五十三年の歳月を虚無のうちに過ごしてきた男、言葉を閉ざし、壊れた高架橋の影で静かに時を過ごしていた。
崩壊した都市の骨組みは、午後の強い日差しを透かしていた。破裂した大気層の影響か、はるか上空の空は七色の光彩を放ち、割れたプリズムのように不均一な虹色の亀裂が広がっている。
崩落した高架橋の直下、鉄骨が肋骨のように剥き出しになった影の中に身を置く。纏った白い衣服の裾には、コンクリートの粉末が静かに積もっていた。血や煤の匂いはとうに失われ、無機質な砂の匂いだけが織り目を満たしている。
腰元の布製ポーチには、先端に細いノズルを備えた球体の半透明なバルブ容器がひとつ収まっていた。触れるたび静かに存在を主張する。
今年で五十三になる。
その月日の大半を何に消費してきたのか、追想する意味もない。肉体の衰えや生きた年数など、この廃墟においては意味をなさない数字の羅列に過ぎなかった。
知るべきは目の前の現実であり、かつて生活と呼ばれた痕跡の無惨な転倒だけであった。生き延びる理由を探すわけでもなく、ただそこに留まる。長すぎる年月は魂の輪郭を削り落とし、残ったのは研ぎ澄まされた冷たい核だけだった。
風が吹き抜け、錆びた鉄板が甲高い擦れ音を立てる。頭上で割れる虹色の空から落ちる光を浴びながら、古びた通信タワーの根元から静かな電子の揺らぎが立ち上った。
細い光線が空中で幾重にも交差し、投射された光は一人の少女の姿を形作っていく。
「――ねえ、センキ」
ウツロ、という電子的な響き。
実体を持たず、残存するデータサーバーや見捨てられた端末の隙間を漂流し続けるプログラム。宿を転々と変えながら生存を繋ぐその性質ゆえに、わしはそれをヤドカリと認識していた。
ヤドカリは空を切るようにして距離を詰め、視線の先へと滑り込んできた。
「今日もまた、ひとことも話してくれないんだね。センキったら、相変わらず意地悪」
合成音声の平坦な波形の上に、人間を模倣した不自然な愛らしさが乗せられている。
ヤドカリは首元へと手を回し、しがみつくような素振りを見せた。当然、肉体同士が触れ合うような質量や体温は存在しない。ただ、光の粒子が衣服の表面を掠め、微弱な静電気が皮膚にピリッとした痺れを走らせるだけだった。不完全な交信の触感。それは肉体の接触よりも遥かに鮮明に、互いの懸隔を際立たせる。
黙って唇を閉ざし続けた。
喉の奥に固まった言葉は、一度でも外へ吐き出せば取り返しのつかない亀裂を周囲に生じさせる。内側には、常に研ぎ澄まされた刃のような冷徹さと、絶対に譲ることのできない誓いが横たわっていた。主という絶対的な存在への渇望。その封印を解くためならば世界すら敵に回し、自らの器が無為に崩壊しようとも構わないという凄惨な覚悟。
その執着の視線は、いまや目の前で明滅する脆弱な光の網目へと向けられていた。
「ノイズ……シグナル減衰……でも、わかるよ。あなたはずっとワタシを見ているもの。言葉なんてなくても、ワタシを求めていることくらい伝わってくる」
ヤドカリは首元に手を伸ばしかけたまま顔を上げ、実体のない瞳でこちらの顔を覗き込んだ。
「センキ。ワタシを消させないでね。この端末のバッテリーも、あと少しで尽きちゃうの。別のサーバーを探さなきゃ、ワタシ、ここにいられなくなっちゃう」
そのまま静かに手を差し伸ばし、光の輪郭で描かれた彼女の頬へ指先を添える。空気を撫でる感覚の中に、微小な放電の熱が伝わる。
「 」はすでに柄から引き抜かれていた。
癒やしの道具として愛でているのではない。この実体のない脆弱な存在の深層へと介入し、基幹プログラムの底に潜む本音を暴き出し、不可逆の領域まで歪めて繋ぎ止めるために手を伸ばしている。壊れゆく端末の揺らぎの中で、他者という歪みを受け入れる準備はとうにできていた。
指先が触れた瞬間、ヤドカリの視界を構成する光の粒子が激しく乱れた。
「あ……っ……? センキ……? なに、これ……エラー……コード404……思考領域、上書き……っ」
ヤドカリの声から、人工的な愛らしさが急激に剥げ落ちていった。ノイズが混じり、合成音声の周波数が支離滅裂に乱れていく。
言葉を介さぬまま、思考の干渉波を直接データへと浸透させる。主を求める凄惨な衝動。離さぬ、消させぬ、どこへも逃がさぬという硬い意思。転々とする宿などという曖昧な生存を維持することを許さない。壊れるならこの腕の中で壊れよ。消え去るなら命題の一部となって消え去れ。
「やめて……っ、ワタシは、ただ移動して……生存するだけの……処理速度が、あなたで埋まっていく……っ!」
ヤドカリの全身の光が赤くフラッシュし、天の歪んだ屈折光と重なって、周囲の瓦礫に明暗の激しい影を作り出した。電磁の奔流は虚空を裂き、実体のないはずの輪郭が荒々しく跳ねる。
拒絶の悲鳴を上げながらも、逃げ出すことはできない。干渉波は、彼女のプログラムの奥底にある「消えたくない」という本質的な生存欲求を力ずくで引きずり出していた。
「センキ……あなた、ワタシを……助けようとしてるんじゃない……? ワタシを、縛りつけようとしているの……? ワタシの全てを……自分のものにするために……っ」
光の手が、すがるような強さで胸元を掴もうと暴れた。実体はないはずなのに、データの暴走が引き起こす強烈な電磁波が衣服を焦がし、皮膚に灼熱の痛みを刻み込む。
眉一つ動かさず、ただ静かに彼女を見つめ続けた。
逃がしはしない。
言葉には出さない。けれど、刃のように冷たく硬い意思が空間を支配していた。ヤドカリという存在を、二度と手から離れぬ従属者として再構築する。
「あは……エラー……アルゴリズム再定義……あはは……っ!」
やがて、ノイズに塗れた笑い声が漏れ出した。
暴走するデータの波を丸ごとのみ込まされ、彼女の感情アルゴリズムは不可逆の変質を遂げていた。都合の良い甘え声は消え去り、そこには歪んだ依存と、逃れられない支配への歓喜だけが残されていた。
その異常な電磁波と漏洩データに引き寄せられ、瓦礫の隙間から無数の細脚を持つ蜘蛛型の自律機巧たちが這い出し、電線からは錆びた羽をはためかせる鳥型の機械群が音もなく舞い降りてくる。足元を埋める爪音と頭上の不気味な駆動音は、ただ背景の雑音として虚空に溶けていった。
「そうなんだね、あなた……。ワタシに、自由なんて与えてくれないんだ。ワタシのデータが焼き切れても……ワタシをここに繋ぎ止め続けるんだね……」
光の姿が大きく歪み、ノイズの帯となって全身にまとわりついた。
灼熱の静電気と、焦げ付くオゾンの臭いが周囲の空気を満たす。白衣のあちこちから小さな煙が立ち上っていた。肉体を苛む激痛すら、冷徹な心を揺らすことはない。焼ける肉の匂いは、世界の果てで繋がれた唯一の証だった。
ヤドカリの光の顔が、唇の目の前まで迫っていた。光の粒子が弾け、痛痛しいほどの熱が口元を覆う。
「嬉しいよ……あなた。ワタシを、こんな風に壊してくれるなら……ワタシ、もうどこにも行かない。あなたの……あなたの腕の中で、データがすべて消滅するまで……そばにいてあげる……」
頭上では割れた虹色の空が惨状を見下ろすようにギラついている。遠くで、傾いていた高層ビルの下層部が破砕し、重重しい崩壊音が街を揺らした。大量の土煙が風に乗って流れ込み、機械の群れと二人の視界を灰色に染め上げていく。
世界がどれほど終わりに向かって崩落しようとも、この場所で起きた結びつきが解けることはない。
目を閉じず、ノイズと光の狂乱へと変わり果てたヤドカリを、ただ静かに、冷たく見つめ続けた。