翌日。
喫茶リコリコの店内には、いつもより少しだけ重い空気が流れていた。
正確には、お客さんがいる間はいつもどおりだった。
私が大きな声で注文を取り、奏斗が落ち着いた顔で料理を運び、ミズキがカウンターの中から軽口を叩き、先生が厨房で料理を作る。
何も変わらない。
昨日、私が敵に捕まって首へナイフを当てられたことも。
奏斗が自分の命と私の命を天秤にかけさせられたことも。
DAから渡された情報そのものが、敵の罠だったかもしれないことも。
全部、店の外に置いてきたように振る舞っていた。
それがお客さんの前での、私たちの仕事だった。
「千束ちゃん、今日の日替わりは?」
「今日は先生特製の和風ハンバーグです!」
「昨日もハンバーグじゃなかった?」
「昨日は洋風! 今日は和風!」
「違いは?」
「ソース!」
「それだけ?」
「大事だよ!」
常連のおじいさんが笑う。
私は笑顔のまま注文票へ書き込んだ。
「じゃあ和風ハンバーグね」
「はーい!」
「奏斗君は何がおすすめ?」
近くで水を運んでいた奏斗が足を止める。
「本日のおすすめは和風ハンバーグです」
「千束ちゃんと同じだね」
「今日の日替わりですので」
「個人的には?」
奏斗が少し考えた。
「チョコレートパフェです」
「またそれ?」
「安定しています」
「奏斗は毎日同じだからね」
私が横から口を挟む。
「千束は毎日違うのですか?」
「私はその日の気分!」
「昨日もパフェを食べていました」
「昨日は助かった記念」
「記念を増やしすぎです」
「今日も無事に開店できた記念で食べる?」
「毎日食べるための理由を作らないでください」
おじいさんが声を上げて笑う。
奏斗も少しだけ笑っていた。
昨日の夜、命を狙われたばかりには見えない。
でも、私は知っている。
奏斗が店へ入ってきた瞬間から、いつもより多く外を見ていたことを。
入口の扉が開くたびに、最初に相手の手を確認していたことを。
席へ案内するときも、店内の死角へ誰かが入らないよう立ち位置を変えていたことを。
表情は明るい。
会話も前より自然。
それでも、警戒は昨日までより明らかに強くなっていた。
私も同じだった。
お客さんの顔。
手。
服の下の膨らみ。
歩き方。
店へ入った直後、誰を見るか。
先生やミズキも、何も言わずに店内を見ている。
それでも、お客さんには気づかせない。
昼前まで、店内には何人かの常連客がいた。
日替わりランチを食べ、コーヒーを飲み、いつものように私たちと話して帰っていく。
最後の一人が店を出ると、扉のベルが鳴った。
「ありがとうございましたー!」
私は大きく手を振る。
扉が閉まる。
店内が静かになった。
奏斗はすぐに窓の外を確認する。
お客さんが離れていく。
周囲に不審な人物はいない。
「次のお客さんが来るまで、話をしよう」
先生が厨房から出てきた。
いつもの落ち着いた声だった。
けれど、その一言で店内の空気が切り替わる。
ミズキが入口の札を一時的に準備中へ変えた。
「十分くらいなら大丈夫でしょ」
「長くなる場合は、奥へ移動する」
先生が言う。
私たちは店の奥に近いテーブルへ集まった。
先生とミズキが向かいに座る。
私と奏斗が並ぶ。
奏斗は座る前に、窓と入口の位置を確認していた。
「誰もいないよ」
私が言う。
「今は、です」
「警戒しすぎると疲れるよ」
「昨日、警戒した結果として助かりました」
「それはそうだけど」
奏斗は椅子へ腰を下ろした。
私はその横顔を見る。
昨日の任務後、奏斗は上層部への報告へ向かった。
私と先生がリコリコへ戻った頃には、もう深夜だった。
結局、詳しい話は今日になっている。
「まず」
奏斗が口を開く。
いつもの店内での明るい声ではない。
任務中ほど冷たくもない。
それでも、真剣なときの声音だった。
「昨日の件について、謝罪します」
「謝罪?」
私は首を傾げる。
奏斗が私を見る。
「千束を人質に取らせました」
「え」
「護衛対象へ接近した敵を止められず、結果として拘束されました。私の判断と対応が不十分でした」
「ちょっと待って」
私はすぐに奏斗の言葉を止める。
「それ、奏斗が謝ること?」
「護衛の失敗です」
「私も戦ってたよ」
「護衛対象が戦闘へ参加することは、事前に想定していました」
「私、リコリスなんだけど」
「知っています」
「しかも奏斗より強いよ?」
「その発言には検討が必要です」
「そこは認めてよ!」
真面目な話の途中なのに、奏斗は少しだけ口元を緩めた。
「少なくとも、近距離で敵に拘束されたのは千束です」
「それはそうだけど」
「私が敵二人に進路を塞がれ、千束との距離を開けられた。その時点で、相手の狙いに乗せられています」
「奏斗だけの責任じゃないよ」
「護衛任務は私の責任です」
「だからって、全部背負わなくていいでしょ」
奏斗は返事をしない。
ミズキが頬杖をつきながら口を開いた。
「千束の言うとおりよ」
「ミズキさんまで」
「あんた一人で四人相手にしながら、千束を完全に守れって方が無理あるでしょうが」
「事前に異常を察知できました」
「簡単すぎる任務だった、って気づいたから友達に監視を頼んだんでしょ?」
「友達ではありません」
「今そこ?」
ミズキが呆れた顔をする。
「久世君だったか」
先生が言った。
「奏斗が外部からの監視を頼んだリリベルだな」
「はい」
「おかげで二人とも助かった」
「結果的には」
「それも奏斗の判断だ」
「しかし、千束を拘束されたことは変わりません」
私は小さく息を吐いた。
「奏斗」
「何ですか?」
「昨日も言ったけど、私、奏斗に死なれる方が嫌だからね」
「それと今回の失敗は別です」
「別じゃないよ」
「別です」
「頑固」
「千束に言われたくありません」
「でも、奏斗が全部うまくやろうとしたら、また一人で変なこと考えるでしょ」
「変なこととは?」
「私が助かるなら、自分が死んでもいいとか」
奏斗の表情が少しだけ固くなる。
やっぱり考えていた。
昨日、敵から私を助ける代わりに死ねと言われたとき。
奏斗は否定していた。
敵が約束を守る保証がないから実行しない、と。
でも、もし保証されていたら。
奏斗は私を助けるために自分の命を差し出したかもしれない。
「それは護衛として」
「駄目」
私は言葉を重ねる。
「私は、そんな守られ方したくない」
「護衛対象の希望だけで判断できる問題ではありません」
「じゃあ命令する」
「千束に私への命令権はありません」
「細かい!」
「重要です」
「じゃあお願い」
私は奏斗の方へ体を向けた。
「私を助けるために、自分から死のうとしないで」
「状況によります」
「そこは、分かったって言ってよ」
「守れない約束はできません」
「奏斗」
「ですが」
奏斗が少しだけ目を伏せる。
「同じ状況にならないよう、対策します」
「前もそれ言った」
「現時点で言えるのは、それだけです」
納得はできない。
でも、奏斗が嘘をついて安心させるような人ではないことも分かっている。
「じゃあ、まずはそれでいい」
「ありがとうございます」
「でも謝るのは禁止」
「禁止される理由がありません」
「奏斗だけの失敗じゃないから」
「反省は必要です」
「反省と謝るのは別」
奏斗は少し考える。
「……では、謝罪は撤回します」
「そんな正式な感じじゃなくていいよ」
「どのように撤回すればいいのですか?」
「昨日は大変だったね、くらい」
「軽すぎませんか?」
「奏斗が重すぎるの」
ミズキが笑う。
「良いじゃない。二人とも無事だったんだから」
「敵は逃走しました」
「はいはい、真面目な話に戻りましょ」
ミズキがテーブルを軽く叩く。
「で、結局何が分かって、何が分からないの?」
「それを共有します」
奏斗は端末を取り出した。
画面へ複数の情報を表示する。
「現時点で、追っている敵について確定していることは多くありません」
「整理して話して」
先生が言う。
「はい」
奏斗は画面を一つずつ切り替えた。
「まず、最初に千束を監視していた人物について」
私はあの日の帰り道を思い出す。
誰かに見られているような感覚。
でも、姿は見つけられなかった。
「外国組織の構成員である可能性が高いとされています。組織の目的は、当初、優秀なリコリスである千束の排除と考えられていました」
「最初は、ね」
私が言う。
「はい。しかし、昨日の敵は明確に、狙いは私だと言いました」
「本当かどうかは分からないけどね」
「そのとおりです」
奏斗はうなずく。
「敵の発言だけで判断はできません。ただし、これまでの行動と一致する部分があります」
「前の日本人の男?」
私が尋ねる。
「はい。元自衛官だった人物です」
奏斗はその男の情報を表示する。
「彼は、千束へ背後から銃を向けました。しかし、私が護衛として同行していることを知っていた可能性が高い」
「リコリコに来てたもんね」
「店内で、私と千束の距離や動きを確認できました。それでも、店の中では襲撃せず、帰路を狙った」
「人が多かったからじゃないの?」
ミズキが聞く。
「その可能性はあります。ただ、一般人への被害を避ける組織とは考えにくい」
「千束なら正面から撃たれても避けるから、背後を選んだんじゃないか?」
先生の言葉に、奏斗はうなずいた。
「それもあります。しかし、私がどう動くかを確認する目的だった可能性も否定できません」
「奏斗が私を庇うかどうか?」
「はい」
奏斗は淡々と答える。
「昨日の敵も、千束を人質にして私へ選択を迫りました。私が護衛対象のために命を捨てるかどうかを見ようとしていたようにも感じます」
「何のために?」
「分かりません」
奏斗は画面を切り替える。
「次に、DAから提供された任務情報について」
昨日の倉庫。
いるはずだった誘拐グループ。
誰もいないアジト。
突然下りたシャッター。
暗闇から現れた四人。
「誘拐計画を立てているグループが、指定時刻に倉庫へ集まっているという情報でした」
「でも、いなかった」
「はい。机や食事の跡はありましたが、少なくとも数時間前から無人だった可能性があります」
「情報は一時間前に更新されたんだよね?」
「そうです」
ミズキの表情が少し険しくなる。
「つまり、情報源が間違えたか」
「途中で情報が差し替えられたか」
先生が続ける。
「または、最初から私たちを誘導するために作られた任務だったか」
奏斗が言う。
「重要なのは、敵が千束の任務に、私が護衛として同行することを把握していた点です」
「私の任務に奏斗がつくのは、誰が知ってるの?」
私は尋ねる。
「DA側の担当者、リリベル上層部、監視担当者。ほかにも情報へアクセスできる者はいると思われます」
「結構多いわね」
ミズキが言う。
「正確な範囲は不明です」
「昨日の敵が、たまたま奏斗がいることを知った可能性は?」
「低いです」
奏斗は即答する。
「敵は私の名前を知っていました。射撃方法や動きも、事前に把握していた可能性があります」
「防弾装備もだね」
「はい」
あの敵たちは、私たちの銃撃を前提に装備を用意していた。
胸や腹だけではない。
腕や脚まで守られていた。
私の非致死弾も、奏斗の実弾も簡単には通らない。
「通常の犯罪組織が準備できる装備ではありません」
「外国組織のもの?」
「以前確認した装備とは異なります」
「別の組織かもしれない?」
「可能性はあります」
奏斗は端末へ三つの項目を表示した。
「現在、大きく分けて三つの可能性を考えています」
「一つ目は?」
「追っている外国組織が、日本国内の協力者と内部情報を利用して、私たちを狙っている」
「一番普通だね」
私が言う。
「普通という表現が適切かは分かりませんが、現時点では最も説明しやすい」
奏斗が続ける。
「元自衛官の男は、外国組織の通信網と接触していた可能性が高い。昨日の敵も、同じ組織に属している可能性があります」
「二つ目は?」
先生が尋ねる。
「外国組織とは別に、私か千束を狙う勢力が存在する」
店内が少し静かになる。
「別の勢力?」
ミズキが眉を寄せる。
「装備が違うこと。昨日の敵が千束より私を狙ったこと。DAの任務情報を利用していること。これらを考えると、同じ組織だと決めつけるのは危険です」
「じゃあ、外国組織を隠れ蓑にしてる人がいるかも?」
私が聞く。
「はい」
「三つ目」
奏斗の声が少しだけ低くなる。
「DAかリリベルの内部が、直接関与している可能性です」
ミズキの顔から、さっきまでの軽さが完全に消えた。
「本気で言ってる?」
「可能性としてです」
「根拠は?」
先生が静かに尋ねる。
「任務情報が操作された可能性。建物資料に記載されていない隠し通路。敵が使用していた通信信号が、リリベルの短距離通信に似ていたこと」
「久世君が確認したのね」
「はい」
「似ていただけで、同じとは限らない」
「そのとおりです」
奏斗は否定しなかった。
「敵がこちらを混乱させるため、意図的に似せた可能性もあります」
「でも、内部の誰かが協力してたら全部説明できる」
私が言う。
「説明はできます。ただし、それだけで内部犯行と断定することはできません」
「奏斗は上層部を疑ってる?」
私が直接聞く。
奏斗はすぐには答えなかった。
「疑っているのは、組織そのものではありません」
「じゃあ誰?」
「情報へアクセスできる者すべてです」
「上層部も含めて?」
「はい」
奏斗は迷わず答えた。
「だから昨日、久世に上層部へ知らせず監視を頼みました」
「その久世君は信用できるの?」
ミズキが聞く。
「信用しています」
即答だった。
私は奏斗を見る。
奏斗は気づいていないみたいだけれど、昨日まで友達じゃないと言い張っていた人のことを、今ははっきり信用していると言った。
「何ですか?」
視線に気づいた奏斗が尋ねる。
「別に」
「何か言いたそうですが」
「友達なんだなぁって」
「今その話は必要ですか?」
「信用してるんでしょ?」
「任務上の能力と判断を信用しています」
「友達ってことでいいじゃん」
「話を戻してください」
ミズキが少し笑った。
「まあ、味方がいるのは良いことでしょ」
「ただし、久世が動いたことを上層部へどこまで報告するかは検討中です」
「何で?」
「内部関与が事実なら、こちらが別行動を取ったことを知らせるのは危険です」
「でも報告しなかったら怒られる」
「必要なら処分は受けます」
「また一人で背負う」
私が言うと、奏斗が少しだけ目をそらした。
「事実関係を整理しているだけです」
「昨日、報告書を私にも見せるって言ったよね」
「共有可能な範囲で、と言いました」
「またそれ」
「すべてを見せるとは言っていません」
「見せて」
「無理です」
「先生」
私は先生を見る。
「奏斗に報告書見せるよう言って」
「それは奏斗が判断することだ」
「先生まで!」
「ただし」
先生は奏斗を見る。
「一人で判断しすぎるな」
「……分かっています」
「本当に?」
ミズキが疑わしそうに見る。
「努力しています」
「努力で終わらせる気ね」
「では、具体的にどうすればいいのですか」
「相談する」
私が答える。
「誰へ?」
「私たちに」
「リコリコ全員へ機密情報を共有するのですか?」
「全部じゃなくていいよ」
「今、全部見せろと言ったでしょう」
「報告書は全部見たい」
「矛盾しています」
「それはそれ!」
「便利ですね」
奏斗は少しだけ笑った。
話の空気がわずかに軽くなる。
先生が腕を組む。
「現時点で、私たちが警戒すべき点は?」
「三つです」
奏斗は指を立てる。
「一つ目。外国人だけを警戒しないこと。敵は日本人協力者を利用しています」
「前の元自衛官ね」
「はい。普通の客として店へ入る可能性があります」
「二つ目は?」
「店内を安全だと思わないこと。前回は外で襲撃されましたが、店内へ敵が侵入していた事実は変わりません」
「お客さん全員を疑う?」
私が聞く。
「疑うのではなく、確認します」
「同じように聞こえる」
「相手へ敵意を向けず、危険だけを見落とさない」
奏斗が言う。
前に店の片づけをしながら、似た話をした。
全部演技かもしれないと思ったら、誰も信じられない。
そのとき奏斗は、警戒と不信は別だと言った。
「三つ目」
「DAとリリベルから来る情報を、完全には信用しない」
先生が先に言った。
「はい」
「任務情報も?」
「確認できる範囲で、別の経路から裏を取ります」
「そんなことできるの?」
「毎回は難しいです」
「じゃあ、また罠かもしれない任務へ行く?」
「拒否すれば、こちらが疑っていることを知らせます」
「行くしかないんだ」
「慎重に、です」
私は少し考える。
「奏斗」
「何ですか?」
「敵の本当の狙い、どっちだと思う?」
「千束か、私か、という意味ですか?」
「うん」
奏斗はすぐには答えなかった。
「分かりません」
「奏斗でも?」
「情報が足りません」
「昨日は奏斗が狙いって言われた」
「はい。ただ、私を排除すれば千束を狙いやすくなる。最終的な標的が千束である可能性は残ります」
「私を餌にして、奏斗を試した」
「その理由が分かりません」
「奏斗に何かあるのかな」
「心当たりはありません」
「リリベルの中で特別とか?」
「ありません」
「実はすごい家の出身とか」
「違います」
「秘密の能力があるとか」
「ありません」
「甘いものを食べると強くなる」
「それは少しあるかもしれません」
一瞬、私も先生もミズキも黙った。
「え?」
私が聞き返す。
「冗談です」
「奏斗!」
ミズキが吹き出す。
「真面目な顔で言うから分かんないのよ!」
「千束があり得ない可能性を並べるので」
「でもちょっと本当っぽかった」
「パフェを食べても戦闘能力は上がりません」
「気分は?」
「上がります」
「じゃあ少し強くなるじゃん」
「精神状態だけです」
「今度、任務前に食べさせよう」
「動きにくくなるので不要です」
店内へ少しだけ笑いが戻る。
でも、疑問は残ったままだった。
敵は誰なのか。
外国組織なのか。
別の組織なのか。
DAやリリベルの内部に、誰かがいるのか。
なぜ奏斗を狙うのか。
なぜ私を使って、奏斗に死を選ばせようとしたのか。
答えは一つも出ていない。
先生が時計を見る。
「そろそろ開店を再開しよう」
「もう十分経った?」
ミズキが入口を見る。
「客が来る前に札を戻す」
私は立ち上がった。
「奏斗」
「はい」
「もう謝らないでね」
「努力します」
「分かった、でいいの」
「善処します」
「政治家みたい」
「守れない約束はできません」
「本当に頑固」
「千束に言われたくありません」
奏斗も立ち上がる。
私はその横へ並んだ。
「でも、昨日助けようとしてくれて、ありがと」
「それはもう聞きました」
「何回言ってもいいでしょ」
「では、どういたしまして」
「素直!」
「毎回驚かないでください」
私は笑いながら入口の札を営業中へ戻した。
◇
午後の営業は、いつもどおりだった。
奏斗は昨日の話をしたあとでも、接客中は明るかった。
常連のおばさんに、新しい制服はまだかと聞かれれば、先生が準備中ですと答える。
私が横から赤が似合うと言えば、目立ちすぎるので断りますと返す。
「じゃあピンク!」
「さらに目立ちます」
「かわいいよ」
「私へ必要な評価ではありません」
「女性客に人気出るかも」
「これ以上増やしてどうするのですか?」
「売上!」
「目的がはっきりしていますね」
「奏斗の人気を店のために使う!」
「本人の許可を取ってください」
「許可する?」
「拒否します」
「じゃあ先生に頼む」
「上司を利用しないでください」
お客さんが笑う。
奏斗も自然に笑っていた。
店の中では、昨日のことを考えずにいられる時間があった。
完全に忘れるわけではない。
誰かが入ってくれば、その手を見る。
扉の外で人が止まれば、視線を向ける。
でも、それだけではない。
コーヒーの香り。
料理の音。
お客さんとの会話。
奏斗のツッコミ。
ミズキの文句。
先生の静かな笑顔。
ここは私にとって、守りたい場所だった。
だからこそ、敵に自由に入らせたくない。
奏斗だけに守らせるつもりもなかった。
◇
閉店後。
最後のお客さんを見送り、店内の片づけを始めてから十分ほど経った頃だった。
ミズキが冷蔵庫の扉を開け、しばらく中を見つめていた。
「……ない」
「何が?」
私が尋ねる。
「牛乳」
「朝あったよ」
「今日、思ったより出たのよ」
「明日の分は?」
「ない」
「買えば?」
「あんたが行ってきなさい」
「えー」
私はテーブルを拭きながら声を伸ばす。
「今から?」
「明日の朝じゃ間に合わないでしょ」
「先生が何とかしてくれるよ」
「何とかとは?」
先生が厨房から顔を出す。
「ほら、先生も困ってる」
「千束、ほかにも必要なものがある」
ミズキが棚と冷蔵庫を確認する。
「牛乳、卵、生クリーム、オレンジジュース。あと洗剤」
「多い!」
「だから買い出し」
「ミズキが行けば?」
「私は在庫確認があるの」
「今、牛乳ないって気づいた人なのに?」
「だから確認し直すのよ!」
「説得力ないなぁ」
ミズキが私を睨む。
「良いから行ってきなさい」
「嫌」
「即答?」
「私、狙われてるもん」
私は胸を張る。
「夜に一人で買い出しなんて危ないよ」
「自分で言う?」
「重要なことです」
奏斗が食器を拭きながら、少しだけこちらを見る。
ミズキもその視線に気づいた。
「じゃあ奏斗君と行けば?」
私は手を止める。
奏斗も食器を拭く手を止めた。
「私とですか?」
「護衛なんでしょ?」
「はい」
「千束を連れて買い出し。問題ないじゃない」
「問題はありませんが」
奏斗が私を見る。
「千束が行く気があるかどうかです」
「奏斗となら……まあ」
「何その間」
ミズキがにやりとする。
「別に!」
「二人で買い物して、ついでにご飯でも食べてきたら?」
「ご飯?」
「もう遅いし、店の片づけ終わったら先生も料理する気ないでしょ」
「簡単なものなら作れるが」
「先生は休んでて」
ミズキが勝手に決める。
「二人でファミレスでも行ってきなさいよ」
「なぜファミレスなのですか?」
奏斗が尋ねる。
「入りやすいから」
「買い出しが先です」
「終わってから行けばいいじゃない」
「それは」
奏斗が少しだけ言葉に詰まる。
ミズキの笑みが深くなる。
「ついでにデートしてきなさい」
「デートじゃない!」
私はすぐに否定した。
「違います」
奏斗もほぼ同時に答える。
「また息ぴったり」
歓迎会のときも、常連客に同じことを言われた。
「ただの買い出し!」
「食事を追加しただけです」
「二人で夜に買い物して、そのあとご飯。十分デートでしょ」
「定義が広すぎます」
奏斗が言う。
「本人たちが違うと言ってるんだから、違うよ!」
「じゃあ何で顔赤いの?」
「赤くない!」
「千束、少し赤いですよ」
「奏斗まで言わないで!」
「事実です」
「奏斗君も耳赤いけど」
ミズキが言う。
私はすぐ奏斗の耳を見る。
確かに、少しだけ赤い気がする。
「奏斗、照れてる?」
「店内が暑いだけです」
「さっき私が言ったやつ!」
「照明の影響かもしれません」
「前もそれ言ってた!」
「便利なので」
奏斗が真面目な顔で言う。
私は思わず笑った。
「じゃあ、行く?」
「買い出しには行く必要があります」
「ご飯は?」
「千束が食べたいなら」
その言い方に、少しだけ胸がくすぐったくなる。
「奏斗は?」
「夕食はまだです」
「じゃあ行こう」
「決まりね」
ミズキが満足そうにうなずく。
「デート楽しんで」
「買い出し!」
「護衛です」
「はいはい」
先生が奥から買い物用の袋を持ってくる。
「重くなる。二つに分けなさい」
「私が持ちます」
奏斗が受け取る。
「肩はもういいの?」
私が尋ねる。
「問題ありません」
「重いものは右手って言われてたよね」
「数日前の話です。傷はほとんど治っています」
「本当?」
「確認しますか?」
「え」
奏斗が少しだけ笑う。
「朝のように、上着を脱げと言いますか?」
「今日は言わない!」
「では問題ありません」
「奏斗、最近そういう冗談言うようになったよね」
「千束の影響です」
「良い影響?」
「判断は保留します」
私は鞄を持つ。
先生とミズキに挨拶し、奏斗と二人で店を出た。
「いってらっしゃーい」
ミズキの声。
「デート楽しんで!」
「違うってば!」
振り返って言い返す。
扉が閉まる直前、ミズキの笑い声が聞こえた。
◇
夜の街は、まだ人通りがあった。
店の周辺には飲食店が多い。
仕事帰りの人。
学生。
買い物袋を持った家族。
この時間なら、人目もある。
奏斗は私の半歩横を歩いていた。
いつもの護衛位置より少し近い。
「奏斗」
「何ですか?」
「デートって言われたの、気にしてる?」
「気にしていません」
「本当?」
「はい」
「耳赤かったよ」
「店内が暑かっただけです」
「外は涼しいね」
「そうですね」
「今は赤くない?」
「自分では確認できません」
「見てあげようか?」
「結構です」
奏斗が少しだけ歩く速度を上げる。
「逃げた」
「スーパーが閉まる前に向かっているだけです」
「まだ時間あるよ」
「早く終わらせるに越したことはありません」
「やっぱり気にしてる」
「千束」
「はい」
「その話を続けるなら、夕食は中止します」
「それは困る!」
「では終わりです」
「分かった」
私は前を向く。
数秒。
「でも」
「終わりです」
「まだ何も言ってない!」
「続きだと分かります」
「奏斗、私のこと分かってきたね」
「分かりやすいので」
「褒められてないなぁ」
奏斗は小さく笑った。
スーパーへ着く。
入口で買い物かごを取り、ミズキから渡されたメモを開く。
「牛乳、卵、生クリーム、オレンジジュース、洗剤」
奏斗が読み上げる。
「甘いものは?」
「書いてありません」
「見落としてるかも」
「ありません」
「チョコレートとか」
「店の買い出しです」
「パフェ用に必要じゃない?」
「在庫はあると聞いています」
「確認してたの?」
「ミカさんへ聞きました」
「準備いいね」
「千束が余計なものを買うと思ったので」
「信用ないなぁ」
「実績があります」
「いつ?」
「先週、コーヒー豆の買い出しへ行って、菓子を三袋買ってきたと聞きました」
「ミズキが言った?」
「はい」
「告げ口だ」
「事実共有です」
まず牛乳売り場へ向かう。
同じ種類の牛乳が並んでいる。
「何本?」
「四本です」
「重いよ」
「だから二人で来たのでしょう」
「一本ずつ持つ?」
「残り二本は誰が持つのですか?」
「奏斗」
「最初から私が三本持つ計算では?」
「私は卵持つから」
「割れ物を理由に逃げましたね」
「役割分担!」
奏斗は牛乳を四本、かごへ入れた。
次は卵。
私は十個入りのパックを持ち上げる。
「先生、何作るのかな」
「朝食やランチで使用するのでしょう」
「プリンかも」
「卵だけで決めないでください」
「生クリームもあるよ」
「パフェ用です」
「プリンパフェ!」
「新商品を勝手に作らないでください」
「絶対おいしいよ」
「ミカさんへ提案してください」
「奏斗が作る?」
「なぜ私が?」
「新しい挑戦」
「私はまだコーヒーの練習中です」
「プリンの方が簡単かも」
「根拠は?」
「混ぜて固める」
「説明が大雑把すぎます」
「奏斗ならできるよ」
「失敗しても食べますか?」
「食べる!」
「では試してもいいかもしれません」
「本当?」
「私が失敗する前提で喜ばないでください」
奏斗は生クリームをかごへ入れる。
洗剤を選ぶところで、私は棚の前に立ち止まった。
「どれ?」
「メモには種類が書かれていません」
「適当でいい?」
「店で使用しているものを確認します」
奏斗が端末を取り出し、ミズキへ連絡する。
数秒後。
「既読になりません」
「お酒飲んでるんじゃない?」
「閉店作業中です」
「ミズキならあり得る」
「否定できません」
二人で棚を見比べる。
「これ、いい匂いって書いてある」
「食器用洗剤に香りは必要ですか?」
「使う人の気分が上がる」
「料理へ香りが移る可能性があります」
「じゃあ無香料」
「最初からそれでいいでしょう」
「奏斗、生活感あるね」
「何ですか、その感想は」
「洗剤選ぶの慣れてる感じ」
「拠点でも必要な物品は自分で管理します」
「ちゃんと自分で洗濯する?」
「します」
「料理は?」
「簡単なものなら」
「何作れるの?」
「炒め物、麺類、スープ」
「意外」
「何がですか?」
「全部、栄養だけ考えた感じ」
「味も考えています」
「甘い料理は?」
「料理とは別です」
「お菓子作り」
「経験はありません」
「じゃあ今度一緒に作ろうよ」
「なぜですか?」
「楽しそうだから」
奏斗は少し考えた。
「失敗しても千束が食べるなら」
「食べるって!」
「では、機会があれば」
「約束ね」
「約束まではしていません」
「今のは約束!」
「勝手に確定しないでください」
買う物をすべてかごへ入れる。
会計へ向かう途中、お菓子売り場が目に入った。
私は足を止める。
「千束」
「何?」
「必要なものは揃いました」
「見てるだけ」
「手に取っています」
気づけば、チョコレートの箱を持っていた。
「見るには手が必要なの」
「棚へ戻してください」
「一個くらい」
「店の経費では買いません」
「私のお金で買う」
「それなら止めません」
「奏斗も食べる?」
「種類によります」
「これ」
「悪くないですね」
「じゃあ二人で食べよう」
「夕食前です」
「あとで」
「店へ戻ってからですか?」
「帰り道」
「歩きながら食べないでください」
「先生みたい」
「千束が子供のようなことを言うからです」
結局、チョコレートも一つ買った。
会計を終え、袋へ詰める。
奏斗が牛乳や洗剤の入った重い袋を持ち、私は卵と生クリーム、オレンジジュースの袋を持つ。
「私も重い方持てるよ」
「卵を持ってください」
「奏斗、傷治ってる?」
「まだ気にしていたのですか?」
「一応」
「問題ありません」
「痛かったら言ってね」
「分かりました」
「本当に?」
「その質問を何度繰り返すのですか?」
「奏斗が言わなそうだから」
「痛ければ言います」
「約束?」
「はい」
奏斗がはっきり答える。
それだけで少し安心した。
◇
スーパーを出ると、すぐ近くにファミリーレストランがあった。
「ここでいい?」
私が尋ねる。
「千束が食べたいものがあるなら」
「何でもあるよ」
「便利な理由ですね」
「ファミレスだもん」
店へ入る。
店員に二名と伝え、窓際の席へ案内された。
買い物袋は足元へ置く。
向かい合って座る。
メニューを開くと、料理の写真が並んでいた。
「奏斗、何食べる?」
「まだ決めていません」
「ハンバーグ?」
「千束は肉料理をすすめすぎです」
「好きでしょ?」
「好きですが、毎回食べるわけではありません」
「じゃあパスタ」
「千束は?」
「ハンバーグ」
「結局、自分が食べたいだけでは?」
「正解」
私はチーズハンバーグ。
奏斗は少し迷って、オムライスを選んだ。
「意外」
「何がですか?」
「奏斗、もっと真面目な料理選ぶと思った」
「真面目な料理とは?」
「焼き魚定食」
「オムライスに不真面目な要素がありますか?」
「名前がかわいい」
「料理の評価ではありません」
「甘い卵好き?」
「普通です」
「ケチャップで何か書いてあげようか?」
「店員が完成した状態で持ってきます」
「上から追加」
「味が濃くなります」
「奏斗って、そういうところ現実的だね」
「千束が自由すぎるだけです」
ドリンクバーをつける。
私が先に取りに行こうとすると、奏斗も立ち上がった。
「護衛?」
「私も飲み物を取ります」
「一人で大丈夫だよ」
「知っています」
「じゃあ何飲む?」
「炭酸以外」
「大人っぽい!」
「前にも同じ話をしましたね」
私はオレンジジュース。
奏斗はアイスティー。
席へ戻る。
「ジュースじゃないんだ」
「店で飲みました」
「私も飲んだけど」
「千束は好きなのでしょう」
「うん」
「では問題ありません」
料理が来るまで、店の話をした。
奏斗の制服がまだ決まっていないこと。
常連客が増えたこと。
奏斗を目当てに来る女性客がいること。
新しいパフェを作るなら何味がいいか。
「奏斗は何味?」
「チョコレートです」
「新しくない!」
「完成されているので、変える必要がありません」
「じゃあダブルチョコ」
「量を増やしただけでは?」
「ホワイトチョコも入れる」
「甘すぎます」
「奏斗が言う?」
「私は甘いものが好きですが、限度はあります」
「じゃあ抹茶チョコ」
「悪くありません」
「採用!」
「決定権はミカさんにあります」
「明日言おう」
「私の名前を使わないでください」
「奏斗も良いって言ってたって言う」
「参考意見としてなら」
「共同開発だね」
「まだ何も作っていません」
料理が運ばれてくる。
私のチーズハンバーグ。
奏斗のオムライス。
「おいしそう!」
「いただきます」
「奏斗、写真撮る?」
「なぜですか?」
「記念」
「何の?」
「初めて二人で買い出しして、ファミレスに来た記念」
「また記念日を増やすのですか?」
「いいじゃん」
「では、千束だけ撮ってください」
「奏斗のも一緒に」
「オムライスを撮る意味がありますか?」
「思い出!」
「料理は食べるものです」
「真面目だなぁ」
「冷めますよ」
「一枚だけ!」
私は二人分の料理が入るように写真を撮った。
顔は写していない。
ハンバーグとオムライス。
それから、端に少しだけ奏斗の手。
「これ、ミズキに送ろう」
「やめてください」
「何で?」
「デートだと騒がれます」
「気にしてるじゃん」
「面倒なだけです」
「じゃあ先生に」
「同じです」
「誰にも送らない?」
「個人で保存してください」
「奏斗も欲しい?」
「結構です」
「あとで送るね」
「話を聞いていましたか?」
私は笑いながらハンバーグを切る。
食事中は、本当に普通の話ばかりだった。
リリベルのことも。
DAのことも。
昨日の敵のことも。
誰かが店を狙っていることも。
ほとんど話さなかった。
奏斗が店で失敗したこと。
私が最初にトレイを落としたことがあるかどうか。
ミズキの酒癖。
先生が怒ると静かに怖いこと。
常連のおじいさんが、いつも同じ席へ座ること。
「奏斗って、学校ではどんな感じだったの?」
私が尋ねる。
「学校?」
「リリベルの訓練中」
「通常の学校とは違います」
「友達いた?」
「蒼士とは話していました」
「やっぱり友達じゃん」
「会話相手です」
「昨日助けに来てくれたのに?」
「協力者です」
「パフェ奢るんでしょ?」
「条件です」
「店に来たら、私も話していい?」
「普通の客としてなら」
「奏斗の昔の話聞く」
「蒼士は余計なことしか言いません」
「楽しみ!」
「来店を断るべきかもしれません」
「友達を店から追い返さないでよ」
「友達ではありません」
「まだ言う」
奏斗はオムライスを一口食べる。
「千束は?」
「何が?」
「友人です」
「私?」
「リコリコ以外で」
「いるよ」
「そうですか」
「何、その聞き方」
「千束は誰とでも話すので」
「でも、仲良くなる人はちゃんと選んでるよ」
「意外です」
「失礼!」
「全員を友人と呼ぶと思いました」
「それは知り合い」
「違いがあるのですね」
「あるよ」
「私とは?」
奏斗が何気ない声で尋ねた。
私はフォークを止める。
「え?」
「千束にとって、私は知り合いですか。店員仲間ですか。友人ですか」
奏斗は本当に、確認のつもりで聞いたようだった。
深い意味はない。
たぶん。
「友達でしょ」
私は答えた。
「そうですか」
「何、その反応」
「確認しただけです」
「奏斗は?」
「何がですか?」
「私のこと」
「護衛対象です」
「それ以外!」
「店員仲間」
「それだけ?」
奏斗が少しだけ笑う。
「友人でもあります」
「最初からそう言ってよ」
「千束が聞いたので答えました」
「じゃあ、友達とご飯食べてるだけだね」
「はい」
「デートじゃない」
「その話へ戻るのですか?」
「確認」
「友人同士でも、一般的にデートと呼ばれる場合はあるかもしれません」
「え」
私は奏斗を見る。
奏斗は普通の顔でオムライスを食べている。
「奏斗、それどういう意味?」
「言葉の定義です」
「私たちも?」
「本人たちが違うと言えば違うのでしょう」
「何それ」
「千束が気にするので説明しただけです」
「奏斗は気にしてないの?」
「特に」
「本当に?」
「はい」
「ちょっとくらい照れてよ」
「なぜですか?」
「私だけ照れてるみたいで悔しい」
口にしてから、私は自分が何を言ったのか気づいた。
奏斗の動きも止まる。
「……照れていたのですか?」
「違う!」
「今、自分で言いました」
「言い間違い!」
「何と?」
「ミズキに変なこと言われて困っただけ!」
「そうですか」
奏斗の口元が少しだけ緩んでいる。
「笑ってる!」
「笑っていません」
「絶対笑ってる!」
「オムライスがおいしいので」
「関係ないでしょ!」
「気のせいです」
「奏斗、最近こういうの上手くなったね」
「千束の指導です」
「それだけ私のせいにするのずるい!」
私はジュースを飲んだ。
少し顔が熱い。
店内が暖かいだけ。
たぶん。
食事が半分ほど終わった頃、私はふと思いついた。
「奏斗」
「何ですか?」
「好きな女の子のタイプは?」
奏斗が完全に止まった。
フォークを持ったまま、私を見る。
「突然ですね」
「友達の会話だよ」
「そうなのですか?」
「普通にするでしょ」
「少なくとも、蒼士とはしません」
「男同士でもするよ」
「千束は男ではありません」
「だから聞いてるの」
奏斗は少し困った顔をする。
歓迎会で、付き合っているのかと聞かれたときよりも考えている。
「いないの?」
「好みを具体的に考えたことがありません」
「美人がいい?」
「外見だけでは判断しません」
「かわいい人?」
「美人と同じ質問では?」
「違うよ」
「どう違うのですか?」
「美人はきれい。かわいいはかわいい」
「説明になっていません」
「分かるでしょ?」
「何となくは」
奏斗は少し考える。
「話しやすい人」
「うん」
「一緒にいて、無理に気を遣わなくていい人」
「うんうん」
「自分の考えを持っている人」
「ほかは?」
「それくらいです」
「明るい人は?」
「暗すぎなければ」
「よく笑う人」
「悪くないと思います」
「強い人」
「戦闘能力ですか?」
「性格とか」
「状況によります」
「人を助ける人」
奏斗の目が少しだけ変わる。
「それは」
「それは?」
「自分を危険にさらしすぎなければ」
「誰かみたい?」
「千束の話ではありません」
「まだ名前出してないよ」
「分かりやすいので」
私は少し笑う。
「じゃあ、奏斗の好みは、話しやすくて、気を遣わなくて、自分の考えを持ってて、明るくて、よく笑って、強くて、人を助ける人」
「勝手に増やさないでください」
「奏斗が全部悪くないって言った」
「好みだとは言っていません」
「でも嫌いじゃない?」
「嫌いではありません」
「そっか」
私はハンバーグを切る。
なぜか、少しだけうれしかった。
「千束は?」
奏斗が尋ねる。
「え?」
「好きな男性のタイプです」
「私も聞かれるの?」
「自分だけ質問して終わるのですか?」
「うーん」
私は考える。
「優しい人」
「一般的ですね」
「話してて楽しい人」
「普通です」
「ちゃんと私の話を聞いてくれる人」
「難しい条件ではありません」
「甘いものが好きな人」
「急に限定されましたね」
「一緒に食べられるから」
「嫌いでも店へ付き合うことはできます」
「でも好きな方がいい」
「ほかは?」
「守ってくれる人」
口にした瞬間、奏斗が少しだけ目を伏せた。
「でも」
私は続ける。
「私を守るために、勝手に死のうとしない人」
「まだその話を」
「大事だもん」
「好みの話に混ぜないでください」
「重要条件」
「該当する人間が少なくなりますよ」
「じゃあ奏斗は不合格」
「私が候補に入っていたのですか?」
「入ってない!」
反射的に答える。
奏斗が笑う。
「今のは私が勝ちですね」
「何の勝負?」
「千束を慌てさせる対決」
「いつ始まったの?」
「今です」
「ずるい!」
「千束が私へ同じことをしているので」
「仕返し?」
「学習です」
奏斗は楽しそうだった。
私は少し悔しい。
でも、こうして話している時間は楽しかった。
敵のことも。
リリベルの疑いも。
誰かが私たちを狙っていることも。
全部なくなったわけではない。
それでも、今は普通の友達みたいに話せる。
いや。
普通の友達だ。
「奏斗」
「何ですか?」
「今日、楽しい?」
「はい」
今回はすぐに答えた。
「買い出しも?」
「千束が余計なものを買おうとしなければ」
「チョコだけじゃん」
「一つで済んだのは私がいたからです」
「奏斗も食べるくせに」
「それは別です」
「ファミレスは?」
「楽しいですよ」
「本当?」
「何度確認するのですか?」
「だって、奏斗は分かりにくいから」
「最近は分かりやすくなったと言われます」
「誰に?」
「蒼士に」
「やっぱり友達じゃん」
「そこへ戻りますか」
私は笑う。
奏斗も笑った。
◇
食事を終え、店を出る。
買い物袋を持ち直す。
夜は少し冷えていた。
「帰ったらミズキ、何て言うかな」
「デートだったか、と聞くでしょう」
「何て答える?」
「買い出しと食事です」
「楽しかったって言う?」
「聞かれれば」
「私から言おうかな」
「余計に騒がれますよ」
「じゃあ内緒」
「写真を撮っていたでしょう」
「あ」
「送ると言っていましたね」
「送らない!」
「賢明です」
「奏斗、写真欲しくない?」
「先ほど結構だと言いました」
「でも思い出だよ」
「千束が持っていれば十分です」
「じゃあ大事にする」
「料理の写真ですよ」
「奏斗の手も写ってる」
「意図せず入っただけです」
「証拠」
「何の?」
「一緒に来た証拠」
「疑う人がいるのですか?」
「未来の私」
「意味が分かりません」
「忘れたときに見る」
「千束は記憶力が良いのでしょう」
「自分に都合の良いことだけ」
「自覚しているのですね」
二人で店へ向かって歩く。
奏斗は周囲を確認している。
前方。
後方。
窓の反射。
停車車両。
それでも、さっきまでの会話をやめることはなかった。
「そういえば」
私が言う。
「好きなタイプ、まだ聞き足りない」
「十分でしょう」
「髪は長い方がいい?」
「特に」
「短い方?」
「特に」
「年上?」
「考えたことがありません」
「年下?」
「同じです」
「同い年?」
「なぜ年齢をすべて確認するのですか?」
「絞り込み」
「何を探しているのですか?」
「奏斗の好きな人候補」
「必要ありません」
「リコリコの女性客にいるかも」
「探さないでください」
「常連さん?」
「千束」
「はい」
「本当にやめてください」
「ちょっと本気で嫌がってる?」
「面倒が起きます」
「照れてる?」
「夕食を奢りに変更しますよ」
「それ脅し!」
「もう支払いは終わっています」
「じゃあ脅しにならないじゃん」
「次回です」
「次もあるの?」
奏斗が一瞬だけ黙る。
私はその横顔を見る。
「買い出しがあれば」
「買い出しなくても行こうよ」
「食事に?」
「うん」
奏斗は前を向いたまま答える。
「構いません」
「本当?」
「友人同士なら、普通なのでしょう」
「そうだよ」
「では、また機会があれば」
「約束ね」
「また勝手に」
「今のは約束!」
「……分かりました」
奏斗が小さく笑う。
私は満足して、前を向いた。
リコリコの灯りが遠くに見える。
その少し手前。
反対側の歩道に、一台の黒い車が停まっていた。
エンジンはかかっていない。
窓は暗い。
中は見えない。
私は一瞬だけ視線を向けた。
「どうしました?」
奏斗がすぐに気づく。
「あの車」
奏斗も見る。
数秒。
「人は見えません」
「何か気になっただけ」
「近づかないでください」
「分かってるよ」
私たちは車へ近づかず、道の反対側を歩く。
奏斗の表情が少しだけ変わっていた。
さっきまでの柔らかい顔から、任務中の目へ。
黒い車を通り過ぎる。
何も起きない。
ドアも開かない。
エンジンも動かない。
「誰もいなかった?」
私が小声で尋ねる。
「分かりません」
「ただ停まってるだけかも」
「はい」
奏斗は振り返らない。
店の方へ歩き続ける。
私も前を向いた。
黒い車から十分に離れたあと。
後部座席の暗闇の中で、端末の画面が一瞬だけ点灯した。
表示されていたのは、二人の写真。
スーパーから出てくる私と奏斗。
ファミリーレストランの窓際で向かい合う私たち。
並んで歩く後ろ姿。
画面の下に、短い文章が入力される。
――対象二名、関係は良好。
送信。
暗闇の中にいた何者かは、店へ戻る私たちを見つめ続けていた。
私も奏斗も。
その視線には、まだ気づいていなかった。