ千束が喜ぶのですか?」

 

「勝ったから」

 

「勝負ではありません」

 

「奏斗対千束、傷見せるか見せないか対決。私の勝ち!」

 

「今、名前をつけましたね」

 

「細かいことはいいから、上着脱いで」

 

 奏斗はため息をつき、上着を脱いだ。

 

 肩口が破れているため、今日は別の上着を持ってきている。

 

 白いシャツの下には包帯が巻かれていた。

 

「シャツも」

 

「ここで脱ぐのですか?」

 

「肩だけ見えればいいよ」

 

「店内です」

 

「まだ開店前だよ」

 

「そういう問題でしょうか」

 

 千束は遠慮なくシャツの襟を少し引こうとする。

 

 奏斗はすぐにその手首をつかんだ。

 

「勝手に触らないでください」

 

「だって見えない」

 

「自分で行います」

 

「逃げない?」

 

「どこへ逃げるのですか」

 

「倉庫とか」

 

「店内に倉庫はありません」

 

「厨房の奥」

 

「怪我を見せないために厨房へ逃げる人間がいますか?」

 

「奏斗ならやりそう」

 

「私を何だと思っているのですか」

 

「頑固な甘党」

 

「甘党は関係ありません」

 

 ミズキが声を上げて笑う。

 

 奏斗は諦め、シャツの襟を少し広げた。

 

 包帯の端が見える。

 

 ミカが近づき、状態を確認する。

 

「出血は止まっているな」

 

「はい」

 

「腕を上げられるか?」

 

 奏斗は左腕をゆっくり上げた。

 

 痛みはあるが、問題なく動く。

 

「少し動きが硬い」

 

「傷口が引かれるだけです」

 

「重いものは右手で持ちなさい」

 

「分かりました」

 

「トレイは?」

 

 千束がすぐに聞く。

 

「持てます」

 

「本当に?」

 

「昨日も言いました」

 

「実際に持ってみよう」

 

「今からですか?」

 

 千束は近くにあった空のトレイを奏斗へ渡す。

 

「はい」

 

 奏斗は右手で受け取った。

 

「普通に持てます」

 

「左手は?」

 

「使わないよう言われたばかりです」

 

「あ、そっか」

 

「何を確認したかったのですか」

 

「元気かどうか」

 

「トレイで判断するのですか?」

 

「リコリコ店員だからね」

 

「独自の健康診断ですね」

 

「次はパフェを食べられるか確認」

 

「それは単に千束が食べたいだけでは?」

 

「奏斗の健康確認だよ」

 

「朝からパフェは食べません」

 

「じゃあケーキ」

 

「内容が変わっただけです」

 

 奏斗が少し笑うと、千束が目を細めた。

 

「今、笑った」

 

「笑っていません」

 

「笑ったよ」

 

「千束があまりにも真剣に変なことを言うので」

 

「ほら、笑ってるじゃん」

 

「呆れただけです」

 

「今日の奏斗、いつもより明るいね」

 

「そうですか?」

 

「うん。店員として成長した」

 

「何でも千束の指導成果にしないでください」

 

「私のおかげじゃないの?」

 

「半分くらいは、店の環境のせいです」

 

「残り半分は?」

 

「パフェです」

 

 一瞬、店内が静かになる。

 

 それから千束が大きく笑った。

 

「奏斗が自分から甘党の冗談言った!」

 

「事実でもあります」

 

「成長したねぇ」

 

「そこで感動しないでください」

 

 ミズキも笑いながら言う。

 

「本当に少し変わったわね。最初はもっと堅い子かと思ってたけど」

 

「現在も十分真面目ですが」

 

「自分で言う?」

 

「千束よりは」

 

「比較対象が悪い!」

 

「良い比較対象だと思います」

 

「朝から調子いいなぁ、奏斗」

 

 千束が楽しそうに肩を軽く叩こうとする。

 

 傷のある側だった。

 

 奏斗は一歩下がって避ける。

 

「あ」

 

「今、傷を確認したばかりですよね?」

 

「忘れてた」

 

「数秒で?」

 

「奏斗が元気そうだから」

 

「理由になっていません」

 

「じゃあ反対の肩」

 

 今度は右肩を叩かれる。

 

「何のために叩くのですか?」

 

「仲間の挨拶」

 

「普通におはようございますで十分です」

 

「おはよう、奏斗!」

 

「先ほど聞きました」

 

「もう一回!」

 

「おはようございます、千束」

 

「よし!」

 

 何がよかったのか分からない。

 

 それでも、奏斗は口元をわずかに緩めた。

 

     ◇

 

 開店後は、いつもどおりの一日になった。

 

 奏斗は黒いエプロンを身につけ、注文を取り、料理を運んだ。

 

 肩へ負担をかけないよう、重いトレイは右手で持つ。

 

 千束は最初の一時間ほど、何かあるたびに奏斗の肩を気にしていた。

 

「それ重くない?」

 

「問題ありません」

 

「私が持とうか?」

 

「千束は自分の料理を運んでください」

 

「優しくしてあげてるのに」

 

「五番テーブルが待っています」

 

「あっ」

 

 千束が慌てて料理を運ぶ。

 

 数分後。

 

「奏斗、カップ下げるの大丈夫?」

 

「空のカップです」

 

「でも四つある」

 

「重さはありません」

 

「私が二つ持つよ」

 

「それならお願いします」

 

「素直だね」

 

「断ると長くなりそうなので」

 

「何が?」

 

「会話がです」

 

「私と話すの嫌?」

 

「まさか。店内が静かになりすぎるので、適度に必要です」

 

「褒めてる?」

 

「半分くらいは」

 

「残り半分は?」

 

「騒音です」

 

「ひどい!」

 

 近くにいた常連客が笑った。

 

 奏斗も以前より、店内では少し気楽に話せるようになっていた。

 

 任務中のように、すべての言葉を最短で選ぶ必要はない。

 

 千束の冗談へ、真面目に答えるだけではなく、少しだけ言葉を返す。

 

 ミズキからからかわれれば、時にはこちらからも言い返す。

 

「奏斗君、今日も女性客多いわよ」

 

 昼前、ミズキが小声で言った。

 

「店が人気になったのでしょう」

 

「またまた」

 

「千束の看板娘としての努力が、ようやく実ったのでは?」

 

 奏斗が答えると、少し離れた場所にいた千束が反応した。

 

「本当?」

 

「冗談です」

 

「奏斗!」

 

「聞き耳を立てていた千束が悪いでしょう」

 

「一瞬喜んだのに!」

 

「半分は本当です」

 

「残り半分は?」

 

「私です」

 

 奏斗がわざと少しだけ得意そうに言う。

 

 ミズキが吹き出した。

 

 千束は目を丸くしたあと、すぐに笑い出す。

 

「自分で言った!」

 

「客観的な事実を述べました」

 

「奏斗、今日すごいね。どうしたの?」

 

「負傷の影響かもしれません」

 

「頭も撃たれた?」

 

「肩です」

 

「じゃあ元から?」

 

「千束に慣れただけです」

 

「それは良いことだね!」

 

「良いかどうかは検討中です」

 

 店内に笑い声が広がる。

 

 奏斗は会話をしながらも、来店者への警戒を緩めていなかった。

 

 手。

 

 歩き方。

 

 視線。

 

 荷物。

 

 店内へ入った直後に何を見るか。

 

 千束との距離を不自然に詰めないか。

 

 昨日の日本人男性の件がある。

 

 普通に見える客ほど、注意が必要かもしれない。

 

 しかし、全員を敵として扱えば接客は不自然になる。

 

 表面上は明るく。

 

 内側では冷静に。

 

 以前より冗談を言うようになったことで、むしろ警戒を隠しやすくなっていた。

 

「奏斗君、肩どうしたの?」

 

 常連の男性客に尋ねられる。

 

 シャツの下の包帯は見えないが、動きのわずかな硬さに気づいたらしい。

 

「少し転びました」

 

「奏斗、嘘はよくないよ」

 

 千束が横から口を挟む。

 

「事実をそのまま言えると思いますか?」

 

 奏斗は小声で返す。

 

「じゃあ、私を庇って――」

 

「千束」

 

「はい」

 

「今日のおすすめを説明してください」

 

 強引に話題を変える。

 

「今日のおすすめは、奏斗の負傷記念パフェ!」

 

「存在しません」

 

「今考えた」

 

「絶対に作らないでください」

 

 常連客が楽しそうに笑う。

 

「仲がいいねぇ」

 

「千束が一方的に話を広げているだけです」

 

「奏斗も楽しそうじゃん」

 

「接客中なので笑顔です」

 

「営業用?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「千束が変なことを言うからです」

 

「また笑わせた!」

 

 千束が得意そうにする。

 

 奏斗は、否定せずに次のテーブルへ向かった。

 

     ◇

 

 その日の営業時間は、特に異常なく終了した。

 

 昨日来店した外国人男女も、日本人男性の仲間と思われる人物も現れなかった。

 

 奏斗は閉店後、いつものようにエプロンを外そうとした。

 

「駄目!」

 

 千束に止められる。

 

「何がですか?」

 

「今日はまだ店員」

 

「営業は終了しました」

 

「これから歓迎会だから」

 

「上着へ着替えてはいけない理由は?」

 

「雰囲気」

 

「抽象的ですね」

 

「歓迎される人は、店員らしい格好でいないと」

 

「誰が決めたのですか?」

 

「私」

 

「やはり」

 

 奏斗は諦め、エプロンを着けたままにした。

 

 店内では、テーブルの配置が変えられていた。

 

 複数のテーブルを中央へ寄せ、料理を並べられるようにしている。

 

 先生は厨房で準備中。

 

 ミズキは冷蔵庫から酒を取り出していた。

 

「ミズキ、それ何本目?」

 

 千束が尋ねる。

 

「まだ始まってもないわよ」

 

「でも、もう開けてるじゃん」

 

「料理を待つ間の一杯」

 

「それを飲み始めって言うんだよ」

 

「今日はめでたい日なんだからいいの」

 

「私の歓迎会ですよね?」

 

 奏斗が言う。

 

「そうよ。だから私が飲むの」

 

「因果関係が分かりません」

 

「新しい店員が増えた喜びを、酒で表現してるのよ」

 

「普通に言葉で表現してください」

 

「ようこそ、奏斗君」

 

 ミズキが缶を上げる。

 

「ありがとうございます」

 

「はい、表現した。これで飲める」

 

「最初から飲んでいましたよね?」

 

「細かいこと気にする男はモテないわよ」

 

「昨日、女性客から人気だと何度も言っていたのはミズキさんですが」

 

「言い返すようになったわね」

 

「千束の悪影響よ」

 

「良い影響!」

 

 千束がすぐに訂正する。

 

 奏斗は冷蔵庫からジュースを取り出した。

 

「奏斗、何飲む?」

 

「これで構いません」

 

「オレンジ?」

 

「はい」

 

「子供っぽい」

 

「千束も同じものを持っていますが」

 

「私は十六歳だから」

 

「私は十七歳です」

 

「一歳上ならコーヒーとか」

 

「夜に飲む必要はありません」

 

「じゃあ炭酸」

 

「なぜ飲み物で年齢を表現するのですか」

 

「大人っぽさ」

 

「ミズキさんの酒だけで十分です」

 

「奏斗君も飲む?」

 

 ミズキが缶を差し出す。

 

「未成年です」

 

「冗談よ」

 

「ミズキ、それ本当に冗談?」

 

 千束が疑わしそうに見る。

 

「当たり前でしょ」

 

「酔っ払いの言葉は信用できないなぁ」

 

「まだ酔ってないわよ!」

 

 入口のベルが鳴る。

 

 閉店後だが、鍵は開けてあった。

 

 入ってきたのは、普段から店へ来る常連客たちだった。

 

 年配の男性。

 

 近所の女性。

 

 若い会社員。

 

 合わせて六人ほど。

 

「こんばんは」

 

「歓迎会、間に合った?」

 

「いらっしゃいませー!」

 

 千束が大きな声で迎える。

 

「今日は貸し切りで、奏斗歓迎会でーす!」

 

「主役は本当にエプロン姿なんだね」

 

 常連の女性が笑う。

 

「千束が脱ぐなと言うので」

 

「店員らしくて似合ってるよ」

 

「ありがとうございます」

 

「ほら、私の判断正解!」

 

「結果論です」

 

 常連客たちは慣れた様子で席についた。

 

 先生が厨房から、大きな皿を持って現れる。

 

 唐揚げ。

 

 サンドイッチ。

 

 温かいスープ。

 

 サラダ。

 

 小さなハンバーグ。

 

 デザート用のケーキ。

 

 次々にテーブルへ並べられる。

 

「先生、すごい!」

 

 千束が目を輝かせる。

 

「奏斗の歓迎会なのに、千束が一番うれしそうね」

 

 ミズキが言う。

 

「みんなで食べるんだから、私もうれしいよ」

 

「奏斗、好きなものある?」

 

「どれもおいしそうです」

 

「無難な答え」

 

「では、唐揚げです」

 

「奏斗は肉料理好きだもんね」

 

「覚えていたのですか?」

 

「もちろん!」

 

「自分に都合の良いことだけでは?」

 

「それ、前から言うよね」

 

「事実ですから」

 

 先生が全員分の飲み物を準備する。

 

 奏斗と千束はジュース。

 

 常連客にはコーヒーや紅茶。

 

 ミズキだけは酒。

 

「それでは」

 

 先生が静かに口を開く。

 

「今日から正式に、喫茶リコリコの店員として働くことになった奏斗を歓迎したい」

 

「護衛任務の一環ですが」

 

 奏斗が付け加える。

 

「今はそれ言わなくていいの!」

 

 千束に腕を軽く叩かれる。

 

 右腕なので問題ない。

 

「今日くらい普通に歓迎されてよ」

 

「歓迎されることを拒否しているわけではありません」

 

「じゃあ笑顔!」

 

 奏斗は少しだけ笑う。

 

「これでいいですか?」

 

「もっと!」

 

「要求が多いですね」

 

「奏斗君、自然でいいよ」

 

 常連の男性が笑う。

 

「千束ちゃんの言うとおりにしてたら、顔が疲れちゃう」

 

「そんなことないよ!」

 

「初日から何度も笑顔の練習をさせられました」

 

「ほら、大変だったんじゃない」

 

「でも、今は少し役に立っています」

 

 奏斗が言うと、千束がうれしそうに振り返った。

 

「本当?」

 

「少しだけです」

 

「少しでも認めた!」

 

「全部千束のおかげとは言っていません」

 

「半分くらい?」

 

「三割」

 

「低い!」

 

「最初は一割と言おうと思いました」

 

「上げてくれたんだ」

 

「歓迎会なので」

 

「奏斗、優しい!」

 

「料理を食べる前に揉めないでくれる?」

 

 ミズキが缶を持ち上げる。

 

「ほら、乾杯するわよ」

 

 先生がグラスを持つ。

 

「奏斗。これからよろしく頼む」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

「それじゃあ」

 

 千束が勢いよくジュースを掲げた。

 

「奏斗のリコリコ加入を祝って、かんぱーい!」

 

「乾杯!」

 

 グラスやカップが軽く触れ合う。

 

 奏斗もジュースを一口飲んだ。

 

 甘い。

 

「どう?」

 

 千束がすぐに聞く。

 

「普通のオレンジジュースです」

 

「感想が真面目」

 

「では、歓迎の味がします」

 

 一瞬の間。

 

 千束が吹き出す。

 

「何それ!」

 

「感想を求められたので」

 

「奏斗、今日ふざけすぎじゃない?」

 

「千束に合わせています」

 

「私、そんなに変なこと言ってる?」

 

 周囲の全員が黙った。

 

「何で誰も答えないの!」

 

 店内に笑いが広がった。

 

     ◇

 

 食事が進むにつれ、歓迎会はますますにぎやかになった。

 

 千束は料理を取り分けながら、自分の皿にも大量に載せている。

 

「千束、それ全部食べられるの?」

 

 常連の女性が尋ねる。

 

「余裕です!」

 

「奏斗君より多いじゃない」

 

「動くからお腹空くんだよ」

 

「奏斗ももっと食べなよ」

 

 千束が唐揚げを奏斗の皿へ載せる。

 

「自分で取れます」

 

「歓迎される人は座ってて」

 

「千束も座っているでしょう」

 

「私は歓迎する側だから」

 

「座ったままでも歓迎できるのですね」

 

「便利でしょ」

 

 さらにハンバーグが載せられる。

 

「多くありませんか?」

 

「奏斗、肉好きだから」

 

「確かに好きですが」

 

「遠慮しないで」

 

「遠慮ではなく、量の問題です」

 

「十七歳なら食べられる!」

 

「千束より食事量は少ないと思います」

 

「負けないよ!」

 

「勝負ではありません」

 

「どっちが多く食べられるか対決!」

 

「しません」

 

「逃げるの?」

 

「食事量で挑発しないでください」

 

 ミズキが酒を飲みながら笑う。

 

「良いじゃない。負けた方が明日の掃除全部担当」

 

「急に実害が出ましたね」

 

「奏斗、やろう!」

 

「千束が掃除したくないだけでしょう」

 

「ばれた?」

 

「分かりやすすぎます」

 

 結局、食事対決は行われなかった。

 

 千束は少し残念そうだったが、すぐに別の遊びを提案した。

 

「ご飯のあとは、ゲーム大会!」

 

「備考に書いてあったものですね」

 

 奏斗が言う。

 

「見たんだ」

 

「予定表に勝手に追加されていました」

 

「ちゃんと共有したよ」

 

「相談はされていません」

 

「サプライズ!」

 

「予定表に書いた時点で、サプライズではありません」

 

 千束は棚からトランプとUNOを持ってきた。

 

「最初はババ抜き!」

 

「人数が多すぎない?」

 

 常連の男性が尋ねる。

 

「多い方が楽しいよ」

 

「終わるまで時間かかるわよ」

 

 ミズキはすでに二本目の酒を開けている。

 

「ミズキ、ちゃんとできる?」

 

「子供向けのゲームくらい余裕よ」

 

「酔っ払いが言ってもねぇ」

 

「酔ってないって言ってるでしょ!」

 

 全員でテーブルを囲む。

 

 先生は厨房の片づけが残っているため、最初は不参加だった。

 

 カードが配られる。

 

 奏斗は手札を確認する。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「私の顔見ないでね」

 

「見ていません」

 

「カード読まないで」

 

「千束ではないので、表情だけで完全には読めません」

 

「完全には?」

 

「ある程度は分かります」

 

「じゃあ見ないで!」

 

「勝負なのに、相手へ制限を求めるのですか?」

 

「奏斗、急に勝負師になったね」

 

「千束から学びました」

 

「良い弟子!」

 

「都合の良い部分だけ認めますね」

 

 ゲームが始まる。

 

 千束は隣の常連客からカードを引く。

 

 顔を見て、どのカードがババではないかを読もうとしている。

 

「千束ちゃん、顔を見るの禁止」

 

「えー」

 

「じゃんけんと同じことしてるでしょう」

 

「観察してるだけだよ」

 

「それを禁止してるの」

 

「勝負なのに!」

 

「さっき奏斗君に見るなって言ってたじゃない」

 

「私はいいの」

 

「駄目に決まってるでしょ」

 

 千束は不満そうにカードを一枚引く。

 

 ババではなかった。

 

「ほら、見なくても強い」

 

「偶然でしょう」

 

 奏斗が言う。

 

「奏斗、今ババ持ってる?」

 

「持っていません」

 

「本当?」

 

「はい」

 

「顔が怪しい」

 

「普段と同じです」

 

「じゃあ持ってる」

 

「根拠が逆です」

 

 数周後。

 

 奏斗の手元には、最後の二枚が残った。

 

 一枚は通常のカード。

 

 もう一枚はババ。

 

 隣は千束。

 

「どっちかなぁ」

 

 千束が奏斗の顔を見る。

 

「見ない約束では?」

 

「もう終盤だから解禁」

 

「誰が決めたのですか?」

 

「私」

 

「知っていました」

 

 奏斗は二枚のカードを差し出す。

 

 片方だけ、ほんの少し高く見せる。

 

 千束の視線がそのカードへ向く。

 

 奏斗はあえて目元をわずかに動かした。

 

「こっち!」

 

 千束が高く見せたカードを引く。

 

 ババだった。

 

「えっ」

 

 奏斗は残ったカードを手札の同じ数字と合わせて捨てる。

 

「上がりです」

 

「待って!」

 

「何ですか?」

 

「今、わざと顔動かした?」

 

「何のことでしょう」

 

「絶対誘導した!」

 

「千束が勝手に見て判断しただけです」

 

「卑怯!」

 

「観察力を使って勝とうとした人に言われたくありません」

 

 常連客たちが笑う。

 

「奏斗君、やるね」

 

「千束への対策が分かってきました」

 

「奏斗!」

 

「次は見ない方がいいですよ」

 

「もう一回!」

 

「まだゲームは終わっていません」

 

 千束はそのまま最後までババを持ち続けた。

 

 最下位。

 

「納得いかない!」

 

「負けは負けです」

 

「奏斗が罠を仕掛けた!」

 

「有利な条件を利用しただけです」

 

「私みたいなこと言ってる!」

 

「店内で学びました」

 

「成長の方向が違うよ!」

 

「指導者の責任ですね」

 

「そこだけ私のせいにするの!?」

 

 次はUNO。

 

 先生も片づけを終え、途中から参加した。

 

「先生、強い?」

 

「普通だ」

 

「絶対強い人の言い方」

 

「何を根拠に」

 

「先生だから」

 

「説明になっていない」

 

 カードが配られる。

 

 ミズキは三本目の酒を飲み始めていた。

 

「ミズキ、ルール覚えてる?」

 

「当たり前よ」

 

「同じ数字か色を出すんだよ」

 

「子供扱いするな!」

 

 最初の数巡は普通だった。

 

 ミズキは順調にカードを減らしている。

 

「ほら、私が一番でしょ」

 

「まだ分からないよ」

 

 千束がドロー二を出す。

 

「ミズキ、二枚!」

 

「何で私に出すのよ!」

 

「勝負だから」

 

「大人への敬意は?」

 

「ゲームに年齢は関係ない!」

 

 奏斗がさらにドロー二を重ねる。

 

「四枚ですね」

 

「奏斗君まで!?」

 

「勝負ですので」

 

「真面目な顔で何してるのよ!」

 

「千束から、全力で勝つよう教わりました」

 

「私の弟子!」

 

「今だけ認めるのね」

 

 ミズキは文句を言いながらカードを引く。

 

 少しすると、酔いが回ってきたのか判断が怪しくなり始めた。

 

「赤の五!」

 

「今、青です」

 

 奏斗が指摘する。

 

「数字が五だからいいのよ」

 

「同じ数字なら出せますが、それは六です」

 

「似たようなものよ」

 

「全然違うよ、ミズキ」

 

 千束が笑う。

 

「眼鏡ずれてるから見えないんじゃない?」

 

「ずれてない!」

 

「ちょっとずれてる」

 

「奏斗君まで言わないで!」

 

「事実です」

 

 ミズキは眼鏡を直し、カードを見直す。

 

「これは五」

 

「九です」

 

「逆から見れば六!」

 

「五ではありません」

 

「細かいわねぇ」

 

「UNOで数字を無視すると、ゲームが成立しません」

 

 店内は笑い声で満たされていた。

 

 奏斗も、気づけば普通に笑っていた。

 

 勤務中に作る笑顔ではない。

 

 警戒を隠すためのものでもない。

 

 ただ、ミズキの酔った言動と、千束の容赦のない攻撃が面白かった。

 

「奏斗、今すっごく笑ってる」

 

 千束が指さす。

 

「笑っていません」

 

「いや、笑ってるよ」

 

「ミズキさんのカードが上下逆だったので」

 

「私のせいにするな!」

 

「事実です」

 

「奏斗君、最初に会ったときよりずいぶん明るくなったね」

 

 常連の女性が言う。

 

「そうでしょうか」

 

「前はもう少し静かだったよ」

 

「千束ちゃんの影響?」

 

「半分くらいは」

 

 奏斗が答える。

 

 千束が目を輝かせる。

 

「半分も?」

 

「残り半分は、ミズキさんの酔い方が面白いからです」

 

「奏斗君!」

 

「本人へ言う?」

 

「聞かれたので」

 

「私、面白くないわよ!」

 

 ミズキが立ち上がろうとする。

 

 椅子が少し揺れた。

 

「危ない」

 

 奏斗が腕を伸ばし、ミズキの肩を支える。

 

「ほら、酔ってるじゃん」

 

 千束が言う。

 

「酔ってない!」

 

「立てる?」

 

「余裕よ」

 

 ミズキは一歩進み、すぐに椅子へ戻った。

 

「今日は椅子が動くわね」

 

「動いてるのはミズキだよ」

 

「床が傾いてるの」

 

「店のせいにしないでください」

 

 奏斗が言うと、また笑いが起きる。

 

     ◇

 

 UNOを何度か繰り返した頃には、ミズキは完全に酔い潰れていた。

 

 テーブルへ頬をつけたまま、手にはカードを握っている。

 

「ミズキの番だよ」

 

 千束が声をかける。

 

「……赤」

 

「色を言うだけじゃ駄目」

 

「赤い人生……」

 

「何それ」

 

「結婚……」

 

「急に重い!」

 

 常連客たちが笑いながらも、少し同情したような顔をする。

 

「ミズキさん、寝かせた方がいいのでは?」

 

 奏斗が尋ねる。

 

「いつものことだから大丈夫」

 

 千束は慣れた様子だった。

 

「いつも店で潰れるのですか?」

 

「たまに」

 

「十分問題だと思います」

 

「明日になったら反省するよ」

 

「反省してるところ見たことないけどね」

 

 先生が静かに言う。

 

「先生まで厳しい!」

 

 寝ているはずのミズキが反応する。

 

「起きてるじゃん」

 

「寝てる……」

 

「器用ですね」

 

 奏斗が言う。

 

 ゲームは続行不能になり、自然と雑談へ変わった。

 

 常連客たちは料理をつまみながら、奏斗へいろいろな質問をした。

 

「奏斗君は学校に通ってるの?」

 

「一応、所属先で必要な教育を受けています」

 

「一応?」

 

「少し特殊なので」

 

「この店で働きながら大変じゃない?」

 

「今のところ問題ありません」

 

「千束ちゃんに振り回される方が大変そうね」

 

「それには慣れてきました」

 

「奏斗!」

 

「良い意味です」

 

「今、後からつけたでしょ」

 

「気のせいです」

 

 常連の年配男性が、奏斗と千束を交互に見た。

 

「二人は、前から知り合いだったのかい?」

 

「少し前に知り合ったばかりだよ」

 

 千束が答える。

 

「最初はお客さんだったの」

 

「パフェを食べに来ました」

 

 奏斗も続ける。

 

「千束ちゃんに誘われた?」

 

「最初は偶然です」

 

「二回目からは?」

 

「パフェを食べに」

 

「本当に甘いものが好きなんだね」

 

「はい」

 

 奏斗はもう隠さない。

 

「千束ちゃんと好みも合うんじゃない?」

 

「千束は、甘いものなら何でも食べると思います」

 

「奏斗もでしょ」

 

「私は一応、順位があります」

 

「一位はチョコレートパフェ!」

 

 千束がすぐに答える。

 

「二位は抹茶」

 

「よく覚えてるね」

 

 常連の女性が笑う。

 

「奏斗の好みは、指導者として把握してます」

 

「指導と関係ありません」

 

「まかない選びに大事」

 

「それなら千束が決めることではありません」

 

「私が先生に言う」

 

「結局関わるのですね」

 

 二人のやり取りを見ていた若い常連客が、ふと尋ねた。

 

「二人って、付き合ってるの?」

 

 奏斗と千束の動きが同時に止まった。

 

「え?」

 

 千束が目を丸くする。

 

「交際しているのですか、という意味ですか?」

 

 奏斗が確認する。

 

「ほかにどういう意味があるのよ」

 

 若い客が笑う。

 

「だって仲良いし、ずっと一緒にいるでしょう?」

 

「一緒にいるのは護――」

 

 奏斗は言いかけて止まる。

 

「勤務時間が同じだからです」

 

「今、何か違うこと言おうとした?」

 

「何も」

 

 千束が奏斗を見る。

 

 奏斗も千束を見る。

 

「付き合ってないよ!」

 

「交際していません」

 

 二人がほぼ同時に否定した。

 

 常連客たちから、面白がるような声が上がる。

 

「息ぴったりじゃない」

 

「違うってば!」

 

 千束が少しだけ声を大きくする。

 

「奏斗はただの店員!」

 

「千束は護衛対象――」

 

 奏斗は再び止まる。

 

「同僚です」

 

「今、また違うこと言いかけたよね?」

 

「店員仲間!」

 

 千束が言い直す。

 

「そう。仲間」

 

 奏斗も答える。

 

「それに、まだ知り合ってそんなに経ってないし」

 

「期間の問題なの?」

 

 常連の女性が尋ねる。

 

「そういう意味じゃなくて!」

 

 千束が少し慌てる。

 

 普段は相手へ強く出る千束が、予想外の方向から押されている。

 

 奏斗はその様子を見て、少しだけ面白くなった。

 

「千束、顔が赤いですよ」

 

「赤くない!」

 

「少し赤いね」

 

 常連客も同意する。

 

「暑いだけ!」

 

「店内温度は適切です」

 

 奏斗が真面目な顔で言う。

 

「奏斗、味方してよ!」

 

「事実を言っただけです」

 

「こういうときだけ真面目に戻る!」

 

「私も交際していないと否定しました」

 

「じゃあもう終わり!」

 

 千束はジュースを一気に飲む。

 

「奏斗も赤いんじゃない?」

 

 別の客が尋ねる。

 

「照明の影響です」

 

「落ち着いてるねぇ」

 

「奏斗はこういうの強いんだよ」

 

 千束が少し不満そうに言う。

 

「そうでもありません」

 

「じゃあ照れてる?」

 

「その質問に答える必要がありますか?」

 

「ほら、逃げた」

 

「千束も逃げたでしょう」

 

「私は否定した!」

 

「私も否定しました」

 

「じゃあ同じだね」

 

「そうですね」

 

 二人でうなずく。

 

 常連客たちはますます楽しそうに笑っていた。

 

「今は付き合ってない、ってことで」

 

「今は、も必要ありません」

 

 奏斗が訂正する。

 

「そう! ただの仲間!」

 

 千束も強く言う。

 

 その横で、ミズキが顔を上げた。

 

「付き合っちゃえばぁ……?」

 

「ミズキ!」

 

 千束が叫ぶ。

 

「お似合いよぉ……」

 

「寝てて!」

 

「私は応援するわぁ……」

 

「何を応援してるの!」

 

 ミズキは再びテーブルへ顔を伏せた。

 

「……結婚……」

 

「自分の心配して!」

 

 店内が大きな笑いに包まれた。

 

 奏斗も耐えきれず笑った。

 

「奏斗まで笑わないで!」

 

「ミズキさんが急に自分の問題へ戻ったので」

 

「笑ってる場合じゃないよ!」

 

「千束も笑っています」

 

「私は困ってるの!」

 

「楽しそうに見えますが」

 

「奏斗!」

 

 千束がトランプの箱を投げるふりをする。

 

 奏斗はわざと身を引いた。

 

「傷があるので、物を投げないでください」

 

「あっ」

 

 千束の手が止まる。

 

「ずるい!」

 

「何がですか?」

 

「傷を盾にした!」

 

「有効活用です」

 

「そういう冗談言うようになったね!」

 

「千束から学びました」

 

「良いのか悪いのか分からない!」

 

 笑いはなかなか収まらなかった。

 

     ◇

 

 夜が深くなると、常連客たちは一人ずつ帰っていった。

 

「楽しかったよ、奏斗君」

 

「また一緒に遊ぼうね」

 

「次は負けないから」

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 奏斗は一人ずつ扉まで見送った。

 

 千束も横で大きく手を振る。

 

「また来てねー!」

 

「明日も来るよ」

 

「待ってまーす!」

 

 最後の客が帰る。

 

 店内には、先生、千束、奏斗、そしてテーブルへ突っ伏したミズキが残った。

 

「ミズキ、起きて」

 

 千束が肩を揺らす。

 

「……奏斗君、千束をよろしくぅ」

 

「何をですか」

 

「全部……」

 

「雑すぎるよ!」

 

 ミズキは起きない。

 

 先生が穏やかなため息をつく。

 

「奥へ運ぼう」

 

「先生、足大丈夫?」

 

「問題ない」

 

「私が運びます」

 

 奏斗が言う。

 

「肩怪我してるでしょ」

 

 千束がすぐに止める。

 

「右腕は使えます」

 

「人一人は重いよ」

 

「ミズキさんが聞いたら怒りますよ」

 

「寝てるから大丈夫」

 

「聞こえてるわよぉ……」

 

 ミズキが弱々しく反応する。

 

「起きてるなら歩いて!」

 

「無理ぃ……」

 

 結局、先生と千束がミズキを支えて奥へ運んだ。

 

 奏斗は残った食器を片づける。

 

 料理の皿。

 

 ジュースのグラス。

 

 散らばったUNOのカード。

 

 トランプ。

 

 歓迎会のあとらしい、少し乱れた店内。

 

 任務拠点では見ない光景だった。

 

「奏斗」

 

 千束が戻ってくる。

 

「何ですか?」

 

「今日は楽しかった?」

 

 奏斗はトランプを箱へ戻しながら答える。

 

「はい」

 

 今回は、言葉を濁さなかった。

 

「本当?」

 

「本当です」

 

「パフェ食べたときくらい?」

 

「比較対象がおかしくありませんか?」

 

「どっちが上?」

 

「難しい質問ですね」

 

「真剣に考えてる」

 

 奏斗は少しだけ考えるふりをする。

 

「パフェです」

 

「えー!」

 

「冗談です」

 

 千束が目を丸くする。

 

 そのあと、すぐに笑った。

 

「奏斗が自分から冗談言った!」

 

「歓迎会なので」

 

「今日だけ?」

 

「状況によります」

 

「明日も言ってよ」

 

「要求されて言うものではありません」

 

「じゃあ自然に」

 

「努力します」

 

「冗談を努力する人、初めて見た」

 

「千束が求めるので仕方なく」

 

「本当は楽しいんでしょ?」

 

「何がですか?」

 

「私たちと話すの」

 

 奏斗は手を止める。

 

 千束は、からかうような顔ではなかった。

 

 いつもの明るい笑顔。

 

 でも、少しだけ真剣に答えを待っている。

 

「楽しいですよ」

 

 奏斗は静かに答えた。

 

「店で働くことも?」

 

「それなりに」

 

「それなり?」

 

「かなり、と言うと千束が調子に乗るので」

 

「もう乗った!」

 

「遅かったですね」

 

「じゃあ、これからもよろしくね。奏斗店員」

 

「こちらこそ」

 

「護衛だからじゃなくて?」

 

「店員としても」

 

 千束の笑顔が少し大きくなる。

 

「よし!」

 

「また何かに勝ったのですか?」

 

「奏斗の固い心」

 

「勝手に戦わないでください」

 

「最初より柔らかくなったよ」

 

「肩の傷とは関係ありませんよね?」

 

「心の話!」

 

「分かっています」

 

 奏斗は笑う。

 

 千束も笑った。

 

 数時間前まで、奏斗は上層部と外国組織について話していた。

 

 元自衛官。

 

 行方不明者。

 

 日本人協力者。

 

 店内への潜入。

 

 敵の不明な意図。

 

 この店も、もう安全ではない。

 

 今も窓の外から誰かが見ている可能性はある。

 

 奏斗は無意識に、閉じられたカーテンへ視線を向けた。

 

「気になる?」

 

 千束が尋ねる。

 

「何がですか?」

 

「外」

 

「念のためです」

 

「今日は誰もいないと思うよ」

 

「根拠は?」

 

「楽しい日だから」

 

「敵は歓迎会の日程を考慮しません」

 

「夢がないなぁ」

 

「昨日と同じことを言っていますね」

 

「奏斗が現実的すぎるから」

 

「警戒は必要です」

 

「分かってるよ」

 

 千束はカーテンへ近づき、隙間から外を見る。

 

「でも、今日は大丈夫」

 

「見えますか?」

 

「誰もいない」

 

「見えていない位置にいる可能性は?」

 

「もう」

 

 千束が振り返る。

 

「奏斗も、少しくらい楽しい気持ちのまま帰ろうよ」

 

「警戒しながら楽しい気持ちを維持することはできます」

 

「できるの?」

 

「今、できています」

 

 奏斗が答えると、千束は少し驚いた顔をした。

 

「そっか」

 

「はい」

 

「じゃあ、よかった」

 

 千束は満足そうにうなずく。

 

 店内の片づけを終える。

 

 先生は奥でミズキの様子を見ている。

 

 今夜、千束はこのまま先生と一緒にセーフハウスへ戻る予定だった。

 

 奏斗も途中まで護衛として同行する。

 

「奏斗」

 

「何ですか?」

 

「歓迎会、またやろうね」

 

「歓迎会は一度で十分では?」

 

「次は奏斗の制服完成祝い」

 

「まだ準備中ですね」

 

「その次は、勤務一週間記念」

 

「毎週行うつもりですか?」

 

「一か月記念も」

 

「記念日が多すぎます」

 

「百日記念!」

 

「数えるのですか?」

 

「私、記憶力いいから」

 

「自分に都合の良いことだけですね」

 

「それ、今日何回目?」

 

「事実は何度でも言います」

 

「じゃあ次は、奏斗が笑うようになった記念日」

 

「いつですか、それは」

 

「今日!」

 

「勝手に制定しないでください」

 

「七月――」

 

「覚えなくていいです」

 

「でも今日は大事な日だよ」

 

 千束は笑った。

 

「奏斗が、リコリコで普通に笑った日」

 

「以前も笑っています」

 

「今日が一番いっぱい笑った」

 

「ミズキさんのおかげですね」

 

「私のおかげでもあるでしょ?」

 

「三割」

 

「少ない!」

 

「では四割」

 

「歓迎会だから?」

 

「はい」

 

「もっと上げて」

 

「交渉制なのですか?」

 

「五割!」

 

「分かりました。五割で」

 

「やった!」

 

 千束が両手を上げる。

 

「それでいいのですか?」

 

「半分は私のおかげってことでしょ?」

 

「残り半分は、ミズキさんと常連客と料理です」

 

「先生の料理は強いから仕方ないね」

 

 千束は納得したようだった。

 

 奏斗は笑いながら、店の照明を一つ落とした。

 

 外には、夜の街が広がっている。

 

 見えない敵。

 

 分からない意図。

 

 警戒すべきことは多い。

 

 明日になれば、また普通の客へ紛れた誰かが店へ入ってくるかもしれない。

 

 それでも今夜だけは、店内に残る笑い声の余韻を無理に消す必要はない。

 

 警戒と楽しさは、両立できる。

 

 千束が言っていたことを、そのまま認めるつもりはない。

 

 だが。

 

 奏斗は以前より少しだけ、そう思えるようになっていた。

 

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