リリベルの国内活動拠点は、地上から見れば何の変哲もないオフィスビルだった。
ガラス張りの正面玄関。
受付。
入居企業の名前が並ぶ案内板。
朝になればスーツ姿の人間が出入りし、配送業者が荷物を運び込む。
その地下に、武器庫や作戦室、訓練区画が存在することを知る者は少ない。
押村奏斗は認証を通過し、地下二階の廊下を歩いていた。
喫茶リコリコでの勤務を終えてから、まだ数時間しか経っていない。
今日は夜間任務が予定されている。
錦木千束が担当する、誘拐計画を企てている犯罪グループの拘束。
奏斗は護衛として同行する。
対象となる犯罪グループは五人。
保有する武器は拳銃が数丁。
戦闘経験はほとんどない。
DAから共有された資料だけを見るなら、千束一人で十分に処理できる任務だった。
むしろ、千束へ割り当てるには簡単すぎる。
「奏斗」
背後から声をかけられた。
振り返る。
少し離れた場所に、同年代の少年が立っていた。
短く整えられた黒髪。
細身だが、無駄なく鍛えられた体。
任務服ではなく、訓練用の黒いシャツとパンツを着ている。
「蒼士」
「やっぱりお前か」
少年――久世蒼士は、片手を上げながら近づいてきた。
奏斗と同じリリベル。
訓練期から行動を共にすることが多く、現在も比較的近い関係にある。
リリベル同士で友人という言葉を使う者は少ない。
だが、奏斗が仲の良い人物を一人挙げろと言われれば、蒼士の名前を出す。
「久しぶりですね」
「三日前に会っただろ」
「拠点内ですれ違っただけです」
「目が合って、会釈もした」
「会話はしていません」
「細かいな」
蒼士は奏斗の肩へ視線を向けた。
「傷、もういいのか?」
「問題ありません」
「錦木千束を庇ったんだってな」
「どこから聞いたのですか?」
「医療班。お前が女を庇って撃たれたって話が広がってる」
「表現に悪意がありますね」
「事実だろ」
「護衛対象を移動させるため、射線へ入りました」
「女を庇って撃たれた」
「言い方が違うだけで、意味は同じでは?」
「俺の言い方の方が面白い」
蒼士は口元を上げた。
「喫茶店で働いてるって話も本当か?」
「本当です」
「エプロン着けて?」
「制服の準備が間に合っていないためです」
「写真は?」
「ありません」
「撮ってこいよ」
「なぜですか?」
「面白いから」
「任務中の服装です」
「喫茶店のエプロンだろ」
「店員として不自然でない格好をする必要があります」
「お前が真顔でパフェ運んでるところ、見てみたいな」
「今は普通に接客しています」
「普通に?」
蒼士が少し意外そうな顔をする。
「笑うのか?」
「必要であれば」
「営業用か」
「それだけではありません」
答えてから、奏斗は余計なことを言ったと思った。
蒼士の目が細くなる。
「へえ」
「何ですか?」
「女に現を抜かすなよ」
「抜かしていません」
「反応が早い」
「事実ではないからです」
「錦木千束って、噂どおり美人なんだろ?」
「判断する必要がありません」
「毎日一緒にいるのに?」
「護衛対象です」
「店員仲間でもある」
「任務上です」
「撃たれたあと、心配された?」
奏斗は少し黙った。
翌朝、店へ入った瞬間に上着を脱げと言われた。
傷を確認すると騒がれ、トレイを持てるか試された。
歓迎会でも何度も肩を気にされた。
「何だ、その間」
「必要以上に心配されました」
「うれしかった?」
「迷惑でした」
「口元、少し笑ってるぞ」
奏斗は無意識に表情を戻した。
「笑っていません」
「分かりやすくなったな、お前」
「蒼士に言われたくありません」
「俺は昔から分かりやすい」
「自覚があるなら直してください」
「嫌だね」
蒼士は壁へ背を預ける。
「で、今日は何の用だ?」
「用があるとは言っていません」
「お前、俺を見つけた瞬間に何か考えただろ」
「顔に出ていましたか?」
「付き合い長いから分かる」
蒼士は軽い口調で言ったが、目は奏斗をまっすぐ見ていた。
普段は冗談が多い。
しかし、任務になると判断が早く、周囲を見る力も高い。
だからこそ、頼みたいことがあった。
「少し、時間はありますか?」
「今から訓練だったけど、十分くらいなら」
「場所を変えましょう」
「面倒な話か?」
「聞かれたくありません」
蒼士の表情から笑みが消える。
「分かった」
二人は人の少ない資料保管区画へ移動した。
監視カメラの死角ではない。
拠点内で完全に監視を避けることは難しい。
それでも、音声を拾われにくい場所はある。
蒼士は壁際へ立ち、腕を組んだ。
「それで?」
奏斗はすぐには答えなかった。
今夜の任務資料。
簡単すぎる内容。
最近起きた襲撃。
外国組織。
日本人協力者。
店内へ潜入していた元自衛官。
そして、護衛がいることを理解したうえでの攻撃。
何かが噛み合っていない。
「頼みがあります」
「珍しいな」
「内容については、誰にも話さないでください」
「上層部にも?」
「はい」
蒼士の目が少しだけ鋭くなる。
「規則違反になる可能性があるぞ」
「承知しています」
「それでも頼む?」
「必要です」
奏斗は声を落とし、依頼の内容を伝えた。
蒼士は途中で口を挟まなかった。
最後まで聞き終えると、しばらく黙って奏斗を見た。
「本気か?」
「はい」
「お前、思ったより錦木千束に入れ込んでるな」
「そういう話ではありません」
「護衛対象のために、上層部へ隠れて俺を動かすんだろ」
「私たち自身の安全確認でもあります」
「私たち、ね」
「言葉尻を拾わないでください」
蒼士は小さく笑った。
「分かった」
「引き受けるのですか?」
「お前がここまで言うならな」
「危険な場合は、無理に介入する必要はありません」
「頼んでおいてそれかよ」
「監視が目的です」
「了解」
蒼士は壁から背を離した。
「ただし、一つ貸しな」
「内容によります」
「今度、その喫茶店でパフェ奢れ」
「それだけですか?」
「エプロン姿で運んでこい」
「断ります」
「じゃあ引き受けない」
「……勤務中であれば、通常どおり接客します」
「よし」
「脅迫に近いですね」
「友人価格だ」
蒼士は軽く手を振る。
「女に現を抜かすなよ、奏斗」
「まだ言うのですか?」
「危なくなったら呼べ」
「そのために頼みました」
「そうだったな」
蒼士は笑いながら去っていった。
その背中を見送り、奏斗は端末を取り出した。
今夜の任務開始時刻。
二十二時。
集合地点は、対象グループのアジトから約一キロ離れた場所。
奏斗は画面を閉じた。
何も起きなければ、それでいい。
自分の考えすぎだったと分かるだけだ。
だが、もし何かが起きれば。
自分と千束だけでは見えないものを、蒼士が見つける。
◇
夜。
指定された集合地点に着くと、千束はすでに待っていた。
暗い色の上着。
その下にはリコリスの赤い制服。
肩に鞄をかけ、壁へ寄りかかりながら端末を見ている。
「お待たせしました」
奏斗が声をかけると、千束が顔を上げた。
「奏斗、遅い!」
「集合時刻の三分前です」
「私は十分前に来たよ」
「早く来た千束の基準へ合わせないでください」
「護衛なら先に待ってないと」
「護衛対象が勝手に早く来たのでしょう」
「細かいなぁ」
千束は端末を鞄へ入れる。
「肩は?」
「問題ありません」
「本当に?」
「昼間、トレイも持ちました」
「それは見てた」
「では聞く必要がありません」
「夜は冷えるから痛くなるかも」
「母親ですか?」
「護衛対象です」
「立場が逆です」
千束が笑う。
「今日の任務、簡単そうだね」
「資料上は」
「五人でしょ?」
「はい。誘拐計画を立てていますが、現時点で被害者は出ていません」
「計画段階で止められるならいいよね」
「拘束後、警察へ引き渡されます」
「奏斗は見てるだけ?」
「護衛が優先です」
「また遠くから応援してくれる?」
「必要なら」
「今日は簡単だから、応援だけでいいよ」
「頑張ってください」
「軽いなぁ」
「では、千束なら五分で終わります」
「おっ、期待されてる」
「七分を超えたら減点です」
「私が採点される側になった!」
「たまにはいいでしょう」
「何点満点?」
「百点です」
「普通だね」
「千束のように毎回変えません」
「百二十点取ったら?」
「上限を超えています」
「特別賞」
「何もありません」
「パフェ!」
「なぜ私が奢るのですか」
千束は楽しそうに歩き始める。
奏斗は半歩後ろへついた。
周囲に蒼士の姿はない。
当然だった。
監視していることを千束にも知らせていない。
千束に隠す必要はないかもしれない。
しかし、普段どおりの行動をしてもらうためには、知らない方がいい。
対象のアジトは、使われなくなった小規模な物流倉庫だった。
住宅地から少し離れた場所。
周囲には同じような倉庫が並んでいる。
夜になると人通りはほとんどない。
奏斗は建物へ近づきながら、窓や屋上、周囲の車両を確認した。
「人の気配、少ないね」
千束が小声で言う。
「資料では、全員が内部にいる予定です」
「寝てるとか?」
「誘拐計画の打ち合わせ中と聞いています」
「静かすぎない?」
「はい」
建物の前に車両が二台。
ナンバーは資料と一致している。
しかし、車内に人はいない。
運転席の温度も、長時間停車した車両と変わらない。
先ほどまで使われていた様子はなかった。
「裏から入る?」
千束が尋ねる。
「正面入口の施錠は解除されています」
「開いてるの?」
「はい」
「待ってました、って感じだね」
「そのようにも見えます」
千束の表情から笑みが少し薄れる。
「罠かな」
「可能性があります」
「でも入らないと分かんないよね」
「私が先に入ります」
「護衛だから?」
「警戒のためです」
「私が前」
「千束」
「私は避けられるよ」
「前回も同じことを言っていましたね」
「今回はちゃんと警戒してる」
「私が先です」
「じゃあ一緒」
「横に並ぶと射線が広がります」
「奏斗、頑固」
「千束にだけは言われたくありません」
結局、奏斗が半歩前へ出る形で入口へ近づいた。
拳銃を抜く。
千束も鞄から銃を取り出す。
奏斗が扉の横へ立ち、ゆっくりと押す。
扉は抵抗なく開いた。
内部は暗い。
奥に弱い照明が一つだけ点いている。
荷物のない倉庫。
広い床。
壁際に古い棚と机。
人影はない。
「誰もいないね」
千束が小声で言う。
「音もありません」
「情報、間違ってた?」
「可能性は低いです」
「どうして?」
「対象の車両が外にあります。移動したのであれば、別の手段を使ったことになります」
「先に逃げたとか」
「DAの情報が漏れた?」
「それも考えられます」
奏斗は内部へ入りながら、天井と床を見る。
監視カメラ。
配線。
不自然な装置。
見える範囲にはない。
「五分で終わる任務じゃなくなったね」
千束が言う。
「まだ二分です」
「採点続いてたの?」
「減点対象です」
「情報が違うのは私のせいじゃないよ!」
「任務では結果がすべてです」
「昼間の私みたいなこと言ってる」
「店で学びました」
軽口を交わしながらも、二人の視線は周囲を警戒していた。
奥の机には、紙コップが五つ。
食べかけの弁当。
吸い殻。
人がいた痕跡はある。
だが、食事は乾き始めている。
少なくとも数時間前から放置されていた。
「打ち合わせ中って情報、いつのもの?」
千束が尋ねる。
「一時間前に更新されています」
「じゃあおかしいね」
「はい」
情報源が誤っていた。
あるいは、意図的に誤った情報を流した。
DAの情報網が外部から操作された可能性。
内部の人間が嘘を伝えた可能性。
奏斗は入口を振り返る。
「一度、外へ出ます」
「同意」
二人が入口へ向きを変えた瞬間。
金属が落ちるような音が響いた。
入口上部から、厚いシャッターが一気に下りる。
「奏斗!」
千束が走る。
だが、間に合わない。
シャッターが床へ叩きつけられ、出入口を完全に塞いだ。
鈍い音が倉庫内へ響く。
同時に、唯一点いていた照明が消えた。
暗闇。
奏斗はすぐに千束の位置を確認する。
「千束」
「ここ!」
銃声。
右方向。
奏斗は音より先に床へ体を沈めた。
弾丸がすぐ横を通過する。
千束も反対側へ跳ぶ。
二人は別々の遮蔽物へ入った。
「敵、右奥!」
「確認しました」
暗視機能を起動する。
視界が緑色へ変わる。
倉庫の奥。
フードをかぶった人物が四人。
全員が黒い服。
顔は覆われている。
拳銃、短機関銃、ナイフ。
さらに、服の下が不自然に厚い。
防弾装備。
「最初から待ってたね」
千束の声。
「私たちを内部へ誘導した」
「誘拐グループは?」
「存在しない可能性があります」
「DAの情報ごと罠?」
「その可能性が高いです」
敵が二方向へ分かれる。
奏斗と千束を挟む動き。
訓練されている。
「左、二人行きます」
「了解!」
千束が遮蔽物から飛び出す。
敵の銃口が動く。
発砲。
千束は弾道を読み、体を左右へ滑らせながら走る。
非致死弾を三発。
一人の胸部へ命中。
しかし、敵はほとんど体勢を崩さない。
「硬い!」
「防弾仕様です!」
奏斗も右側の敵へ発砲する。
肩。
腹部。
胸。
弾丸は装備へ食い込み、多少の衝撃は与える。
だが、動きを止めるには足りない。
敵は痛みを無視するように前進してくる。
「頭部か関節を狙います!」
「殺すのは駄目!」
「今、議論する状況ですか?」
「足撃って!」
「動きが止まりません!」
奏斗が敵の膝へ撃つ。
命中。
敵が片膝をつく。
だが、すぐに立ち上がった。
防弾素材が脚部にまで入っている。
「全身?」
「通常装備ではありません!」
敵の一人が短機関銃を連射する。
奏斗は棚の陰へ飛び込む。
金属板が弾丸でえぐられる。
千束は机を蹴り倒し、盾として使う。
その陰から手だけを出し、敵の腕を狙う。
一発が手首へ命中。
拳銃が落ちる。
しかし、敵は反対の手でナイフを抜いた。
「しつこいなぁ!」
千束が後退する。
敵は千束との距離を詰める。
奏斗は射線を作ろうと位置を変える。
別の二人が、その動きを遮る。
明らかに連携していた。
千束と奏斗を分断する。
そして、千束を拘束するためではなく。
奏斗を千束から引き離すように。
「千束、こちらへ!」
「行けない!」
敵二人が千束の前後へ回る。
一人が銃撃。
もう一人が接近。
千束は弾丸を避けながら、接近した敵の腕を取る。
体を回し、投げようとする。
だが、敵の装備が重く、完全には崩れない。
逆に腕をつかまれる。
「っ!」
千束が肘を打ち込む。
敵の顎へ入る。
それでも離さない。
もう一人が背後から千束の首へ腕を回す。
「千束!」
奏斗が銃を向ける。
目の前の敵が体を入れ、射線を塞ぐ。
奏斗はその敵の頭部へ狙いを移す。
引き金を引く直前。
敵が腕を上げた。
弾丸が前腕の防弾板へ当たる。
「対策されていますね」
敵は答えない。
フードの奥から目だけが見える。
冷静。
感情がない。
奏斗の射撃方法を知っている。
動きも、判断も。
まるで事前に映像を何度も見たように。
「奏斗!」
千束の声。
見る。
千束は背後から拘束され、腕をひねり上げられていた。
銃は床へ落ちている。
首元へナイフ。
敵の一人が、そのまま千束を盾にして後退した。
「動くな」
初めて敵が言葉を発した。
日本語。
声は加工されている。
「銃を下ろせ」
奏斗は動かなかった。
銃口は敵へ向けたまま。
しかし、撃てない。
敵の頭部は千束のすぐ横。
装備の隙間を狙っても、わずかにずれれば千束へ当たる。
千束なら、撃つ瞬間に動きを合わせられるかもしれない。
だが、敵のナイフは首元に触れている。
一瞬でも判断を誤れば、切られる。
「奏斗、私なら大丈夫」
「黙っていろ」
敵が千束の首へナイフを押しつける。
皮膚がわずかに切れ、赤い線が浮かんだ。
奏斗の指が引き金へかかったまま止まる。
「武器を捨てろ」
敵が言う。
「拒否した場合は?」
「女を殺す」
「私を殺したあと、どうするつもりですか?」
「質問する立場ではない」
「千束を殺せば、あなたたちもここから出られない」
「出る必要はない」
奏斗は敵の位置を確認する。
四人。
千束を拘束している一人。
その横に一人。
奏斗の左右に二人。
入口は閉鎖。
ほかの出口は、資料上存在しない。
天井に換気口。
狭い。
人が通れる大きさではない。
蒼士はどこにいる。
監視を頼んだ。
外から状況を見ているはずだ。
だが、シャッターが下りた。
内部の映像までは確認できない可能性がある。
「奏斗」
千束が静かに呼ぶ。
「撃ってもいいよ」
「何を言っているのですか」
「私なら避ける」
「首に刃があります」
「タイミング合わせるから」
「駄目です」
奏斗は即答した。
敵が小さく笑う。
「護衛対象を撃つ危険は取れないか」
「何が目的ですか?」
「お前だ」
その言葉に、奏斗の目がわずかに動いた。
「千束ではなく?」
「その女は餌だ」
千束の表情が変わる。
敵は続けた。
「押村奏斗。銃を捨てろ」
「目的を説明してください」
「必要ない」
「私を殺すなら、今撃てばいい」
「お前が自分で死ね」
奏斗は敵を見た。
「何を言っているのですか?」
「お前が死ねば、女は助けてやる」
倉庫内が静かになる。
敵の銃口。
千束の首元の刃。
奏斗の左右にいる二人。
誰も動かない。
「信用できると思いますか?」
「信じる必要はない」
「では、応じる理由もありません」
「応じなければ、女はここで死ぬ」
ナイフがわずかに動く。
千束の首から血が一筋落ちた。
「奏斗、聞かなくていい」
「黙れ」
敵が千束の腕をさらにひねる。
千束が小さく息を漏らす。
奏斗の思考が高速で動く。
敵の目的は自分。
千束は餌。
それが本当なら、これまでの襲撃も見方が変わる。
元自衛官の男。
背後から千束へ銃を向けた。
自分が庇うことを予想していた。
反応を見るため。
今回の罠。
千束へ割り当てられた簡単すぎる任務。
DAの情報。
敵の装備。
奏斗の射撃への対策。
すべて、自分を誘い出すため。
だが、なぜ。
自分はリリベルの一人にすぎない。
特別な地位はない。
国外組織へ大きな損害を与えたこともない。
千束の護衛を始める以前、彼らとの接点はほとんどなかった。
「どうする」
敵が問う。
奏斗は自分の拳銃を見る。
武器を捨てる。
そのあと、自分で死ぬ。
方法は何でもいいのか。
敵はどう確認する。
銃口を自分へ向けることを求めるのか。
その瞬間なら、反撃できる可能性がある。
だが、敵は四人。
一人を撃っても、千束へナイフが入る。
護衛対象の生命を最優先。
その原則に従えば。
自分の命と千束の命を比較する必要はない。
護衛役が死に、対象が助かるなら、選択は明確だ。
問題は、敵が約束を守る保証がないこと。
奏斗が死んだあと、千束も殺される可能性が高い。
しかし、拒否すれば今この場で殺される。
「奏斗」
千束が言う。
「変なこと考えないで」
「考えていません」
「嘘」
「黙っていてください」
「嫌だ」
敵のナイフが動く。
「話すな」
「奏斗、私のために死んだら怒るから」
「今、怒る内容ですか?」
「一生怒る」
「私が死んだら聞こえません」
「そういう冗談いらない!」
千束の声が強くなる。
奏斗は少しだけ口元を緩めた。
こんな状況でも、千束は千束だった。
「安心してください」
「何を?」
「勝手に死ぬつもりはありません」
敵が銃口を上げる。
「なら、女が死ぬ」
「ただし」
奏斗は続ける。
「護衛対象を守るために、必要な判断はします」
「奏斗!」
千束の声。
奏斗は敵の配置をもう一度確認した。
自分が銃を床へ置く。
敵が少し注意を緩める。
その瞬間、足元の銃を蹴り上げ、近くの敵へ接近。
千束が同時に動ければ。
成功率は低い。
千束が刃を避けられる保証はない。
自分だけなら実行する。
しかし今はできない。
「銃を置け」
奏斗はゆっくりと腕を下げた。
「奏斗、駄目」
「千束」
「駄目だから」
「少し静かにしてください」
「嫌だって言ってる!」
「聞こえません」
「絶対聞こえてる!」
奏斗はしゃがみ、拳銃を床へ置こうとする。
敵全員の視線が、その動きへ集中した。
その瞬間。
倉庫の天井付近から、破裂音が響いた。
照明が一斉に点灯する。
暗視機器へ強い光が入り、敵の一人が顔をそむけた。
「何だ!」
続いて、倉庫奥の高窓が割れる。
細い黒い影が内部へ飛び込んだ。
着地。
即座に発砲。
一発目が、千束を拘束していた敵の手首へ当たる。
防弾板の隙間。
ナイフが落ちる。
二発目。
その敵の膝裏。
装備で覆われていない部分。
敵が崩れる。
「千束、伏せろ!」
聞き慣れた声。
久世蒼士。
千束は迷わなかった。
拘束が緩んだ瞬間、体を沈める。
敵の腕から抜け、床へ転がった。
奏斗は置きかけた拳銃を掴み直す。
目の前の敵へ接近。
銃口を向ける前に、腕を払い上げる。
肘。
喉。
膝。
三連続で打ち込み、敵の体勢を崩す。
防弾装備は銃弾には強い。
だが、関節と呼吸までは守れない。
敵が後退する。
奏斗は足元を撃つ。
弾丸が靴と床の間へ入り、敵が倒れた。
「蒼士、右!」
「見えてる!」
蒼士が振り向かずに答える。
背後から接近した敵へ、後ろ向きのまま一発。
手首へ命中。
短機関銃が落ちる。
「何者?」
千束が床の銃を拾いながら尋ねる。
「奏斗の友達!」
「紹介が雑です!」
「今はそれでいいだろ!」
敵の一人が何かを床へ投げる。
「伏せてください!」
奏斗が叫ぶ。
閃光。
白い光と爆音。
視界が一瞬奪われる。
敵の足音が複数、倉庫奥へ向かう。
奏斗は目を閉じたまま音を追う。
発砲。
逃走方向へ二発。
金属へ当たる音。
命中したかは分からない。
視界が戻る。
倉庫奥の床が開いていた。
隠し通路。
敵はそこへ飛び込んでいる。
「追います!」
奏斗が走ろうとする。
「待て!」
蒼士が腕をつかむ。
「離してください!」
「下がどうなってるか分からない!」
「逃げられます!」
「追わせるための罠かもしれない!」
奏斗は足を止めた。
その言葉は正しい。
入口を塞ぎ、内部へ誘導した敵。
隠し通路も、追跡を想定している可能性がある。
千束が首元へ手を当てながら近づいてくる。
「奏斗、追わない方がいい」
「千束まで」
「今は三人とも生きてる。それでいいよ」
「敵の目的が分からないままです」
「追ってまた罠に入ったら、もっと分からなくなる」
奏斗は開いた床を見つめた。
暗い。
通路の先から音は聞こえない。
敵はすでに別の出口へ向かっている。
「……分かりました」
奏斗は銃口を下げた。
「蒼士、入口は?」
「外から開けられる。今、解除装置を動かしてる」
「一人ですか?」
「お前が単独で来いって頼んだんだろ」
千束が二人を見る。
「頼んだ?」
奏斗は答えなかった。
蒼士も、言ってしまったことに気づいたらしく口を閉じる。
「奏斗」
「あとで説明します」
「今」
「周辺の安全確認が先です」
「逃げた」
「逃げていません」
「逃げた顔してる」
「どのような顔ですか?」
奏斗は倉庫内を確認する。
敵が落とした装備。
血痕はわずか。
倒したはずの敵も、閃光の間に逃走していた。
四人全員がいない。
残されたのは空薬莢と、破損した装備の一部だけ。
蒼士が壁際の制御盤を操作する。
シャッターがゆっくり上がった。
外の冷たい空気が入ってくる。
「外は?」
奏斗が尋ねる。
「敵は確認できなかった。倉庫へ入る前から、周辺に人影はなし」
「監視していたのは、いつからですか?」
「お前たちが集合する前から」
「車両に動きは?」
「なし。アジトに人が入った形跡もなかった」
「では、敵は事前に内部へ潜伏していた」
「隠し通路から入ったんだろうな」
奏斗は床の開口部を見る。
この倉庫の構造資料に、地下通路の記載はなかった。
DAから共有された建物情報にも。
「蒼士、外から見て何か分かったことは?」
「お前たちが入ったあと、シャッターが下りた。遠隔操作じゃない」
「内部?」
「倉庫の東側で、短時間だけ通信反応が出た。暗号化されてたけど、リリベルで使う短距離信号に似てた」
奏斗の表情が固まる。
「確かですか?」
「完全に同じじゃない。ただ、民間の機器じゃない」
「記録は?」
「取ってある」
「上層部には」
「言ってない」
千束が二人の会話を聞いている。
「リリベルの信号?」
「似ているだけです」
奏斗が答える。
「でも、DAの情報も間違ってた」
「はい」
「この倉庫の隠し通路も、資料にない」
「はい」
「敵は奏斗のこと知ってた」
奏斗は黙った。
千束は真剣な表情で続ける。
「これ、外国組織だけでできるの?」
「分かりません」
「DAの情報を変えるか、偽物を混ぜる。リリベルの信号を使う。奏斗の動きを知ってる」
「内部協力者がいる可能性があります」
言葉にすると、よりはっきりする。
DA。
リリベル。
どちらか。
あるいは両方。
外国組織へ情報を渡している人間がいる。
「だから、蒼士さんに頼んだの?」
千束が尋ねる。
「名前は言っていませんが」
「さっき呼んでたよ」
「聞いていましたか」
「普通に聞こえた」
蒼士が肩をすくめる。
「久世蒼士。奏斗の訓練同期みたいなもん」
「友達?」
「違います」
奏斗が即答する。
「友達だ」
蒼士も即答する。
千束が笑う。
「仲良いんだね」
「話を戻してください」
「照れなくていいのに」
「照れていません」
蒼士が奏斗の肩を軽く叩く。
「喫茶店で明るくなったって本当なんだな」
「今、それを言う必要がありますか?」
「女に現を抜かすなよ」
「蒼士」
「女?」
千束が反応する。
「何でもありません」
「私のこと?」
「違います」
「錦木千束以外に誰がいるんだよ」
「蒼士!」
千束が奏斗を見る。
目が少し楽しそうになっている。
「奏斗、私に現を抜かしてるの?」
「抜かしていません」
「即答」
「事実です」
「私を庇って撃たれたり、秘密で友達に監視頼んだりしてるのに?」
「すべて護衛任務のためです」
「ふーん」
「何ですか、その反応は」
「別に」
千束は笑っている。
先ほどまで人質になっていたとは思えないほど、いつもの調子へ戻っていた。
ただし、首元には傷が残っている。
「傷を見せてください」
奏斗が近づく。
「かすり傷だよ」
「昨日の私と同じことを言っていますね」
「奏斗より浅いもん」
「確認します」
「ここで?」
「照明があります」
「朝、奏斗は嫌がったのに」
「状況が違います」
「私も嫌」
「見せてください」
「やだ」
千束が一歩下がる。
奏斗が一歩進む。
「出血しています」
「止まってるよ」
「感染の可能性があります」
「先生に見てもらう」
「今、応急処置をします」
「奏斗、しつこい」
「護衛です」
千束が少しだけ笑った。
「分かった」
首元を見せる。
傷は浅い。
刃先で皮膚が切れただけ。
動脈や筋肉へは届いていない。
奏斗は携帯していた応急処置用品を取り出し、傷口を消毒する。
「染みる!」
「動かないでください」
「もっと優しく」
「十分優しくしています」
「昨日、私が傷見たとき嫌がったくせに」
「千束は無理にシャツを引こうとしました」
「見えなかったから」
「今は見えています」
「奏斗、顔近い」
「傷を確認しています」
「照れてる?」
「消毒液を追加しますよ」
「それは脅し!」
蒼士が少し離れた場所から二人を見る。
「やっぱり現を抜かしてるな」
「黙っていてください」
「俺、助けに来たんだけど」
「感謝しています」
「全然そう見えない」
処置を終え、奏斗は小さな保護材を貼った。
「終わりました」
「ありがと」
千束は傷へ軽く触れる。
「触らないでください」
「奏斗、先生みたい」
「千束が言うことを聞かないからです」
「奏斗にだけは言われたくないなぁ」
奏斗は返事をせず、敵の残した装備へ向かった。
防弾服の破片。
特殊な複合素材。
国内で簡単に入手できるものではない。
表面に製造番号はない。
縫製方法も一般的な軍用品とは異なる。
「外国組織の装備に見える?」
千束が横へ来る。
「以前拘束した構成員の装備とは違います」
「じゃあ別組織?」
「分かりません」
「分からないことばっかり」
「一つずつ確認します」
奏斗は破片を回収袋へ入れる。
「現時点で分かったことがあります」
「何?」
「今回の狙いは、千束ではなく私だった可能性が高い」
千束の表情が少し変わる。
「敵がそう言っただけかも」
「行動とも一致します」
「私を捕まえて、奏斗に死ねって言った」
「はい」
「でも、どうして奏斗?」
「分かりません」
「外国組織に何かした?」
「護衛任務を開始する以前、直接的な接触はほとんどありません」
「じゃあ、護衛を始めたから?」
「その可能性はあります」
「私から離れさせたいのかな」
「護衛役を排除すれば、千束を狙いやすくなります」
「だったら、結局狙いは私じゃない?」
「最終目的はそうかもしれません」
だが、違和感が残る。
護衛を排除するだけなら、わざわざ千束を人質にして、自死を要求する必要はない。
敵は奏斗の判断を見ようとしていた。
護衛対象のために死ぬか。
命令と自分の命、どちらを選ぶか。
それを確かめるような言葉だった。
「もう一つ」
奏斗は続ける。
「DAかリリベルの内部に、今回の件へ関与している者がいる可能性があります」
「情報が間違ってたから?」
「はい。千束へ割り当てられた任務そのものが罠でした」
「誘拐グループは?」
「存在していたとしても、今夜ここに集まる予定はなかった」
「誰かが偽の情報を作った」
「あるいは、本物の情報を途中で差し替えた」
「リリベルの信号みたいなのもあった」
「蒼士が記録しています」
千束は少し考え込む。
「奏斗、上の人に言う?」
「すべては言いません」
「どうして?」
「内部関与を疑っている状況で、報告先が安全とは限りません」
「でも黙ってたら怒られない?」
「怒られるだけなら問題ありません」
「そこは真面目なんだか不真面目なんだか分かんないね」
「規則を守ることより、敵を見つける方が優先です」
「奏斗らしい」
「褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「心配」
千束が奏斗を見る。
「一人で調べようとしてるでしょ」
「蒼士へ協力を頼んでいます」
「二人で調べようとしてる」
「必要な範囲で」
「私も入れて」
「駄目です」
「即答!」
「千束は護衛対象です」
「でも私も狙われてる」
「だからこそです」
「自分のことなのに、何も知らないまま守られるの嫌だよ」
「必要な情報は伝えます」
「前も聞いた」
「今回も同じです」
千束はしばらく奏斗を見つめる。
「じゃあ、約束して」
「内容によります」
「危ないことするときは、私に言う」
「却下します」
「まだ全部言ってない!」
「危険な調査について、事前に千束へ知らせるという意味でしょう」
「分かってるじゃん」
「護衛対象を巻き込めません」
「巻き込まれなくても、知るくらいいいでしょ」
「千束は知ったら動きます」
「動かないかも」
「自信がないのですね」
「奏斗、最近ツッコミ鋭いね」
「話をそらさないでください」
「そらしてないよ」
千束は一度息を吐いた。
「今日は、奏斗の友達が来てくれなかったら危なかった」
「はい」
「奏斗が自分で死のうとしたかもしれない」
「そのつもりは」
「少し考えたでしょ」
奏斗は答えなかった。
千束の目が細くなる。
「やっぱり」
「護衛対象を守るための選択肢を検討しただけです」
「同じだよ」
「敵が約束を守る保証がないため、実行するつもりはありませんでした」
「保証があったら?」
奏斗は一瞬、言葉に詰まった。
千束はその反応を見逃さなかった。
「駄目だから」
「何がですか?」
「私を守るために、奏斗が死ぬの」
「護衛任務では、自分の危険を考慮しない場合があります」
「私はそんな護衛いらない」
千束の声は強くなかった。
だが、冗談でもなかった。
「奏斗が死んで私だけ助かっても、うれしくない」
「うれしいかどうかではありません」
「私には大事」
「任務です」
「私を守る任務なんでしょ?」
「はい」
「だったら、私が嫌だって言ってる」
奏斗は黙った。
理屈としては通らない。
護衛対象の感情だけで、行動基準を変えることはできない。
しかし。
千束の言葉を、無視することもできなかった。
「……今後、同じ状況にならないようにします」
「そうじゃなくて」
「敵に人質を取らせません」
「奏斗」
「それが最も確実です」
千束は少し困ったような顔をした。
それから、小さく笑う。
「本当に頑固だね」
「千束に言われたくありません」
「でも」
千束は奏斗の前へ立った。
「助けてくれて、ありがとう」
「助けたのは蒼士です」
「奏斗も」
「私は人質に取らせました」
「その前も、ずっと守ってくれてた」
「護衛なので」
「それでも、ありがとう」
奏斗は千束を見る。
いつもの笑顔。
だが、首には自分が貼った保護材がある。
少し遅ければ、もっと深く切られていた。
「……どういたしまして」
短く答える。
千束が少しうれしそうに笑った。
「素直」
「感謝に返事をしただけです」
「前はもっと、任務です、とか言ってた」
「今も任務です」
「でも、どういたしましてって言った」
「何度も確認しないでください」
「照れてる?」
「蒼士、そろそろ戻りませんか」
「俺を使って逃げるなよ」
蒼士が笑う。
「二人とも元気そうでよかったよ」
「蒼士さんもありがとう」
千束が言う。
「助かった」
「俺は奏斗にパフェ奢ってもらうから、それでいい」
「奏斗のエプロン姿で?」
「話したのですか?」
奏斗が蒼士を見る。
「条件だろ」
「千束へ言う必要はありません」
「じゃあ私が接客する!」
「千束では条件を満たしません」
「奏斗が運ぶんだよ」
「なぜ楽しそうなのですか?」
「友達連れてきてくれるんでしょ?」
「友達ではありません」
「まだ言うか」
「じゃあ、仲の良いリリベル」
「千束まで」
「合ってるでしょ?」
奏斗は否定しようとした。
だが、蒼士が助けに来なければ、今こうして話してはいない。
秘密の依頼を受け、単独で監視し、危険を察知して侵入した。
「……否定はしません」
蒼士が目を丸くする。
「お前、店で何食わされてるんだ?」
「まかないです」
「そういう意味じゃない」
「明るくなったでしょ?」
千束が得意そうに言う。
「私の指導!」
「三割です」
「また減った!」
「現時点では二割かもしれません」
「何で下がるの!」
蒼士が笑い出す。
「本当に変わったな、奏斗」
「何も変わっていません」
「そういうことにしとく」
遠くから車両の音が近づいてくる。
リリベルの回収班。
奏斗は千束と蒼士へ視線を向けた。
「今夜の報告内容は、私が決めます」
「俺の存在は?」
「公式には、周辺監視中の別働隊が異常を察知し、介入したことにします」
「単独行動がばれたら?」
「私が指示したと報告します」
「お前が処分されるぞ」
「必要なら受けます」
「奏斗」
千束が名前を呼ぶ。
「何ですか?」
「一人で背負わないで」
「頼んだのは私です」
「でも助かったのは私たち二人」
「千束はリリベルではありません」
「そういう問題じゃない」
奏斗は少し考える。
「では、報告書の内容を確認してもらいます」
「私にも?」
「共有可能な部分だけです」
「一歩前進」
「何のですか?」
「奏斗が一人で決めないようになるまで」
「そこを目標にしていたのですか?」
「今決めた」
「いつもどおりですね」
回収車両が倉庫前へ到着する。
複数のリリベルが降りてくる。
奏斗は銃を収め、最後に一度だけ隠し通路へ視線を向けた。
今回、分かったこと。
敵の狙いは千束ではなく、自分だった可能性がある。
DAの任務情報が操作されていた。
敵はリリベルの通信規格に似た信号を使用した。
奏斗の戦闘方法を理解し、防弾装備で対策していた。
そして、自分へ自死を要求した。
外国組織だけの仕業なのか。
DA内部に協力者がいるのか。
リリベル上層部まで関与しているのか。
分からない。
敵は逃げた。
証拠もほとんど残していない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
今まで自分は、千束を狙う敵から守っているつもりだった。
だが。
自分が千束の近くにいることで、千束を危険へ巻き込んでいる可能性がある。
「奏斗」
千束が隣へ並ぶ。
「何ですか?」
「また難しい顔してる」
「考えることが増えました」
「一人で考えないでね」
「努力します」
「本当に?」
「可能な範囲で」
「いつもの言い方」
「すぐに変わると思わないでください」
「少しずつでいいよ」
千束は笑った。
「奏斗も助かったし、私も助かった。今日はそれでいい」
「敵を逃がしました」
「次に捕まえればいい」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
千束は開いた入口の向こうを見る。
「でも、生きてないと次はないから」
奏斗は何も答えなかった。
千束が前を向く。
首元の小さな傷。
それでも歩く足取りはいつもと変わらない。
「帰ったら先生に報告だね」
「その前に、上層部です」
「リコリコにも来る?」
「護衛なので」
「夜食あるかも」
「それは報告と関係ありません」
「パフェは?」
「この時間にですか?」
「助かった記念」
「また記念日を増やすのですか」
「今日は特別でしょ」
奏斗は小さく息を吐く。
「チョコレートなら検討します」
「食べる気あるじゃん!」
「検討です」
「それ、食べる人の言い方だよ」
「千束も食べるのでしょう」
「もちろん!」
千束の声が倉庫内へ明るく響く。
敵の残した不穏な痕跡。
内部への疑惑。
自分が狙われた理由。
どれも消えてはいない。
それでも今は、千束が生きている。
蒼士も無事だった。
奏斗自身も、ここにいる。
次へ進むためには、それで十分なのかもしれない。
少なくとも、今夜だけは。
奏斗は千束と並び、倉庫の外へ歩き出した。