銃撃事件の処理が一段落した頃には、日付が変わっていた。
押村奏斗は、リリベルの国内活動拠点にある報告室の前で足を止めた。
肩には簡易処置が施されている。
弾丸は表面をかすめただけだったが、傷口が動くたびに鈍い痛みが走った。任務を継続できないほどではない。腕も問題なく動く。
千束が大げさに騒いでいただけだ。
少なくとも、奏斗はそう考えていた。
端末を認証装置へかざす。
短い電子音のあと、扉が開いた。
「押村奏斗、入ります」
室内には、以前リコリコでの勤務を許可した上官がいた。
暗い色のスーツ姿。
机の上には複数の端末と、今夜拘束した男の顔写真が表示されている。
奏斗が机の前まで進むと、上官は傷のある肩へ一度だけ目を向けた。
「負傷したそうだな」
「軽傷です」
「医療班からも同じ報告を受けている。座れ」
「失礼します」
奏斗は椅子へ腰を下ろした。
肩が少し引かれ、傷口に痛みが走る。
表情には出さない。
上官は端末を操作し、道路の監視映像を表示した。
そこには、奏斗と千束の背後から銃を向ける男の姿が映っている。
「現場での状況を、最初から説明しろ」
「了解しました」
奏斗は姿勢を整えた。
「喫茶リコリコの営業終了後、護衛対象をセーフハウスへ送るため、徒歩で移動していました。二十一時十四分頃、人通りの少ない区画へ進入。前方から男性一名が接近しました」
「その時点で対象に気づいたか?」
「昼間にリコリコへ来店した人物と似ているとは感じました。ただし、暗所だったことと、相手が顔を伏せていたため、すぐには断定できませんでした」
「警戒した理由は?」
「両手をポケットへ入れており、右側だけが不自然に下がっていました。重量物を所持している可能性がありました。また、歩行時の重心と足音が一般人より安定していたためです」
「護衛対象は?」
「警戒していませんでした」
「錦木千束には気配を悟らせず、接近したわけか」
「はい。ただし、その時点では攻撃行動を見せていません」
「通過後は?」
「数歩進んだ時点で、昼間に店で確認した男性である可能性が高いと判断しました。会計時に見た手の特徴と、歩行時の姿勢が一致していました」
上官は画面を切り替える。
リコリコ店内の記録映像。
レジ前に立つ日本人男性。
奏斗へ金を差し出す右手が拡大される。
「この手か」
「はい。親指と人差し指の付け根に硬化があり、右手人差し指の動きがほかの指から独立していました。銃器の取り扱い訓練を受けている可能性を考えました」
「職業による可能性は?」
「ありました。そのため、店内では敵と断定していません」
「尾行もしなかった」
「護衛対象から離れることになるためです。また、相手が意図的に違和感を見せ、千束を店外へ誘導しようとしている可能性も考慮しました」
「結果的に、その男は帰路を待ち伏せした」
「はい」
奏斗は簡潔に答えた。
「通過後、念のため振り返ったところ、男はすでに拳銃を構えていました。射線は千束へ向いていました」
「そこで庇った」
「回避させるために移動させました」
「自分の体を射線へ入れている」
「ほかの方法では間に合わないと判断しました」
上官は奏斗を見た。
しばらく沈黙が続く。
「錦木千束は、銃弾を回避できる人間だ」
「承知しています」
「本人に任せる選択肢は?」
「確認する時間がありませんでした」
「それだけか?」
「はい」
奏斗は迷わず答えた。
千束なら避けられたかもしれない。
相手の銃口と指が見えていれば、発砲の瞬間を予測できただろう。
だが、千束は男へ背を向けていた。
警戒もしていなかった。
撃たれてから避けることはできない。
だから動いた。
それ以上の理由はない。
「反撃後、男は生存した状態で拘束。現在は治療と尋問の準備中です」
「殺さなかった理由は?」
「情報を得る必要があるためです」
「錦木千束の影響ではないのか?」
奏斗は一瞬だけ上官を見る。
「違います」
「即答だな」
「任務上、必要な判断でした」
「そういうことにしておこう」
「事実です」
上官の口元が、わずかに動いたように見えた。
笑ったのかどうかは分からない。
奏斗は少しだけ眉を寄せる。
「何か?」
「いや。続けろ」
「以上です」
奏斗が報告を終えると、上官は机上の端末を操作した。
男の顔写真の横に、個人情報が表示される。
「こちらで判明したことを伝える」
「お願いします」
「男の身元は、本物だった」
画面には、日本人名、生年月日、住所、経歴が並んでいる。
「日本国籍。四十二歳。以前は陸上自衛隊に所属していた」
「元自衛官ですか」
「ああ。普通科部隊に所属。その後、別部門へ異動した記録もある。詳細な任務内容は、防衛省側の情報管理下だ」
「退職時期は?」
「六年前」
「退職理由は?」
「表向きは一身上の都合」
「表向き、ということは」
「退職前に、複数回の規律違反があったらしい。ただし、重大な処分には至っていない」
上官が別の資料を開く。
「退職後、一時期は警備会社に勤務していた。だが、二年ほどで退職。そのあと、足取りが途絶えている」
「行方不明扱いですか?」
「家族から捜索願が出されていた」
「いつですか?」
「約三年前だ」
奏斗は画面を見る。
一般的な証明写真。
リコリコへ来たときより、少し若い。
表情も穏やかに見える。
「三年間、どこで何をしていたかは不明」
「今回、日本国内で活動を確認した」
「そうなる」
「家族や知人との接触は?」
「確認できていない。本人名義の口座も、行方が分からなくなってからほとんど動いていない」
「別名義を使用していた可能性があります」
「情報部が調査中だ」
上官は指を組み、机の上へ置いた。
「問題は、この男だけではない」
「同様の経歴を持つ人物がいる可能性ですか」
「そのとおりだ」
奏斗は少しだけ目を細める。
「外国組織が、日本国内で訓練経験者を集めている」
「元自衛官、元警察官、民間警備会社の人間」
「それだけではない。射撃競技経験者、格闘技経験者、国外で軍事訓練を受けた者も含まれる可能性がある」
「組織への加入方法は?」
「まだ分からない。金銭で雇われたのか、思想的に同調したのか、脅迫されたのか」
「本人の尋問待ちですね」
「口を割ればな」
拘束した男は負傷している。
治療後、尋問が行われる。
しかし、組織的な訓練を受けているなら、簡単には話さないだろう。
「現在、行方不明者や長期間所在が確認できていない訓練経験者について、調査を開始した」
「対象範囲は?」
「元自衛官を中心に、該当し得る人物を抽出している。警察庁や防衛省へ全面的に情報を求めることはできない。こちらの存在を明かさず、必要な記録だけを拾う」
「時間がかかりますね」
「そうだ」
上官は別の画面を表示した。
通信履歴。
複数の番号と暗号化された記号が並んでいる。
「男が所持していた通信機と端末の解析も進めている」
「追っている外国組織との関連は?」
「高いと見ている」
「確定ではないのですか?」
「通信先は、これまで監視していた組織の中継網と複数一致した。ただし、本人が直接構成員なのか、外部協力者なのかは不明だ」
「少なくとも、無関係ではない」
「その可能性が高い」
上官は一つの通信記録を拡大する。
「リコリコへ来店する前、男は海外経由の暗号化通信を受信している」
「内容は?」
「復号中だ。だが、通信のタイミングから考えれば、来店や襲撃の指示だった可能性がある」
「昼間の外国人男女との関連は?」
「現在確認している。男女が入国した記録は見つかった」
「身元は?」
「観光目的で入国。旅券に不審点はない。宿泊先も確認できている」
「組織との通信は?」
「現時点では見つかっていない」
「では、無関係の可能性も」
「ある」
女性は戦闘訓練を受けた手ではない。
千束はそう判断した。
男については分からないと言った。
奏斗も、二人から明確な敵意や訓練の痕跡を確認できなかった。
単なる観光客。
偶然、外国組織の日本人協力者と同時に店へいた。
その可能性は十分にある。
しかし、外国組織が偶然を利用することもある。
関係のない観光客を目印にする。
同じ時間に店へ入り、別々に行動する。
片方へ注意を引きつける。
「外国人男女の監視は継続しますか?」
「行う。ただし、接触はするな。現在の情報だけでは一般人である可能性が高い」
「了解しました」
「お前は引き続き、リコリコ内部の警戒を最優先にしろ」
上官の声が少し低くなる。
「今回の件で、敵が店の内部にまで入り込んでいることが確定した」
「はい」
「リコリコはすでに安全な場所ではない」
奏斗は何も言わなかった。
あの店は、外から見れば普通の喫茶店だ。
コーヒーの香り。
常連客の笑い声。
千束の大きな声。
ミズキの文句。
ミカの穏やかな接客。
その中に、千束を殺す目的を持った人間が座っていた。
昼間から店内に滞在し、千束の動きと奏斗の位置を見ていた可能性がある。
「今後は来店者全員を警戒対象として見る必要があります」
「表には出すな」
「当然です」
「不自然な警戒は、一般客を遠ざけるだけではない。敵にこちらが気づいたことを知らせる」
「店員として通常どおり接客しながら確認します」
「できるな?」
「はい」
奏斗は迷わず答えた。
すでに数日間、同じことをしている。
注文を取りながら手を見る。
料理を置きながら視線を確認する。
会計をしながら体の使い方を観察する。
店員として自然に笑い、話しながら。
以前であれば、演技として行っていた。
最近は、千束や常連客との会話に対して、演技だけではない反応も増えている気がする。
それが任務に支障を与えるとは思わない。
「もう一つ、疑問がある」
上官が言った。
「なぜ、男は店内で襲撃しなかった?」
「一般客がいたためでは?」
「この組織が、一般人への被害を避けると思うか?」
「可能性は低いです」
「店内なら、錦木千束との距離は近い。会計時には、お前も手が届く位置にいた」
「はい」
「銃を隠していたなら、その場で撃つこともできた」
「しかし、千束は正面から銃を向けられれば避けます」
「不意打ちなら?」
「成功する可能性はあります」
「お前を先に撃つこともできた」
奏斗は黙って考える。
男が店内で攻撃しなかった理由。
一般客が多かった。
ミカとミズキがいた。
店内は狭く、逃走経路が限られる。
千束は銃撃への対応力が高い。
奏斗も近くにいる。
だが、それだけなら帰路を狙った理由にはなる。
不自然ではない。
それでも、何かが引っかかる。
「護衛の存在を確認するためだった可能性があります」
「続けろ」
「男は昼間、私の勤務状況と千束との距離を観察した。帰路でも同行することを確認し、そのうえで攻撃した」
「護衛がいると知りながら?」
「はい」
「成功率は下がる」
「私の対応能力を測る目的だった可能性があります」
上官の視線が鋭くなる。
「襲撃そのものが、試験だったと?」
「断定はできません」
「だが、あり得る」
「男は千束を狙っていました。しかし、私が振り返ることも想定していた可能性があります」
「わざと気づかせた?」
「通過後、すぐに発砲姿勢へ移っています。私が振り返らなければ千束を撃てる。振り返れば、護衛がどのように動くか確認できる」
「使い捨ての駒か」
「男が逃げる準備をしていた様子はありませんでした」
発砲後、男は距離を詰めてきた。
逃げるよりも、千束への攻撃を優先していた。
自分が生き残ることを考えていないようにも見えた。
「自爆用の装備は?」
「確認されていません」
「薬物反応は?」
「検査中だ」
男が洗脳や薬物の影響下にあった可能性もある。
あるいは、何らかの理由で命を捨てる覚悟をしていた。
「別の狙いも考えられます」
奏斗が言う。
「何だ」
「千束を店の外で襲撃することで、リコリコが安全な場所だと思わせる」
「店内を警戒させないためか」
「はい。店で攻撃が起きなければ、敵は外にいると考えやすくなります」
「その直前に店内へ潜入しているにもかかわらず」
「店の中では何もしない。それを繰り返せば、一般客としての侵入に慣れが生じます」
「そして別の人間が、より深く内部へ入る」
「可能性の一つです」
上官はしばらく黙った。
「警戒を厳にしろ」
「はい」
「店内、周辺、帰路。どこが本命かは分からない」
「交代要員の増員は?」
「目立つ。現状の配置を維持する」
「私一人で対応します」
「無理をするな、と言っても聞かない顔だな」
「必要な任務を行うだけです」
「錦木千束と同じことを言うようになったな」
奏斗は少し眉を寄せた。
「似ていません」
「そうか?」
「はい」
千束は、怪我をしても笑って大丈夫と言う。
奏斗は、任務に支障がないと判断して大丈夫と言う。
理由はまったく違う。
おそらく。
「明日も通常どおりリコリコへ入れ」
「了解しました」
「傷は?」
「問題ありません」
「店で騒がれるだろうな」
「……何のことでしょう」
「護衛対象は、お前の負傷を気にしていたと報告にある」
「誰がそのような報告を」
「現場の医療担当だ」
「不要な内容です」
「報告事項だ」
「そうですか」
千束は朝から傷を見ると言っていた。
忘れてくれている可能性は低い。
むしろ、店へ入った瞬間に捕まるだろう。
「ほかに質問は?」
「ありません」
「では下がれ」
「失礼します」
奏斗は立ち上がった。
肩に痛みが走る。
表情は変えず、報告室を出る。
静かな廊下。
深夜の拠点には人が少ない。
奏斗は歩きながら端末を確認した。
翌日の勤務予定。
開店準備から閉店まで。
夜間任務なし。
その下に、リリコリ側から共有された予定が追加されている。
閉店後、新任店員歓迎会。
「……聞いていませんが」
思わず声が漏れる。
主催者の欄には、錦木千束。
参加予定者、ミカ、中原ミズキ、近隣の常連客数名。
目的、新しい店員を歓迎し、交流を深める。
備考、ゲーム大会あり。
「勝手に予定を入れていますね」
奏斗は端末を見つめる。
歓迎会は必要ない。
護衛任務のために勤務している。
通常の新入社員でもない。
そう伝えれば、千束はこう言うだろう。
でも店員でしょ。
仲間なんだから歓迎会は必要。
そして、奏斗が断っても、すでに準備を進めている。
おそらく今さら中止にはならない。
「……ゲーム大会とは何でしょう」
嫌な予感がした。
◇
翌朝。
喫茶リコリコへ入った瞬間、奏斗は予想どおり千束に捕まった。
「奏斗!」
扉のベルが鳴るより早いのではないかと思うほどの反応だった。
店内へ一歩入れたところで、千束が目の前まで走ってくる。
「おはようございます」
「おはよう! 上着脱いで!」
「朝一番に言うことではありません」
「傷見るから!」
「処置は終わっています」
「先生にも見せるって言ったでしょ」
「私は同意していません」
「でも私は決めた」
「それを同意とは言いません」
奏斗は千束の横を通り、店内へ入ろうとする。
千束も横へ動いて進路を塞いだ。
「駄目」
「何がですか?」
「逃げようとしてる」
「出勤しようとしています」
「だったら先に傷見せて」
「着替えと開店準備が先です」
「傷!」
「仕事!」
「傷!」
「小学生ですか?」
「十六歳です!」
「年齢の話ではありません」
朝から声が店内へ響く。
窓際では、ミズキが椅子を並べながら笑っていた。
「観念したら?」
「なぜミズキさんまで」
「私も見たいもの」
「見世物ではありません」
「千束が昨日から大騒ぎしてたのよ。奏斗が撃たれた、奏斗が血を出した、奏斗が怪我を軽く見てるって」
「かすり傷です」
「ほら!」
千束が奏斗を指さす。
「また軽く言った!」
「事実です」
「先生!」
千束がカウンターの奥へ助けを求める。
ミカはいつものように穏やかな表情だった。
「奏斗」
「はい」
「傷を確認させてほしい」
「医療班の処置を受けています」
「店で働く以上、業務へ影響がないか確認する必要がある」
正論だった。
断りにくい。
奏斗は少しだけ黙る。
「……分かりました」
「やった!」
千束が両手を上げる。
「なぜ千束が喜ぶのですか?」
「勝ったから」
「勝負ではありません」
「奏斗対千束、傷見せるか見せないか対決。私の勝ち!」
「今、名前をつけましたね」
「細かいことはいいから、上着脱いで」
奏斗はため息をつき、上着を脱いだ。
肩口が破れているため、今日は別の上着を持ってきている。
白いシャツの下には包帯が巻かれていた。
「シャツも」
「ここで脱ぐのですか?」
「肩だけ見えればいいよ」
「店内です」
「まだ開店前だよ」
「そういう問題でしょうか」
千束は遠慮なくシャツの襟を少し引こうとする。
奏斗はすぐにその手首をつかんだ。
「勝手に触らないでください」
「だって見えない」
「自分で行います」
「逃げない?」
「どこへ逃げるのですか」
「倉庫とか」
「店内に倉庫はありません」
「厨房の奥」
「怪我を見せないために厨房へ逃げる人間がいますか?」
「奏斗ならやりそう」
「私を何だと思っているのですか」
「頑固な甘党」
「甘党は関係ありません」
ミズキが声を上げて笑う。
奏斗は諦め、シャツの襟を少し広げた。
包帯の端が見える。
ミカが近づき、状態を確認する。
「出血は止まっているな」
「はい」
「腕を上げられるか?」
奏斗は左腕をゆっくり上げた。
痛みはあるが、問題なく動く。
「少し動きが硬い」
「傷口が引かれるだけです」
「重いものは右手で持ちなさい」
「分かりました」
「トレイは?」
千束がすぐに聞く。
「持てます」
「本当に?」
「昨日も言いました」
「実際に持ってみよう」
「今からですか?」
千束は近くにあった空のトレイを奏斗へ渡す。
「はい」
奏斗は右手で受け取った。
「普通に持てます」
「左手は?」
「使わないよう言われたばかりです」
「あ、そっか」
「何を確認したかったのですか」
「元気かどうか」
「トレイで判断するのですか?」
「リコリコ店員だからね」
「独自の健康診断ですね」
「次はパフェを食べられるか確認」
「それは単に千束が食べたいだけでは?」
「奏斗の健康確認だよ」
「朝からパフェは食べません」
「じゃあケーキ」
「内容が変わっただけです」
奏斗が少し笑うと、千束が目を細めた。
「今、笑った」
「笑っていません」
「笑ったよ」
「千束があまりにも真剣に変なことを言うので」
「ほら、笑ってるじゃん」
「呆れただけです」
「今日の奏斗、いつもより明るいね」
「そうですか?」
「うん。店員として成長した」
「何でも千束の指導成果にしないでください」
「私のおかげじゃないの?」
「半分くらいは、店の環境のせいです」
「残り半分は?」
「パフェです」
一瞬、店内が静かになる。
それから千束が大きく笑った。
「奏斗が自分から甘党の冗談言った!」
「事実でもあります」
「成長したねぇ」
「そこで感動しないでください」
ミズキも笑いながら言う。
「本当に少し変わったわね。最初はもっと堅い子かと思ってたけど」
「現在も十分真面目ですが」
「自分で言う?」
「千束よりは」
「比較対象が悪い!」
「良い比較対象だと思います」
「朝から調子いいなぁ、奏斗」
千束が楽しそうに肩を軽く叩こうとする。
傷のある側だった。
奏斗は一歩下がって避ける。
「あ」
「今、傷を確認したばかりですよね?」
「忘れてた」
「数秒で?」
「奏斗が元気そうだから」
「理由になっていません」
「じゃあ反対の肩」
今度は右肩を叩かれる。
「何のために叩くのですか?」
「仲間の挨拶」
「普通におはようございますで十分です」
「おはよう、奏斗!」
「先ほど聞きました」
「もう一回!」
「おはようございます、千束」
「よし!」
何がよかったのか分からない。
それでも、奏斗は口元をわずかに緩めた。
◇
開店後は、いつもどおりの一日になった。
奏斗は黒いエプロンを身につけ、注文を取り、料理を運んだ。
肩へ負担をかけないよう、重いトレイは右手で持つ。
千束は最初の一時間ほど、何かあるたびに奏斗の肩を気にしていた。
「それ重くない?」
「問題ありません」
「私が持とうか?」
「千束は自分の料理を運んでください」
「優しくしてあげてるのに」
「五番テーブルが待っています」
「あっ」
千束が慌てて料理を運ぶ。
数分後。
「奏斗、カップ下げるの大丈夫?」
「空のカップです」
「でも四つある」
「重さはありません」
「私が二つ持つよ」
「それならお願いします」
「素直だね」
「断ると長くなりそうなので」
「何が?」
「会話がです」
「私と話すの嫌?」
「まさか。店内が静かになりすぎるので、適度に必要です」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「騒音です」
「ひどい!」
近くにいた常連客が笑った。
奏斗も以前より、店内では少し気楽に話せるようになっていた。
任務中のように、すべての言葉を最短で選ぶ必要はない。
千束の冗談へ、真面目に答えるだけではなく、少しだけ言葉を返す。
ミズキからからかわれれば、時にはこちらからも言い返す。
「奏斗君、今日も女性客多いわよ」
昼前、ミズキが小声で言った。
「店が人気になったのでしょう」
「またまた」
「千束の看板娘としての努力が、ようやく実ったのでは?」
奏斗が答えると、少し離れた場所にいた千束が反応した。
「本当?」
「冗談です」
「奏斗!」
「聞き耳を立てていた千束が悪いでしょう」
「一瞬喜んだのに!」
「半分は本当です」
「残り半分は?」
「私です」
奏斗がわざと少しだけ得意そうに言う。
ミズキが吹き出した。
千束は目を丸くしたあと、すぐに笑い出す。
「自分で言った!」
「客観的な事実を述べました」
「奏斗、今日すごいね。どうしたの?」
「負傷の影響かもしれません」
「頭も撃たれた?」
「肩です」
「じゃあ元から?」
「千束に慣れただけです」
「それは良いことだね!」
「良いかどうかは検討中です」
店内に笑い声が広がる。
奏斗は会話をしながらも、来店者への警戒を緩めていなかった。
手。
歩き方。
視線。
荷物。
店内へ入った直後に何を見るか。
千束との距離を不自然に詰めないか。
昨日の日本人男性の件がある。
普通に見える客ほど、注意が必要かもしれない。
しかし、全員を敵として扱えば接客は不自然になる。
表面上は明るく。
内側では冷静に。
以前より冗談を言うようになったことで、むしろ警戒を隠しやすくなっていた。
「奏斗君、肩どうしたの?」
常連の男性客に尋ねられる。
シャツの下の包帯は見えないが、動きのわずかな硬さに気づいたらしい。
「少し転びました」
「奏斗、嘘はよくないよ」
千束が横から口を挟む。
「事実をそのまま言えると思いますか?」
奏斗は小声で返す。
「じゃあ、私を庇って――」
「千束」
「はい」
「今日のおすすめを説明してください」
強引に話題を変える。
「今日のおすすめは、奏斗の負傷記念パフェ!」
「存在しません」
「今考えた」
「絶対に作らないでください」
常連客が楽しそうに笑う。
「仲がいいねぇ」
「千束が一方的に話を広げているだけです」
「奏斗も楽しそうじゃん」
「接客中なので笑顔です」
「営業用?」
「半分は」
「残り半分は?」
「千束が変なことを言うからです」
「また笑わせた!」
千束が得意そうにする。
奏斗は、否定せずに次のテーブルへ向かった。
◇
その日の営業時間は、特に異常なく終了した。
昨日来店した外国人男女も、日本人男性の仲間と思われる人物も現れなかった。
奏斗は閉店後、いつものようにエプロンを外そうとした。
「駄目!」
千束に止められる。
「何がですか?」
「今日はまだ店員」
「営業は終了しました」
「これから歓迎会だから」
「上着へ着替えてはいけない理由は?」
「雰囲気」
「抽象的ですね」
「歓迎される人は、店員らしい格好でいないと」
「誰が決めたのですか?」
「私」
「やはり」
奏斗は諦め、エプロンを着けたままにした。
店内では、テーブルの配置が変えられていた。
複数のテーブルを中央へ寄せ、料理を並べられるようにしている。
先生は厨房で準備中。
ミズキは冷蔵庫から酒を取り出していた。
「ミズキ、それ何本目?」
千束が尋ねる。
「まだ始まってもないわよ」
「でも、もう開けてるじゃん」
「料理を待つ間の一杯」
「それを飲み始めって言うんだよ」
「今日はめでたい日なんだからいいの」
「私の歓迎会ですよね?」
奏斗が言う。
「そうよ。だから私が飲むの」
「因果関係が分かりません」
「新しい店員が増えた喜びを、酒で表現してるのよ」
「普通に言葉で表現してください」
「ようこそ、奏斗君」
ミズキが缶を上げる。
「ありがとうございます」
「はい、表現した。これで飲める」
「最初から飲んでいましたよね?」
「細かいこと気にする男はモテないわよ」
「昨日、女性客から人気だと何度も言っていたのはミズキさんですが」
「言い返すようになったわね」
「千束の悪影響よ」
「良い影響!」
千束がすぐに訂正する。
奏斗は冷蔵庫からジュースを取り出した。
「奏斗、何飲む?」
「これで構いません」
「オレンジ?」
「はい」
「子供っぽい」
「千束も同じものを持っていますが」
「私は十六歳だから」
「私は十七歳です」
「一歳上ならコーヒーとか」
「夜に飲む必要はありません」
「じゃあ炭酸」
「なぜ飲み物で年齢を表現するのですか」
「大人っぽさ」
「ミズキさんの酒だけで十分です」
「奏斗君も飲む?」
ミズキが缶を差し出す。
「未成年です」
「冗談よ」
「ミズキ、それ本当に冗談?」
千束が疑わしそうに見る。
「当たり前でしょ」
「酔っ払いの言葉は信用できないなぁ」
「まだ酔ってないわよ!」
入口のベルが鳴る。
閉店後だが、鍵は開けてあった。
入ってきたのは、普段から店へ来る常連客たちだった。
年配の男性。
近所の女性。
若い会社員。
合わせて六人ほど。
「こんばんは」
「歓迎会、間に合った?」
「いらっしゃいませー!」
千束が大きな声で迎える。
「今日は貸し切りで、奏斗歓迎会でーす!」
「主役は本当にエプロン姿なんだね」
常連の女性が笑う。
「千束が脱ぐなと言うので」
「店員らしくて似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「ほら、私の判断正解!」
「結果論です」
常連客たちは慣れた様子で席についた。
先生が厨房から、大きな皿を持って現れる。
唐揚げ。
サンドイッチ。
温かいスープ。
サラダ。
小さなハンバーグ。
デザート用のケーキ。
次々にテーブルへ並べられる。
「先生、すごい!」
千束が目を輝かせる。
「奏斗の歓迎会なのに、千束が一番うれしそうね」
ミズキが言う。
「みんなで食べるんだから、私もうれしいよ」
「奏斗、好きなものある?」
「どれもおいしそうです」
「無難な答え」
「では、唐揚げです」
「奏斗は肉料理好きだもんね」
「覚えていたのですか?」
「もちろん!」
「自分に都合の良いことだけでは?」
「それ、前から言うよね」
「事実ですから」
先生が全員分の飲み物を準備する。
奏斗と千束はジュース。
常連客にはコーヒーや紅茶。
ミズキだけは酒。
「それでは」
先生が静かに口を開く。
「今日から正式に、喫茶リコリコの店員として働くことになった奏斗を歓迎したい」
「護衛任務の一環ですが」
奏斗が付け加える。
「今はそれ言わなくていいの!」
千束に腕を軽く叩かれる。
右腕なので問題ない。
「今日くらい普通に歓迎されてよ」
「歓迎されることを拒否しているわけではありません」
「じゃあ笑顔!」
奏斗は少しだけ笑う。
「これでいいですか?」
「もっと!」
「要求が多いですね」
「奏斗君、自然でいいよ」
常連の男性が笑う。
「千束ちゃんの言うとおりにしてたら、顔が疲れちゃう」
「そんなことないよ!」
「初日から何度も笑顔の練習をさせられました」
「ほら、大変だったんじゃない」
「でも、今は少し役に立っています」
奏斗が言うと、千束がうれしそうに振り返った。
「本当?」
「少しだけです」
「少しでも認めた!」
「全部千束のおかげとは言っていません」
「半分くらい?」
「三割」
「低い!」
「最初は一割と言おうと思いました」
「上げてくれたんだ」
「歓迎会なので」
「奏斗、優しい!」
「料理を食べる前に揉めないでくれる?」
ミズキが缶を持ち上げる。
「ほら、乾杯するわよ」
先生がグラスを持つ。
「奏斗。これからよろしく頼む」
「はい。よろしくお願いします」
「それじゃあ」
千束が勢いよくジュースを掲げた。
「奏斗のリコリコ加入を祝って、かんぱーい!」
「乾杯!」
グラスやカップが軽く触れ合う。
奏斗もジュースを一口飲んだ。
甘い。
「どう?」
千束がすぐに聞く。
「普通のオレンジジュースです」
「感想が真面目」
「では、歓迎の味がします」
一瞬の間。
千束が吹き出す。
「何それ!」
「感想を求められたので」
「奏斗、今日ふざけすぎじゃない?」
「千束に合わせています」
「私、そんなに変なこと言ってる?」
周囲の全員が黙った。
「何で誰も答えないの!」
店内に笑いが広がった。
◇
食事が進むにつれ、歓迎会はますますにぎやかになった。
千束は料理を取り分けながら、自分の皿にも大量に載せている。
「千束、それ全部食べられるの?」
常連の女性が尋ねる。
「余裕です!」
「奏斗君より多いじゃない」
「動くからお腹空くんだよ」
「奏斗ももっと食べなよ」
千束が唐揚げを奏斗の皿へ載せる。
「自分で取れます」
「歓迎される人は座ってて」
「千束も座っているでしょう」
「私は歓迎する側だから」
「座ったままでも歓迎できるのですね」
「便利でしょ」
さらにハンバーグが載せられる。
「多くありませんか?」
「奏斗、肉好きだから」
「確かに好きですが」
「遠慮しないで」
「遠慮ではなく、量の問題です」
「十七歳なら食べられる!」
「千束より食事量は少ないと思います」
「負けないよ!」
「勝負ではありません」
「どっちが多く食べられるか対決!」
「しません」
「逃げるの?」
「食事量で挑発しないでください」
ミズキが酒を飲みながら笑う。
「良いじゃない。負けた方が明日の掃除全部担当」
「急に実害が出ましたね」
「奏斗、やろう!」
「千束が掃除したくないだけでしょう」
「ばれた?」
「分かりやすすぎます」
結局、食事対決は行われなかった。
千束は少し残念そうだったが、すぐに別の遊びを提案した。
「ご飯のあとは、ゲーム大会!」
「備考に書いてあったものですね」
奏斗が言う。
「見たんだ」
「予定表に勝手に追加されていました」
「ちゃんと共有したよ」
「相談はされていません」
「サプライズ!」
「予定表に書いた時点で、サプライズではありません」
千束は棚からトランプとUNOを持ってきた。
「最初はババ抜き!」
「人数が多すぎない?」
常連の男性が尋ねる。
「多い方が楽しいよ」
「終わるまで時間かかるわよ」
ミズキはすでに二本目の酒を開けている。
「ミズキ、ちゃんとできる?」
「子供向けのゲームくらい余裕よ」
「酔っ払いが言ってもねぇ」
「酔ってないって言ってるでしょ!」
全員でテーブルを囲む。
先生は厨房の片づけが残っているため、最初は不参加だった。
カードが配られる。
奏斗は手札を確認する。
「奏斗」
「何ですか?」
「私の顔見ないでね」
「見ていません」
「カード読まないで」
「千束ではないので、表情だけで完全には読めません」
「完全には?」
「ある程度は分かります」
「じゃあ見ないで!」
「勝負なのに、相手へ制限を求めるのですか?」
「奏斗、急に勝負師になったね」
「千束から学びました」
「良い弟子!」
「都合の良い部分だけ認めますね」
ゲームが始まる。
千束は隣の常連客からカードを引く。
顔を見て、どのカードがババではないかを読もうとしている。
「千束ちゃん、顔を見るの禁止」
「えー」
「じゃんけんと同じことしてるでしょう」
「観察してるだけだよ」
「それを禁止してるの」
「勝負なのに!」
「さっき奏斗君に見るなって言ってたじゃない」
「私はいいの」
「駄目に決まってるでしょ」
千束は不満そうにカードを一枚引く。
ババではなかった。
「ほら、見なくても強い」
「偶然でしょう」
奏斗が言う。
「奏斗、今ババ持ってる?」
「持っていません」
「本当?」
「はい」
「顔が怪しい」
「普段と同じです」
「じゃあ持ってる」
「根拠が逆です」
数周後。
奏斗の手元には、最後の二枚が残った。
一枚は通常のカード。
もう一枚はババ。
隣は千束。
「どっちかなぁ」
千束が奏斗の顔を見る。
「見ない約束では?」
「もう終盤だから解禁」
「誰が決めたのですか?」
「私」
「知っていました」
奏斗は二枚のカードを差し出す。
片方だけ、ほんの少し高く見せる。
千束の視線がそのカードへ向く。
奏斗はあえて目元をわずかに動かした。
「こっち!」
千束が高く見せたカードを引く。
ババだった。
「えっ」
奏斗は残ったカードを手札の同じ数字と合わせて捨てる。
「上がりです」
「待って!」
「何ですか?」
「今、わざと顔動かした?」
「何のことでしょう」
「絶対誘導した!」
「千束が勝手に見て判断しただけです」
「卑怯!」
「観察力を使って勝とうとした人に言われたくありません」
常連客たちが笑う。
「奏斗君、やるね」
「千束への対策が分かってきました」
「奏斗!」
「次は見ない方がいいですよ」
「もう一回!」
「まだゲームは終わっていません」
千束はそのまま最後までババを持ち続けた。
最下位。
「納得いかない!」
「負けは負けです」
「奏斗が罠を仕掛けた!」
「有利な条件を利用しただけです」
「私みたいなこと言ってる!」
「店内で学びました」
「成長の方向が違うよ!」
「指導者の責任ですね」
「そこだけ私のせいにするの!?」
次はUNO。
先生も片づけを終え、途中から参加した。
「先生、強い?」
「普通だ」
「絶対強い人の言い方」
「何を根拠に」
「先生だから」
「説明になっていない」
カードが配られる。
ミズキは三本目の酒を飲み始めていた。
「ミズキ、ルール覚えてる?」
「当たり前よ」
「同じ数字か色を出すんだよ」
「子供扱いするな!」
最初の数巡は普通だった。
ミズキは順調にカードを減らしている。
「ほら、私が一番でしょ」
「まだ分からないよ」
千束がドロー二を出す。
「ミズキ、二枚!」
「何で私に出すのよ!」
「勝負だから」
「大人への敬意は?」
「ゲームに年齢は関係ない!」
奏斗がさらにドロー二を重ねる。
「四枚ですね」
「奏斗君まで!?」
「勝負ですので」
「真面目な顔で何してるのよ!」
「千束から、全力で勝つよう教わりました」
「私の弟子!」
「今だけ認めるのね」
ミズキは文句を言いながらカードを引く。
少しすると、酔いが回ってきたのか判断が怪しくなり始めた。
「赤の五!」
「今、青です」
奏斗が指摘する。
「数字が五だからいいのよ」
「同じ数字なら出せますが、それは六です」
「似たようなものよ」
「全然違うよ、ミズキ」
千束が笑う。
「眼鏡ずれてるから見えないんじゃない?」
「ずれてない!」
「ちょっとずれてる」
「奏斗君まで言わないで!」
「事実です」
ミズキは眼鏡を直し、カードを見直す。
「これは五」
「九です」
「逆から見れば六!」
「五ではありません」
「細かいわねぇ」
「UNOで数字を無視すると、ゲームが成立しません」
店内は笑い声で満たされていた。
奏斗も、気づけば普通に笑っていた。
勤務中に作る笑顔ではない。
警戒を隠すためのものでもない。
ただ、ミズキの酔った言動と、千束の容赦のない攻撃が面白かった。
「奏斗、今すっごく笑ってる」
千束が指さす。
「笑っていません」
「いや、笑ってるよ」
「ミズキさんのカードが上下逆だったので」
「私のせいにするな!」
「事実です」
「奏斗君、最初に会ったときよりずいぶん明るくなったね」
常連の女性が言う。
「そうでしょうか」
「前はもう少し静かだったよ」
「千束ちゃんの影響?」
「半分くらいは」
奏斗が答える。
千束が目を輝かせる。
「半分も?」
「残り半分は、ミズキさんの酔い方が面白いからです」
「奏斗君!」
「本人へ言う?」
「聞かれたので」
「私、面白くないわよ!」
ミズキが立ち上がろうとする。
椅子が少し揺れた。
「危ない」
奏斗が腕を伸ばし、ミズキの肩を支える。
「ほら、酔ってるじゃん」
千束が言う。
「酔ってない!」
「立てる?」
「余裕よ」
ミズキは一歩進み、すぐに椅子へ戻った。
「今日は椅子が動くわね」
「動いてるのはミズキだよ」
「床が傾いてるの」
「店のせいにしないでください」
奏斗が言うと、また笑いが起きる。
◇
UNOを何度か繰り返した頃には、ミズキは完全に酔い潰れていた。
テーブルへ頬をつけたまま、手にはカードを握っている。
「ミズキの番だよ」
千束が声をかける。
「……赤」
「色を言うだけじゃ駄目」
「赤い人生……」
「何それ」
「結婚……」
「急に重い!」
常連客たちが笑いながらも、少し同情したような顔をする。
「ミズキさん、寝かせた方がいいのでは?」
奏斗が尋ねる。
「いつものことだから大丈夫」
千束は慣れた様子だった。
「いつも店で潰れるのですか?」
「たまに」
「十分問題だと思います」
「明日になったら反省するよ」
「反省してるところ見たことないけどね」
先生が静かに言う。
「先生まで厳しい!」
寝ているはずのミズキが反応する。
「起きてるじゃん」
「寝てる……」
「器用ですね」
奏斗が言う。
ゲームは続行不能になり、自然と雑談へ変わった。
常連客たちは料理をつまみながら、奏斗へいろいろな質問をした。
「奏斗君は学校に通ってるの?」
「一応、所属先で必要な教育を受けています」
「一応?」
「少し特殊なので」
「この店で働きながら大変じゃない?」
「今のところ問題ありません」
「千束ちゃんに振り回される方が大変そうね」
「それには慣れてきました」
「奏斗!」
「良い意味です」
「今、後からつけたでしょ」
「気のせいです」
常連の年配男性が、奏斗と千束を交互に見た。
「二人は、前から知り合いだったのかい?」
「少し前に知り合ったばかりだよ」
千束が答える。
「最初はお客さんだったの」
「パフェを食べに来ました」
奏斗も続ける。
「千束ちゃんに誘われた?」
「最初は偶然です」
「二回目からは?」
「パフェを食べに」
「本当に甘いものが好きなんだね」
「はい」
奏斗はもう隠さない。
「千束ちゃんと好みも合うんじゃない?」
「千束は、甘いものなら何でも食べると思います」
「奏斗もでしょ」
「私は一応、順位があります」
「一位はチョコレートパフェ!」
千束がすぐに答える。
「二位は抹茶」
「よく覚えてるね」
常連の女性が笑う。
「奏斗の好みは、指導者として把握してます」
「指導と関係ありません」
「まかない選びに大事」
「それなら千束が決めることではありません」
「私が先生に言う」
「結局関わるのですね」
二人のやり取りを見ていた若い常連客が、ふと尋ねた。
「二人って、付き合ってるの?」
奏斗と千束の動きが同時に止まった。
「え?」
千束が目を丸くする。
「交際しているのですか、という意味ですか?」
奏斗が確認する。
「ほかにどういう意味があるのよ」
若い客が笑う。
「だって仲良いし、ずっと一緒にいるでしょう?」
「一緒にいるのは護――」
奏斗は言いかけて止まる。
「勤務時間が同じだからです」
「今、何か違うこと言おうとした?」
「何も」
千束が奏斗を見る。
奏斗も千束を見る。
「付き合ってないよ!」
「交際していません」
二人がほぼ同時に否定した。
常連客たちから、面白がるような声が上がる。
「息ぴったりじゃない」
「違うってば!」
千束が少しだけ声を大きくする。
「奏斗はただの店員!」
「千束は護衛対象――」
奏斗は再び止まる。
「同僚です」
「今、また違うこと言いかけたよね?」
「店員仲間!」
千束が言い直す。
「そう。仲間」
奏斗も答える。
「それに、まだ知り合ってそんなに経ってないし」
「期間の問題なの?」
常連の女性が尋ねる。
「そういう意味じゃなくて!」
千束が少し慌てる。
普段は相手へ強く出る千束が、予想外の方向から押されている。
奏斗はその様子を見て、少しだけ面白くなった。
「千束、顔が赤いですよ」
「赤くない!」
「少し赤いね」
常連客も同意する。
「暑いだけ!」
「店内温度は適切です」
奏斗が真面目な顔で言う。
「奏斗、味方してよ!」
「事実を言っただけです」
「こういうときだけ真面目に戻る!」
「私も交際していないと否定しました」
「じゃあもう終わり!」
千束はジュースを一気に飲む。
「奏斗も赤いんじゃない?」
別の客が尋ねる。
「照明の影響です」
「落ち着いてるねぇ」
「奏斗はこういうの強いんだよ」
千束が少し不満そうに言う。
「そうでもありません」
「じゃあ照れてる?」
「その質問に答える必要がありますか?」
「ほら、逃げた」
「千束も逃げたでしょう」
「私は否定した!」
「私も否定しました」
「じゃあ同じだね」
「そうですね」
二人でうなずく。
常連客たちはますます楽しそうに笑っていた。
「今は付き合ってない、ってことで」
「今は、も必要ありません」
奏斗が訂正する。
「そう! ただの仲間!」
千束も強く言う。
その横で、ミズキが顔を上げた。
「付き合っちゃえばぁ……?」
「ミズキ!」
千束が叫ぶ。
「お似合いよぉ……」
「寝てて!」
「私は応援するわぁ……」
「何を応援してるの!」
ミズキは再びテーブルへ顔を伏せた。
「……結婚……」
「自分の心配して!」
店内が大きな笑いに包まれた。
奏斗も耐えきれず笑った。
「奏斗まで笑わないで!」
「ミズキさんが急に自分の問題へ戻ったので」
「笑ってる場合じゃないよ!」
「千束も笑っています」
「私は困ってるの!」
「楽しそうに見えますが」
「奏斗!」
千束がトランプの箱を投げるふりをする。
奏斗はわざと身を引いた。
「傷があるので、物を投げないでください」
「あっ」
千束の手が止まる。
「ずるい!」
「何がですか?」
「傷を盾にした!」
「有効活用です」
「そういう冗談言うようになったね!」
「千束から学びました」
「良いのか悪いのか分からない!」
笑いはなかなか収まらなかった。
◇
夜が深くなると、常連客たちは一人ずつ帰っていった。
「楽しかったよ、奏斗君」
「また一緒に遊ぼうね」
「次は負けないから」
「こちらこそ、ありがとうございました」
奏斗は一人ずつ扉まで見送った。
千束も横で大きく手を振る。
「また来てねー!」
「明日も来るよ」
「待ってまーす!」
最後の客が帰る。
店内には、先生、千束、奏斗、そしてテーブルへ突っ伏したミズキが残った。
「ミズキ、起きて」
千束が肩を揺らす。
「……奏斗君、千束をよろしくぅ」
「何をですか」
「全部……」
「雑すぎるよ!」
ミズキは起きない。
先生が穏やかなため息をつく。
「奥へ運ぼう」
「先生、足大丈夫?」
「問題ない」
「私が運びます」
奏斗が言う。
「肩怪我してるでしょ」
千束がすぐに止める。
「右腕は使えます」
「人一人は重いよ」
「ミズキさんが聞いたら怒りますよ」
「寝てるから大丈夫」
「聞こえてるわよぉ……」
ミズキが弱々しく反応する。
「起きてるなら歩いて!」
「無理ぃ……」
結局、先生と千束がミズキを支えて奥へ運んだ。
奏斗は残った食器を片づける。
料理の皿。
ジュースのグラス。
散らばったUNOのカード。
トランプ。
歓迎会のあとらしい、少し乱れた店内。
任務拠点では見ない光景だった。
「奏斗」
千束が戻ってくる。
「何ですか?」
「今日は楽しかった?」
奏斗はトランプを箱へ戻しながら答える。
「はい」
今回は、言葉を濁さなかった。
「本当?」
「本当です」
「パフェ食べたときくらい?」
「比較対象がおかしくありませんか?」
「どっちが上?」
「難しい質問ですね」
「真剣に考えてる」
奏斗は少しだけ考えるふりをする。
「パフェです」
「えー!」
「冗談です」
千束が目を丸くする。
そのあと、すぐに笑った。
「奏斗が自分から冗談言った!」
「歓迎会なので」
「今日だけ?」
「状況によります」
「明日も言ってよ」
「要求されて言うものではありません」
「じゃあ自然に」
「努力します」
「冗談を努力する人、初めて見た」
「千束が求めるので仕方なく」
「本当は楽しいんでしょ?」
「何がですか?」
「私たちと話すの」
奏斗は手を止める。
千束は、からかうような顔ではなかった。
いつもの明るい笑顔。
でも、少しだけ真剣に答えを待っている。
「楽しいですよ」
奏斗は静かに答えた。
「店で働くことも?」
「それなりに」
「それなり?」
「かなり、と言うと千束が調子に乗るので」
「もう乗った!」
「遅かったですね」
「じゃあ、これからもよろしくね。奏斗店員」
「こちらこそ」
「護衛だからじゃなくて?」
「店員としても」
千束の笑顔が少し大きくなる。
「よし!」
「また何かに勝ったのですか?」
「奏斗の固い心」
「勝手に戦わないでください」
「最初より柔らかくなったよ」
「肩の傷とは関係ありませんよね?」
「心の話!」
「分かっています」
奏斗は笑う。
千束も笑った。
数時間前まで、奏斗は上層部と外国組織について話していた。
元自衛官。
行方不明者。
日本人協力者。
店内への潜入。
敵の不明な意図。
この店も、もう安全ではない。
今も窓の外から誰かが見ている可能性はある。
奏斗は無意識に、閉じられたカーテンへ視線を向けた。
「気になる?」
千束が尋ねる。
「何がですか?」
「外」
「念のためです」
「今日は誰もいないと思うよ」
「根拠は?」
「楽しい日だから」
「敵は歓迎会の日程を考慮しません」
「夢がないなぁ」
「昨日と同じことを言っていますね」
「奏斗が現実的すぎるから」
「警戒は必要です」
「分かってるよ」
千束はカーテンへ近づき、隙間から外を見る。
「でも、今日は大丈夫」
「見えますか?」
「誰もいない」
「見えていない位置にいる可能性は?」
「もう」
千束が振り返る。
「奏斗も、少しくらい楽しい気持ちのまま帰ろうよ」
「警戒しながら楽しい気持ちを維持することはできます」
「できるの?」
「今、できています」
奏斗が答えると、千束は少し驚いた顔をした。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、よかった」
千束は満足そうにうなずく。
店内の片づけを終える。
先生は奥でミズキの様子を見ている。
今夜、千束はこのまま先生と一緒にセーフハウスへ戻る予定だった。
奏斗も途中まで護衛として同行する。
「奏斗」
「何ですか?」
「歓迎会、またやろうね」
「歓迎会は一度で十分では?」
「次は奏斗の制服完成祝い」
「まだ準備中ですね」
「その次は、勤務一週間記念」
「毎週行うつもりですか?」
「一か月記念も」
「記念日が多すぎます」
「百日記念!」
「数えるのですか?」
「私、記憶力いいから」
「自分に都合の良いことだけですね」
「それ、今日何回目?」
「事実は何度でも言います」
「じゃあ次は、奏斗が笑うようになった記念日」
「いつですか、それは」
「今日!」
「勝手に制定しないでください」
「七月――」
「覚えなくていいです」
「でも今日は大事な日だよ」
千束は笑った。
「奏斗が、リコリコで普通に笑った日」
「以前も笑っています」
「今日が一番いっぱい笑った」
「ミズキさんのおかげですね」
「私のおかげでもあるでしょ?」
「三割」
「少ない!」
「では四割」
「歓迎会だから?」
「はい」
「もっと上げて」
「交渉制なのですか?」
「五割!」
「分かりました。五割で」
「やった!」
千束が両手を上げる。
「それでいいのですか?」
「半分は私のおかげってことでしょ?」
「残り半分は、ミズキさんと常連客と料理です」
「先生の料理は強いから仕方ないね」
千束は納得したようだった。
奏斗は笑いながら、店の照明を一つ落とした。
外には、夜の街が広がっている。
見えない敵。
分からない意図。
警戒すべきことは多い。
明日になれば、また普通の客へ紛れた誰かが店へ入ってくるかもしれない。
それでも今夜だけは、店内に残る笑い声の余韻を無理に消す必要はない。
警戒と楽しさは、両立できる。
千束が言っていたことを、そのまま認めるつもりはない。
だが。
奏斗は以前より少しだけ、そう思えるようになっていた。