魔王神・高町なのは   作:華洛

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魔王神・高町なのは

 

 

 冬の空気は、痛いほどに冷たかった。

 

 吐き出した息は白く、夜の闇に溶けていく。

 人気のない工業区画の上空。街の明かりから少し離れたその場所で、高町なのはは一人、荒い呼吸を繰り返していた。

 

 肩で息をするたび、胸の奥がひりつく。

 魔力の流れも、身体の動きも、いつもよりわずかに鈍い。

 

 ほんのわずか。

 けれど、戦場ではそのわずかが致命的になる。

 

「っ……まだ……!」

 

 レイジングハートを握る手に力を込める。

 視界の先では、無機質な赤い光を灯した魔導機人――ガジェットドローンが、音もなく包囲を狭めていた。

 

 数は多い。

 しかも、さっきの砲撃で一気に片をつけるつもりだったのに、読みが甘かった。

 残った機体が散開し、死角へ回り込んでくる。

 

 身体が重い。

 疲労だけじゃない。

 これまで積み重ねてきた無茶が、今になって全部まとめて押し寄せてきたみたいだった。

 

 無理な魔力運用。

 限界を超えた砲撃。

 誰かを守るために、痛みを後回しにしてきたツケ。

 

 大丈夫。

 まだ動ける。

 まだ、戦える。

 

 そう思って、前に出ようとした、その瞬間だった。

 死角から飛び込んできた一機への反応が、ほんの一瞬だけ遅れた。

 

「――っ!」

 

 回避が間に合わない。

 

 咄嗟に張った防御は、完全じゃなかった。

 直撃した衝撃が、なのはの小さな身体を容赦なく吹き飛ばす。

 

 空気が肺から押し出される。

 何が起きたのか理解するより先に、背中から地面へ叩きつけられた。

 

「かはっ……!」

 

 熱い。

 痛い。

 息ができない。

 

 視界が明滅する。

 耳鳴りがひどい。

 レイジングハートを握る指先から、少しずつ力が抜けていく。

 

 まずい。

 そう思うのに、身体が言うことをきいてくれない。

 

 ガジェットドローンたちは、倒れたなのはを中心に円を描くように浮かび、砲門を向けていた。

 逃げ場はない。

 次の一撃が来れば、本当に終わる。

 

 でも。

 ここで倒れたら。

 ここで、わたしが止まったら。

 守れない。

 みんなを。

 フェイトちゃんも。

 はやてちゃんも。

 ヴィータちゃんたちも。

 これから先で出会う、まだ名前も知らない誰かも。

 

 守りたい。

 もっと。

 もっと、ちゃんと。

 その願いに応えるように。

 

 不意に、胸の奥のずっと深い場所で、何かが揺れた。

 

 それは魔力の鼓動にも似ていた。

 けれど、なのはの知るどんな力とも違う、冷たくて、重くて、底の見えない気配。

 

 そして、声が、響いた。

 

(力が欲しいか……?)

 

「――え……」

 

 声にならない声が漏れる。

 唇は震えていた。

 

 誰。

 そう問いかけようとして、喉がうまく動かない。

 

(だ……誰)

 

 思考が、そのまま言葉になったみたいに、心の奥で問いが返る。

 

(力が欲しいなら……我を求めよ……)

 

 低く、古く、ひどく寂しい声だった。

 

 優しくなんてない。

 温かくもない。

 なのに、その声には奇妙な切実さがあった。

 

 まるでずっと昔から、誰にも届かない場所で、たった一人で眠っていたものが、ようやくこちらを見たみたいに。

 

 ガジェットドローンの砲門が光を帯びる。

 次の一撃が来る。

 

 立たなきゃ。

 でも、立てない。

 

(答えよ……力が欲しいか?)

 

 問いは、静かだった。

 なのに拒めないほど重かった。

 

 力。

 

 それは、なのはがずっと求めてきたものだ。

 誰かを傷つけるためじゃない。

 勝ちたいからでもない。

 

 大切な人を守るために。

 泣いている誰かに手を伸ばすために。

 届かなかった想いを、今度こそ届かせるために。

 だから、なのはは迷わなかった。

 

「欲しいよ……」

 

 かすれた声で、それでもはっきりと告げる。

 

「皆を守れる、だけの力が!」

 

 その瞬間。

 世界が、軋んだ。

 

 なのはの身体から、膨大な魔力が噴き上がる。

 桜色ではない。

 もっと深く、もっと昏く、夜そのものを燃やしたような黒き奔流。

 

 それは炎にも見えた。

 けれど熱ではない。

 圧倒的な力の奔流が、空間そのものを震わせていた。

 

 包囲していたガジェットドローンが、一斉に後退する。

 機械であるはずのそれらが、本能めいた何かに怯えたように距離を取った。

 

 なのはの指が、ぴくりと動く。

 

 ゆっくりと。

 壊れた人形が起き上がるような、不自然な動きで、その身体が立ち上がった。

 

 俯いていた顔が上がる。

 その瞳に宿っていたのは、いつもの優しい光ではなかった。

 網膜は黒くなり瞳は血のように赤く染まっていた。

 

「なにゆえ……我を静かに眠らせてくれぬ……」

 

 口からこぼれた声は、なのはのものだった。

 けれど、その響きはまるで別人だった。

 

「我が戦いを忘却の彼方に捨て去ろうとも……戦いが我を求めるか……」

 

 右手が、虚空へ伸びる。

 空間が裂けるように歪み、その中から一振りの剣が現れた。

 禍々しく、それでいて神々しいまでの威圧感を放つ魔剣。

 

「我は孤独なる者……」

 

 その一言とともに、周囲の空気が沈む。

 

「我の目覚めは……終焉を意味する……」

 

 次の瞬間、剣が振るわれた。

 

 ただ一振り。

 それだけだった。

 

 なのに、空間を走った斬撃は、包囲していたガジェットドローンをまとめて呑み込み、音を立てる暇すら与えずに切り裂いた。

 爆発。

 閃光。

 金属片が夜空に散る。

 

 圧倒的だった。

 

 戦闘ですらない。

 ただ、そこにいた敵が消えただけ。

 そんなふうに見えるほど、一方的な破壊だった。

 

「おい! なのは!」

 

 聞き慣れた声が、夜気を裂いた。

 振り向いた先。

 赤い鉄槌を手に、息を切らせて駆けつけてきたのはヴィータだった。

 

 その姿を見た瞬間、なのはの身体がぴたりと止まる。

 けれど次に向けられた視線は、あまりにも冷たかった。

 

「全ては敵……」

 

 低く、凍えるような声。

 

「貴様も……敵だ」

 

 魔剣が持ち上がる。

 

「っ、なのは、てめ――!」

 

 ヴィータが目を見開く。

 その驚きと警戒を前にしても、黒き気配を纏ったなのはは止まらない。

 

 振り下ろされる、はずだった。

 

 だが。

 ぎり、と。

 右手首を、左手が強く掴んだ。

 

「――っ」

 

 その動きだけが、ひどく必死だった。

 

 斬りかかろうとする右手を、左手が押さえ込む。

 まるで身体の中で、二つの意志がせめぎ合っているみたいに。

 ヴィータが息を呑む。

 

「なのは……?」

 

 その名を呼ぶ声に、ほんの一瞬だけ、揺らぎが走った。

 

 黒い魔力が乱れる。

 空間が軋む。

 苦しむように、なのはの――いや、ゼノンの表情が歪んだ。

 

「……煩わしい」

 

 吐き捨てるように呟くと同時に、周囲の空間が大きくねじ曲がる。

 

「待て、なのは!」

 

 ヴィータが手を伸ばす。

 けれど、その指先が届くより早く、黒い奔流はなのはの身体ごと夜の裂け目へ呑み込まれていった。

 

 あとに残ったのは、壊滅したガジェットドローンの残骸と、凍りつくような静寂だけだった。

 

 ヴィータはしばらくその場に立ち尽くし、やがて強く歯を食いしばる。

 

「……なんだよ、今の」

 

 返事はない。

 

 冬の夜は、ただ痛いほど静かだった。

 

 

 

 

 ――七年後。

 

 夜の海の上で、桜色と金色の閃光が激突した。

 

 轟音が遅れて海上を揺らす。

 ぶつかり合った魔力は暴風となって吹き荒れ、黒くうねる海面を何度も大きくえぐった。

 

 金色の軌跡が、夜空を裂くように駆ける。

 それを迎え撃つ桜色の砲光。

 衝突のたびに空気は震え、海は煮え立つように波を荒立てた。

 

 静寂に包まれていたはずの夜の海は、今や二人の魔導師の戦場になっていた。

 

「はああああっ!」

 

 金色の雷光をまとい、フェイト・T・ハラオウンが一気に加速する。

 その速度は一瞬で音を置き去りにし、遅れて衝撃波だけが海面を叩いた。

 

 手にしたバルディッシュ・アサルトが変形する。

 巨大な雷刃を備えた大剣形態。

 

『Zamber Form』

 

 低く鋭い機械音声。

 次の瞬間、フェイトはそのまま上段から一気に振り下ろした。

 

 雷を束ねたような斬撃が、黄金の軌跡を残して一直線になのはへ走る。

 だが、甲高い激突音が夜気を裂いた。

 振り下ろされた雷刃は、なのはの右手に握られた魔剣によって、真正面から受け止められていた。

 

 刃と刃が噛み合った瞬間、圧縮された魔力が耐えきれずに弾ける。

 二人を中心に半球状の衝撃波が広がり、海面が大きく陥没した。

 遅れて、巨大な水柱が何本も噴き上がる。

 

 吹き荒れる魔力の嵐の中で、黒と赤のバリアジャケットがはためいた。

 右手には魔剣良綱。

 左手には白い杖、レイジングハート。

 

 高町なのは。

 

 その姿は、間違いなくフェイトの知る親友のものだった。

 けれど、その瞳の奥にある静けさは、昔のなのはとは違っていた。

 優しさの名残を残したまま、ずっと遠い場所へ行ってしまったような。

 そんな、手の届かない遠さ。

 

「……フェイトちゃん」

 

 静かな声だった。

 

「もう、追ってこないで」

 

 その言葉と同時に、魔剣から放たれる圧力が一気に増す。

 

「っ……!」

 

 フェイトは歯を食いしばった。

 押し切られる。

 そう判断した瞬間、無理に鍔迫り合いを続けず、後方へ跳ぶように離脱する。

 

 直後、なのはの剣圧が空を薙いだ。

 フェイトがいた空間がまとめて切り裂かれ、その余波だけで海面が一直線に割れる。

 白い飛沫が夜空高く吹き上がった。

 

「これ以上、私に関わっちゃだめだよ」

 

 なのはの声は、強く突き放すようでいて、どこか痛々しかった。

 

「危ないから」

 

「そんなの……!」

 

 叫ぶと同時に、フェイトは再加速する。

 

 金色の残像が幾重にも分かれ、左右上下から一斉になのはへ襲いかかった。

 高速機動魔法による撹乱機動。

 本命は死角からの一撃。

 

 けれど、なのはは動じない。

 レイジングハートの先端が閃いた瞬間、桜色の魔力弾が十数発、ほとんど同時に展開された。

 

『Divine Shooter』

 

 放たれた魔力弾は、ただの直射ではない。

 生き物のように軌道を変え、フェイトの残像を一つずつ正確に撃ち抜いていく。

 

 回避。反転。急上昇。急降下。

 フェイトは雷光となって空を駆けた。

 それでも桜色の追尾弾は、執拗に食らいついてくる。

 

「くっ……!」

 

 一発を斬り払う。

 二発目を回避。

 三発目を防御魔法で受ける。

 

 だが、四発目、五発目が連続で炸裂し、衝撃がフェイトの身体を大きく揺さぶった。

 桜色の閃光が夜空に咲く。

 その中を突っ切るように、フェイトはなおも前へ出た。

 

「なのはは……私の、大切な友達だから!」

 

 叫びとともに、バルディッシュを構える。

 雷光が刀身へ収束し、刃がさらに長大化する。

 

「ひとりでいなくなって、何も言わないまま、全部背負って……」

 

 胸が苦しい。

 怒っているわけじゃない。

 責めたいわけでもない。

 

 ただ、あの時からずっと。

 追いつきたかった。

 

「そんなの、見てるだけなんてできないよ!」

 

 金色の魔力刃が唸りを上げる。

 フェイトは真正面からなのはへ斬り込んだ。

 

 一閃。二閃。三閃。

 雷速の連撃が、夜空に幾筋もの黄金線を刻み込む。

 

 なのははそれを、魔剣とレイジングハートの両方で受け流した。

 剣で受け、杖で逸らし、最小限の動きで致命打だけを外していく。

 

 その防御はあまりにも正確で、まるでフェイトの動きがすべて見えているかのようだった。

 

 そして、連撃の隙間。

 ほんのわずか、フェイトの体勢が流れた瞬間を、なのはは見逃さない。

 なのはの右側――フェイスマスクに覆われた側から、濃密な魔力が滲み出した。

 

 桜色に混じる、昏く禍々しい気配。

 空気が軋む。

 海面が震える。

 

 なのはの中に眠る何かが、目を覚ましかけている。

 

「……優しいね、フェイトちゃん」

 

 その声は、ひどく寂しかった。

 レイジングハートの先端に、桜色の光が極限まで圧縮される。

 収束された魔力が火花を散らし、周囲の空間をわずかに歪ませた。

 

『Divine Shooter』

 

「っ――!」

 

 近い。

 そう思った時には、もう遅かった。

 

 零距離から解き放たれた魔力弾が、砲撃に等しい威力で炸裂する。

 防御ごと貫かれ、フェイトの身体が弾丸のように吹き飛んだ。

 

 衝撃で呼吸が止まる。

 視界が白く弾け、そのまま海面へ激突した。

 

 轟音。

 巨大な水柱。

 冷たい海水が一気に身体を包み込み、全身の感覚を奪っていく。

 

「がっ……は……!」

 

 痛みが走る。

 肩が軋む。

 魔力も削られている。

 

 それでも、沈んではいられない。

 海中で歯を食いしばり、フェイトは飛翔魔法を再起動する。

 金色の光が弾け、次の瞬間には水柱を突き破って再び夜空へ躍り出た。

 

 荒い呼吸のまま、視線だけは決して逸らさない。

 

 なのはは、変わらずそこにいた。

 静かに、ただ静かに、フェイトを見ている。

 その姿が苦しかった。

 

 戦いたいわけじゃない。

 勝ちたいわけでもない。

 

 ただ。

 もう一度、ちゃんと話がしたい。

 ひとりで行かせたくない。

 それだけなのに。

 

「なのはっ!」

 

 その呼びかけが夜空に響いた、次の瞬間だった。

 

 なのはの背後で、空間が不意に大きく歪む。

 

「……え?」

 

 何もないはずの空に、黒紫の亀裂めいた渦が生まれていた。

 静かに現れたはずなのに、周囲の時空を乱暴にねじ曲げている。

 

 空気が悲鳴を上げる。

 海面がざわめき、渦の真下から幾重もの波が円状に広がっていった。

 

 なのはも気づき、ゆっくりと振り返る。

 

 その横顔に、わずかな動揺が走った。

 

「……なに、これ……」

 

 小さな呟き。

 その直後、なのはの右側から滲む昏い魔力が、脈打つように揺れた。

 

 胸の奥を、何かが引く。

 呼ばれている。

 そんなふうに見えた。

 

「誰かが……呼んでる……?」

 

 不安定な声だった。

 自分の意志とは別の何かに、引き寄せられているような響き。

 

「なのは、だめ!」

 

 フェイトは反射的に手を伸ばした。

 

 嫌な予感がした。

 理由なんてない。

 ただ、ここで行かせたら、今度こそ本当に届かなくなる。

 そんな恐怖が胸を貫く。

 なのはは一度だけ、フェイトを見る。

 

「なのは!」

 

 手を伸ばす。

 今度こそ届くと、そう思った。

 

 けれど次の瞬間、なのはは目を伏せると、そのすべてを振り切るように渦の中へ飛び込んだ。

 

「なのはっ!!」

 

 フェイトも全速で追う。

 金色の魔力光が尾を引き、夜空を一直線に貫いた。

 

 魔力を絞り出し、限界まで加速し、ただその背中へ手を伸ばす。

 

 あと少し。

 届く。

 今度こそ――

 

 だが、時空の渦は、無情にも音もなく閉じた。

 

「あ……」

 

 伸ばした手は、何も掴めないまま空を切る。

 

 そこにはもう、なのはの姿も、桜色の残光さえ残っていなかった。

 

 残されたのは、荒れた夜の海と、吹き抜ける冷たい風。

 それから、また置いていかれてしまったという、どうしようもない事実だけだった。

 

「……また、いなくなった」

 

 ぎゅっと拳を握る。

 

 悔しい。

 苦しい。

 寂しい。

 

 いろんな感情が胸の中で絡まり合って、うまく息ができない。

 

「今度こそ、追いつくって決めたのに……」

 

 震える声は、砕けた波音にかき消されていく。

 

 夜の海には、もう戦いの残滓だけが漂っていた。

 

 

 

◇ ◇

 

 

 

 瑞穂近海に浮かぶ小さな離島は、夜ともなればひどく静かな場所だった。

 

 潮の匂いを含んだ風が、低い草を揺らしていく。

 空には雲が薄く広がり、月明かりもどこか頼りない。

 そんな夜の浜辺で、二つの影が小さくうずくまっていた。

 

「オレ達は悪いプリニーじゃないッス」

 

「そうッス。エトナ様の情報を渡すッスから、どうか見逃してほしいッス」

 

「なんで初っ端で魔神王ゼノンに遭遇するッスか! 不幸ッス!」

 

「調査を名目にサボれると思ったッスけどねぇ……」

 

 揃いも揃って、青いペンギンめいた奇妙な姿。

 頭には縫い目。小さな羽。腰にはポーチ。

 そして語尾は、どれもこれも「ッス」で統一されている。

 

 その四体のプリニーを前に、高町なのはは少しだけ困ったように瞬きをした。

 

「えっと……悪くないってことは、善良、なんだよね?」

 

「善良ッス!」

 

「強い相手には無条件で屈するぐらいッス! イワシを一匹でもくれたら最高ッス!」

 

「上司がアレなだけで、オレ達はだいたい被害者ッス!」

 

 勢いよく返ってきた答えに、なのはは思わずフェイトの方を見る。

 隣に立つフェイト・T・ハラオウンは、いつもの落ち着いた表情のまま小さく息をついた。

 

「なのは。たぶん、全部そのまま信じちゃだめだと思う」

 

「うん……そうだね」

 

 とはいえ、目の前のプリニーたちはどう見ても追い詰められていた。

 逃げようにも逃げられず、かといって戦う気概もなく、ただ必死に命乞いと情報提供を繰り返している。

 

 今回の任務は、この島周辺で観測された異常反応の調査だった。

 この世界を滅ぼしかけた「侵略性外来生物」――通称、侵略種。

 その残滓、あるいは類似反応の可能性も考えられていたが、実際に現れたのはそれとは明らかに違う存在だった。

 

 異世界由来の反応。

 しかも、妙に騒がしくて、妙に統率が取れていない。

 

「それで」

 

 フェイトが一歩前に出る。

 声音は穏やかだが、仕事の時のそれだった。

 

「さっきから言ってる“ゼノン”って、誰のこと?」

 

 その問いに、プリニーたちは一斉に顔を見合わせた。

 そして次の瞬間、まるで信じられないものを見るような目で、なのはを指さした。

 

「だから、あんたのことッス!」

 

「私はゼノンって人じゃないよ?」

 

 なのはが首を傾げる。

 すると一体のプリニーが、ぶんぶんと首を横に振った。

 

「嘘ッス! 魔界新聞に載ってた顔写真と同一ッス!」

 

「新聞?」

 

「これッス!」

 

 プリニーは慌てて肩掛けのカバンを探り、くしゃくしゃになった紙束を取り出した。

 それを広げ、なのはとフェイトへ突き出す。

 紙面の見出しは、やたらと大きく、やたらと物騒だった。

 

 【魔王神ゼノン。魔王連合軍を屠る!!】

 

「……」

 

「……」

 

 なのはとフェイトは、揃って黙り込んだ。

 そこに載っていた写真は、たしかに“なのはに似ていた”。

 

 ただし、今ここにいるなのはよりも年上に見える。

 顔立ちは成長し、雰囲気もずっと鋭い。

 手にしているデバイス――レイジングハートも、今のものとは形式が違っていた。

 それでも、まったくの別人だと言い切るには、あまりにも面影がありすぎた。

 

 フェイトの表情がわずかに強張る。

 

「……なのは」

 

「うん。似てる、ね……」

 

 なのは自身も、うまく言葉にできなかった。

 似ている。

 でも、自分ではない。

 そう思うのに、胸の奥が妙にざわつく。

 

「しかもッス!」

 

 別のプリニーが、今度は小さな機械を掲げた。

 丸い針のついた、いかにも怪しげな探知機だった。

 

「ゼノンの魔力を追える探知機が、ゼノンはこの次元にいるって指したッス!」

 

「この次元に……?」

 

 なのはが聞き返した、その瞬間だった。

 

 空気が変わった。

 潮風が止まる。

 島を包んでいた夜の静けさが、何かに押し潰されるように沈んだ。

 

「……っ」

 

 フェイトが顔を上げる。

 なのはも同時に空を見た。

 

 夜空の色が、ゆっくりと赤へ染まり始めていた。

 夕焼けのような穏やかな赤ではない。

 もっと濃く、もっと不吉で、空そのものが血を流しているような色だった。

 

 そして遠方。

 

 島の反対側、山肌の向こうに、巨大な魔力の奔流が立ち上る。

 それは一瞬、天を穿つ翼のように見えた。

 黒と紅が絡み合ったような異形の光。

 ただそこにあるだけで、周囲の空間を歪ませるほどの圧力。

 

 プリニーたちが一斉に悲鳴を上げる。

 

「出たッスー!」

 

「やっぱりゼノンッスー!」

 

「帰りたいッスー!」

 

「なのは、行こう!」

 

「うん!」

 

 返事は短かった。

 

 プリニーたちのことは、ひとまず後回し。

 今はあの異常な魔力反応を放置できない。

 

 なのはとフェイトは同時に飛翔魔法を起動し、夜空へ駆け上がった。

 桜色と金色の光が、赤く染まり始めた空を一直線に裂いていく。

 

 風が頬を打つ。

 魔力の圧は、近づくほどに濃くなっていった。

 嫌な感じがする。

 

 ただ強いだけじゃない。

 もっと深くて、もっと冷たい。

 触れてはいけないものが、そこにいる。

 そんな感覚だった。

 

 やがて二人は、島の中央部に近い開けた高台へと辿り着く。

 そこで、なのはは息を呑んだ。

 

「……え」

 

 そこにいたのは、一人の少女だった。

 

 年の頃は十歳前後だろうか。

 見慣れない服装をしたその少女は、怯えたように立ち尽くしている。

 そして、その前に立つ影。

 

 高町なのは。

 

 ――いや。

 

 高町なのはに、見えた。

 

 左手にはレイジングハート。

 右手には、禍々しい魔剣良綱。

 黒と赤を基調としたバリアジャケットは、どこか見覚えのある意匠を残しながらも、まるで別物のように変質している。

 

 右目の網膜は黒く染まり、瞳は血のように赤い。

 その姿は、新聞の写真よりもなお鮮烈で、なお現実離れしていた。

 

 視線が、なのはとフェイトを貫く。

 その一瞬だけで、空気が凍りついたように感じた。

 

「……なのは」

 

 フェイトの声が、かすかに揺れる。

 

 目の前の存在は、敵意を向けているわけではない。

 けれど、あまりにも異質だった。

 知っているはずの姿をしているのに、知っている誰とも違う。

 

 その“なのは”は、ゆっくりとレイジングハートを地面へ突き立てた。

 そして左手を、自らの右半分へ添える。

 

 次の瞬間、黒い魔力が滲むように広がり、右側を覆い隠すフェイスマスクが現れた。

 まるで、何かを封じるように。

 あるいは、何かから自分を守るように。

 

「……そっか」

 

 ぽつりと、その“なのは”が呟く。

 

「この次元の私は――」

 

 言葉は、そこで途切れた。

 

 その視線が、なのはへ向く。

 次いで、フェイトへ。

 そしてもう一度、二人を並べて見る。

 

 そこに浮かんだ表情を、なのははうまく読み取れなかった。

 

 羨ましそうにも見えた。

 どこか納得したようにも見えた。

 もう手の届かないものを、遠くから静かに見つめるような、そんな達観にも似ていた。

 

 フェイトが半歩、なのはの前へ出る。

 庇うというより、無意識の反応だった。

 

「あなたは……誰?」

 

 問いかけに、その“なのは”は少しだけ目を細めた。

 

 けれど答えは返さない。

 代わりに、背後の少女へと視線を向ける。

 

「あの人たちに、後は助けてもらって」

 

 静かな声だった。

 優しい、とまでは言えない。

 でも、突き放しているわけでもない。

 

「私は行くね」

 

 そう言って、その“なのは”は少女へ、なのはとフェイトを示すように指を向けた。

 

 少女は不安げに二人を見る。

 なのはははっとして、すぐに頷いた。

 

「大丈夫。もう平気だよ」

 

 その言葉に、少女の肩がわずかに震える。

 

 その間に、“もう一人のなのは”の足元で空間が歪み始めていた。

 黒紫の裂け目のような転移の渦。

 見ているだけで胸がざわつく、不安定な時空の歪み。

 

「待って!」

 

 なのはが思わず声を上げる。

 その背中が、ぴたりと止まった。

 

「あなた……」

 

 何を聞きたかったのか、自分でもわからなかった。

 どうしてそんな顔をするのか。

 どうして自分と同じ姿をしているのか。

 どうしてそんなに、ひとりぼっちみたいに見えるのか。

 

 言葉にならないまま、なのははただその背中を見つめる。

 すると“彼女”は、ほんの少しだけ振り返った。

 フェイスマスクに隠されていない左側の表情は、驚くほど静かだった。

 

「……いいな」

 

 小さく、そう呟いた気がした。

 

「え……?」

 

 聞き返すより早く、空間の歪みが大きく脈打つ。

 

 フェイトが前へ出る。

 

「なのは!」

 

 その呼びかけが、どちらへ向けられたものだったのか、一瞬わからなかった。

 次の瞬間、“彼女”は空間の裂け目へ身を滑らせるように飛び込み、その姿を消した。

 

「待って!」

 

 なのはも一歩踏み出したが、もう遅い。

 歪みは音もなく閉じ、あとには重苦しい魔力の残滓だけが残された。

 

 赤く染まっていた空も、少しずつ元の夜の色へ戻っていく。

 風が吹く。

 張り詰めていた空気がほどけるように流れ、島に遅れて静けさが戻ってきた。

 

 なのはは、その場に立ち尽くした。

 

 胸の奥がざわざわする。

 うまく息ができないほどではない。

 でも、見てはいけないものを見てしまったような、そんな感覚が消えない。

 

「……今の、何だったんだろう」

 

 自分でも驚くほど、声が小さかった。

 フェイトはすぐには答えなかった。

 ただ、消えた空間を見つめたまま、静かに言う。

 

「わからない。でも……」

 

 そこで言葉を切り、なのはの方を見る。

 

「なのはに、すごく似てた」

 

「うん……」

 

 似ていた。

 それは間違いない。

 

 でも、似ているだけじゃない。

 あれはたぶん、もっと近い何かだった。

 

 なのはが考え込んでいると、背後で小さな足音がした。

 振り返ると、先ほどの少女が不安そうにこちらを見上げている。

 

「あ……」

 

 なのははすぐに表情をやわらげ、少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「怖かったよね。もう大丈夫だよ」

 

 できるだけ優しく声をかける。

 少女は少し迷ってから、小さく頷いた。

 

 フェイトも周囲を警戒しつつ、そっと距離を詰める。

 

 今はまず、この子の保護が先だ。

 消えた“彼女”のことも、プリニーたちの証言も、魔界新聞も、気になることは山ほどある。

 けれど、それでも。

 

 なのはの胸には、別の感情が残っていた。

 

 最後に見た、あの表情。

 

 羨望。

 諦め。

 そして、ほんの少しだけ滲んでいた、寂しさ。

 

 あれがもし、本当に“もう一人の自分”なのだとしたら。

 

 どうしてあんな顔をしていたのか。

 どうして、あんなにも遠く見えたのか。

 

 潮風が、頬を撫でていく。

 

 なのはは無意識のうちに、空を見上げていた。

 

 もうそこに赤い色はない。

 けれど胸の奥には、消えない残光のように、あの姿が焼きついていた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 空間の裂け目へ身を滑らせた瞬間、なのはは強く目を閉じた。

 

 転移の感覚には、もう慣れたはずだった。

 けれど今日のそれは、いつもよりずっとひどい。

 時空の狭間を無理やりこじ開けて進むような感覚に、全身が軋む。

 

「……っ」

 

 胸の奥が焼ける。

 喉がひりつく。

 右半身を這うゼノンの魔力が、脈打つたびに身体の内側を削っていく。

 

 それでも、今は止まれなかった。

 脳裏に焼きついて離れないのは、さっき見た光景だ。

 

 自分と同じ顔をした少女。

 いや、自分自身。

 けれど、あれは自分ではなかった。

 

 自分より少し幼くて、まっすぐで、誰かの隣に立っていた“高町なのは”。

 その隣には、フェイトがいた。

 

 迷いなく並び立ち、当たり前のように同じ方向を見ていた。

 あの距離。

 あの空気。

 あの、言葉にしなくても通じ合っているような静かな信頼。

 

 見た瞬間にわかってしまった。

 あれは、自分がもう失ってしまったものだと。

 

「……っ」

 

 息が詰まる。

 羨ましい、と思った。

 

 そんなふうに思う資格なんてないのに。

 自分で手放したくせに。

 自分で遠ざかったくせに。

 

 それでも、胸の奥がひどく痛んだ。

 転移の裂け目が終わりを迎える。

 次の瞬間、なのはの身体は重力に引かれるように、崩れかけた建物の中へと投げ出された。

 

 倒壊した建物の中は、ひどく静かだった。

 

 天井はところどころ崩れ、むき出しになった鉄骨が月明かりを鈍く反射している。

 壁はひび割れ、床には砕けた瓦礫が散乱し、今にも全体が音を立てて崩れ落ちそうだった。

 

 そんな廃墟の空間に、不意に黒紫の裂け目が走る。

 空間そのものを無理やり引き裂いたような歪み。

 その裂け目の中から、ひとつの影がよろめくように現れた。

 

「……っ、げほ……っ」

 

 高町なのはは、着地した途端に口元を押さえた。

 次いで激しく咳き込み、その細い肩が大きく震える。

 

「ごほっ……けほ……っ」

 

 息がうまく吸えない。

 喉の奥が焼けるように熱い。

 胸の内側を、鋭い棘で引っかかれているみたいに痛む。

 押さえた手のひらに、ぬるりとした感触が広がった。

 

「……あ」

 

 ゆっくりと手を離す。

 月明かりの下に晒された掌には、咳と一緒に吐き出された血がべったりと付着していた。

 

 赤い。

 見慣れてしまった色だった。

 

 魔人王ゼノンの圧倒的な魔力は、人間であるなのはの身体にとって毒に等しい。

 その力を引き出せば引き出すほど、身体の内側は少しずつ壊れていく。

 

 骨が軋む。

 血が濁る。

 魔力回路が悲鳴を上げる。

 

 それでも使わなければ、生き残れない。

 守れない。

 だから使うしかない。

 その結果が、これだった。

 

「……早く……」

 

 荒い呼吸の合間に、なのははかすれた声を絞り出す。

 

「早く、キリアさんを……見つけ、ないと……」

 

 原初の魔王の一柱、キリア。

 

 かつて暴虐の魔王・キリディアとして恐れられながら、その暴虐すら乗り越え、自らの力へと変えた伝説の魔王。

 なのはは、彼を探していた。

 ゼノンの力を制御する方法を知るために。

 この身を蝕む魔力と、どう向き合えばいいのかを知るために。

 

 このままでは、いつか本当に取り返しがつかなくなる。

 

 自分が壊れるだけなら、まだいい。

 でも、ゼノンを抑えきれなくなれば、きっと誰かを傷つける。

 それだけは、絶対に嫌だった。

 

「……見つけなきゃ……」

 

 呟く声に、力はない。

 一歩、前へ出ようとする。

 けれど足元がふらついた。

 視界が揺れる。

 膝が笑う。

 

「っ……」

 

 近くの柱へ手をつき、そのまま背を預ける。

 立っていられない。

 ずるずると力が抜けていき、なのははその場に座り込んだ。

 

 張り詰めていた魔力がほどける。

 黒と赤のバリアジャケットが、粒子となって静かに消えていった。

 あとに残るのは、見慣れた私服姿だけ。

 

 魔王神ではない。

 ただの、高町なのは。

 

 けれどその姿は、あまりにも弱々しかった。

 

 なのはは膝を抱えるようにして、小さく息を吐いた。

 胸が痛い。

 身体が重い。

 寒い。

 それでも、今いちばん苦しいのは、身体じゃなかった。

 

「……この世界の“私”は……」

 

 ぽつりと、言葉がこぼれる。

 

「ちゃんと、みんなの元で頑張ってるんだ……」

 

 脳裏に浮かぶのは、さっき見た光景だった。

 自分と同じ顔。

 でも、自分とは違う人生を歩いてきた“高町なのは”。

 

 その隣には、フェイトがいた。

 きっと、はやてもいる。

 ヴィータも、シグナムも、シャマルも、ザフィーラも。

 みんなのそばで、ちゃんと笑って、ちゃんと働いて、ちゃんと生きている自分。

 

 そんな世界が、あったのかもしれない。

 もしかしたら自分も。

 

 はやての部下として働いて。

 フェイトの隣に立って。

 ヴィータと口げんかなんかしながら。

 時々無茶をして怒られて。

 それでも、ちゃんと帰る場所があるまま、生きていけたのかもしれない。

 

 ふと、記憶の底に沈めたはずの声が蘇る。

 

『なのはちゃん、無茶しすぎや』

『少しは自分のことも大事にしなさいとだめだよ』

『なのは』

 

 優しい声。

 心配そうな声。

 怒ったようでいて、最後には必ず手を伸ばしてくれた声。

 もう、自分から遠ざけてしまった声だった。

 

「……っ」

 

 思った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。

 

 羨ましい。

 

 そんなふうに思ってしまった自分が、少しだけ嫌だった。

 あの“自分”はあの“自分”で、自分は自分だ。

 比べたって仕方ない。

 そんなこと、わかっている。

 

 わかっているのに。

 どうしても、思わずにはいられなかった。

 いいな、と。

 

 あんなふうに、誰かの隣にいられる自分が。

 ちゃんと守られて、ちゃんと支えられて、それでも前を向ける自分が。

 

「……いいなぁ……」

 

 声にした途端、何かが決壊した。

 左目の奥が熱くなる。

 次の瞬間、涙がひとすじ、頬を伝って落ちた。

 

「……っ、ぅ……」

 

 止めようとしても止まらない。

 左目から、次々と涙が溢れてくる。

 

 右半分は、冷たいままだった。

 侵食された側は、まるで他人のものみたいに感覚が遠い。

 泣いているのは、まだ人間のまま残っている左側だけみたいだった。

 

 そのことが、余計に苦しかった。

 なのはは膝を抱え込み、顔を埋める。

 

「……っ、ひっ……く……」

 

 声を殺そうとしても、嗚咽が漏れる。

 誰もいない。

 聞かれる相手なんていない。

 それなのに、泣くことすらどこか後ろめたかった。

 

 今のなのはのそばにいてくれる人は、いない。

 

 励ましてくれる人も。

 大丈夫だと言ってくれる人も。

 悩みを聞いてくれる人も。

 

 いない。

 

 ゼノンを狙う悪魔たち。

 ゼノンが周囲へ与える影響。

 そのすべてを恐れて、なのはは自分から断ち切った。

 

 はやても。

 フェイトも。

 ヴィータたちも。

 

 巻き込みたくなかった。

 傷つけたくなかった。

 だから離れた。

 

 それが正しいと思った。

 今でも、間違いだったとは言い切れない。

 

 でも。

 

「……さみしい、よ……」

 

 震える声が、崩れた建物の中に小さく落ちる。

 

 誰にも届かない。

 届くはずもない。

 それでも、口にしてしまった。

 

「フェイトちゃん……」

 

 呼んだところで、返事なんてない。

 わかっている。

 わかっているのに、名前がこぼれた。

 

「はやてちゃん……」

 

 胸が痛い。

 苦しい。

 会いたい。

 

 そんなこと、思っちゃいけないのに。

 今さらこんなふうに泣くなんて、ずるいのに。

 

 それでも涙は止まらなかった。

 どれくらいそうしていたのか、自分でもわからない。

 

 崩れた建物の中には、なのはの嗚咽だけが小さく響いていた。

 誰もいない。

 返事をくれる人も、背中をさすってくれる人もいない。

 

 ただ、胸の奥には、ひどく静かな気配だけが沈んでいた。

 深く、暗く、底知れない孤独を抱えた存在。

 けれど今は、それが何かを言うこともなかった。

 

「……っ、ぅ……」

 

 涙はなかなか止まらない。

 左目から溢れた雫が、ぽたり、ぽたりと床へ落ちていく。

 

 その時だった。

 かすかな駆動音とともに、白い杖がなのはの傍らへと静かに降りてくる。

 

 レイジングハートだった。

 

 さっき地面に突き立てたままにしていたはずなのに、いつの間にか自律移動で近くまで来ていたらしい。

 なのはのすぐ隣に寄り添うように浮かび、赤い宝玉が淡く、やわらかな光を灯している。

 

「……レイジングハート」

 

 呼びかけると、宝玉の光が小さく明滅した。

 まるで返事をするみたいに。

 

 なのはが涙に濡れた目で見上げると、レイジングハートはそっと高度を下げ、肩が触れそうなくらい近くに寄る。

 その動きは不器用なくらい静かで、でも、できるだけそばにいようとしてくれているのがわかった。

 

『Stand by you』

 

 機械音声はいつも通り無機質なはずなのに、今はひどく優しく聞こえた。

 

「……うん」

 

 なのはは小さく頷く。

 

 レイジングハートはそれ以上、多くを語らない。

 ただ傍にいる。

 泣いているなのはを急かさず、否定せず、静かに寄り添ってくれる。

 そのことが、たまらなくありがたかった。

 

「ごめんね……」

 

 ぽつりと、なのはは呟く。

 

「いっぱい無理させて……いっぱい、頑張らせてるのに……」

 

 レイジングハートの宝玉が、もう一度やわらかく明滅する。

 

『No apology required』

 

「……ふふ」

 

 涙声のまま、なのはは少しだけ笑った。

 うまく笑えたかどうかはわからない。

 でも、さっきまで胸を塞いでいた苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。

 

 人の手じゃない。

 あたたかい腕でもない。

 それでも、こうしてそばにいてくれる存在があることが、今は救いだった。

 

 なのははゆっくりと目元を拭う。

 涙で濡れた頬は冷たかった。

 

 泣いたからといって、何かが解決するわけじゃない。

 身体の痛みも消えない。

 孤独もなくならない。

 キリアの居場所だって、まだわからないままだ。

 

 それでも。

 立たなきゃいけない。

 

 まだ終われない。

 終わるわけにはいかない。

 

 なのはは柱に手をつき、ふらつきながらも立ち上がった。

 足元はまだ頼りない。

 けれど、立てる。

 

 それに合わせるように、レイジングハートも静かに浮かび上がり、なのはの肩口の高さへ寄り添った。

 

 崩れた天井の隙間から、夜空が見えた。

 さっきまで赤く染まっていた空は、もう元の色に戻っている。

 まるで何もなかったみたいに、静かな夜だった。

 

 でも、なのはの中には確かに残っていた。

 

 あの世界の自分。

 あの隣にいたフェイト。

 あの、手を伸ばせば届きそうで、もう届かない距離。

 

 胸の奥が、また少しだけ痛む。

 それでも、なのはは目を閉じなかった。

 

「……行こう、レイジングハート」

 

『Yes, my master』

 

 短い応答。

 けれど、その声は確かになのはを支えていた。

 なのはは血の跡が残る手をぎゅっと握りしめ、瓦礫の向こうへと歩き出す。

 

 一歩ごとに、身体は痛んだ。

 それでも足は止めない。

 たとえこの先にあるのが救いじゃなくても。

 せめて、自分の力で選んだ道の先までは歩いていきたかった。

 

 その先でいつか。

 もう一度、誰かの隣に立てる日が来るのだとしたら。

 

 今はまだ、そのために進むしかなかった。

 

 




読んでいただきありがとうございます。
評価・感想などいただけると、大変うれしいです。
よろしくお願いします。


■魔王神なのは
『魔法少女リリカルなのはA's』本編終了後から、『魔法少女リリカルなのはStrikerS』本編が始まるまでの空白の期間で起きたとある任務中に重体を負うことになる。
その際に、裡に眠っていた魔王神ゼノンが覚醒。
敵対する者を一掃した。

それ以降、なのははゼノンを倒そうとする悪魔たちから常に狙われる立場になり、周りに危害を及ぼさないようはやてやフェイトの元から姿を消して、単独で動く様になった。
左手にレイジングハート。
右手に魔剣良綱。
遠距離・中距離・近距離と、どのレンジでも一人で対応できるようになった。

「魔王神」の称号を狙う某ナイスバディの魔神が市街地でプリニーを落としたりした。
なんとか追い返し、同じように向かってくる悪魔たちを返り討ちにしている内に最盛期にはレベル8500を超えた。
ただ今は身体が限界を超え悲鳴をあげつつあり、その影響でレベルは3000程度へ低下している。

魔王神ゼノンの意思によって身体の右側が侵食されていることから、右半分をフェイスマスクで隠しているのはそのため。
右側フェイスマスクで隠している間は、体の主導権はなのはだが、フェイスマスクを外すとゼノンが主導権を得る。

必殺技は「テラ・スターライトブレイカー」
空気中に漂う魔力素を集束してぶっ放すなのはの必殺技に、星属性の魔力を加えることで威力を大幅に上昇させている。
また相棒であるレイジングハートは、アイテム界で鍛えられ、魔王神ゼノンの魔力にも耐えられるようになった。


■魔王神ゼノン
1000の魔王を虐殺し、『魔王神』と恐れられる魔王の中の魔王。
その中で、家来や友人に裏切られ続け、周りから誰もいなくなり絶望。
全てをリセットすることを決め転生をすることにした。
本来の歴史であれば魔界に転生するのだが、この世界のゼノンは人間界へと転生する。
(ロザリンドへ転生はしてないものの、ロザリンドは存在し、なんだかんだでアデルと結ばれる)
そのため偽ゼノンの魔の手から逃れることが出来た。


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